2013年1月23日水曜日

肉眼ではない信仰の目を通してイエス様を見る (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
主日礼拝説教 2013年1月20日顕現節第三主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて
   
エレミア書1:4-8、
コリントの信徒への第一の手紙12:1-11、
ルカによる福音書4:16-32
  
説教題 「肉眼ではない信仰の目を通してイエス様を見る」

 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

先週の福音書の箇所はルカ3章でした。私たちは、イエス様がヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受け、神からの聖霊が彼に降って特別な力が備えられたことをみました。特別な力とは、神の人間救済計画を実現するための力です。それは、罪と不従順の奴隷状態にあって死の力の支配下にある人間をそこから解放するために、自らを犠牲の身代金として人間を神のもとに買い戻す、つまり人間を罪と死の奴隷状態から贖うという計画でした。洗礼のすぐ後で、イエス様はユダの荒野で40日間にわたって悪魔から誘惑の試練を受けますが、どれも神の御言葉を盾としてはねのけました。神の御言葉には悪魔を退かせる力があること、そして御言葉を真理であると信じる者には悪魔は手の出しようがないということを示す出来事です。この荒野の試練の出来事の後に、本日の福音書の箇所の出来事が来ます。荒野の試練の後でイエス様は、ユダの地からガリラヤの地に移ります。ガリラヤ各地のシナゴーグ、ユダヤ教の教会堂を回って、そこで神の国が近づいたということ、救いがまもなく実現するという福音を人々に伝え始めます。そして神の国が架空のものではないことを示すために数々の奇跡の業を行いました。イエス様の評判はガリラヤ全土に広まりました。イエス様が赤子の時から長年育った故郷の町ナザレに入ったのはちょうどそのような時でした。
 
イエス様のナザレ来訪の目的は、生まれ育った故郷に帰ってのんびり休暇を過ごすということではありません。これまでガリラヤ各地で行ってきたのと全く同じ宣教をするためでした。しかし、顔見知りが多くいる故郷の町では、他の町々と勝手が違いました。どう勝手が違ったか、なぜそのようなことになったか、ということが本日の福音書の箇所の主題と言えます。
 
イエス様は、これまでそうしてきたように、まず町のシナゴーグに入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。私たちの用いる新共同訳では何気なく「いつものとおり」とありますが、ギリシャ語の意味はもう少し深くて「彼にとって習慣であった」ということです。イエス様が宣教活動を始める前にも安息日にはきちんと欠かさずシナゴーグに通っていたことが窺われます。
 
ところで、当時の礼拝の仕方ですが、ヘブライ語で書かれた旧約聖書の朗読の後、アラム語で解き明かしする説教が行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、イスラエルの民はもともとヘブライ語で話したり書いたりしていました。神の言葉も当然もともとはヘブライ語で記されました。ところが紀元前6世紀におきたバビロン捕囚でイスラエルの民は異国の地バビロンに連行されます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、イスラエルの民はその言語がだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本で明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。他方、朝鮮半島では日本の支配は35年でしたが、支配側の同化政策にもかかわらず半島の人たちは自分たちの言語をしっかり維持したのは驚嘆に値するのではないでしょうか。
 
話が脇に逸れましたが、捕囚のイスラエルの民は、バビロン帝国を滅ぼして中近東の新しい覇者となったペルシャ帝国の王の計らいでエルサレム帰還が認められます。帰還した民は廃墟となったエルサレムの町と神殿の復興事業にとりかかります。当時の民の苦難と信仰の戦いの出来事については、エズラ記とネヘミア記に記されています。ネヘミア記8章を繙くと、民の指導者が民に向かってモーセの律法を朗読する箇所があります。そこに、朗読者が「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読しアラム語に翻訳して解説したということであります。こうしてヘブライ語の聖書を神聖な最高権威の書として朗読してから、民が理解できるアラム語に訳したり解説したりすることが始まります。この形の礼拝が、イエス様の時代のシナゴーグの礼拝の時にも続いていたということであります。
 
さて、シナゴーグの会堂長は、その日の神の御言葉の朗読と解き明しの説教をする人を、今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエスに依頼しました。会堂は参会者で一杯です。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されます。巻物というのは、同じ大きさの紙を重ねて閉じるという方式で作った本ではなく、動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことのある死海文書というのもこういう形の書物です。イエス様は立って、イザヤ書61章の最初の部分を朗読しました。そこは、神に油注がれた者、つまりメシアが神の霊を受けて、捕らわれ人に解放を、心を打ち砕かれた人に心の癒しを、目の見えない人に目が見えるようになる、という喜びの知らせを伝える、そして主なる神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる、という内容です。このルカ福音書に引用されているイザヤ61章は、旧約聖書にあるイザヤ書の同じ章の文と少し違います。新共同訳にあるイザヤ書はヘブライ語の聖書を和訳したものです。どうしてヘブライ語聖書のイザヤ書とイエス様が引用したイザヤ書に違いがあるかというと、これは、イエス様が読み間違えたのでも、また福音書を書いたルカが間違えたのでもありません。ルカ福音書にあるイザヤ書の引用ですが、これはギリシャ語版の旧約聖書からのものなのです。ヘブライ語で書かれた神の御言葉は、紀元前3、2世紀頃に大々的にギリシャ語に翻訳されます。当時の地中海世界にはヘブライ語やアラム語ができないギリシャ語を主要言語とするユダヤ人が大勢いたのです。イエス様は、間違いなくヘブライ語の聖書を朗読し、その後でアラム語で解き明しの説教をしたでしょう。その出来事を文章にしたルカはギリシャ語で書いています。ルカは手元にヘブライ語の旧約聖書がなかったのか、またはギリシャ語の方が出来るのでギリシャ語の訳を参照したということなのでしょう。そういうわけで、私たちも、新約聖書を読むとき、そこに旧約聖書の引用があって、少し違っているというのを見つけた時は、福音書記者や使徒たちが間違えたとか、すぐに安易に決めつけないようにしましょう。
 
朗読した後、イエス様は巻物を係の者に返して、席につきます。席というのは、説教者の座る所ですので、会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きます。「今日、この聖書の言葉は、あなたがたが耳にしたとき(ないしは、あなたがたが耳にした如くに、聞いた通りにεν τοις ωσιν υμων)、実現した。」この言葉の後でイエス様は解き明しをしていきますが、それについてはルカ福音書では記述されていません。22節に、参会者の「みんなは、その口からでる恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあり、解き明しを続けたのは間違いありません。内容的には、間違いなく、神の国が近づいたこと、救いがまもなく実現すること、そのために悔い改め、つまり各自神のもとに立ち返るよう促すことが中心だったでしょう。いずれにしても、イザヤの言葉が実現した、と冒頭で宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて、解放や目の開眼や癒しや神の恵みの時の到来を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのであります。(ところで、「主の恵みの年」という言葉についてですが、これとレビ記25章にある「ヨベルの年」との関係をみることは興味深いテーマですが、時間の都合上、本説教では取り上げないこととします。)
 
 
2.

ところが、ここで状況が一変する出来事が起きます。聴衆は、イエス様の口から出る恵み深い言葉を驚きを持って聴いている。同時に、彼らは、あの男は一体何者だったっけ、というようなことも気にし出す(μαρτυρεω「証する」という動詞は、与格の目的語を伴うと、肯定的にも否定的にもその者について証する意味があります)。というのは、説教者が御当地でよく見慣れた顔だったからです。そこで誰かが「あいつは、大工のヨセフの息子じゃないか!」と叫び、他の者も一同に「あっ、そう言えば確かにそうだった」と同調していきます。この時点まで、人々は、神の人間救済計画の実現が近づいた、この方はその実現の担い手なのだ、ということがすぐそこまで本当だと信じられるところまで来ていました。ところが、それが突然消えうせて、目の前にいるのは、みんなも知っている近所の若造にすぎなかった、ということになったのです。つまり、これまでは、聴衆の目の前で語るイエス様は肉眼に映る像を超えた存在でした。それが、突然、肉眼に映る像に戻っていまい、それ以上の何ものでもなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない心の目、信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。その目で得られる像が真実だと思うようになってしまったのです。
 
信仰の目とはどういう目かというと、神が人間を罪と死の奴隷状態から救い出そうという御心意思を持っていることを見ることができる目であり、神は救いを実現するために御自分の独り子をこの世に送られたという真理を見ることのできる目であります。この真理は肉眼では見えません。肉眼では、目の前にいる男は単なる大工の息子にしか見えません。信仰の目を通して見るイエス様は、まさに天と地と人間を造られた神が提示するイエス像であります。それは、人間が限界ある知識を駆使して、ああだ、こうだと言って造り上げたイエス像ではなく、神の計り知れない知恵に助けられて知ることのできるイエス像であります。
 
イエス様は、信仰の目から肉眼の目に戻ってしまった聴衆の変化に気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、ナザレの人たちが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということであります。これに加えてナザレの人たちはイエス様に向かって、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、そう言いたくて仕方がないと見破ります。
 
しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちには奇跡を行うことはしませんでした(マルコ6章5節、マタイ13章58節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の記述をもってそれを彼らの真の姿を映し出す鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の記述とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのサレプタのやもめを餓死から救ったという出来事、もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンのらい病を完治した出来事についてです。サレプタのやもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異教徒の民でした。当時のイスラエル北王国は神の道に背く道を歩んでいました。神は、御自分の預言者を自分の民のもとには送らず、異教徒に属する者に送り、彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じであると言うのであります。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥っていたイスラエル北王国と同じ立場にある、というのです。これを聞いた聴衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き、難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細については何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険が起きても、ゴルガタの時までは神はイエス様が滅びるようなことは一切認めなかったのであります。

 
3.

ところで、イエス様はなぜナザレの人たちが御自分に対して攻撃的になるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に戻ってしまった人たちを信仰の目に戻すことは考えなかったのでしょうか?先ほども触れましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア、救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、ということをイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりすることを出発点として信仰に入ることも可能です(ヨハネ14章11節)。しかし、そこには、ただ超自然的な力が原因となって神を畏れるというだけにとどまってしまう危険があります。本当の信仰とは、たとえ肉眼で見なくとも、神が人間救済の意思と計画を持ち、それを独り子イエス様を用いて実現したということが真理であると信じることであります。ちょうどイエス様が不信心のトマスに対して「見ないのに信じる人は幸いである」と言われた通りです(ヨハネ20章29節)。奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るというのは、結局のところ、肉眼に頼る信仰で、必ずしも信仰の目を持ってする信仰にはならないのです。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を認めなかったということは、ある意味で彼らに、信仰の目をもってする信仰に導く道を開いたということでもあります。しかしながら、彼らの反応は残念なことに、メシア救世主を殺害するという、それ自体実現不可能、考え方としては自暴自虐そのものと言える行為に走りました。イエス様を殺害して十字架と復活の出来事を起こさせないようにするというのは、神の人間救済計画の実現を妨害するということですから。
 
ナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、なぜ信仰の目をもってする信仰の道を目指すことを考えなかったのでしょうか?この大きな原因は、彼らが自分たちは罪と不従順に陥っているということを認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らがエリヤとエリシャの時代のイスラエル北王国の罪の状態と同じであると明確に指摘しました。しかし、ナザレの人たちは、それで謙虚に立ち止まって自分たちの生き方を神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。全く正反対に、自分たちは、かつて神の罰として滅亡した王国と同列視されるような罪は何も犯していない、といきり立ってしまったのです。
 
このことからも明らかなように、信仰の目をもってする信仰、信仰の目をもってイエス様を見ることができるためには、自分が生まれながらに神に対する不従順と神の意思に反する罪をたくさん持っているということと、そのような罪を思いと行いと言葉によって犯してきたということを認めることができるかどうかにかかってくると思います。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるかもしれません。しかし、人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を犯したために死ぬ存在となってしまいました。それで、人間が死ぬということ自体が人間の罪性、不従順性を現しているのであります。人間を造られた神は、人間がこの世から死んだ後、永遠に造り主である自分の元にもどれるようにと、またこの世の人生の段階ではそのような永遠の命に至る道を歩めるようにと、さらに歩む際には順境にあっても逆境にあっても造り主の守りを得て歩めるようにと、そのために独り子イエス様をこの世に送られ、彼に人間の罪と不従順がもたらす罰を全て身代わりに受けさせました。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが本当に自分のためになされたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、その瞬間、イエス様の身代わりの罰受けはその人に本当に起きたことになるのです。この時、その人の信仰には信仰の目が伴っています。神の意思と計画が真理であるとわかるために、奇跡や超自然的な力に頼る必要が全くありません。また、人間が限界ある知識をもって構築したイエス像をみることがあっても、それは使徒信条や二ケア信条のようなキリスト教の信仰告白で私たちが告白するイエス・キリストと全く異なるものであるとすぐわかります。信仰の目をもって見るイエス様は、信仰告白のイエス・キリスト像の中に凝縮されています。
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2013年1月14日月曜日

イエス様の洗礼に現れた神の正義と愛 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年1月13日主の洗礼日 
日本福音ルーテル日吉教会にて

イザヤ書42:1-7、
使徒言行録10:34-38、
ルカによる福音書3:15-22
 
説教題 「イエス様の洗礼に現れた神の正義と愛」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

 イエス様が洗礼を受けるとは、一体どういうことか?洗礼と言えば、ルターが小教理問答書の中で端的に述べているように、「罪の赦しをもたらし、私たちを死と悪魔から救い出すもの、そして神の言葉と約束を信じる者全てに永遠の幸いを与えるもの」であります。イエス様のような聖霊によって宿り、罪の汚れもしみもない神の御子にどうして洗礼が必要なのか?イエス様の洗礼の出来事について詳しく記述してあるマタイ3章13-17節をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を目の前にして、洗礼者ヨハネはとまどいます。それもそのはず、「私の後に強大な方が来られる。その方は聖霊と火をもってあなたたちに洗礼を授ける。私はその方の履物を脱がす値打もない」と自分が証しした救世主がわざわざ洗礼を受けにやってきたからです。それでヨハネは、「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と述べたのであります。
 
 なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?この問題について、ちょうど二年前、本日吉教会のこの同じ説教壇に立ってお話しいたしました。その時の福音書の箇所は、先ほど申しましたマタイ3章13-17節でした。その時の説教題は「イエス様の洗礼に現れた神の恵み」というもので、今回は「イエス様の洗礼に現れた神の正義と愛」です。洗礼で現れたものが異なっているように見えますが、実は同じものです。「神の恵み」も「神の正義と愛」も、言葉は違いますが同じものを指しています。いわば、同じものを別の角度から眺めるだけのことでして、そうすることで、その同じものが、いつも一つの角度から眺めていた時よりも、もっと大きく深く豊かなものであることがわかるようになるのであります。
 
なぜイエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受ける必要があったのか、ということについて、初めは、二年前にお話ししたことを少しおさらいしながら、少しずつそれを別の角度から眺めていこうと思います。

 
2.

 まず、イエス様の洗礼は神の人間救済計画と結びついている、ということをしっかり覚えておく必要があります。神の人間救済計画とは、以下のようなことです。創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順に陥り罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神から切り離されて生きなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と述べている通りです(ローマ6章23節)。人間は罪と不従順がもたらす死の力の下に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできません。そこで、父なる神は、人間が再び造り主である御自分のもとに戻れるようにと計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済計画です。
 
人間が神聖な神のもとに戻れるようにするためには、なによりも人間を罪の奴隷状態と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には、自身に宿る罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪と不従順からくる罰を全て負わせて死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。この神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が、私たちを罪の奴隷状態から解放する身代金となったのであります(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペテロ1章18-19節)。さらに、神は、一度死んだイエス様を復活させることで、死を超えた復活の命、永遠の命が存在することを示されました。人間は、この神が御子を用いて実現した「赦しの救い」を受け入れることで、救いに与ることができます。つまり、救われるのです。「赦しの救い」を受け入れることとは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして、人間は、この世の人生の段階で、復活の命、永遠の命に至る道を歩み始めることができるようになります。順境の時にも逆境の時にも常に神の御手に守られて生きるようになり、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになります。
 
それでは、イエス様が洗礼を受けたことが、この神の人間救済計画の実現にどう結びつき、どう資するのかをみてみましょう。
 
洗礼を受けることで神の御子であるイエス様は、洗礼を必要とする人間たちの同列に加えられることとなりました。「フィリピの信徒への手紙」2章に書いてある通りです。つまり、「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。人間と同列に置かれ、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになる。それで人間の不従順と罪から来る罰をまさに罰として引き受けることができるようになる。パウロが言うように、「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア4章4節)のであります。ただ、我々と同列に加わえられたと言っても、人間の持つ不従順と罪は持たない神聖な神の御子でした(ヘブライ4章15節)。そのような方が、人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また自分自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかった。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」2章18節に言われるように、主は、試練に遭う者たちを助けることができるのであります。
 
人間と同列に加わったというのは、神が人間に寄り添う姿勢を示したとか、人間と連帯しようとしたなどと言うことが出来ます。ただし、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、この「同列に加わる」というのは、「寄り添う」とか「連帯」という言葉では言い尽くせない、そんな言葉が生易しく聞こえてしまう位もっと大きな意味があるということです。このことは、神の御子がどうして人間として生まれてこなければならなかったか、というクリスマスのテーマにも関わってきます。
 
先ほど、神の人間救済というものは、神が人間に与える「罪の赦しの救い」であると申し上げました。ところで、この「赦しの救い」を実現するためには、誰かが人間にかわって罪の罰を受ける犠牲にならなければなりませんでした。もし罰が起きなければ、神は罪を是認したことになります。しかし、神は人間が背負いきれない罰を背負わされて押し潰されるように滅んでしまうのを望まなかった。罪は断固として認めないが、しかし人間は救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は犠牲を自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。なぜなら、人間の罪と不従順の罰を全て受ける以上は、罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのであります。そうすることで、使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア3章13節)。イエス様が人間と同列に加わった、と言う時、私たちは、この「わたしたちのために呪いとなった」ということ、イエス様が人間に降りかかって染みついている呪いを全て自分のものとして引き取って下さったことをいつも心に刻み付けておかなければなりません。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり、連帯したりしますが、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は、もっともっと根本的なものであるということを忘れてはなりません。
 
 
3.
  
イエス様が洗礼を受けたのは、私たち人間と同列に加わるという意味があったということが明らかになりました。同列に加わると言っても、とても深い根本的な意味があることもわかりました。ここで角度を少し変えて、今度は洗礼を受けた時にイエス様に聖霊が降ったり、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声も轟いたという出来事を中心にイエス様の洗礼をみていきましょう。この出来事は、本日の旧約の日課であるイザヤ書42章1-7で言われている預言の成就です。そこで、この預言を見てみる必要があります。
  
このイザヤ書の箇所で、神は、将来地上で活動する僕(つまり御子イエス様)が神からの霊を受け、また神から特別な力を与えられて、何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?
 
私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返され、神の僕が何か裁きに携わることが強調されます
。しかし、これは困った訳と言わざるを得ません。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体なんなのでしょう?「裁き」は「導き出す」ものなのでしょうか?「置く」ものなのでしょうか?裁判官や陪審員が困難な訴訟で「判決を導き出す」という言い方はあるでしょうが、「判決を置く」という言い方はあるでしょうか?私も含めてここにいる皆さんは「裁き」とか「導き出す」とか「置く」という個々の単語の意味はわかるでしょう。しかし、意味がわかる単語をそのままつなげて文にした時、その文も同じように意味がわかるかというと必ずしもそうならないことがあるのです。受験国語の成績の良かった人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書の本来の意味と同じであるとどうやってわかるのでしょうか?
 
いずれにしても、私たちは、個々の単語の意味がなまじっかわかるのでそれをつなぎ合わせた文も何となくわかったつもりで読み進んでしまう。すると、振り返ってみるとどうでしょう。これは一体何だったのだろうということが起きてしまうのです。そういうわけで、皆様も聖書を読む際には「この箇所は一体何が言いたいんだ」という追及する姿勢をお持ちになることをお奨めします。理解が難しい箇所は無数に出てくると思います。その中でも、「ここは今の自分にとって何か大きな意味があるのではないか」というような箇所があったら、立ち止まって何度か読み返して考えてみたり、聖書の他の箇所を手掛かりにして理解できるか試みたりして下さい。神からの知恵を祈り求めることも忘れてはなりません。それでも自分の力で解明できない時は、注釈書を繙いたり、牧師先生や宣教師に聞いたりしましょう。そうすることで神の御言葉である聖書と私たち自身の関係は深くなります。逆に言えばそうしないと深くなりません。
 
少し脱線しましたが、イザヤ書42章の神の僕の活動についてみていきます。神の僕が携わることになると強調されている「裁き」ですが、ヘブライ語の元の単語であるミシュパートמשפטは、広い意味では「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」というものです。そこから、「裁き」とか「判決」というような意味に限定することができます。しかし意味の限定はそれだけに尽きません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」ということから、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。他にもまだあります。参考までに、各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の新共同訳の「裁き」をどう言っているか見てみますと、英語の聖書は大抵justice、ずばり「正しいこと」、「正義」です。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Rechtで「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデンのルター派国教会が使用している聖書ではrätten、これは「権利」の意味が強くなります。フィンランドのルター派国教会が使用している聖書ではoikeus、これは「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味します。以上のようなわけで、イザヤ42章の最初に言われる神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」を指していると理解することにします。それから、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞יצא、שיםも、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と理解してそう訳しても何の問題もありません。以上から、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民、特にイスラエルの民以外の異邦人をさしますが(גוי)、諸国民に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を据える、打ち立てる」ということであります。
 
そこで、神の僕がもたらしたり、打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何かを明らかにしなければなりません。神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」ということです。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのでしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が罪の奴隷状態や死の力から解放されることであり、それらから解放された者としてこの世を生きることであり、そして、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻るということであります。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのであります。これらは全て、神の僕イエス様が十字架の死と死からの復活をもってこの世にもたらし、打ち立てたものであります。
 
イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおりの神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神の人間救済計画を実現するための力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神の御子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすために必要な出来事でした。洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、イエス様が主体的に神の人間救済計画を実現させる活動を始める出発点となったのでした。

 
4.

最後に洗礼者ヨハネがイエス様について、「聖霊と火をもって洗礼を授ける」方であると言ったことについて若干申し上げておきたく思います。私たちは洗礼を受ける時、聖書を朗読して神の言葉と結びつけられた形で水をかけられますが、「聖霊と火をもって」とはどういうことでしょうか?ユダヤ教の伝統では、ヘブライ語もギリシャ語も「霊」と「風」は同じ言葉で言い表されていました(רוח、πνευμα)。「風」と「火」のふたつは「水」よりも強い要素と考えられていたので、「風つまり聖霊と火をもって洗礼を授ける」方が「水で洗礼を授ける」ヨハネよりも強大な者であることを意味しました。このことは二年前の説教でも触れた次第です。
 
 しかしながら、「聖霊と火をもってする洗礼」というのは、こういう表現上のものにとどまりません。私たちキリスト信仰者が受けた洗礼は実際に「聖霊と火をもってする」洗礼でもあったのです。洗礼を受ける時、私たちは聖霊も受けます。ところで、人は、洗礼を受ける前に、イエス様を救い主と信じ始めます。あの2千年前の今のパレスチナで起きた出来事はこの自分のためになされたのだということをわかり始めるのは、聖霊がその人に働き始めたからであります。実に聖霊の力が働かなければ、人はイエス様を救い主と信じることはできないのです(第一コリント12章3節)。イエス様を何か歴史上の人物の一人として知識で知ってはいても、それは自分の救い主として信じることとは何の関係もありません。洗礼を受けることで、人は聖霊の影響力のもとに置かれます。これは赤ちゃんも同じです。神の赦しの救いは神からの贈り物である以上、赤ちゃんも、親の愛を注がれてただそれを受け取るのと同じように神の贈り物も受け取るのです。赤ちゃんや子供が、その後の人生で聖霊の力が働く受け皿のように育っていくかどうかは、あとは家庭や教会がどう育てていくかということが大きな課題になります。 
 
聖霊に加えて「火をもってする洗礼」とはどういうことか。イザヤ6章には、神聖な神を目で見てしまったイザヤが自分は汚れた唇を持つ者、汚れた唇を持つ民と共に住む者、と罪の告白をします。その時、セラフィムが火鋏で燃え盛る祭壇の炭火をイザヤの口に触れさせ、イザヤの罪を赦して清めます。火ではなく水を使う私たちの洗礼でもほとんど同じようなことが起こります。私たちは、洗礼を受けて聖霊の力の下でイエス様を救い主と信じて生きる限り、私たちに宿る罪と不従順は私たちを滅ぼす力を失っているのです。私たちがこの世から死んだとき、私たちの造り主のもとに永遠に戻ることを妨げる力はなくなっているのです。洗礼によって私たちはそれ位清められているのであります。もちろん、残存する罪はあるのだから、私たちの目から見たら清められていないのですが、神は私たちがイエス様の義という神聖な純白な衣を被せられていることを見て下さるのです。罪と不従順は残り、それらを背負うのはつらいことですが、私たちが神の恵みと信仰にとどまる限り、それらは最終的な力を失っていて、本当は気抜けした状態になっているのです。
  
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

   

2013年1月7日月曜日

幸いなるかな、御子を救い主と信じる者は (吉村博明)


 
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
 
主日礼拝説教 2012年12月23日待降節四主日 
日本福音ルーテル横浜教会にて

ミカ書5:1-4a、
ヘブライの信徒への手紙10:5-10、
ルカによる福音書1:39-45
 
説教題 「幸いなるかな、御子を救い主と信じる者は」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

 本日は待降節第四主日であります。昨年は、第四主日の次の土曜日が降誕祭前夜、つまりクリスマス・イヴだったので、その翌日の日曜日にクリスマスの主日礼拝を守ることができました。今年は、明日月曜日がイヴとなり、火曜日がクリスマスとなります。私が住んでいたフィンランドをはじめキリスト教が伝統的に国民大多数の宗教になっている国ですとクリスマス・イヴもクリスマスも休日になるのですが、事情が異なる日本では祝日や日曜日に重ならない限りは平日です。イヴの明日月曜日は振替休日でたまたま休みですが、クリスマスの日である火曜日は平日です。本横浜ルーテル教会は、火曜日は礼拝を行わないので、本日がクリスマスの礼拝を兼ねています。とは言っても、クリスマス・イヴの前日に、救い主の誕生を神に感謝する趣旨で説教するのは少しあべこべと思われ、それで本日の説教は、まだ主の降臨を待つ待降の趣旨で進めていきたく思います。明日のイヴ礼拝でルカ福音書2章のイエス様誕生直前と誕生時の出来事について朗読されます。火曜日に定められている福音書の箇所は、ヨハネ1章の最初です。神の御言葉そのものが人間の姿をとってこの世に降られた方としてイエス様について述べられています。皆様、是非ご自宅で心を静めて御言葉をかみしめる一時をお持ち下さるようお願い申し上げます。
 
 
2.

本日の福音書の箇所は、神の御子イエスを産むことになるマリアと洗礼者ヨハネを産むことになるエリザベトが会う出来事です。小さな出来事にすぎないような箇所ですが、私たちの信仰にとって、とても大切なことが少なくとも二つあります。そのことについて見ていきましょう。
 
私たちの信仰にとって大切なことの一つ目は、神はまことに人間の造り主であるということです。神が私たちに命を与えたのは、単に私たちを無造作に大量生産しているのではなく、私たち一人一人に実現すべき計画も併せて備えて下さっているのです。それゆえ、神は、私たちが母親の胎内に宿り始めた時から、私たち一人一人のことを既にご存知なのです。そのことをまず、エリザベトとマリアについて見てみましょう。
 
エリザベトとマリアの妊娠は、神の特別な力が働いて起こりました。エリザベトは普通ならもう出産は無理と言われるくらいの高齢者、マリアの方は処女でした。神は、御自分の計画を実現するために、これらの妊娠不可能な女性たちを通して必要な人材を準備したのでした。エリザベトの胎児は将来洗礼者ヨハネとなり、人々の心を救い主の到来に備えさせる役割を担いました。そのためにヨハネは、「神のもとに立ち返るための洗礼」を宣べ伝えました。それは、人々の心に神への不従順と罪の自覚を呼び起こすと同時に、人々が「罪の赦し」という神の救いを受け入れるのにふさわしい存在にする、ということでした。この「罪の赦しの救い」は、イエス様が人間全ての罪と不従順の罰を全て請け負って十字架の上で死なれた時に整えられました。神は、このような役割を担わせるためにヨハネとイエス様を生まれさせました。神は、二人が胎児だった時から、二人のことをご存知でした。
 
それでは、私たちの場合はどうでしょうか?神は、私たちが胎児だった時から私たちのことをご存知だったのでしょうか?エリザベトとマリアの胎児と違って、私たちには神の人間救済計画を実現する役割は与えられていません。それならば、神は、イエス様やヨハネのことは知っていても、私たちのことは知らなかったのでしょうか?いいえ、そうではありません。天と地を造られ、人間をも造られた神は、私たち人間の全てを胎児の時から知っているのです。詩篇139篇には、次のように謳われています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」(13-16節)。
 
このように人間の造り主である神は、胎児の時から私たち一人一人のことをご存知です。それでは、私たちを造り、私たちのことを胎児の時から知っている神は、私たちにも何か計画を備えたのでしょうか?イエス様とヨハネには明確な計画があり、神は彼らを通してそれを実現しました。イエス様とヨハネの場合とは異なりますが、もちろん、私たちにも神の計画があります。どんな計画かと言うと、人間全てに共通する計画と一人ひとりの人間に備えられた個別の計画の双方があります。
  
人間全てに共通する計画とは、神がイエス様を用いて整えた救いを人間が受け取って、救いの所有者となることです。神がイエス様を用いて整えた救いとは、先ほども申しました「罪の赦しの救い」です。人間は、創世記3章に記されている通り、神に対して不従順となり罪に陥って以来、神聖な神と切り離された状態となってしまいました。神との関係が修復されるためには、人間から罪と不従順を除去しなければなりません。しかし、それは肉をまとう存在である人間には不可能です。それをなんとかしようとしたのは神でした。神は、ひとり子イエス様をこの世に送り、彼に人間の罪と不従順の罰を全て負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。人間の救いが、「罪の赦しの救い」であると言われる所以です。さらに神は、死んだイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命、復活の命があることを示されました。こうして人間がこのイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、即座に神はこうおっしゃるのです。「お前は、私のひとり子が人間を罪の奴隷状態から贖うために犠牲になったとやっとわかったのだな。お前がそう信じる以上、お前は私の赦しを受け入れたのだ。従って、お前の罪はイエスの犠牲に免じて赦される。」人間は、神のこの「罪の赦しの救い」を受け取った瞬間から、この世の人生の段階で、永遠の命、復活の命に至る道を歩み始めることになります。この世の人生の歩みで、順境の時も逆境の時も常に神の御手に守られて生きられるようになり、この世から死んだ後は、造り主のもとに永遠に戻ることが出来るのであります。「罪の赦しの救い」とは、まさに読んで字のごとく、罪の赦しを土台にして人間が永遠に生きられるようになる救いであります。
 
このように神は、全ての人間が受け取ることが出来るようにと、イエス様を用いて救いを整えられて、それを全ての人間に「さあ、受け取りなさい」と提供しているのです。世界にはそれをまだ受け取っていない人が大勢います。また、一度受け取ったにもかかわらず、受け取ったことを忘れてしまった人や、受け取ったものを自分で改造しようとするなど惑わされてしまった人も大勢います。いずれにしても、神が全ての人間に共通に備えた計画とは、神が提供する救いを受け取ることであり、それはまだまだ実現途上なのであります。
   
神は全ての人間に共通する計画と同時に、救いを受け取った人たち一人一人に対してもそれぞれ個別の計画を備えました。それが何であるかは、人がそれぞれ置かれた境遇や直面する課題に応じて異なってきますので、それは各自が具体的な状況の中で生きながら、祈りの時に神に問うて下さい。答えは必ず与えられるでしょう。神が私たち一人一人に備えた計画とは何かを考える時、次のことを念頭に入れて下さい。どんな境遇に置かれても、どんな課題に直面しても、キリスト信仰者なら誰でも、自分に内在する罪・不従順と戦うことになるということです。境遇や直面する課題が異なっても、自分は果たして神を唯一の主として全身全霊で愛しているかどうか、また隣人を自分を愛するが如く愛しているかどうか、この二つに照らし合わせて、自分の思い、行い、言葉を振り返ることになります。そうなると、やはり、自分に内在する罪や不従順はいろいろなかたちで現れてくることに気づかされます。そのため、キリスト信仰者は、罪の告白と赦しの宣言を通して、絶えず自分の新しい原点である罪の赦しの十字架のもとに立ち返り、そこから再出発します。
 
 
3.

本日の箇所が私たちの信仰について教えるもう一つの大切なことは、人間の母を通して生まれた神のひとり子を救い主として信じる者は幸いである、ということです。本日の福音書の箇所で、エリザベトはマリアのことを幸いな人であると言います。
 
私たちの用いる新共同訳ではエリザベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言います。ギリシャ語の原文は少しわかりにくい形でして、次のようにも訳せます。「信仰を持つようになったこの方は(信じるようになったこの方は)、なんと幸いでしょう。なぜなら、主がこの方におっしゃったことは必ず実現するからです。」こちらの方は、ドイツ語のルター版の訳やフィンランドやスウェーデンのルター派国教会の聖書の訳です。英語訳の聖書の多くは新共同訳と同じです、というか新共同訳が英語訳に倣っているのかもしれませんが。ただし英語訳と言っても、ジェームズ王欽定訳はルターや北欧諸国の訳と同じです。一方では、「神が言ったことは必ず実現すると信じたマリアは幸いだ」と言う。他方では、「信仰を持つにようになった(信じるようになった)マリアは幸いだ、なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」と言います。
 
「信仰を持つようになった(信じるようになった)マリアは幸いだ」などと言うと、マリアは以前は信仰がなくて、それが天使ガブリエルの告知があって信仰を持つようになった、という意味にとられてしまうかもしれません。しかし、そうではありません。マリアはユダヤ人として、天と地と人間を造った神を信じていました。そして、その神はイスラエルの民をエジプトから導き出した神であり、またバビロン捕囚とそこからの帰還の歴史が示すように、背を向ければ罰を下すが、立ち返って助けを求めれば憐れみを示す、そういう神であると信じていました。こうした神信仰はイスラエルの過去の歴史に目が向くものです。
 
そこで、当時の神信仰には、未来に目を向けた部分もありました。いつかダビデ王の家系の王が現れて、イスラエルの民を他民族の支配から解放し、同時に、民を罪から贖って神聖な神の御前に相応しいものとする、そして世界の諸国民はイスラエルの神を敬うようになる、そういう期待が当時のユダヤ教社会にはありました。しかしながら、この未来に目を向けた神信仰には不明な点も多くありました。例えば、この他民族から解放された新しいイスラエルとはこの地上に建設される国家なのか、それともこの世のものではない天の御国なのか。また、民を罪から贖うと言う時、イザヤ53章の主の僕が頭に浮かぶけれども、それとイスラエルを他民族支配から解放する王はどう結びつくのか、そもそも王は人間の王なのか、それとも神のもとから遣わされる人間離れした者なのか。いろいろな考えがありました。こうしたユダヤ人の神信仰の未来に目を向けた部分について、マリアはどのような期待を持っていたかはわかりません。しかし、天使ガブリエルの告知が、それをはっきりさせたのです。ガブリエルは、生まれてくる子は神の子であると伝えました。マリアの受胎を経て人間の姿かたちをとって現われるが、実は神の子である、と。そうなれば、神の子が君臨して永遠に続く王国というのは、もはや地上の国家ではなく、天の御国つまり神の国となります。このようにガブリエルのマリアに対する告知は、ユダヤ人の信仰のはっきりしなかった部分を確定して、それを将来のキリスト信仰に方向づける大きな転換点になったのです。
 
以上から、「信仰を持つようになったマリアは幸いだ」という場合の「信仰」とは、神の子が人間となって救い主として送られるという信仰を意味します。そういう信仰を持つようになったことが幸いである、というのであります。どうしてそういう信仰を持つことが幸いかと言うと、理由は、「神が彼女に言ったことは必ず実現する」からであります。そしてそれはその通りになったのであります。
 
 ここで、「幸い」というのはどのようなことかについて考えてみましょう。
幸いとは、一過性的な、この世的な幸福、幸運ではなく、もっと持続的な幸福で、この世を超えて永遠の命の獲得に結びついた幸福です。先ほど、キリスト信仰者は、この世の人生の段階で永遠の命に至る道を歩んでいる、と申しましたが、これが幸いなことなのであります。たとえ、この世の人生で逆境に陥って、貧乏になったり病気になったりしても、永遠の命に至る道を踏み外さずに歩み続けられるのであれば、その人は幸いなのであります。マタイ5章でも言われているように、幸いな人は、霊的に貧しい人であったり、今悲しんでいる人であったり、義に飢え渇く人であったり、また義のために迫害される人であったりします。どれもみな永遠の命に至る道を歩み続ける人を指しています。逆に、この世の目から見て幸福や幸運にどっぷりつかる人生を送ることができても、信仰を持たず永遠の命に至る道を歩まない人は幸いではないのであります。マリアは、婚約中の妊娠という、ユダヤ教の律法から見てもまことにゆゆしき状況に陥り、人間の目から見て幸福とは言えない不名誉な状況が行く手に待っていようとも、神の目から見て、良しとされることを受け入れました。それで、マリアは幸いな人なのであります。
 
さて、私たちは幸いでしょうか?答えは、「イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者は幸いである」ということになります。その理由は、マリアの場合と同じで、「神が私たちに言われたことは必ず実現する」からであります。必ず実現することは何かと言うと、信仰を持って生きる者がこの世にあっては永遠の命、復活の命に至る道を歩むことができ、順境の時にも逆境の時にも常に神から助けを得られて、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができる、こうした神の約束が全て実現することであります。これらのことは、本当に必ず実現するのか、どうして実現すると自信を持って言えるのか?それは、実現すると信じているからであります。信じているだけでは、実現する根拠になりえていないではないか、と言われてしまうかもしれません。実現すると信じる根拠は何なのか、と問われることになるでしょう。それは、神のひとり子が人間となってこの世に生まれたこと、そのひとり子は人間の罪と不従順の罰を全て引き受けて十字架で死に、三日目に復活の体をもって死から蘇ったこと、これらのことが歴史上に起きたということ、これが神の約束は必ず実現すると信じる根拠です。それ以外の何の根拠もしるしもいらないのです。ルターは、キリスト信仰者とは、神の御言葉を自分の命よりも確かなものであると見いだせる者である、と次のように教えています。
 
「君が信仰を持つに至ったならば、信仰の中にとどまって強くなりなさい。それ以外に道はないのだ。信仰の中にとどまって強くなると言っても、それは主イエス・キリストとしっかり結びついてそうしなければならない。主以外のなにものと結びついても強くはなれない。なぜなら、強さは主に由来するものだからである。主由来の強さには、理解しがたいものがある。この世から見れば、そこには何も価値がないようにみえる。というのも、そこにはただ単に御言葉しかないからだ。実に主由来の強さとは、御言葉を土台とし、それにしっかり結びついたものなのだ。
かつて私は、主由来の強さというものは、強さの中でも最も有力なものである以上、何か別の土台の上に立たなければならない、と考えた。それは、あたかも頑丈な岩盤の上に建てられたもの、難攻不落な城塞に防護されたもの、鎧と兜と最高の武器で武装されたものと同じでなければならない、と考えた。こういうものを、この世は「強くなること」と言う。 
しかしながら、これらのもの全ては価値のないものである。そのようなものは悪魔に対抗できない。真の強さとは、霊的な強さ、永遠と結びついた強さでなければならない。主イエス・キリストは、その強さそのものである。神の御言葉と結びつく信仰は、主を自己のものとして所有する。たとえ我々が主の強さを目で見ることができなくとも、主は悪魔より強いのである。主により頼み、しっかり結びついている者は、雄々しく悪魔に立ち向かうことができる。このようにキリストに属する者たちは、主にしっかり結びついてきたし、これからも結びついているであろう。
つまるところ、もし君が強くありたいと思うならば、キリストが君の強さであるようにしなさい。彼を所有し、彼をより深く知ろうと努力しなさい。神の御言葉を純粋に保ち、それに何も混じり気をつけないようにしなさい。御言葉を毎日熱心に学びなさい。御言葉が君の心と一体になるまで、それを心に刻み付けなさい。そうすることで、君は、神の御心と意思が一層確かなものであるとわかるようになり、さらには自分の命よりも確かなものになっていこう。これこそが、主との結びつきにあって強くある、ということである。」
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン