2018年4月30日月曜日

信仰の実を結ぶ (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2018年4月29日 復活後第四主日 スオミ教会

使徒言行録8章26-40節
ヨハネによる第一の手紙3章18-24節
ヨハネによる福音書15章1-10節

説教題 「信仰の実を結ぶ」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.歴史の中のキリスト信仰

 今日の説教では、最初の日課が使徒言行録でしたので、まず歴史の中でキリスト教がどのように広がって行ったかについてお話ししようと思います。歴史と言っても、使徒言行録の時代の中です。本日の使徒言行録の出来事に関連して、キリスト信仰にとって洗礼がどうして大切かということを次にお話しし、最後にキリスト信仰者が結ぶ実とはどんな実かということをお話しします。この三つ目のテーマは当スオミ教会の今年の年間聖句(ヨハネ154節)に直接関係するものです。使徒書と福音書の日課の解き明しをそこで行います。

本日の使徒言行録は8章からです。エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、ガザに向かう街道で使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事です。使徒言行録はどんな書物かについては、先々週少しお話ししました。復活されたイエス様が天に上げられ、その後で弟子たちに聖霊が降る、その力で彼らがイエス様を救い主であると宣べ伝え始める、というところから始まります。弟子たちの宣べ伝えがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年間位の出来事が記録されています。まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物だと思います。

 本日の箇所にはガザとかエチオピアとか、私たちが耳にする地名や国名が出て来るので、何か時代を超えるものを感じさせます。ガザは、現在こそパレスチナとイスラエルの不幸な紛争のために中東情勢の焦点の一つになってしまいましたが、本当はこの町は紀元前1500年位からある歴史的な町で、ローマ帝国の時代は平穏な町でした。エチオピアはと言うと、本日の箇所に出て来るのは現在のエチオピア国家と関係はなく、エジプト南部の地域を指していました。当時そこにはユダヤ人の居住地がありました。イエス様の時代から約300年位前のアレクサンダー大王の時代、ギリシャからパレスチナを経てエジプトに至るまでの地中海東部の地域はヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ系の文化が栄えていました。この地域ではギリシャ語が公用語になっていました。まさにその頃、ユダヤ人の居住地が広がり、各地に会堂・シナゴーグが建てられました。使徒言行録の使徒パウロの伝道旅行をみますと、彼はたいてい訪問先で初めにシナゴーグを訪れます。そこで、エルサレムで起きた事件、イエス様の十字架と復活の出来事を知らせ、旧約聖書の預言が実現したことを伝えます。それを聞いたユダヤ人たちはいつも信じる者と信じない者に分裂したのです。

 これらの地中海世界のユダヤ人は旧約聖書の言葉であるヘブライ語が出来ませんでした。それで彼らのために旧約聖書がギリシャ語に訳されました。本日の箇所でエチオピアの高官が読んだイザヤ書5378節ですが、よく見ると、私たちが手にする旧約聖書のそれと少し違っています。これは、私たちの旧約聖書はヘブライ語から訳されたものなのに対し、エチオピアの高官が読んでいたのはギリシャ語訳の旧約聖書だったことによります。訳がもとの文と変わっているということがよくあるのです。エチオピアの高官は、ギリシャ語系のユダヤ人と接触があって、それでギリシャ語の旧約聖書を読んで天地創造の神を信じるようになり、エルサレムの神殿にお参りに行くようになったのでしょう。ただし宦官でしたので、割礼は受けられません。天地創造の神を信じ、メシアの到来を待ち望む信仰は持つに至っても、正式にユダヤ教徒とは認められなかったでしょう。

地中海世界にユダヤ教が広がったのは、ユダヤ人が移住したことの他に、移住先の現地人たちが改宗したこともありました。ユダヤ教に改宗するというのは、現代の目で見ると少し奇異な感じを持たれる方もいるかもしれません。歴史を通してユダヤ教やユダヤ人に対する迫害と偏見が長く持たれ、特にキリスト教側から否定的なイメージが作られたことが影響していると思います。そういう後世に出て来た見方を脇に置いて、2000年前はどうだったかということを当時の視点で見てみますと、かなりイメージが異なってきます。例えば、2000年前のギリシャ・ローマ世界の性モラルは奔放というかルーズなところがありましたが、そういうところで、人間を男と女に造られた創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。また、当時の地中海世界には間引きの風習がありました。つまり余分な赤子は処分するという嬰児殺しが当たり前のことのように行われていたのです。これも、「汝殺すなかれ」の掟を持つユダヤ教が反対したのは言うまでもありません。

このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには、旧約聖書の神を信じるが、何らかの理由で割礼を受けないでいる、ないしは受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍がいたのです。使徒言行録の中に何度も「神を畏れる者」という言葉が出て来ますが、まさにそうした人たちを指しています。そこにある日突然パウロなる男がやって来て、割礼を受けなくとも神の民、神の子になれる!と教え出したのです。旧約聖書の預言は実現した!神が送られたメシアが自分を犠牲にしてまで人間を罪の支配下から贖い出す業を行って下さった!しかも、神は彼を死から復活させ大いなる栄光を示された!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ神との結びつきを持って生きることが出来る!もう割礼は不要なのだ!そういうことを教えたのです。さて、割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるとなれば、予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることはできません。自分たちの力でパウロを抑えつけられなければ、ローマ帝国の官憲も巻き込んで迫害しようとします。このようにして、ユダヤ教の中から生まれたキリスト教は急速に広まると同時に強い反対も引き起こしていったのです。

 話しが脇道にそれましたので、使徒言行録の出来事に戻りましょう。エチオピアの高官はイザヤ書5378節の、屠り場に引かれる羊や毛を刈られる小羊のように口を開かなかった主の僕とは誰なのか?と悩んでいました。実は、彼が読んだギリシャ語のイザヤ書の箇所は少しやっかいです。ヘブライ語の原文では、羊のようにおとなしい主の僕は捕まって裁きを受けて命を落としてしまう、それで、彼と共にいた人たちのことを気にかける者は誰もいなくなる、そういう書き方です。ところがギリシャ語の方は素直に訳すと、主の僕は羊のようなへりくだりをしたことにより裁きが取り除かれる、ただ、彼が地上から取り去られてしまった今、彼が裁きを取り除かれたことを後世の人たちに解き明かしするのは誰か?そういう書き方です。

もしエチオピアの高官がヘブライ語で読んだのなら、主の僕が誰を指すかはわからなくても、彼が迫害を受ける者であることがわかります。ところがギリシャ語を読むと、主の僕から裁きが取り除かれるとか、彼は地上からいなくなってしまい、誰かがこのことを伝えないと誰もわからない、と言っています。さて、裁きが取り除かれるとは何を意味するのか?このことを主の僕に代わって解き明しするのは誰なのか?そういう疑問が起きます。

 皆さんもお気づきになられたかもしれませんが、ギリシャ語の訳は実はイエス様の出来事を知っている人ならば、わかる内容です。出来事を知らない人にはちんぷんかんぷんでしょう。へりくだったことにより裁きを取り除かれるというのは、フィリピ2章のキリスト賛歌を思い出すとわかります。そこで言われていることは、イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって神に従順で、その後で神に高く上げられた、ということです。

次の疑問は、主の僕は地上からいなくなってしまうので誰かがこのことを解き明かさなければならないと言う時、誰がそれをするのか?イエス様が天に上げられた後、イエス様の十字架と復活について宣べ伝えるのは使徒たちの役目になりました。フィリポはその一人です。悩めるエチオピアの高官のもとにフィリポが送られました。彼はイザヤ書53章の主の僕についての預言から始めて、イエス様の福音を宣べ伝えました。フィリポが教えた内容について記述がないので正確なことはわかりませんが、主旨はこういうことです。神が送られたひとり子のイエス様が十字架の上で犠牲の業を行ったおかげで人間の全ての罪が償われた。そこで彼を救い主と信じ洗礼を受ければ、彼が実現した罪の赦しがその人に効力を持ち、その人は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになる、つまり順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得て生きられるようになる。万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御腕をもってその人を引き上げ永遠に御許に戻ることが出来るようにして下さる。以上のような福音が伝えられました。イエス様を救い主と信じたエチオピアの高官は洗礼を志願し、フィリポはそれを施します。これでエチオピアの高官は、割礼なくして天地創造の神と結びつきをもって生きられるようになりました。

2.信仰と洗礼

先ほど、イエス様を救い主と信じ洗礼を受ける者はイエス様が実現した罪の赦しを得て、神との結びつきを持って生きられるようになる、と申しました。どうして洗礼が出て来るのでしょうか?イエス様を救い主と信じるだけでは足りないのでしょうか?

 イエス様の十字架と復活の業はこの私のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主であると信じられるのは、キリスト信仰の観点で言うと、聖霊の力が働いたからということになります。聖霊の力が働かなければ、イエス様はただ単に歴史上の人物に留まり、知識として知ってはいるが、現代を生きる自分とは何の関係もない遠い過去の人物です。ところが、聖霊の力が働くと、イエス様は歴史上の人物の殻を破って、現代を生きる自分と人間関係を持つ身近な方になります。

加えて、キリスト信仰の観点では、聖霊は洗礼を受ける時に父なるみ神から注がれるように与えられます。もちろん、赤ちゃんに対してもです。大人でも子供でも、洗礼を受ける前の段階でイエス様のことを救い主とわかって信じるようになるというのは、これも聖霊の力が働いたからです。それなのに、さらに洗礼を受ける必要があるというのは、これは聖霊の影響の下に完全に服するということがあると言えます。せっかく聖霊の働きかけがあっても、洗礼によって聖霊の影響の下に服することをしていなければ、イエス様を救い主と信じたことは一過性のものになる危険が大です。とにかく、この世にはいろいろな霊が蔓延っていて、救い主はイエスではない、別の者だ、と言ったり、また、イエスは神のひとり子ではなかった、単なる人間だった、と言ったり、逆に、人間の体を持たなかった、単なる霊だった、と言ったり、様々です。

洗礼を受けると、天地創造の神の霊、聖霊に服することになるので、自分から脱しようとしない限り、イエス様を救い主と信じる信仰は揺るがないものになります。もう他の霊が何を言っても耳に響かなくなります。あとは、洗礼で新しくされた自分がいつまでも同じ新しさを保てるために、次のことが大事になります。まず、聖餐式でイエス様の血と肉として祝福されたパンとぶどう酒を摂って霊的な栄養を受けること。それから、常に聖書の御言葉に聴き、神の御心と意志を知ること。そして、人生のいろんなことに直面しながら、その中で神の御心と意志に沿うように行い、思い、語ること、その時いつも祈りの課題を見つけては祈ること、以上が大事であると考えます。

 ところで、聖霊の力とか影響ということについて、キリスト教の教派によっては、病気を癒す力が持てたとか、習ったことのない国の言葉で話が出来るようになるとか、そういう力が備わることを重視して、それこそが聖霊が注がれた証拠であるかのように言う教派もあります。もちろんこうした不思議な力は聖書に出てくることなので否定はしませんが、ルター派はその辺はあまり熱心ではないと思います。イエス様がこの私の、まさに生きた救い主であり、自分は彼と生きた関係にあるとわかっていることで十分という立場ではないかと思います。手ごたえが感じられない教派と思われるかもしれませんが、別にそれで構わないと思います。

3.信仰の実を結ぶ

本日の福音書の日課ヨハネ15章は、有名なイエス様のぶどうの木のたとえです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、ぶどうの木と枝のように繋がっているというたとえです。そこで、イエス様に繋がっていながら、実を結ばない枝は、父なるみ神が農夫のように切り取ってしまう、と言います。イエス様に繋がっていながら実を結ばない、とはどういうことでしょうか?ぶどうの枝は木から栄養を送ってもらって実を結びます。キリスト信仰者が実を結ばなくなるとは、栄養を受けなくなってしまったことを意味します。信仰者がイエス様という木から受ける栄養とは、罪の赦しの恵みです。ひとり子を犠牲にしてまでも人間を罪の支配下から解放して新しい命を生きられるようにしてあげよう、という神の愛です。罪の支配下から解放されるためには罪の赦しが実現することが必要でした。神の愛、罪の赦しの恵みという栄養を受けつけなくなるとは、どういう状態でしょうか?先ほど言ったことの関連で言えば、他の霊の言うことに耳を貸すようになって、イエス様を救い主と信じることがなくってしまうことがあると思います。ヨハネ15章の後ろの節で、取り除かれた枝は集められて燃やされてしまう、と言っていますが、これは最後の審判を暗示しています。さて、ここでは、イエス様を拒否することや裁きの問題はこれ以上深入りしないことにします。大事なことは、イエス様が真の救い主になることです。そして、神との結びつきを持てることがどれほど豊かなことなのかをわかることです。悲惨な目に遭うのが怖かったら信じろ、というやり方では、豊かさはわからないでしょう。

 2節をみると、イエス様という木に繋がっている枝の信仰者は、実を結べば、父なるみ神に手入れしてもらって、さらに実を結ぶ、と言われます。3節をみると、弟子たちはイエス様の話した言葉によって既に清くなっている、と言われます。興味深いのは、「手入れをする」という動詞と「清い」という形容詞がギリシャ語では同類語で言葉の引っかけになっています。それで、弟子たちはイエス様の言葉によって、手入れをしてもらって小ぎれいな枝になっている、という意味になります。手入れをしてもらって小ぎれいな枝になるというのは、栄養を一層受け取る枝になっているということです。神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養をどんどん摂取するようになるということです。まさに霊的に健康で生産的な枝になれます。そういう枝になれる決め手が、イエス様の言葉なのです。ヨハネ福音書の冒頭で言われるようにイエス様は神の言葉そのものですから、聖書全体の神の言葉はイエス様と一体です。先ほど常に聖書に聴くことが大事だと申しましたが、まさにそれが霊的な栄養を摂取でき、霊的に健康を保ち生産的になれる秘訣なのです。

それでは、キリスト信仰者が霊的な栄養を摂取して実を結ぶと言う時、その実とは何を意味するのでしょうか?こういう時、よく思い浮かぶのは、隣人愛を実践して多くの困っている人を助けてあげることがあると思います。本日の箇所の終りでイエス様は、彼の掟を守ることが彼の愛に留まることになる、と言い、少し後の12節で、その掟とは、イエス様の愛と同じ愛で互いに愛し合うことである、と言われます。

イエス様の愛とは、先週の説教でもお教えしましたように、自己犠牲を厭わない愛です。そこで、何のための自己犠牲かというと、それは愛された人が神との結びつきを持ててこの世と次の世を生きられるようにするための犠牲でした。そういうわけで、キリスト信仰者の隣人愛には、苦難困難に陥っている人を助ける時にも、この神との結びつきを持てるようにするということが視野に入っているのです。このことは、ルターも有名な「キリスト者の自由」の中ではっきり言っています。

それじゃ、人助けと言っても、最終的には同じ信仰を持てるようにするための宗教勧誘の手段ではないか、と言われるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点からすれば、現実にある困難から助けてあげることももちろん大事だが、何よりも天地創造の神との結びつきを持てるようになって、その結びつきの中でこの世を生きられるようになって、この世を去る時には造り主のもとに永遠に戻れるようになる、そのことがとても大事なのです。自分は神との結びつきを持っているとわかれば、困難や死に直面した時、絶望することはなくなる、希望を持ち続けることができる、というのがキリスト信仰なのです。人が自分で自分を支えられるようになれる、そんな支柱を与えることになるので、長い目で見たら、こちらの方が本当の人助けになる、と言ってもいいと思います。キリスト信仰者が行う信仰の証しには、神は現実の困難を通しても、私と御自身の結びつきを強められた、という話がよく聞かれます。

 キリスト信仰者が結ぶ実には、助けるということ以外にも考えられます。隣人に対してどのように振る舞うかということがそれです。もちろん、そこには助けることも関係してくるので、完全に切り離すことはできません。それでは、どんな隣人に対する振る舞い方が実として考えられるでしょうか?

 キリスト信仰者は、神のひとり子イエス様のおかげで罪を赦されて神の前に出されても大丈夫な者とされたので、それで、赦すことが大切とわかっています。「神は赦しても私は許せない」ということがなくなります。パウロが教える、善をもって悪に勝たなければならないことが身近なものになります。悪が執拗でも悪で報いず、報復は神に任せるという態度でいて、どうしたら善をもって勝てるかを考えます。このような人は平和の実現に努める人です。たとえすぐ実現しなくても、努めることで少なくとも、この世の人たちが見えなくなっているものを輝かせることが出来ます。必ず気がつく人が出て来るでしょう。

 そんな輝きはひとりでに出て来ません。自分には神からの罪の赦しがあるとわかっていないと出て来ません。罪の赦しがあることは、イエス様と繋がっていなければわかりません。イエス様との繋がりは、繰り返しになりますが、聖書の御言葉に聴き、賛美をし、絶えず神に祈ることで保たれ、聖餐式のパンとぶどう酒に与ることで強められます。このように平和を体現し実現する者として立ち振る舞っていれば、周囲の人たちも福音は真理であり正しく生きる力を与えるものとわかるようになります。それがイエス様に繋がる輪を広げることになります。

 しかしながら、こういうことは頭ではわかっても、現実は、自分は実を結んでいないのではないかと思い知らされることが沢山でてきます。隣人を神との結びつきに導くどころか、現実的な困難からの助けも思うようにできないとか、平和の実現者を意識しながらも、赦すことが難しいこともあるでしょう。そういう時は、本日の使徒書の日課の第一ヨハネ320節の御言葉を思い出すとよいでしょう。「もし、私たちの心が責めることがあっても、神は私たちの心よりも大きな方で、全てのことをご存知です。」新共同訳では「心に責められることがあっても」ですが、ギリシャ語原文では「心が責める」です。18節で言われるように、もし私たちが偽りを持たず純粋な気持ちで行為で示しながら愛するならば、たとえ至らなさや失敗があって心が責め立てても、神は人のそんな心よりも大きいのだ。私たちが偽りを持たず純粋な気持ちで行為で示しながら愛そうとしたことをご存知である。そのことに思い当たれば、19節にあるように、神の前に立たされても心を落ち着かせることができ、もう心は責め立てることはしなくなる。そうして私たちは、21節と22節で言われるように、再び神の御前で勇気を持つことができ、愛の実践のために必要なものを祈り求めることができるようになり、それを神は惜しみなく与えて下さる。なんと素晴らしい神の約束でしょうか!

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2018年4月23日月曜日

自己犠牲を厭わない愛 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2018年4月22日 復活後第三主日 スオミ教会

使徒言行録4章23-33節
ヨハネの第一の手紙3章1-2節
ヨハネによる福音書21章15-19節

説教題 「自己犠牲を厭わない愛」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神の栄光を現わすということ

 今日は福音書の日課をもとに二つのテーマについてお話ししたく思います。一つ目は、福音書の箇所の終りでイエス様が、ペトロがどのような死に方をするのかを預言しているところです。この福音書の記者であるヨハネはその死に方を神の栄光を現すものと解説しています。それで、この「神の栄光を現す」ということについて考えてみたく思います。二つ目のテーマは、イエス様を愛するとはどういうことか、という本日の説教題に直接かかわることです。

まず「神の栄光を現すこと」についてみていきましょう。キリスト教会の古い言い伝えによれば、使徒ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、自分は主と同じ死に方をする値打ちはない、と兵隊たちに言ったところ、それじゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架につけられたということです。本日の箇所にあるイエス様の預言「お前は若かった時には腰に帯びを縛って行きたいところを歩き回ったが、年を取った時、お前は両手を広げ、別の者がお前を縛って、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネ2118節)、これは、起きた出来事を知っている後世の人からすれば、十字架刑に処せられることだなとわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。福音書記者のヨハネはペトロの処刑を目撃したか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。その時、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことは、このことを意味していたのだ、と事後的にわかったのです。

さて、ペトロの殉教は、ヨハネが19節で解説しているように、神の栄光を現すものでした。これは私たちをしばし考えさせます。神の栄光を現すというのは、これくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないことは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されない、ということです。私たちの業績や達成が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちた方です。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

それは、神の動かすことのできない真理を、私たちが自分の言葉や行いや生き方を通して人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと問われたら、私は次の三つの者である、と答えることです。三つの者とは、まず、私は、天地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者である、と答えること。次に、神聖な神の前に立たされても、神のひとり子イエス・キリストの身代わりの犠牲のおかげで大丈夫でいられる者である、と答えること。三つ目は、この世の人生の向こうで造り主である神のもとに永遠に戻ることができる道を今歩んでいる者である、と答えること。以上の三つを胸をはって答えることです。何も問われなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

このような神の真理に従って胸をはって生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。そんな真理は取り下げないと命はないぞ、という迫害の時代だったら殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?また、自分は造り主が送られたひとり子の身代わりの犠牲によって罪が償われて新しい命を頂いたことをどうして取り下げられましょうか?そして、自分は造り主の神に見守られてこの世を生き、神の御許に戻る道を今歩んでいることをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」生き方をしたら一巻の終わりになるという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心・信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間がどこから来てどこに向かって行くのかということについてキリスト信仰と異なる立場を取る人たちが社会の多数派を占めていれば、いろいろ軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことをいろいろ考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことも、現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。少数派が黙っていたら、多数派は何も気づかず、みんな同じ考えでいると勘違いしてしまうので、口に出すことは良心・信条の自由が存在するためにも非常に大事なことです。

2.神の自己犠牲を厭わない愛

 次に二つ目のテーマ「イエス様を愛するとはどういうことか?」についてみていきましょう。まず初めに、イエス様とペトロの対話をみてみましょう。イエス様が「私を愛しているか?」と三度ペトロに同じ質問をしたことは、十字架の出来事の時にペトロがイエス様のことを人前で三度「知らない」と言ったことに対応すると言われています。「私はあなたを愛しています」とペテロに三回言わせることで、拒否したことを赦す意味合いがあるとみなされています。ここでは、もう少し詳しくこの対話をみてみます。

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞「愛する」と、ペトロが「私はあなたを愛しています」と答える時の動詞「愛する」が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωという動詞を使いますが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωという動詞を使います。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているので、この区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。三回目になると今度は、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じ動詞フィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。この二つの動詞の違いを見てみましょう。

 「愛」とか「愛する」という言葉は厄介なものです。というのは、この言葉は、一般には男女の情愛とか性愛の意味が強くこめられることが多いので、それ以外の愛の形が背後に退きがちになるからです。当スオミ教会で以前牧師をされていたヘイッキネン先生が言っていたのですが、日本で中学生位の女の子たちに聖書の勉強会を行っていた時、「イエス様は私たちを愛されました。私たちもイエス様を愛して、互いに愛し合いましょう!」と言ったら、女の子たちは互いに顔を見合わせてくすくす笑っていたということです。

古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の情愛とか性愛に関係する愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものとしてフィラデルフィアφιλαδελφιαという語がありました。対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという語が使われました。本日の箇所のペトロの答え「愛しています」に出てくるフィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に結びついた愛です。

それでは、イエス様がペトロに聞く時に使った「愛する」アガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ福音書1334節と1512節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与える、と言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。その時、イエス様の弟子たちに対する愛も、またそれを模範にして弟子たちが互いにしなければならない愛もアガパオーです。それでは、イエス様が弟子たちを愛する愛とはどんな愛でしょうか?ヨハネ1513節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーも名詞のアガペーも同じ愛の形を意味します。ここで、アガパオー、アガペーの愛の形は、自分の命を犠牲にすることも厭わないことが関係してくることが明らかになります。

そうすると、兄弟愛、同志愛、人間愛は自己犠牲をしないのか、それらの愛にも大切な人のために自分を犠牲にするということがあるのではないか、と思われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみますと、兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアですが、新約聖書の中でのそれらの使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式のように使われています(ローマ1210節、使徒言行録282節、形容詞として第一ペトロ38節、副詞として使徒言行録273節、ただしテトス34節は神のものとして)。その意味でそれらには自己犠牲を厭わないくらいの強い愛はないと言えます。

そうすると、例えば親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起きれば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういうものであると教えます。人間に対する神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、それでは神は人間を何の危険から守るためにどんな犠牲を払ったのかということをはっきりさせなければなりません。「ヨハネの第一の手紙」410節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」は、アガペー、アガパオーです。その愛の内容は、人間が造り主である神のもとに戻れるのを妨げていたものを、神が御自分のひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。

人間は堕罪の時に、神に対して不従順に陥り罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。造り主である神と造られた人間との結びつきが失われてしまいました。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。神は、人間が再び自分との結びつきを持ててその見守りと導きのうちに生きられるようにしようと、また万が一この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻ることが出来るようにしようと、それでひとり子イエス様をこの世に送りました。もし人間が自分で罪を背負い続けてしまったら、この世を去る時にその重みで大いなる滅びの世界に落ちてしまいます。しかし神はイエス様に人間の罪を全部背負わせて、十字架の上で罪の罰を全ての人間に代わって受けさせました。さらに、死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間のために開かれました。人間がすることと言えば、この神がひとり子を用いて完成した救いをただ受け取ることだけです。イエス様が成し遂げたことはこの自分のためであったとわかり、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取りは完了します。どうして洗礼が出て来るかというと、イエス様を救い主と信じた人がその後の人生の歩みの中でその信仰に留まれるために必要だからです。洗礼は、神と人間の結びつきを守る大事な鍵です。

イエス様とペトロの対話に戻りましょう。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、そういう神の人間に対する深い大きな愛と同じような愛で愛しているかと聞いたのです。人間が神との結びつきを持てるようになるためにひとり子を犠牲にした愛と同じような愛です。さてペトロはどうしたかというと、先ほど見た兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で「愛しています」と答えました。たとえ他の弟子が見捨てても自分は主を見捨てない、などと威勢の良いことを言っておきながら見捨ててしまい、自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマのゆえに、ペトロが神的な愛を避けて人間的な愛をもって答えたことが窺われます。イエス様はペトロに、「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい愛します。ただし、人間的な愛ですが」と答えるのです。イエス様は二度同じ質問を繰り返し、ペトロは同じ答え方をします。そして三度目の質問で、イエス様は今度は神的な愛の形のアガパオーを使わず、ペトロと同じ人間的な愛の形フィレオーを使います。つまり、「それじゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応を見ると、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?いくらなんでもあんまりです!という様子が窺われます。

(ひとつ余計な注ですが、イエス様とペトロのやりとりはほぼ確実にアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。)

 ところで、イエス様が同じ質問を三回したのはなぜか?ペトロに三回拒否されたので、一回の答えでは信用できなかったからか?実は、イエス様は既に一回目の答えで、ペトロがイエス様を愛していることを信用していたのです。どうしてそんなことが言えるのかというと、ペトロの答えの後に、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言います。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが信仰をしっかり携えてこの世の道を歩めるために彼らを守り指導しなさい、つまり牧会をしなさいという意味です。「わたしの小羊」と言われているように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任ははかりしれないものがあります。ペトロにこのような責任を委ねたのです。もし、イエス様がペトロを信頼していなかったら、こんな重要な命令は下さなかったでしょう。それほどペトロを信頼していたのであれば、なぜイエス様は三度も確認させたのか?そうすることで、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならない、ということが明確になります。

3.私たちの自己犠牲を厭わない愛

私たちがイエス様を愛する時の愛はどんな愛でしょうか?人間のために自己犠牲の重荷を背負って下さったのはイエス様です。私たちがイエス様のために自己犠牲するということは、もちろんありえません。イエス様は神のひとり子ですから、神との結びつきを回復する必要などないからです。そこで注目すべきは、ヨハネ1421節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人である、と言っていることです。それでは、イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?それは先ほども見ましたようにヨハネ1334節と1512節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様が自分を犠牲にしてまで人間と神の結びつきを回復しようと駆り立てられた愛、その愛で互いに愛し合いなさい、と言うのです。互いをそういうふうに愛することができれば、それはイエス様を愛することになる、と。

それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛し合うとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持って生きられるようになったら今度は、隣人も同じように神から見守りと良い導きを受けながらこの世を生きられるように、またこの世を去る時は神のもとに永遠に戻れるように働くことです。その働きはどんな働きでしょうか?

もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に受け取った神との結びつきを失わないように見守り、必要が生じたら助けてあげることです。それをお互いにすることです。キリスト信仰者も苦難や困難に陥ることはしょっちゅうあります。そのような時、もし何らかの理由で解決が長引けば、どうして神は黙っているのかと疑念が生じ、それが神に対する失望や不信にかわる危険があります。苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼がしっかり保たれるように助けることが視野に入っています。

イエス様は弟子たちに向かって互いに愛し合いなさいと言われたので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ない感じがしますが、よく考えるとそうではありません。全知全能の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけのためではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に送られ、十字架の死に引き渡したのです。それなので、信仰者でない隣人を苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼が持てるようにすることが視野に入っています。信仰者の場合は「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助けることにおいて、自分の持てる力や時間や財産を使わなければならない時があることはいつも肝に銘じておかなければなりません。ルターは、そのような時、財産や命を失う可能性もあることを覚悟しなさい、と言っています。

自己犠牲を厭わない愛と言う場合、もちろん、神との結びつきの回復ということと無関係に行われるものもあるでしょう。例えば、親が自分の命を顧みず子供の命を守ろうとすることが考えられます。そのようにして助かった子供は、その後の人生をどう生きるでしょうか?自分の命が親の犠牲の上に成り立っているとわかったら、その犠牲は尊いものに感じられ、軽々しい生き方はできなくなるのではないでしょうか?そのような強烈な体験は、普通そんなにあることではありません。しかしながら、イエス様の十字架と復活のことを聞いて、それがこの自分にも関係している、自分のために起こされたとわかれば、普通の人でも同じような強烈な体験をすることになります。親の犠牲に比べたら身近な感じがしないと言われるかもしれません。しかし、イエス様のおかげで、この罪ある自分が神聖な神の前に立たされても大丈夫と見なされる、その神の見守りと導きを受けてこの世の人生を生きられる、この世を去る時に神の御許に手を取って迎え入れられる、これら全てはイエス様の犠牲のおかげだとわかれば、やはりそれは自分にとって尊いものになり、軽々しい生き方はしてはならないという心を強く持つことになると思います。

最後に、キリスト信仰の愛には、隣人が神との結びつきを保てるように/持てるようにすることが当然、視野に入っているということがルターの次の教えにもよく表れているので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明しに用いている聖句は、ローマ153節「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」です。

「イエス様は神の恵みに満たされた神聖な方であったにもかかわらず、ファリサイ派の人たちのように私たちを見下したり、私たちが持たないものを持っていることに満足するような方ではなかった。主は、私たちが何も有さず、彼が全てを有していることに不満だったのである。満足しても良かったのだが、主は逆に私たちが何も有さないがゆえに苦しまれる道を選ばれた。私たちが主のようになれるために、また主が有するものを私たちも有することが出来るために、さらには私たちが罪に支配された状態から解放されるために、私たちにどのように振る舞ったらよいか?このことに主は心を砕いたのである。それらを実現するのはちょっとやそっとのことではないとわかると、主は、自分自身が何者であるか、自分が何を有しているか、そういったことを顧みず一切を投げ捨てて、私たちの罪が御自身に降り注ぐに任せ、そうやって私たちから罪を取り除こうとされた。あたかも主は、私たちがこれだったら受け入れてもいいというような、私たちが満足できるようなことをして下さったのだ。

ファリサイ派の人たちが取税人たちに対して振る舞ったように、また高ぶった者たちが弱い罪びとたちに振る舞ったように、もし主が同じように私たちに振る舞ったならば、一体私たちの誰が罪の支配下から贖われることが出来たであろうか?それだからこそ、私たちも隣人の罪に対しては、主が私たちに振る舞ったのと同じように振る舞わなければならない。私たちは、裁いたり、陰口をたたいたり、見下したりしてはいけないのであって、かわりにその人が罪から解放されるように助けてあげなければならないのである。そうすることで私たちが命、生活、所有物、名誉その他私たちが有しているもの全てを失うことになろうとも、そうしなければならないのである。そうしない者は、キリストを失い、その信心はキリスト信仰の信心とは別の信心になってしまったことを知るがよい。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン