2016年2月29日月曜日

キリスト信仰者の覚悟と本懐 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年2月28日 四旬節第三主日 スオミ教会

出エジプト記3章1-15節
コリントの信徒への第一の手紙10章1-13節
ルカによる福音書13章1-9節

説教題 キリスト信仰者の覚悟と本懐


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに

 本日の説教題は「キリスト信仰者の覚悟と本懐」です。「覚悟」という言葉の意味は、誰でもわかると思います。一応辞書で確認しますと、「危険な状態や好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう心構えをすること」とありました。「決死の覚悟」とか「危険は覚悟の上だ」とか「覚悟はできている」という用例がありました。ところが「覚悟」には、こういう「対応の心構え」とは逆に、「あきらめる」とか「観念する」の意味もありまして、その場合は「もうだめだ、と覚悟する」などと言います。本説教で言う「覚悟」は、「あきらめ」ではなく、「来るべき試練に対応すべく心構えをする」の意味です。

「本懐」はあまり聞きなれない言葉かもしれません。辞書に載っている意味は、「もとから抱いている願い」、「本来の希望」、「本意」、「本望」などとあり、それで「本懐を遂げる」という用例がありました。「本望を遂げる」と同じでしょう。それならば、どうして「本望」を使わずに「本懐」を選んだかと言いますと、30年程前に出た城山三郎のノンフィクション小説に「男子の本懐」というのがあり、テレビドラマにもなりましたが、主人公の浜口雄幸という1930年代初めの総理大臣がこの言葉を使っていて、それが「覚悟」という言葉とうまくペアを組むと思ったからです。

どういうことか、簡単に説明しますと、当時の日本は天皇主権の大日本帝国憲法のもとで国が統治されていました。それでも、議会は選挙権が拡大して男性の普通選挙が実現して、議会の多数を占めた政党が政府を形成するという議会制民主主義が根付き始めていました。そのような時に首相になった浜口は軍縮を実行します。当時の内閣は今の防衛大臣と違って海軍大臣と陸軍大臣がいて軍の発言力はとても大きかったのですが、浜口は今で言えばそれこそ立憲主義の原則にたって事を進めていきます。しかし当然のことながら軍は反発、浜口のやっていることは軍を議会や政府の意思に従わせるものだ、それは天皇の主権を侵すものだ、と主張しだす。それはまさに立憲主義に関して当時の憲法の限界点を露呈する出来事でした。浜口首相は右翼の青年に銃撃されて重傷を負い、それがもとで命を落としてしまいます。そんなことが戦前の日本にあったのです。

浜口首相が「本懐」という言葉を使ったのは、私のつたない記憶ですが、首相に就任した時に、「自分は決死の覚悟で職務を行うので、道半ばで倒れるようなことがあっても、それは男子の本懐である」という趣旨のことを言っていました。また、銃撃された時も「男子の本懐だ」と言っていたと記憶します。要するに、何か私利私欲を超えた大きなものを目指してそれに向かって進んで行くが、たとえ道半ばで命を落とすことになっても、それは残念無念ではなく、目指す方向を向いて落とせるのであれば何も不足はない、本望である、本懐である、そのように理解してよいと思います。

以上のように「本懐」とは、「何か大きな目指すものをいつも向いて歩んでいるので、人生何があっても不足はないと思える心意気」と理解できることがわかりました。最初に「覚悟」とは、「来るべき試練に対応すべく心構えをすること」であると申しました。実は、本日の福音書の箇所、特に13章の1節から5節までの箇所は何度も何度も読んでいきますと、まさにそのような「覚悟」と「本懐」を与えてくれる御言葉であることがわかってきました。本日は、そのことを皆様にお伝えしたく思います。

2.二つのタイプの災難苦難とイエス様の主眼

 ある人たちがイエス様にある出来事について報告しに来ました。それは、ローマ帝国ユダヤ地域総督ピラトが「ガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜた」という事件でした。ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事の時に生け贄を捧げに来た人たちがいて、総督ピラトが何らかの理由で彼らを捕えて殺害させ、その血を彼らが捧げようとした生け贄にかけたか、または生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な出来事です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対するとてつもない冒涜でもあります。(注1)

 この報告を受けたイエス様は、ある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池という場所がありますが、もし塔がその近辺にあったものであれば、エルサレムの町の南部で起きた出来事ということになりましょう。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι18人」と言うように、聞いた人はすぐ何の出来事を指すかわかるような、多くの人の記憶に残っている出来事であったと言えます。

ところで、ピラトの事件は人間の残虐行為の犠牲と言うことが出来ます。シロアムの塔の場合は、人間の行為によるものというより、不慮の事故による犠牲と言えます。もちろん手抜き工事による事故なら人災と言うこともできますが、ここではそんな込み入ったことには立ち入らず、一方は人間の意図的な残虐行為による犠牲、他方はそうではない不慮の事故による犠牲ということにしましょう。そうすると、本日の福音書の箇所で言われる苦難災難は、人間がこの世で被る苦難災難の二つの大きな範疇を網羅していると言うことが出来ます。

 さて、イエス様にピラトの事件を報告しに来た人たちは、何が目的で報告しに来たのでしょうか?彼らには、この事件を通して何か知りたいこと、イエス様に聞きたいことがありました。それが何であるかは直接的には記されていませんが、報告を聞いたイエス様の言葉から、彼らの関心事は明らかです。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇しやすくなるのですか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪深さの度合いが低ければ、災難に遭遇しにくくなる、ということなのですか?」さらに言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しない、ということなのですか?」です。つまり、報告者たちは、「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪が苦難災難を罰としてもたらすという因果応報の観点で説明がつくのではないでしょうか?」と確認を求めたのであります。

 因果応報の観点の確認を求められたイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない。」ギリシャ語のウーキ(ουχιは通常の否定辞ウー(ου)よりも強い否定の意味を持ちます。イエス様は何を否定して「決してそうではない」と言っているのか?二つのことが考えられます。一つは、この世の苦難災難は因果応報なんかで説明はつかない、と因果応報の観点を否定したことです。もう一つは、災難に遭遇したガリラヤ人も遭遇しなかったその他のガリラヤ人もみな罪深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。その場合、両者ともに同じくらい罪びとであると言っているので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性はあり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになる。そうなると、それはもう因果応報とは関係のないことになります。そういうわけで、二つ目の意味をとっても、因果応報はあてはまらないと言っていることになります。いずれにしても、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものであることは明らかです。

イエス様は同じ言葉「決してそうではない(ουχι)」を、シロアムの塔の倒壊事故を話した時にも使います。5節です。この意味も、3節と同じように二つ考えられます。一つ目は、この世の苦難災難は因果応報なんかで説明はつかない、と因果応報の観点を否定すること。二つ目は、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということ。これも3節と同様に、両者とも同じくらい罪びとであると言うからには、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけで、それはもう因果応報とは関係のないことになる。そういうわけで、二つ目の意味でみても、因果応報はあてはまらないと言っていることになります。そういうわけで、「決してそうではない(ουχι)」は3節同様、因果応報の観点を否定するものです。(注2)

3.「滅び」はこの世で遭遇する苦難災難ではない

 「決してそうではない」と言うイエス様は因果応報の観点を否定していることが明らかになりました。ところが、どうでしょう。イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、と言われます。これは、もし悔い改めず罪の中にとどまるのならば、お前たちも同じような人為的な暴力の犠牲になったり、不慮の事故の犠牲になる、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って、因果応報の観点を否定しながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?

実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しない、などと考えていないことは、例えばヨハネ1633節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ、お前たちには世で苦難がある、と言っています(ヨハネ93節も参照)。

それならば、イエス様は何を言っているのでしょうか?イエス様の言葉が因果応報の観点で言っているように見えてしまう大きな原因があります。何かと言うと、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と「滅びる(απολλυμι)」という動詞がありますが、これを残虐行為や不慮の事故に遭って命を落とすことだと理解してしまうとそうなってしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。それでは、どんな意味でしょうか?

 それがわかる最適な箇所があります。ヨハネ316節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも、「滅びる(απολλυμι)」という動詞が出てきます。同じギリシャ語の動詞です。この「滅びる」は、「永遠の命を得る」と反対の事を意味しています。「永遠の命を得る」とはどんなことかと言うと、それは、この世から死ぬ時、自分の全てを自分の造り主である神に全部委ねて、神の方でしっかりキャッチしてくれる、そして復活の日が来たら朽ちない復活の体を着せてもらって創造主である神のもとに永遠にいられるようになるということです。そうすると、永遠の命を得られない「滅び」とは、この世から死ぬ時、神にキャッチしてもらえない、復活の日に神のもとに永遠に戻れないことを意味します。このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって、「滅び」はこのようなこの世にかかわるものでした。イエス様にとって、「滅び」はこの世の後に来る新しい世にかかわるものでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、一様に罪びとである全ガリラヤ人または全エルサレム住民と同様、神から罪の赦しを受けていない者として、死んだら永遠の命を得られなくなってしまう。」

 このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の後に来る新しい世に関係する滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないということが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得るのであれば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ1633節でイエス様は、愛する弟子たちに、お前たちにはこの世で苦難がある、とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世では永遠の命に至る道を歩むということ、そして、たとえ歩みの途上で苦難災難にあって命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは、どのようにして可能なのでしょうか?

4.神のもとへの立ち返り

 その鍵は、イエス様の答えの中にある「悔い改める(μετανοεω)」ということにあります。メタノエオ―μετανοεωのもともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されますが、ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが自分の無思慮さや身勝手さのために隣人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔したり恥じたりして相手の人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」はその相手の人に向けられていると言えます。ところが、キリスト教信仰では、隣人に対して謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は天と地と人間を造った神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に背いたということが出てくるからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまった生き方を改めて神に向きなおって生きるという意味で、「神のもとに立ち返る」と訳してもよいでしょう。

それでは、この「神のもとへの立ち返り」とは、一体どのようなことなのでしょうか?それがわかるために、まず、人間はどうしたら、この世の人生では永遠の命に至る道を歩めて、この世から死んだ後は神にキャッチしてもらえて永遠の命を得られて神のもとに戻ることができるようになるのか?このことについて見る必要があります。

十字架と復活の出来事が起きる前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。十戒を外面的だけでなく内面的にまで完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しません。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになったものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのであります。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神自身がとった解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送って、本来は人間が背負うべき罪の神罰を全部そのひとり子に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦す、というものでした。そこで人間は誰でも、このひとり子イエス様を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。洗礼を受けることで人間は、罪が残った汚れた状態のままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうして人間は、イエス様を救い主と信じて、純白な衣をはぎ取られないようにしっかり掴んで纏っていれば、神の方で目に適う者と見なされて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神から守りと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことがあっても、その時は神にしっかりキャッチしてもらえて、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。

以上のような次第で、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事の後に、永遠の命を保証する真の「神のもとへの立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に宿る罪に結びつく古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てながら、また聖餐式で霊的な栄養を摂取しながら、「神のもとに立ち返る」道を歩むこと、それであります。

5.キリスト信仰者の覚悟と本懐

 以上からイエス様が教えていることは、本当の「滅び」とは今のこの世の後に来る新しい世に関係した滅びであること、それゆえ、人間がこの世で遭遇する苦難災難というものは、たとえそのために命を落とすことになっても、「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもない、ということが明らかになりました。キリスト信仰者はここに覚悟と本懐を見いだすことができると思います。

このことを少し具体的な例にあてはめてみようと思います。もし絶体絶命の時が来たとき、例えば、重い病気でついに最期の時が近づいたとか、また目の前に津波とか雪崩が押し寄せて来たとか、まさにそういう時、キリスト信仰者なら、イエス様の教えに基づいて、瞬間的にでも次のように思い起こすのが適当ではないかと思います。「ああ、私を造られた神が私に与えて下さったこの世での人生の長さはここまでだったのだな。神よ、私をここまで導いて下さってありがとうございました。至らないことだらけでしたが、イエス様の神聖な衣を頭から被せられた者として生きてまいりました。中身は汚れがまだたくさん残っていますが、イエス様という衣を自分から脱ぎ捨てることもせず、引きちぎることもせず、必死にこれしかないというくらいに、すがりつくように纏ってまいりました。あなたに認めてもらうために私が自信をもって示せるのはこの衣しかありません。今、私の全てをあなたの御手に委ねます。どうかイエス様のゆえに私を受け止めて下さい。主の御名は永遠にほめたたえられますように。アーメン。」そのような人は、ルターの言葉を借りれば、「瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、()天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられる」のです。

最期の時が果たしてこのように思い起こしたり、祈ったりする猶予を与えてくれるかどうか実際には厳しいのではないかと思います。そうであればこそ、常日頃から、そのような思いが自分の内にしっかり根付くようにする、それが信仰生活というものではないでしょうか?そうすれば、キリスト信仰者はいつも覚悟がある状態にいて、もしもの時は本懐だ、と言うことができるのです。

ところで、いよいよ最期の時に、父なるみ神よ、私をキャッチして下さい、と言って全身全霊を委ねたつもりが、神の御手と思って掴んだものが、実は高い木の枝か何かを掴んでいて助かってしまったとか、そういう予想外のことが起きることもあります。その時は、「ああ、神は何らかの理由で私のこの世での人生の長さを延ばして下さったのだな」と理解して、神に素直に感謝して、再び「神のもとへの立ち返り」の道を歩み始めることになります。ただし、その場合、なぜ神は自分を生きながらえさせて下さったのか、このことをちゃんと考えなければなりません。このように奇跡的に助かった自分がただ自分だけのために生きてよいとそれで神は助けてくれたのだと思うのはちょっと問題でしょう。まだ救い主を知らずにいて、神のもとへの立ち返りの道を歩んでいない人たちに救い主イエス様のことを知らせ、その道を歩めるようにしよう、そうしてその人たちもキリスト信仰者の覚悟と本懐を持てるようにしよう、そういう役割が与えられたのだと自覚すべきではないかと思います。もちろん、奇跡的に助かったというような経験がない信仰者でも、キリスト信仰者の覚悟と本懐が持てれば、同じ役割の自覚は生まれるはずです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン



(注1)この事件については、ヨセフスの歴史書やローマ帝国の歴代誌等にも記載がなく、記述はこのルカ福音書のものだけです。しかし、総督ピラトはユダヤ人に対して強圧的かつ残虐な統治を行ったことで知られるので、もし反乱の疑いを持たれれば、このような事件は容易に起きたでしょう。ところで、ピラトが残虐だったというのは、ヨハネ福音書に記されたイエス様の裁判の様子からは想像できないかもしれません。ただ、在任期(A.D.2636)の終わり頃のピラトはローマ帝国における政治的地位が弱まっていた頃で、ユダヤ人の要求など聞くものかという思いと、言う通りにナザレ人を処刑しないと皇帝に直訴されるかもしれない、という心配の板挟みにあったとも言われています。

(注2)「罪びと、罪深い者、罪にある者、罪を犯す者」を意味する単語について、2節のガリラヤ人のところではαμαρτωλοςが用いられ、4節のエルサレム住民のところではοφειλετηςが使われていることに注目しましょう。οφειλετηςには、「負債のある者」という意味があります。負債のある者がどうして罪びとの意味になるかというと、神に対する不従順や罪というものは、人間が神に対して負っている負債のようなものと言う考え方が聖書にあるからです。人間は、最初の人間が神に対して不従順に陥り罪を犯したために、死する存在となってしまった。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ623節)。不従順と罪を赦されて神に義と認められて永遠の命を持てるために、人間は、負っている負債を支払わなければならない。このことは詩篇4989節に端的に述べられています。「神に対して、人は兄弟を贖いえない。神に対して身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」

ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さる方がついに現れたのです。それが、イエス様の十字架の死の意味だったのです。神のひとり子が犠牲となって十字架の上で血みどろになって流した血があらゆる財宝にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を奴隷状態にしていた罪と不従順の力から私たちを解放し、造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。マルコ1045節でイエス様は、自分は多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである、と言いますが、まさにその通りだったのです。

私たち人間は、神がこのようにひとり子を用いて整えられた救いがまさにこの自分のためになされたとわかり、それでイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、この整えられた救いを受け取り所有することが出来ます。洗礼を受けることで、私たちはまだ罪と不従順を持っているにもかかわらず、イエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられることになります(ローマ1314節、ガラテア327節)。

ご参考までに、罪が神に対する人間の負債ということを表す言葉は、またマタイ612節にある「主の祈り」のところにも使われています(οφειλετης)。



2016年2月22日月曜日

汝の信仰なんぢを救へり (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2016年2月21日 四旬節第二主日 スオミ教会

エレミア書26章7-19節
フィリピの信徒への手紙3章17節-4章1節
ルカによる福音書18章31-43節

説教題 汝の信仰なんぢを救へり


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の説教題に「汝の信仰なんぢを救へり」という昔の文語訳を用いましたが、これには理由があります。私たちが使っている新共同訳では、このイエス様の言葉は「あなたの信仰があなたを救った」となっています。「救った」というのは過去形ですが、少し詳しく見ると、過去の意味だけでなく、完了や存続の意味も持つことができます。例えば、「先週、あなたの信仰があなたを救った」と言えば、先週そんなことが起きたと過去の事実を述べるだけで、今週はどうかは何も言っていません。ところが、「あなたの信仰があなたを救った。だから安心しなさい」と言ったらどうなるでしょう。救ったことが起きたのは過去だが、その状態が現在も続いているので、心配いらない安心しなさい、という意味になり、「救った」ことが現在も効力を持って存続している、それくらい「救った」ことはしっかり完了している、という具合に完了・存続の意味を持ちます。このように同じ「救った」と言っても、文脈によって意味が異なります。

ところで、文語訳聖書の「救へり」は意味が限定されていて、これは完了・存続の意味です。過去の意味は持ちません。もし過去の意味を出そうとすれば、「救ひけり」、「救ひき」になるでしょう。どうしてこんな高校の古文の授業のようなことを言い出すのかと言うと、実は問題となっているイエス様の言葉は、ルカ福音書の書かれた原語のギリシャ語を見ると、過去の意味ではなく完了・存続の意味で言っているからです(σεσωκεν 現在完了形)。それで、その意味をはっきり表している文語訳の「救へり」が原語の意味と一致するので、そちらを説教題に選んだという次第です。それでは、「救った」が過去ではなくて完了・存続の意味を持つと、このイエス様の言葉はどんな意味を持つのか?このことは後でみていきます。

 本日の福音書の箇所ですが、大きく分けてイエス様の二つの教えからなっています。最初の教えは、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味について教えるものです。預言の意味について、この後すぐに見てまいります。

もう一つの教えは、イエス様がこれから癒すことになる盲目の人に向かって「あなたの信仰があなたを救った」と言ったことに関係します。先ほど、「救った」には過去ではなくて完了・存続の意味があると申したところです。この箇所を読む人は大抵、おやっと思わされます。というのは、イエス様は、男の人の目を見えるようにする前に「お前の信仰がお前を救った」と言ったからです。男の人の目が治ってからそう言った方が意味が通じるのではないかと思われます。実はイエス様は、同じ言葉をマタイ922節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?

一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康回復をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様の方では癒しは必ず起きるとわかっているので、それがもうさも実現したかのように考えて、「救った」などという言い方を先回りして用いたのではないか、などと考えることもできます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ1719節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言いました。さらに、ルカ750節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースがありますが、2つは癒しの奇跡に関係して健康回復の前に言われたケース、1つは癒しの奇跡に関係しているが健康回復の後に言われたケース、最後の1つは癒しの奇跡と無関係に言われたケースということになります。結論から言いますと、どのケースをみても、ある共通したことがあって、それでこの言葉を健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。何のことか今のところはわかりませんが、後ほどわかるようになりますので、頑張って聞いていて下さい。

2.シンボル的な預言が具体的な出来事に

 まず初めに、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味についてのイエス様の教えです。31節でイエス様は、これから行こうとしているエルサレムにて、預言者を通して記されたこと全てが人の子に実現する、と言います。実現することとしては、次のことを挙げます。まず人の子が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人の手に引き渡され、侮辱され、辱めを受け、唾を吐きかけられ、そして鞭うちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。

翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことを理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難、十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからでして、起きた出来事をもって予告されたことを確認できるからであります。しかし、弟子たちにしてみれば、まだ十字架と復活が起きていない段階ですから、確認する術がありません。

それならば、弟子たちには旧約聖書に記されている預言者たちの預言があるではないか?イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っている人ならば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、という具合に理解できるのではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純なことではなかったのです。旧約聖書に記されているとは言っても、どこに、人の子が異教徒の手に引き渡される、と書いてあったか?また、どこに、人の子が侮辱され、鞭うちの刑を受け、殺される、と書いてあったか?そして、どこに人の子が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言がこのような形で実現すると言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。

しかし、実はこれらの出来事は全て旧約聖書の中に、あまり具体的には見えなくとも、しっかり記されていたのです。イエス様は、シンボル的な言い方で預言されていることが、人間の歴史の特定の時代の舞台と状況のなかで具体的な形で実現することを言っているのです。イエス様自身は、シンボル的な言い方で預言されていることがどう具体的に実現するか前もって既にわかっているので何も問題ありません。しかし、弟子たちの方は、まだ具体的な形をとって実現することは見聞きも体験もしていません。それでイエス様が言われたことが、シンボル的な言い方で預言されていることとどう関係するのか、まだわかりません。

それでは、預言されていることと、実現したことの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書713節に登場する謎めいた人格を持つものです。今あるこの世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて、神の御国が現れます。その時、神から王権と権威を授けられて、御国の統治者・君臨者となるのが「人の子」です。こうして、「人の子」はイエス様の時代には、この世の終わりに到来する神の御国の統治者・君臨者として理解されていました。加えて、「人の子」は、神から王権と権威を授けられる前に、迫害を受けるものとも理解されていました(ダニエル725節参照、マタイ1614節も)。

さらに「人の子」とは別に、神に近い者として「神の僕」という者がイザヤ書53章に登場します。人間が受けるべき神罰を変わりに引き受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の預言が全て実現すると言う時、それは、ダニエル7章で言われる「人の子」が受ける迫害、イザヤ53章で言われる「神の僕」が受ける犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で、異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、と明らかにするのであります。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、引き渡し、鞭うち云々と言われても、あれっ、聖書のどこに書かれていたっけ?となってしまうのであります。

次に、三日後に死から復活する、ということについて。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書2619節、エゼキエル書37110節、ダニエル書1223節に預言されています。そこで、復活が死んでから三日目に起こるという、三日目の復活という出来事については、ホセア62節とヨナ21節が鍵になります。特に、ヨナは、大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事について述べているので、これは未来を言い表す預言には見えません。しかし、ユダヤ人にとって、この箇所は、神の力で三日後に死の世界から復活するというシンボル的な出来事になるのです。マタイ12章でイエス様自身、ヨナの出来事を過去の出来事としてではなく、自分の復活についてのシンボル的な預言であると言っています(3841節、164節)。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはや単なるシンボルではなくなって実際の出来事になるのであります。

しかしながら、預言はどれもシンボル的に記されていて、いろいろな書物に散らばっています。そのため、これらはこういう具体的な形で、繋がりを持ってこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、といくら言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解できないのであります。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全ては繋がり、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、すなわち文字通り預言の実現になるのです。弟子たちは、事後的に全てのことを理解できたのです。

ところで、弟子たちが事後的に理解できたというのは、ああ、旧約聖書のあれこれの預言は、神のひとり子イエス様が異教徒に引き渡され、侮辱と辱めを受け、唾を吐きかけられ、鞭うちの刑を受けて殺され、そして三日後に復活するという形で実現したのだ、それで旧約聖書の預言の一つ一つが実際起きた出来事の各部分にしっかり結びついているのだ、という具合に、起きた出来事と預言との結びつきを確認できたということです。しかし、結びつきの確認だけにとどまりません。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのか、それがわかったのであります。実はそちらの方が大事なことでした。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味するのでしょうか?

それは、天地創造の神の人間救済計画の実現を意味しました。どうして人間は神に救われなければならなくなったかと言うと、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は神との結びつきを失い死ぬ存在になってしまったからでした。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子イエス様をこの世に送り、これを用いて救済計画を実行しました。それでは神は、どのようにしてイエス様を用いて人間救済計画を実行したのでしょうか?それは、人間の罪がもたらす神罰を全てひとり子イエス様に負わせて十字架の上で私たちの身代わりに死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を私たち人間のために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との結びつきが回復して、この世の人生において永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

3.信仰があなたを救われた状態にしている

 以上、旧約聖書にシンボル的に預言されたことが全て、イエス様を通して具体的に実現したこと、そして預言の実現は天の父なるみ神による人間救済計画の実行であったことを明らかにしました。

次に見ていくイエス様の教えは、「あなたの信仰があなたを救った」という不思議な言葉です。初めに申しましたように、この言葉は、盲目の人の目が見えるようになった段階で言った方がすっきりするのではないかという疑問が起きます。ところが、イエス様は同じ言葉をある時には、本日の箇所のように癒しの奇跡を起こす前に言っていますが、ある時は奇跡の後に言い、またある時は奇跡と無関係に言われました。この不可解な言葉について見ていきましょう。

この言葉は日本語では「あなたの信仰があなたを救った」と過去の出来事にも完了や存続の意味にも介される表現になっていますが、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく、現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、最初で触れた4つのケース全て同じです。ギリシャ語で現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、過去の時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、完了している、存続しているという意味です。従って日本語訳で「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、この箇所は、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。

さて、ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか、と。まだ盲目の状態にあったのに、どうして救われていたと言えるのか?

その答えはこうです。救われるということが、病気が治るとか、そういう人間にとって身近な問題の解決を意味していないということであります。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために断ち切れてしまっていた人間とその造り主である神との結びつきが回復されて、神との結びつきをもってこの世の人生を歩むこと。そして、この世から死んだ後は、神のもとに永遠に戻れること。これが救われるということです。これが出来るためにはどうすればよいかというと、これも先ほど申しました。神が2000年も前の昔に彼の地でなさったことは、実は今の時代を生きる自分のために行われたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで出来るのであります。こうすることで、人間は、神が自分で整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができて、それを自分のものとすることができるのであります。盲目の男の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との結びつきをもって生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのであります。癒しを受けていなくても、救われていたのであります。その後で癒しを受けたのは、付け足しのようなものでした。

これと同じことが、マタイ9章で、12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ。神との結びつきを回復して生きる者となっていたのだ。」その後で、女性は健康になります。癒しは、付け足しのようなものでした。

以上、癒される前の状態、つまり病気の状態にいても、人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり人間の造り主である神との結びつきを回復した者になって、この世の人生を歩むこととなり、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことがとても大事なのは、もし病気から癒されることそのものを救われることと言ってしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で、神との結びつきが回復しているとか、病気の人は病気だという理由で神との結びつきがない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を背負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪を赦されて神との結びつきが回復して、同じくらいに神との結びつきをもってこの世の人生を歩み、この世から死んだ後は、同じくらいに神のもとに永遠にもどれるのです。

逆に健康だからといって、また癒しがあったからといって、それが神との結びつきの回復の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この男の人に「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのです。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられませんでした。健康な人でも、イエス様を救い主と信じ告白する者が救われるのです。

ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので、健康な人だったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、その女性は、イエス様を救い主と信じた日から現時点まで、そしてこれからも信じ続ける限り、救われた状態にいるということです。

このように人間が救われているかいないかは、健康であるかないか、人生が成功だらけか失敗だらけか、ということは関係なく、イエス様を救い主と信じるかどうかによるのです。そういう訳で、キリスト信仰者というのは、仮に不治の病にかかっても、何か事業や計画に失敗しても、イエス様を救い主と信じる限り、神との結びつきはしっかり保たれているんだ、ひとり子をこんな自分のために送って下さった神の愛は境遇の上がり下がりにかかわらず同じくらいこの自分に注がれているんだ、と確信する者です。そして、その確信が生きる命そのものになっている者だと言うことができます。使徒パウロがまさにそのような者であることは、「ローマの信徒への手紙」83839節にある彼の言葉からも明らかです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 最後に兄弟姉妹の皆さん、通らなければならない逆境があまりにも大きすぎて、回復した神との結びつきに確信が持てなくなってしまう危険に晒された兄弟姉妹たちがいることを忘れないようにしましょう。私たちは、彼らのために時間を割いてしっかりお祈りして、私たちの祈りを通しても、彼らを父なるみ神の御手にお委ねしてまいりしょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン