2018年3月12日月曜日

信じるとは、心の目で見ること (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2018年3月11日 四旬節第四主日

民数記21章4-9節
エフェソの信徒への手紙2章4-10節
ヨハネによる福音書3章13-21節

説教題 信じるとは、心の目で見ること


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに 

東日本大震災からちょうど7年が経ちました。東京にいる私たちも、本当に立ち止まって被災した方々や犠牲者の遺族の方々そして今なお避難生活を送っている方々を心に留める日です。礼拝の後半部分で教会の祈りの部があります。その時に苦難の道を歩まれた方々のためにお祈りいたしましょう。本日の説教では、聖書の箇所の解き明しに努め、私たちの造り主である神は私たちに何を求めているのか、それに対して私たちはいかに応えて行くべきかということを御言葉から明らかにしていきたいと思います。その明らかになったことを心に刻んで、また明日から始まる平日の日常に戻って、自分自身の課題に取り組んだり、また私たちを取り巻く時代のいろんな問いかけに向き合ってまいりましょう。

 そういうわけで本日の説教は、本日の福音書の箇所、ヨハネ福音書31321節にあるイエス様の言葉を解き明かすことが中心ですが、これは実は本日の旧約の日課、民数記2149節と使徒書の日課、エフェソ2410節とも密接に結びついています。これらの3つの聖句を互いに突きあわせることで、ヨハネ福音書のイエス様の言葉がよくわかってきます。ヨーロッパ中世の神学者で名前は忘れましたが、聖書は聖書に拠って解釈される、と言った人がいます。聖書の箇所で難しいところがあっても、聖書内の別の箇所と結びつけたり照らし合わせたりしてみるとわかるということです。いたずらに聖書外部の知見を持ちこんで、もともと神が意図していなかったことをさも神の意思であるかのように言うのではなく、聖書の良き解釈者はあくまで聖書であるという姿勢で行くのが、全知全能の神の意思に近づける近道です。

 そういうわけで、本日の説教ではヨハネ31321節の解き明かしを、民数記2149節とエフェソ2410節と突きあわせながら行っていきます。そこでは、三つのことが大事なこととして見えてくると思います。一つは、信じるというのは心の目で見るということ。二つ目は、信仰とは神から与えられたものを受け取って生きること。三つ目は、隣人のために祈ることの大切さです。

2.      信じるとは、心の目でみること

本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3121節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、人間が霊的に生まれ変われるということについて、また神の愛や人間の救いについて教えを受けます。

本日の箇所でイエス様はニコデモに、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げたという出来事は、先ほど読んで頂いた民数記21章の日課にありました。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度にも渡って民を苦境から助け出したにもかかわらず、一時すると民はそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に対する反抗の罪を認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを仰ぎ見る者は、「炎の蛇」に咬まれても命を失わないで済むようになりました。

 イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分のことを同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見ると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたということにとどまらない深い意味が含まれています。

 民数記21章の出来事に出て来る「炎の蛇」שרףですが、興味深いことに各国の聖書では「猛毒の蛇」と訳されています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。ヘブライ語の辞書を見ると、確かに「炎の蛇」と書いてありますが、「猛毒の蛇」はありません。訳した人たちはきっと、古代人というのは蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんな考え方で辞書にはない言葉を使ったんではないかと思われます。「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、出来るだけ理性的に捉えた方が良いと考えたのでしょう。欧米人にはどうもそういうところがあるように思われます。しかし、彼らが作った辞書にせっかく「炎の蛇」とあるのだから、ここはもう少し踏みとどまって、「炎の蛇」で通すことにします。

モーセは神から「炎の蛇」を作りなさいと言われます。そこで彼がとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱でまさに「炎の蛇」です。しかし、冷めて固まります。それを神に言われたように旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。なんの力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが悪魔にそそのかされて、造り主の神に対して不従順になって罪を犯したことが原因で人間は死ぬ存在となってしまいました。

イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うというのは、まさに神に対して罪を犯すと、その罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは、冷たくなった蛇の像でした。それは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。神が与える罪の赦しは、罪が持つ死に至らしめる力よりも強いということを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見た者は、そこで表わされていることがその通りになって死を免れたのです。

これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。罪が人間の内に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを修復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送り、彼に全ての人間の全ての罪を負わせて、十字架の上で罪の罰を受けさせました。まさにイエス様が、全ての人間の罪を人間に代わって償って下さったのです。さらに、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせになる形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされてその力が無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力であり、人間がこの世から去った後も造り主のもとに永久に戻れなくなるようにする力です。その力が打ち砕かれ、無力と化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。ところが、一度滅ぼされたイエス様の方は三日後に神の力によって死から復活させられました。それによって、永遠の命への扉が人間に開かれました。罪の方はと言えば、もちろん復活など許されず、滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

このように神はイエス様を用いて全ての人間の全ての罪の償いをして下さり、また罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。ところが、人間の方が、この神の整えて下さったものを受け取らない限り、償いも贖いも人間の外部によそよそしく留まっているだけです。せっかく準備ができているのに、それと無関係でいることになります。真にもって勿体ない話です。それでは、神がイエス様を用いて準備して下さった償いと贖いはどのようにして受け取ることが出来るでしょうか?

 それは、十字架にかかっているイエス様を心の目で見ることです。かつてイスラエルの民は、悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見ました。そして蛇の像が表わしていた毒消しがその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが、私たちはイエス様の十字架をイスラエルの民のように肉眼で見ることはできません。それは2000年前に立てられたものです。それゆえ、心の目で見なければなりません。心の目で見るというのは、まず思い浮かべることです。私たちは、思い出や愛する人を目の前にいるかのように思い浮かべたりします。イエス様の十字架の場合はもう一つあって、十字架に何があるかを知っていて思い浮かべるということです。イエス様の十字架に何があるかというと、私たちの罪があります。あそこで項垂れて死なれたイエス様がおられる。彼の肩や頭には私の罪が重く圧し掛かっている。イエス様はあそこでそれを私に代わって償って下さったのだ。そのようにわかって思い浮かべると、十字架のイエス様を心の目で見たことになります。それが出来た人はもう、イエス様を自分の救い主と信じてそう告白することができます。その時、罪の償いと罪からの贖いはもう外部によそよそしくあるものではありません。その人の中に入って、その人の中でその通りになります。まさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。

3.信仰とは、神から与えられたものを受け取って生きること

 十字架のイエス様を心の目で見ることができる人には、罪の償いと罪からの贖いが起こることがわかりました。罪が償われて、罪から贖われるというのは、神から罪を赦してもらったということですから、そうなると神との結びつきを回復できたことになります。なぜなら、罪がその結びつきを壊していたのですから。神との結びつきを回復できた人は、それからはその結びつきを持ってこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時もいつも神から守りと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は手を取って引き上げられて永遠に御許に戻ることができるようになります。不思議なことに、この結びつきを失ってしまった原因は人間にあるのですが、神がそれをひとり子を犠牲にしてまで取り戻して下さったのです。これが、神の愛と言われるものです。人間はただ、神が「こっちで準備は全部したから、あなたは受け取りなさい」と差し出して下さるものを受け取るだけで良いのです。

 エフェソ28節で使徒パウロは、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」と述べますが、まさに救いとは、人間の方では神の気を引くようなことは何もしていないのに、神の方がただ人間を憐れんで一方的に「受け取りなさい」と言って差し出してくれている、それを受け取ることです。まさに神から人間への「お恵み」を受け取ることです。しかし、先にも申し上げましたように、人間がこの差し出されたものを受け取らないでいると、それは外側によそよそしくあるだけです。それを心の目で十字架のイエス様を見て受け取ってはじめて自分のものになり、それからは、神との結びつきを持って今の世と次の世の両方を貫く人生を歩むことができるようになります。この、神から与えられるものを受け取って生きることが「信仰」です。パウロは、救いは恵みによる、信仰による、と言って、二つなければならないことを言いました。「信仰による」(ギリシャ語原文では「信仰を通して」)がなければ、神が差し出すものは受け取られておらず、外側によそよそしくあるだけです。「恵みによる」がなければ、人間は救いを自分の力で得ようとして、それを信仰と呼ぶようになってしまいます。信仰とは神から与えられるものを受け取ることに徹することなのです。

信仰をそんな受け身で考えていいのか、と疑問をもたれるかもしれません。そんなことでは神からの贈り物を自分だけで消費する、利己的な人間になってしまうのではないか、という疑問です。私としては、神がひとり子を用いて準備して下さったものというのは、受け取ることに徹すれば徹するほど、利己的な人間から離れていくのではないかと思います。というのは、十字架のイエス様を心の目で見ることができると、魂は大きな解放感と深い厳粛さを同時に味わうことになります。神に対する負い目である罪を償ってもらったこと、罪の支配から贖ってもらったことはなんとも言えない大きな解放感をもたらします。同時にその解放が神のひとり子の尊い犠牲によるものであるというのは厳粛な気持ちにさせます。この全く異なる二つのことが同時にあることが大事です。厳粛さだけでは重苦しく暗くなるだけです。解放があるから喜びがあります。また解放感だけでは軽々しくなります。厳粛さがあるから軽はずみなことには走りません。キリスト信仰者というのは誰しも、こうした解放の喜びと厳粛さを同時に兼ね備えていると思います。バランスの取り方は人それぞれでしょう。

解放も厳粛も神の成し遂げたことから来ていますから、それらが魂に響いているキリスト信仰者は、神の意思に沿うように生きるのが当然という心になります。それでは、神の意思とはなんでしょうか?それは十戒にあります。先週の説教で少し詳しくお話ししました。それから、イエス様が十戒の主旨を二つにまとめて、神を全身全霊で愛することと隣人を自分を愛するが如く愛することが大事だと教えています。それと照らし合わせながら十戒をみます。また使徒パウロは具体的な場面でそれらをどう実践するかについて教えています。悪に対して悪で報いるな、とか、少なくとも自分の方からは他人と平和を保つように努めよ、とか、正義の実現のためと言っても復讐は正当化されない、償いも謝罪も何もなかったことについても神が最後の審判で決着をつけるからそれに委ねよ、等々。これらは、キリスト信仰者のこの世での立ち位置を教えています。

エフェソ210節でパウロは、「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」と述べています。「善い業」とは具体的にはどんな業なのかを考える時、今申し上げたこと、つまり、神が与えて下さるものを一所懸命に受け取るとそこから神の意思に沿うように生きようという心が生まれる、ということを思い起こしてみると良いと思います。もともと人間は神に造られたものとして、神との結びつきをもっていましたが、それが罪のために失われてしまった。それをイエス様が自分を犠牲にして回復して下さった。「イエス・キリストにおいて造られた」というのは、イエス様を救い主と信じることで、この世を生きる新しい命が与えられた、まさに新しく造られたことを意味します。その時、神の意思に沿うように生きようという心が生まれますが、それはもともと神が人間を造った時にあったものでした。それは堕罪で失われてしまいましたが、また回復したのです。まさに神が天地創造の時、「前もって準備してくださった」ものを、イエス様を救い主と信じることで回復したのです。

それから、新共同訳で「わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」と言っていることについて。ギリシャ語原文では「善い業を行って歩む」とは言っていません。「善い業の中で歩む」です。「善い業の中で」というのはわかりにくいですが、要は、善い業と結びついているということです。実際に行って行為として現れる場合もあれば、神の意思に沿うように生きようという心の有り様も含まれます。

4. 隣人のために祈ることの大切さ

ヨハネ福音書3章の本日の箇所の後半(1821節)で、イエス様は自分のことを信じない者についてどう考えたらよいかについて教えています。信仰者にとっても気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

318節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と述べます。これは一見、イエス様を信じない者は地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたらあまりいい顔はしないでしょう。ここで注意しなければならないことがあります。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は堕罪以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。みんながみんな、この世を去った後は永久に神から離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されます。信じなければ状況は何も変わらず、堕罪以来からある滅びの道を進み続けるだけです。これが、「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。従って、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それで軌道修正がなされて、「既に裁かれている」というのは過去のことになります。

319節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と彼を用いて救いの道を整備して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは、「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

320節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない者は悪行を覆い隠そうとする悪人で、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように見えて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るところだと思います。しかし、それは早合点です。まず、キリスト信仰者とそうでない者の違いとして、そうでない者の場合は、人間の造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が、造り主に全てお見通しという考えがありません。そもそも、そういうことを見通している造り主を持っていません。

キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果はいつも沿っていないので、そのために罪の告白をして、イエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善行しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。321節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善行を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身について真の姿を造り主に知らせるということです。善行もしたかもしれないけれど、罪もあわせて一緒に白日に晒すということです。私は全身全霊で神を愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでした、と認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善行が人目につくように明るみに出すためなんかではありません。321節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善行も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなり、神の前で自分を誇ることができなくなります。

翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいがためにイエス様をこの世に送られたのでした。人間を救いたい神からみれば、これはゆゆしき大問題であります。

しなければならないことは、はっきりしています。とにかく福音を宣べ伝えることです。ただ具体的にどうすればよいのか、という段になるといろいろ考えなければならないことがあります。人によっては、宣べ伝えなどに貸す耳など持っていないでしょう。そのような人については、お祈りをします。ただ、お祈りの仕方は、いきなり「イエス様を救い主と信じるようにして下さい」ではなく、その方が抱える具体的な課題や問題の解決を父なるみ神にお願いするのが良いのではと思います。それに続いて、その方の心の目が開かれて十字架のイエス様に気づくように、と付け加えます。どうしてそういうふうにした方が良いかというと、神という方は具体的な問題や課題を通してよく御自分の力や導きを示される方だからです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2018年3月5日月曜日

罪よ、お前は私にふさわしくないのだ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2018年3月4日 四旬節第三主日

出エジプト記20章1-17節
ローマの信徒への手紙10章14-21節
ヨハネによる福音書2章13-21節

説教題 罪よ、お前は私にふさわしくないのだ


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      十戒は誰に与えられたのか?

本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、不正や偽りを結びつけて神の名を唱えたり、神の名を引き合いに出して誓ったりしてはいけない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける時とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけない、ということです。そして、第910の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を欲してはならない、つまり、他人のものなのに自分のものにしたいと思ってはならない、ということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

 十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。そうすると、十戒はモーセを通してイスラエルの民に与えられたとは言っても、本当は人間全体に与えられたと言ってよいのではないか?しかし、そう言えるのはあくまで第4から第10までの掟だけで、神と人間の関係を律する最初の3つの掟は、やはりユダヤ教や十戒を継承したキリスト教に関係するものではないか?そうすると、やはり特定の集団に与えられた規範ということにならないか?ここで、もう少し詳しくそれぞれの掟を見ていくことで、このことを考えてみたく思います。

 まず、人間同士の関係を律する7つの掟を見てみます。第4の掟は「父母を敬え」です。「敬え」とは具体的には、自分を生み育ててくれた親に感謝の気持ちを忘れず、自分が大人になって親が高齢者になったら、よい晩年を過ごせるように支えてあげることが考えられます。親が体調不良になった場合は、誰もが医者や看護師や介護士になれないので、専門家の力を借りながら、肉親として出来ることで支えてあげる、ということになるでしょう。

ところで、親が子供の利害や尊厳を侵害する場合はどうすべきでしょうか?そういう時でも敬わなければならないでしょうか?大事なことは、十戒というのは、ある掟を犠牲にして別の掟を実現するということはなく、全ての掟が実現されるように守られねばならないということです。それで、DVのような深刻な場合は、第5の掟「殺すな」がそういう「親を敬え」を偽りの「敬い」であると明らかにしてくれます。別の例では、子供がキリスト信仰者になって、親からやめろと言われた時はどうしたらよいか、ということがあります。「はい、やめます」というのが親を敬うことになるのか?そうではないと思います。意見を異にする親に対しては敬意をもってまさに敬う態度で自分の立場を説明するということに尽きると思います。親に対して、何も知らない愚か者め、と高ぶってはいけないし、逆に親に何か悪いことをしているというような罪悪感に囚われる必要もありません。ここは、ダニエルがバビロン帝国の王ネブカドネツァルから異教の神の像を拝め、さもないと火の中に投げ込むぞ、と脅された時にどういう対応をしたかを思い出すと良いでしょう。新共同訳の訳によく表れているように、ダニエルは王に対して敬意を払う口調で自分の立場を述べて、終わりに「拝むことはしません」と言ってのけます(ダニエル書31618節)。日本語には敬語があるので、王に対して敬意を払う感じがよく出ています。

ところで、第4の掟をよく見ると、父母を敬うことが何をもたらすかについても書いてあることに気づきます。「そうすれば、あなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(注 ヘブライ語の接続句למעןは結果の意味も目的の意味も両方持ちます。新共同訳では結果の意味に訳しているので「敬えば、長生きできる」です。スウェーデン語訳の聖書も同じ訳です。ところが、英語訳NIVとフィンランド語訳の聖書は「長生きできるために父母を敬え」と目的で訳しています。)「主が与えられる土地に長く生きることができる」と言うのは、一見すると、神がイスラエルの民にカナンの地を与えるという約束を思い起こさせ、その地での長生きを言っているのだと思わせます。ところが、ここで「土地」と言っているヘブライ語の単語אדמהですが、これは、ふつう神がカナンの地を与えると言う時の単語ארצと違います。それは、畑地というような何か生業を営む土地一般です。加えて、「長く生きる」という動詞ארכוןも詳しく見ると「人生を長くすることができる」、つまり、不幸や災難に見舞われて人生を短く終わらせることがない、という意味です。ただ単に時間的に長く生きるということではなく、今はやりの言葉で言えば、クオリティー・オブ・ライフを持って生きられるということです。そういうわけで、「主が与えられる土地で長く生きることができる」というのは、神が人間を誕生させて生活させてくれる場所で、平和で幸せな日々を送れるようになるという意味です。

 そうすると、第5の掟以下も同じことが言えます。殺すな、不倫するな、盗むな、他人を貶めるようなことは言うな、他人のものに欲望を抱くな、ということは皆、守ることで平和で幸せな日々を末永く送れるようになると言うのです。「神があなたに与える土地」も、生活の場所を神が人間に与えてくれると考えれば、これはもうイスラエルの民を越えて、全ての人間に当てはまります。

そういうわけで、十戒の人間同士の関係を既定する7つの掟は、全ての人間に向けられ、全ての人間が平和で幸せな人生を送れるために、天地創造の神が与えた掟であるとわかります。ところが、初めにも申しましたように、十戒の最初の部分、第1から第3の掟は神と人間の関係を規定する掟です。まず、十戒の出だしの部分で神は自分のことを、民を奴隷の国エジプトから導き出した神である、と言います。これの意味することは、神というのは意志を持ち、計画を立てて、それを歴史の中で実行に移すという、まさに生きている神であるということです。金銀銅や木材石材で作られた像にはそのような力も命もない、という意味です。まさにそこから第1の掟、天地創造の神以外の神を拝んではいけないというのが出て来るのです。これなどは、他の宗教や無神論の人から見たら、これはユダヤ教やキリスト教に関係するもので、自分たちには関係ない、と言うでしょう。

 せっかく第4から第10までの掟は本当に全ての人間にとって大事な規範なのに、第1から第3までをくっつけてしまったら、結局はユダヤ教やキリスト教という特定の集団のための道徳的規範になってしまうのではないか?十戒が普遍的な規範になるためには、むしろ第1から3までを切り離して、残りの7つでやっていくのがいいということになるでしょうか?

イエス様はそのようには教えませんでした(マルコ122831節等)。イエス様は、神と人間の関係を律する3つの掟について、その趣旨は全身全霊をもって神を愛することに尽きると教えました。それで3つの掟はその趣旨に照らして理解しなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は、隣人を自分を愛するが如く愛することに尽きると教えました。それで7つの掟も、その趣旨に照らして理解しなければならなくなりました。そのことがあるのでルターは、第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではなく、助けを必要とするものを助けなければならないことも含まれると教えたのです。また、第6の掟についても、隣人の夫婦関係がしっかり保たれるように支援してあげることも含まれると教えました。イエス様はさらに、神に対する愛の掟と隣人愛の掟がどう結びつくかも教えています。彼によれば、神に対する愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えました。

さて、十戒はユダヤ教とそこから生まれたキリスト教にだけ関係する規範でしょうか?それとも全ての人間に与えられた規範でしょうか?これからそのことを見ていきますが、結論を先に言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の前と後で十戒の性質が異なるということです。十字架と復活の前は、十戒とそれに付随するその他の掟はユダヤ教社会の存続という目的のためにある、と言ってもよいものでした。ところが、十字架と復活の後は、十戒ははっきりと全ての人間に与えられる規範になったのです。以下にこのことを見ていきます。

2.イエス様という神殿

十戒が、イエス様の十字架と復活の出来事の後に、全ての人間に与えられる規範になったということについて、それを理解する手掛かりとして、本日の福音書の箇所のイエス様の言葉が役立つと思います。それは、イエス様が自分のことを神殿である、と言っているところです。

 本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、モーセを指導者とするイスラエルの民が神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。この祝祭の主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には羊や牛が売買用に用意されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(224節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物を購入したり神殿税を納めるために通貨を両替する必要がありました。

 このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が神の御心に適っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。あわせて、罪のゆえに壊れた神と人間の関係の修復、また罪の赦しを与えることができるのはまさに創造主の神しかいないのに、形式的に儀式をこなせば神は修復してくれたり赦してくれたりして当然というような、傲慢な態度も生まれてきます。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書11117節、エレミア書620節、72123節、アモス書44節、52127節など及びイザヤ2913節も)。

 イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。彼がどうして激怒したかと言うと、本来ならばユダヤ民族をはじめ全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ567節、マルコ1117節)が、金もうけを追求する場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ219節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞εγειρωが使われています。神殿というのは本当ならば、人間が罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、そうして神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまった。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?

 復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死ぬ存在となって神との結びつきを失ってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、また、この世から死んでも、その時は永遠の命を持つ者にして永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげよう、と決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は、不従順と罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子イエス様に負わせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になりました(第一コリント57節、ヘブライ910章)。

 イエス様の犠牲は、それまでの牛や羊などの動物を用いた生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ129節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ92428節)、本当に完璧な生け贄だったのです。

 イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄ということだけにとどまりませんでした。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪された時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が自分の造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を自分の支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の支配下から脱して神との結びつきをもって生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代償が、神のひとり子イエス様が流した血でした。

 そういうわけで、イエス様を救い主と信じ受け入れたキリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを自分のものにした者ということになります。ただ、そうは言っても、罪や神への不従順に陥る危険にはいつも遭遇します。それでは、キリスト信仰者が罪に陥ってしまったらどうなるのか?イエス様の身代わりの償いは台無しになってしまうのか?その人は罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?いいえ、そうではありません。もしその人がすぐ我に返って父なるみ神に、「私の身代わりとなって死んだイエス様に免じて赦して下さい」と願い祈れば、神は、本当にイエス様の身代わりの犠牲に免じて赦して下さるのです。それくらいイエス様の犠牲は完全なものなのです。こうして、その人はまた永遠の命に向かう道に戻ることができ、歩み続けることができます。このように罪に陥ることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いにしっかりとどまれば、神のもとに買い戻された状態はそのままです。神との結びつきは決して失われません。そういうわけで、十字架の死を遂げて復活したイエス様というのは真に、人間の罪の赦しを完全に実現し、神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。

3.      罪よ、お前は私に相応しくないのだ

ここで十戒に戻ります。イエス様は十戒について、とても本質的なことを教えました。彼の有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ52122節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ52730節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。造り主の神は、人間に内面の潔白性を要求しているのです。もし、全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいません。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のようなものなのです。

 神聖な神がこのような完全さを要求するものであれば、それに対して人間はどうするでしょうか?掟をちゃんと守れないので神罰を下されてしまうと恐れて神から逃げるか、または人間の本性を理解できない神の方がどうかしていると反発するか、のいずれかでしょう。しかし、いずれをとっても、神に背を向けて生きることになってしまいます。

 ところが、イエス様という神殿を持ち、その中で生きるキリスト信仰者は、神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。それは、信仰者が十戒を内面的にもしっかり100パーセント守り切る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、神の神聖なひとり子が自分を犠牲にしてまで私たちの罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金のようにして私たちを罪の支配下から買い戻して下さったこと、これらのおかげです。信仰者自身はまだ罪あり汚れありの状態ですが、罪なき汚れなきイエス様を白い衣のように頭から被せられて、それを肌身離さずしっかり掴まっているので、神の御前に立たされても大丈夫なのです。

 ただ、そのように見てもらっている信仰者からすれば、自分の内に残っている罪はなんともバツが悪いものです。神聖な神は罪の汚れを憎み、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、イエス様のおかげで自分は大丈夫でいられるというのですから。しかし、まさにここが大事な点なのです。以前だったら自分は罪があるから神に相応しくないという自覚だったのが、今は、イエス様のおかげで神に相応しいものにかえてもらった、それで、罪の方こそ自分に相応しくないのだ、という自覚に変わりました。その時、十戒が完全に守られている状態が自分にあることに気づきます。これは実に奇妙なことです。自分は守り切れていないのに、神のひとり子イエス様と結びついていれば守り切れる者として見なされる。そうなると、あとはもう自分をその見なされている状態に合わせて行くしかありません。それはどのようにして起こるでしょうか?

まず、十戒に照らして自分には罪があることに気づかされます。その時は、先ほども申しましたように、罪の告白をして罪の赦しを受けます。それで再び神の方に向き直って永遠の命に至る道を歩み始めます。自分には罪が残存しているのにイエス様のおかげで神に受け入れられている、それで罪の方こそ自分に相応しくない、という自覚が戻ります。しかし、また守れないで自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで、罪の告白をし、赦しを受ける。そして、神に受け入れられていることを確認する。こうしたことが、この世を去る時までずっと繰り返されます。ルターが教えているように、キリスト信仰者が完全になるのは、まさにこの世を去って、罪を宿す肉が朽ち果てる時ということになります。この繰り返しが、十戒を守り切れている状態に自分を合わせて行くということです。毎日毎日一生かけて合わせて行きます。イエス様にしっかり繋がっていれば、難しいことはなにもありません。

 そういうわけで十戒は、イエス様の十字架と復活の後は、まさにイエス様と抱き合わせになって、ワンセットになって全ての人間にどうぞと提供されているのです。これを受け取らない手はありません!

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン