2020年8月19日水曜日

神の国に向かって進む者には奇跡は本当のことになる (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年8月2日(聖霊降臨後第九主日)スオミ教会

 

イザヤ書55章1-5節

ローマの信徒への手紙9章1-5節

マタイによる福音書14章13-21節

 

 

説教題 「神の国に向かって進む者には奇跡は本当のことになる


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課の個所は、イエス様の有名な奇跡の業についてです。お腹をすかせた5千人以上の群衆にわずか五切れのパンと二匹の魚でみんなをお腹いっぱいにしたという奇跡です。これと同じ出来事についての記述が今日のマタイ13章の他にマルコ6章、ルカ9章、ヨハネ6章にもあります。他にも大勢の群衆をわずかな食糧で満たした出来事が、マタイ15章に4千人以上を相手にして七切れのパンと少しの魚で行ったことが記されています。これと同じ出来事はマルコ8章にもあります。人数は5千人から若干少なくなり元手のパンも5切れから少し増えますが、それでも想像を超える話には変わりありません。言われる人数も、女子供は除いてということですから、実際は5千人、4千人よりもずっと多かったでしょう。

 

一体この出来事は何なのでしょう?自然の摂理に反しすぎています。目の前にいるのは5千人以上の群衆。手元にあるのは5切れのパンと2匹の魚。5人に分け与えてもお腹いっぱいになんかならないでしょう。これを読んだ人は誰だって、こんなこと起こりっこない、大昔の人のファンタジーだと言うでしょう。ただ、話は聖書という宗教の本に載っていることなので本当かどうかは大事ではない、宗教の教祖というのは不思議な力を持って慈悲深い者であると描くのは古今東西どこにでもある、ここもそれなのだと言って、ありえないと騒ぎ立てることもしない、そういうのが普通の受け止め方ではないでしょうか?

 

 しかしながら、この話が群衆の空腹の満たしで終わらず、残ったパン屑を集めたら籠12個分が一杯になったというのを聞くと、あっけに取られてしまいます。これじゃ、最初の5切れよりも増えてしまったじゃないか?これは一体何なんだ?命と体のために必要なものを消費する。ところが、消費したはずのものは無くならないで、逆に消費すればするほど増えてしまう。ここまでくると、教祖の慈悲深さを超えて、自然の法則を足蹴にして鼻で笑っているような感じさえします。

 

私も含めてキリスト信仰者の多くは、全員ではないかもしれませんが、そういう信じられない出来事が実際に起こったのだと言います。それは、私たちが科学的に無知でイエス・キリストの慈悲深さにすがりたいあまり、現実世界に目をつぶっているということではないと思います。もちろん、このようなことは普通はあり得ないとわかっているので科学的に無知ではありません。ただ、この場合は普通あり得ないことが起こったのだ、と言うだけです。そういう例外を認めることが無知ということになるのであれば無知でもいいです。また、イエス・キリストの慈悲深さにすがりたいあまり、あり得ないことを起きたことにしているのでもないと思います。イエス様が慈悲深いというのはその通りと思いますが、人間が病気や食べ物がないから可哀そうだから助けてあげるという人道主義を超えたことがあると考えています。というのは、もしイエス様のこの世での活動が人道主義で説明できるのなら、30そこそこの年齢で活動を打ち切ってさっさと十字架刑にかけられる道には進んだのはどうしてでしょうか?せっかく超能力に溢れているのだから、もっと長生きして世界各地に赴いて人道支援を続けた方が理に適っていると思います。なぜイエス様はあの時点で打ち切って受難が待ち受けるエルサレムにわざわざ向かって行ったのでしょうか?

 

全てのことは、イエス様の活動の主眼が「神の国」にあったということで説明がつくと思います。そういうわけで本日の説教では、イエス様の教えや業が「神の国」に結びついていることを明らかにしていこうと思います。

 

2.「悔い改めよ、神の国は近づいた」

 

イエス様がこの地上で活動した時の主眼は人々に「神の国」について知らせ、人々の目と心をそれに向けさせることにありました。

 

活動を開始した時、イエス様は「悔い改めよ、神の国は近づいた」と宣べていました。どんな意味でしょうか?「悔い改める」と言うと、悔恨の念を持って一人で暗くねちねち反省しまくっているようなイメージがわきます。何か、日本の職場や学校で反省文を書かされるようなイメージと結びつけられてしまうかもしれません。しかし、ギリシャ語のメタノエオーという動詞の基本的な意味は「考えを改める」です。そして、その動詞の背景にあるヘブライ語のシューブは、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるということです。ねちねちなんかしていられません。神の意思に反する生き方をしてしまった、それは罪なのだ、だからこれからはそれをやめて神の意思に沿うように生きなければ、と言って、エイ、ヤーと方向転換するのです。

 

ただし、ことはそう単純ではないことも事実です。方向転換とは言っても、神の意志に反していたことはどうなるのか?神は、そんなこともういいよ、と気安く言ってくれるのか?神がそんなに手軽で手ごろな方だったら、誰がもう罪を犯さないように生きようなどと思うでしょうか?逆に、もし神が罪を簡単には赦さない方ならば、どうしたらいいのか?何か償いをしなければならないのか?神が、お前の償いは完璧だから赦してやることにする、と言ってくれても、その後の人生でいいことがなければ、そんな神に方向転換したことを後悔するでしょう。逆に、いいことがあって、それで神の方を向き続けることが出来たとしたら、それでは足元はおぼつかないでしょう。

 

実は、イエス様は人間が神に向かう方向転換がおぼつかないものではない、完璧なものにしてくれたのです。そのことを後で見ていきます。悔い改めなさい、方向転換しなさい、と言うのは、これからそれが出来るようにしてあげよう、だから、私のところに来て私の教えることを聞きなさい、私の行うことを見なさい、ということです。

 

3.イエス様と共にあった「神の国」

 

 イエス様は併せて、「神の国は近づいた」と宣べました。これは驚くべきことです。神の国というのは本来は、終末の時、天と地が新しく創造し直されて、今の世が新しい世に生まれ変わった時に現れるものだからです。

 

 「神の国」に終末論が関係することについて少し触れておきましょう。ここ数週間の説教でもお教えしてきたことですが、聖書には終末論の観点があります。今のこの世が終わり新しい天と地が創造され、新しい世が始まるということです。終末論とは言いますが、正確には終わりだけでなく始まりも考えられます。新しい世では「神の国」が唯一現れる国となり、再臨するイエス様が最後の審判を行い、誰が「神の国」に迎え入れられ誰が入れられないかを決めます。その時、死者の復活が起こり、迎え入れられる者たちはこの世で纏っていた朽ち果てる肉の体にかわる神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられます。

 

 「神の国」がどんな国かを考える時、黙示録214節で言われていること、つまり神が迎え入れられた者たちの目から全ての涙を拭われた国であり、死も悲しみも嘆きも労苦もない国であることに着目すべきと先週申し上げました。死も悲しみも嘆きも労苦もないので、安心安逸な天国そのものです。それに加えて、神が拭われる涙はギリシャ語原文で「全ての涙」なので、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結させられ完全なものにされるということです。神の正義が完全と言うのは、人間は他人のことのみならず自分のことさえも知り尽くすことはできません。それなので人間が下す判断はいつも偏って不完全です。人間のことを知り尽くしているのは、人間を造られて一人ひとりの髪の毛の数まで知っておられる創造主の神だけです。その神が下す判断が偏らず完全で、それが隅々まで行き渡っている国が神の国です。

 

イエス様はその「神の国」が近づいたと言ったのですが、それじゃ、もうその時は終末だったのか?しかし、あの時から今日まで天と地は全然変わっていないじゃないか?そういう疑問が起きます。イエス様は何を意味したのか?

 

それは、「神の国」がイエス様と共にあった、というか、イエス様の背後に控えるようにしてあった、ということです。どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業を思い出しましょう。無数の病人の癒し、悪魔の追い出し、自然の猛威の静め、そして今日の個所のように、わずかな食糧で大勢の人たちを満たすことがありました。健康、安心、安全、魂の守り、全て神の国に当たり前のようにあるものです。イエス様の奇跡の業と言うのは、「神の国」がどういう国であるかを人々に垣間見せた、味わわせたという意味を持ちます。もちろん、イエス様が慈悲深い方で困っている人を助けないではいられなかったと言うことも否定はしません。しかし、それならば、もっと大勢の人たちを助けるためにもっと地上にいてもっと多くの国々を回った方がよかったではないかということになります。イエス様は、まず当時の人々に「神の国」で当たり前にあることに与らせることをして、人々の目と心を神の国に向けさせました。後世の人は、それらの証言や記録に触れることで目と心を向けることが出来るようになりました。

 

イエス様は人々の目と心を神の国に向けさせただけに留まりませんでした。人々がそこに迎え入れられる手はずも整えたのです。イエス様の十字架と復活の出来事がその手はずでした。

 

人間に神の意思に反する罪が備わっていることは、世界や自分の周りに起きている痛々しい出来事を見ればわかります。自分自身を振り返ってみてもわかります。また自分は周囲に対して何も迷惑をかけていないと、優等生のつもりでいても、十戒の掟を鏡として自分を見れば、神の意志に沿うものでないことがわかります。人間はそのままの状態では、神の目から見て相応しい者ではないのです。神とイスラエルの民との間の旧い契約に基づけば、人間は神から与えられた掟を守れば、神の目から見て相応しい者になれるということでした。ところが、神が求めているのは外面的な行いだけでなく心の中の清さもそうなので、それは人間には不可能なことが明らかになりました。

 

そこで神が採った策は、誰かに人間の罪を全て償ってもらい、人間の罪を帳消しにした状況を創り出して、人間をその中に入れて人間を神の目に相応しい者に変えていこうというものでした。それでは、誰が人間の罪を償う役割を果たすのか?それが神のひとり子のイエス様だったのです。神聖な神の神聖なひとり子です。これ以上の身代わりはないという犠牲でした。これがイエス様のゴルゴタの丘の十字架の死の出来事の真相だったのです。人間は、この神の策による罪の償いが自分に対しても行われたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪を赦された者として見られるようになり、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むようになります。神の目に相応しくなろうとして自分で何かを成し遂げたのではなく、神のひとり子にそうしてもらったのです。畏れ多いことです。自分がしたことと言えば受け取るだけで、他は何もしなかったのに、天地創造の神が毎日、私の傍にいて祈りや願いを聞いてくれる神になったのです。

 

それからは、神のこの深い恵みに背くような生き方は出来なくなります。 もちろん、キリスト信仰者になっても弱さはあるし、隙をつかれることもあります。しかし、たとえ神の意思に反することがあってどうすればいいのか、ということになっても、一度打ち立てられた十字架の贖いの力は消えません。罪の赦しがそこにあるのだと確認できれば、また前に進んでいくことができます。その時の方向転換は本物です。進んでいく先とは「神の国」です。そして、この世を去った後、復活の日に目覚めさせらる時、神は、このように絶えず十字架に戻りながら前に進んでいたことを覚えていて下さるのです。

 

4.神の国を知らしめる教え

 

 イエス様が奇跡の業を行ったのは「神の国」を垣間見せた、味わわせた、ということであり、それは人々を、当時の人も後世の人も皆、「神の国」に導くためでした。しかも、イエス様は、十字架と復活の業を通して、その導きを具体的なもの、現実のものにして下さったのです。ただ単に超能力を行使していたということではなかったのです。もしそれだったら、人々の目は「神の国」になど向かず、イエス様を教祖として拝むだけでしょう。

 

イエス様は、奇跡の業で私たちの目を「神の国」に向けさせるだけではありませんでした。教えを通しても、神の国がどのような国であるかを知らせました。先々週と先週のたとえの教えは、まさに「神の国」とそこに迎え入れられる者はどういう者かについて教えるものでした。「からし種」と「パン種」のたとえでは、朽ち果てる肉の体を纏った、取るに足らない私たち人間が、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで、最後には神の栄光を映し出す復活の体を纏う者に変わるということが教えられていました。「畑の宝石」と「真珠」のたとえでは、人間は神のひとり子の血を代償として神のもとに買い戻されるという位、神に高価なものと見なされて、神の国が現れる日までずっと守られているということが教えられていました。「良い麦と毒麦」と「魚を捕る網」のたとえでは、終末の時、神の国に迎え入れられる者と入れられない者の選別があるということが言われ、特に、最初迎え入れの候補者だった者も除外される可能性があるということ、だから、まさに今これからイエス様が果たした償いを受け入れて、十字架に戻りながら前に進むことを始めるかどうかにかかっているということが教えられていました。

 

イエス様の「神の国」を教えるたとえには、神の正義について教えるものもあります。マタイ20章にあるブドウ園の所有者と労働者のたとえでは、朝から晩まで一日中働いた者と夕方に来てちょっと働いた者の賃金が同じになることがあります。これは、神の国への迎え入れということについて、子供の時からキリスト信仰者として信仰ゆえにいろいろ苦労があった人も、晩年にイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてそういう苦労がほとんどなかった人も、神の招きに応じたのだから神の目から見て同じくらい相応しいということを意味します。神の国への迎え入れに関しては、神がイエス様を用いて用意したことを受け取るかどうかが本命になります。そこには人間社会の正義の尺度からはみ出すものがあるのです。

 

4.神の国の奇跡と聖餐式

 

以上から、本日の日課の5,000人以上の空腹を満たす奇跡の出来事も、他の奇跡も全て、イエス様を救い主と信じて「神の国」に向かって進む者にとっては起きて当然のものになることがわかって頂けるのではないかと思います。「神の国」に向かって進んでいない人にとっては、あり得ない話に留まるでしょう。

 

本説教の最後の部分です。本日の旧約の日課はイザヤ書55章の個所でした。一見すると、お金がなくても神が食べ物と飲み物を与えてくれるような内容です。4節と5節を見ると、諸国民に対する証人、諸国民の指導者、統治者とあるので、イエス様のことを指しているとわかります。そうすると、この個所は5,000人の奇跡を暗に意味していると考えることが出来ます。そこで、5,000人の奇跡が単なる空腹の満たしの超能力ではなく、「神の国」を知らせ迎え入れに導く奇跡であれば、このイザヤ書の個所も同じです。

 

1節で「穀物を求めて、食べよ、来て、銀を払うことなく穀物を求め」の「求め」はヘブライ語原文では「買う」です。お金がないのに「買う」というのは変なので「求め」に訳したのではないかと思われますが、要は「タダで手に入れる」ことです。私たちは罪の償いと神の国への迎え入れを神からタダで頂きました。2節で「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」というのは、せっかく神が無償で与えてくれる救いがあるのに、人間は違うものに救いがあると思って、それに自分の持っているものや労力を費やそうとしている。そこで、神は、私に聞けと命じます。「聞け」が何度も繰り返されます。

 

2節の中ほどに「わたしに聞き従えば」とありますが、ここはヘブライ語原文は命令形です。それもとても強調された言い方の命令です。それで、「しっかり聞くんだ!」としておきます。実はここのところをヘブライ語で読んでいくと、シムアー・シャーモーアと読みますが、いきなりイザヤ書69節に引き込まれます。というのは、そこにも同じ言い方があるからです。ただし、使われ方は180度正反対です。69節は、神の意思に反する生き方をするイスラエルの民に神が罰を下すところです。「しっかり聞け!しかし、お前たちは理解するな」と命じるのです。神との旧い契約が破綻したことを示しています。

 

それとは対照的に552節の「しっかり聞け!」は、「そうすればお前たちは良い物を食することが出来、魂に命を吹き込むことが出来る」と続きます。続く3節では新しい契約について言われます。新しい契約とは何か?それは、律法を守ることで神の目に相応しくなろうとするのではなく、神のひとり子が果たしてくれた罪の償いを受け入れることで神の目に相応しくなることです。神の目に相応しいものにされた以上は、これからは神の意思に沿うようにと自分を方向づけていきます。そこでは神に聞くことが重要になります。

 

神に聞くこととは、聖書を繙くこと、説教で御言葉の説きあかしを聞くことです。聖餐式のパンと葡萄酒は、神の国に向かって進んでいく時に起きてくる霊的な空腹を満たすものです。神が無償で与えて下さる糧です。消費すればするほど満たされ、消費してもなくなることもありません。まさに聖餐式は、全てが満たされている神の国を先取りするものです。聖餐式で私たちは神の国を味わい垣間見ることになるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2020年8月11日火曜日

キリスト信仰者はため息をつきながら希望に燃える (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年7月19日(聖霊降臨後第七主日)スオミ教会

 

イザヤ書44章6-8節

ローマの信徒への手紙8章12-25節

マタイによる福音書13章24-30、36-43節

 

説教題 「キリスト信仰者はため息をつきながら希望に燃える」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.「良い種と毒麦」のたとえ

 

本日の福音書の日課は先週に続いてイエス様のたとえの教えです。良い種と毒麦のたとえです。先週は「種まき人」のたとえでした。マタイのバージョンでは種は福音を聞いた人を意味しました。迫害や誘惑に遭っても信仰を保ち続け、神の意志に沿う生き方をすることで善を生み出す、そのことが良い土地に撒かれて実を結ぶということにたとえられているとお教えしました。ルカのバージョンでは種は神の御言葉であり、マルコのバージョンでは神の御言葉と人間の双方を意味するので、教えの内容も視点が変わってくるということも申しました。

 

本日のたとえも種は人間を指していますが、実る実は人間のままなので、「種まき人」で実が善であるのとは違います。加えて、種は二種類あります。つまり、二つの異なる人間のタイプがあるということです。一つは良い種でこれは麦に育つ。もう一つは毒麦になる種です。毒麦というのは、ちょっとネット情報を見ましたが、イネ科の植物で、写真を見ると、なるほど穂が出たばかりだと麦と見分けがつきにくいようです。麦がちゃんと黄金色に実ったら区別できるようです。毒麦という名前ですが、それ自体に毒性はないのだが、何か悪い菌が付きやすく、家畜が食べると中毒を起こすことからその名が付いたとのことでした。

 

 そこで、このたとえをもう一度見てみましょう。ある人が良い種を畑に撒いた。知らない時に敵が来て毒麦を撒いて行ってしまった。麦が育って穂が出始めた時、毒麦も一緒に育っていた。僕たちが主人に毒麦を抜きましょうかと聞くと、主人は今の段階では区別がはっきりしないから麦も一緒に抜いてしまうおそれがある、刈り入れ時まで待って区別がはっきりつくようになったら、まず毒麦を抜いて集めて燃やし、麦は刈り入れて倉に納めると言います。

 

 イエス様はこのたとえを群衆に聞かせた後で弟子たちに限ってその説明をします。それを見ますと、実にこのたとえは聖書の終末論の観点が結晶したものと言えます。まず、良い種を撒く者は「人の子」と言いますが、それはイエス様を意味します。ただし、イエス様はイエス様でも「人の子」のイエス様は、十字架と復活の出来事の前にこの世で活動されたイエス様というよりは、終末論的な存在です。どうしてかと言うと、ダニエル書7章に預言されている「人の子」とは、まさにこの世の終わりに現れる救世主だからです。イエス様は自分がそれであると言うのです。そこで終末論的なイエス様とは何かと言うと、復活された後、天に上げられて今は天の神の右に座しているが、将来この世に再臨して最後の審判を司ることになる救世主イエス・キリストということです。この方が再臨の日までずっとこの世で良い種を撒いているのです。種が撒かれる畑とは世界そのものと言われます。そして良い種とは御国の子、つまり将来、神の国に迎え入れられる者たちです。正確に言えば、迎え入れられるのは種が育った実ですので、種は候補者ということになります。つまり、天上のイエス様は、地上で行われる福音伝道や教会生活を通して将来の神の国に迎え入れられる人たちを増やし育てているのです。

 

 そこで、毒麦というのは、良い種と正反対のもので悪い者の子と言われます。正反対なので将来神の国に迎え入れられない者たちです。毒麦を撒いた敵は悪魔です。悪魔とは、創世記の初めに最初の人間に神の意思に反することをするように仕向けて神と人間の結びつきを失わせた張本人です。悪魔の目的は人間が造り主である神との結びつきを失ったままでこの世を生き、この世を去った後も永遠に神のもとに戻れなくすることにあります。それで、毒麦を撒いて、正しい麦と入り混じるようにして、正しい麦の成長を邪魔したり、また慌てた主人が急いで毒麦を刈り取ろうと正しい麦も一緒に刈り取ってしまい一緒に燃やされたら、悪魔にとって大成功なのです。しかし、そうはなりませんでした。主人は刈り入れの時を待つことにしました。正しい麦も毒麦も育つだけ育って、しっかり見分けがつくようになった時に、毒麦は毒麦で正しい麦は正しい麦で刈り取って、一方は燃やし一方は倉に納めることにしました。

 

 イエス様は、刈り入れの時は世の終わりを意味すると言います。つまり、今のこの世が終わって新しい天と地の創造が起こって、そのもとで神の国が唯一の国として現れる時です。世の終わりとは言いつつも、実は新しい世の始まりも意味します。聖書にはこのような今の世の終わりと新しい世の到来という観点があります。イエス様の再臨と最後の審判は、この二つの世の過渡期に起こることです。最後の審判の時にはまた、眠りについている者も起こされて、誰が新しい世の神の国に迎え入れられるかが明らかにされます。神の国に迎え入れられた者たちは倉に納められた麦ということになります。彼らは太陽のように輝き、毒麦は燃えるさかる炉の中に投げ込まれると言われます。これは明らかにダニエル書12章の預言を土台にしています。

 

以上のように、良い種と毒麦のたとえは聖書の終末論を凝縮したような教えです。そこで問題になるのが、それでは、良い種から育って倉に納められる麦、つまり神の国に迎え入れられる者たちとは具体的に誰のことを指すのか、ということです。そして、火の中に投げ込まれてしまう毒麦とは誰のことか?「人の子」イエス・キリストが地上の福音伝道と教会生活を通して、神の国に迎え入れられる人を増やし育てようとしているので、良い種や麦の実はキリスト教徒ということになります。そうすると、火に投げ込まれるのはそれ以外の者たちということになります。こういうのは他の宗教の人たちや無宗教の人たちは顔をしかめるでしょう。キリスト教会の中でも現代の宗教対話の思潮にそぐわないと思う人がいるでしょう。そのような人は、このたとえを現代の思潮にあうように解釈するかもしれません。しかし私としては、イエス様やイエス様のことを伝えた使徒たちが思いもよらないことを、イエス様が言ったことにしてしまうのはイエス様に気の毒というか申し訳ない気持ちになるのでしません。時代の要請はそれとして、それには耳栓をして聖書の御言葉の中に潜り込んでいくことをします。そしてまた水面に浮上した時に世の中や時代はどう見えて、御言葉はどんなインパクトを与えるかを考えたく思います。もちろん、御言葉の中に潜り込むなどというのは、いくらヘブライ語やギリシャ語やアラム語が出来てもそんなに簡単なことではありません。それはよくわかっています。しかし、このようなスタンスで私は聖書の説き明かしをしているということを申し上げておきたく思います。

 

話が脇道に逸れましたが、このたとえがキリスト教徒とそうでない人たちの二分法で言っているということに関して、一つ注意しなければならないことがあります。それは41節でイエス様が、「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものをすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」と言っているところです。つまづきとなるものとは、キリスト信仰を持つ人に対して持てなくなるようにしてやろうと躓かせることです。誘惑や迫害があります。不法とは、神の意志に反すること全てです。具体的には十戒の掟に反することです。天地創造の神を唯一の神、自分の造り主としてお祈りしないこと、神の名を汚すこと、安息日を無視すること、両親を敬わないこと、人を傷つけること、異性をふしだらな目で見たり不倫をすること、他人のものを奪うこと、偽証したり真実を曲げること、他人を妬んだり他人や他人のものに執着心を抱いてしまうこと等々です。

 

ここのイエス様の言葉をよく見ると、「自分の国から集めさせ」ると言います。つまり、神の国に迎え入れられる予定の者だったが、神の意思に反する不法を行う者だったので毒麦と一緒に燃やされるということです。つまり、キリスト教徒でも、自動的に神の国に迎え入れられるということではないのです。キリスト教徒でも、つまづきとなるものをことごとく踏みつぶし不法を行わない者が迎え入れられるのです。つまり、自分のキリスト信仰を保ち、他人のキリスト信仰も支え、神の意志に沿う生き方をする者です。そういうわけで、今の時点で自分はキリスト教徒だと言っていても、将来倉に納められる麦のように神の御国に迎え入れられるという保証はない。逆に、今の時点でキリスト信仰者でないからと言って、それでこれからも火に投げ込まれる毒麦のままだと言うことも出来ません。イエス様のことを救い主と信じるきっかけはいつ転がって来るかわからないからです。要は、最後の審判の時に「人の子」イエス様にどう判断されるかということです。それなので、問われているのは、これまでの時点でキリスト教徒だったかどうかではなく、これからどうするのか、例えばこの説教を聞いた後でどうするのか、ということです。

 

誰が倉に納められて、誰が炉に投げ込まれるかという問題については、ここではこれ以上のことはもう言えないので、ここでやめておきます。ここから先は、キリスト信仰者は本当につまづきとなるものをことごとく踏みつぶして神の意志に沿うような生き方が出来るのかどうかということを見ていこうと思います。これを考える際に、本日の使徒書の日課ローマ8章がよい手引きになります。

 

2.キリスト信仰者のため息と希望

 

3週間前から使徒書の日課はローマ6章から章を追って見ています。6章で使徒パウロは、洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられる、それで罪に対して死に神に対して生きるようになると説きます。罪に対して死ぬと、罪が支配しようとしても出来ない位こっちは死んでしまっている。だから、罪に服従することはない。代わりに神に服従するようになった。しかしながら、自分はまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具になっている。そのためパウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にせよと説きます。ところが、信仰者にとって一つ足枷になるのは、律法の掟が罪を罪として白日の下に晒してさながら鏡のように自分の前に現れてくることです。キリスト信仰者は律法の掟を通して何が神の意志かわかっているのだが、その通りに行えない、語れない、思えないということばかりの自分にやはり律法の掟を通して気づかされてしまう。そのことをパウロは725節で自分を例にして、信仰者というのは意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。

 

しかしながら、パウロは81節で断言します。洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはない、と。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。もちろん肉の面でも従えれば言うことなしですが、それは復活の日に神の栄光に輝く復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉に打ち込まれているのです。まさに肉に対して聖霊が楔のように打ち込まれています。それでパウロは11節で次のように言います。キリスト信仰者には洗礼の時に注がれた聖霊が宿っており、神はその聖霊を通して信仰者の滅びの体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのだ、と。キリスト信仰者にとってこの約束は絶対である、と先週の説教で申し上げた次第です。

 

今日はその続きの12節からです。今は肉の体を纏ってはいるが、そこに聖霊が楔のように打ち込まれました。それで肉の思いに相対立する神の意思を知っています。罪の命じることに真っ向から対立する聖霊の命じることに耳を傾けるようになりました。復活の日に肉も罪も消滅して復活の体を纏うことになるので、今は何か大きな過渡期を進んでいるようなものです。この過渡期では、先にも申し上げたように、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にしなければなりません。そこでパウロは13節で言います。聖霊によって体から生じてくる業を死なせるならば、あなたがたは永遠の命に入れます、と。新共同訳では「体の仕業を絶つならば」ですが、ギリシャ語の動詞タナトオ―は「殺す」「死なせる」とかなりどぎついです。しかも、「絶つ」と言ったら、エイ!ヤー!と罪を一気に断ち切ってしまうみたいですが、そんなことは無理です。そんなこと出来たら苦労はいりません。「ローマの信徒への手紙」の6章とと7章は要らなくなります。ギリシャ語の動詞の用法は死なせることが常態、日々繰り返し行われるという意味です(タナトゥーテは現在形の命令 アオリストの命令タナトーサテだったら「絶つ」の訳でいいでしょう)。罪との戦いは一気にケリがつくものではなく不断に続くものなのです。

 

体から生じてくる業を死なせるというのは具体的にはどういうことか?ルターが次のように教えています。まず、神の意思に反することをしてしまった、言ってしまった、思ってしまった、それは罪であると神の御前で認め、それを憎むこと。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって罪の赦しをゴルゴタの十字架にかけられた主に見出すこと。そこで神の手から罪の赦しを受け取ること。こうすることで、罪が私たちを支配下に置こうとするのを打ち破ることが出来るとルターは教えます。これが、体から生じる業を日々死なせていくことです。

 

この戦いは一人孤独に暗中模索で行うものではありません。パウロは、この戦いの真っただ中で聖霊が私たちキリスト信仰者を導いてくれていると言います。罪と戦っていること自体が聖霊に導かれていることの表れと言えます。パウロはこのように罪と戦って聖霊に導かれる者は「神の子」であると言います。14節からあとはこの「神の子」のテーマが教えを深めていきます。聖霊がキリスト信仰者を神の子にしていることは、信仰者が祈る時に神のことを「アッバ!」と呼びかけることから明白だと言います。「アッバ」というのは、アラム語のアッバーという父親を呼び掛ける言葉です。お父さん、父ちゃん、パパです。罪と戦って聖霊に導かれる「神の子」は神に祈る時、神を父親呼ばわりするのは当然なのです。

 

16節を見ると、聖霊と私たちの霊が一緒になって私たちのことを神の子であると証言していると言います。「私たちの霊」というのは何か?人間は神に造られる時、体と心という肉の部分に対して神から息を吹きかけられるようにして霊を吹き込まれて生きる者になります。こうした人間誰しもが持つ霊に加えて、洗礼を受けてキリスト信仰者になると聖霊が注がれます。それでキリスト信仰者には聖霊と各自の霊があって、それらが一緒になってキリスト信仰者のことを神の子と言うのです。

 

キリスト信仰者が神の子ならば、やはり神の子であるイエス様と兄弟ということになります。そうなると神の国もイエス様と一緒に相続することになります。このようにイエス様と同一の扱いを受ける者になると、今度はイエス様が苦しみを受けたことも一緒のものになると言います。イエス様と同一扱いでせっかくいい気になれたのに、苦しみも一緒だなどとは冷や水を浴びせらる感じがします。しかし、パウロはすかさず、イエス様の苦しみに与るのは、実はイエス様が受けた復活の栄光に与るためだと言います。さらにたたみかけるように、復活の栄光というのはこの世での苦しみなど色あせたものにしてしまうくらいのとてつもない価値があると言います(18節)。

 

19節からあとは話のスケールが急に壮大になります。神に創造されたこの世の被造物全てが、今この世で苦しむ神の子の復活の日の栄光を待っているというのです。復活の栄光が現れるのは、天と地が新しく創造し直される時ですので、その時は今ある被造物は全て消え去ってしまいます。その日を被造物が待っていると言うのです。一体どういうことでしょうか?そもそも今ある被造物は朽ち果てる運命に定められていると言います。それを定めたのは神だと言います。しかし、神がそれを定めたのは希望と抱き合わせだったと言います。どんな希望かと言うと、被造物が滅びという奴隷状態から解放されて、神の子たちが復活の栄光に変えられる解放に合流できるという希望です。神はこのような希望と抱き合わせで被造物を朽ち果てる運命に置いたのでした。

 

それなので、パウロはこの世の被造物は今、キリスト信仰者と一緒にため息をつき産みの苦しみにうめいていると言います。新共同訳では「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」ですが、ギリシャ語原文では後者は「共に産みの苦しみを味わう」(シュノーディネイ)で同じですが、前者は「共にため息をつき」(シュステナツェイ)です。フィンランド語訳の聖書もその通りに「ため息をつき、産みの苦しみを味わう」と訳しています。

 

ところが、23節からあとを見ると、希望ということが神の子に関わることとして述べられていきます。そのため希望をもって生きるのは神の子たちの方で、被造物の方は希望を与えられているのにそれを持っていないようなのです。パウロは、神の子が現れるのは肉の体が復活の体に変えられる時で、今はそれをため息をつきながら待っている状態だと言います。また「ため息をつく」という言葉が出てきました(ステナツォメン)。ため息をつくというのは、キリスト信仰者は復活の栄光に変えられる日までは、神の意志は分かっていても肉の思いに遮られる現実にため息をつく日々なのです。復活の日に必ず栄光に変えられると知っていて、その希望は持ってはいるが、希望が叶えられる日までまだ待たなければならないので産みの苦しみにうめいているのです。先ほど見た、アッバ、お父さん、と叫ぶ神の子はまだこの世の肉の体を纏っている時のことです。23節で言う神の子は肉の体が復活の体に変えられた正真正銘の神の子になった時のことです。しかし、それはまだ起こっておらず、希望の中のことです。ここでパウロは重要なことを言います。24節です。キリスト信仰者は復活の体をまだ目で見ていない状態、それを希望している状態で救われたのだ、と。どうしてそんなことが可能でしょうか?

 

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、肉の体を纏いながらも聖霊が楔のように打ち付けられて、神の意志に沿うように生きようとします。肉の思いに反抗しようとします。人生の中でこれまでなかった大きな決定的な変化です。あとは復活の日まで聖霊に導かれて行きます。その日、復活の体を目で見ることになります。そうなったらもう希望することはありません。希望したことを目にしたからです。しかし、その日までは希望して生きていきます。それで今は復活の体を目で見ないで希望で感触を得ているようなものです。「希望している状態で救われた」というのは、復活の体の希望を持ったことが肉の体に挑戦状を叩きつけたことになり、神の側に立ったことを宣言したことであると言えます。この希望を持って生きると沢山のため息をつくことになるでしょう。しかし、この希望を持っている限り、つくため息はいつも次から次へと過ぎ去っていき、私たちは前に進めるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2020年8月3日月曜日

聖書の理解の仕方 (吉村博明)

 

 

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年7月12日(聖霊降臨後第六主日)スオミ教会

 

イザヤ書55章10-13節

ローマの信徒への手紙8章1-11節

マタイによる福音書13章1-1、18-23節

 

 

説教題 「聖書の理解の仕方」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の個所はイエス様の「種まき人」のたとえの教えです。イエス様のたとえの教えの中で有名なものの一つです。同じたとえは、本日のマタイ13章の他にマルコ4章、ルカ8章にも記載されています。3つの記載にはみなイエス様のたとえの説明もついています。大体次のような内容です。神の御言葉を種のように撒くと4つの異なる地面に落ちた。まず、道端に落ちた種はすぐ鳥が来て食べて行ってしまった。これは、悪魔が御言葉を取り去ってしまうことを意味する。次は岩の上に落ちた種で、種は芽を出すが、太陽に焼かれて干からびてしまう。これは、御言葉を聞いて喜んで受け入れても、迫害とか信仰が原因で困難に陥ったら躓いて信仰を捨ててしまうことを意味する。その次は茨の茂みの中に落ちた種で、芽を出し育っていくが、勢いのある茨の方が覆いかぶさってしまい、実を結ぶことはできなかった。そして最後は良い土地に落ちた種で、これは沢山の実を結ぶ。これは、御言葉を聞いて「悟る」人だと言う。この「悟る」について後で見ていきます。

 

「種まき人」のたとえは、キリスト信仰者が自分はどのタイプになるのかと自問して反省する材料に用いられます。その意味ではこのたとえの教えはそう難しくはありません。しかしながら実は、これは一筋縄でいかない、とても底が深い教えなのです。ニコラス・トーマス・ライトというイギリスの有名な聖書学者が1996年に出した研究書の中で言っているのですが、このたとえの本当の意味について研究者の間で統一した見解がないというのです(後注1)。信じられないことですが、それを示すこととして聖書のいろんな解説書を見ると、このたとえに付されるタイトルがバラバラであることに気づきます。「種まき人」が多いですが、「撒かれた種の運命」とか「4つの土壌」とか、解説者がこれがたとえの主眼だと考えたものがタイトルになります。果たしてこのたとえの主人公は種を撒く人なのか、種なのか、土壌なのか?私事で恐縮ですが、2010年に私がまとめた博士論文の中でこのたとえについても調べる必要があったので調べました。その当時でも決定的な解釈はまだ出ていなかったと思います。それから10年経ちました。その間、学会の動向をフォローしませんでしたが、このたとえの本当の意味はこれだ!と言って世界中の学会もそれに間違いないと太鼓判を押すような解釈は果たして出たでしょうか?

 

このたとえの難しさを示すものとして、撒かれる種が何を意味するのかはっきりしないことがあります。マルコに記載されたイエス様の説明を見ると、撒かれるものは神の御言葉であると冒頭ではっきり言います(マルコ414節)。ところが、イエス様の説明をよく見ると、撒かれるのは人間であると何度も言われます。撒かれる種とは、果たして神の御言葉なのか人間なのか?人間が撒かれるとはどういうことなのか?(人間が撒かれるものになっているのは、日本語や英語その他の現代語の聖書訳でも確認できますが、原文のギリシャ語はもっとはっきりしています。この説教のテキストの後ろにギリシャ語がわからない人でも一目見てわかるような注を載せますので、興味ある方はホームページに掲載されるテキストをご覧下さい。後注2

 

他方、ルカを見ると、「種とは神の御言葉である」と冒頭で言って(ルカ811節)、あとは徹頭徹尾、種イコール御言葉で通していきます。マルコのような二重の意味はありません。ところが、本日のマタイの個所では、ルカやマルコみたいに撒かれるものは御言葉であると言わず、人間が撒かれるものになっています。一度だけ、心の中に御言葉が撒かれると言いますが(1318節)、あとは人間が撒かれるものとして何度も出てきます。

 

さあ、大変なことになりました。マルコは撒かれるものは御言葉と人間であると言い、ルカは御言葉だと言い、マタイは人間だと言うのです。このように福音書というのは、イエス様の教えや業について同じ出来事を扱っても記者の観点で強調点や焦点の当て方が異なってくることがしょっちゅうです。それなので福音書を読む時は、全ての観点を網羅すると全体像が得られるんだという気持ちで読むことが大事です。

 

本説教では、マタイ版の「種まき人」とマタイの観点を見ていきます。人間が種のように撒かれて4つの違いが出てくるという時、何が実を結ぶ、結ばないの決め手になるのか、そして実を結ぶとはどういうことなのかを明らかにしようと思います。その際、本日の旧約の日課イザヤ書55章と使徒書の日課ローマ8章も手掛かりになると思いますので、それもあわせて見ていきます。

 

2.実を結ぶ、結ばないの決め手は御言葉を「理解する」こと

 

 「種まき人」のたとえについてイエス様が弟子たちに説明したことを見てみます。マタイ131823節です。先ほど述べましたように19節に一度だけ「心の中に撒かれたものを奪い取る」と言って、撒かれたものが御言葉であると言っていますが、そこだけです。あとは、「道端に撒かれたものとは、こういう人である」、「岩に撒かれたものとは(…..)すぐにつまずいてしまう人である」、「茨の中に撒かれたものとは(…..)実らない人である」、「良い土地に撒かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」であると言います。

 

ここで「悟る」という言葉についてひと言。ギリシャ語の動詞συνιημιの意味は辞書では「バラバラなものを一つにまとめる」が基本的な意味で、そこから派生して「理解する」、「把握する」という意味で用いられます。「悟る」だと何か鋭い洞察力や直観で「見抜く」ような感じがあります。また、観念してあきらめるような時に「運命を悟った」などという言い方をします。それから仏教用語で「悟りを開く」というのがあります。それは何か心に迷いがなくなった状態で、それはキリスト信仰の平安と違います。キリスト信仰で言う平安とは、神と人間の間に平和な関係が得られていることが土台にあります。神と人間の間の平和な関係は、神のひとり子イエス様が人間の罪を全部ゴルゴタの丘の十字架で人間に代わって神に対して償った、それで人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその償いを自分のものにすることが出来る、それで神から罪を赦された者として見てもらえるようになった、ということに基づいています。イエス様の償いの業と彼を救い主と信じる信仰で、罪による神との敵対関係がなくなり、人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになりました。人間は神にとことんより頼む者になり、神にあらゆる事を打ち明けて祈り願い求め、神はそれを全部聞き遂げて、自分の良かれと思う時と仕方で答え導いて下さるという関係になったのです。このようにキリスト信仰では、ゴルゴタの十字架という歴史上の出来事のゆえに、神に対して強い深い信頼を寄せていて、その信頼と表裏一体のものとして平安があります。人間が何か修行や勤行をして何かの境地に達して心に迷いがなくなったというのとは違います。

 

そういうわけで、たとえの説明の中にある「悟る」も、本説教では「理解する」にします。他の国の聖書訳を見ても、英語NIVunderstandで「理解する」、ドイツ語のルター訳も共同訳もverstehen、スウェーデン語はförstå、フィンランド語もymmärtääとみんな「理解する」です。なぜ、日本語訳は「理解する」ではダメだったのでしょうか?宗教的なニュアンスを持たせるために「悟る」にしたのでしょうか?もちろん、「理解する」と言うと、何か頭で理解するという頭でっかちな感じがして、ここで言おうとしていることを言い表せていないのではという心配もあります。ただ、理解は理解でもどんな理解が問題になっているのかがわかればいいのです。少しややこしくなってきましたが、どんな理解の仕方が問題になっているのかをわかるようにしましょう。

 

道端に撒かれた人は御言葉を聞いたが理解しなかった、それで悪魔に御言葉を心から奪い取られてしまった人でした。岩の上に撒かれた人は、御言葉を聞いてすぐ喜んで受け入れたが根をおろしていなかったので迫害や困難が起きると躓いてしまった。茨の中に撒かれた人は御言葉を聞いたが、思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいでしまった。そして、良い土地に撒かれた人は御言葉を聞いて「理解した」人で実を結ぶに至った、と言います。これを見ると、全てのケースで御言葉を聞いているのがわかります。ある場合は喜んで受け入れたとさえ言っています。ところが「理解する」ことがなかったために、みんな途中でダメになってしまった。御言葉を聞いて喜んで受け入れるだけではだめなのです。「理解する」ことがなければならないのです。逆に言うとこの「理解する」ことがあれば、悪魔が来ても奪い取られない、迫害や苦難が起きても躓かない、思い煩いや富の誘惑に覆いふさがれないで実を実らせることができるのです。

 

そうすると、御言葉を聞いて「理解した」という良い土地に撒かれた人は、御言葉を奪い取る者から守ることができ、迫害にも屈せず、思い煩いや富の誘惑にも覆いふさがれずに実を実らせるところまで到達した人になります。良い土地に撒かれたと聞くと、何も問題なく苦労も悩みもなくすくすく育った印象を受けますが、そうではありません。奪い取る者から御言葉を守り、迫害にも屈せず、思い煩いや富の誘惑にも覆いふさがれずに実を実らせることが出来たということです。そういうことをくぐり抜けて実を実らせるに至った、そういう強さを持っていたということです。そのような強さを持てたのは御言葉を「理解する」ことがあったからです。そういうわけで、この「理解する」というのは、頭で理解するというよりは、それがあるおかげで悪魔から御言葉を奪い取られないですむ、迫害や困難に遭遇しても躓かないですむ、思い煩いや富の誘惑に覆いかぶさられないで実を結ぶところまでいける、そういう力を意味します。御言葉を頭で理解することも大事ですが、ここで言う理解とはそういう力を生み出す理解です。

 

ところで、ルカ版のたとえでは、撒かれる種はあくまで神の御言葉で、人間は土壌です。実を結ぶのは神の御言葉です。そうすると、たとえをルカ版で読んだり聞いたりした人は自分はどのタイプの土壌だろうか、道端だろうか、岩だろうか、茨の茂みだろうか、良い土地だろうかと自問することになります。マタイ版のたとえを読んだり聞いたりした人は、自分は実を実らせるに至るような理解をしているだろうかと自問することになります。

 

それでは、いろんな妨害や障害を乗り越えて実を結ぶに至る力をもたらす理解とはどんな理解なのか、それを本日の旧約の日課イザヤ書55章の個所を手掛かりにして見ていきましょう。

 

3.御言葉を「理解して」「実を結ぶ」ということ

 

本日のイザヤ書の個所で神が言われたことはこうでした。神の口から発せられる言葉は一度発せられたら、空しく神のもとに戻らない。それは、雨や雪がひとたび天から降れば天に戻らないで大地を潤し、芽を出させ生い茂らせ、種まく人に種を与え、食べる人に糧を与えるのと同じである。神の言葉が一度発せられたら、神の望むことを成し遂げ、言葉が発せられた目的を成功裏に果たす。それくらい神の言われることは必ず結果を生み出す、実を結ぶのだと言います。それでは、生み出される結果、結ぶ実とは何を意味するでしょうか?

 

 1213節を見ると「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く」とあります。実はイザヤ書の40章から55章までというのは、イスラエルの民が捕囚の地バビロンから解放されて祖国に帰還できるという預言が多く宣べられます。その帰還は実際に紀元前538年に実現します。それで12節と13節もバビロンからの帰還を意味すると考えられて、神の言葉はむなしく発せられないと言うのは、預言は実現するのだということを言っていると考えられます。

 

そうすると、それは過去の歴史的な出来事について言っているだけということになります。しかしながら、神の言葉は空しく発せられないというのは歴史を超えて今を生きる私たちにもあてはまる真理であることに気づかなければいけません。神は、自分は将来とてつもない大きな事を起こすし、それを起こす力もあるということを、歴史の中で大きな出来事を起こすことで前もって示したのです。どういうことかと言うと、大帝国に完膚なきまで滅ぼされて異国に連行された小さな民族が祖国に帰還できて復興を遂げられるという、普通では起こり得ないことを神は起こしたのです。これを前もって預言者に預言させ、それを紀元前6世紀終わりに実現させたのです。後世の者たちよ、こんなのは序の口なのだ、私はもっと大きなことを成し遂げる計画とそれを実現する力を持っているのだ、私が預言者たちに言わせたことの主眼はこれなのだ、そのことを忘れるな、ということです。

 

それでは、神は後世にどんなことを実現して、それがどう現代を生きる私たちに関わっているのでしょうか?神の発する言葉は雨雪が大地に実りをもたらすのと同じように私たち人間にも恵みを与えるというのは、何だかありがたい言葉に聞こえます。喜んで飛びつきたくなります。しかし、それで迫害や思い煩いや富の誘惑が来ても、その聖句は本当だと言って手放さないでいられる理解が生まれるでしょうか?耳に聞こえのよい言葉は自分に都合の良い解釈になって、都合悪くなったら捨ててしまうことにならないでしょうか?

 

実はイザヤ書551013節は、そこだけ見ても理解できません。神の御言葉は空しく戻らず、必ず当初の目的を果たすということの本当の意味を理解できるためには、6節から見なければなりません。本日の個所は1013節で区切られていますが、本当に理解しようとすれば6節~13節をひとまとまりで見る必要があります。

 

6節と7節で預言者は、主を見出せる時に主に立ち返れ、主が近くにおられる時に主を呼び求めよ、神に逆らう者はその道を捨て、悪を行う者はその考えを捨てよ、と呼びかけます。この呼びかけは、バビロン捕囚という神罰を受けたユダヤ民族だけでなく、時代を超えた全ての人間に対して向けられています。神に立ち返るならば、神は罪を赦して下さる。しかも、途切れることなく絶えず赦して下さると預言者は言います。なぜ、罪を赦すことが絶えずあるのかと言うと、ルターも言っていますが、人間は誰もこの世での人生の間に罪の赦しが必要なくなる段階に達することが出来ないからです。

 

8節から後は、神が言われることを預言者が取り次いで述べていきます。立ち返れば神は必ず罪を赦して下さることがどれだけ本当のことであるかを神自身が述べていきます。神の考えは人間の考えと同じではない。神の道は人間の道と同じではない。天が地を高く超えているように神の道は人間の道を高く超えている。神の考えは人間の考えを高く超えている。このように神の考えは人間離れしているということを8節と9節で言って、その後に本日の個所が来ます。天から降る雨や雪が大地を潤し実りをもたらすように、天の神から発せられる御言葉は目的を果たす。このように本日の個所は、罪の赦しが確実に与えられるということが主眼なのです。

 

 それでは、神が発した御言葉が目的を果たして罪の赦しが与えられたというのは一体どういうことか?それはまさしくイエス様が果たした人間の罪の償いでした。神が遣わす僕が将来人間の罪を償う犠牲になることがイザヤ書53章で預言されていました。神が発した預言の言葉です。それが歴史上、本当に実現し神の目的が果たされたのでした。またヨハネ福音書の冒頭を見るとイエス様のことを神の言葉が肉となった方であると言われています。まさに神の御言葉そのものであるイエス様が神の目的を十字架と復活の業で果たされたのでした。ひとり子を犠牲に供して人間と神との間に平和を打ち立てるというのは、まことに人間離れした、まさに全知全能の神ならではの仕方でした。まさに神の考え、神の道は人間の考え、道を高く超えているということでした。

 

ここで、神の御言葉が実を実らせるというのはどういうことか見てみます。キリスト信仰者は神との結びつきを持ってこの世を生きます。そしてイエス様のおかげで父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられる日が来るという希望を持って生きます。まさにその時、信仰者の生き方はどんな生き方になるかということを見れば、実とはどんな実かわかります。

 

先々週から使徒書の日課はローマでした。使徒パウロは6章で、洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられる、それで罪に対して死に神に対して生きるようになると説いていました。罪に対して死ぬと、罪が支配しようとしても出来ない位こっちは死んでしまっている。だから、罪に服従することはない。代わりに神に服従するようになった。しかしながら、自分はまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具である。そのためパウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具とせよと説きます。ところが、信仰者にとって一つ辛いことは、律法の掟が罪を罪として包み隠さず鏡のように自分の前に現れてくることです。キリスト信仰者は何が神の意志かわかっているのだが、その通りに行えない、語れない、思えないということばかりの自分に気づかされてしまう。そのことをパウロは725節で、自分を例にして信仰者というのは意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。

 

しかしながら、81節ではっきり言います。洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはない、と。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。肉の面でも従えれば完全ですが、それは復活の日に復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉に打ち込まれているのです。まさに肉に対して聖霊の楔が打ち込まれているので、パウロは11節で次のように言うのです。キリスト信仰者には洗礼の時に注がれた聖霊が宿っており、神はその聖霊を通して信仰者の滅びの体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのだ、と。キリスト信仰者にとってこの約束は絶対です。

 

さて、肉の体を纏っていながらも、このような難攻不落の要塞を築いてもらった以上は、それこそ体を神の意志の武器にして戦わなければなりません。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は体を神聖な生贄として神に捧げよと言います。3節からあとは、そのために具体的に何をするかが言われます。自分を過大評価するな、悪を憎み、善から離れるな、兄弟愛を持って互いに愛せよ、互いに尊敬を持って相手を優れた者と思え、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはいけない、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、高ぶらないで身分の低い人と交われ、自分を賢い者とうぬぼれるな、悪に悪を返すな、全ての人の前で善を行え、他の人と平和に暮らせるかどうかがあなたがた次第ということであれば迷わずそうせよ、自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませよ等々、そうそうたるものです。

 

以上が、キリスト信仰者が自分の体を生贄として捧げる生き方です。これができる、これが当然という心になれるのは、イエス様のおかげで罪の赦しがあることを信じる信仰があるからです。ここで注意しなければならないのは、こうしたことは、神に認めてもらうためにするとか、罪を赦してもらうためにするとか、そういうご褒美を頂くためにするものではありません。イエス様の十字架と復活の業でまず神から一方的に赦しを頂いて認めてもらった、それでそういう救われた結果の実として現れてくるものです。これが神の御言葉を聞いて「理解した」者が結ぶ実です。「理解する」とはまさに、御言葉がこの私に、罪の赦しが果たされたこと、それで神との間に平和な関係が打ち立てられ神との結びつきを持ってこの世を生きられること、そして、この世を去った後は造り主の神のもとに永遠に迎え入れられること、これらのことを言っているのだとわかる理解です。この理解がないと試練や苦難に遭遇したら御言葉を保ち続けることは難しく、実を結ぶことも出来なくなるので注意しましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1N.T. Wright “Jesus and the Victory of God. Christian origins and the question of God”, Vol. Two230ページです。

(後注2マルコ41420節の「種まき人」のたとえの説明の中で、

撒かれたものが人間である部分はアンダーラインで、

撒かれたものが御言葉である部分は太字イタリックで示しました。

14節 ο σπειρων τον λογον σπειρει.

15  ουτοι δε εισιν οι παρα την οδον οπου σπειρειται ο λογος και οταν ακουσωσιν, ευθυς ερχεται ο σατανας και αιρει τον λογον τον εσπαρμενον εις αυτοις.

16  και ουτοι εισιν οι επι τα πετρωδη σπειρομενοι, οι οταν ακουσωσιν τον λογον ευθυς μετα χαρας λαμβανουσιν αυτον, 

18  και αλλοι εισιν οι εις τας ακανθας σπειρομενοι ουτοι εισιν οι τον λογον ακοθσαντες,

20  και εκεινοι εισιν οι επι την γην τεν καλην σπαρεντες, οιτινες ακουουσιν τον λογον και παραδεχονται και καρποφορουσιν εν τριακοντα και εν εξηκοντα και εν εκατον.