2018年5月21日月曜日

聖霊降臨祭 - キリスト教会の誕生日 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2018年5月20日 聖霊降臨祭 スオミ教会

エゼキエル書37章1-14
使徒言行録2章1-21節
ヨハネによる福音書15章26-4a

説教題 聖霊降臨祭 - キリスト教会の誕生日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン


わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.聖霊とは何者か?

 本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと呼ぶことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束通り私たちに聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰をもってこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 それでは、聖霊とは一体何でしょうか?まず、イエス様は死から復活された後、弟子たちに世界に出て行ってイエス様の福音を宣べ伝えるようにと命じました。その時、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさいとも命じました(マタイ2819節)。キリスト信仰では、神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父やみ子と同じように人格があるのか、と驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。それで日本のキリスト信仰者の中には、「聖霊様」と呼ぶ人もいます。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体、どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章の中でイエス様は最後の晩餐の席上で弟子たちにあることを約束します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で取り残されて一人ぼっちになるということはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、本日の福音書の箇所でも言われるように、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護して下さるのでしょうか?真理の霊なら、その真理とは何で、それが私たちにどう関係するのでしょうか?このことは、以前の説教でも何度かお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。

 聖霊が「弁護者」であると言う時、何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのですが、では何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタン(שטן)とは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟の光に照らされて、外面的にも内面的にも神の御心に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へと増幅させようとします。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前に進み出ては「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神との間を引き裂くことですから、もし私たちが神の愛を信じられなくなるくらいに落胆したり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けたり神のもとから立ち去ったりすれば、悪魔にとって万々歳なことになります。

 人を落胆させたり神のもとから立ち去らせるものには、罪の他にも、この世で遭遇する不幸や苦難もあります。神は私の至らなさに不満で、それでこんな目に遭わせているんだ、と自分に原因を見て絶望してしまったり、または、何の落ち度があって神は私を見捨てるのか!と神に原因を見て失望してしまったりします。このような絶望、失望に陥ることも悪魔の目指すところです。

まさにそのような時、聖霊は、私たちがどんな状況にあっても神の愛を信じられるように、しっかり神のもとにとどまることが出来るように助けて下さいます。まず、罪の問題では、聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように言って弁護して下さいます。「この人は、イエス様が十字架上の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それが自分の罪に対してもそうであるとわかって、それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向かって次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と。私たちは神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神は私たちにすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲の死に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは感謝に満たされて、本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と神との結びつきは失われていないのだ、とわかります。神との結びつきがあるということは神にしっかり守られていることだ、とわかります。あの方は十字架の上では犠牲になられたが、神の力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足の下に踏み潰しておられる。私はあの方と洗礼を通して結び付けられている。そのことがわかると、不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは不幸や苦難は、神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていましたが、今度は逆に、存在して見捨てない神と一緒にくぐり抜けるための一つのプロセスに変わります。真に詩篇234節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。一緒に歩んで下さる神は嵐の中でも良い御心を示してくれる、ということに心が向くようになります。その時、不幸や苦難は、もはや自分を打ちのめそうとする嵐ではなくなり、ただの耳障りな強風、煩わしい雨水にしかすぎなくなります。全身ずぶ濡れにはなりますが、家に帰ればお風呂に入って服を取り換えてさっぱりできるんだ、というような気持ちで歩めるようになります。

 聖霊が「真理の霊」と言うのは、私たちに次のような真理を明らかにするからです。まず、キリスト信仰者といえども十戒の掟に照らせば私たちは罪を持っているという真理です。ここで悪魔が私たちを神から引き離そうとするのですが、聖霊はすかさず、神のひとり子の犠牲の上に罪の赦しがあるという真理を知らせるので、私たちは神のもとに留まる以外に道はないとわかるのです。まさに聖霊の弁護と真理のおかげで、私たちの良心は落ち着きを取り戻し、イエス様のおかげで神の御前に出されてもやましいところは何もない、そう思って大丈夫なんだ、と安心します。その時、イエス様を送って下さった神に感謝の気持ちで満たされ、これからは罪を犯さないようにしよう、神の意思に沿うように生きよう、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、と志向するのです。

 そういうわけで、聖霊が「真理の霊」であると言うのは、私たちに神の真理を明らかにするというだけでなく、ずばり、私たちが神の真理の中で生きられるようにして下さるということです。

 この他にも聖霊は、キリスト信仰者に何か特別な力を賜物として与えて下さる方であると聖書の中で言われます。そうした特別な力について使徒パウロは第一コリント12章でいろいろ挙げています(12411節)。正しい信仰を教える力、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、習ったことのない外国語で神やイエス様のことについて語る力などがあります。これらの力は、教会が一つにまとまって成長するために与えられるとされますが(127節)、教会の成長のために発揮される力は他にも考えられます。

ところで、習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。聖霊降臨の日の出来事は、まさに異言を語る力が与えられた出来事でした。このような特別な力は「恵みの賜物」とか「聖霊の賜物」と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマ(χαρισμα)と呼ばれます。こうした賜物は、教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰に何を与えるか決めて与えるものです(第一コリント1211節)。それゆえ、何か賜物を与えられても、与えた方は取り上げることも出来る方とわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いなければなりません。キリスト教の教派によっては、聖霊の賜物を追求することを強調する派もあるようですが、ルター派はどちらかと言うとその点はおとなしいかもしれません。なぜそうなのかはいろいろ理由が考えられますが、一つには、聖霊のことを、先ほど申し上げた「弁護者」、「真理の霊」として捉えることが大きいのではないかと思われます。

もう一つ、聖霊が結ぶ「実」というものもあります。どんな実かと言うと、使徒パウロがガラテア52223節で挙げています。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制がそれです。これらは「聖霊の賜物」と異なり、イエス様の罪の赦しの救いに留まって神の御心に沿おうと志向するキリスト信仰者なら誰にでも実ってくる実です。ただしキリスト信仰者というのは、ルターも言うように、皆これから成長していく、絶えざる初心者なので、いろんなことに揉まれて鍛えられないと実ってこないのではと思います。(あと、聖霊の結ぶ実と正反対のものとして「肉の業」というものもあります。どんなものがあるかは、ガラテア51921節をご参照下さい。)

2.聖霊降臨日の出来事

使徒言行録2章には聖霊降臨の日の出来事が記されていますが、その日一体何が起きたのかをもう少し詳しく見てみましょう。

 イエス様が天に上げられて10日が経ちました。弟子たちはある家に集まっていました。そこに聖霊が不思議な現象を伴って彼ら一人一人に降りました。その時、天から激しい風が吹くような音がしたので、人々はその方へ集まってきました。その時エルサレムは、過越祭の後の5旬節という祝祭があったので、地中海世界の各地からユダヤ人が大勢やってきていました。

 音がしたところに集まって来た人たちは、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ地方出身者のグループが突然、集まってきた人たちそれぞれの母国語で話し始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、留学もせず語学教室にも通わずに突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(使徒言行録24節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?集まってきた人たちの驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(211節)」。

イエス様の弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は、何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒をはじめとする律法の掟を授けられ、約束の地カナンに移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは、バビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現できたという出来事です。さらに神の偉大な業として考えられるのは、神が私たち人間を含めた万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。

ところが弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、上記のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがあったことを忘れてはなりません。それは、弟子たちが自分たちの目で直に目撃して、その証言者となった出来事でした。あの「ナザレのイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった、その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられ、大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。
 
3.聖霊降臨祭 - キリスト教会の誕生日

 さてペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象、弟子たちが群衆の母国語で神の偉大な業について語り出したという現象を説明します。群衆の中には、新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れな説明をします。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと、的外れな意見に真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?ペトロは説明し始めます。

 ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(21421節)は、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の実現であるというところです。二つ目の部分でペトロは、イエス様の出来事そのものについて解き明しをします(22240節)。

 ペトロはまず、この異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという現象について、これはヨエル書315節の預言の成就である、と解き明かしします。天から激しい風のような轟く音がして、分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始まりました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかったのです。17節で、聖霊が注がれるのは「終わりの時」と言われているのは、これは終末論の観点で言われています。旧約聖書のヨエル書には「終わりの時」ということははっきり言われておらず、ペトロが意味を明確にしようとして付け加えたのです。聖霊が注がれるのが終末の時というのは奇異な感じがしますが、これは新約聖書の歴史観として、イエス様が天に上げられてから再び来るまでの間の期間というのはイエス様の再臨を待つ期間である、という見方があるからです。それでこの世の終わりということが視野に入って来るのです。

聖霊降臨は旧約の預言の実現ということに続いて、ペトロはさらにこの現象がどんな意味を持っているかについても解き明かします。大体次のような内容です。

あの、無数の奇跡の業と権威ある教えをもって神の栄光を現わしたイエス様を、ユダヤ教社会の指導者とローマ帝国の支配者が一緒になって十字架にかけて殺してしまった。しかし、神は偉大な力でイエス様を死から復活させた。そもそもイエス様というお方は、天におられた時は死を超えた永遠の命を持って生きられる方であった。だから、この世で十字架で殺されるようなことが起きても、神は復活させずにはいられないのだ。そういうわけでイエス様が死の力に服するということはそもそも不可能なのだ(224節)。このことは、既に旧約聖書に預言されていたことだ(2528節、詩篇15篇)。こうして復活して天に上げられたイエス様は今、全ての敵を自分の足を置く台にする日まで、父なるみ神の右に座している(3435節)。これも、旧約に預言されている通りである(3435節、詩篇1101節)。これらのことから、イエス様というのは、旧約に預言されたメシア救世主であることが明白になった(36節)。お前たちは、そのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ。もちろん直接手を下したのは支配者たちだが、それでも、イエス様が神のひとり子でメシア救世主であることを知ろうとも信じようともしなかったということでは、お前たちも支配者たちと何らかわりはない。さあ、ここまで事の真相が明らかになった今、イエス様を救い主と信じるか信じないかのどちらかしかない。お前たちは、神のひとり子、神が遣わしたメシア救世主を殺した側に留まるのか?ペトロはこのように群衆に迫ったのです。

これを聞いた群衆が心に突き刺さるものを感じたのは無理もありません(注 新共同訳では「大いに心を打たれ」(237節)と訳されて、なんだか群衆がペトロの説教に深く感動したようですが、ギリシャ語のκατενυγησανは「心に突き刺さるものがあった」という意味で、文字通り「グサッと来た」ということです)。群衆は不安に襲われて、私たちはどうすればよいのですか?と聞きます。それに対して、ペトロは悔い改めと洗礼を勧めます。悔い改めとは、それまで神に背を向けていた生き方、神の意思に背くような生き方を改めて、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きていこうと方向転換をすることです。洗礼とは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって生み出して下さった「罪の赦し」を神からの贈り物として全身全霊で受け取ることです。

ペトロの解き明しと勧めを聞いた群衆は、悔い改めて洗礼を受けました。神に背を向けてイエス様を殺した側から離れ、神の方に向き直って歩む者となったのです。この聖霊降臨の日に洗礼を受けた人たちは3000人に上りました。こうして、聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を受け取りました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

 キリスト教会が誕生して2000年近く経ちました。それでか、人々の目には教会は古びて時代遅れに映るかもしれません。しかし、教会を教会として成り立たせている三つのもの、聖書の御言葉と洗礼と聖餐式は今もかつてと同じように、人間に神との結びつきを与え、その中で歩ませる力に満ち満ちています。一人でも多くの方がその力に与れるよう願ってやみません。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2018年5月14日月曜日

イエス様の昇天は何だったのか? (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2018年5月13日 昇天主日

                                             使徒言行録1章1-11節                                 
エフェソの信徒への手紙1章15-23節
ルカによる福音書24章44-53節

説教題 「イエス様の昇天は何だったのか?」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      イエス様の昇天

本日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天の神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは休日になっています。その日に近い主日ということで、本日が「昇天主日」となっているわけです。本日の最初の日課である使徒言行録は、まさにこの出来事から始まります。イエス様の昇天から10日後、今度はイエス様が送ると約束されていた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。弟子たちは聖霊の力でイエス様こそ救い主であると宣べ伝え始め、それがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行きますが、その過程が描かれているのが使徒言行録です。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年位の出来事の記録です。先々週の説教でも申しましたが、まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物と言えるでしょう。
 
さて、イエス様の昇天の出来事ですが、新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(19節)。私などはこれを読むと、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くような印象を受けてしまうのですが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者から見れば、下から見上げるのですから、見えるのは雲だけで、その上か中にいる筈のイエス様は見えません「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。

そうなると、新共同訳の「雲」はただ単に上空に浮かぶ普通の雲にしかすぎませんが、ここで、聖書は旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象についていろいろ記されていることを忘れてはなりません。出エジプト記では、モーセが神から掟を授かったシナイ山は雲で覆われました。イスラエルの民が運びながら移動した臨在の幕屋にも雲が覆ったり離れたりしました。時代は下って、イエス様が高い山の上で弟子たちの目の前でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。イエス様は裁判を受けた時、自分が再臨する時は「天の雲と共に」(マルコ1462節)やって来る、と預言しました。本日の使徒言行録の箇所でも、現れた天使が弟子たちに言います。イエス様は天に上げられたのと同じ有様で再臨する、と。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天は聖書的な出来事です。

それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れられることでしょう。しかし、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画のSFX特殊視覚効果技術による撮影を本当のことと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。キリスト教徒も最近は、そういうふうに考える人が多いかもしれません。

 ここで、もう一つ考慮に入れておかなければならないこがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多く、例えば弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気がつかないこともありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが、自分にはある、と言って、十字架で受けた傷を見せたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主の神の立場にある方なので、被造物の天使と同じではありませんが、いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく、復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

2.天の御国

天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられます。それじゃ、どうやってそんな天空の国の存在が確認できるのか、と問われるでしょう。地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以後、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるでしょうか?それとも見つからないと結論づけられるでしょうか?

 ここで立ち止まって考えなければならないことがあります。それは、これまで述べてきたロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰とは全く別の世界の話であるということです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

 信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超える事柄に関係しています。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書によれば、天のみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたのですから、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 他方で、目や耳などで確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考える人たちもいます。そのような人たちにとって、天と地と人間を造られた創造主など存在しません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心の有り様だと言うでしょう。

 キリスト信仰者にとって、人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られたものになります。それで、この世界の中では造り主の意図が働いている、そして自分に起きることには神の意図が働いていると考えます。しかも、神はひとり子を惜しまずに送られた方だから、その意図は良いに決まっていると素朴に信じるのがキリスト信仰者です。ただ、大災害のように大きな不幸をもたらすことが起きると、試練に直面します。神様なぜですか!という抗議の問いかけが出てきたり、また、こんなことを起こす神はひどい、とか、こんなことも止められなかった神は無力だ、とか言って神に対する反発が生まれ神に背を向けることも出て来ます。しかし、このような場合でも、人間の命と人生というのは、本当はこの現実の世界と神のいる天の御国にまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだと思い返す時、神に対する反発は静まり始めます。さらに、人間の命と人生から天の御国が欠け落ちてしまわないために、神はひとり子イエス様を私たちに送って下さったのだ、と思い返す時、神の方に向き直る心も戻ってきます。

 このように、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を持てるようにするというのが神の意図です。では、それを持てるようにするために神はなぜイエス様をこの世に送らなければならなかったのでしょうか?それは、人間は生まれたままの自然の状態のままでは天の御国の人生は持てないからです。なぜ持てないかと言うと、旧約聖書の創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって以来、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、行為に現れる罪だけでなく現れない罪も含めて罪が人間に天の御国の人生を持てないようにしている。そこで神は、崩れてしまっていた人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間にかわって解決して下さったのです。

まず、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて、十字架の上に運ばせて、そこで神罰を人間に代わって全部イエス様に受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開いたのです。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにそうして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人を覆って、神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになるのです。その人の内に自分の命と人生はイエス様の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれ、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向し出します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるようになっています。順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもってその人を天の御国に引き上げて下さいます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。

3.      この世と教会

イエス様は十字架と復活の業を通して人間がこの世の人生と天の御国の人生の両方を持てるようにして下さった。それはわかるとしても、なぜイエス様は天に上げられなければならなかったのでしょうか?

一つには、詩篇1101節に神が御子に述べている言葉があります。「わたしの右に座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」これは、本日の使徒書であるエフェソ122節に引用されていますが、この引用が示すように、イエス様の昇天はこの詩篇の聖句の実現を意味しました。それから、聖書の観点では、この現実の世界は初めがあったように終わりもある。終わりの時は最後の審判があり死者の復活ということが起こる。そういう森羅万象の大変動を経て最終的に天の御国だけが残る、そういう気の遠くなることがあります。イエス様はその時に再臨され、天の御国の実現のために大きな役割を果たされる。つまり、イエス様の昇天というのは、上げられてそれっきりということではなくて、いつかは戻って来られるというものなのです。

そうなると、このイエス様が天の御国に上げられて再臨するまでの長い期間は一体何なのか、これがわかると、イエス様が天に上げられて、今父なるみ神の右に座していることは特に問題に感じられなくなります。イエス様が神の右に座している期間とは何か?それは、使徒パウロが本日の使徒書のエフェソ12023節で教えてくれます。イエス様を死から復活させられた神は、彼を御自分の右の座に着かせ、「全ての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれた。支配、権威、勢力、主権というのは、現実の権力だけでなく、目に見えない霊的な力も全部含まれます。トランプ大統領も習近平国家主席もプーチン大統領も金委員長もどんな権力や軍事力をもってしても、神の右に座すイエス様には敵わないということです。また目に見えない霊的な力もイエス様には太刀打ちできません。霊的な力とはどんな力かは後で述べます。

ここでパウロは、そのイエス様を頭として教会が体としてあると述べます。教会はイエス・キリストの体で、その頭がイエス様である、と。ここで言う「教会」はとても抽象的なものです。今皆さんがいらっしゃるスオミ教会は「教会」ですが、それはまたルター派教会という教派の中の一教会です。ルター派の名を冠する教会も一つに統一されておらず、いくつもの団体に分かれています。さらにキリスト教会は、ルター派以外にもいろんな教派があります。パウロがここで述べている「教会」は、そういう教派的、組織的な教会ではなく、理念的な教会で、イエス・キリストの体と化しているものです。どんな体かと言うと、まず、そこでは聖書の御言葉が宣べ伝えられており、その御言葉の中でもイエス様の十字架と復活に基づく福音が中心になっている体です。次に、洗礼を受けることを通してその体の部分になれます。そして、その体の部分である信仰者は聖餐式のパンとぶどう酒で栄養を得て、神との結びつき、イエス様との繋がりを強めていく体です。そういう、御言葉・福音、洗礼、聖餐の三つが働いている体です。そこでは、体の部分を成す信仰者がこの三つの働きを受けています。

そうなると、天地創造の神と救い主イエス様とこれだけ密接に結びついているのだから、教会やそこに属する信仰者たちは、果たして支配とか権威とか勢力とか主権に対してイエス様のように勝っているか、と言うと、そうとも言えない現実があります。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっているはずの自分たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実があります。イエス様が人間を罪の支配から解放して下さったとわかった筈なのに、罪の誘惑はやまないという現実があります。全てに勝っている状態からほど遠いではないか?全てに勝るイエス様に繋がっている筈なのに、信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世に属していることによります。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世に属しています。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろうという力が働いているところです。大きな人生など持てないようにしてやろう、と。そして、人間が自分の真の造り主に目と心を向けられないようにしてやろうとか、そのようにして人間が造り主である神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いているところです。これらが、イエス様の下に服して足台にされた霊的な力です。アダムとエヴァの堕罪の時からずっと今もこれからもこの世で働き続ける力です。ただし、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされます。その時、イエス・キリストの体は全身が天の御国の中に置かれることになります。

そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実、一方で全てに勝るイエス様に守られているという現実、他方でこの世の力に攻めたてられるという現実、この二つを抱えて生きていくことになります。イエス様はこうなることをよくご存知でした。それでヨハネ1633節で次のように述べられたのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 イエス様は死から復活されたことで死を滅ぼしました。そして昇天されたことで全ての力を足下に服させました。イエス様は何重にも世に勝たれたのです。そのことが苦難に打ち克つ勇気の源になるよう祈って止みません。最後にルターが、キリスト信仰者はイエス様の強い守りの中にいるということと、体の部分である者同士が祈り合ってお互いを支え合うことの大切さを教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。マタイ1127節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」のルターの解き明しです。

「『全てのもの』とは文字通り全てのものである。全てのものが、私たちの主イエス様の手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。このことの例外は何もない。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

 このことからも、イエス様の御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、私たちに真の知識と真の光が与えられる。もしイエス様が全てのものを手中に収め、父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自らが述べているように(ヨハネ102829節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ない。確かに悪魔は機会を見つけては、キリスト信仰者をあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。結婚を壊して不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬むことや憎むことに心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと仕向けてくるであろう。しかし、そのような悪魔の攻撃に遭遇しても、キリスト信仰者はたじろぐ理由も必要もない。なぜなら、私たちには悪魔をも足下に服させている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ私たちを真にお守り下さる方である。

もちろん、悪魔の攻撃はあなたをとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも恐ろしいことだ。それだからこそ、あなたは祈らなければならない。あなたが堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちもあなたのために祈らなければならない。どんなことがあっても神があなたを見捨てることはない。これは揺るがないことである。イエス様は必ずあなたを苦境から救って下さる。そうである以上、あなたの方から簡単に神の御国を離脱するようなことはあってはならないのだ。」


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン