2014年5月26日月曜日

キリスト信仰者の希望 (吉村博明)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年5月25日 復活後第五主日

使徒言行録17章22-34節
ペトロの第一の手紙3章8-17節
ヨハネによる福音書14章15-21節

説教題 「キリスト信仰者の希望」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

.

 本日の使徒書である「ペトロの第一の手紙」315節に、「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」とありました。「あなたがたの抱いている希望」というのは、ギリシャ語の原文に忠実にみると「あなたがたの間に存在している希望」で、要はキリスト信仰者がひとつの同じ希望に与っているという意味です。「あなた方が共有している希望」と言ってもよいでしょう。キリスト信仰者たるものはそうした共有する希望を他の人たちに説明できなければならない、もし誤解されたり疑問を抱かれたりしたら弁明できなければならない、と使徒ペトロは勧めます。私たちは、キリスト信仰者の共有する希望を他の人たちに説明したり弁明したりすることができるでしょうか?そもそもキリスト信仰者の希望とは何なのでしょうか?本日は、このキリスト信仰者の希望について、本日の日課の箇所に基づいて明らかにしたいと思います。

希望とは、一般的には、こうなったらいいな、とか、こうなってほしいとか、何か願ったり望んだりする事柄です。似ている言葉に「期待」があります。しかし、「希望」は「期待」より、ずっと深くて広い事柄です。期待していたことが叶うと、「期待通りになった」と言います。叶わなければ、「期待外れだった」です。希望についても、「希望通りになった」とは言いますが、「希望外れだった」とはあまり聞きません。希望していた事柄がその通りにならなかったり、そうならないことがもう火を見るよりも明らかになると、希望が失われ、「絶望」になります。この場合、事態は「期待外れ」よりも重大かつ深刻です。そのような時、「生きる希望を失った」という言葉さえ口にしたりします。例えば、大切な人、愛する人に先立たれた時の気持ちは、この言葉の通りだと多くの人が感じるでしょう。大切なものを失ったという喪失感が大きいと、生きる意味自体がなくなってしまった感じがするのです。しかし、喪失感をあくまで感情の問題と捉えて、周りの人がしっかり支援すれば、感情は大きくなったり小さくなったりするものですから、支援を通して感情を落ち着かせることは可能です。これが出来れば、たとえ喪失の事実は消えなくとも、生きる新しい意味を見いだすことも可能です。

キリスト教では、葬儀や墓地で行う礼拝で、「復活の日における再会の希望」を強調します。どういう希望かというと、人間は死ぬと外見は肉体が滅びて朽ち果てた状態になるが、人間の造り主である神のみぞ知る場所に安置されて安らかに眠る。そして、復活の日が来ると目覚めさせられて、朽ちない復活の体を与えられて永遠に生き始める。そこで懐かしい人たちと再会する。そういう希望です。キリスト信仰では、この「復活の日における再会の希望」が喪失感の感情を肥大化させない抑止力になっていると言えます。ただし、キリスト信仰者といえども、喪失感に陥っている人に対して、いきなりこの希望を説くことは禁物です。まず、その人の喪失感をしっかり受け止めてあげなければいけません。そうでないと、いくら希望を説かれても空虚な言葉にしか聞こえなくなってしまうでしょう。また逆に、感情を無理やり押し殺すようなことをすると、問題の先送りのようなことになって後でいろいろな弊害が出てくる危険があります。過酷な現実のために信仰が揺らいでしまった時、それを再び確固とした基盤にのせられるためには、それなりの時間と多くの祈りが必要なのです。

いずれにしても、キリスト信仰者の希望は、「死からの復活」ということに結びついています。「ペトロの第一の手紙」のはじめをみると、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」て下さったと記されています(13節)。「生き生きとした希望」というのは、ギリシャ語の原文に忠実にみると、「生きている希望」です。つまり、「死なない希望」とか「潰えることのない希望」とか「朽ち果てない希望」ということです。そのような希望が、イエス様の死からの復活を通して私たちに与えられたと言うのであります。

このようにキリスト信仰者は、「死からの復活」に結びついた、潰えることのない希望を持っている。そのような希望を持つと一体どうなるかということが、「ペトロの第一の手紙」の本日の箇所に明確に述べられています。その部分を今一度引用します。

「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(31317節)。

ここで言われていることは、善いことを一生懸命しても、ほめられたり評価されるどころが、逆に自分たちがキリスト信仰者であるということのために、危害を加えられることがある。一生懸命善いことをしても、平穏無事な生活をもたらすことに全く役に立たないことがある。しかし、キリスト信仰者にとって、善いことをするのは、自分の何かの役に立つとか立たないとかいうことに全く関係がない。なぜなら、善いことをするのは、自分が救い主と信じてやまないイエス様の意思だからである。それで、自分が善いことをするのは、周りの人たちが自分にどんな態度を示すかということと全く関係がないのである。本日のペトロの教えの初めにはこうありました。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)。使徒パウロも同じように、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(ローマ1217節)と勧めます。善を行うことが、自分に害を及ぼす者に対してもそうだと言うのは、納得しがたいものがあるかもしれません。しかし、どんな状況に置かれても、心が神のみに向けられていれば、神の意思と自分に及ぼされる害の二つの天秤皿は、すぐ神の意思の皿がストンと落ち、自分に及ぼされる害の皿はふわっと上昇します。それ位、キリスト信仰者にとっては、神の意思は重く、自分に及ぼされる害は軽いのです。

そこで、自分に害を及ぼす者が、おかしいなあ、これだけ害を及ぼしても、平気で善いことを続けられるのは一体どうしてなのだろう、普通だったら動揺して善いことをするどころではなくなるのに、と不思議がり始める。キリスト信仰者は感覚がずれているのか鈍感なのか?それとも、及ぼされる害を痛くも痒くもないように感じさせる、何か大きなものを心に持っているのだろうか?そうだとしたら、それは一体何なのだ?もしそのように聞いてきたら、信仰者はただ、信仰者が共通して持っている希望について、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」弁明しなければならない。つまり、害を及ぼす者に対して、害が自分を委縮させたとか恨み憎しみを抱かせたとか、自分の心を引っ掻き回すことは全くなかった、それ位、自分の心は神に向けられていたことを示す。「正しい良心」というのは、自分はただ神の意思に沿おうとしているだけで他に動機はないので神に対してなんのやましいところはない、という心の平安です。これがあると、害を及ぼす者が騒ぎ立てても、心は平安のまま保たれます。

周囲の者がどんな態度で来ようとも、自分の心は神の意思に向けられているので、周囲の者の態度と無関係に善を行うことができる、それがキリスト信仰者の心意気だ、とペトロは教えるわけです。害を及ぼされるのは残念で嫌なことだが、まあ、それはそれとして、神は、そんなことにいちいち注意を逸らされていてはいけない、お前はただ私の命ずることに聞き従っていればよいのだ、すなわち、全ての人に善を行いなさい、と命じられる。このような神の意思にキリスト信仰者の心がしっかり向けられているのは、信仰者が「死からの復活」に結びついた、潰えることのない希望を持っているからに他なりません。以下、その希望をもう少し具体的に見ていくことにします。そのためには、本日の福音書の箇所が役立ちます。

2.

 本日の福音書の箇所の初めは、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をまもる」というイエス様の言葉です。「掟をまもる」という動詞は、ギリシャ語の原文では、「わたしを愛しているのならば、わたしの掟を守らねばならない」という命令文にもなるし、または、「わたしを愛しているのであれば、私の掟を守ることになる」という未来の意味にもなります(ギリシャ語の未来形)。いずれにしても、私たちがイエス様の掟を守るということは、彼を愛することの当然の帰結として出てくるということです。掟を守るというと、なにか強制されているような感じがします。果たして私たちは、強制を強いる者を愛することができるでしょうか?しかし、ここで言われていることは、掟を守れ、そして掟を与えた者を愛せ、ということではありません。そうではなくて、イエス様を愛するならば掟を守るのが当然になるということです。ルターはまさにこの箇所について、「いかにしたらそのようなイエス様を愛する愛が持てるようになれるか」と問い、次のように答えます。それは、「人間の心は惨めなものなので、何か外部から来る素晴らしいものを味わうことがなければ、人間は愛することなどできない」というものです。それでは、外部からくる素晴らしいものとは何なのでしょうか?

 それを知るために、キリスト信仰者は、どうしてイエス様を自分の救い主として信じるようになったかを振り返る必要があります。

 イエス様が私たちの救い主となったのは、言うまでもなく、彼のおかげで、私たちが天と地と人間の造り主である神と結びつきを回復できて、この結びつきを持ってこの世を生きることができるようになったためです。神との結びつきをもってこの世の人生を歩むことになると、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分の造り主のもとに永遠に迎え入れられるようになります。

イエス様はどのようにして私たちが神との結びつきを持てるようにして下さったかと言うと、それは、その結びつきを持てなくなるようにしていた原因であった、人間に内在する罪と神への不従順を無力化したのです。罪や不従順が無力化されたというのは、それらが力を持っていたからですが、どんな力を持っていたかと言うと、人間が神と結びつきを持てないようにする力、この世の人生の歩みでは神との結びつきがない状態にとどめて、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに戻れなくするような力です。

それでは、罪と不従順のそうした力が、どのように無力化されたかと言うと、神はイエス様に人間の全ての罪を請け負わせて、本来人間が受けるべき罪の罰を全部イエス様に受けさせて十字架の上で死なせられたのです。そこで神は、イエス様の犠牲の死に免じて人間を赦すこととしました。人間は、このことが真に自分のために行われたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神の罪の赦しがその通りになります。神から罪の赦しを受けるということは、神との結びつきができたということになります。こうしたことが、神のひとり子の犠牲の死によって実現したのです。

そればかりではありません。神は一度死んだイエス様を復活させることで、今度は永遠の命、復活の命に至る扉を人間に開かれたのです。こうして神との結びつきを持つことになった者は、永遠の命に至る道に置かれることにもなり、今の世の命と次の世の命を両方合わせた一つの大きな命を生き始めることになるのです。私たちがこのような新しい命を生きられるようになったのは、自分のひとり子を犠牲にしてまでも人間を救おうと決心された神の愛と、その神の決心を受け入れて実行されたイエス様の愛があったからでした。

このような神とイエス様の愛を知った時、人間の心はどう変わっていくかということについて、ルターが次のように明らかにします。「こうして、イエス様をこの世に送り、彼を用いて罪の赦しによる人間の救いを実現した神は、我々にとって愛すべき父親となった。御子を犠牲に供しなければならなかったのは、我々が罪の支配から抜け出すことができないでいる弱さのためであった。しかし神は、弱さの塊にしかすぎない我々を受け入れて下さり、死に至る病から癒して下さった。この父なるみ神に対して今度は、我々の方が心の底から愛を注ぐようになるのは当然のことである。加えて、このような神の愛を受けた以上は、我々もまた、神が我々にして下さったのと同じように隣人に対しても振る舞うようになるのは当然なことである。このようにして、我々は神と御子の意思とその掟を守るのが当然という心意気になっていくのである。そうなると我々はもはや、他に仕える神々などを持たなくなる。こうして、十戒の第一の掟は当然のこととなる。また、神の御名にのみ祈りを捧げ、神の御名のみを賛美するようになり、こうして第二の掟も当然になる。さらに、我々は、神が自ら決定し実行することを認め受け入れようという心になっていく。神よ、あなたが善かれと思われることを成し遂げ給え。それに対して我々は騒ぎ立てず異議も唱えず、ただ、あなたに信頼して静かにしています。だから安息日はしっかり守ろう。これで第三の掟も当然のこととなる。十戒の残りの掟についても同様である。全ての人に対して、気遣いとへりくだりの心を持って接しよう。父母を敬おう。隣人を愛し仕えよう。なぜなら、神が私にして下さったように、私も隣人にするのが当然という心意気になっていくからだ。」

 このように、神がイエス様を用いて私たちのために成し遂げて下さったことが、本当に素晴らしいことだとわかれば、私たちは神を全身全霊で愛することが当然であると思うようになり、その神がそうしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となるのです。神の愛と恵みのなんたるやを知った時、私たちの心に神への愛、隣人への愛が点火されるのです。人間が正しく愛することができるためには、全てに先だって神の人間に対する愛があることを知ることが大切なのです。このことは、「ヨハネによる第一の手紙」の中で強調されています。

「神は、ひとり子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(4912節)。

3.

 以上みてきたように、キリスト信仰者は、天の父なるみ神と御子イエス様の取り計らいによって、神との結びつきが回復できて、今は永遠の命に至る道に置かれてそこを歩んでいます。この新しい命を生きられるようにして下さったみ神とイエス様への感謝と賛美が、信仰者をして神への愛と隣人愛に駆り立てていくことも明らかになりました。敵対する者に害を及ぼされても、心はしっかりと神の意思に向けられています。使徒パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント417節)と述べましたが、これは神の約束です。今この世で艱難を受けても、それは次の世で永遠の栄光をもたらす。だから、キリスト信仰者にとって艱難とは永遠の栄光をもたらす貴重な材料のようなものでさえあるのです。復活の日に、朽ち果て腐る今の肉体にかわって、神の栄光を体現する復活の体を与えられて永遠に生きるようになる。これがキリスト信仰者の希望の中心にあるのです。このような希望があるから、周囲の者がどんな態度を取って来ようとも、自分の心は神の意思に向けられているので、周囲の者の態度と無関係に善を行うことができるのであります。

 周囲の者の態度と無関係に善が行えるというのは、ペトロやパウロが勧めるような何か害を及ぼされた時だけに限りません。例えば、そんなことやって一文の得にもならないじゃないか、とか、あんな人にはそこまでしてあげなくてもいいんじゃないの、とか、ちょっとお人好しすぎるんじゃないの、とか言われてしまう位に公平無私を貫く時もそうです。しかしながら、キリスト信仰の場合は、それが倫理的道徳的に立派だから頑張ってやる、ということではありません。キリスト信仰者が最初に注目することは、何が倫理的道徳的に立派なことかということではありません。そうではなくて、ああ、私は自分の造り主である神とちゃんと結びつきがあるのだろうか?ああ、イエス様の十字架と復活のおかげでちゃんと結びついているのだ。よかった、安心した。これが、キリスト信仰者が最初に注目する事柄です。この安心感のゆえに、キリスト信仰者は、その他のことで自分が損をしたとか、悪口を言われたとかいうようなことはそんなに重要なことではなくなり、結果として公平無私の状態になっていくのです。立派な倫理道徳実践者とは、目のつけどころが違うのです。キリスト信仰者は、今のこの世の段階で永遠の命に至る道を歩んでいる、とか、この朽ち果てる体が神の栄光を体現する体に変えられるとか、そういうことばかり言っているので、目のつけどころが違うと言うよりは、視点がずれていると笑われてしまうかもしれません。でも、まさにここのところが、キリスト信仰者が公平無私になっていく時の鍵なのです。

日本人なら誰でも知っている宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」は、公平無私の思想の結晶として日本人の心を強く惹きつけてきました。しかし、その詩の終わりで「そういう者に私はなりたい」と言っているように、公平無私を希求する心がその思想の根底にあります。キリスト信仰の場合は、そういう希求とは無縁なところから始まります。それは、自分と造り主である神との関係は大丈夫だろうか、というある意味で自己中心的なところから始まります。しかし、それが結果として、自分でも気づかないうちに公平無私の大海に向かって流れていくのです。それはまた、可憐な花が、自分は可憐かどうか全然気にすることもなく、自分が可憐だと全く気づかないでそのように咲いているようなものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年5月19日月曜日

主イエスは心を落ち着かせる道 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年5月18日 復活後第四主日

使徒言行録17章1-15節
ペトロの第一の手紙2章4-10節
ヨハネによる福音書14章1-14節

説教題 「主イエスは心を落ち着かせる道」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所は、イエス様が十字架刑に処せられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時のイエス様の教えです。初めにイエス様は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じられます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが大きな不安を抱き始めたために、イエス様が述べられた言葉です。それがどんな不安であったか、少し考えてみましょう。

例えば、私たちは、言葉の通じない外国で単身で生活しなければならなくなったとしたら、いろいろ心配になり不安を抱くでしょう。ただ、冒険やかけ離れたことが好きな人だったら、むしろ心配になるどころかウキウキしてしまうかもしれません。いずれにしても、新しい土地で何かをしようという目的心があるならば、不安や心配を超える希望を持っているので、不安や心配はあってもそれらに心が圧倒されることはありません。それでは、別に外国に行かなくても、長く住み続けた場所にいて、何かの原因で周囲の人たちが自分のことをよく思っておらず敬遠している環境の中にいるとします。その中である人だけは自分のことを分け隔てなく付きあってくれて、困ったことがあればいつも相談に乗ってくれたり手助けをしてくれるので、その場所に住むことは平気だった。ところがある日、その人は遠くに引っ越さなければならなくなってしまった。さあ、頼りにしていた人がいなくなってしまった今、自分はこの場所で一人でやっていけるだろうか。この場合は、不安や心配を上回る希望自体がなくなってしまうので、それらに心が圧倒されてしまい、心が騒ぐことになるでしょう。

本日の福音書の箇所でイエス様が「心を騒がせるな」と言った時の弟子たちの状況は、今申し上げたことに似ています。弟子たちにとって、イエス様は頼れる最高の人でした。イエス様は、無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、またわずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど、無数の奇跡の業を行いました。同時に、天と地と人間を造られた神の意思について人々に正しく教え、それまで神の意思を代弁していると自負していた宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそ、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する本当のユダヤの王と信じていました。そして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現の日が近づいたと期待に胸を膨らませました。ところが、イエス様は突然、弟子たちに対して、自分はお前たちのところを去っていく、自分が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めます(ヨハネ133336節)。これには弟子たちも驚きます。イエス様が王座につけば、自分たちは直近の弟子ですから何がしかの高い位につけると思っていたのに、主は突然、自分は誰もついて来ることができない所に行く、などと言われる。それではダビデの王国はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえ、イエス様は支配者やエリート層の反感を買っているのに、力ある彼がいなくなってしまったら、取り残された自分たちは迫害されてしまうではないか?こうして弟子たちは、希望が失われ、不安と心配で心が圧倒された状態に陥ったのでした。心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれるように取り残された弟子たちが、心を騒がせないで済む希望について、イエス様は教えていきます。それを以下に見てまいりましょう。

2.

 イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて、弟子たちを自分のところに迎える、と言われます。「あなたがたをわたしのもとに迎える」というのは、ギリシャ語の原文では、イエス様が弟子たちを御自分と父なるみ神のいるところに、それこそ手で引っ張るようにして(引き上げ)連れて行く(παραλημψομαι)、という意味です。このイエス様の言葉には、十字架と復活の出来事から始まってこの世の終わりの日に至るまでの人類の歴史の期間が凝縮されています。

まず、イエス様が十字架に掛けられて死んだことによって、罪の力、つまり人間と神との結びつきを破壊する力が消えました。どのようにして消えたかと言うと、人間が本来神から受けるべき罪の罰を、イエス様が代わりに受けました。そこで今度は、人間の方が、イエス様は本当に自分の身代わりになって死なれたのだとわかって、彼を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神は、それならばイエスの犠牲の死に免じてお前を赦そう、と言って、その人の罪を赦す。そのようにして、堕罪以来失われていた神と人間の結びつきが回復するのです。もちろんキリスト信仰者になっても、人間はまだ肉をまとって生き続けますから、罪の思いは持ち続けてしまいます。しかし、今の自分の人生は神のひとり子イエス様の犠牲の上に成り立っている、それに相応しい生き方をしなければ、と絶えず言い聞かせていけば、神はイエス様の犠牲に免じて絶えず罪を赦して下さり、またその人に絶えず良い導きと助けを与えてくれるのです。

イエス様の十字架での犠牲の死に加えて、父なるみ神はイエス様を死から蘇らせました。これによって、死を超える永遠の命、復活の命に至る扉が人間に開かれました。こうしてイエス様を救い主と信じて、神から日々罪の赦しを得て人生の道を歩む者には、罪はもはやその人を神から引き離す力を失っており、その人が永遠の命、復活の命に至る道を歩むことを邪魔できないのです。このように、ひとり子イエス様を用いて私たちを罪の支配下から解放して下さり、永遠の命、復活の命に至る道に置いて下さった父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

さて、イエス様がまた戻ってくるというのは、今は父なるみ神の右に座しているイエス様がこの世の終わりの日に再臨することを意味しています。この時、大々的な死者の復活が起こり、最初の弟子たちをはじめイエス様の群れに繋がる者たちが父なるみ神のもとに引き上げられることになります。

これらのことを言われた後でイエス様は、「わたしがこれから行こうとしている所に至る道をお前たちは知っているのだ(新共同訳では「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」)と言われます(4節)。つまり、イエス様が行こうとしている場所とそこに至る道の両方を、弟子たちは知っていて当然という口調です。それに対してトマスが当惑した様子で言います。あなたがどこへ行くのかわからない以上、そこに至る道というのもわからないのです、つまり、両方わからないのです、と。これに対してイエス様は次の有名な言葉を述べられます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。これで、イエス様がこれから行こうとしている場所は、天の父なるみ神のいるところである、すなわち天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主のいるところであることが明らかになりました。そして、イエス様自身がその父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。その道を通らなければ、だれもそのもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道なのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉に定冠詞がついています(η οδος, η αληθεια, η ζωη 英語やドイツ語の訳も同様で、the way, the truth, the lifeder Weg, die Wahrheit, das Lebenと言っています)。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味を持ちます。いくつかある道の中の一つということでなく、この道を通らないと創造主のもとに行けないという唯一の道なのであります。

こういうことを言うと、現代の宗教界の中では煙たがれるでしょう。ああ、キリスト教はやっぱり独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だな、と。最近よく聞かれる考え方にこういうのがあります。つまり、人間がこの世の人生を終えた後、天国でも極楽浄土でもなんでもいい、何か至福の状態があるとすれば、そこに至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが、到達点はみな同じなのだ、という考え方です。キリスト教界の中にもそのように考える人がいます。しかしながら、神の言葉とされる聖書に主イエス様の言葉としてある以上は、煙たがれようがなんだろうが、やはり御言葉を水で薄めるようなことはしないで、そのままの濃度で保つべきではないかと思います。それに、同じ到達点と言っているものは本当に同じなのかどうか考えてみなければならないと思います。つまり、諸宗教が目指す至福というものは果たしてみんな同じものなのかどうか。キリスト教で至福とは、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられた創造主との結びつきがそのひとり子の働きのおかげで回復して、それで人間は造り主のもとに戻れるようになったこと、これが至福ということになります。他の宗教でも同じなのでしょうか?

 イエス様は道以外にも、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのは、次のようなことです。人間と造り主との結びつきが失われた原因は罪にある。造り主の神としてはただ、人間のために結びつきを回復したい。そのためには罪を無力にしなければならない。こうした人間の惨めな有様とそのような人間に対する神の愛は打ち消せない真理としてある。それゆえに、この神の愛の実現のためにこの世に送られたイエス様は、真理そのものなのです。

命の決定版ということについて。イエス様が、「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは、今のこの世の人生だけでなく、次の来るべき世の人生と一緒にあわせた、とても長い時間枠の「命」、「生きる」を意味します。死から復活させられたイエス様は、まさにそのような長い「命」を「生きる」方です。加えて、彼を救い主と信じる者たちに、同じ長い「命」を「生き」られるようにされます。それで、イエス様は命の決定版なのです。

3.

 7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい、御子と父は一緒の存在であるということが、7節から11節まで強調されます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は考えました。つまり、イエス様と父なるみ神は一緒の存在であるということがまだ信じられないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったかもしれません。十字架と復活の後になって、弟子たちは、イエス様は真に天の父なるみ神から送られた神のひとり子であることがわかりました。さらに、イエス様は父の人間に対する愛のために自分を犠牲にするのも厭わずに父の計画を忠実に実行したということもわかりました。それくらい、御子は父に従順だったのであり、彼が教え行ったことは全て、父が教え行ったことであり、彼が自分から好き勝手に教えたり行ったのではないということもわかったのであります。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくい言葉です。というのは、イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様の父なるみ神のもとへ行くこととどう関係があるのか、すぐ見えないからです。

弟子たちがイエス様の行う業を行うという時、まっさきに考えなければならないことは次のことです。つまり、イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられる可能性を開きました。これに対して、弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで、人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していきました。しかし、双方とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

さらに、弟子たちの場合は、イエス様が活動したユダヤ・ガリラヤの地方をはるかに遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで、救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。この意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになると言えるのです。また、この弟子たちによる福音伝道と救いの群れを拡大する宣教活動は、イエス様が天に上げられた後で本格化しました。どういうことかと言うと、イエス様は父なるみ神のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束されていました(ヨハネ1416章)。聖霊は、福音が宣べ伝えられる場所ならどこでも、人々が人間の惨めな有様やそれに対する神の愛をわかるように働きかけます。このように、イエス様が天の父なるみ神のもとに戻って、聖霊が送られたからこそ、救われた者の群れがどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければならない、あまりにも利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまう、とわかるからです。神との結びつきが回復して永遠の命に至る道を歩む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは、この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように、ということに行きつくのではないかと思います。同時に、まだ結びつきが回復しておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない隣人のために、結びつきの回復と道の歩みが始まりますように、という願いも切実なものになると思います。イエス様がその通りにしてあげよう、と約束された以上は、たとえ何年、何十年かかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の重要な任務です。

4.

以上、本日の福音書の箇所を駆け足で見てきました。最初に述べた問題に戻ってみましょう。それは、イエス様が天の父なるみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになるが、それでも彼らが心を騒がせないで済む希望を持つことができるとイエス様は教えられました。それはどんな希望だったでしょうか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰によって、自分は父なるみ神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて今その道を歩んでいるという救いの確信があるということです。その道が間違いのない正しい道であることは、それがイエス様自身が切り開かれた道だからでした。そして、自分がこの道を歩めるために、また他人が歩めるようになるために、願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束されたことも、大きな希望を与えるものです。

最後に、御子と父が一緒の存在だとわかると、我々の心は平安になり、全てのことは神の御心のままに起こってよいという心意気になるものだ、とルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「主イエスは、自分を知れば自分をこの世に遣わした父も知ることができると言われた。どうしてそのようなことが可能なのだろうか?それは、こういうことである。君は、自分の命を投げ打ってまで君に仕えたイエス様が神そのものであると知った時、イエス様は実は父が与えた任務を果たしたにすぎないということがわかる。その時、君の魂は、任務を果たされた御子を通して、それを与えた父へと高められる。こうして君の心は父に対する信頼で溢れて、父を愛するようになる。

父なるみ神をこのように知ることができれば、君は、全てのことは神の御心のままに起こってよい、と言って、神の決定権を受け入れられるようになる。なぜなら父なるみ神は、君にとって全てになっているからだ。この時、君の心は、神の住む場所として全てのことを静かに受け入れられる、へりくだったものに変わる。まさに、主イエスが、父と共に自分を愛する者のところに行って、父と一緒にそこに住むと言われたことが実現するのである。

我々は、神の栄光、力そして知恵をしっかり知りうる地点に到達しなければならない。その地点に立つ時、我々は、我々に関する全てのことを神が決定するのを受け入れられるようになる。また、全てのことには神の意図と影響力が働いているということもわかる。その時、我々はもはや何ものに対しても恐れを抱かなくなる。寒さや空腹、地獄、死、悪魔、貧乏その他これらに類するものは恐れる必要がなくなる。なぜなら、我々の内に住む神は、悪魔、死そして地獄に存在する力の総量よりも勝っているからである。このようにして、我々の内で、この世的なことの全てに反対する勇気が成長していくのである。我々には神がおられ、また神の栄光と力と知恵も我々に与えられている。それだからこそ、あとは、我々は何をも恐れずに、我々に課せられた義務をしっかり遂行するだけなのである。」


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン