2019年10月28日月曜日

創造主である神のもとに向かう道をひたすら歩め (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年10月27日(聖霊降臨後第20主日)スオミ教会

申命記10章12-22節
テモテへの第二の手紙4章6-18節
ルカによる福音書18章9-14節

説教題 創造主である神のもとに向かう道をひたすら歩め


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前が示すごとく、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。なぜ占領された国民の中に、占領国に仕えようとする人が出てくるかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように言いました。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が自分の利益しか考えない裏切り者とみなされて、同胞から憎まれていたことは驚きに値しません。

ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際に存在した徴税人とは様子が違うのです。福音書に登場する徴税人には、邪悪なところがみられないのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの悔い改めを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねました。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。

もちろん本日の箇所の徴税人は、イエス様のたとえに登場する架空の人物です。しかし、それでもこのような改心した徴税人が実際にいたことは、洗礼を受けにヨハネのもとを訪れた人たちの中に徴税人のグループがいたという事実から明らかです。ルカ19章の徴税人ザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決心をしました。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。

以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合だったのかはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければ、そういう気運があったことが読み取れます。

2.二つの対照的な祈り方

本日の福音書の箇所でイエス様は祈りについて教えています。二つの全く対照的な祈り方について述べられています。一方はファリサイ派という宗教エリートの人の祈りで、自分は神が定めた規定をちゃんと行っていると神に報告します。まるで神に対して念を押すような高慢さが見られます。自分が周りにいるような罪びとたちと同じでないことを感謝します、などと言うのは醜いエリート意識そのものです。他方は徴税人の祈りで、自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが祈りの全てです。胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。ファリサイ派の人の祈りは神に対して自分を高く見せる祈り、徴税人の祈りは低く見せる祈りと言って良いでしょう。

先週の福音書の箇所は本日の個所の直前でしたが、そこも祈りについての教えでした。それは、執拗に願い求める未亡人と神をも畏れない裁判官のたとえでした。そこでのイエス様の教えの趣旨は以下のものでした。もしキリスト信仰者が不正や害悪を被ってしまったら、それが解決されるように働くと同時に神に助けを祈り求めなければならない。仮にこの世で解決に至らなくても最後の審判の時に神が不正義を全部清算してくれて、正義を完全に実現して下さる。それなので、信仰者はこの世で解決にあたる時は手段を選ばないなどと悪と同じ土俵に立ってはならず、あくまで神の意思に留まって行うのみ。その時、祈りを絶やさないというのは、まさに自分は神の正義実現を信じており、そこに全てを賭けている、だから神の意思に従うのだ、そういう信念を絶えない祈りは表明するのだ。以上がイエス様の教えの趣旨であると述べました。
  
そこで、先週と本日の教えには興味深い関連性があることに気づかされます。先週の「やもめと裁判官」のたとえが述べられたのは、弟子たちに対してでした。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは誰に対して述べられたかと言うと、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(189節)です。ここで「正しい」という言葉ですが、ギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)で「義」を意味する言葉です。「義」というのは「神の目に適う、神の目に相応しい」ということです。つまり、自分たちは神の前に立たされても全然問題ない、地獄の炎に焼き尽くされる心配はないと自信満々で、他の者は大丈夫ではないと見下している人たちです。誰のことを指すのでしょうか?ファリサイ派の人たちでしょうか?実はそうではないのです。

「やもめと裁判官」の最後のところでイエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、果たして、やもめのような執拗さをもって祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問は、たとえを聞いていた弟子たちにされました。イエス様はこの質問の後すぐ、「ファリサイ派と徴税人」のたとえを今度は、自分は神に目に相応しいと自信満々な者たちに向けて話されました。つまり、このたとえが向けられた相手というのは、弟子たちの中で、自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると信じていた者たちだったのです。果たして自分が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか、というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる者を相手に述べられたのです。

そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の教えを、さらに一歩踏み込んだものと言えます。たとえ信仰ある人が最後まで気を落とさずに絶えず祈り続けたとしても、もしファリサイ派の人のように祈ってしまったら、せっかくの絶えざる祈りが何の意味もないものになってしまいます。

先ほど、洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないためにヨハネの洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねたことを述べました。そして、本日の箇所の徴税人の場合は「何をしなければならないか」という問いを通り越して、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけだったことも申しました。神から罰を受けるというのは、この世の人生を終えた後で自分の造り主である神のもとから永遠に引き裂かれてしまうことです。が、それは来世に限ったことではありません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、どんな道を歩んでも神から守りと導きは得られません。罰はたとえ将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっているのです。

そこで、私は罪びとです、神に背を向けて生きてきました、と認めて、どうか神さま、罰しないで下さい、と憐れみを乞うた徴税人が神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者つまり義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。これとは反対にファリサイ派の人は、宗教的な規定をしっかり守っているので自分では神に背を向けた生き方をしているとは思いもよりません。憐れみを乞う必要もありません。しかし、その百点満点のはずの彼が神の前に立たされても大丈夫な者にならなかったのです。これは一体どういうことでしょうか?本日の個所の終わりでイエス様は、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる、と言われます。これだけ見ると、人間は神の前で偉そうにしてはいけない、謙虚でなければならない、と言っているように見えます。しかし、ここはそういう道徳教育みたいなことが問題になっているのではありません。ここには人間のあり方、でき方を根本から問い直さなければならないような大きな問題があるのです。このことがわからなければ、この個所はわかったことにはならないのです。

3.原罪を直視することから始まる救い

私たちは徴税人が「神様、罪びとの私を憐れんで下さい」と、神に憐れみを乞う祈りをするのを聞いて、彼がそう祈るのはもっともなことだと思うでしょう。ところが私たちの場合は、そういう同胞を裏切ってまで私腹を肥やすようなことは縁遠いことなので自分には関係のない祈りに聞こえるでしょう。さらに、神の意思を表した十戒の掟に照らし合わせても、自分は盗みも偽証もしないし、ましてや不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。つまり、自分は聖書の神の意思を結構守れているのではないか?ところが、イエス様はこのことについて何と教えていましたか?たとえ行為で犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わっていると教えました。

以前にもお教えしましたが、スウェーデンやフィンランドには「罪」を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」の二つを言い表す言葉があります([]gärningsyndarvsynd[フィ]tekosyntiperisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いできた罪です。この罪があるから行為に現れる罪も起こる、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。具体的な形の罪を犯さない人でも、置かれた環境や境遇が違っていたら犯していたかもしれないのです。

マルコ福音書7章を見るとイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にするのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。だから、本日の個所のファリサイ派の人が自分は週に二回断食してる、購入物の10分の1を神殿に捧げている、などと祈っても、それをすることで汚れは除去できておらず、神の目に罪のない相応しい者にもなっていないのです。本人はその気でいるので気の毒なのですが。それでは、人間は一体どうしたら神から切り離された状態に終止符を打てて、神の目に相応しい者となれるのでしょうか?

これを人間の力ではできないとわかっていた神は、それを神の方でしてあげようと、ひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様は人間の全ての罪を十字架の上にまで背負って運びそこで神の罰を受けられて、人間に代わって罪の償いを果たされました。つまり、神はイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて永遠の命があることを人間に示し、その扉を人間のために開かれました。人間の目の前に神のもとに通じる道が開かれたのです。人間は、これらのことが全て自分のために整えられたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様がしてくれた罪の償いを頭から被されて、神の目から見て罪を赦された者と見なされます。こうして人間は、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神の目に相応しい者とされ、神のもとに通じる道の上に置かれてその道を歩むことになります。神との結びつきを持って生きられるのですから、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られます。この世を去って神の前に立たされるまさにその時、洗礼の時に被せてもらった汚れなき衣を肌身離さず携えて歩んだことを覚えてもらい、永遠の労いの祝宴に迎え入れられるのです。

ここで一つ注意しなければならないことは、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きている以上は罪や汚れた悪い思いを内に抱えているということです。この点は、信仰者も信仰者でない者も同じです。ところが、キリスト信仰者の場合は、神がイエス様を用いて成し遂げて下さった罪の赦しを、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して受け取ったので、神からそう見てもらえるということです。神との結びつきを回復してもらえ、神から守りと導きを得られて生きられることを感謝し、神の意思に沿うように生きようとします。その時、神の意思に沿うということが恐らく信仰に入る前よりも敏感になるのではないかと思います。そうなると、徴税人の「神様、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りはキリスト信仰者こそ祈らなければならないものになります。しかし、何も心配はありません。私たちはその度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、あのお方の肩の上に私たちの罪が重くのしかかっていることを確認できれば、あそこに私たちの罪の赦しがあることがわかります。父なるみ神はひとり子を犠牲にするのを厭わないくらいに私たちを愛して下さることがわかります。神は、罰するかわりに本当に赦しを与えて下さることを私たちがわかるようにと、イエス様をこの世に送られて十字架の死に引き渡したのです。

そういうわけで、信仰者になった後も「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りは終わることはないとは言っても、イエス様を救い主と信じてこの祈りを祈る人は、イエス様の身代わりの死に免じて神から罪を赦されます。イエス様を信じない人は、誰かの何かに免じて罪が赦されるということがありません。それで、全て自分の力で赦しを得なければならなくなります。しかし、それは不可能です。本日の個所のファリサイ派の人の祈りはまさにそのことを表わしています。自分を高くする者は低くされるというのは、罪の問題が果てしなく大きなものであることがわからず、人間の知見と努力で解決できたと思った瞬間、その果てしなく大きなものに蹴散らされてしまうことです。自分を低くする者は高くされるというのは、罪の問題が果てしなく大きなものであることを知って茫然として身がすくんでしまった瞬間、神の御手が自分を離さずしっかり支えていることに気がつくことです。

4.創造主である神のもとに向かう道を祈りながらひたすら歩もう

先ほど、キリスト信仰者というのは、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神の目に相応しい者とされた者であると申しました。そして、神のもとに通じる道の上に置かれてその道を歩むことになり、神との結びつきを持って生きられるので、絶えず神から助けと良い導きを得られる者であるとも。この世を去って神の前に立たされるまさにその時、洗礼の時に被せてもらった汚れなき衣を肌身離さず携えて歩んだことを覚えてもらい、永遠の労いの祝宴に迎え入れられる者であるとも申しました。本日の使徒書、第二テモテ468節のパウロの言葉は、この世を去る時が近づいたことを自覚した彼が、まさにそのような生き方を総括する言葉になっているので、それをもう一度お読みして本説教の結びとしたく思います。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」

兄弟姉妹の皆さん、パウロの言葉の次の部分が私たちにとって重要です。「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」イエス様の再臨を待ち望む人、それは神の正義が完全に実現する日を待ち望み、それを絶やすことなく祈る人です。私たちも、その祈りを絶やさずにこの道をひたすら歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2019年10月21日月曜日

神の守りと導きは、たとえないように見えても、実はしっかりあるのだ (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年10月20日(聖霊降臨後第19主日)スオミ教会

創世記32章23-31節
テモテへの第二の手紙3章14節-4章5節
ルカによる福音書18章1-8節

説教題 「神の守りと導きは、たとえないように見えても、実はしっかりあるのだ」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様を救い主と信じる信仰に立って旧約聖書を読むとどうなるか?

本日の使徒書の日課、第二テモテの315節を見ると、パウロは弟子のテモテに次のように言っています。お前は子供の時から神聖な書物を知っていて、それらの書物はイエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと救いに導く知恵を与えてくれる、と。新共同訳では「神聖な書物」のことをご覧のように「聖書」と訳していますが、これは誤解を与える訳です。「聖書」と言ったら、今私たちが手にしているこの分厚い本です。旧約聖書と新約聖書が一緒になっている本です。ところが、パウロがテモテをはじめあちこちに手紙を書き送っていた当時は、まだ新約聖書は出来ていません。イエス様の言行録を収めたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書が出来るのはもう少し先のことです。書かれたもので出回っていたのは、パウロをはじめとする使徒たちの手紙くらいでした。イエス様の言行録はと言うと、直接の目撃者である使徒たちが自分たちの口で宣べ伝えていました。宣べ伝えの核心部分は、まさに自分たちが目撃したイエス様の十字架の死と死からの復活によって旧約聖書の預言が実現したということでした。使徒たちが晩年の頃ないしこの世を去る頃になって、イエス様の言行録が書き留められて福音書が出来上がりました。そういうわけで、それ以前は「神聖な書物」と言ったら、それは専ら旧約聖書を指したのでした(後注)。

その旧約聖書を、イエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと救いに導く知恵が与えられる。これはどういうことか?まず、「救い」とは何か?それは、イエス様が人間の罪の償いを神に対して代行して下さった、それで、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを頭から被せられて、罪を赦された者として神に見てもらえるようになる。そうして、罪が人間に入り込んだ堕罪の時に断ち切れてしまった神との結びつきが回復する。そして、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、神から守られ導かれて生きられる。この世を去った後、最後の審判の日に神の前に立たされても大丈夫でいられる。なぜなら、イエス様を救い主と信じる信仰を肌身離さず携えて生きたので、それで罪を赦された者として認められて神の御国に迎え入れられる。以上が、キリスト信仰で言う「救い」です。

第二テモテ315節は、旧約聖書をイエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと、この救いに導いてくれる知恵が与えられる、と言います。本日の旧約聖書の日課はヤコブが神と格闘した出来事でした。ヤコブは負傷しても神から祝福を受けるまでは神にしがみついて離しませんでした。天地創造の神が一人の人間と取っ組み合いをするなどとは想像を超える出来事です。実は3年前このことについてどう考えたらよいかお教えしました。今回はそれを繰り返しません。この旧約聖書の出来事も、パウロによれば、イエス様を救い主と信じる信仰に立って読めば、救いに導く知恵を与えてくれます。本日の説教では最初に、福音書の個所をもとにイエス様を救い主と信じる信仰を深めてみます。その後でヤコブの格闘の出来事から救いに導いてくれる知恵を頂きましょう。

2.やもめと裁判官のたとえ

本日の福音書の個所は、イエス様の「やもめと裁判官」のたとえの教えです。この教えは弟子たちに語られますが、その目的は弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。もちろん、これは弟子たちだけに向けられたのではなく、イエス様を救い主と信じる全てのキリスト信仰者に向けられています。つまり私たちにも向けられています。

なぜ、イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを強調したのでしょうか?それは、弟子たちも私たちも、神に守られ導かれているとは言っても、この世ではそう思えなくなるような厳しい現実があり、そういうものに直面していくうちに神の守りや導きなんかないと思うようになってしまうからです。特に本日の箇所に即して言えば、不正や不正義に圧倒されてしまって、あきらめ心になって、神に解決を祈り求めることを止めてしまう、そういう危険があることをイエス様は知っていました。このことをイエス様が深く心配していることが、本日の箇所の最後の節で明らかになります(8節)。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様が天使の軍勢と共に再臨される日、果たしてこの地上には気を落とさず祈りを絶やさない信仰を持った人は残っているのだろうか、それともみんな祈りを絶やしてしまった後だろうか、というのです。それほどキリスト信仰者は、厳しい現実に絶えず遭遇しながら生きていかねばならないのです。ここで、イエス様の教えをじっくり見て、やはり祈りは何があっても絶やしてはいけないのだ、ということを体得していきましょう。

まず、登場人物について見ていきます。裁判官は、「不正な裁判官」(6節)と言われています。この日本語訳は正確とは言えません。ギリシャ語のアディキア(αδικιαという単語がもとにありますが、「不正な」と訳すと、何か不正を働いた、私腹を肥やすようなことをしたというようなイメージが沸きます。この裁判官は本当はどんな人物だったかは、本日の箇所にしっかり言い表されています。イエス様が彼のことを「神をも畏れず、人を人とも思わない」人物と描写します(2節)。裁判官自身も、自分のことを全く同じ言葉で言い表します(4節)。つまり、「不正な」と言うよりも、人を人とも思わないから無慈悲、無情な人物、神を畏れないから尊大な人物と言えます。その意味で「不正な」と言ってもいいのですが、正確には「無慈悲で尊大な」裁判官です。

 次に「やもめ」、つまり未亡人について。伝統的にユダヤ教社会の中で未亡人は社会的弱者の一つと認識され、彼女たちを虐げてはならないことが神の掟として言われてきました(出エジプト2221節、申命記2719節、詩篇686節、イザヤ117節、ゼカリア710節)。夫に先立たれた女性は、もし十分な遺産がなかったり、成人した息子がいなければ、生きていくのは困難だったでしょう。遺産があっても、不正の的となって簡単に失う危険があったことが聖書の中から伺えます(例えばマルコ1240節を参照)。

 さて、ある未亡人が何かの不正にあって、この裁判官にひっきりなしに駆け寄り、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」としつこく嘆願します。ギリシャ語の原文に忠実に言うと、「相手を裁いて、わたしのために正義を実現して下さい(εκδικησον με)」です。裁判官は、最初は取り合わない態度でしたが、何度もしつこく駆け寄って来るので、しまいには「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えるに至ります。「さんざんな目に遭わせる」は、ギリシャ語では「目に青あざを食らわす」(υπωπιαζωという意味の単語です。相手が裁判官で、そんなパンチを浴びせるなどという暴力沙汰になったら大変な事態になります。しかしそれは、未亡人はもう他に何も失うものはないという位に切羽詰った状況にいたということです。「彼女のために裁判してやろう」というのも、これもギリシャ語に忠実に訳すると「彼女ために正義を実現してやろう」(εκδικησω αυτην)です。

 ここでイエス様は弟子たちに注意を喚起して言います。この裁判官の言いぐさを聞きなさい。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの執拗な嘆願に応じるに至ったのだ。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」イエス様がよく用いる論法に「~ですら~するならば、神はなおさらそうするであろう」というのがあります。神は明日にも枯れてしまう野の草花ですらこんなに美しく飾って下さるのであれば、お前たちのことはなおさら面倒を見て下さるのは当然ではないか、というマタイ62830節の文句は皆さんもよくご存知でしょう。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの正義の実現のために動いたのだ。ましてや、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずにいつまでもほうっておくことなどはありえない、神は速やかに裁いてくださるのだ。ここで言う「裁きを行う」というのは、先ほどと全く同じように「正義を実現する」(ποιεω την εκδικησιν)です。「速やかに裁いてくださる」も同じ「正義を実現する」です。実にこの箇所では、日本語訳では見えてきませんが、「正義の実現」を意味する言葉が4回も使われ、正義の実現と祈りを絶やさないことが問題になっているのです。

3.神をおいて正義を完全に実現される方はいない

不正を働く者が他者に害を及ぼすと、正義が損なわれます。その場合、国の法律や司法制度が作動して、不正を働いた者には処罰、害を被った者には補償を実現します。それがないと正義がない状態になります。不正を被るというのは、信仰を持っていようがいまいが関係なく被ってしまうものもあれば、信仰を持つがゆえに被ってしまうものもあります。キリスト信仰では、十戒という神の意思が確固としてあるので、周りでそれに反することがあれば、自分はそれに組しないとか、場合によってはそれに反対する姿勢をはっきり示すことが出てきます。もちろん、十戒の中には「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、「偽証するな」などのようにキリスト信仰者でなくても共有できる正義もあります。だた、天地創造の神を唯一の神として全身全霊で愛せよ、とか、神の名を汚すな、とか、安息日を神聖な日にせよ、とか、共有しないものもあります。キリスト信仰者でない者同士の間でさえ意見や利害の対立が生まれたり、そこから相手を打ち負かしてやろうという野望が出てきたりします。これにキリスト信仰者が入り込んだら、摩擦や軋轢の原因がさらに増えることになります。パウロの時代のようにキリスト教徒が社会の圧倒的少数派であれば、これはもう痛い目に遭わせてやろうという格好の標的になります。

それに対してキリスト信仰者はどう立ち振る舞ったらよいのか?それをパウロはローマ12章で訴えるように教えています。悪に対して悪で報いるな、悪人善人に関係なく全ての人に対して善を行え(17節)、周りの人と平和な関係を保てるかどうかが我々信仰者の肩にかかっている場合は迷わずそうせよ、相手がどう出ようが、少なくとも自分からは平和な関係を崩すな(18節)、悪を被った時は自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、なぜなら復讐は神のすることであり、報いを行うのは神だからだ(1920節)。ここの日本語訳で「信仰者は復讐してはいけない、復讐は神がすることだ」と言っている「復讐」ですが、ギリシャ語原文では、やもめと裁判官のたとえで言っていた「正義を実現する」と同じ単語(εκδικησις)です。つまり、信仰者は悪を被った時、悪を行った者に完璧な償いをさせて完全な正義を実現するのは神であるとわきまえなければならない。信仰者は神に代わって自分で完璧な償い、完全な正義を実現しようとしてはならない。じゃ、キリスト信仰者は悪を被ったら何をするのか?それは、完璧な償い、完全な正義は最後の審判の時に神が実現するということに全てを託して、今は悪を行った者が飢えていたら食べさせ、喉がかわいていたら飲ませるだけだ、ざまあみろと言ってはいけない(20節)。以上のようなパウロの教えに対して、そんな馬鹿な!なぜ、そんなお人好しでなければならないのか?そういう声が上がるかもしれません。

これは、悪を行う者がなんだ悪をしてもこんなによくしてもらえるんだったらやっても構わないんだなどと、いい気にさせるために行うのではありません。そうではなくて、その者がいつかイエス様を救い主と信じる信仰に入る可能性があるから行うのです。イエス様が十字架にかかったのは、その人の罪も神から赦されるためでした。ただ、その人がイエス様を自分の救い主と信じていないから、神から赦しを頂いていないだけです。イエス様も言うように、神が善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、悪人にしたい放題させるためではなく、その者が神に背を向けた生き方を方向転換する可能性を与えているのです。もし悪人に太陽を昇らせず雨を降らせず滅んでしまったら、元も子もありません。逆に方向転換のための猶予を与えているのに、それに気づかず同じことを繰り返していれば、最後の審判に向かって自分で自分を窮地に追い込んでいることになります。まさに「燃える炭火を頭に積むことになる」(20節)わけです。

このことは、イエス様が「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」と言っている「選ばれた人たち」ということが関係してきます。「選ばれた人」とはイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者を指します。イエス様の罪の償いを頭から被せられて、神から罪を赦された者となって神との結びつきに生きる者です。そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰を持たない人たちは「選ばれない者」になってしまうのか?そういう問いも出ます。しかし、今の時点で信仰を持っていない人たちを「選ばれない人」と結論づけるのは早急です。なぜなら、今は信仰を持っていなくとも、将来のある日、その人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることになれば、「ああ、この人も実は『選ばれた人』だったんだな。あの頃は想像もつかなかったなぁ」ということになるからです。このように、私たち人間の目では全ては事後的にわかるだけです。それゆえ、現時点の観点で「あの人は『選ばれた人』ではない」と結論づけることはできません。大切なことは事後的に「選ばれた人」が一人でも多くでるように、私たちが福音伝道のために働くということです。神がイエス様を用いて実現された救いは、世界の全ての人々に提供されているので、それを受け取る人が一人でも増えるように信仰者は働きかけていかなければなりません。

4.キリスト信仰者は永遠の視野をもって正義のために祈る

 正義の実現ということについて、キリスト信仰者は、それを完全に実現するのは神であって人間ではないと観念していることがわかりました。正義の完全な実現は最後の審判の時に果たされます。このように神が実現される完全な正義というのは、最後の審判ということがあるので、この世を超えた永遠という視野をもってしないと見えてきません。実はこのことを2週間前の説教でお教えしました。その時の福音書の個所はイエス様が金持ちとラザロの話を使って教えたところでした(ルカ161931節)。イエス様は、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には最後の審判の時に必ず解決されると言います。復活の日、最後の審判の日には、歴史上の全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われ、清算すべきものがあれば完璧にされるのです。

 黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在することが言われています。これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。

この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと言われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。たとえ解決が結果的には来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神に感謝!ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神は最後の総決算のために全てのことを全部記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神がかわりに全てを正確に完璧に把握してくれています。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあって、それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿おうとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないようにと、神の秩序は出来ているのです。

キリスト信仰者が神の正義が実現するようにとあきらめずに祈れるのは、それをこの世を超えた永遠という視野において見ることが出来るからです。この世では不完全だった正義が完全に実現する時がこの世が終わった後に必ず来る。あきらめずに祈るというのは、このことを信じていることを証しする行為です。祈りが、単に神に対するお願い事という殻を破って、神は約束を実現される方であるということを証しする行為になります。またはそれを自分に言い聞かせる行為になると言ってもいいでしょう。逆に、あきらめて祈らなくなるというのは、この世の不正義に圧倒されて神は約束を実現される方ということを見失うことです。もちろん永遠という視野も失ってしまいます。あきらめずに祈る者は、正義が実現するのは必ずそうなるという思いで祈るので、いつ起きてもおかしくないという一種の臨戦態勢にいます。イエス様が「神は速やかに正義を実現される」と言ったのは、神がイエス様の再臨をこの日と決めて行動を起こしたら、全てのことは一気に速やかに進むということです。

5.困難の時にも神は共にいて守り導いて下さる

以上、イエス様を救い主と信じる信仰をもって生きる者は、この世を超えた永遠の視野を持っており、神が正義を完全に実現する時が必ず来ると確信して、この世の不正義がなくなるように昼も夜も祈り続けることが出来るということを見てきました。このような永遠の視野を持つキリスト信仰に立って、ヤコブの格闘の出来事を見たら、果たして救いに導く知恵が得られるでしょうか?

ヤコブの人生を振り返ってみますと、神の言うとおりにすればするほど一層困難を抱えてしまうような生き方でした。父親からもらえるはずの祝福をヤコブに奪われた兄エサウは、弟を生かしてはおけないという位の復讐心に燃え上がりました。ヤコブは故郷を捨てて逃げます。その時、神がヤコブに約束しました。「見よ、私はお前と共にいる。お前が行く先々でお前を守り、必ずお前をこの地に連れ帰る。なぜなら、私は、お前に約束したことを果たすまで決して見捨てないからだ」(創世記2815節)。ヤコブは神が約束を果たす方と固く信じました。次から次へと困難が降りかかってもヤコブが神にしがみついて生きたことは、ぺヌエルでの格闘に見事に象徴されています。負傷してもヤコブは祝福を受けるまでは神にしがみついて離そうとせず、それで神も祝福を授けたのでした。やがて逃亡から長い年月の後、ヤコブは兄エサウと劇的な和解を遂げて故郷に帰ることができました。数々の困難があったのですが、全てが終わった後で全体を振り返ってみると、神は約束通りずっとヤコブと共にいて守り導いたことがわかります。困難はありましたが、それは神が離れたとか見捨てたということではありませんでした。人間の観点では理解しがたいのですが、困難の時にも神は共にいて守り導いていたのです。困難は神が見捨てたことを意味しなかったのです。神は自ら立てた約束を必ず守る方だからです。

さて、キリスト信仰者がヤコブの格闘の出来事を読んだ時、何を掴み取るでしょうか?間違いなく、神は困難の時にも平穏時となんら変わらず共にいて守り導いて下さる方であるということでしょう!そうなると、困難に陥っても、不正義を被っても、神が見捨てたなんて全く思いもつきません。逆にそれらは、祈りを一層強くするきっかけになるだけです。まさに、旧約聖書から救いに導く知恵をまた一つ得たことになります。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)使徒たちが手紙を書き送っていた頃の旧約聖書というのも、果たして今私たちが手にしているものと同じかどうか定かでない部分があります。ヘブライ語の旧約聖書に含まれている書物とギリシャ語訳の旧約聖書に含まれている書物に違いがあることからそれが伺えるし、また、死海文書で有名なエッセネ派は啓示思想を表わす書物を幅広く権威あるものと見なしていました。

2019年10月7日月曜日

キリスト信仰者の自己肯定感 (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年9月29日(聖霊降臨後第十七主日)スオミ教会

ハバクク書2章1-4節
テモテへの第二の手紙1章3-14節
ルカによる福音書17章1-10節

説教題 キリスト信仰者の自己肯定感

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、イエス様が弟子たちを相手に教えを述べているところです。4つの教えがありますが、それぞれどう関連しあっているか、わかりにくくバラバラな感じがします。

最初の教えは、信仰をつまずかせることが起きるのは避けられない、そして信仰をつまずかせる者は不幸である、と言います。ここでイエス様は面白い言い方をします。他人の信仰をつまずかせる者にとって有益なことは、人をつまずかせることではなくて、首に碾き臼をかけられて海に投げ込まれることである、と言います(後注1)。碾き臼とは穀物などを挽いて粉にする臼で石で出来ています。とても重いです。「投げ込む」はギリシャ語原文の動詞は現在完了ですので、投げ込まれてそのままの状態です。海底に沈められてそのまま出てこない方がその者にとって有益である、と言うのです。なぜ有益なのかと考えると、その者が沈められないで出てきたら他人の信仰をつまずかせたという汚名を自ら着せることになります。それで最後の審判の時に創造主の神の前に立たされたら、もう一巻の終わりです。そういう汚名を自ら着せる位なら、海底にひっそり沈んでいた方がその者のためであるというわけです。

信仰をつまずかせるとはどういうことか?まず信仰とは、イエス様を救い主と信じる信仰です。それをつまずかせると言うのは、イエス様が救い主でなくしてしまうことです。信仰者が信仰者でなくなるようにすること、そういうことをする者は海底に沈められた方が良いと言う位に重大なことだと言うのです。イエス様を一度救い主と信じた後でそうなくなること、またなくなるようにすることがなぜそんなに重大なことなのか?現代に生きる人たちには不可解かもしれません。宗教の自由というものがあります。何を信じようが信じまいが、個人の自由である、勝手である、と。かつて若気の至りでイエス・キリストを救い主などと言ってしまった時期があったが、その後の人生でいろいろあって、信じても良いことはそんなになかった、とか、別の何かを信じたらそっちの方が良かった等々、そんなふうにイエス様が過去の人物になってしまったという人もいます。そういう人たちは、何が何でもイエス一筋というのは自分を縛り付ける不自由だと考えているでしょう。しかし、イエス一筋をやめるというのは本当は、自由を手にしてもそれはそんなに大したものではなかったと気づいて悔やまれるくらいの大損なのだ、ということを後ほど見ていきます。

信仰をつまずかせるものについて教えた後に、信仰を同じくする者が罪を犯したら、ちゃんと戒めなさい、それで赦しを乞うたら赦してあげなさい、という赦しについての教えが来ます。7度罪を犯しても、7度赦しを乞うたら、そのたびに赦してあげなければならない。マタイ18章を見ますと、ペトロがイエス様に、赦すのは7回までいいのか、つまり8回目以降はないということか、などと確認するところがあります。それに対してイエス様は770倍までだと答えます。つまり、赦しは際限なく与えられなければならないと言うのです。現実に490回も悪さを繰り返す人はいないと思いますが、こちらは痛いつらい思いをして、相手は以後気をつけます、赦して下さい、と言って、それで赦してあげても、そんなことの繰り返しだったらいい加減あきれてしまいます。謝罪に重みが感じられなくなって、もう赦す気がなくなってしまうでしょう。しかし、イエス様は赦しを乞われたら赦しなさいと言うのです。なんだかキリスト信仰者はお人好しの馬鹿みたいな感じがしてきます。どうしてイエス様はそんなことを教えるのでしょうか?このことも後で見ていきます。

次に来る教えは、弟子たちが「信仰を増して下さい」とお願いしたことに対して、イエス様が不可解な答えをします。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じですが、他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。イエス様の答えから推測するに、弟子たちの質問の趣旨は、大きな業が出来るようになるのが信仰の大きさの証しになるので、そんな大きな信仰を与えて下さいということです。それに対するイエス様の答えは、お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、目の前の桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。からし種というのは、諸説ありますが、1ミリに満たない極小の種でそれが34メートル位にまで育つと言われています。そこでイエス様の答えを聞くと、弟子たちが桑の木に命じてもそんなことは起きないから、彼らの信仰は極小のからし種にも至らない、極々小だ、と言っていることになります。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、これでは、お前たちの信仰は小さすぎて救いようがないと言ってることになってしまいます。イエス様は何か勇気づける話はできなかったのでしょうか?イエス様の真意は一体なんだったのでしょうか?これも後で見ていきます。

そして4番目の教えです。召使いを労わない主人についてです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて、自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか、企業だったらブラックと同じではないか?そんな疑問が生まれます。本当にそうなのか、これも見ていきます。

2.キリスト信仰者の自己肯定感

わかりそうで実は難しい4つの教えの4番目のものから見ていきます。イエス様は自己肯定感の育成にマイナスなことを教えているのか?ここで言われている「命じられたこと」というのは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、本日の個所の4つの教えは全部、信仰について弟子たちに教えるものだからです。この4番目の教えもそうです。それで、「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間の雇い主と雇われ者、親と子、先生と教え子の関係のことではありません。

神が人間に命じていることをする、人間が神の意思に従って生きるというのは、言うまでもなく、神を全身全霊で愛することと、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということにつきます。信仰者はそういうことが出来ても、神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないで当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても、顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってきます。自分がいても意味がないということになれば、自己肯定感なんか生まれないでしょう。

ところが、神は、私たちへの労いや誉め言葉など取るに足らないものだ、そんなものがなくても全然平気と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、まず御自分のひとり子イエス様をこの世に送られました。そこで、私たちが持っている罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていたのですが、それを神はイエス様を使って回復して下さったのです。どのようにして結びつきを回復したかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対してして下さったのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命があることを示され、そこに至る扉を私たちに開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、この完璧な罪の償いを頭から被せてもらって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。神のひとり子が果たして下さった罪の償いを手放さずしっかり身につけてこの世を生きていくと、創造主の神の前に立つかの日には、何もやましいところはない者として堂々と立つことができる。本当は失敗だらけで至らないことが沢山あったのだが、その度に心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しを乞うた。そうすると、一度打ち立てられた罪の赦しはびくともせずそこにあるとわかり、神への感謝に満たされて再び命の道に戻ることが出来た。命の道とはまさに、繰り返し繰り返し赦されるという道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、そのような道に置かれて歩む人生になるのです。その道の歩みを神は義と見て下さり、かの日に神の前に堂々と立つことが出来るのです。

まさに、ここにキリスト信仰者の自己肯定感があります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰の中で歩んだおかげで、神の前に立たされても全く大丈夫でいられる、何もやましいことはないと見なしてもらえる。そのようになれるために神は私にイエス様を贈って下さった。まだ私が何か神に注目されるようなことを仕出かす前に。逆にそれどころか、神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はイエス様を贈って下さったのだ。

これらのことがわかると、やるべきことをして労われて誉められたというのとは全く逆に、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになります。だからキリスト信仰者は、後は神に命じられたことをただするだけ、別に神から労われたり誉められなくても全然平気なのです。そんなものは一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと見なしてもらえるということを、神はひとり子を使ってして下さった。創造主の神がこれだけ私に目をかけて下さった、これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを期待しなくても平気でいられる位の自己肯定感です。

もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることも、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただ、キリスト信仰者の場合は、人間同士の間から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところに創造主の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。だから、人間同士のすることで神の意思に沿わないことが出てきた時も、別に人間からほめられなくてもいいや、と言って、神の意思に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、先ほども申しましたように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらっているからです。神がひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それでせいせいした気持ちでいられます。

そのように考えると、自己肯定感が神との関係から生まれてくるものがなくて、人間同士の間から生まれるものだけだと、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価される注目されるということを見極めて、それに自分を一生懸命あわせなければなりません。自己肯定感のためにやっていたはずのことが窮屈な思いをさせることにならないでしょうか?

イエス様の4つの教えの2番目のもの、何度も罪を犯す兄弟を何度でも赦すこともキリスト信仰者の自己肯定感と関係してきます。私たちは、父なるみ神から、ひとり子を犠牲に供しなければならない程の罪を赦してもらった。そこまでしないと、私たちは創造主の神の前に立たされて大丈夫ではいられないのです。神がひとり子を犠牲にする位の罪の償いと赦しを得ることが出来たら、もう兄弟の罪は色あせます。赦しを乞われたら、何度でも赦してあげなければなりません。先ほども申しましたように、キリスト信仰者自身、それこそ毎日罪の赦しを確認してもらわなければならない位、神に対してやましいところがまだあるのです。神から毎日赦してもらいながら、自分は他人を赦せないというはなしです。

ここで一つ難しいことがあります。それは、もし相手が赦しを乞わなかったらどうするか、その場合は、赦さなくていいのか、ということです。ここで思い出さなければならないことは、使徒パウロがローマ12章で「復讐は神のすること」と言っていることです。私たちとしては、悪を行った者が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませなければならないということです。ざまあみろ、飢えて死ね、は神が私たちに求めていることではないということです。私たちとしては、悪を行った者が神のもとに立ち返る生き方に入れるように手立てを考えなければならない、これが神の意思です。それがどんな結果に至るかは、神に任せて、私たちとしては神の意思に沿うことをするだけということです。

 以上、4番目と2番目の教えを見ましたが、ここから、1番目の教え、信仰をつまずかせることがどうして重大なことかということは、これはもう明らかでしょう。イエス様を救い主と信じる者からその信仰を引き離してしまうというのは、神の前に立たされる日に堂々と立つことができなくなるようにしてしまうことです。神からやましいところはないと見なしてもらえる術を失わせてしまうことです。キリスト信仰者から根本的な自己肯定感を奪い去ることです。これを重大ではないと言ったら、何が重大と言えるでしょうか?信仰者をそのような状態にしようとする者は海底に沈んだままで表に出てこない方が、その者のためにもよいのです。

3.からし種のように成長する信仰

最後に3つ目の教えを見てみます。信仰の成長についてです。初めにも申しましたように、イエス様の答えは、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だと言っているように聞こえ、それでは弟子たちをがっかりさせてしまうものに思えます。

ここは次のように考えたらよいと思います。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」となっています。それを続く文と一緒に考えると、実はお前たちにはからし種一粒ほどの信仰さえない、ということを暗示していることになります。それで、「もしあなたがたに(…..)あれば」というのは、実際にはないことを前提に言っているので、高校の英文法式に言えば、事実に反することを意味する仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去は使われておらず、素直な仮定法現在です(後注2)。つまり、ここのところは事実に反することを暗示してはおらず、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことが起きるだろうし、もし持っていなければ起きないだろう」という、中立的なことを言っているだけです。どんなことが起きるかというと、ここの部分は仮定法過去になっているので、「(そんなことは誰も命じないだろうが)目の前の桑の木に命じるようなことを仕出かして、木の方も素直に言うことを聞くであろう」です。

それではイエス様の趣旨は何だったのか?少し整理してみましょう。からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。さて、弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種のことを思い出しなさい、極小なものから立派な木が育つではないか、お前たちの信仰も同じだ、極小のものが立派なものに育つのだ、大きくして下さいと言って一挙にハイ大きくしてあげました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注3)。

このように、ここは、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から立派な木に育つからし種と同じなのだ、成長するものなのだということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように信仰も成長すると勇気づけているのです。それでは、信仰が成長して、不思議な業を行えるようになるのか、行えなければ成長したことにならないのか?奇跡の業は、神の恵みの賜物(χαρισμαカリスマ)の領域ですので、みんながみんな行えるものではありません。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神が聖霊を通して自由に決めることです。奇跡の業を行える者が持たないような恵みの賜物も当然あります。だから、人目を引く業があるからと言って、あの人の信仰は成長したと言ってはいけません。人目を引かない業もあるからです。残念ながら、信仰者といえども人目を引くものに基づいて判断しがちです。

それでも、恵みの賜物がどれだけ異なっていても、信仰者全員が共通して持つことになる奇跡の業があります。それは神の前に立つことになるその日、至らないこと失敗がいろいろあったにもかかわらず、神から大丈夫、やましいところは何もないと宣せられて、栄光に輝く復活の体を着せられることです。ルターも、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になるのは肉の体が滅び去って復活の体を持つときだと言っています。恵みの賜物は異なっていても、これだけは全員同じです。

最後に、「信仰が成長する」と言いましたが、正確には「信仰にあって私たちが成長する」ということでしょう。信仰はイエス様を救い主と信じる信仰で、それ自体は大きくなったり小さくなったりしません。誰にとっても同じ内容、大きさです。問題はそれを受け取った私たちが、それを手放さずにしっかり携えてこの世を生きられるかです。私たちの成長が試されるのです。先ほども申しましたように、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度にゴルゴタの十字架に心の目を向け、自分が罪の償いを着せられていることを確認してまた歩み出す。その繰り返しです。その繰り返しをすることが、信仰にあって成長することです。信仰に自分を適合させて成長することです。適合すればするほど成長し、最後はからし種の立派な木のようになります。その時が復活の日なのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1)日本語訳では「投げ込まれる方がましである」ですが、ギリシャ語原文のλυσιτελει αυτωは「彼にとって有益である」です(ηが後にあるので「より有益である」)。

(後注2)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεει εσχετεになるべきでしょう。

(後注3)εχετε  ως は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(IHeikel & AFridrichsenGrekisk-SvenskOrdbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。