2015年7月18日土曜日

神の御言葉という驚異の種 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音教会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年7月12日 聖霊降臨後第七主日

エゼキエル書17章22-24節
コリントの信徒への第二の手紙6章1-18節
マルコによる福音書4章26-34節

説教題 「神の御言葉という驚異の種」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 皆さんは自分で種を植えて草花を育てたことがありますか?私は生まれてからずっと集合住宅で、庭付きの家に住んだことがなかったので、あまりそういう経験がありません。それでも小学校の頃、夏休みの課題で朝顔の種を買ってそれを団地のベランダの植木鉢で育てたことがあります。黒くて少しでこぼこした形で固めだったでしょうか、1センチ程もない種から芽が出て、茎が伸びて葉も出て、身の丈50センチから1メートル位になったでしょうか。やがて、花のつぼみも出てきて、もうそろそろかなと朝早く起きて見ると朝日を浴びるようにして咲いている。それを、どんな気持ちだったかは覚えていませんが、ベランダに腰かけて感慨深くしばらく眺めていたことを覚えています。まだほんのり涼しさが漂う夏の朝の、今から思えば、ちょっとした非日常的な体験を味わったのではないかと思います。

本日の福音書の箇所でイエス様は、神の国について教える際にそれを種の成長にたとえて話します。二つあるたとえのうち後のもの、「からし種」のたとえはイエス様のたとえの中で良く知られたものの一つです。蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、これが神の国を連想させるというのであります。ここで言われている「からし種」とは、日本語でクロガラシ、ラテン語の学名でブラッシカ・ニグラと考えられています。その種はほんの1ミリ位で、成長すると大きな葉っぱを伴って23メートル位になるそうです。

イエス様のたとえの中では、大きな枝を出してその葉の陰の下に空の鳥が巣を作れるくらいになると言われています。クロガラシは、大きな葉っぱは出てきますが、大きな枝というのはどうでしょうか?少し誇張がないでしょうか?実は、イエス様がそう言われた動機として、先ほど朗読して頂いたエゼキエル書17章が背景にあって、イエス様はそれをたとえに結びつけているのです。
「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」(2223節)。

このエゼキエル書の預言に言われている、大きく育ったレバノン杉というのは、今ある世が終わりを告げて新しい世が到来する時に現れる神の国を意味します。(注 エゼキエル書31章やダニエル書4章のように、大きな木がイスラエルの民に敵対する大国を指すこともありますが、それらは切り倒されるとも預言されています。)この預言はもともとは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国帰還と復興を遂げることを預言するものと考えられていました。ところが、民が帰還してエルサレムの町や神殿を再建しても、取り巻く状況は預言の実現には程遠いことが次第に多くの人々の目に明らかになってくる。そうすると、そうした将来の希望についての預言は実はバビロン捕囚からの帰還ではなくて、さらに後の、この世が終わりを告げて新しい世が到来する時のことを指すのだと気づき出されるようになります。

イエス様自身、神の国というのはこの世が終わりを告げて新しい世が到来する時に現れるものであるとの立場をとります(マルコ132727節など、マタイ253146節も)。それにしても神の国をレバノン杉の大木にたとえず、高さ23メートルほどのクロガラシにたとえるのはどうしてでしょうか?それは、イエス様がここで神の国について教える時、主眼としていることは、からし種のように砂粒のような種が23メートル位の大きさの植物を生み出すという、そういう変化の大きさを強調したいからなのです。もし最終的な大きさだけを強調したければ、レバノン杉の大木がうってつけですが、イエス様としては、最初取るに足らない小さかったものが、そこからまさかこんなに大きな葉や茎が出るとは考えられないという位のものを生み出す、ということを強調したかったのです。それを現実にあるもので誰もが知っているからし種を題材に選んで、イメージがわきやすくなるようにして話をしたのです。

それでは、最初は取るに足らない小さいものがとても大きなものに変化する場合、大きなものとは神の国を指すとして、そうしたら、取るに足らない小さなものとは何を指すでしょうか?からし種にたとえられているものは何なのでしょうか?答えは、マルコ4章を初めからみていくと見つかります。マルコ4章の最初にイエス様のたとえの教えの中で最も有名なものの一つである「種まき人」のたとえがあります(38節)。少し後でイエス様は、そのたとえの解き明しをします(1420節)。そこで、「種まき人は言葉を蒔く」と言います(14節)。つまり、種とは、神の御言葉を指すのです。

これで、からし種のたとえの意味が少し見えてきました。最初に取るに足らないように見える神の御言葉があり、それが出発点となって、最初の小ささからすれば比較にならない大きなものが現れてくる。それが神の国である。神の国とは、そのような見かけは取るに足らない神の御言葉から、そういう大きなものとして現れてくる、というのがたとえの趣旨となります。(注)

本日の福音書の箇所にもう一つ種に因んだたとえがあります。それは、種というのは、一度蒔いたら、蒔いた人が毎日普通に寝起きしている間にも成長していく。種の内部でいろいろ変化が起きて、その変化が外部に現れて、芽になり茎になり葉になり穂が出て実が出来る。蒔いた人は、いちいちその過程を知らなくても、そんなことにおかまいなしに育っていく、という話です。私も今思い起こせば、朝顔の成長も同じだったと思います。ここで、最後に収穫の時が来て「鎌を送る」(29節)と言っていることに注目しましょう。新共同訳では「鎌を入れる」ですが、ギリシャ語の動詞αποστελλωは「送る」です。この原文の意味にこだわると、イエス様はヨエル書413節を引用していることがわかります。そこでは、「鎌を送れ、刈り入れの時は熟した」という神の託宣があります(新共同訳では「鎌を入れよ」ですが、ヘブライ語の動詞(שלח)は「送る」です)。ヨエル書のこの箇所は終末の日の預言です。イエス様もマタイ13章で、「刈り入れ」とは世の終わりの日を意味し、そこで良い麦は倉に収められると言って、神の目に適う者たちが神の国に迎え入れられることについて教えています(2430節、3643節)。

そういうわけで、この蒔かれた土地で「ひとりでに」(αυτοματος)成長して実を結ぶ種のたとえでは、まず種とは、これまで同様に神の御言葉を指します。そして、刈り入れの時というのは、今の世が終わりを告げて新しい世が到来して神の国が現れる時を指します。そこに迎え入れられる人たちが刈り入れられる実にたとえられているのです。このたとえでは、先ほどのからし種のたとえと違って、小さなものが大きなものに変化することがポイントではありません。ここでポイントになっているのは、神の国が到来する日までは、迎え入れられる人は迎え入れられるのに相応しくなるよう成長していく、その成長のもとには神の御言葉が種のようにある。人が神の国に相応しくなるように成長するのは、その人の力や努力によるのではなく、種としての神の御言葉に宿る生命力によるのである、ということです。これで、このたとえの趣旨もわかりました。

2.

 以上、本日のイエス様の二つのたとえの趣旨がわかりました。一つは、神の御言葉には、人が神の国に迎え入れられるのに相応しくなるように成長させる力があるということ。もう一つは、最初見かけは取るに足らないように見える神の御言葉であるが、それが出発点となって、最後は大いなるものとして神の国が現れるということです。実は、こうした趣旨がわかっても、もし「神の御言葉」とは何だ、「神の国」とは何だ、ということがわからなければ、この二つのたとえの正確な意味はまだわからないことになります。そういうわけで、まず「神の国」とは何かについてみていきましょう。

 神の国とは、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今あるこの世が終わりを告げて全てのものが揺り動かされて取り除かれるという時、唯一揺り動かされず、取り除かれないものとして現れるものです(2629節)。この世が終わりを告げるというのは、あまり明るい話に聞こえません。しかし、聖書が伝えていることは、この世が終わりを告げるというのは、同時に次の新しい世が始まることを意味しています。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にとってかわる新しい天と地を創造するという預言が出てきます(6517節、6622節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは同時に、最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもある、そのことが黙示録の21章と22章の中で預言されています。その時既に死んでいて眠っていた者たちは起こされて、その時に生きている者たちと一緒に神の審判を受け、神の目に適う者は神の国に迎え入れられるというのであります。

そこで目を神の国の中に転じると、それは黙示録21章に言われるように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神は涙をことごとく拭い取って下さるところ(4節)です。使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは、朽ち果てる体から朽ちない復活の体に変えられます(第一コリント154255節)。イエス様はそのような者たちを「天使のような者」と呼んでいます(マルコ1225節)。神の国はまた、黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえています(マタイ22114節)。

これらのことを総合して見ると、神の国とは、そこに迎えられた者は朽ち果てない復活の体を与えられ、死も病気もなく皆健康で、前の世の労苦を全て労われ、また前の世で被った不正や不正義が全て神自らの手で最終的に清算されてすっきりするところ、その意味で道徳的倫理的に完成された状態と言うことができます。

本日の旧約の日課の中で、神が「高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる」(エゼキエル1724節)と言われていますが、イエス様も多くの箇所で、高いものは低くされ、低いものは高くされる、先のものは後にされ、後のものは先にされる、と教えています(マタイ1930節、2312節など多数)。今この世で神の意思に沿わない仕方で高いところにいる者や一番前にいる者は、最終的には全く逆の立場に置かれる。今はそうした者のために低くされ一番後にされている者は、これも最終的には全く逆の立場に置かれる、ということです。イエス様の有名な「山上の説教」のはじめに「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ54節)という教えがあります。これも、ギリシャ語の原文に即して訳せば、今悲しんでいる人たちは幸いである、彼らは将来慰められることになる、という約束の言葉です。この世で起きた不正や不正義は、うまく行けばこの世の段階で補償や救済がなされるかもしれません。もちろん、それは目指さなければならないことですが、いつも実現するとは限りません。また、なされた補償や救済も正義の尺度にぴったり当てはまるものかどうかということも難しい問題です。それで、神の意思が隅から隅まで貫徹されている神の国では、そうした無数の不均衡が最終的にぴったり清算されるところと考えてよいと思います。

神の国は、イエス様が教えたというだけではありません。イエス様が地上にいた時、それはイエス様とくっつくようにして一緒にありました。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業に窺えます。イエス様が一声かければ、病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。果ては、一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業を受けた人たちというのは、神の国の中での存在の仕方が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという存在の仕方が身に降りかかって病気が消えてしまった、飢えなどないという存在の仕方が身に降りかかって空腹が解消された、自然の猛威の危険などないという存在の仕方が身に降りかかって舟が沈まないですんだという具合です。そのようなことが起きたのは、まさに神の国がイエス様とくっつくようにしてあったからですが、奇跡を受けた人たちというのは、自分で気づいていたかどうかはともかく、遠い将来見える形で現れる神の国を垣間見たとか、味わったことになるのです。2週間前の説教でも申し上げましたように、神の国では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。

しかしながら、イエス様が神の国に関して人間に行ったことで最も大切なことは、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。そうではなくて、イエス様が行った最も大切なことは、人間が神の国に入れないように邪魔していたものを取り除いて、入れるようにしてくれたということです。それを可能にしたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神との結びつきを断ち切っていた原因であった人間の罪を、イエス様が全て請け負ってその罰を全て代わりに受けて死なれた。そして今度は三日後に復活させられることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれた。人間は、これらのことが本当に自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神から「罪の赦しの救い」を得られて、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道の上に置かれて、それを歩み始めるようになるのです。今はまだ見えない神の国と目には見えない結びつきができたことになるのです。

3.

 2週間前の説教でも申し上げたところですが、キリスト信仰者というのは、この世の人生の出口とその次の永遠の命の人生の入り口の両方がセットになって定まった者です。しかし、それでめでたしめでたしということではない、ということも申し上げました。その出入り口の時までをどう生きるかが大事になってくるからです。永遠の命に至る道に置かれたとは言っても、それで道を踏み外さないという保証は何もありません。踏み外さないで歩めるためにはどうすればいいのか?それは、神の意思に沿う生き方をすることです。それは、どんな生き方か?2週間前の説教でお教えしましたことは、自分は神を全身全霊で愛しているかどうか、またその愛の上に立って隣人を自分を愛する如く愛しているか、絶えずしっかり自己吟味しなさい、ということでした。そして自己吟味の際に、洗礼の時に神が私たちに覆いかけて下さったイエス様の義という、白い神聖な衣を肌身離さずしっかり纏っていなさい、ということを教えました。本説教では、その白い衣をしっかり纏う時に神の御言葉が大切になってくるということをお話しします。

神の御言葉とは何でしょうか?それは、とりもなおさず聖書にある言葉です。聖書にある言葉には、神自身が述べた言葉、神のひとり子イエス様の述べた言葉があり、また預言者や使徒たちの言葉もあります。預言者や使徒は人間なのに、これも神の言葉にしてしまうのか?そうです。それらは、神の霊である聖霊の働きかけによって述べられたり書かれたりしたので、それらも神の言葉です。

それならば、誰かが自分は聖霊に働きかけられたと言って述べた言葉も預言者や使徒に並ぶ神の言葉になるのでしょうか?それはなりません。どうしてか?聖書が今の形にまとまった後も、もちろん聖霊に働きかけられて述べられた言葉はあるでしょう。しかし、注意しなければならないのは、聖書がまとめられた後は、神の意思を伝える言葉は全て、聖書に則っていなければならないということです。聖書の言葉に即しているかどうかを見て、それで、あの人の言葉は聖霊が働いて述べられた、ということがわかるのです。そうでないと、今ある聖書では不足と言わんばかりに、付け足すようなことが行われて聖書が拡大して収拾がつかなくなります。(また逆に、今ある聖書にはいらない余計なことが書いてあると言わんばかりに、削除するようなことが行われて混乱を招きます。)そういうわけで、聖書がまとめられた後で聖霊の働きかけがあったと言って述べられた言葉というものは、実は聖書の確認にしかすぎないのです。まことに聖書は、神の意思を人間に伝える最高の権威なのです。

次に、聖書にある神の御言葉の役割について見てみます。それは一言で言えば、人間に神の意思を伝えることです。天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神の意思を、造られた側の人間に知らせることです。それでは、神が伝えようとしている意思とは何か?これも一言で言えば、人間は造り主の神との結びつきを失ってしまったので、それを回復させようとすることを神は一番に考えているということです。それで聖書は、罪が人間の内に入り込んで神との結びつきを失ってしまったかということについてずっと述べるのです。そこから始まって神は、結びつきの回復が中途半端なものにならないように人間に律法を与えたこと、そしてイエス様の十字架の死と死からの復活が律法の要求することを全て完全に満たしたということを聖書は明らかにします。さらに聖書は、この結びつきの回復ということがイエス様を救い主と信じる者に起こることを約束します。そして、神との結びつきを回復した者はどう生きなければならないか、また何を覚悟しなければならないかを、そしてそのような時神はどう助け導いてくれるか、励まし慰めてくれるかについても聖書は教えてくれます。実に奥が深い人生の書物です。

ただ神の御言葉というものは、その本質上、人間に罪の自覚を呼び覚ますことをします。そのため、人間に自分は神から遠ざかってしまったことを気づかせます。しかしまさにその瞬間、そのような自分が神のもとに戻れるようにするためにイエス様が十字架にかけられたということを思い起こさせます。なぜなら、神の御言葉の重点はそこにあるからです。それを思い起こせば、神がどれだけ自分を愛しているかがわかって、遠ざかりは消えてなくなります。聖書の神の御言葉を読んだり聞いたりしながら神との結びつきがこのようにして強まっていけば、それは御言葉を「読んだ」というよりは、「摂取した」ということになります。

このように神の御言葉を摂取する時、それは信仰者が神の国に迎え入れられるように成長させる力を発揮します。まさに本日のたとえにあるようにです。神の御言葉は、目に見える形としては、文字が印刷された紙を束ねた本の中にあるだけです(最近は印刷しなくても電子的に見ることが出来ますが)。そこから神の国というとてつもない国が現れるなどとは想像もつきません。GDPとか軍事力とか、そういうものがないのに揺り動かされないというのです。どうして神の御言葉からそのような国が生まれることができるのか?神の国は今既に神のもとにありますが、将来(私たちが生きている状態にいてか復活した状態にいてかどちらで目にするかはわかりませんが)、目に見える形で現れます。神の御言葉で成長を遂げた人たちがそこに迎え入れられますが、その人たちは朽ち果てない復活の体を持ち、死も病苦も何も被らない、永遠に朽ち果てない復活の体を持つ人たちです。そういう人たちを構成員とする国ですから、これは世界最大のGDPや軍事力をもってしても太刀打ちできない史上最強の国です。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちにはこのような国が約束されていることをいつも忘れないようにしましょう。そして神の御言葉には、私たちをそのような国に迎え入れられるように成長させる力があることも忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


(注 マルコ4章の構成やそれぞれの内容の意味ついて、学界でもいろいろな見解があります。4章に出てくる数々のたとえは、イエス様がもともと話されたそのままの形なのか、それともバラバラにあったのをマルコかその前の人が編集して今の形にしたのか、あるいは、もともとはイエス様が違う順番で言っていたのを並び替えたのか、さまざまです。しかし、学者がそれぞれ再構成したものはどれをとっても本当の歴史的事実という保証はありません。ある理論、ある方法論に基づけばこういう結論になります、というだけのことです。そこで、本説教では、私たちが確かなものとして目にすることが出来るのは、今目にしているテキストだけですので、それをもとにして話を進めて行きたいと思います。)

2015年7月6日月曜日

何が赦されない罪か (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年7月5日 聖霊降臨後第六主日

創世記3章8-15節
コリントの信徒への第二の手紙5章11-15節
マルコによる福音書3章20-30節

説教題 「何が赦されない罪か」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに

 本日の福音書の箇所は、心を重苦しくする内容かもしれません。というのは、28節でイエス様は、全ての罪は赦される、と言った後すぐ、29節で、永遠に赦されない罪がある、と言います。聖霊を冒涜することがそれである、と言うのです。「罪が赦される」と言う時、新約聖書のギリシャ語で受け身の形は普通、天の父なるみ神を隠れた主語とします。それで、神は全ての罪を赦すが、聖霊を冒涜する罪は赦さない、ということになります。神が罪を赦すというのは、どういうことでしょうか?それは、神と人間の間にある断絶が解消されて両者の結びつきが回復すること。そして人間はこの世の人生を神との結びつきを持って生きられるようになること。順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分の造り主である神のもとに永遠に戻れるようになること。こうしたことが罪を赦された人に起こります。罪が赦されないと、逆のことが起こります。人間は神との結びつきを持てないまま、この世を生きることになり、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができなくなってしまいます。

 それでは、神によって赦されない罪、聖霊を冒涜する罪とは、どういう罪でしょうか?また、それ以外の罪は全て赦されると言う時、赦しというものはどのようにして得られるのでしょうか?今日は、そういったことを考えてみたいと思います。

2.      イエス様の怒り

 その前に、聖霊を冒涜することがどんなに重大なことか、それが本日の福音書の箇所のイエス様の反応によく表れているので、それを見てみましょう。

 イエス様は、不治の病を癒したり、悪霊に苦しめられている人たちからそれらを追い出したりして、大勢の人々を助けていました。その噂は方々に広がって、各地からもっと大勢の人たちが助けてもらおうとやって来て、大変な騒ぎになりました。悪霊というのは、先週の説教でもお話ししましたように、人間を様々な仕方で苦しめることで、自分は神から見放されたとか、また神など何の役にも立たないとか存在しないと思わせて、人間と神との間を引き裂くことを目的とする霊的な存在です。イエス様がそのような霊に苦しめられている人の前に立つと、霊は皆パニック状態に陥って、命じられるままに出て行ったことが福音書の中で多く伝えられています。

 さて、モーセの律法の専門家たちが来て、イエス様の活動が神の意思に則ったものかどうかを調査しました。そして、あれは、悪霊のボス、ベルゼブルを内に持っていて、その力で悪霊を追い払っているのだ、という結論を下しました。ベルゼブルというのは、もともとはカナンの民族が信じた神で、列王記下1章にバアル・ゼブブという名で出てきます。それがイエス様の時代には、悪霊の首領を意味するようになっていました。

 これに対してイエス様は、悪霊が悪霊を追い払うことなど出来ないと反論します。そんなことしたら、国が二分して内乱状態に陥って自滅するのと同じことになるではないか。また家が内輪もめになって成り立たなくなるのと同じことになるではないか。サタンだって内輪争いに陥ったら共倒れになるのだ、と。

そのように、イエス様の悪霊追い出しは同じレベルの者同士がやりあっているのではないとすると、一体どういうことなのか?イエス様は次にそれを説明します。強い者がいる家に入り込んでそこから物を奪い取ろうとする時、最初にその強い者を縛り上げないと成功しない。つまり、イエス様が悪霊を追い出すことができるのは、それを既に縛り上げてしまったからだ。強い者とみられる悪霊よりもはるかに強い者がそれを縛り上げで、手足が出ない状態にしてあるからだ。自分がそのはるかに強い者なのだ、と言うのであります。イエス様が他人の家に入り込んで物を奪い取ると言うのは、相手が悪魔とは言え、あまりいいたとえに聞こえませんが、実は、奪い取るものとして言われている「家財道具」とは、ギリシャ語のもとの単語はスケウオスσκευοςと言います。原文にあるように複数形の時は家財道具の意味も持ちますが、基本の意味は「道具」とか「器」です。その意味をもとにして、「肉体を持つ人間」も意味します。つまり、奪い取るというのは、悪魔に囚われた状態の人間を奪い返すという意味なのです。

このようにイエス様は、自分が悪霊を追い出すことができるのは、自分が悪霊なんかをはるかに上回る力を持っているからだと証します。では、その力はどこから来るのか?律法学者はイエス様の内に悪霊がいると言った、それが聖霊を冒涜したことになる。ということは、聖霊がイエス様の内にいて働いていたことになります。聖霊の働きを悪魔の働きと言ったことが、聖霊に対する冒涜になって、それが赦されない罪である、というのであります。赦されない罪というのは、情け容赦が通用しないということです。イエス様がこんな非情なことを言うのは意外な感じがしますが、この下りは読めば読むほど、イエス様の苛立ちや怒りが伝わってきます。悪魔同士の内紛と共倒れを言うために、同じようなたとえを三回も言うのはくどい位です。そして、たとえを言った後で「はっきり言っておく」と前置きして、律法学者が言ったことは聖霊に対する冒涜で、それは赦されない罪になると断罪するのです。この「はっきり言っておく」というのは、ギリシャ語原文では「まことにお前たちに言う」Αμην λεγω θμινですが、感じを出そうとすると、「これから言うことは、脅しでもなんでもないんだぞ」という訳になるでしょう。そう言ってから、聖霊に対する冒涜は赦されない罪になると警告するのであります。

3.      罪の赦しについて

 イエス様は、聖霊に対する冒涜以外の罪や冒涜は赦されると言います。赦されない罪についてみる前に、罪が赦されるということはどのようにして起こるかを見てみます。先ほど述べましたが、罪が赦されるというのは、人間と神との間の断絶が解消されて、人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、万が一この世から死んだ後も神のもとに永遠に戻ることができるようになることだと申しました。従って、罪とは、人間と神との間に断絶をもたらして、人間が神との結びつきを持てなくするようにするものです。

神はこの断絶状態を悲しみ、これをなんとかしようと思いました。もともと自分が創造した人間ですので当然です。そこで何をしたかと言うと、ひとり子イエス様をこの世に送り、人間と神との結びつきを断ちきる原因であった人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、人間の代わりにその罰を十字架の上で受けさせて死なせた。そして三日後に死から復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれた。そこで人間は、これらのことが自分のために起こったとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神から「罪の赦しの救い」を得て、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、それを歩み始めることとなります。

ここで、「罪」とか「罪を犯した」いう言葉を聞くと、私たちはとかく他人に危害を加えるような行為を思い浮かべます。しかし、天の父なるみ神が問題にする罪とは、そういう外面的な行為に限られません。たとえ行為として罪を犯さなくても、人間の内には罪の種のようなものがあるのです。誰からも非の打ちどころのない人と言われるような人でも、もし境遇や環境の変化があれば、行為に現れてしまうかもしれないし、また現れなくても思考の中で形を取るかもしれない。そういう罪の種を原罪と言います。先ほど朗読していただいた旧約聖書の箇所は堕罪の出来事についてでしたが、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時にこの原罪が人間の内に入り込み、それ以後全ての人間が受け継いできたのです。そのような奥深くて除去不可能なものが、洗礼を受けることで、イエス様の神聖さを衣のように頭から被せられて覆い隠されます。そして神は、そのような衣をまとった者としてキリスト信仰者を見て下さるのです。

そういうわけで、神が罪を赦すというのは、大体神が次のように言ってくれることと言ってよいでしょう。「もちろん、お前が罪を犯したという事実は消えないし、またこの世で肉を纏って生きる限り原罪も消えない。しかし、お前は、私のひとり子イエスが身代わりになって死んだと信じ、それで彼を救い主と信じる信仰がある。だから、私はイエスの犠牲に免じてお前を赦そう。お前が纏っている白い衣に私は目を留めよう。それゆえ、お前が犯した罪は、もう不問にする。あたかもなかったかのようにする。だから、お前は心配せず新しい命の道をしっかり歩みなさい。」

ここで一つ難しい問題を考えてみましょう。それは、人が殺人のような何か大きな罪を犯した時、もしその人がキリスト信仰者で、自分は「汝殺すなかれ」や「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という神の掟に背いてしまったと認めて悔いて、神に赦しを乞えば、神は本当に赦してくれるのだろうか?また、もしその人がキリスト信仰者でなくても、その後魂の変遷があってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、犯した罪を悔いて神に赦しを乞うならば、神はそれも赦して下さるのだろうか?被害者の肉親が納得しないというような時でも、神は赦してしまうのか、という疑問です。

難しい問題ですが、考えの出発点として、キリスト信仰においては、他人に何か害悪を及ぼすと言うのは、その人に対してだけでなく神に対しても罪を犯すことになる、ということを思い起こします。ルカ15章の有名な「放蕩息子」の話で、父親の財産を愚かなことに使い切ってしまった息子は、自分は天に対しても父に対しても罪を犯した、と告白します(18節、21節)。「天に対して」というのは「神に対して」ということです。両親を大切にせよ、という神の掟を破ったことを認めて悔いているのです(他に金の使い方で「姦淫するな」も破っています)。親を単に自分の欲望を満たすための手段にしたことで、親に対して罪を犯した。それはまた神の意思に背くことなので、神に対しても罪を犯したことになるのです。

もし悔いる心を神が本物と認めて赦しの乞いを受け入れれば、神は直ちにその人の罪を赦します。神がその人の罪を赦すというのは、先ほども述べたように、神が罪を不問にすると言って、永遠の命に至る道に戻してあげること、その人と神との結びつきが回復して、その人が再び神の子とされることです。もちろん、国や社会の法律の規定に従って刑に服したり賠償をしなければならないということがあります。しかし、受刑者であっても賠償責任者であっても、神から赦しを得たら、法律上は犯罪者でも、その人は神の子なのです。

ところで、罪を犯した人が悔いて赦しを乞うても、あれは本物だろうか、と疑いを持たれることがあるかもしれません。しかし、悔いる心と赦しの乞いが本物かどうか、それを見極めて判断できるのは神だけです。私たち人間の判断力や人の心を見る目は神のものと比較して、あまりにも小さく限られています。では、私たちはどうしたらよいのでしょうか?もし、悔いる心と赦しの乞いは本物ではないと決めつけて、後で実は本物だったとわかったら、罪を犯した人が立ち直るのを妨げてしまったことになるでしょう。そこで、最低限しなければならないこととして考えられるのは、悔いる心や赦しの乞いが表明されたら、それがその人にとって本物になるように周りが手助けすることです。具体的にはどういうことか言うのは難しいのですが、ひとつはっきりしているのは、最初から頭から疑ってかかるのは悔いる心が本物になるのを最初から妨げてしまうことになるので、それは避けなければなりません。

そこで、もし犯された罪があまりにも大きて、その被害も甚大であった場合、いくら神の方で悔いる心を本物と認めて赦したとしても、人間の方はそう簡単に赦すことはできないということがあるかと思います。その場合、キリスト信仰に即して言えば、兄弟が罪を犯して赦すのは7回までかというペトロの問いに対するイエス様の答え「770倍」ということが原則としてあることを思い返します(マタイ1822節)。そのような気前がよすぎると見なされてしまうような赦しはどのようにして可能でしょうか?それは、私たち自身が、神から、お前の罪を不問にする、とか、お前が纏っている白い衣に目を留める、と言ってもらっているからで、それで私たちも同じようにしなければならない。悔いる心を示されて赦しを乞われたら、私たちも神が私たちにしてくれたように赦して、なかったことにしなければならないということであります。

神のひとり子が自分を犠牲に供したおかげで私たちは神の罰を免れて神の子とされたのだとわかると、今度は私たちが被った危害というものも心の中では、法律がこのくらいの大きさだと言っているよりも縮小されたものになるのではないかと思います。いずれにしても、キリスト信仰にあっては、「神は赦しても、自分は赦せない」というのは、自分を神の上に立てることになるので絶対に言ってはならないことです。

これまでは、加害者が罪を悔い神と被害者に赦しを乞う場合のことを言ってきました。それでは、もし加害者がそのようなことをしない場合は、どうすればよいのでしょうか?特に、被った危害が甚大なものである場合は?それでも、キリスト信仰者は赦さなければならないのでしょうか?イエス様が「770倍」と言う時、何も条件が付されていないだけに気になるところです。ここは、使徒パウロの教えによるしかないのではないかと思います。つまり、復讐は神に任せよ、です(ローマ1219節)。私たちは、心に復讐心を抱かない。加害者に何が起きるか、この世で何か罰を受けるのか、それとも、たとえこの世で起きなくとも、最終的には最後の審判の日に「命の書」が開かれて、全ての人間の全ての所業がその人の目の前に示されて、それに基づいて最終的にプラス・マイナスが清算される。それだから、その人の処遇は神に任せて、自分では復讐心を持たないようにする。復讐心を持たないとはどういう心の有り様かと言いますと、これもパウロの続く教えが大事になると思います。つまり、もし加害者が目の前に現れて、飢えていたら食べ物をあげ、渇いていたら水を上げる、という態度です(ローマ1220節)。それはその人が愛おしくて愛しているからそうするのではなく、ただ神がそうしなさいと言っているからするだけです。それでも復讐を神に任せていることになります。もし、水も食べ物も与えなかったら、それは自分で復讐することになってしまいます。この、食べ物と水を与えて復讐は神に任せるという態度を持てないと、被害を被った人も事件が心身にもたらす呪縛からなかなか解放されないのではないでしょうか?

それでは、イエス様が敵を愛せよ(マタイ544節)と言っていることはどうなるのでしょうか?難しいですが、これも、イエス様が十戒を二つの掟に要約したことを考えてみたらよいと思います。つまり、「神を全身全霊で愛せよ」がはじめにあって、それを土台にして「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」が来ます(マタイ223738節)。そうなので、敵なる者がそれこそ罪を犯したことを悔い、神にも人にも赦しを乞うような者に変わるようにその人を導くこと、これがその人に対する隣人愛と言うことができると思います。もし聞く耳も持たないとか、顔を合わせられる状況でない場合には、その人がそうなるように私たちが神に祈りに祈ることではないかと思います。イエス様が、神というのは善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせる方(マタイ545節)と言っているのも全く同じことです。これは、神が無原則な見境のない気前のよさを持っていると言っているのではありません。神は、悪人が神のもとに立ち返る日を待っているからそうするのです。もし、悪人に太陽を昇らせず雨も降らせなかったら、悪人はすぐ滅びてしまって神のもとに立ち返るチャンスを失ってしまいます。ここから、キリスト信仰者に課せられた使命、役割は明白でしょう。

4.赦しに至らせない最悪の罪

 以上、神が罪を赦すというのはどういうことか、どのようにして起こるのか、また私たちはそれにどのように従っていったらよいのかについて述べてみました。これらは難しい問題なので、一回の説教で全てが納得できることを期待せず、これからも何度も何度も立ち止まって考えたり、聖書を繙いたり、祈ったりしなければならないことを心に留めておきましょう。

さて、最後に、神が赦さないという罪、聖霊に対する冒涜についてみてみましょう。なぜ、聖霊に対する冒涜がこんなに大きな罪になるのかについて、まず聖霊はどんな働きをするのかを振り返ってみる必要があります。

まず、聖霊は「弁護者」(ヨハネ1526節、167節)としての役割を果たします。それは、悪魔が神の前で信仰者を指さして、この者は罪の汚れを持つ者です、情け容赦は無用です、と神に訴える時、聖霊は、この人はイエス様を救い主と信じる信仰を持っています、その証拠に白い衣を手放さないでしっかり纏っています、と弁護してくれます。

それから、聖霊は「真理の霊」(ヨハネ1526節、1613節)とも呼ばれます。どういうことかと言うと、もし人が、神の意思に背くことをしてしまった時、また背くようなものが自分の内にあることに気づいた時、神との結びつきが失われてしまったという恐れや心配に陥ります。その瞬間、聖霊は次のように言います。「あなたは今、心の目をゴルゴタの丘の十字架に向けなさい。あそこにいるのは誰ですか?あの方の両肩に重くのしかかっている全ての人間の罪の中にあなたのものも入っているのをしっかり見届けなさい。」

人間の内に罪があるという真理をわからせるのも、また、このように救いの真理を告げて人間を罪の底から絶えず引き上げてくれるのも聖霊です。このような聖霊を侮辱するというのは、人間を神のもとに立ち返らせる働きそのものを侮辱することです。十字架と復活の出来事の前の段階では聖霊に対する侮辱とは、本日の福音書の箇所にあるように、イエス様が聖霊の力を得て行ったことを悪霊の力と言ったことでした。十字架と復活の出来事の後の聖霊に対する侮辱は、人間が罪の赦しを持てなくなるようにすることが明白になりました。

愛する兄弟姉妹の皆さん、そういうわけで、自分の罪を白日の下に晒しだされるようなことがあっても、すぐ十字架の主のもとに立ち戻れば、私たちはそれで聖霊の働きの中に入っていますので、何の心配もありません。イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、聖霊を冒涜するということはありえないので安心して行きましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン