2022年5月30日月曜日

イエス様の昇天とキリスト信仰者の大いなる人生観 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年5月29日 昇天主日

 

使徒言行録1章1-11節

エフェソの信徒への手紙1章15-23節

ルカによる福音書24章44-53節

 

説教題 「イエス様の昇天とキリスト信仰者の大いなる人生観」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.        はじめに

 

 イエス様は天地創造の神の想像を絶する力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で弟子たちの目の前で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。今日は昇天日の直近の主日で「昇天後主日」とも呼ばれます。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天のみ神のもとから送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日がそれを記念する日です。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 

 イエス様の昇天はとても奇想天外な出来事です。日本語で「天国に行った」と言うと、普通は「死んでしまった」と理解します。しかし、イエス様は生きたまま天に上げられたのです。もちろん、一度十字架の上で死なれました。しかし、神の想像を絶する力で復活させられたので通常の肉の体ではない復活の体を持っていました。それで、死んだのではなく生きた状態で上げられたのです。全く不可解な出来事です。

 

 イエス様の昇天は天国についていろいろ考えさる出来事です。天に上げられたイエス様は今、天の父なるみ神の右に座していて、かの日にはそこから来て生きている人と死んだ人とを裁かれます、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週唱えられます。私たちもこの説教の後で唱えます。果たしてそんな天の国が存在するのか?近年ではキリスト教会の牧師の中にも、天国などないと言う人もいます。ジョン・レノンの歌みたいです。また、ある神学校では先生が学生に復活などないと教えるところもあると聞いたことがあります。そのような人たちは聖書に書いてある天国とか神の国、復活をどう考えているのでしょうか?おそらく、そういうものは人間の心の中、頭の中に存在するもので、人間の外側に形を持って存在するものではないと考えているのではないかと思います。彼らからすれば、天国や神の国や復活が存在すると言う人は時代遅れで暗黒の中世の思考レベルと言われてしまうかもしれません。しかし、聖書はそういうものはまさに人間の外側に実質的に存在し、いつの日か必ず目の前に現れるとはっきり言っています。本説教でもそれに則って話をします。まず、天国が実質的に存在することを言葉で言い表してみます。天国が実質的に存在すると納得できると今度は天地創造の神が私たち人間にわかってきます。以下、そうしたことを見ていきます。

 

2.天国、神の国は実質的に存在し死者の復活は実質的に起こる

 

 天国が人間の心や頭の存在ではなく実質的に存在するということについて。まず、私たちの上空にそのような国が本当にあるのか?地球を大気圏が取り巻いていることは誰でも知っています。大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くとオゾン層がある成層圏、その上に中間圏等々いろんな圏があって、それから先は大気圏外、つまり宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、これまで天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天国とか神の国は恐らく見つからないのではと思います。

 

 どうしてかと言うと、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは「信仰」というものと全く別世界のことだからです。成層圏とか大気圏というものは人間の目や耳や手足を使って確認できたり、長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し把握し終えていません。果たして確認・把握し終えることができるでしょうか?

 

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には人間の目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の国もこの確認や計測ができる世界ではない、もう一つの世界のものです。現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点では天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたことになります。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。その場合、天地と人間を造った創造主は存在しなくなります。そうなれば自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の計測可能な化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もありません。死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった人が心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心理作用という言い方になっていくでしょう。

 

 ところがキリスト信仰者は、自分自身も他の人間もその他のものもみな現実世界とそこにあるものは全て現実世界の外側におられる創造主に造られたと考えます。それなので、人間の命と人生はこの現実の世界の中だけにとどまらないと考えます。聖書には終末論と新創造論と死者の復活があります。それで、今のこの世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時に神の国が唯一の国として現れて、そこに迎え入れられると命と人生が永遠に続くと考えます。このように、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがっているというとてつもない人生観を持っています。

 

 日本では普通、この世の人生が終わると、その次は天国にしろ極楽浄土にしろ、別のところに移動すると考えられます。死んですぐそこに到達すると考える人もいれば、33年くらいかかると言う人もいます。どっちにしても、あの世とこの世は同時に存在しています。それなので、この世から去った人があの世からこっちを見ているというイメージがもたれます。

 

 ところがキリスト信仰では事情が全く異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰には終末論と新創造論と死者の復活があります。今の世が終わって新しい天地が再創造される、今はこの世の反対側にある神の国がその時に唯一の国として現れる。黙示録21章では「下って来る」と言われます。そのため、今の世と次に到来する世は同時並行ではありません。次の世が到来したら今の世はなくなっているのです。それじゃ、到来する前にこの世から死んでしまったらその時までどこで何をしているのかと聞かれます。キリスト信仰の死者の復活から答えが見つかります。前もって亡くなった人たちは復活の日の目覚めの時まで神のみぞ知るところで静かに眠っているのです。ただ、聖書をよく見ると、復活の日を待たずして天のみ神のもとに上げられた人たちもいます。しかし、それは例外的で基本は復活の日まで眠ることです。イエス様もパウロも死んだ人のことを「眠っている」と言っていました。

 

3.キリスト信仰者の大いなる人生観と神の意図

 

 このようにキリスト信仰では人生を、この世の人生と次に到来する世での人生を二つ合わせたものとして考えます。実にキリスト信仰者の人生観は二つの世にまたがる大いなる人生観です。この人生観を持てると、天地創造の神がどうしてひとり子を私たちに贈って下さったのかがわかってきます。それは私たちの人生から次の到来の部が抜け落ちてしまわないようにするためだったのです。つまり、人間がこの世の人生と次に到来する世での人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

 

 それでは、ひとり子を贈ることで人間がどうやってそのような大いなる人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てなくなってしまっている。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまい、人間はそれを代々受け継ぐようになってしまったからです。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまいました。そこで神は、失われてしまった神と人間の結びつきを復興させるために人間の罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。

 

 どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間が持つ罪を全部イエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせたのです。つまり罪の償いを人間に代わって果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で死から復活させました。これで死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ります。罪を償ってもらったので神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ天の神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ててその道を進んでいきます。この世を去った後は復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。

 

 このようにして人間はイエス様の十字架と復活の業のおかげと、それをそのまま受け取る洗礼と信仰のおかげで、この世の人生と天の御国の人生を合わせた大いなる人生を生きられるようになったのです。

 

4.キリスト信仰者に対する神の責任

 

 このように、天国、神の国、復活というのは実質的にあると捉えることができると、なぜ天地創造の神はひとり子を私たち人間に贈られたかがわかるのです。それは、私たちがこの世の人生と天の御国の人生を合わせた大いなる人生を生きられるようにするためだったのです。しかも、神は私たちを大いなる人生の道に置いて下さっただけではありません。その道をしっかり歩めて最後には復活を遂げて天の御国に迎え入れられるように世話を焼いて下さることもするのです。そのことも見ておきたく思います。神は私たちをスタートラインに立たせて、はい、あとはがんばってね、だったのではありません。私たちがゴールに到達できるのがさも自分の責任であるかのように私たちをいろいろ支援して下さるのです。そのことが本日の使徒書の日課エフェソ1章からも明らかになります。それを少し見ていきましょう。

 

 19節から21節を見ると、一度死んだ人間を復活させるということと、その者を天のみ神の御許に引き上げるということ、このことがまずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーを要するということが言われています。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違う言葉で言います(δυναμις,κρατοςισχυς)。私たちの新共同訳聖書では「力」という言葉は2回しか出て来ません。もう一つはどこに消えてしまったのでしょうか?エネルギーという言葉も2回あり(ενεργεια2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεωもあります。このようにパウロはこの神の想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようと頑張っているのです。日本語訳はそれが見えにくくなって残念です。とにかく死者に復活の体を纏わせて復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方だということが言われています。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというのです。

 

 ところがそれだけにとどまりません。ここからが大事なポイントです。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです(19節)。つまり、キリスト信仰者も将来、かつてのイエス様と同じように神の莫大な力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それを自分にも及ぼして下さる、それがわかれば、復活を目指す旅路は安心して進むことができます。

 

 22節と23節を見ると、パウロは教会のことを「キリストの体」と言います。ここで言われる「教会」とは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に向かう道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。それが「キリストの体」です。

 

 そこで、その体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる、目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると、キリストの体の部分部分である私たち信仰者もキリストの一部分としてこの世の権力や霊的な力を足蹴にしている者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている私たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまいます。イエス様が人間を罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまず神の意思に沿うことも力不足で出来ず、死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝るイエス様に繋がっている信仰者なのにどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 

 それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世の中にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世とは、人間がこの世の人生で終わるようにしてやろうという力が働いているところです。大いなる人生なんて無理だよ、と。それで、人間が父なるみ神に目と心を向けないようにしてやろうとか、そのようにして人間が神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いています。これらは既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらは将来イエス様が再臨される日に全て消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の莫大な力が今度は私たち信仰者にも働くのです。その結果、イエス・キリストの体は全部が天の御国の中に置かれることになります。聖書のあちこちに預言されているように、その時は新しい天と地が創造されるので、この世自体がなくなってしまうからです。

 

 そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実の中で生きていくことになります。一方では全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられるという現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ1633節で次のように言われたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

 もちろん、いくら守られているとは言っても、攻めたてられたらそんな気はしません。しかし、私たちが部分として繋がっているこの体は神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているのです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。そこで私たちとしては、聖餐式で霊的な栄養を受けながら、また説教を通して神の御言葉の力を及ぼされながら、神がイエス様を用いて打ち立てて下さった罪の赦しを自分にとって確かなものにしていきましょう。

 

5.罪の赦しと神の意思に沿う生き方

 

 最後に、神の意思に沿うように生きる力はどこから得られるかについてひと言述べておきます。私たちは罪を自覚し、それを神のみ前で告白して赦しの宣言を受ける、これを繰り返すことで罪の赦しを自分にとって確かなものにしていきます。しかしながら、そのようにしても神の意思に沿えない自分に気づくと、罪の赦しでは足りない、神の意思に沿えるようになれる何か特別の力が必要だと思う人が出てきます。もちろんお祈りすれば、神はその力を与えて下さいます。しかし、それは罪の赦しと切り離されたものではありません。罪の赦し抜きで神の意思を成し遂げようとすると、イエス様抜きでそうすることになり律法主義になっていきます。ファリサイ派と変わりありません。神は私がこの世の人生で終わらないで大いなる人生を持てるようにと、ひとり子を犠牲にすることをされた、それくらい私のことを大事に思って下さった、イエス様自身も、あなたのためなら私はそれでいいと言って十字架に向かわれた。こうなうともう、神の意思に沿わない生き方など考えられなくなります。ここにキリスト信仰者の力があります。その力は罪の赦しを確かなものにすればするほど備わるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン

 

2022年5月25日水曜日

神との平和 心の平安 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年5月22日復活後第六主日 スオミ教会

 

使徒言行録16章9-15節

ヨハネの黙示録21章10、22節-22章5節

ヨハネによる福音書14章23-29節

 

説教題 「神との平和 心の平安」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

.イエス様が約束されたのは平和か、平安か?

 

本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束します。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されます。今私たちはウクライナに平和が戻るように願い毎日祈っています。ところで、国と国が戦争しなければ国民は平和に安心して暮らせるかというとそうでもありません。例えば国が複数の民族から構成されていて、民族間で紛争が起きれば、それはもう国同士の戦争と同じになってしまいます。また、そういう集団同士の紛争がなくても、国の経済が破綻するとか、国家権力が国民の権利や自由を制限したり締め付けたりしたら、もう平和に安心して暮らすことは出来ません。

 

イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は実は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読む人、礼拝の説教を通して聞く人全員に向けられています。イエス様は私たちが国内外の紛争や社会の動揺を免れて安心して暮らせると約束しているのでしょうか?残念ながら人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数にありました。キリスト信仰者といえどもいつもそうしたものに巻き込まれてきました。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?

 

そうではありません。イエス様が約束された「平和」にはもっと深い意味があり、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことがわかるために、この御言葉のルターの説き明かしを見てみましょう。以下の通りです。

 

「ヨハネ1427節で主が与えると約束した平和、これこそが真の平和である。それは、不幸がないので心が落ち着いているという平和ではない。それは、不幸の真っ只中にあっても心を落ち着かせる平和である。外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いていても心を落ち着かせる平和である。

それなので、『この世が与える平和』と『主が与える平和』には大きな違いがある。この世が与える平和とは、外面的な揺れ動きを引き起した害悪がなくなるという平和である。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶってもあるという平和である。そもそも、我々がいつもこうした害悪に取り囲まれているというのは逃れられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましや平安がある。これこそが主が約束した平和である。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心は外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸の時の方が不幸でない時よりも心の中で勇気と喜びが強まるのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)なのである。

人間の理性が把握できるのは「この世が与える平和」である。理性はその性質上、不幸や害悪があるところに平和があるということは到底理解できない。理性は不幸や害悪がある限り平和はありえないと考える。そのためそのような状態に陥った時、理性は心を落ち着かせる術を知らない。ところで主は、なんらかの理由で我々を不幸や害悪の中に置くということがある。しかし、決して忘れてならないことは、主は我々を必ず強めて下さるということだ。主は、良心の咎に苛まれた我々の心を晴れ晴れした心に変えて下さる。それで、我々の臆病な心は恐れない心に変えられるのだ。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世が怯える不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず揺るがない安心を持っていられるのである。」

 

以上がルターの教えでした。外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中に置かれても内面的には平和があるというのです。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、ギリシャ語のエイレーネーειρηνηという言葉が外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含んでいることによると思います。参考までに聖書の英語訳、フィンランド語訳、ドイツ語訳を見てみますと、エイレーネーを同じ言葉(peace, rauha, Frieden)と訳しています。それらの言葉もギリシャ語のように外面的なものと内面的なもの両方を含んでいるので、それらを用いても大丈夫なのです。興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ1427節でイエス様が約束しているものはまさに内面的な平安(fridです。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は日本語で「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と訳されていますが、スウェーデン語の訳はみんな「平和」(fred)でなく内面的な「平安」(frid)を用いています

 

日本語もスウェーデン語と同じように「平和」と「平安」と分けてあるのに全部「平和」で訳しています。ヨハネ1427節を「平和」と訳したら内面的な「平安」が見えなくなってしまわないか?この問題の解決は説教の終わりでお教えします。

 

2.神との平和

 

ルターの教えから、イエス様が与えると約束した内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪の中に置かれても、内面的には勇気と喜びが失われず、むしろ増し加わり、それで揺るがない安心を持つことが出来ることだとわかりました。それでは、どうしたらそのような平安を持てるようになるのでしょうか?そんな平安を持てたら怖いものは何もなくなりそうです。誰もが持ちたいと思うでしょう。

 

どうしたらそんな平安を持てるようになれるのか?答えは難しくありません。イエス様が与えるよと言っているものを、ありがとうございますと言って素直に受け取ればいいのです。なんだ、とあっけに取られてしまうかもしれませんが、実際そうなのです。そうすると今度は、イエス様が与えると言っている平安とは何か、それはどこにあるのか、それがわからないと受け取ろうにも受け取ることが出来ません。それで次に見ていきましょう。

 

イエス様が弟子たちに平安の約束をしたのは十字架にかけられる前日、最後の晩餐の時でした。この後に受難の出来事が起こり、十字架の死があって死からの復活がありました。イエス様が神の力によって死から復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったと理解しました(使徒言行録236節、ローマ14節、ヘブライ15節、詩篇27節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間の罪に対する神の罰を一身に受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのだとわかったのです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。

 

このようにして神から罪の赦しを頂けると今度は、かつて最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった神と人間との結びつきが回復します。神との結びつきが回復すると今度は、復活の主が切り開いて下さった道、死を超える永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになります。神との結びつきをもって永遠の命に至る道を進むとどうなるか?それは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと良い導きを与えて下さるということです。そして、この世から去った後も、復活の日に目覚めさせられて永遠に神の御許に迎え入れてくれるということです。

 

このようにイエス様の十字架の死と死からの復活というのは、神がひとり子を用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、神の救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の時に人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込んだために結びつきは失われてしまいました。その失われたものが罪が赦されることで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を焼き尽くさずにはおられない神聖な方です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになります。実に神と人間の間の平和は、神自身がひとり子を犠牲に供することで打ち立てられたのでした。

 

人間は神のこの救いの業がわかった時、ああ、イエス様は本当に神のひとり子、メシア救世主だったんだ、彼が十字架にかけられたのは同時代の人たちのためだけでなく後世を生きる人間全てを救おうとして行ったことだったんだ、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂けて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ51節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。

 

3.心の平安

 

 しかしながら、私たちが肉を纏って生きているこの世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。私たちを罪の赦しから遠ざけて、再び罪が支配するところに引き戻そうとする力に満ちています。例えば、私たちが苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか?神は自分を見捨てたのではないか?私のことを助けたいなどと思ってはいないのではないか?と疑うことが起きてきます。この時、一体自分には何の落ち度があったというのか、と神に対して非難がましくなります。また逆に、自分には落度があった、だから神は見捨てたんだと意気消沈することもあります。どちらにしても、神に対して背を向けて生きることになってしまいます。

 

そこで、自分には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのかと非難がましくなることについて見てみましょう。このことは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにみられます。神の御心に適う正しい良い人間でいたのにありとあらゆる悪い事が起きたら、正しい良い人間でいたことに何の意味があるのか?そういう疑問を持ったヨブに対して神は最後のところで問い始めます。お前は天地創造の時にどこにいたのか?(38章)一見、何の関係があるのかと言い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のことでした。自分は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは自分の手で造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、私の意思がお前たち人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それなので、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

 

神の目がしっかり注がれていることを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(2127節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト323233節、詩篇6929節、イザヤ43節、ダニエル121節、フィリピ43節、黙示録35節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ1020節)。黙示録2012節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて死んだ者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなことが出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ127節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はもうだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかけられ、復活させられたことを思い出しましょう。イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪は忘れてやる、過去のことは不問にすると言って下さるのです。

 

ここで忘れてはならないのは、神は全ての人間に目を注いでその境遇をわかってはいるがそれで終わりというようなただの傍観者ではないということです。神は、人間が自分との結びつきを回復してかの日には復活を遂げて永遠に神の御許に迎え入れられるようにと、それでひとり子をこの世に贈って犠牲に供することをしたのです。それで神は、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がどんな境遇に置かれてもこの道をしっかり歩めるようにとあらゆる支援を惜しまない方です。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのは、神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も神に祈ることも全部、私たちを力づけてくれる神の立派な支援です。

 

このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度ではありません。大事なことは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、この二つのおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。

 

 次に、この世の力が私たちに落ち度があると思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないんだと思わせて、神から離れさせる場合を見てみます。これについても私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限りは、神は私たちのことを目に適う者と見て下さるというのが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望に転化しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われています(1426節)。

 

私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは罪の赦しを神に祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。

 

 以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、私たちの内で微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるものが現れても、その度、聖霊が出動して、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかということを思い起こさせて下さいます。その思い起こさせに自分を委ねてしまい、思い起こせばそれでよいのです。その時、心は安心と喜びを取り戻して神の御心に沿うように生きようと勇気も湧いてくるでしょう。

 

 まさにこの時キリスト信仰者は、自分の内に大きな平安があることに気づきます。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。これでヨハネ1427節のイエス様が約束されたのは「平和」なのか「平安」なのかという問いの答えが得られます。両方です!イエス様が私たちの救いのために十字架と復活の業を成し遂げて下さったおかげで私たちと神との間に平和がもたらされました。この平和を持てると今度は、外面的な揺れ動きにも動じない本当の心の平安がついてきます。イエス様は両方を与えると約束し、それは果たされているのです!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年5月18日水曜日

洗礼によって新たに生れて旅立とう (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

洗礼式 説教

2022年5月15日(日)

 

聖句 ヨハネ3章3~6節

説教題 「洗礼によって新たに生れて旅立とう」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.

 

 今お読みしましたヨハネ福音書の個所は、ニコデモという人とイエス様の対話の一部です。ニコデモは、当時ローマ帝国に支配されていたユダヤ民族の自治組織の代議員でファリサイ派に属していました。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の中で旧約聖書に書かれてある律法と書かれていない口伝えの掟の双方を守ることを主張していたグループです。これらの掟を守ることで自分たちは天地創造の神の目に適う者になれると固く信じていました。神の目に適う者になることは、死を超えた永遠の命を得られるために必要なことでした。

 

 そこにイエス様が現れて、人間は神の掟を完全に守ることはできない、それくらい内部から罪で汚れている、その人間が神の目に適う者になれて永遠の命を得られるためには罪の赦しを得なければならないと主張したのです。その罪の赦しはどうやって得られるのか?それはまだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は謎でした。このように、イエス様が教えることはファリサイ派が教えることと相いれないので、ファリサイ派はイエス様に反対します。

 

 ところが、ファリサイ派は神の目に適う者になれて永遠の命を得たいという望みがあるので、正しい信仰を求める心があります。ただ、求め方が間違っていたのです。ファリサイ派の中にも自分たちの行っていることは本当に大丈夫なのだろうかと見直す心のある人はいました。ニコデモはその一人でした。彼は人目につかぬように夜にイエス様のもとに出かけて行って教えを求めます。

 

 訪れたニコデモにイエス様はいきなり言いました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」これにニコデモは面食らいます。神の国つまり将来永遠の命を得た者が入ることになる御国は、神の掟や律法を守ることでなく、新たに生まれなければ入ることはできないのだとイエス様は言うのです。この「新たに生まれる」ということがニコデモにとって難しかったようです。彼は文字通り受け取ってしまいました。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生れることができるでしょうか。」そこでイエス様は、「新たに生まれる」とはどういうことか教えます。「はっきり言っておく。だれでも、水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

 

2.

 

 新たに生まれるとは、水と霊によって生れることだと言います。これは言うまでもなく洗礼のことです。洗礼によって人は新たに生まれると言うのです。洗礼で新たに生まれる前の生まれ、母親の胎内から生れる最初の生れは「肉からの生まれ」です。人間誰もが生れる生れです。しかし、それは水と霊による生まれではないので、そのままでは永遠の命を得ることも神の国に入ることもできません。肉から生まれた状態の上にさらに霊から生まれた状態を被せないと永遠の命を得て神の国に入ることはできないのです。

 

 それでは洗礼を受けて新たに生まれたら、どうして永遠の命を得て神の国に入ることができるのでしょうか?それは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって人間に勝ち取って下さったもの、すなわち罪の赦しが洗礼を通して私たちの内に入ってくるからです。律法に照らし合わせて見れば私たちはまだ罪を持つ身であっても、赦しを受けられるので、神の国に入ることができるのです。

 

 洗礼を通して得られるのは罪の赦しだけではありません。神の霊すなわち聖霊も与えられます。聖霊は、私たちに罪が残っていてもそれは必ず赦されるという真理を教えてくれます。また、イエス様の犠牲によって私たちは無罪とされると弁護して下さいます。人間は洗礼を受ける前にイエス様の十字架と復活のことを聞いて、イエス様が罪の赦しを打ち立ててくれた救い主であることがわかるようになります。その時すでにその人には聖霊が働いています。そこで洗礼を受けると、聖霊はその人に常駐するようになります。「エフェソの信徒への手紙」1章1314節でパウロが言うように、洗礼を受けた者は「聖霊で証印を押された」者です。パウロはまた、聖霊はキリスト信仰者が神の国に入れるための保証だと言います。

 

3.

 

 洗礼を受けて神からの罪の赦しと聖霊を得られると、今度は将来この世が新しい世に取って代わる時に到来する神の国に迎え入れられる地点に向かって旅が始まります。つまり、洗礼を受けると神の国に向かう道に置かれてそこに向かって歩み出すのです。一旦歩み出したらもう後戻りできない旅です。一度受けた洗礼は取り消すことができないからです。受けてしまったら最後、復活を遂げて神の国に迎え入れられることが人生の最終ゴールとして確定します。

 

 ところが最終ゴールは確定したのに途中で道から外れてしまったり迷子になる人も出てきます。この世はキリスト信仰者がゴールに向かうのを邪魔しようとする力が沢山働いています。また信仰者の内部にも罪が残っていて、それがお前は神の目に相応しくないのだと言って歩みを断念させようとします。

 

 しかしながら、洗礼を受けて神から罪の赦しを受けた者は神と結びついています。神はこの世のどんな力よりも強い方です。なぜなら神は創造主でその他のものは被造物だからです。また洗礼を受けて聖霊を受けた者は、罪の自覚を持ってもすぐ罪の赦しに転化してもらえます。罪の自覚があればあるほど赦しを与える神との結びつきが強くなっていくという構図です。罪が人間を陥れようとしてやることはキリスト信仰者には全く逆効果になるのです。実にキリスト信仰者にはこのような強い味方が人生の旅路の同伴者としてついていて下さっているのです。この旅を続ける限り、キリスト信仰者はいつも新しく生まれた者でい続けます。そして、復活の日、神の国に迎え入れられる日、それはもう罪の自覚も赦しも過去のものになった、新しく生まれた者の成人式です。

 

4.

 

 今日これから洗礼を受ける〇〇さんも、この新しい人生の旅路を始めます。私たちと一緒に最終ゴールを目指して歩むことになります。〇〇さんはもう大分前からイエス様のことを自分にとって救い主だと思うようになっていました。聖霊が働き始めていたのです。イエス様が自分にとっても救い主であることをスオミ教会の礼拝と聖書の学びを通して確信するに至りました。また、既にいろいろなことでイエス様を通して父なるみ神に祈ることもされていました。今次のウクライナの戦争では居てもたってもいられなくなり、ウクライナ大使館に行ってウクライナの人たちのために祈りたいと申し出て、驚き喜んだ外交官たちと一緒にお祈りしたという位に祈る勇気のある方です。今こそ聖霊を常駐させる時、洗礼の時です。

 

 〇〇さんはまた、ご自身でご病気を抱えながらも区の傾聴ボランティアを長年続けられ多くの悩む心に向き合ってこられました。どうか父なるみ神が〇〇さんの健康を祝福して守り、彼女の祈りと傾聴の活動を通して多くの方に聖霊の働きが及ぶようにお祈りいたします。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2022年5月16日月曜日

神の愛に挟まれて (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年5月15日復活後第五主日 スオミ教会

 

使徒言行録11章1-18節

ヨハネの黙示録211-6b

ヨハネによる福音書13章31-35節

 

説教題 「神の愛に挟まれて」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                               アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

.はじめに

 

 本日の福音書の日課の個所はイエス様が十字架にかけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしている場面です。よく「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去りました。その時イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。裏切る者が目的を果たそうと立ち去ってイエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とはどういうことでしょうか?それを言った後で今度は弟子たちに新しい掟を与えると言って「互いに愛し合いなさい」と命じます。

 

 裏切る者が出ていってイエス様が栄光を受けることになるというのは、わかりにくいことです。そしてその後すぐに、互いに愛し合いなさいと言われる。この二つは一見関係ないように見えますが、実は深く結びついています。イエス様が栄光を受けることがどういうことかわかると、キリスト信仰の愛がどういうものかもわかるのです。逆に、イエス様が栄光を受けることがわからないとキリスト信仰の愛もわからないのです。今日はこのことをわかるようにしていきましょう。

 

2.イエス様が栄光を受けるとは?

 

 裏切る者が目的を果たそうと出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことか?それはまず、イエス様が受難を受けて死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定したということがあります。それでは、死ぬことがどうして栄光を受けることになるのか?しかもそれで、神も栄光を受けることになるのか?

 

 イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な意味がありました。それはどんな意味でしょうか?人間は創造主の神に造られた最初のアダムとエヴァの時から罪というものを代々受け継いできてしまいました。それでイエス様はこの罪から人間を解放するために自分を犠牲にしたということです。確かに、人間は良い人もいれば悪い人もいるので全ての人間が罪を持っているというのは言い過ぎではないかと言われてしまうかもしれません。特に生まれたばかりの赤ちゃんは無垢そのもので、それも罪を持っているなどと言うのは酷いと思われるかもしれません。しかし、アダムとエヴァの堕罪の時に人間は死ぬ存在になったので、死ぬということが人間誰もが罪を持っているということなのです。たとえ一時の間、悪い言葉や思いや行いが出なくとも人間だれもが神の意思に反しようとする性向を持っているというのが聖書の立場です。

 

 人間はこの罪をそのままにしておくと、いつまでたっても神との関係は切れたままです。この世から別れた後も神のみもとに戻ることはできません。それで神は、人間が自分と結びつきを持ててこの世の人生を生きられ、この世から死んだ後は復活の日に自分のもとに迎え入れてあげよう、それによって永遠の滅びに落ちないようにしてあげようと決めました。それで、ひとり子イエス様をこの世に贈り、人間全ての罪を全部彼に請け負わせて人間に代わって罰を受けてもらうというやり方を取ったのです。少し法律的な言葉で言うと、本当は有罪なのは人間の方なのに、その罰は人間が背負うにはあまりにも重すぎるので、神はそれを無実のひとり子に背負わせて有罪者が背負わないですむようにした。有罪者は気がついたら無罪になっていたのです。

 

 罪は、人間が神との結びつきを持てなくするようにする力を持っています。また、人間がこの世から別れた後で復活を遂げられず神のみもとにも迎え入れられないようにする力も持っています。人間をこの悪い力から解放するために神は、ひとり子を犠牲に供してその犠牲に免じて人間の罪を赦し神罰に定めないという手法を取ったのです。そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架の死とは自分のためになされた犠牲の業なのだとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると、神が打ち立てた罪の赦しが自分の中に入ってきます。そして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、この世から別れた後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられるようになったのです。このように罪はキリスト信仰者に対してはかつての力を失ったのです。加えて、イエス様が死から復活させられたことで死を超える永遠の命が人間に打ち立てられました。罪と死はキリスト信仰者に対しては支配する力を引き抜かれたのです。

 

3.神の愛に挟まれて

 

 このようにイエス様が受難を受けて死ぬというのは、神による人間の救いが実現するということなので、それでイエス様は栄光を受けることになるというのです。このような救い方を考えて実行した神も栄光を受けることになるのです。つまり人間のためになることが起こることで神とひとり子が栄光を受けるというのです。聖書の神は一体なんという神でしょう!私たち人間は、この救いを神に従って成し遂げたイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、本当に罪を赦されて罪の支配から脱せられるのです。そして神との結びつきを持てて復活と永遠の命に向かう道を歩むようになるのです。もちろん、道中いろんなことが起こります。それでも神との変わらぬ結びつきがあるから何があっても大丈夫、いつも導きと力を頂けます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて永遠にみもとに迎え入れられます。

 

 これだけの途方もないこと、今のこの世と次に到来する世の双方にまたがるスケールの大きなことを父なる神とひとり子イエス様はこの私のために成し遂げて下さったのだ、とわかった時の安心感と感謝の気持ちと言ったらないでしょう。この安心と感謝があると、この場合の神の意思はどうだったかといつも思い起こして、それに沿うように生きようという姿勢になります。これが神に対する愛です。神が与えた掟を守ることが自然で当たり前になっているのです。これとは逆に、神が自分に途方もないことをしたということがわからないと、神への本当の感謝もなく本当の安心もありません。そのような状態で掟を守ろうとしたら自然で当たり前に守ることになりません。イヤイヤで無理に守ることになります。

 

 このように、神がイエス様の十字架と復活という、歴史の過去にこれほどのことをして下さったとわかると安心と感謝が生まれ、そこから神の意思に沿うように生きようと向かいだします。それに加えて、神は将来何をしてくれるのかも知っておくと神の意思に沿おうとする心に勇気が加わります。本日の黙示録21章の日課では、今の天と地が終わって新しい天と地が再創造されて死者の復活が起こる日、神がみもとに集めた者たちをどうされるかが預言されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(34節)」。

 

 目から「全ての涙」(παν δακρυον)を拭われるというのは、この世の人生で被った害悪が最終的かつ完全に償われるということです。もちろん、この世の段階でも正義の実現のために努力がなされて原状回復や補償や謝罪などを勝ち取ることはできます。しかし、それでも心の傷は簡単に癒えないことが多く、正義も残念ながら実現に至らないことがあります。いろんなことがこの世の段階でやり残ってしまい、未解決のまま無念の思いでこの世を去らねばならないことが多くあります。ところがキリスト信仰にあっては、復活の日が来ると神の尺度から見て不完全、不公平に残ってしまったもの全てが完全かつ最終的に清算されるのです。そのことを全部一括して「目から全ての涙をぬぐう」と言うのです。キリスト信仰者はそういう時が来ると知っているので、この世でおよそ神の意思に沿うことであれば、たとえ志半ばで終わってしまっても、また信仰が原因で害悪を被ってしまっても、無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるのです。聖書の至るところに「命の書」という、最後の審判の時に開かれる書物が登場します。それは、全ての人間に関する神の記録書です。そのような書物があるというのは、神は自分が造られた人間全員一人一人に何が起きたか全てご存知で、何も見落としていないということです。誰も自分のことをわかってくれないと悲しむ人もいますが、神は誰よりもその人のことを知っているのです。髪の毛の数さえ知っておられる神ですから、その人自身以上よりもその人のことを知っているのです。

 

 復活の日は神の国で全てのことが清算され報われる日ですが、その日は結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます(黙示録1959節、マタイ22114節、黙示録212節も参照)。つまり、この世での労苦が完璧に永久に労われるということです。

 

 キリスト信仰者というのは、過去に神がひとり子イエス様を用いて「罪の赦しの救い」を打ち立ててくれたことを知っているだけではありません。将来自分が死から復活させられる時、神がこの世の労苦や害悪に対する労いや償いを限りなくしてくれることも知っています。このように過去に神がしてくれたこと、将来してくれることの両方に挟まれるようにしていると、神に大きな感謝、深い安心と強い勇気を持つことができます。それで神を全身全霊で愛そう、神の御心に沿うように生きようとするのが当然になるのです。

 

4.隣人愛のための視点

 

 神の愛に挟まれるようにして生きるキリスト信仰者は神の意思に沿うように生きようとする。このように神の愛を受けて神に対する愛が生まれる。それでは、隣人に対する愛はどのように生まれるでしょうか?隣人を愛せよと言うのは神の意思です。それなので、神の意思に沿うようにしようとすれば隣人を愛することも当然のことになります。しかし、それでも難しいことがあります。相手が神の場合は神が大きなことをして下さったので神を愛する心が生まれます。相手が隣人の場合はいつもいいことをするとは限らないし、逆の場合もあります。それなのに愛せよというのは難しい感じがします。どうしたら隣人を愛せよと言う神の意思に沿うことができるでしょうか?ここでは2つの視点をあげてみましょう。

 

 まず一つは、神が自分にどれだけのことをして下さったかをもう一度確認することです。マタイ18章にイエス様の一つのたとえの教えがあります。50億円の借金を抱えた男が主人に泣き叫んで帳消しにしてもらったのに自分に50万円の借金ある者を赦さずに牢屋に送ってしまった、それを聞いた主人は激怒して、私はお前の多額の負債を帳消しにしてやったのだからお前も同じようにすべきではなかったかと言って牢獄に送ってしまうという話です。50億円を帳消しにしてもらったら50万円を帳消しにするなんて容易いことではないかという話です。キリスト信仰の有り様も大体これと同じですが、ただ桁数が違いすぎます。人間が永遠の滅びに落ちないで復活を遂げて永遠の命に入れるように神のひとり子が犠牲になって罪という負債を帳消しにしたということです。これだけ大いなる帳消しは50億と50万の比どころではありません。永遠の命がかかっているので1千兆円と1円の比以上です。それだけの赦しを受けたら自分も隣人を赦してあげるのが当然になるのではないでしょうか?

 

 ただ問題が深刻な場合もあります。相手が与えた害悪が重大すぎる場合とか、相手が自分には全然問題がないと思っている場合です。どうしたらよいでしょうか?このような場合は、キリスト信仰の基本的なスタンス、大いなる赦しを得たので自分も赦すというスタンスにとどまります。ただなかなか気持ちは収まりません。その場合でも、社会の秩序が保たれるために法律的に解決しなければならないことはします。自分自身だけでなく自分の周りでも十戒が破られることを放置してはいけないからです。ただしその場合でも、パウロがローマ12章で教えるように復讐心で行ってはいけません。それは、先ほども申したように最後の審判で神が正義の不足分を全て最終的に完全に清算されるからです。

 

 もう一つの視点は、キリスト信仰者というのは宗教改革のルターも言うように、完全な聖なる者なんかではなく、この世にいる限りは常に霊的に成長していかなければならない永遠の初心者であるという自覚です。つまり、皆が皆、何かしら支援を必要としているということです。そこをわきまえていないと完全だと思っている人とそう思っていない人が現れて両者の間に亀裂が生まれてしまいます。本日の箇所でイエス様は、私たちが愛を持っていれば周りの人たちは私たちが彼の弟子であるとわかる、と言っています。しかし、もし亀裂や分裂や仲たがいをしてしまったら、イエス様の弟子ではないことを周りの人に知らしめてしまい、目もあてられなくなります。そのためにパウロが第一コリント12章で教えるように、キリスト信仰者の集まりはキリストの体であり、一人一人はその部分である、という観点はとても大事です(27節)。このことについて宗教改革のルターは次のように教えています。

 

「主にある兄弟姉妹が君に不愉快な思いをさせた時、次にように考えよう。彼は注意深さが欠けていたのだ。あるいはまた、それを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。もちろん、君は傷ついて悲しんでいる。しかし、だからと言って体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒のある霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さな火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうだろう。その時はもう手遅れだ。どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」

 

5.キリスト信仰者の隣人の場合、信仰者でない隣人の場合

 

 以上の述べてきたことはキリスト信仰者同士の愛についてでしたが、相手が信仰者でない人の場合はどうなるでしょうか?それでも基本的なスタンスは同じだと思います。自分は父なるみ神から莫大な赦しを受けたので、今この世の人生を神との結びつきを持てて生きられる、この世から去った後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられる道を歩んでいるというスタンスです。それと、歩んでいる自分はこの世にいる間は不完全なままで罪の自覚がありそれで神に赦しを祈る、イエス様の十字架と復活がある以上、赦しは確実にあることを確認しながら生きていくというスタンスです。

 

 このスタンスに立った場合、信仰者でない人たちに対する隣人愛も目指す方向が出てきます。それは彼らも罪の赦しを得られるようにして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてこの世を去った後も復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられる道を歩めるように信仰者は導いてあげるということです。どうしてそんな方向が出てくるのでしょうか?

 

 それはイエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると火を見るよりも明らかです。イエス様の愛の実践は、人間と造り主である神との結びつきを回復させて、人間が神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにして、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにする、このことを実現するものでした。そして、それを妨げていた罪の力を無力にして罪から来る神罰を私たちに代わって全部引き受けるというものでした。そういうわけで、キリスト信仰の隣人愛とは、神のひとり子が自分の命を投げ捨ててまで人間に救いをもたらしたということがその出発点にあり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すべきゴールとしてあります。それなので、隣人愛と聞いて普通頭に浮かぶ、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、キリスト信仰の場合はこの出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になると言っても言い過ぎではありません。

 

 そうなると、キリスト信仰の隣人愛とは、相手が既にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取った人が相手の場合は、その人が受け取った救いにしっかり留まれるように助けることが視野に入ります。まだ受け取っていない人の場合は、受け取るように導いてあげることが視野に入ります。受け取っていない人の場合はいろいろ難しいことがあります。もしその人がキリスト信仰に興味関心を持っていれば、信仰者は教えたり証ししたりすることができます。しかし、興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それは難しいです。それでも信仰者はまず、お祈りで父なるみ神にお願いすることから始めます。「父なるみ神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるように導いて下さい」と一般的に祈るのもいいですが、もう少し身近な課題にして「あの人にイエス様のことを伝える機会を私に与えて下さい」と祈るのもよいでしょう。その場合は、次のように付け加えます。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。神がきっと相応しい機会を与えてくれて、聖霊が必ずそこで働いて下さると信じてまいりましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン