2022年5月18日水曜日

洗礼によって新たに生れて旅立とう (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

洗礼式 説教

2022年5月15日(日)

 

聖句 ヨハネ3章3~6節

説教題 「洗礼によって新たに生れて旅立とう」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.

 

 今お読みしましたヨハネ福音書の個所は、ニコデモという人とイエス様の対話の一部です。ニコデモは、当時ローマ帝国に支配されていたユダヤ民族の自治組織の代議員でファリサイ派に属していました。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の中で旧約聖書に書かれてある律法と書かれていない口伝えの掟の双方を守ることを主張していたグループです。これらの掟を守ることで自分たちは天地創造の神の目に適う者になれると固く信じていました。神の目に適う者になることは、死を超えた永遠の命を得られるために必要なことでした。

 

 そこにイエス様が現れて、人間は神の掟を完全に守ることはできない、それくらい内部から罪で汚れている、その人間が神の目に適う者になれて永遠の命を得られるためには罪の赦しを得なければならないと主張したのです。その罪の赦しはどうやって得られるのか?それはまだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は謎でした。このように、イエス様が教えることはファリサイ派が教えることと相いれないので、ファリサイ派はイエス様に反対します。

 

 ところが、ファリサイ派は神の目に適う者になれて永遠の命を得たいという望みがあるので、正しい信仰を求める心があります。ただ、求め方が間違っていたのです。ファリサイ派の中にも自分たちの行っていることは本当に大丈夫なのだろうかと見直す心のある人はいました。ニコデモはその一人でした。彼は人目につかぬように夜にイエス様のもとに出かけて行って教えを求めます。

 

 訪れたニコデモにイエス様はいきなり言いました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」これにニコデモは面食らいます。神の国つまり将来永遠の命を得た者が入ることになる御国は、神の掟や律法を守ることでなく、新たに生まれなければ入ることはできないのだとイエス様は言うのです。この「新たに生まれる」ということがニコデモにとって難しかったようです。彼は文字通り受け取ってしまいました。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生れることができるでしょうか。」そこでイエス様は、「新たに生まれる」とはどういうことか教えます。「はっきり言っておく。だれでも、水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

 

2.

 

 新たに生まれるとは、水と霊によって生れることだと言います。これは言うまでもなく洗礼のことです。洗礼によって人は新たに生まれると言うのです。洗礼で新たに生まれる前の生まれ、母親の胎内から生れる最初の生れは「肉からの生まれ」です。人間誰もが生れる生れです。しかし、それは水と霊による生まれではないので、そのままでは永遠の命を得ることも神の国に入ることもできません。肉から生まれた状態の上にさらに霊から生まれた状態を被せないと永遠の命を得て神の国に入ることはできないのです。

 

 それでは洗礼を受けて新たに生まれたら、どうして永遠の命を得て神の国に入ることができるのでしょうか?それは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって人間に勝ち取って下さったもの、すなわち罪の赦しが洗礼を通して私たちの内に入ってくるからです。律法に照らし合わせて見れば私たちはまだ罪を持つ身であっても、赦しを受けられるので、神の国に入ることができるのです。

 

 洗礼を通して得られるのは罪の赦しだけではありません。神の霊すなわち聖霊も与えられます。聖霊は、私たちに罪が残っていてもそれは必ず赦されるという真理を教えてくれます。また、イエス様の犠牲によって私たちは無罪とされると弁護して下さいます。人間は洗礼を受ける前にイエス様の十字架と復活のことを聞いて、イエス様が罪の赦しを打ち立ててくれた救い主であることがわかるようになります。その時すでにその人には聖霊が働いています。そこで洗礼を受けると、聖霊はその人に常駐するようになります。「エフェソの信徒への手紙」1章1314節でパウロが言うように、洗礼を受けた者は「聖霊で証印を押された」者です。パウロはまた、聖霊はキリスト信仰者が神の国に入れるための保証だと言います。

 

3.

 

 洗礼を受けて神からの罪の赦しと聖霊を得られると、今度は将来この世が新しい世に取って代わる時に到来する神の国に迎え入れられる地点に向かって旅が始まります。つまり、洗礼を受けると神の国に向かう道に置かれてそこに向かって歩み出すのです。一旦歩み出したらもう後戻りできない旅です。一度受けた洗礼は取り消すことができないからです。受けてしまったら最後、復活を遂げて神の国に迎え入れられることが人生の最終ゴールとして確定します。

 

 ところが最終ゴールは確定したのに途中で道から外れてしまったり迷子になる人も出てきます。この世はキリスト信仰者がゴールに向かうのを邪魔しようとする力が沢山働いています。また信仰者の内部にも罪が残っていて、それがお前は神の目に相応しくないのだと言って歩みを断念させようとします。

 

 しかしながら、洗礼を受けて神から罪の赦しを受けた者は神と結びついています。神はこの世のどんな力よりも強い方です。なぜなら神は創造主でその他のものは被造物だからです。また洗礼を受けて聖霊を受けた者は、罪の自覚を持ってもすぐ罪の赦しに転化してもらえます。罪の自覚があればあるほど赦しを与える神との結びつきが強くなっていくという構図です。罪が人間を陥れようとしてやることはキリスト信仰者には全く逆効果になるのです。実にキリスト信仰者にはこのような強い味方が人生の旅路の同伴者としてついていて下さっているのです。この旅を続ける限り、キリスト信仰者はいつも新しく生まれた者でい続けます。そして、復活の日、神の国に迎え入れられる日、それはもう罪の自覚も赦しも過去のものになった、新しく生まれた者の成人式です。

 

4.

 

 今日これから洗礼を受ける〇〇さんも、この新しい人生の旅路を始めます。私たちと一緒に最終ゴールを目指して歩むことになります。〇〇さんはもう大分前からイエス様のことを自分にとって救い主だと思うようになっていました。聖霊が働き始めていたのです。イエス様が自分にとっても救い主であることをスオミ教会の礼拝と聖書の学びを通して確信するに至りました。また、既にいろいろなことでイエス様を通して父なるみ神に祈ることもされていました。今次のウクライナの戦争では居てもたってもいられなくなり、ウクライナ大使館に行ってウクライナの人たちのために祈りたいと申し出て、驚き喜んだ外交官たちと一緒にお祈りしたという位に祈る勇気のある方です。今こそ聖霊を常駐させる時、洗礼の時です。

 

 〇〇さんはまた、ご自身でご病気を抱えながらも区の傾聴ボランティアを長年続けられ多くの悩む心に向き合ってこられました。どうか父なるみ神が〇〇さんの健康を祝福して守り、彼女の祈りと傾聴の活動を通して多くの方に聖霊の働きが及ぶようにお祈りいたします。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン