2019年11月25日月曜日

最後の審判と神の正義の実現について (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年11月24日聖霊降臨最終主日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書52章1-6節
コリントの信徒への第一の手紙15章54-58節
ルカによる福音書21章5-19節

説教題 「最後の審判と神の正義の実現について」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「裁きの主日」の趣旨

本日は69日の聖霊降臨祭から数えて第24の主日で、今年のキリスト教会のカレンダーの1年の最後の主日です。それなのでキリスト教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人間となってこの世に贈られたクリスマスの出来事に向けられます。私たちは、2000年近い昔の遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた、あの赤ちゃんの誕生をお祝いし、私たちの救世主になる方をこのようなみすぼらしい形で贈られた神の計画に驚きつつも、そこに人知では計り知れない深い愛を覚えて感謝します。

今日の教会のカレンダーの1年最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、今のこの世が終わる時にイエス様が再び到来する、ただし今度はみすぼらしい姿ではなく神の栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来る、そして、伝統的なキリスト教会で唱えられる使徒信条や二ケア信条にあるように「生きている人と死んだ人を裁く」ということです。まさに最後の審判のことです。裁きの結果、天の御国に迎えられる者たちは神の栄光を現わす復活の体を着せられて迎え入れられる、そういう復活が起きる時でもあります。実に私たちは、イエス様の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。つまり、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスから遠ざかっていくと同時にその分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。その日がいつなのかは、マルコ1332節でイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外に誰もわかりません。そのためイエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように常時、神から与えられた自分の務めをちゃんと果たしていなさいと教えられるのです(3438節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判に今一度、心を向けて、いま自分は神の御国に迎え入れられる者だろうか、と各自、自分の生き方を振り返るという趣旨の日です。とは言っても、フィンランドを見ても、教会員の大半は「裁きの主日」の礼拝など行きません。礼拝が終わったことを告げる教会の鐘が鳴るや、待ってましたとばかり、町々のクリスマス・ストリートが華やかなイルミネーションを伴ってオープンします。(ヘルシンキのアレクサンテリン・カトゥ通りのクリスマス・ストリートも今日の14時オープンだそうなので、時差を入れたらあと10時間ちょっとです。)私としては、待降節まで待つのが筋ではないかなと思うのですが。そのように、趣旨が実際に活かされているとは言い難い現状があります。それでも、自分の生き方を振り返って今後の方向を考える時、聖書という権威ある書物に照らし合わせてみるのはいつの世でも意味があると思います。

2.イエス様の複雑な預言を解きほぐす

本日の福音書の箇所は、ルカ福音書215節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の初めの部分です。本日の説教はこの預言の解き明かしを中心に進めていきますが、旧約の日課イザヤ書52章と使徒書の日課第一コリント15章も解き明かしに欠かせません。

このイエス様の預言は少々複雑です。というのも、彼の十字架と復活の出来事のすぐ後に現在のイスラエルの地域に起こる出来事を預言しているかと思えば、もっと遠い将来に全世界の人類全体に起こる出来事を預言することもしているという、二つの異なる預言が入り交ざっているからです。一方では、私たちから見て既に過去になった出来事が起こる前に預言されている。他方で、今の私たちから見てこれから起こる出来事の預言も入っているのです。

 まず、この複雑な預言を解きほぐしていきましょう。以前にもお教えしたことなので、復習の意味で見ていきます。イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃の時にその通りになります。イエス様の預言が気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。

まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れて人々を誤った道に導く、しかし、彼らに惑わされてつき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、9節にあるように人々は戦争やさまざまな混乱や天変地異を耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう混乱や天変地異の時代になると偽救世主について行きやすくなる。8節で言われていますが、偽救世主は「世の終わりの時が近づいた」などと言って不安を煽るのです。そこでイエス様は、こうした不安と混乱の時代にどう向き合ったらいいかを9節で教えます。これらの出来事は世の終わりの序曲として必ず起こるものではあるが、これらが起きたからと言って、すぐこの世の終わりになるのではない。だから、偽救世主に助けを求める位に恐れる必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と命じるのです。そう命じられているのは、その時イエス様と一緒にいた人たちだけではありません。イエス様を救い主と信じる者みんなです。私たちも「おびえるな」と命じられているのです。

その混乱と天変地異の時代に何が起こるかということについて、イエス様は10節と11節で具体的に述べていきます。民族と民族、国と国が互いに衝突し合う。つまり戦争が勃発する。それから、世界各地に大地震、飢饉、疫病が起こる。さらに、天体に恐ろしい現象や大きな徴候が現れる。イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、すぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、イエス様を救い主と信じる者は怯える必要はない、と言われるのです。そんなこと言われても、そういうことが起こったら、恐れたり怯えたりしないでいられるでしょうか?そうならないでいられる何か勇気のもとがあるでしょうか?それがなかったら、怯えるなと言っても空振りです。しかし、イエス様の観点は、キリスト信仰者はそういう勇気のもとがある、だから怯えるな、というものです。何がそういう勇気のもとか?それが本説教を通して明らかになると思います。

さてイエス様は、神殿破壊の前兆に何が起きますかと聞かれて、以上のように答えました。それなので、偽預言者、戦争、地震、飢饉、疫病、天体の徴候等々の混乱や天変地異が神殿破壊の前兆のように聞こえます。他方で、12節を見ると「これらのことが起こる前に」迫害が起こると述べていきます。つまり、迫害が先に来て、次に混乱と天変地異が起きるという順番になります。キリスト信仰者に対して起こる迫害は、権力者によって信仰者が連行されて自分の信仰の申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、この事態を信仰の証しの絶好の機会だと捉えること、どう弁明しようかと前もってあれこれ考えず、イエス様が反論不可能な言葉と知恵を与えて下さるのに任せて、その通りに話せばいいということです。迫害の中で痛々しいのは、権力者による迫害ならまだしも、親兄弟、親族、友人からも見捨てられて命を落とすことがあるということです。「イエス様は私の救い主です」と名前を口にするだけで、それほどまでに憎まれてしまう。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の手中にしっかりおさまっている、だから髪の毛一本たりとも神の御手から洩れることはないのだということ。

神はお前たちから一寸たりとも目を離さず、お前たちに起こることは全て記録し全てを把握している。たとえ全ての人から見捨てられても、お前たちは神には見捨てられていない。神はお前たちを復活の日、最後の審判の日に天の御国に迎え入れるおつもりだ。それがわかれば、試練があっても忍耐できるのだ。試練の中で忍耐することを通して、天の御国の命を勝ち取ることが出来る、そう19節で言われます。忍耐するというのは、イエス様を救い主と信じる信仰に留まるということです。信仰を捨てさせようとする試練の中で忍耐して信仰に留まって、天の御国に迎え入れられて永遠の命を勝ち取ることが出来る。もし、御国への迎え入れと永遠の命の勝ち取りということが本当に起こらなければ、迫害に耐える意味がなくなります。そうしたことは本当にあるのでしょうか?このことも本説教を通して明らかになります。

ここでイエス様の預言に戻りましょう。出来事の順番は、まず迫害が起こって、それから偽預言者、戦争、大地震とその他の混乱や天変地異の時代が来ます。本日の個所の後になりますが、20節からは質問者にとっての関心事、エルサレムの神殿破壊についての預言になります。24節まで続きます。迫害が起きて、混乱や天変地異が起きて、エルサレムとその神殿の破壊が起こる。先ほども申しましたように、この破壊は西暦70年に実際に起こりました。イエス様は、約40年後に起こることを言い当てたのです。ところが、ここでよく注意しなければならないのは、迫害が起きて混乱と天変地異があって神殿破壊が起こっても、預言はこれで完結したのではないということです。イエス様は9節で、偽預言者、戦争、大地震等々の混乱と天変地異の出来事はこの世の終わりの前兆として起こると言っています。つまり、イエス様の主眼は質問者の意図を超えて、この世の終わりに向けられているのです。これらの混乱と天変地異はエルサレムの破壊の前にも起こるが、その後にも起こるということです。

そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海がどよめき荒れ狂う異常事態になり、人類はなすすべもなく苦しみ恐れおののく。文字通り天体が揺り動かされるようなことが起こり、まさにその時、イエス様が再臨する。

太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書1310節や344節(他にヨエル書210節)にある預言と結びついています。天体の大変動が起きて今ある天と地が新しい天と地にとってかわります。同じイザヤ書の6517節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、6622節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。さらに「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残る神の御国が現れるということが預言されています。

ルカ2128節で、イエス様は、天体の大変動の時に再臨される時こそが、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言います。「解放」とは何からの解放なのでしょうか?迫害でしょうか?戦争や自然災害や疫病や天体の大変動がもたらす恐怖や苦しみ痛みからの解放でしょうか?このことも本説教を通して明らかになると思います。

3.聖書の立場に立って世の終わりに立ち向かう

さて、イエス様の預言は当たるでしょうか?本当にこの世の終わりが来て、新しい天と地が創造されたり、最後の審判が起きたり、復活が起こるのでしょうか?

エルサレムの神殿の破壊は歴史上、実際に起こりました。その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天体の大変動はまだ起きていません。神殿破壊からもう1900年以上たちました。その間、戦争や大地震や偽救世主は無数にありました。大地震も飢饉も疫病も天体の徴候も沢山ありました。キリスト教徒迫害も、過去に大規模のものがいくつもありました。ご存知のように、この日本でもありました。現代世界でも国や地域によっては迫害はあります。歴史上、そういうことが多く起きたり重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということもたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないと結論を下してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。これも以前の説教で申し上げたことですが、太陽には寿命があります。太陽には出来た時と終わる時があるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張して燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。もちろん、太陽が燃え尽きるまで地球が大丈夫ということはなく、少しでも膨張し始めたら、地球への影響は甚大です。他にもまだ解明されていない天体の変動も起きる可能性だってあります。そういうわけで、今ある天と地は永遠に続かないということは科学的にも真理なわけで、聖書はそれを科学的でない言葉で言い表しているにすぎません。

それでは、今ある天と地がなくなった後で果たして本当に新しい天と地ができるのかどうか、これは今の科学では何も言えないでしょう。ところが聖書の方は、今ある天と地は創造主が造ったものなので、この同じ創造主がいつかそれを新しいものに造りかえる、それで今あるものはなくなる、という立場をとっています。この立場を受け入れるかどうかは、科学で証明できない以上、信じるか信じないかの信仰の領域です。信じる人はどうして信じられるのか?それは、万物には造り主がいるということ、つまり聖書の神を信じているからです。

万物には造り主がいるという立場をとる聖書は、さらに一歩踏み込んで、造り主と造られた人間の関係がどうなっているかも問います。関係がうまく行っているのかいないのか、ということです。聖書は、うまく行っていないという立場です。なぜかと言うと、最初に造られた人間が造り主の神に対して不従順になって罪を自分の内に入り込ませてしまったからです。それで人間と神との結びつきが失われて、人間は死ぬ存在になってしまった。だから、人間が代々死んできたというのは、代々罪を受け継いできたからに他ならないという立場です。

本日の旧約の日課イザヤ書523節で「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される」とあります。ヘブライ語原文を直訳すると、「あなたたちはタダで自分を売り飛ばした。金銭をもってしても自分を買い戻すことはできないであろう」ともっとシビアです(後注)。「自分を売り飛ばす」というのは、お金に困った人が自分を奴隷として売るということです。この個所では、人間が罪と死に売られてそれらの奴隷になったことを意味します。しかもこの場合は代金の支払いなしですから、大損もいいところです。罪と死から自分を買い戻してそれらから自由になりたいと思っても、お金で買い戻すことは出来ない。詩篇499節でも「魂を買い戻す値は高く、とこしえに払い終えることはない」と言われています。人間が罪と死から買い戻されてそれらから自由になるという時、買い戻す先は神しかいません。もともと神のもとにいた自分を売り飛ばしたわけですから。人間はどうやって自分の造り主である神のもとに買い戻されることができるでしょうか?

その買い戻しを神は、ひとり子イエス様をこの世に贈って行って下さったのです。イエス様は全ての人間の罪を自分で引き受けてそれをゴルゴタの丘の十字架の上にまで背負って行き、自分があたかも全ての罪の張本人であるかのようにして神罰を受けて死なれました。このようにして私たち人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。しかも、神は一度死なれたイエス様を復活させて死を超える永遠の命を打ち立てました。死は、太刀打ちできないものを突き付けられたのです。そもそも、死の目的は、人間が造り主である神と永遠に切り離された状態にすることでした。それが、人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、罪の償いを白い衣のように頭から被せられ、神から罪を赦されたものとして見てもらえるようになった。そうなると、その人は神との結びつきが回復してしまい、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む者になります。死は、その人が永遠の命に向かうことを阻止する力がなくなったのです。そして、人間を死に追いやる役割を持っていた罪も、いくら信仰者に道を誤らせて死に追いやろうとしても、信仰者が信仰にとどまろうとする限り、追いやることができない空振り空回りの状態です。まさに、本日の使徒書の日課第一コリント155455節に言われている通りです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」パウロは、罪のことを「死のとげ」と呼んでいます。

ただし、罪は空振り状態とは言っても、律法というものがあり、それが私たちの内に罪があることを暴露し続けます。56節で「罪の力は律法です」と言っているのはこのことです。信仰者といえども、外面上は言葉や行為で罪を犯さないとは言っても、内にある罪、悪い思いは律法によって暴露されます。しかし、その度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、自分の罪の赦しはあそこに打ち立てられていると再確認できれば、自分が罪と死から解放されるために捧げられた犠牲はなんと大きいものだったか思い知らされ、とても厳粛な気持ちになります。これからは罪を犯さないようにしなければと思いを新たにします。このようにすればするほど、罪は空振りを続けるしかなくなります。罪の償いの十字架と永遠の命が打ち立てられた以上は罪と死は本当に力を失ったのです。イエス様を救い主と信じる信仰者は罪と死が力を失った状況の中に置かれているのです。

4.最後の審判と神の正義の実現

そこで、このような聖書の立場に立たず、天地創造の神を信じることがなければどうなるか見てみましょう。万物には創造主がいるということを知らなければ、今ある天と地はある時に造られたという発想がなく、永遠の昔からずっとあって、終わりもなくただずっと続いていくように思われるでしょう。でも、それは太陽や天体のことで明らかなように、永遠には続かないのです。終わりがあるのです。それなら、終わるのならそれで仕方がない、終わりは終わりなので全ては消えてなくなると考えるでしょう。しかしその場合、天地創造の神がないので、終わった後で新しい天と地に造り直されるということもなく、全ては本当に終わりっぱなしになってしまいます。そうなると、死者の復活も起こりません。せっかく復活しても居場所がないわけですから。従って、それまで霊とか魂とかいう形で残っていたものも、全てそこで終わりになって全部なくなってしまいます。創造主の神などいない、と言うとそうなります。

ところが、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた創造主の神を信じると、この自分は終わらないということがわかります。たとえ天と地の有り様がかわっても、自分もそれに合わせて神の栄光を映し出す復活の体(第一コリント153549節)を着せられる、本日の個所によれば、その体は朽ちることもなく死ぬものでもないので、消えてなくなることはない。「自分はある」とわかっている自分が、この世からの死を超えて、ずっと続いていくことがわかります。そうすると、本説教の初めで申しました、この世の終わりの前兆が起きても恐れないでいられる勇気のもとがあるかということも、有り様が変っても続いていく自分が約束されていることがそれだということになります。

他方で、有り様が変っても自分が続いていくということに関して、こういう考えをする人もいます。聖書で言うような最後の審判なんか持ち出さないで、死んだ人は全員そのまま天国に行けるという考えです。そういう人から見たら、最後の審判で誰が天国に迎え入れられ誰が入れられないかなどと言うのは、教会の言うことを聞かないと地獄に落ちるぞと脅して人を教会に縛り付けようとすることになります。確かに、全員がそのまま天国に行けるということであれば、この世でどんな生き方をしたか心配する必要もなく、自分が新しい有り様で続いていけることになります。

ここで少し考えてみましょう。そういう考えだと、正義の実現はどうなるでしょうか?聖書の立場に立つと、最後の審判で天の御国に迎え入れられるとされた人たちは、その御国で目から涙をことごとく拭われる、そう聖書では約束しています(黙示録214節、717節、イザヤ書258節)。この涙は、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結に至らされ完全なものにされる。こうしたことがないと、正義の実現はこの世の段階に全て任されてしまうことになります。でも、それはとても難しいことです。日々のニュースを見ても気づかされるし、私たちの身の回りにも起こることですが、大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても償いが小さすぎるということが往々にしてあります。逆に、本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求めることもあります。人間同士が行うことは、不釣り合いなことばかりなのです。

そこで、全ての人間の全てのことを知っている創造主の神が下す判断こそ釣り合いがとれた完全なものである、最後はそこに託してそれを待たなければならない、そうパウロがローマ12章でまさにこのことを教えています。悪を憎む、しかし悪に対して悪で返さない、迫害する者のために祝福を祈る、相手を自分より優れた者として敬意を持って接する、高ぶらず身分の低い人たちと交わる、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐しないで神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる、という教えです。神の正義実現に託してそれを待つと、こういう生き方になるのです。人間が正義を掲げて逆に不幸をもたらさないための知恵がここにあります。それは、神の審判に委ねそれを待つということが土台にあります。

最後の審判とそれに続く天の御国への迎え入れということに関して、審判も新しい世もない、全ては滅んで消えるというのは、正義の実現を全て人間同士の間で解決するように任せることになります。そこでは、神の審判などを土台に置くパウロの教えは馬鹿馬鹿しく思われるでしょう。なんてお人好しなんだ、と。また、全員が天国に入れるというのも、これと同じことになると思います。神の審判がないのですから、正義の実現はこの世のことだけになります。こうして見ると、天国も何もなく全ては消滅するという立場と、全員が天国に入れるという立場は深いところでは繋がっていると言えないでしょうか?

兄弟姉妹の皆さん、本日の使徒書の第一コリント15章のところでパウロは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の朽ちない死なない体を着せられることについて述べた後、次のように結びます。そういうふうに新しい有り様に変えられるのだから、この世ではしっかりと信仰に立って揺らぐことがないようにしなさい。その場合、主の業に溢れるようになりなさい、と。日本語訳では「励みなさい」などとそつなく訳していますが、ギリシャ語原文では「主の業で溢れかえりなさい」です。主の業というのは、まさに先ほど申しました、悪に対して悪を返さず、敵が飢えていたら食べさせる等々の業です。それらは、神の審判に全てを委ねそれを待つということが土台にあってできるのです。そして、パウロの結びの言葉はこうです。それらの業は労苦を伴うが、主に結びついている者には無駄に終わることはない。どうしてそう言えるかと言うと、最後の審判で神の釣り合いの取れた完全な正義が実現するからです。キリスト信仰者だったら、ひとり子イエス様を贈って下さった神の正義ですから文句なしに受け入れます、と言います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)イザヤ書523節の神の言葉について、否定辞לאבכסף(銀/金銭によって)にかかると考えると日本語訳のようになります。חגאלו(買い戻す)にかかると考えるとシビアな意味になります。
 イザヤ書の本日の個所5216節はとても興味深いです。イスラエルの民のバビロン捕囚からの解放が人類の罪と死からの解放のプロトタイプのようになっているからです。神は将来、人間を罪と死から解放する意思を示すが、それが口先ではないとわからせるために手始めとしてイスラエルの民を捕囚から解放するというようなことです。それは、あたかも、イエス様が全身麻痺の人を前にして、最初、罪の赦しを宣言して、宗教エリートから神への冒涜だと批判された後すぐ、その人を歩けるようにしたことを想起させます。全身麻痺の人を癒せば結果が目に見えるので、イエス様には奇跡を起こす力があるとわかります。でも、あなたの罪は赦されたと言っても、目に見えた効果はないので、信じない人には口先だけにしか聞こえません。それで、罪の赦しの宣言をした後に癒しを行ったことで、イエス様の言うことは口先ではないと思い知らされます。この二つの事例の連関性を明らかにするためにイザヤ書5245節の解き明かしが必要です。ここにもいろいろなことが含まれていると思います。ただ、解き明かしをそこまでやったら、説教が際限なくなってしまいます。それで今回はしないでおきました。


2019年11月18日月曜日

聖書の神が私の神になる時、私は復活の日に復活させられる (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年11月17日(聖霊降臨後第23主日)スオミ教会

マラキ書3章19-20節
ユダの手紙17-25節
ルカによる福音書20章27-40節

説教題 聖書の神が私の神になる時、私は復活の日に復活させられる


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「復活」はしつこいテーマか?

本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活というのは、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。本日の個所では、復活をまた別の角度から見ていくことになります。同じ事柄ですが、いつもいろんな角度から見ていくことで全体像がはっきりしてきます。

復活は、人間は死んだらどうなるかという問題に関わります。それで、死ぬだの復活だの、どうしていつもそう暗い話ばかりするのか、もっと明るい話題を取り上げてみんなをハッピーにするのが宗教の役割ではないか、と煙たがられるかもしれません。特に最近は今月初めに全聖徒主日があったせいか、復活についてお話しすることが多かったのでそう思われてしまうかもしれません。でも、誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかばかりを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、またはこの自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたな、と思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して抜け出られなくなることもないし、逆にそんな問いには近づいて欲しくないと懸命に避けることもしない。来たら来たで、確認してハイ終わり、です。確認するものがあるというのはいいことです。

今日の説教は福音書の個所の解き明かしが中心になりますが、解き明かしに入る前に、復活について一般的なことを述べておきます。ただし大きな事ですので、復活の全容については立ち入らず、本日の個所の理解に役立つことだけ見てみます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それから、イエス様を救い主と信じる者たちが与る将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度起きることではありません。その将来のある時とは、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地が創造される時(イザヤ6517節、6622節、黙示録2011節、221節)、また、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時(「ヘブライ人への手紙」122728節)です。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。

黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神を裁判官とする裁判が行われます。全ての人が前世でどんな生き方をしたかを記した記録があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがそれに与るということになります。

ところが、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様としっかり繋がりがある死者たちが復活させられる。その時点でまだ生きている信仰者たちが彼らと合流させられて天のみ神のもとに迎え入れられる。ここでは特に裁判のことも、第一の復活、第二の復活ということもありません。黙示録では第一と第二の復活の時に死んだ者たちに判決が言い渡されます。つまり、みんな死んでいるわけです。パウロは生きている人のことも言っています。

そこで、黙示録と第一テサロニケで言われていることを頑張って合わせて理解しようとすると、大体次のことが浮かび上がってきます。天の御国に迎え入れられる者たちというのは、まず、その時点で既に死んでいた者たちは復活させられて迎え入れられる。これはいいでしょう。次に、その時点でまだ生きていた者たちに関しては、そのままの姿かたちで迎え入れられるということはないであろう。というのは、第一コリント15章でパウロは、復活させられる者は皆、この世の肉体のように朽ちてしまわない、神の栄光を現わす復活の体を着せられると言っているからです。なので、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられるということはありません。みな、死から復活させられた者たちと同じ復活の体を着せられるわけです。誰もこの世の姿かたちで天の御国に迎え入れられないという意味で、皆がこの世の肉体から離別するということになります。それから、もう一つ忘れてはならないことは、迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。

以上から、復活とは、将来に一括して起きることであり、人間一人一人死ぬ度に起こることではないことがお分かりいただけたかと思います。

 それでは、死んだ人たちは、将来起きる復活の日まではどこで何をしているのか?これも、本教会の説教の中でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているということです。ところで日本では一般的に、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれている、という考え方をする人が多いのではないかと思います。しかし、復活というものがあるキリスト信仰ではそんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。

 それから、死んだ人が眠ってしまうだけなら、誰があの世から見守ってくれるのかと心配する向きもあるかもしれません。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた創造の神しかいません。この私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。

 それでは、天の御国への迎え入れというのが起きるのは復活の日まで待たないといけないとすると、天国は今空っぽなのかという疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではない、とも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもうとっくに復活してしまったから、ということになるのか?これから行う解き明かしは、このことにも立ち入ります。

2.この世での有り様と復活の時の有り様

まず、本日の福音書の個所の出来事の次第を見てみましょう。サドカイ派というユダヤ教社会のグループの人たちがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書の中の律法集であるモーセ五書を重要視していました。また彼らは、復活などないと主張していました。これは面白いことです。新約聖書に頻繁に登場するファリサイ派は復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。(この他に聖書には登場しませんが、エッセネ派という派もあり、これは有名な死海文書を形成したグループです。復活はあるのかないのか、エルサレムの現実の神殿は正当なものかどうか、という争点で色分けすると三つのグループの立ち位置がわかり、当時のユダヤ教の多様性が明らかになります。この辺のことは礼拝の説教では取り上げることではありません。)

サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに持ち出しました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記255節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんながよみがえった時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔で勝ち誇った表情だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問です、と言わんばかりの無垢を装う演技派だったでしょうか?

 これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の論点は二つありました。第一の論点は、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということ。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみましょう。

人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまるところサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したわけだが、それは誤った前提に基づく質問である。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた次の世ということになります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、第一コリント15章のパウロの言葉を借りると、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」である(36節)と。それなので、復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に心と神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きる「神の子」になる。この、復活した者が「神に対して、神のために生きる」ということは、あとでアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のところで大事なことになりますので、また後ほど見ていきます。

 以上が、イエス様の第一の論点でした。サドカイ派は復活を正しく理解していない。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという質問が出来たのだ。復活を正しく理解していれば、そんな質問は生まれてこない。完璧に的外れな質問だったのです。

3.「神に対して/神のために生きる」とは?

 イエス様の第二の論点は、サドカイ派の律法理解が表面的なものであることを暴露するものでした。出エジプト記36節で神がモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出るところがあります。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言いました。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。イエス様は彼らが生きていると言っているように聞こえます。アブラハムたちはやはり復活の日を待たずに復活して今、天の父なるみ神の御許に永遠の命を持つ者としているということなのか?

ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの論拠になっているということです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブが既に一足早く復活させられて今神の御許におられる、そういうふうに考えることも可能です。ただ、その場合、じゃ、どうしてヨセフは言われなかったのか?あんなに信心深く憐れみに満ちていたのに。ヨセフはアブラハムたちと一緒に復活させられず、私たちと同じように復活の日まで眠っているということなのか?アブラハムたち3人とヨセフを区別するものは何なのか?そういうことを考えると、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神というのは、彼らが今天の御国にいるということではなく、みんなと同じように復活の日まで眠っているが、それでもこの聖句が復活がある根拠になる、じゃ、この聖句はどう理解したらよいのか?私は、アブラハムたちが今復活して生きているという可能性を保留したまま、別の理解の仕方もあることが今回分かりました。それをこれから述べていきます。

カギはイエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」にあります。実は、この日本語訳はまずい訳です。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になりますが、実はこの個所ではそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は、神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているという真理からみれば、まさに「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、それは復活について教える本日の個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」を指しているのです。文章というのは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文脈と無関係だったら意味を成しません。このイエス様の言葉が復活の教えにかみ合う意味を見つけ出さなければなりません。そんな意味は見つかるでしょうか?ここはまさに説教者の腕の見せどころです。

まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど直訳的に素直に「~に対して」とか「~のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」とは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。

次に、「神に対して/神のために生きる」というのは、どういう生き方かを見ていきます。わかりそうでわかりにくいです。イメージとして、神の方を向いて、神にお仕えするように生きる、ということが思い描かれますが、もっと具体的にならないでしょうか?それがなるのです。「神に対して/神のために生きる」という同じ言い方がローマ6章にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。日本語訳では違う言い方で訳されてしまいますが、ギリシャ語で読むと、あっ、同じ言い方だ、とわかるのです(後注2)。そこでローマ6章で「神に対して/神のために生きる」がどんな生き方か言われていることを見れば、本日のイエス様の言っていることもわかります。

ローマ6章のパウロの教えは2週間前の説教でもお話ししました。それを少し復習します。神の意思を表す律法は、人間が罪を持つ存在であることを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見なされるようになる。まさに罪の赦しが神からの「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪がますます暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を永遠の命に導くようになった。

そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人も出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きるなど不可能なのだ」。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、そのことは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪にお仕えする生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様が十字架で死なれた時、それは罪と死が彼に勝ったのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということだ。そのことが十字架という一度限りの出来事をもって未来永劫にわたって起きた。

さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活された。それからは生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになる。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、イエス様だけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまる。洗礼を受けた者は復活の日に神の栄光を現わす体を着せられる日に向かってこの世を歩むということです(後注3)。

4.神は復活に向かう者の神

 このように「神に対して/神のために生きる」とは、復活の命と体に向かって、天の父なるみ神、もともとは自分の造り主である方のもとに向かって生きることです。そのように生きる者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、イエス様の死と復活に結びつけられて、その道に置かれて歩む者です。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、このことです。ここで「生きている」というのは、ただ単にこの世で生存していることではなくて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~はその道を歩んでいるということです。こういうふうに「神は~の神である」という言い方は、その~は復活が約束されている者という意味が含まれています。その~に自分を当てはめてみて下さい。この私が聖書の神、つまり創造主でありイエス・キリストの父である神のことを「私の神です!」と言うのは、私はその神に向かって歩んでおり、復活の日に神は私を復活させてくれると信じていると告白することになります。同じように、「神はアブラハムの神である」と言うのも、アブラハムは復活の日に復活させてもらえるということを意味します。

「神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言い方にはこのような意味が含まれていることは、復活を信ぜず、復活の内容も知らないサドカイ派の人たちには全く意味不明だったでしょう。しかし、イエス様の答えを聞いて、かつて神が自分のことをアブラハムの神と言ったのは、単に過去の時代にアブラハムに対して神として立ち振る舞ったという過去の意味ではなく、何か今の自分たちにも関係がある深い意味があると思い知らされたでしょう。ただ、それがどんな意味か具体的なことがわかるのはイエス様の十字架と復活の出来事が起きるのを待たなければなりませんでした。それでも、イエス様の二つの論点を聞いた律法学者が聖書には何かただ事ではないことがあると感じ取りました。日本語訳では「先生、立派なお答えです」とお上品に訳していますが、私などは「先生、その答え、ちょっと凄いよ」と言い換えるでしょう。

最後に、なぜ神はアブラハム、イサク、ヤコブの3人だけの神であると名乗ったのか?ヨセフやベンヤミンは入れなかったのか、ということについて。神がモーセにこう名乗ったのはどんな時だったでしょうか?それは、これからモーセがイスラエルの民を率いて奴隷の国を脱して約束の地カナンに民族大移動する任務を与えられる場面でした。神はアブラハムとイサクとヤコブに対して、お前の子孫にカナンの地を与えると約束していました。その約束をこれから果たすという時に、神はその約束を述べた3人の名を引き合いに出したのです。ヨセフもベンヤミンも皆、アブラハム、イサク、ヤコブ同様に復活に与ることには変わりありません。ただ、モーセの前で神は約束した相手に限定して名乗って、自分はした約束を忘れない、必ず果たす者である、と明らかにしたのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、聖書の神は約束したことを忘れず、必ず果たす方というのは、私たちの復活もそうです。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1αυτω代名詞、男性、単数、与格
(後注2)ルカ2038αυτω ζωσιν、ローマ610ζη τω θεω11ζωντας (…) τω θεω (…)
(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiの意味であると、2週間前の説教の後注に記しました。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiの意味になるわけです。

2019年11月11日月曜日

信仰に生きよ、そして遭遇し祈れ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年11月10日(聖霊降臨後第22主日)スオミ教会

歴代誌上29章10-13節
テサロニケの信徒への第二の手紙2章13節-3章5節
ルカによる福音書19章11-27節

説教題 信仰に生きよ、そして遭遇し祈れ


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所はイエス様のたとえの教えです。これから王様になるという位の高い人が家来たちに1ムナという単位のお金を与えて、自分の留守中に何か商売か事業をさせて、どれだけ儲けを得るか試す話です。1ムナというのは当時の肉体労働者の日当100日分の金額ということです。どれくらいの金額か、今の感覚で言えば、週休2日で最低賃金で働いた4カ月分くらいの給与ということになるのではと思います。そこで、たくさん儲けを得た家来と少ししか得なかった家来、全然得なかった家来の3人が登場します。王の位を受けて戻ってきた人がそれぞれにどんな態度をとったかは、先ほど読んでいただいた通りです。この教えは少しわかりにくいです。登場する王様は、儲けを得なかった家来のお金を取り上げて、一番儲けた家来にあげてしまいます。儲けを得なかった家来は、王様が不在中、お金をずっと布に包んでしまっていたのですが、それはお金を大切に保管していたことになります。お金は減りもせず、なくなりもしませんでした。でも、王様は大いに不満でした。さらには、自分が王になることを反対する者たちを連れ出して「打ち殺せ」とも命じます。とても残酷な王様にみえます。イエス様は、このたとえで一体何を教えたいのでしょうか?

まず、イエス様がこのたとえを話された理由をみてみます。それは11節に記されています。イエス様が「エルサレムに近づいておられ、人々はすぐにでも神の国が現れると思っていたからである。」どういうことでしょうか?イエス様は大勢の人たちを伴って、ユダヤ民族の首都であるエルサレムに向かっています。人々はイエス様に大きな期待を賭けていました。この方は無数の奇跡の業を行い、民族の宗教指導者たちなんか太刀打ちできない権威をもって、天地創造の神の意思を教えられる。誠にかつての偉大な預言者級の方で、この方がエルサレムに入城すれば神の天使の軍勢が加勢して、イスラエルを占領しているローマ帝国軍を追い払い、占領者と結託している支配層も叩き出して、真の神の国が実現する。そして旧約の預言通りに諸国の民が天地創造の神を参拝しにエルサレムにやってくる。大体そういう期待です。しかし、天と地と人間を造られた神が全人類のために実現しようとしていた計画は、そんな一民族の解放をはるかに超えたもっとスケールの大きなものでした。この時はまだ誰もそのことはわかりませんでした。

そこで実際に起こったことをみてみましょう。イエス様は、エルサレム入城後、宗教指導者たちと激しく対立し、最後は一人の弟子に裏切られ他の弟子たちにも見捨てられて逮捕され、裁判にかけられて十字架刑に処せされました。それまで従っていた人たちも、期待外れだったとイエス様に背を向けました。ところが、死んで墓に葬られたイエス様は神の力で三日目に復活させられ、死を克服し永遠の命の扉を開いた者となって大勢の人たちの前に現れました。このようにして神の人間救済計画が実現したのです。つまり神は、自分と人間との結びつきを損なっていた人間の罪という重荷を全部イエス様に背負わせて十字架の上にまで運ばせて、そこで人間に代わって神罰を受けさせました。こうして神に対して罪の償いが果たされました。人間は、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から着せられて、神の目から見て相応しい者と見なされるようになります。そして、イエス様が開いて下さった永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになります。罪を償ってもらったので罪は赦されました。それで神との結びつきも回復し、あとはその結びつきを持ちながら道を歩むことになります。やがて、この世を去って神の前に立たされる時が来ても、イエス様を救い主と信じる信仰をしっかり携えて生きたことを認めてもらえるので何の心配もありません。父なるみ神のみもとに迎え入れられます。そこは祝宴にもたとえられるところです。

以上が、歴史上の一民族の解放を超えて、文字通り全人類に及ぶ神の人間救済計画でした。神はそれをイエス様を用いて実現されたのでした。

復活されたイエス様はその40日後に天に上げられました。いつの日か天使の軍勢を従えて地上に再臨する日まで、天の父なるみ神の右に座すこととなったのです。そういうわけで、神の国が見える形をとって現われるのは、イスラエルの民が期待したようにイエス様のエルサレム入城の時ではありませんでした。それは、将来起こる主の再臨の日なのです。しかし、当時こうしたことは、民族解放の希望に燃えていた人たちにとっては想像もつかないことでした。イエス様が本日のたとえを話したのは、神の国の到来は彼らの期待した形をとらないということ、そしてその到来の日まで私たちは何をしなければならないか?どう生きなければならないか?ということを教えるためでした。

2.「王と家来」のたとえの意味

 少し脇道にそれますが、イエス様のこのたとえは、現実に起きた事件が下地にあります。イエス様が赤ちゃんだった時、これを殺害しようとしたヘロデという王がいたことは皆様もご存知の通りです。ヘロデ王が死んだ後、息子の一人アルケラオが父親の領土の一部を受け継いで王となるためにローマに出かけました。なぜそんなことをするのかと言うと、当時ユダヤ民族はローマ帝国に占領されていたので、王の地位につくためにはもっと上の支配者であるローマ皇帝の承認を得なければならなかったのです。実はアルケラオは、「王」ではなく一ランク下の「領主」になって、ユダヤの地に戻ってきました。しかし、話はそこで終わりませんでした。マタイ222節でも言われるようにアルケラオは残忍な性格だったため人々の反感を買います。そこでユダヤ人たちは実際に、本日のたとえに出てくる反対者のようにローマに使い送って皇帝に訴え出たのです。それが功を奏してアルケラオは領主の位を失いました。

イエス様が本日のたとえを話されている場所は、エリコというエルサレム近郊の町です。そこにはアルケラオの建てた宮殿も残っていました。出来事から20年以上たってはいましたが、たとえを聞いた人たちはアルケラオのことをすぐに思い出したでしょう。しかしながら、たとえに出てくる王様は失脚しません。王になって帰国すると反対者を全滅させます。これは何を意味するのでしょうか?それは、イエス様の再臨の日まで彼に敵対することをやめなかった者たち、またイエス様を信じる人たちを迫害した者たちが裁かれて永遠の滅びに落とされることを意味します。つまり、最後の審判のことです。このように、このたとえは、人々がよく知っている出来事を材料にすることで、イエス様の再臨と最後の審判に現実味を帯びさせる効果があるのです。それがイエス様の狙いでした。

最後の審判の日に、イエス様に敵対することをやめなかった者たちや彼を信じる人々を迫害する者たちが裁かれる。ということであれば、私たち信仰者は、そのような敵対者に遭遇しても恐れてはいけないし、逆にそのような人たちの心が変わるように祈りながら働きかけていかなければいけません。さらに、まだイエス様のことを知らない人たちに対しては福音を宣べ伝えて、一人でも多くの人がイエス様の純白な衣を受け取ることができるようにしていかなければなりません。

 さて、多く儲けた家来、少なく儲けた家来、全然儲けなかった家来と王様のやりとりが何を意味しているのかを見ていきましょう。

最初の家来は、王様にもらった1ムナが商売した結果、10ムナの儲けを得ました。次に同じ1ムナのお金で5ムナの儲けを得た人が出てきます。二人に対する王様の処遇ですが、日本語訳の聖書では「10の町の支配権を授けよう」と褒美が与えられたように書かれています。しかし、ギリシャ語の原文を見ると、「十の町の支配権を持ちなさい/支配権を持つ者になりなさい」と命令文になっていいます。褒美をあげるというより責任を与えたことになります。5ムナの儲けを得た人も同様です。日本語で「5つの町を治めよ」と命令文に訳されていますが、これは原文通りです。そういうわけで、10の町、5つの町の支配権とは儲けの大きさに比例した褒美を与えたというのではなく、10倍の儲けを得た者にはその実力相応の責任を与える、5倍の儲けを得た者にはそれ相応の責任を与える、ということです。5倍の儲けの人には10の町の支配権を任せるというような無理はさせない。そのかわりに、10倍の儲けの人には5つの町の支配権で済ませるということもしない。このようにイエス様は、私たち一人一人がどれだけの力を持っているかをよく吟味して、それに相応しい課題や任務をお与えになると言えます。私たちの尺度からみて不相応だとか不公平だということも出てくるかもしれませんが、基本はそういうことだと思います。

王様が1ムナを与えた家来は全部で10人いましたが、他の7人の成果は触れられていません。でも、みんな同じ原則に則って処遇を受けたでしょう。7ムナを儲けた人には7つの町、3ムナを儲けた人には3つの町という具合に。

 ここで大変なことが起こりました。家来の中に儲けが全然なかった人がいたのです。その人は、1ムナをずっと布に包んでしまっていました。なぜか?商売に失敗して1ムナを失ってしまった時の王様の処遇を恐れたのです。家来は王様に言います。あなたは、自分では預けなくとも、それがあるかのごとく取り立てをする、自分では種を蒔かなくとも、蒔かれたかのごとく刈り入れを要求する、そういうお方だ、と。つまり、何も取り立てするものがなくても、また刈り入れするものがなくても、取り立てたり刈り入れたりしようとする方である。こうなると商売に失敗して持ち金ゼロになった場合、取り立てを要求されたらかなわない。それなら、いらぬリスクは避けて1ムナは保管して、後でそのまま返してしまえば無難だ、という結論になったのです。

これに対する王様の処遇はとても厳しいものでした。この家来に対し、リスクを恐れて商売しなくても銀行に預ければ利息がつくではないか、と言います。「銀行」と言う訳語を見ると現代っぽく感じられ、なにかATMが付いた建物を連想しそうになりますが、要は金貸し業とか両替商のようなお金を扱う業者のことです。王様の言っていることを原文通りに訳すと「私が帰ってきた時に、そのお金を利息と一緒に(業者から)要求できたのに」ということです。当時の利息の算出方法は知る由もありませんが、利息を得るために何か交渉しなければならないということです。ここから、王様の真意は、利息のもうけが目当てではなくて、家来が何がしかの動きを示すことだったと言えます。

 王様としては、どんなに小さくても儲けに相当する責任を負わせるつもりでした。それが、儲けゼロではなんの責任も負わせられません。家来が王様のことを、取り立てたり刈り入れたりするものが何もなくてもそうする方だと言ったことに対して、王様は、そう思っているのなら、そうしてやろう、と言わんばかりに、家来の保管していた1ムナを取り上げて、10ムナ持っている家来にあげてしまいます。どうして、既に十分持っている者にさらにあげるのかというと、一番成功した者に対する偏愛ではなく、その者が一番大きな責任を担えると信頼しているからでしょう。

3.1ムナをキリスト信仰者の「賜物」とすると

ここで、たとえに出てくる王様、家来そして1ムナというお金は何を意味しているのかを見てみましょう。これは一般には、神がキリスト信仰者に与える賜物として理解されると思います。もちろん、それもありますが、私は今回説教を準備していた時、それは「信仰」も意味するのではないかと思いました。まず、「賜物」としてみた場合、どういうことになるかを見て、その後で「信仰」としてみた場合を見てみます。

王様は、紛れもなく最後の審判の時に再臨するイエス様です。家来と言うのは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者です。神が与えられる賜物とは、例えば「ローマの信徒への手紙」12章で使徒パウロが、預言をする賜物、奉仕をする賜物、教える賜物、勧めを行う賜物、施しをする賜物、指導をする賜物、慈善を行う賜物などをあげています。どれも教会を作り上げ成長させるためのものです。この他にも教会の成長に役立つ賜物はいろいろあります。よく言われるものとして音楽の賜物があります。その他にも教会の成長に資する賜物はいろいろ考えられます。

そこで、教会の成長とは何かということですが、それは教会が聖書の御言葉という土台に立って御言葉を宣べ伝えること、洗礼を通してイエス様を救い主と信じる人を教会に招き入れること、聖餐を通して招き入れられた人の信仰を揺るがないものにしていくこと、これらを通して成長は果たされます。もちろん、教会に繋がる人たち同士の連携も成長にとって大事です。

たとえの中で王様は、10ムナの儲けを得た家来に対して、「お前はごく小さな事に忠実だった」と言います。小さな事とは1ムナのことですが、神が私たちに与える賜物も小さな事とはどういうことでしょうか?この同じ言葉は、ルカ16章の「不正な管理人」のたとえのところでも出てきました。そこでお教えしましたが、「小さな事」ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςは別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われます。つまり、1ムナというお金が金額が少ないということではなく、お金自体が「ささいなこと、取るに足らない事」であると言っているのです。お金というものは、人の心を神から引き離す力を持っているので、それでささいなもの取るに足らないものということになります。ところが、そのようなお金に心を奪われてそれに支配されてしまうのではなく、逆にお金に対して主人になれる者はそれを神の意思に沿って使うことができる。まさに、「取るに足らないものを取り扱う際に神に対して忠実」ということでした。神の意思に沿ってお金を使うというのは、神を全身全霊で愛するということ、そしてその愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということ、これらの愛のために使うということでした。

同じことが賜物にもあてはまります。神から与えられたとは言え、それを自分の繁栄や名声のために消費してしまったら、お金に仕えてしまうのと同じです。賜物を神の意思に沿うように用いようとすると、お金の時と同様、賜物に対しても主人として立ち振る舞うことになります。それなので、神から与えられたとは言っても、「小さな事」と言った方が与えられた側は得意がらずに謙虚になるのではないかと思います。

4.1ムナを「信仰」とすると

以上は、家来が王様から頂いた1ムナは、信仰者が神から与えられた賜物と考えられるということでした。次に、それを「信仰」とみた場合、どういうことになるかをみてみます。キリスト教では「信仰」というのは、神から与えられて人間は受け取るという性格を持っています。人間の救いは、神がイエス様を用いて全て整えて下さった、だから、あとは人間の方が、これらは本当にあの時起こったのだとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、その救いを所有することが出来ます。これらのことがわかるとか、イエス様を救い主と信じるというのは聖霊が影響力を行使しないと出来ません。このイエス様を救い主と信じる信仰を神から与えられたものとすると、次に問題となるのは儲けは何を意味するかです。

1ムナが10になったり5になったりすると言う時、それらは一体何か?人によっては、一生懸命伝道活動をして信者を増やすのに貢献したとか、献金を増やすのに貢献したとか、教会をこれだけ拡大したとか、あるいは慈善活動でこれだけの人を助けたとか、そういう具体的な形で表れる成果を考えるかもしれません。もちろん、それは間違いではないです。ただ、そういう具体的な形で表れるもの以外にもあることを忘れてはいけないと思います。例として、ローマ12章でキリスト信仰者の心得をパウロが教えています。悪を憎むが悪に悪を返さない、迫害する者のために祝福を祈る、相手を自分より優れた者として敬意を持って接する、高ぶらず身分の低い人々と交わる、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐しないで神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせる、乾いていたら水を飲ませる等々。これらはまさに信仰から育ってくる良い実です。信徒数や献金額の増加とは性格が異なりますが、これらのことが出来るようになることも1ムナから生じる儲けの中に数えていいと考えます。

こうした良い実に関連して、キリスト信仰を持って生きるためにこの世の流れに抗するということも考えることができます。信仰を持って生きることから生じる様々な苦労や苦難に遭遇することも「儲け」に入れてよいと考えます。信仰ゆえに苦労や苦難に遭遇する、それが多ければ多いほど大きな儲けになるということです。そう考えると、1ムナを布に包んでしまった人は、この世の中に入って行かず苦難や苦労に遭遇しないですむようにした人と言えます。ルター派的な言葉を使えば、神から与えられた召命や課題を回避するということでしょう。この世の中に入って行かなかったら、「喜ぶ人と共に喜ぶ」も「泣く人と共に泣く」もなくなってしまいます。さらに、この世の中に入ったとしても自分がキリスト信仰者であることを隠し通したら、信仰ゆえの苦労や苦難を回避できることになります。そういう状態でしたら迫害も受けないで済むし、迫害する者のために祈ることもなくなります。楽で簡単ですが、儲けもなくなります。

イエス様としては、信仰者にはこの世の中にどんどん入ってもらって、そこで世の流れに抗するように生きよ、ということなのでしょう。そうすることで大きな儲けが得られます。逆もまたしかりです。

このように1ムナは「信仰」も意味することができるとすると、それでは信仰も賜物同様「小さな事」と言っていいのでしょうか?ここで思い出しましょう、イエス様は弟子たちから「大きな信仰を与えて下さい」と懇願された時、お前たちは信仰をからし種のように捉えよ、と教えました。からし種とは1ミリにも満たない種が最後は数メートルの木に成長するという種です。信仰をそのように捉えると、初めは小さくても必ず成長し大きくなるということが確信出来ます。ただそれも、ちゃんとこの世の中に入って行って、流れに抗することをしないと、成長は起こりません。

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、せっかく頂いた信仰を隠してしまうことなく世の中に入って行って、いろんなこと、いろんな人に遭遇していきましょう。そこで、私たちを豊かにするものや人に出会ったら、まず神に祈り感謝しましょう。逆に出会うことや人が私たちにとって試練になれば、その時も神に祈り助けと導きをお願いしましょう。神は、祈る私たちを通して働かれます。

イエス様を救い主と信じる信仰に生きよ、
そして遭遇し祈れ。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン