2023年3月27日月曜日

復活の日の再会の希望は死別の悲しみよりも深い (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2023年3月26日(四旬節第五主日)スオミ教会

 

エゼキエル書37章1-14節

ローマの信徒への手紙8章6-11節

ヨハネによる福音書11章1-45節

 

説教題 「復活の日の再会の希望は死別の悲しみよりも深い」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。この出来事は、先週の日課の出来事、生まれつき目の見えない男の人の目を見えるようにした奇跡の出来事と共通点があります。先週の個所でイエス様は、男の人の目が生まれつき見えないのは神の業が現れるため、と言いました。今日の個所では、ラザロの病気は神の栄光のためである、と言います。病気や障害が神の業のため、神の栄光のため、などと聞くと、大抵の人は、目が見えるようになること、死んだ人が生き返ることが神の業、神の栄光の現われであると理解すると思います。ところがそうではないということを先週お教えしました。

 

 少し振り返りますと、旧約聖書の預言者イザヤの時代から人間の霊的な目が見えるようになる時が来るという預言がありました。目の見えない男の人の場合は肉眼の目が見えないことが問題だったのですが、人間の本当の問題は霊的な目が見えないこと、それがイエス様とファリサイ派の人たちとの対話からわかります。実にイエス様は肉体的な目が見えるようになる奇跡の業を行うことで、霊的な目を見えるようにする力が自分にあることを前もって思い知らせたのです。

 

 人間の霊的な目が見えるようになるのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事をもって始まりました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを持ててこの世を生きられることになり、永遠の命に至る道に置かれてその道を進むことになるという、肉眼の目で見えないことが見えるようになるのです。

 

 このように、生まれつき目が見えないのは神の業を現すためと言う時、肉眼の目が見えるようになることが神の業の現われであるという理解はまだ浅く本当の理解ではありません。奇跡の業は霊的な目が見えるようになる前触れ的な出来事で、その目が見えるようになることが本当の神の業を現すものなのです。それが深い理解で本当の理解です。

 

 本日のラザロの生き返らせも同じです。死んだラザロを生き返らせたことが神の栄光の現われであると言ったら、それは浅くて本当の理解ではありません。では、ラザロを生き返らせることで神の栄光が現れると言ったら、何が神の栄光なのか?今日はラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解ができるようにしましょう。

 

2.キリスト信仰の復活について

 

 深い本当の理解に入っていく前に、理解に役立つ予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を詳しく記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ71117節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神であるというのがキリスト信仰です。

 

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。

 

 復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。

 

 そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。

 

3.イエス様は復活と永遠の命を手中に持つ方

 

それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみましょう。

 

 イエス様がやって来たと聞いてマルタは彼に会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。つまり、ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。

 

 それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタは自分でハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」の場合だと今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。

 

 そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。

 

 それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる人は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりはなくならず、復活の日が来たら永遠の命そのものを持つことになります。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そうすることが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。

 

 イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?

 

 これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にも見られたのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。

 

 マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは同じ現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。現在完了などと言うと、中学高校の英語の授業みたいで嫌だと思われてしまうかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語のとは違うので忘れて大丈夫です。むしろ忘れた方が都合がいいです。マルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟ることができて信じるようになりました、ではないのです。その場合は、エピステウサになります。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。

 

 このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。それを明らかにします。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。

 

 しかしながら、復活には、死の引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているという観点に立ちます。そして、罪は人間誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。神としては、人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげたい、そのためには結びつきを持てなくさせてしまっている罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部受け負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせる、そのようにして人間の罪の償いを彼に果たさせたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。同時にそこに至る道を人間に切り開かれました。それでイエス様は復活と永遠の命を手に持っていらっしゃる方なのです。

 

 神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この世を去った後は、それこそ復活の日に眠りから目覚めさせられて永遠の命と復活の体を与えられて神のもとに永遠に迎え入れられます。

 

4.生き返りの奇跡の業の深い本当の意味

 

 マルタはこのような復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活させて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しのお恵みにしっかり留まるだけです。

 

 ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

 

 イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼に復活の目覚めをさせる力があること、この2つを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

 

 以上、ラザロの生き返らせの奇跡の業は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の業の両方をもって、イエス様こそが復活と永遠の命を手中に収めており、それを私たちに与えて下さる方であることを示したのでした。これが、この奇跡の業が現す神の栄光です。これがこの奇跡の業の深い本当の理解です。

 

4.おわりに

 

 最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つ目は、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書を見ても皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。

 

 もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている地方に行くのは危険です、と押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。

 

「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」

 

 分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある。明るさと暗さが危険とどう関係するか考えてみなさい。太陽が照る日中は明るいから転んだり何かにぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、あなた方がこの世の光である私を見て、私もあなた方の内にいると言えるくらいに私と結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。当時の弟子たちと違って私たちはイエス様を肉眼の目では見れませんが、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を霊的な目れれば、イエス様というこの世の光を持てていることになり、守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになり危険に晒されてゴールに到達できないということです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

2023年3月20日月曜日

霊的な目が開かれるということ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士) 


スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2023年3月19日 四旬節第四主日

 

サムエル記上16章1-13節

エフェソの信徒への手紙5章8-14節

ヨハネによる福音書9章1-41節

 

説教題 「霊的な目が開かれるということ」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イエス様は人道支援の模範を超える方

 

 本日の福音書の日課は、目の見えなかった男の人がイエス様の奇跡の業のおかげで見えるようになったという出来事です。イエス様と弟子たちの一行が通りかかったところで、生まれつき目の見えない男の人が物乞いをして座っていました。それを見て弟子たちがイエス様に尋ねます。この人が生まれつき目が見えないのは、自分で罪を犯したからか?それとも親が罪を犯したからか?要するに、本人ないし親が犯した罪の罰としてそうなってしまったのかという質問です。しかし、よく見るとこの質問にはおかしいところがあります。男の人が目が見えないのは生まれた時からです。罰を受けるような罪を生まれる前に犯していたということになるからです。もちろん、キリスト信仰では、人間は誰しも母親の胎内にいる時から最初の人間アダムの罪を受け継いでいると言います。ただ、その罰として目が不自由な者として生まれたと言ってしまったら、何も問題なく生まれてきた人は罰を受けなかったことになってしまいます。人間は生まれながらにしてみな罪びとだと言っているのに不公平な話です。それでは、罰の原因は本人ではなく親が犯した罪なのか?

 

 この質問に対するイエス様の答えは人間の視野を超えています。人が何か障害を背負って生まれてきたのは何かの罰でもたたりでもない。そのように生まれてきたのは、創造主の神の業がその人に現れるためなのである、と言うのです。その人に現れる神の業とは何でしょうか?本日の個所を読めば、ああ、それはその人の目が見えるようになる奇跡の業のことだなと思うでしょう。もちろん、奇跡的に重い病気や障害が治ることもありますが、治らなかったら神の業が現れなかったということなのでしょうか?人間誰でも病気や障害が治ることはとても切実なことですので、「神の業」と聞いたらそれにつきると考えてしまいます。しかし、神の業には、目が見えるようになる癒しを超えたもっと大きなこともあったのです。その大きなこととは何か?それがわかると、イエス様という方は、単に困った人を助けてあげる人道支援の模範を大きく超えた方であることがわかります。

 

2.肉体的な目の開きから霊的な目の開きへ

 

 神の業には癒しを超える大きなことがある、そのことがわかるために、目が見えるようになる奇跡には特別な意味があることを明らかにしようと思います。男の人の奇跡の出来事の後でイエス様は周りにいる人たちに聞こえるような声で驚くべきことを言いました。自分がこの世に来たのは裁くためであると言って、裁きの内容がどんなものかを言います。それは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」でした。これを聞いたイエス様に敵対するファリサイ派の人たちが、見えない者とは自分たちのことを言っているのかと聞き返します。それに対するイエス様の答えは分かりにくいです。もし、お前たちが目の見えない者であれば罪はないのだが、お前たちは「見える」と言い張るのでお前たちの罪は留まることになる、と。つまり、目が見えませんと認めれば、お前たちの罪は留まらないのだと。これは一体どういうことでしょうか?

 

 この「見える」、「見えない」ということには旧約聖書の背景があります。それを少し見てみましょう。イエス様の時代から約700年以上も昔のことでした。イスラエルの民が王様から国民までこぞって神の意思に反する生き方をし続けたため、神は預言者イザヤに罰下しを命じます。どんな罰かと言うと、民の心をかたくなにせよ、その目が見えなくなるようにし、耳が聞こえなくなるようにせよ、と言うのです(イザヤ6910節)。ただしこれは、文字通りに肉眼の目を見えなくなるようにするとか聴覚を不調にするということではありません。そうではなくて、神の御心が見えなくなってしまう、神の声が聞こえなくなってしまう、という霊的な目と耳の塞ぎを意味しました。

 

 この罰下しの役目を負わされたイザヤは不安の声で神に聞きます。「主よいつまで民をそのような状態に陥れておくのですか?(611節)」それに対する神の答えはこうでした。イスラエルの民が他国に攻撃されて荒廃し、人々は連れ去られ、残った者も大木のように切り倒され焼かれて、そして最後に切り株が残る時までだ、その切り株が「神聖な種」になる、と(1113節)。そのような切り株が現れるまでは霊的な目が見えない、耳が聞こえない状態になるのだ、と言うのです。これは逆に言えば、切り株が現れることが霊的な目が見え耳が聞こえる民の誕生ということになります。この預言の後、イスラエルの民に何が起こったでしょうか?

 

 当時イスラエルの民は南北の王国に分かれていました。まず紀元前700年代に北の王国がアッシリア帝国に滅ぼされます。残った南の王国はすんでのところでアッシリアの攻撃を撃退しますが、その後も一時を除き神の意思に反する生き方を続けてしまい、最後はバビロン帝国の攻撃に遭い紀元前500年代初めに滅ぼされます。国の主だった人々は異国の地に連れ去られて行きました。それから半世紀程たった後、ペルシア帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の覇者となると、ペルシャ王の計らいでイスラエルの民は祖国帰還を果たします。イザヤ書の後半を見ると、神の僕なる者が現れて祖国帰還の民の目を開き耳を開くという預言が出てきます(イザヤ書427節、5045節)。帰還を果たした民は、神が再び自分たちのそばに来て自分たちも神の意思に従える民になったと希望で胸が一杯になったことでしょう。

 

 ところが、イスラエルの民は帰還した後もペルシャ帝国、アレキサンダー帝国、ローマ帝国と他民族が支配する状況が続きました。国内状況を見ても、神の意思に従う生き方をしているか疑問が持たれるようになりました。イザヤ書の終わりの方にある預言者の嘆きの言葉がそれを言い表しています。「主よ、いつまで私たちの心をかたくなにされるのですか?(6317節)」つまり祖国帰還した後も、まだ民の目と耳は開かれていなかったのです。一時、民の目と耳が開かれる預言は祖国帰還の時に実現すると考えられたのですが、次第に、民の目と耳が開かれるのは祖国帰還の時ではなく、もっと将来のことを指していると理解されるようになります。

 

 イエス様が歴史の舞台に登場したのはまさにそのような時でした。なんと、この方は目の見えない人たちの目を開け、耳の聞こえない人たちの耳を聞こえるようにする奇跡を行うではありませんか!もちろん、旧約聖書をよく知っていた人たちは、目や耳を開けるという預言はあくまでも霊的な目と耳のことだとわかっていました。しかし今、目の前で起きていることは、霊的な目や耳が開いたかどうかはともかく、肉体的な目と耳が開くということが起きているのです。あまりにも具体的です。もし、この人の霊的な目は開かれたと言ったら、それが本当かどうか誰もわからないでしょう。しかし、肉眼の目が見えるようになったら、あの人は見えてなんかいないと誰も否定することはできません。

 

 実は同じようなことは他の奇跡の所でも起きていました。全身麻痺状態の人がイエス様の前に運ばれてきました。イエス様は最初、お前の罪は赦されると言いました。周りにはそれを信じようとしない人たちがいました。そこでイエス様は、それならば、と言って、その人が立って歩けるようにしました。これを見た人たちは、この方は口先だけの人ではない、本当に罪を赦す力があるのだと思わざるを得なかったでしょう。

 

 また、会堂長の娘とラザロが死んだ時、イエス様は、死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。これは復活について具体的に教えるものでした。イエス様を救い主と信じる者にとって、死というのは復活の日に目覚めさせられるまでの眠りにすぎないということ、そして、眠りから起こす力はイエス様が持っていることを教えるものでした。そういうことを口で言っても誰も信じないでしょう。しかし、生き返らせる奇跡と一緒に言ったら、誰も信じないではいられないでしょう。同じように、目や耳を開けるイエス様の奇跡の業は、後で霊的な目と耳の開きが起こることを信じさせる前触れ的な業だったのです。

 

 それでは霊的な目と耳の開きはどのようにして起こったでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起こったことで起きました。イエス様は、人間が内に持ってしまっている罪、神の意思に反しようとする罪を全部背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げました。そこで、神から神罰を人間に代わって受けて死なれました。それは、人間が罪の重荷を自分で背負わないですむように、また神の罰を受けないで済むようにするためでした。しかも、神の救いの業はイエス様の十字架の死で終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させられました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示されました。このようして神はひとり子イエス様を用いて人間の救いをお膳立てしたのでした。

 

 そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に自分のために行われたのだ、だからイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受ける。そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるので、神から罪を赦された者と見なされます。罪を赦されたので、太古の昔に失われてしまった神との結びつきが回復します。神との結びつきを持てて復活の日を目指してこの世を生きることになります。この世から別れることになっても、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて、今度は朽ちない復活の体を与えられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。その人はイエス様を救い主と信じるようになって以後は、十字架に架けられたイエス様と彼が葬られた墓が空っぽになっていたことを肉眼の目ではない霊的な目で見ていたのです。聖書を繙く時、神が語りかけているのが霊的な耳に響いていたのです。このようにイエス様の十字架と復活が起こったことで人間の霊的な目と耳が開かれることが始まったのです。

 

 そこでファリサイ派の問題は何かと言うと、霊的な目が見えないのに見えると思っていたことでした。もしそうなら、彼らにはイエス様の十字架も復活も必要ありません。でも、それでは罪の償いも赦しも得られません。逆に霊的な目が見えないと認めることが出来れば、イエス様を救い主と信じることですぐ見えるようになります。霊的な目が見えるようになれば、罪の赦しのお恵みの中で人生を歩めるようになります。見えないのに見えると思っていることが問題だったのです。

 

3.神の業は私たちにも及ぶ

 

 これで、イエス様とファリサイ派のやり取りの意味がわかるようになったと思います。本日の日課の中でもう一つ難しい箇所があります。945節です。そこでイエス様は、我々は私を遣わした神の業を日中の内に行わなければならない、誰も行うことが出来なくなる夜が来る、私がこの世にいる間は私は世の光である、と言います。これは、以上述べたことを踏まえて考えれば、次のように理解することが出来ます。

 

 日中の明るい時とは、イエス様という光がまだこの地上におられる時です。その時に彼をこの世に贈った神の業を行わなければならない。しかし、暗い夜が来たら、つまりイエス様がこの地上からおられなくなったら、神の業を行うことが出来なくなると。それは一体どんな業なのでしょうか?

 

 先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きて人間の霊的な目と耳の開けが始まりました。ただ、十字架と復活の出来事の前にイエス様は、前もって霊的な目と耳が開かれることを信じられるようにする業を行いました。肉体の目と耳を開けることがそれです。そうすることで、霊的な目と耳が開かれることが起こると前もって信じさせようとしたのです。全身麻痺状態の人を癒すことで罪の赦しがあることを信じさせようとしたのです。死はイエス様を救い主と信じる者にとっては復活までの眠りにしか過ぎないことを信じさせるために生き返らせることをしたのです。それらを信じさせるために具体的に目と耳を開けてあげる、歩けるようにする、生き返らせることをしたのです。これらの具体的な奇跡の業は、十字架と復活が起きた後はもう、別になくても大丈夫になりました。なぜなら、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けれさえすれば、霊的な目と耳は開かれ、罪は赦され、復活を遂げられるからです!

 

 さて、イエス様が天に上げられてからは、彼が行ったのと同じ奇跡の業をする者はこの地上にはいません。ただし、聖霊の賜物として癒す力を与えられた人が癒しの奇跡の業を行うことはあるかもしれません。しかし、キリスト信仰者全てに共通する最も大事なことは、霊的な耳と目が開かれて、罪の赦しのお恵みに留って、自分も復活を遂げると確信を持って生きることです。

 

 イエス様は今、一時的にこの世にいません。それで今は夜ですが、しかし何も心配はいりません。エフェソ58節に書いてある通りだからです。

 

「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

 

 霊的な目と耳が開かれて罪の赦しのお恵みに留まって復活を遂げることになる者、すなわちキリスト信仰者は、夜の暗闇のようなこの世の中で光の子になっているのです。そして、パウロがローマ1312節で言うように、夜は更け、日は近づいているのです。イエス様の再臨の日は毎日、一日ずつ近づいているのです。

 

 本日の肉体の目が見えるようになった男の人は、まだ十字架と復活の出来事の前ではありますが、霊的な目が開かれて光の子として歩み出したことが見て取れます。特に真実を曲げなかったということに見て取れます。彼の両親は息子の癒しについて知っていましたが、シナゴーグから追放されることを怖れて、本当のことを言いませんでした。しかし、男の人は全然怯みませんでした。ファリサイ派の人たちは何としてでも、奇跡がなかったことにしようとか、安息日に行った奇跡は律法違反なので神の働きなどないという態度でした。男の人は真実を曲げなかった結果、シナゴーグから追放されました。日本語訳では「外に追い出された」で、男の人がファリサイ派の尋問を受けた部屋から外に追い出されたという意味です。ここは微妙な箇所で、シナゴーグから追放されたことを意味することも可能です。

 

 男の人が追放されたと聞いてイエス様はすぐ戻ってこられました。イエス様のせいで大変な目に遭ってしまったが、目の前にいるイエス様を見て、そんなことは次第にどうでもよくなりました。男の人はイエス様を「人の子」、つまり終末の時にこの世に現れる救世主であると告白しました。私たちも男の人のように真実を曲げないでいると、曲げることで利益を得る人たちの反感や怒りを買います。それこそ追放されて天涯孤独のようになってしまうかもしれません。しかし、イエス様はすぐ男の人のところに戻ってきて、自分が救い主であると告白するように導きました。私たちの場合も、イエス様は聖書の御言葉を通して、聖餐式を通して私たちのすぐそばにいらっしゃいます。私たちの祈りをいつも聞き遂げて下さいます。このように私たちのすぐそばにおられることで、私たちを信仰告白に導かれます。

 

 私たちも男の人と同じように告白ができたら、天涯孤独など些細なことになります。なにしろ告白は、万軍の主である神が私の味方について下さっていることを自分でそのとおりだと認めるものだからです。男の人の信仰告白は私たちの信仰告白を先取りしています。イエス様は、男の人が生まれつき目が見えないのは「神の業がこの人に現れるためである」と言いました。本当に肉体的な癒しを超える神の業が男の人に現れたのでした。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

2023年3月6日月曜日

聖霊とキリスト信仰者は風のごとく往く (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2023年3月5日 スオミ教会

 

創世記12章1~4a

ローマの信徒への手紙4章1~5、13~17節

ヨハネによる福音書3章1-17節

 

説教題 「聖霊とキリスト信仰者は風のごとく往く」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに ニコデモ - 自省するファリサイ派

 

 本日の福音書の日課の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在である、しかし、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられる、これが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はイエス様を贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救う、人間が神に国に迎え入れられるようにするということ。今日はこれらのことについて少し詳しくみていきます。

 

 まずニコデモという人について。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべきと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

 

 そこにイエス様が歴史の舞台に登場しました。彼が数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ522節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同528節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。

 

 全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 

 ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このやり方で神の前で清くいられるだろうか、神に義とされて天の御国に迎え入れられるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するタイプのファリサイ派だったと言えます。32節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ75052節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、ローマ帝国総督のピラトのもとに行き許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(193942節))。

 

2.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

 

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。イエス様はニコデモにイエス様はいきなり言われます。

 

「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)

 

 「新たに生まれる」ということについて注意します。それは、「生まれ変わる」ということと全く違います。例えば、自分は前世では誰々だったが、今の自分はその生まれ変わりであるなどと言う人がいます。こういう考えを輪廻転生と言います。そこまで大胆でなくとも、今度生まれたら金持ちになりたいとか、有名人になりたいなどと言う人は沢山いると思います。あるいは、赤ちゃんが生まれた時、亡くなったおじいちゃんかおばあちゃんに似ているので、この子はおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うのもよく聞かれると思います。

 

 聖書の信仰には輪廻転生はありません。私この吉村博明はこの世から死んだ後は何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられてイエス様のおかげで()朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。それでは、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」とはどういうことでしょうか?( この「イエス様のおかげで」を礼拝の説教では「運が良ければ」と言ってしまいました。「イエス様のおかげで」ということは本説教の後で強調されることなので、ここでは冗談ぽく言っておこうという軽い気持ちでした。礼拝後のコーヒータイムで教会員から、とても気になったとご指摘を受けました。良くなかったと反省しました。お詫びして訂正いたします。)

 

 イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありません。どんな誕生かは、次のイエス様の言葉を聞いてみましょう。

 

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(56節)。

 

 イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。

 

 人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきますが、それはまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが新しく生まれることです。

 

3.肉的な存在から霊的な存在へ

 

 それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

 

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

 

 なにかとても深いことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。気流の流れによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?

 

 さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架の死も死からの復活も起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれるということもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。加えて、風のたとえを難しくしているもう一つの理由は、ギリシャ語では「風」と「霊」は同じ言葉プネウマということです。イエス様とニコデモは間違いなくアラム語で会話しています。それが後にギリシャ語に翻訳されて新約聖書になりますが、アラム語でも「風」と「霊」は同じ言葉ルーァハです。それで、「風は思いのままに吹く」と言うのは、「霊は思いのままに吹く」と言い換えることができます。「霊」とは神の霊、聖霊のことです。「聖霊」の場合は「吹く」と言わずに「往く」と言った方がよいでしょう。ギリシャ語の意思を表す動詞テロが使われているので、風の場合は「思いのままに吹く」でいいですが、聖霊の場合は「自分の意思に従って往く」という意味になります。洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者もそうであると言うのです。そうならば、聖霊もキリスト信仰者もどこから来てどこへ往くのか誰にもわからないというのはどういうことなのか?それについては後で見ることにして、今はイエス様とニコデモの対話に戻ります。

 

 理解できず困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。

 

 イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から新しく生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうすることで神の国に迎え入れらえるようになること、こうしたことが、どのようにして起こるのかについて明らかにします。

 

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」

 

 ここでイエス様は、「水と霊による新たな生まれ」を起こすのは他ならぬ自分であると教えます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。

 

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」

 

 モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で作った蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、どのように起こるのでしょうか?

 

 イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられたのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持てるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。

 

 それでその後は人間が、これらのことは本当に起こった事でありイエス様は本当に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになり、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を持てて万物の主である神のもとに永遠に迎え入れられます。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。

 

4.聖霊とキリスト信仰者は風のように往く

 

 このように洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は復活の日に永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられるということがわかりました。それが、イエス様の風のたとえとどう結びつくでしょうか?先にも申しましたが、アラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。ここでイエス様は両方をひっかけて教えているのです。このたとえで教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録22節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(829節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。

 

 これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまる。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちも見えるし声も聞こえるから実在するのはわかる。しかし、聖霊と同じように、あくまで自分の意思に従って往くので肉的な人にはわからない。このことはパウロが第1コリント21415節で言っていることと一致します。

 

「肉的な人は聖霊が示すものを受け入れない。なぜなら、肉的な人にとってそれは馬鹿げたことだからだ。それは、霊的な状態をもって吟味されるものである。だから、肉的な人には理解できない。霊的な人がそれを吟味する。しかし、霊的な人は肉的な人から吟味されない。」

 

 それでは、洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は、肉だけの人と何が違うのでしょうか?以下それを見ていきます。そこで聖霊の働きについてもわかってきます。

 

 キリスト信仰者は新たに生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めように、「他人のものを自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんかどうでもいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。

 

 まさにこの時が聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって神罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲となったおかげと、あなたにあの方を真の救い主と信じる信仰があるおかげで、神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先に赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

 

「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。

神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ31416節)。」

 

 この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。しかしながら、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。実はこうすることが、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きていることの証しなのです。

 

 このような聖霊が働く内なる霊的な戦いは、本当に内なる戦いなので、外部の人、肉的な人には信仰者の内で何が起きているのかはわかりません。肉的な人にはそのような内なる戦いは無意味なものです。なぜなら、肉的な人にとって、例えば人を傷つけるようなことを言ったり行ったりしなければ十分である、心の中まで神の意思に照らし合わせたら身が持たないと言うでしょう。しかし、霊的な戦いに身を投じた人は、イエス様が救い主になっているので心の中まで神の意思に照らし合わせても大丈夫なのです。ここのところが肉的な人にとって理解できないところになると思います。

 

 たとえ肉的な人がわからなくても、キリスト信仰者は内なる霊的な戦いは全て自分をゴールに導く戦いであるとわかっています。ゴールは復活の日に神の御国に迎え入れられるところです。かの日、天地創造の神のみ前に立たされる日、神は、キリスト信仰者が旧い世で罪を内に持っていたにもかかわらず、罪の赦しのお恵みに留まって罪に与せず罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。その時、霊的な戦いは終結します。なぜなら、肉の体に代わって神の栄光を現す復活の体を着せられるからです。キリスト信仰者が受ける栄冠です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン