説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2023年3月19日 四旬節第四主日
サムエル記上16章1-13節
エフェソの信徒への手紙5章8-14節
ヨハネによる福音書9章1-41節
説教題 「霊的な目が開かれるということ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.イエス様は人道支援の模範を超える方
本日の福音書の日課は、目の見えなかった男の人がイエス様の奇跡の業のおかげで見えるようになったという出来事です。イエス様と弟子たちの一行が通りかかったところで、生まれつき目の見えない男の人が物乞いをして座っていました。それを見て弟子たちがイエス様に尋ねます。この人が生まれつき目が見えないのは、自分で罪を犯したからか?それとも親が罪を犯したからか?要するに、本人ないし親が犯した罪の罰としてそうなってしまったのかという質問です。しかし、よく見るとこの質問にはおかしいところがあります。男の人が目が見えないのは生まれた時からです。罰を受けるような罪を生まれる前に犯していたということになるからです。もちろん、キリスト信仰では、人間は誰しも母親の胎内にいる時から最初の人間アダムの罪を受け継いでいると言います。ただ、その罰として目が不自由な者として生まれたと言ってしまったら、何も問題なく生まれてきた人は罰を受けなかったことになってしまいます。人間は生まれながらにしてみな罪びとだと言っているのに不公平な話です。それでは、罰の原因は本人ではなく親が犯した罪なのか?
この質問に対するイエス様の答えは人間の視野を超えています。人が何か障害を背負って生まれてきたのは何かの罰でもたたりでもない。そのように生まれてきたのは、創造主の神の業がその人に現れるためなのである、と言うのです。その人に現れる神の業とは何でしょうか?本日の個所を読めば、ああ、それはその人の目が見えるようになる奇跡の業のことだなと思うでしょう。もちろん、奇跡的に重い病気や障害が治ることもありますが、治らなかったら神の業が現れなかったということなのでしょうか?人間誰でも病気や障害が治ることはとても切実なことですので、「神の業」と聞いたらそれにつきると考えてしまいます。しかし、神の業には、目が見えるようになる癒しを超えたもっと大きなこともあったのです。その大きなこととは何か?それがわかると、イエス様という方は、単に困った人を助けてあげる人道支援の模範を大きく超えた方であることがわかります。
2.肉体的な目の開きから霊的な目の開きへ
神の業には癒しを超える大きなことがある、そのことがわかるために、目が見えるようになる奇跡には特別な意味があることを明らかにしようと思います。男の人の奇跡の出来事の後でイエス様は周りにいる人たちに聞こえるような声で驚くべきことを言いました。自分がこの世に来たのは裁くためであると言って、裁きの内容がどんなものかを言います。それは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」でした。これを聞いたイエス様に敵対するファリサイ派の人たちが、見えない者とは自分たちのことを言っているのかと聞き返します。それに対するイエス様の答えは分かりにくいです。もし、お前たちが目の見えない者であれば罪はないのだが、お前たちは「見える」と言い張るのでお前たちの罪は留まることになる、と。つまり、目が見えませんと認めれば、お前たちの罪は留まらないのだと。これは一体どういうことでしょうか?
この「見える」、「見えない」ということには旧約聖書の背景があります。それを少し見てみましょう。イエス様の時代から約700年以上も昔のことでした。イスラエルの民が王様から国民までこぞって神の意思に反する生き方をし続けたため、神は預言者イザヤに罰下しを命じます。どんな罰かと言うと、民の心をかたくなにせよ、その目が見えなくなるようにし、耳が聞こえなくなるようにせよ、と言うのです(イザヤ6章9~10節)。ただしこれは、文字通りに肉眼の目を見えなくなるようにするとか聴覚を不調にするということではありません。そうではなくて、神の御心が見えなくなってしまう、神の声が聞こえなくなってしまう、という霊的な目と耳の塞ぎを意味しました。
この罰下しの役目を負わされたイザヤは不安の声で神に聞きます。「主よいつまで民をそのような状態に陥れておくのですか?(6章11節)」それに対する神の答えはこうでした。イスラエルの民が他国に攻撃されて荒廃し、人々は連れ去られ、残った者も大木のように切り倒され焼かれて、そして最後に切り株が残る時までだ、その切り株が「神聖な種」になる、と(11~13節)。そのような切り株が現れるまでは霊的な目が見えない、耳が聞こえない状態になるのだ、と言うのです。これは逆に言えば、切り株が現れることが霊的な目が見え耳が聞こえる民の誕生ということになります。この預言の後、イスラエルの民に何が起こったでしょうか?
当時イスラエルの民は南北の王国に分かれていました。まず紀元前700年代に北の王国がアッシリア帝国に滅ぼされます。残った南の王国はすんでのところでアッシリアの攻撃を撃退しますが、その後も一時を除き神の意思に反する生き方を続けてしまい、最後はバビロン帝国の攻撃に遭い紀元前500年代初めに滅ぼされます。国の主だった人々は異国の地に連れ去られて行きました。それから半世紀程たった後、ペルシア帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の覇者となると、ペルシャ王の計らいでイスラエルの民は祖国帰還を果たします。イザヤ書の後半を見ると、神の僕なる者が現れて祖国帰還の民の目を開き耳を開くという預言が出てきます(イザヤ書42章7節、50章4~5節)。帰還を果たした民は、神が再び自分たちのそばに来て自分たちも神の意思に従える民になったと希望で胸が一杯になったことでしょう。
ところが、イスラエルの民は帰還した後もペルシャ帝国、アレキサンダー帝国、ローマ帝国と他民族が支配する状況が続きました。国内状況を見ても、神の意思に従う生き方をしているか疑問が持たれるようになりました。イザヤ書の終わりの方にある預言者の嘆きの言葉がそれを言い表しています。「主よ、いつまで私たちの心をかたくなにされるのですか?(63章17節)」つまり祖国帰還した後も、まだ民の目と耳は開かれていなかったのです。一時、民の目と耳が開かれる預言は祖国帰還の時に実現すると考えられたのですが、次第に、民の目と耳が開かれるのは祖国帰還の時ではなく、もっと将来のことを指していると理解されるようになります。
イエス様が歴史の舞台に登場したのはまさにそのような時でした。なんと、この方は目の見えない人たちの目を開け、耳の聞こえない人たちの耳を聞こえるようにする奇跡を行うではありませんか!もちろん、旧約聖書をよく知っていた人たちは、目や耳を開けるという預言はあくまでも霊的な目と耳のことだとわかっていました。しかし今、目の前で起きていることは、霊的な目や耳が開いたかどうかはともかく、肉体的な目と耳が開くということが起きているのです。あまりにも具体的です。もし、この人の霊的な目は開かれたと言ったら、それが本当かどうか誰もわからないでしょう。しかし、肉眼の目が見えるようになったら、あの人は見えてなんかいないと誰も否定することはできません。
実は同じようなことは他の奇跡の所でも起きていました。全身麻痺状態の人がイエス様の前に運ばれてきました。イエス様は最初、お前の罪は赦されると言いました。周りにはそれを信じようとしない人たちがいました。そこでイエス様は、それならば、と言って、その人が立って歩けるようにしました。これを見た人たちは、この方は口先だけの人ではない、本当に罪を赦す力があるのだと思わざるを得なかったでしょう。
また、会堂長の娘とラザロが死んだ時、イエス様は、死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。これは復活について具体的に教えるものでした。イエス様を救い主と信じる者にとって、死というのは復活の日に目覚めさせられるまでの眠りにすぎないということ、そして、眠りから起こす力はイエス様が持っていることを教えるものでした。そういうことを口で言っても誰も信じないでしょう。しかし、生き返らせる奇跡と一緒に言ったら、誰も信じないではいられないでしょう。同じように、目や耳を開けるイエス様の奇跡の業は、後で霊的な目と耳の開きが起こることを信じさせる前触れ的な業だったのです。
それでは霊的な目と耳の開きはどのようにして起こったでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起こったことで起きました。イエス様は、人間が内に持ってしまっている罪、神の意思に反しようとする罪を全部背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げました。そこで、神から神罰を人間に代わって受けて死なれました。それは、人間が罪の重荷を自分で背負わないですむように、また神の罰を受けないで済むようにするためでした。しかも、神の救いの業はイエス様の十字架の死で終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させられました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示されました。このようして神はひとり子イエス様を用いて人間の救いをお膳立てしたのでした。
そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に自分のために行われたのだ、だからイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受ける。そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるので、神から罪を赦された者と見なされます。罪を赦されたので、太古の昔に失われてしまった神との結びつきが回復します。神との結びつきを持てて復活の日を目指してこの世を生きることになります。この世から別れることになっても、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて、今度は朽ちない復活の体を与えられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。その人はイエス様を救い主と信じるようになって以後は、十字架に架けられたイエス様と彼が葬られた墓が空っぽになっていたことを肉眼の目ではない霊的な目で見ていたのです。聖書を繙く時、神が語りかけているのが霊的な耳に響いていたのです。このようにイエス様の十字架と復活が起こったことで人間の霊的な目と耳が開かれることが始まったのです。
そこでファリサイ派の問題は何かと言うと、霊的な目が見えないのに見えると思っていたことでした。もしそうなら、彼らにはイエス様の十字架も復活も必要ありません。でも、それでは罪の償いも赦しも得られません。逆に霊的な目が見えないと認めることが出来れば、イエス様を救い主と信じることですぐ見えるようになります。霊的な目が見えるようになれば、罪の赦しのお恵みの中で人生を歩めるようになります。見えないのに見えると思っていることが問題だったのです。
3.神の業は私たちにも及ぶ
これで、イエス様とファリサイ派のやり取りの意味がわかるようになったと思います。本日の日課の中でもう一つ難しい箇所があります。9章4~5節です。そこでイエス様は、我々は私を遣わした神の業を日中の内に行わなければならない、誰も行うことが出来なくなる夜が来る、私がこの世にいる間は私は世の光である、と言います。これは、以上述べたことを踏まえて考えれば、次のように理解することが出来ます。
日中の明るい時とは、イエス様という光がまだこの地上におられる時です。その時に彼をこの世に贈った神の業を行わなければならない。しかし、暗い夜が来たら、つまりイエス様がこの地上からおられなくなったら、神の業を行うことが出来なくなると。それは一体どんな業なのでしょうか?
先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きて人間の霊的な目と耳の開けが始まりました。ただ、十字架と復活の出来事の前にイエス様は、前もって霊的な目と耳が開かれることを信じられるようにする業を行いました。肉体の目と耳を開けることがそれです。そうすることで、霊的な目と耳が開かれることが起こると前もって信じさせようとしたのです。全身麻痺状態の人を癒すことで罪の赦しがあることを信じさせようとしたのです。死はイエス様を救い主と信じる者にとっては復活までの眠りにしか過ぎないことを信じさせるために生き返らせることをしたのです。それらを信じさせるために具体的に目と耳を開けてあげる、歩けるようにする、生き返らせることをしたのです。これらの具体的な奇跡の業は、十字架と復活が起きた後はもう、別になくても大丈夫になりました。なぜなら、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けれさえすれば、霊的な目と耳は開かれ、罪は赦され、復活を遂げられるからです!
さて、イエス様が天に上げられてからは、彼が行ったのと同じ奇跡の業をする者はこの地上にはいません。ただし、聖霊の賜物として癒す力を与えられた人が癒しの奇跡の業を行うことはあるかもしれません。しかし、キリスト信仰者全てに共通する最も大事なことは、霊的な耳と目が開かれて、罪の赦しのお恵みに留って、自分も復活を遂げると確信を持って生きることです。
イエス様は今、一時的にこの世にいません。それで今は夜ですが、しかし何も心配はいりません。エフェソ5章8節に書いてある通りだからです。
「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
霊的な目と耳が開かれて罪の赦しのお恵みに留まって復活を遂げることになる者、すなわちキリスト信仰者は、夜の暗闇のようなこの世の中で光の子になっているのです。そして、パウロがローマ13章12節で言うように、夜は更け、日は近づいているのです。イエス様の再臨の日は毎日、一日ずつ近づいているのです。
本日の肉体の目が見えるようになった男の人は、まだ十字架と復活の出来事の前ではありますが、霊的な目が開かれて光の子として歩み出したことが見て取れます。特に真実を曲げなかったということに見て取れます。彼の両親は息子の癒しについて知っていましたが、シナゴーグから追放されることを怖れて、本当のことを言いませんでした。しかし、男の人は全然怯みませんでした。ファリサイ派の人たちは何としてでも、奇跡がなかったことにしようとか、安息日に行った奇跡は律法違反なので神の働きなどないという態度でした。男の人は真実を曲げなかった結果、シナゴーグから追放されました。日本語訳では「外に追い出された」で、男の人がファリサイ派の尋問を受けた部屋から外に追い出されたという意味です。ここは微妙な箇所で、シナゴーグから追放されたことを意味することも可能です。
男の人が追放されたと聞いてイエス様はすぐ戻ってこられました。イエス様のせいで大変な目に遭ってしまったが、目の前にいるイエス様を見て、そんなことは次第にどうでもよくなりました。男の人はイエス様を「人の子」、つまり終末の時にこの世に現れる救世主であると告白しました。私たちも男の人のように真実を曲げないでいると、曲げることで利益を得る人たちの反感や怒りを買います。それこそ追放されて天涯孤独のようになってしまうかもしれません。しかし、イエス様はすぐ男の人のところに戻ってきて、自分が救い主であると告白するように導きました。私たちの場合も、イエス様は聖書の御言葉を通して、聖餐式を通して私たちのすぐそばにいらっしゃいます。私たちの祈りをいつも聞き遂げて下さいます。このように私たちのすぐそばにおられることで、私たちを信仰告白に導かれます。
私たちも男の人と同じように告白ができたら、天涯孤独など些細なことになります。なにしろ告白は、万軍の主である神が私の味方について下さっていることを自分でそのとおりだと認めるものだからです。男の人の信仰告白は私たちの信仰告白を先取りしています。イエス様は、男の人が生まれつき目が見えないのは「神の業がこの人に現れるためである」と言いました。本当に肉体的な癒しを超える神の業が男の人に現れたのでした。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン