2012年10月29日月曜日

幸いな人とは誰か?何が幸いなことか? (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年10月28日(宗教改革主日)
日本福音ルーテル横浜教会にて

ヨシュア記24:14-24、
コリントの信徒への第一の手紙1:10-18、
マタイによる福音書5:1-6
 
説教題 「幸いな人とは誰か?何が幸いなことか?」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
 本日は、私たちの日本福音ルーテル(ルター)教会では、宗教改革主日と定められています。ドイツのヴィッテンベルグ大学の聖書学の教授、神学博士マルティン・ルターがヴィッテンベルグ城の教会の扉に有名な95の論題を釘づけして、宗教改革の口火を切ったのは、15171031日のことでした。今度の水曜日がその日からちょうど495周年にあたります。宗教改革の歴史やルターの神学は、それ自体興味の尽きないテーマであり、説教の場を借りてお話しすることも記念日にふさわしいのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、説教は説教。講義や講演ではありませんので、ここは本日与えられた福音書の日課の解き明しに専念したく思います。もちろん、解き明しは、いつものようにルターの宗教改革の精神に基づいて行います。
 
 
1.

 本日の福音書の箇所は、イエス様の有名な山上の説教の初めの部分です。山上の説教は、マタイ福音書の5章から7章の終わりまであります。ガリレア湖付近の丘陵地帯が舞台です。イエス様がその一つの山に上がり腰を下ろす。弟子たちが彼の周りに陣取り、その下の方には群衆が取り巻いていてイエス様の教えに耳を傾ける、という情景です。この山上の説教を一部始終聞いた群衆は彼の教えに非常に驚いた、と記されています(マタイ728節)。なぜなら、イエス様が神の御心・意思について律法学者のようにではなく、まさに神から権威を授かった者として教えたからでした(29節)。本日の箇所は、そのような驚くべき説教の出だしの部分です。中心的なテーマは、どのような人が「幸いな」人であるかということです。本日の箇所に定められているのは51節から6節までですが、「幸いな人」のテーマは11節まで続きます。
 
さて、「幸い」とはどんなことなのでしょうか?ギリシャ語の原文にあるμακαριοςマカリオスという単語がそう訳されているのですが、「幸せ」とも「幸福」とも訳さずに、「幸い」と訳されます。「幸せ」「幸福」を意味する言葉ではあるのだが、そう訳せない何かがある。それは、ここでマカリオスと言われている人が、心が貧しいとか悲しんでいるとか神の義に飢えているとか、さらに7節から11節までをみると、迫害を受ける人とか、どうみても幸せな状態にある人とは思えないからです。それで、普通に「幸せ」や「幸福」を意味する言葉は使えず、同じ意味でも何か別の言葉を見つけなければならなくなってしまったのだと思われます。しかし、イエス様は、こういう人の方が本当の「幸せ」を持っていることになる、と教えるのであります。つまり、「幸い」とは本当の幸せを意味する言葉になっていると言えます。それでは、この本当の幸せである「幸い」とはどんなことなのでしょうか?

 
2.

「幸い」の意味を知る鍵は旧約聖書にあります。詩編には、数多く「幸い」な人について述べられています。旧約聖書の言葉であるヘブライ語では、אשריアシュレーという言葉が使われていますが、イエス様は旧約聖書の伝統の上に立って教えを述べていることを忘れてはなりません。
 
詩篇第一篇をみると、「幸いな人」とは、「主の教えを愛して、それを昼も夜も口ずさむ人」です。「主の教え」というのは、ヘブライ語ではתורהトーラーなのでまさに律法ないし十戒を指します。そのような人は「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われます。「繁栄する」と聞くと、別に「幸い」ではなく、「幸せ」とか「幸福」という普通の言葉を使ってもいいのではないかと思われます。しかし、注意しなければならないのは、「繁栄する」と訳されている言葉はもとのヘブライ語(יצליח)では、「成功する」とか「成功裏に終わる」というのが正確な意味です。詩篇の研究者の間でも、この箇所について、律法を守れば報酬として神から繁栄をいただけると理解してはいけないと指摘があります。ある研究者は、天と地と人間を造った神が定めた十戒を守る人はすくすく育って実を結ぶ木のようになると言っているだけで、それが必ずしも金持ちになるという意味ではなく、金持ちでなくてもいろんなすくすく育つ仕方や実の結び方がある、と言う人もいます。また、十戒を守る人のなすことは金持ちでない人がなすことであれ、すべて神の目から見てよいものである、そういうことを意味していると言う人もいます。いずれにしても、「その人のすることは全て、成功裏に終わる」というのは、単に金持ちになって財産を蓄えるというような意味ではないことは明らかです。それでは、どんな意味でしょうか?詩篇第一篇の終わりで、「神に従う人の道を主は知っていてくださる」と言われます(6節)。人が人生の道を歩むとき、神がその歩みから目を離さずたえず目を注いで下さっている、というのであります。それゆえ、「成功裏に終わる」というのは、神の目からみてのことであり、人間の目からみてのことではありません。それは、その人がすること全てを神が御心に沿うものに変えて下さる、という意味であります。このように、十戒にある神の意思と御心を大事にしつつ、自分のなすことは神がよいように変えて下さる、そういう神への絶大な信頼を持って生きる人が「幸いな人」なのであります。
 
詩篇32篇をみると、「背きを赦され、罪を覆っていただいた者」、「主に咎を数えられず、心に欺きのない人」、これが幸いな人であると言われます(12節)。「心に欺きがない」という以上、自分の罪と神への不従順をしっかり神に認めて神から赦しを受けた人が「幸い」なのであります。神から赦しを受けるというのは、神の裁きから免れているということであります。
 
詩篇40篇では、「主に信頼をおく人、ラハブを信じる者にくみせず、欺きの教えに従わない人」が幸いな人と言われます(5節)。ラハブというのは、イスラエルを苦しめたエジプトを指しますが(詩篇874節を参照)、ここでは複数形になっているので(רהבים)、偶像という意味です。つまり、偶像に助けを一切求めず、また神の御心に反する教えを宣べる者を遠ざけて、ただ主にのみ信頼をおく人が幸いなのであります。
 
詩篇には他にも幸いな人、幸いな民について歌う箇所がありますが(3312節、8456節、8916節、112110節)、以上からだけでも、幸いな人がどんな人かわかります。それは、神の意思と御心を何よりも重んじて、自分のする全ては神がよいと思うように変えて下さるのだと神に信頼して人生の道を歩む者、また神に対して御心に背いた罪と不従順を包み隠さずに認めて神から赦しを受ける人、そして神にのみ信頼し神にのみ助けを求める人、これが幸いな人なのであります。
 

3.

このようにみてまいりますと、「幸いな人」というのは、神との密接な関係の中で生きている人ということができます。人間一人一人を造り、一人一人に命を与えて下さった神との関係です。たとえ、人間の目から見て、金持ちでなくても、恵まれた境遇にいなくても、履歴や功績が立派でなくても、神との密接な関係が持てていれば、その人は幸いなのであります。逆に、神との密接な関係がない状態で、金持ちだったり、恵まれた境遇にいたり、履歴や功績が立派だったりすれば、それは「幸せな人」とか「幸福な人」ということになりましょうが、「幸いな人」ではないのであります。
 
イエス様は、山上の説教で「幸いな人」について教える時、このような神との密接な関係の中で生きる人は今現在どんな状態にあるか、それが将来どんな状態になるのか、ということについて教えます。
 
まず3節。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」「心の貧しい人」というのは、少しやっかいな言葉です。というのは、原語のギリシャ語では「霊的に貧しい人」(οι πτωχοι τω πνευματι)と書いてあるからです。「心が貧しい人」と聞いて、それを「思いやりのない人」とか「冷たい人」とかに理解してしまったら、どうしてそのような人たちが天の国を持てるようになるのかわからなくなります。「霊的に貧しい人」というのは、まず、神との関係において自分には何か欠けているものがあると気づいてそれを認めることができる人、そしてそれを悲しいことだと自分でわかっている人という意味です。まさにこのマタイ53節の「霊的に貧しい人」について、ルターは次のように教えます。
 
「霊的に貧しい人々というのは、霊的な痛みを何も感じない鈍感な者たちではなく、神を畏れて人生の道を歩む者たちをいう。彼らは、この世がそうしているように風の吹く方向になびいて生きることはせず、自分の思いと行いと言葉をたえず神の御言葉に照らし合わせて、この世の人生の道を歩む。しかし、彼らは次のことを気づかずにはいられない。人間に宿る罪と不従順があまりにも人間の性質を歪めてしまっているので、神に正しく従うということはどうにも実現しないということを。実際、我々は自分で気づく前から、すでに憎しみ、逆らう心、嫉妬心、憤る心、そのほか神の御心に反するあらゆる惨めさに満ち満ちている。そして、神からの裁きは避けられないとわかると、心を騒がせたり嘆いたり悲しみに打ちひしがれたりし始めるのである。その時になって神から恩赦を望んだり、罪と罰から免れることを望むようになるのである。このような、自らの罪と不従順と神の裁きのゆえに夜も昼も心が落ち着かない者が、霊的に貧しい者なのである。そのような心には愉快さも笑いもない。それゆえ、この世はそのような心を悪いこと不幸なこととみなし、逆に試練や誘惑がなく悲しみなど感じないでいられるのが幸せだと思っている。しかしながら、キリスト信仰者の一番目の特徴は、霊的に貧しいこと、つまり神を畏れる心を持って生きるということである。彼らは、霊的に完璧な者でありたいと望みながら、いつも悪魔と自分の肉が行く手を遮っていることに気づくのである。それゆえ、彼らは霊的に敏感で、悲しむべきことは悲しむべきとわかって悲しむのである。しかし、キリストは言う。恐れてはならない、と。確かにお前たちは自分から見ても不幸な者たちで、昼も夜も心に惨めさと悲しみをもっているのだが、それでも私の言うことを信じなさい。お前たちは霊的に貧しい者たちである。天の国はまさにお前たちのものである、と。」
 
神は天の国をまさにそのような霊的に貧しい者たちのために準備して下さいました。ところで、「天の国」というのは、他の福音書では「神の国」と言われますが、両者は同じものを意味します。マタイ福音書では、「神」という言葉はあまりにも畏れ多いので、「天」という言葉に置き換えたのであります。「天の国」、「神の国」というのは、今の世が終わって新しい天と地にとってかわられる時(イザヤ6517節、6622節、601920節、ヘブライ122627節)、そして神が死者を復活させる時、復活の身体と永遠の命を持つことになった者たちが造り主である神のもとに戻るところであります。そこは、大きな祝宴のようであり(黙示録1979節)、またこの世で流さなければならなかった涙が全て拭われるところです(214節)。つまり、この世で受けた辛酸、不正義、苦痛でまだ償われていなかったものが全て最終的に清算されるというところです。それで、そこは、悲しみも嘆きも労苦もなく、死さえないところであります(214節)。
 
そのような神の国に入れるためには、神聖な神から人間を切り離すもととなっている罪と不従順を人間から取り除かなければなりません。しかし、罪と不従順は堕罪の時に人間の性質の中に取り込まれてしまいました。そのために、人間は死する存在となってしまいました。しかし、人間の造り主である神は人間が死んでも再び造り主のもとに永遠に戻れるようにと、大きな取り計らいをしました。それが御子イエス・キリストをこの世に送り、本来人間が負うべき罪と不従順の罰を彼に十字架の上で受けさせて、その死に免じて人間を赦すということでした。神はさらに一度死んだイエスを死から復活させて、死を超える復活の身体と永遠の命が存在することを示されました。私たち人間は、これらのことが全て自分たちのためになされたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この、神が整えて下さった救いを受け取って自分のものとすることができるのです。私たちの肉にはまだ罪と不従順が残っていますが、洗礼によってイエス様の神聖さを頭から衣のように被せられます。そして、私たちの内にあって肉に結びつく古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人を日々育てていく人生を歩み始めることとなります。しかしながら、キリスト信仰者とはいえ、まだ罪と不従順は残存しています。それが神聖な神と人間を引き離すものであると知っています。自分でも注意して生きているにもかかわらず、突然お前は実はこんな人間なのだと言わんばかりに目の前に見せつけられることがあります。そのことが私たちの心を悲しませます。しかし、キリスト信仰者にあっては、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼の賜物のゆえに、神がこう言って下さるのです。「お前はまぎれもなくわたしの子である。お前は天の国に迎え入れられる。だから、心配しなくてもよい」と。
 
4節をみてみましょう。イエス様は「悲しんでいる者たちは幸いである。彼らは慰められる」と言います。「慰められる」という動詞は未来形ですので、「今は悲しんでいるが、将来は慰められる」という意味です。それから、「慰められる」という受け身の形ですが、新約聖書ギリシャ語の用法で、「誰それによって」と記されていない場合は、「神によって」という意味が含まれています。つまり、「現在悲しんでいる者は、幸いである。なぜなら彼らは将来神によって慰められるからである」という意味になります。神の意思と御心を大事と思いつつも、自分はそれからかけ離れていることを思い知らされてしまい悲しんでいる者がいる。それゆえ、イエス様の十字架の死と復活はそのような者たちにとって朗報、良い知らせまさに福音でした。そうして、神から大きな慰めを受けました。そして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、この世の人生を歩みます。ところが、この世には、神の意思や御心とかけ離れたことが多く存在し、ある時は神の意思や御心に沿う解決を得ることが出来ても、別の時には私たちの力ではどうにもならないことも多くあり、私たちを悲しませます。また、私たち自身の内にも神の意思や御心に反するものがあることに気づかされ、私たちを悲しませます。しかし、今の世が終わる時、復活の日に全てが一変されます。その時、神の国に迎えられた者は最終的な慰めを神から受けることになります。
 
5節をみてみましょう。イエス様は、「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」と言われます。「柔和な」というのは、ギリシャ語の単語の基本的な意味は「穏やかな」とか「物腰静かな」ですが、どういう意味で「穏やか」、「物腰静か」かと言うと、例えば、他人を押しのけてまで自分を強く表に出すようなことをしない人であるとか、他人から何か不正義や不都合を被っても騒ぎ立てたり自分の手で復讐するようなことはせず、その者に対する最終的な処遇は神に委ねる人とか、「悪には悪を」には手を染めず、「悪に対しても善をもって」という態度を貫く人です。これは難しいです。仮に出来ても、すぐ馬鹿なお人好しとしてしか見られません。でも、それが「柔和な人」なのです。そのように神に決済を委ね、自分はただ神を信頼して、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛することに努めようとすること、このような者が「将来、地を受け継ぐことになる」と言うのであります。「地を受け継ぐ」というのは、約束の地を受け継ぐということ、つまり神がイスラエルの民に与えると約束したイスラエルの地を継承するということです。しかし、イエス様の時代になると、今の世が終わった後に新しい天と地が創造されるという信仰が明確になっていましたので、神の民が将来受け継ぐ地というものは、将来現れる神の国を指します。以上から、5節の意味は、神に全面的に信頼して、物事が最終的に行き着くところは神に任せて、自分は身を低くして神の意思と御心を心に留めて生きようとする者、これが将来神の国に迎えられる者であり幸いな者である、ということであります。
 
6節でイエス様は、「義に飢え乾く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と言います。「義」というのは、神の意思と御心が実現した状態を指します。神の意思と御心そのものとも言えます。人間はこの神の義を持てないと、この世から死んだ後に復活の身体と永遠の命を得て造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間に内在する罪と不従順が義を持てることを妨げています。それを持てるようにしたのが神ご自身の計らいでした。先ほど申しましたように、神は人間に代わって人間の救いを整えられ、人間は御子イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けることでこの救いを受け取って自分のものとすることができるようになったのであります。まさに、このような信仰のゆえに神から義を与えられ、それで「お前はもう義なる存在なのだ」と神に認められるのであります。まさに、信仰によって義と認められる、信仰義認であります。
 
イエス様は、「義に飢え渇く人々は、幸いである」と言った後で、こう言われます。「なぜなら、彼らは将来満たされるからである。」「満たされる」という動詞は未来形です。そして受け身の形の主語は神です。神が義に飢え渇く人たちを自ら満たして下さる。それは、神がこの世に遣わしたひとり子イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現したのであります。

 
4.

 先ほど、人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の神聖さを衣のように頭から被せられる、と申しました。人間は内側には罪と不従順を持ちながらも、神の側では、私たちに被さっている衣の方をご覧になって下さるので、私たちを義と認められる。私たちの側では、そのような恵みに満ちた取り計らいをして下さった神を畏れ愛し、イエス様の衣に相応しく生きようと志向する。ただし、内在する罪と不従順は残存するので、私たちの人生の歩みは、肉に結びつく古い人を日々死に引き渡し、霊に結びつく新しい人を日々育てていくというものになる。日々の引き渡しと日々の育てとはどういうことかと言うと、こういうことです。人がそれぞれ生きて活動している立場や場所にとどまって、そこでの課題に取り組み、そこでの人間関係に揉まれながら、日々御言葉を読み、神の意志と御心が行われるように祈り求めること。そして、聖餐で主の血と肉を受け、神との結びつきを絶やさずに強めるようにすることです。このことに関連して、聖書の箇所を4つほど引用して、本説教の締めにしたいと思います。

「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」ローマの信徒への手紙1314

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」ガラテヤの信徒の手紙327

「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」エフェソの信徒への手紙42224

「今は、そのすべてを、すなわち怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」コロサイの信徒への手紙2810

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン
 

2012年10月23日火曜日

人間にはできることではないが、神には出来る(マルコ10章27節) (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年10月21日(聖霊降臨後第21主日)
日本福音ルーテル横須賀教会にて
  
  
アモス書5:6-15、
ヘブライの信徒への手紙3:1-6、
マルコによる福音書10:17-31
 
説教題 「人間にはできることではないが、神には出来る(マルコ10章27節)」
  
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
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 ある男の人がイエス様に「永遠の命を受け継ぐためには何をすべきですか?」と聞く。これに対してイエス様は、お前は十戒を知っているだろう、と言って、そのいくつかを述べる。すると男は、そうしたものは若い時から守っています、と答える。いかにも、それで十分なのですか?それで永遠の命を受け継げるのですか?と言わんばかりです。そこでイエス様は、「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい者たちに施しなさい。そうすればお前は天国において宝を持つことになる(εξεις)。それから私の後に従って来なさい」と答える。「天国において宝を持つ」とは、天国で約束されたものが待っている、ということですから、この世から死んだ後、永遠の命を持って生きることになるという意味です。まず、財産を売り払って貧しい人に施して、将来永遠の命を得られることを確実にしておいて、今は私に付き従いなさい、とイエス様は教えられました。男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。なぜなら、その人は実は金持ちで、永遠の命か財産かのいずれをとるかの選択に追い込まれてしまい、財産を捨てることが出来ず、イエス様のもとから立ち去るしかなくなってしまったのでした。
 
本日の福音書の箇所の話は、キリスト信仰者のみならずそうでない人たちにもよく知られているところの一つですが、この箇所の理解を深めるために、この金持ちがどんな人物であったかを記述に基づいて見てみましょう。この男は、一般に思われるように単に利己心や自惚れが強い人とは違います。まず、イエス様のもとに走り寄ってきます。そして跪きます。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるためには、何をしなければならないのか、本当に知りたい、とても真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、自分は若い時から守ってきています、と答える。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示する傲慢さではなく、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて生きてきましたという信仰の告白でした。イエス様もそのように理解しました。皆様のお手元の聖書には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてありますが、「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」というのは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を受け継ぐことが出来るようにしたいと同情したということです。そこで、イエス様が命じたことは、財産を売り払って貧しい人に施しなさいということでした。しかし、それはその男の人には受け入れられないものでした。あれ程、永遠の命を希求しながら、それを得られる切り札を教えてもらったのに、その通りにはできなかったのです。なぜでしょうか?その人はやはり金や財産の方が大事と思う利己心の強い人だったのでしょうか?
 
この男の人は単なる金や財産に執着心の強い人であったと結論するのは早すぎます。先ほども申しましたように、十戒を守ることを大事に考えている。十戒を大事に考えるということは、神の意思を大事に考えているということです。この男の人は、自分の財産を神の意思を守りながら築いてきたと言えます。それは、詩篇の第一篇にある「主の教えを愛して、それを昼も夜も口ずさむ人」を思い起こさせる人だったのでしょう。「主の教え」というのは、ヘブライ語でトーラーתורהなのでまさに律法ないし十戒を指します。そのような人は「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われますが、この男の人はまさに詩篇第一篇に言われているような人を想起させたでしょう。彼は財産を悪や嘘で築き上げたのではなく、神の意思、十戒をしっかり守りながら築き上げたのでした。それゆえ、自分の繁栄と敬虔さは結び付いていると信じて疑わなかったのです。繁栄は自分の敬虔さの証のようなものでした。それをイエス様が捨ててしまいなさい、と命じたのです。財産が惜しいという気持ちもひょっとしたらあったかもしれませんが、これまで一生懸命正しいと信じて行い、それが正しかったことが繁栄という目に見える形で見えていたのに、実はそれは正しくなかった、それは永遠の命を得るためには意味のないことだったと、根底から覆されてしまったのでした。これは、大ショックを受けるのは当然なことであります。
 
ここで少し脇道に入りますが、詩篇第一篇で、神の律法ないし十戒を愛して心に刻む人が豊かな実をもたらす水辺の木のように繁栄する、ということについて、詩篇の研究者たちからは、この箇所を、律法を守れば報酬として神から繁栄をいただけると理解してはいけないと指摘があります。ある研究者は、天と地と人間を造った神が定めた十戒を守る人はすくすく育って実を結ぶ木のようになると言っているだけで、それが必ずしも金持ちになるとかそういう意味でなく、金持ちでなくてもいろんなすくすく育つ仕方や実の結び方がある、と言う人もいます。また、十戒を守る人のなすことは金持ちでない人がなすことであれ、すべて神の目から見てよいものである、そういうことを意味していると言う人もいます。いずれにしても、詩篇第一篇を読むとき、数と量で数えられる繁栄が神の祝福のあらわれと理解しないように注意しましょう。
 
 
2.

こうしてイエス様は、敬虔さと繁栄は別問題であると言って、男の人にショック療法を与えますが、イエス様はその人にどのようになってほしいと考えていたのでしょうか?永遠の命を受け継ぐ - つまり、この世から死んだ後で自分を造って下さった神のもとに永遠に戻れるということです - それが実現するために、男の人の考え方生き方はどう変わらなければならないか、それをイエス様はどう考えていたのでしょうか?「全財産を売り払って貧しい人に施せ」というのは、それ自体は不可能なことではありません。もし、男の人が意地になって、そこまで言うならやってやろうじゃないか、とやけを起こして、実現することは可能です。「イエス様、おっしゃるとおりにしました。さあ、これで私は永遠の命を受け継いだわけですね!」と、自分はやれと言われたことは全部やりとげるんだから、これ以上、文句はいわせないぞ、と強い態度に転じることになります。幸いなことに、そうはなりませんでしたが、そういうふうに自分は神の命じたことは何でも実行できるぞとの自信満々になっていくことは、その人の考え方や生き方は基本的なところでは変わっていないことになります。イエス様は、男の人の考え方生き方の何を変えたかったのでしょうか?
それを見るには、イエス様が男の人に言って聞かせた十戒の内容が、十ではなく七つにとどまっている、ということに注意する必要があります。「殺すな」というのは第五戒、「姦淫するな」は第六戒、「盗むな」は第七戒、「偽証するな」は第八戒、「奪い取るな」は第九戒と十戒、そして「父母を敬え」は戻って第四戒です。これを見ると、十戒の最初の三つ、「私はお前の神であり、お前は私以外に神を持ってはならない」、「神の名をみだりに唱えて汚してはならない」、「安息日は守らなければならない」が述べられていません。なぜでしょうか?
 
十戒の十の掟は、大きく分けて二つの部分に分かれます。一つは、人間と神との関係に関わる掟で今述べた最初の三つがそれです。もう一つの部分は、人間同士の関係に関わる掟で、イエス様が金持ちの男に述べたものです。十戒が大きく分けて二つの部分に分かれるということは、イエス様がそれぞれの趣旨をまとめて、一つめは神を全身全霊で愛するようにと命じる掟であり、二つめは隣人を自分を愛する如く愛せよと命じる掟である、と教えていることにも明らかです(マルコ122831節)。このように十戒は内容的にみて二つの部分に分けられますが、それらは全く独立した部分ではありません。最初の「神を全身全霊で愛せよ」ということに関わる三つの掟があくまでも大前提としてあって、その後で「隣人を自分を愛する如く愛せよ」ということに関わる七つの掟が続くのであります。つまり、キリスト教信仰にあっては、隣人愛とは神を全身全霊で愛することに基づいていなければならないのです。いわゆる人道支援というものは、別に宗教的な動機がなくても行えるものです。しかし、キリスト教信仰にあっては、支援活動が、「お前には他の神があってはならない」、「神の名を無意味に引き合いに出したり、または意味があるのに引き合いに出さなかったりして、神の名を汚してはならない」、「安息日を守らなければならない」ということに反していないかどうかが常に問われるのです。
 
十戒の二つの部分がしっかり結びついていて、最初の部分が次の部分の前提になっているということは、ルターの小教理問答からも明らかです。人間同士の関係に関わる七つの掟を一つ一つ説明する時、ルターは最初の三つに引き続いて、冒頭に必ず、「我々は神を畏れ、愛さなければならない」と言ってから説明を始めます。隣人愛に関する掟は全て、神を全身全霊で愛する掟の上にある、ということがはっきり出ています。
 
イエス様は金持ちの男に十戒のことを言う時、なぜ人間同士の関係に関わる七つだけを述べて、「神を全身全霊で愛せよ」の三つを述べなかったのでしょうか?実は、これがこの男の人に欠けていたものだったのです。もし、イエス様が三つの掟も言及していたならば、男はおそらく「私には他に神などいません。神の名を汚したことなどありません。安息日もちゃんと守ってきました」と答えたでしょう。しかし、十戒を外面的に守ることは「神を全身全霊で愛する」ことにはならないのです。このことを人間に気づかせ、そこから、人間が神を全身全霊で愛せるようにし、それに基づいて隣人を自分を愛するが如く愛せるようにするために、イエス様はこの世に送られたのでした。
 
 
3.

十字架と復活の出来事が起きる以前のイエス様の教えはとても厳しいものであったことを思い出しましょう。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で第五戒を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六戒を破ったことになる、と教えます。十戒を外面的だけでなく内面的にまで完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しないのであります。マルコ7章の初めにはイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「悔い改め」をしようとして手がかりになるものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、十戒を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現・体現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えるのであります。
 
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何を「悔い改め」の手がかりにしたらよいのか?本日の箇所でイエス様は、神の国に入ること - これは永遠の命を得ることと同じことです - は駱駝が針の穴を通ることにたとえます。金持ちの場合は、それが駱駝の針の穴の通り抜けより難しくなる、と言っていますが、金持ちでない場合は、駱駝の針の穴と通り抜けと同程度の困難さと言うのです。それでも、不可能なことにはかわりません。この大問題、大不可能に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになります。このようにして神は、人間には不可能なことを可能にならしめたのでした。
 
 以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事の後になってはじめて、永遠の命を保証する「悔い改め」の手がかりを得ることができました。それは、十戒を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に宿る古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てながら、永遠の命に至る道を歩むこと、それであります。
 
 
4.

本日の福音書の箇所の金持ちは、十戒を外面的に守ることで神の意思を実現でき、永遠の命を受け継ぐことができると考えていました。蓄えた財産は神の意思を実現していることの神からの証し、自分が永遠の命の継承者であることの証しそのものでした。それゆえ、イエス様はこの誤った証しを覆すために、それを放棄せよ、と命じたのでした。放棄して財産を売り払って得た金を貧しい人に施せば、隣人愛も神への全身全霊の愛に基づいた隣人愛になっていたでしょう。しかし、この男の人に気の毒だったのは、時はまだイエス様の十字架と復活の出来事の以前のことだったということです。まだ、人間の本当の「悔い改め」の手がかりがない時です。山上の説教で、イエス様が十戒を内面的に破ることは破ることそのものである、と教えました。律法学者との論争では、宗教的な儀式を積んでも人間から汚れを除去できない、と教えました。それでは一体誰が救われるのか、誰も救われないのではないか、と人々は途方にくれるしかありません。本日の箇所の男の人も途方にくれたでしょう。価値観の覆しを被っても、新たなものがまだ現れていないのです。ただ、旧約聖書にある神の約束を信じる人ならば、どんな形で現れるかわからないがイエス様が必ず解決をもたらすにちがいないと信じてついて行くだけだったでしょう。そして、それは十字架と復活をもって完全に現れたのであります。十字架と復活の出来事の後、人間に永遠の命を受け継がせる手がかりが与えられました。「与えられた」と言っても、まだ人間全部が受け取ったわけではないので、「提供された」と言うのが正確でしょう。提供されて、ある人たちは受け取ったのであります。神の意思は、全ての人間が受け取るようになることです。そのために、キリスト信仰者は世に遣わされているのです。
 
本日の福音書の箇所の金持ちが、後で十字架と復活の出来事を知ることになったかどうかはわかりません。もし知ったのであれば、あの時途方に暮れて目の前が真っ暗になった失望状態にいたところに突然大きな光明が目の前に輝いたようになったのではないでしょうか?しかし、男のその後の人生を確認する手立てはありません。大きな歴史の舞台の裏にそっとしておきましょう。私たちとしては、覆しを受けて目の前が真っ暗な状態にあった時に、十字架と復活の主に出会って大きな光明を目にし、新しい人生の歩みに入った者として、これからを生きてまいりましょう。

 
5.

最後に、本日の福音書の箇所の終わりでペテロが「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言うところがあります。それに対して、イエス様は「わたしのためまた福音のために全てを捨てた者は、捨てたもの100倍を受け、永遠の命も受けられる」と答えます。この部分は、とても難しいところです。まず、イエス様の答えのギリシャ語の原文自体が複雑で、とても注意深く慎重に読まなければなりません。本説教では、残念ながら、時間の都合上、この部分の解き明しは後の機会に回したく思いますが、一言だけ述べておきましょう。イエス様は、親兄弟家財の一切合財をイエス様と福音のゆえに捨てた者は救われると述べます。ここで注意しなければならないことは、イエスを主と信じる信仰を持つにいたった者は即刻、家族家財を放棄せよ、家から出ていけということには全くならないということです。
 
イエス様が「わたしと福音のゆえに」と言っていることに注意する必要があります。つまり、イエス様と福音を選ぶか、親兄弟家財を選ぶか、という二者選択の状況に追い込まれた時はじめて、この捨てるという問題が出てきます。もし幸運にも家族の者が皆同じ信仰を持っていれば、二者選択の問題は生じないので、「捨てる」ということも問題になりません。しかし、もし肉親が、無神論者であったり、異なる信仰を持っていてキリスト信仰になんくせをつけたり、最悪の場合、それを捨てるように要求する場合に二者選択の問題がでてきます。そこでキリストを選ぶ時、「私と福音のゆえに親兄弟を捨てた」ということになります。それでは捨てるとはどういうことか。家を出るということか。そうではありません。イスラム教国のようにキリスト教徒になれば肉親といえども命の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思いますが、日本社会ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、キリストを選んでいる以上は、イエス様と福音のゆえに、反対する肉親を捨てているということは起きています。同じ屋根の下にいて「肉親を捨てている」などと言うと、何か、口も聞かず、背を向き合っているような冷え切った人間関係が支配するような感じがしますが、これもそうではありません。私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次のような質問したことがあります。「もし非キリスト教徒の両親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、第四の掟「両親を敬え」はどうすべきか。」彼は次のように答えてくれました。「何を言われても騒ぎ立てず取り乱さずに落ち着いて自分の立場をはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては親が信仰に至る可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい」ということでした。    
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン