2019年6月26日水曜日

喪失の悲しみから復活の希望へ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年6月23日聖霊降臨後第二主日 スオミ教会

列王記上17章17-24節
ガラテアの信徒への手紙1章11-24節
ルカによる福音書7章11-17節

説教題 喪失の悲しみから復活の希望へ

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は教会のカレンダーでは聖霊降臨祭から数えて第二の主日です。先週が聖霊降臨後の第一主日でした。聖霊降臨で父・御子・御霊の三つが出そろったということでしょうか、教会のカレンダーでは三位一体主日とも定められています。これから教会のカレンダーは毎週「聖霊降臨後第何主日」と続いて、クリスマスの準備期間である待降節まで続きます。今年は聖霊降臨の主日は1124日まで24回あります。その次の121日が待降節の第一主日、これが教会のカレンダーの新年になります。その日までまだ23週間もあります。梅雨が終われば暑い夏が来て、本格的な秋になるまでは残暑も続くでしょう。その間の私たちの毎日の歩みは山あり谷ありかもしれません。もちろん途中で、緑の牧場や水辺のほとりもあるでしょう。私は、スオミ教会の礼拝が皆様の心と霊にとってそういう憩いと安らぎの場になることを願っています。少し気が早いですが、待降節第一主日にはまた「ダビデの子、ホサナ」(後注1)を一緒に元気よく歌いましょう。その日を目指して、一日一日を父なるみ神の見守りと導きに信頼して歩んでまいりましょう。

本日の旧約の日課は、紀元前9世紀にイスラエル王国で活動した預言者エリアが死んだ子供を生き返らせる奇跡を行った話です。福音書の方は、死んでこれから埋葬されようとしていた青年をイエス様が生き返らせた奇跡についてです。両方とも子供に先立たれた母親の悲しみが言われていて、両方とも母親は未亡人です。夫に先立たれ、残された子供も失った時の悲しみは相当なものでしょう。未亡人たちはその悲しみを経験した後で、それぞれエリアとイエス様に助けられました。どちらもよく似たような話ですが、聖書をよく目を凝らして読むと違いもあります。そのことについては後ほど見ていきます。

私たちが、もし最愛の人に先立たれて悲しみのどん底に落ちたら、本日の日課の出来事のように、その人が生き返って悲しみがなくなるということが起こるでしょうか?イエス様を救い主と信じる私たちは、そういう奇跡が起こる可能性は信じていますが、奇跡である以上は一般的には起こらないことも知っています。もし一般的に起きたら、それはもう奇跡ではないからです。それじゃ、そのような状況に陥ったら、どうしたら良いのか?どうやって悲しみを乗り越えられるのか?不幸な出来事を忘れることが出来て悲しみが消える日を待つのか?でも、悲しみは消えるでしょうか?なかなか消えないのではないでしょうか?そうなると肝心なことは、たとえ悲しみは残ってしまっても、後で生まれてくる喜びもしっかり味わえるようになることではないでしょうか?つまり喜びを味わえないようにしてやろうとする悲しみの破壊力を弱体化させることです。悲しみが消え去らないものならば、そういうふうにするしかないでしょう。しかし、それは時間のかかることです。どうしたら、その時間を短く出来て、早く日常が回るようになれるでしょうか?悲しみは残っても、新たに生まれてくる喜びもしっかり味わえるようになっていけるでしょうか?

この問いに対する答えは本日の旧約と福音書の日課から見つかるかどうかと言うと、大方の人は見つからないと答えるでしょう。というのは、二人の未亡人は確かに子供を失って悲しみのどん底に陥ったが、結局は子供を生きて返してもらったからです。もうどん底にはいないのです。生きて返してもらえなかった親たちにとって、今日の日課は意味がないではないか、という疑問が起きます。もっともな疑問です。しかし、私は、この二つの話は、たとえ喪失の悲しみは残るにしても、それを覆い包んでいって悲しみを弱めて日常がまた回転し出す、そういう導きの力を教えていると思います。それを以下に見ていこうと思います。

2.不幸 - 罪に対する神罰の結果か?神の業が行われる起点か?

最初に旧約の日課を見てみましょう。エリアは旧約聖書の代表的な預言者の一人です。紀元前10世紀にダビデ-ソロモンの王国が南北に分裂しますが、その北王国で活動した人です。北王国の王様が天地創造の神を捨てて異教の神を崇拝するようになってしまい、エリアはそれを正そうと奔走し迫害も受けます。本日の日課のところは、エリアが神の指示に従い、国外に出てシドン地方のサレプタというところで未亡人と男の子の住む家に滞在を始めました。当時、地中海東部を干ばつが襲い、飢饉が起こっていました。未亡人の家も食べ物がなくなり、最後の小麦粉でパンを焼いたら後は餓死するだけというところまで追いつめられていました。そこにエリアが来て、壺の小麦粉は使っても使ってもなくならないという奇跡が起きました。これを見た異邦人の女性はきっとイスラエルの民の神、聖書の神は真の神とわかったでしょう。

ところが一難去ってまた一難。男の子が重い病気にかかって息を引き取ってしまいました。未亡人のエリアと神に対する態度は一変します。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」(列王上1718節)。「あなたは私にどんなかかわりがあるのでしょうか」というのは、「あなたは私に一体何をするつもりなのか?」ということです(後注2)。つまり、「私の所にやってきて、私の罪を明るみに出して私の息子を死なせるなどとは、私に一体何をするつもりなのか?」

この未亡人のように、不幸の原因を自分が罪を犯したので神が罰を下したという考え方はよくあります。特にサレプタの未亡人の場合、なくならない小麦粉の奇跡を見せられて、聖書の神の偉大さがわかったばかりでした。その後で息子が死ぬという不幸が起きてしまいました。きっと、この畏れ多い偉大な神は私の罪を見出して、その罰として息子を死なせたのだ、と考えたのでしょう。しかし、自分の罪のために犠牲になるのが当の自分ではなく最愛の子というのはどうにも受け入れ難いものです。エリアに対する未亡人の言葉には明らかに抗議が見て取れます。エリアは神に祈り、それを聞き遂げた神は男の子の息を吹き返させました。これで不幸とは神の罰が下った結果でないことが明らかになりました。そうではなく、不幸とは、天地創造の神を畏れ偉大な神と信じる者にとっては、神の業が行われる起点になるということが明らかになりました。未亡人がエリアのことを「神の人」と二回言いますが、最初、奇跡の前に言った時は神のことを罪を見つけて裁く方という理解でした。奇跡の後は、信じる者が不幸に陥ったとき憐れんで助けてくれる方という理解でした。

サレプタでの出来事のポイントは、天地創造の神を真の神と受け入れると罪の自覚が生まれるが、それでも起こる不幸は神罰ではないということ、そうではなくて、神の業が行われる起点であるということです。ところで、サレプタの未亡人の場合は、神の業は息子を生き返らせてもらう奇跡でした。それでは、亡くなった人が生き返らなかったら、不幸を起点にした神の業は何も起こらなかったということでしょうか?そういうことではないと思います。たとえ亡くなった人が生き返らなくとも、神の業は違う仕方で起きる、それは生き返りに比べたら物足りなく見えるかもしれないが、それでも悲しみの破壊力を弱めるものになる、そういう神の業もあると思います。そのような神の業をわかるために福音書の日課のイエス様の業を見てみましょう。

3.人間の根底的な苦しみとその解決

 イエス様はガリラヤ地方とユダヤ地方の境に近くにあるナインという町で死んだ者を蘇らせる奇跡を行いました。イエス様が死者を生き返らせる奇跡は、福音書に記録されている例としては、ガリラヤ地方のカペルナウムという町で、ユダヤ教会堂の会堂長ヤイロの娘を生き返らせたこと(ルカ84056節、マタイ91826節、マルコ52143節)と、エルサレムの近くにあるベタニアという町でマルタ、マリア二姉妹の兄弟ラザロを死後4日目に生き返らせたことがあります(ヨハネ11144節)。

ナインでの奇跡の出来事の次のようなものでした。イエス様が弟子たちや他に付き従う大勢の人たちと一緒に町の門の近くまで来る。ちょうどその時、中から門を通って外の墓地に向かう葬列が出てくる。亡くなったのは若者で、それは母親にとっては一人息子、しかも、母親は未亡人でした。町の人たちが大勢葬列に加わって歩いて行く。イエス様の言葉「もう泣かなくてもよい」から明らかなように、婦人は悲しみに打ちひしがれて泣きながら歩いていたでしょう。イエス様は葬列に近寄り、棺に手を触れます。棺を担ぐ人も葬列自体も立ち止まりました。そこで思いもよらないことが起こります。「イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」(1415節)。母親は、一度死んで失った息子を生きて取り戻すことができたのでした。

 ここで一つのことに注意します。それは、イエス様が他で生き返らせの奇跡を行った時は肉親から助けを求められて行っていますが、ナインでは誰もイエス様にお願いをしていません。イエス様は、お願いされる前にさっさと奇跡を行いました。お願いされなくても奇跡を行うきっかけが、本日の箇所の中で言われています。それは、「母親を見て、憐れに思った」というところです。目の前に悲劇の現実があることを自分の目で確認し、それに対して憐れに思った。憐れに思うというのは、ギリシャ語のσπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイという動詞ですが、心に訴えかけられる、それで憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、同情する、という意味です。イエス様が泣いて悲しんでいる母親を見て、本当に可哀そうに思った、それがイエス様をして奇跡の業を行わせたということです。私たちも、苦難や困難に陥った人を助ける時は、彼らの苦しみや悲しみに心を傾けることから始まります。可哀そうに思う、気の毒に思う、こうした心の有り様が他者を助ける出発点になります。その点については、イエス様も全く同じでした。私たちが救い主と信じる神のひとり子は、私たちが苦難や困難に陥った時にその心を本当に私たちの苦しみや悲しみに寄せて下さる方です。苦難や困難に陥るというのは、イエス様に見放されたということではありません。その時イエス様は、今のところは父なるみ神の右に座しているとは言っても、彼の心は騒ぎ、ナインの未亡人を可哀そうに思ったと同じように私たちのことも可哀そうに思うのです。

 イエス様が「他者の苦しみや悲しみに心を傾ける」、憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、ということを意味するギリシャ語の言葉σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイですが、これは彼が奇跡を行う場面でよく使われます。例えば、マタイ14章で、イエス様を追ってきた大勢の群衆を「見て深く憐れみ」(14節)、彼らの中にいた病人たちを癒されました。15章では、三日三晩飲まず食わずにいた4000人の群衆のことを、イエス様が「かわいそうだ」と言って(32節)、手元にあった7つのパンと少量の魚で全員を満腹にする奇跡を行いました。20章では、イエス様はエリコの町で二人の盲人から、目が見えるようにして下さい、と執拗に嘆願されます。その時、「深く憐れ」んだ(34節)イエス様は二人の目を見えるようにします。これらはギリシャ語ではみんなσπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイです。

他の奇跡の場面では、苦難困難に陥っている人たちを前にしたイエス様の心の動きは詳しくは記されていませんが、以上の例からだけでも、イエス様はそうした人たちに対して、いつも深い憐れみの心、可哀そうに思う心を持って、それに突き動かされて奇跡の業を行っていたことは否定できないでしょう(後注3)。私たちの主は、まことに私たちのことを心に留められて、私たちの苦しみや悲しみをさも自分自身の苦しみ・悲しみのように受け止めて下さる方です。

それならば、イエス様はなぜ、私たちが苦難や困難に一切遭遇しないで済むようにしてくれないのか?また、遭遇してしまった時は、どうして早くそれから抜け出られるようにして下さらないのか?ちょっと贅沢な疑問ですが、このことを考える時に、ひとつ注意しなければならないことがあります。それは、もしイエス様の任務が、苦難や困難に陥った人たちを憐れんで奇跡の業で助けてあげることだとすれば、なぜ彼はそれを途中でやめてしまったのか、ということです。イエス様はガリラヤ地方とユダヤ地方とそれらの周辺地域で実に多くの人々を奇跡の業をもって助けました。不治の病を治し空腹を満たし無数の悪霊を追い出しました。ところが突然、彼はこうした巡回救援活動を止めて、行けば死が待っていると自分でもわかっているエルサレムを目指して歩み始めるのです。イエス様が十字架に架けられたのが大体西暦30年頃とすると、年齢的に30少しいった位です。まだまだ働き盛りです。もっとあちこちを回って救援活動を続けられた筈です。それこそ、地中海の東海岸地方だけでなく、南はアフリカ、北は今のヨーロッパ、東はアジアへと、世界各地で病人を癒し空腹を満たし悪霊を追い払っていた方が、はやばやとエルサレムで死刑になってしまうよりは、人類のためになったのではないでしょうか?

ところがそうではないのです。ゴルゴタの十字架に架けられることの方が、人類のためになったのです。そっちを実行するために、イエス様はエルサレムに向かう道を歩み出したのです。それは、病気や飢えや他のあらゆる苦しみが助けてあげるのに値しないということではありません。そうではなくて、そうした苦しみ全ての根底にある苦しみから人間を救い出すということをイエス様は目指したのです。

人間の根底的な苦しみとは、人間が堕罪以来、自分の造り主である神との関係が断ちきれた状態に置かれたということです。そのため、人間はこの世の人生では、神との結びつきをもって生きることができず、この世から去った後も、神との関係は断ち切れたままで、造り主である神のもとに戻ることができず、永遠に滅びに陥ってしまう。しかし、神の側で、人間をそういう状態に陥らせないようにしようと思われた。人間が神との関係を回復できて、この世の人生では神との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう、たえず神から見守りと導きを得られるようにしてあげよう、と。この世を去ることになっても、その時はひと眠りの後で目覚めさせ、この世での肉体に替わる新しい復活の体を着せて自分のもとに引き上げてあげよう、そうして、造り主である自分のもとに永遠に戻ることができるようにしてあげよう、と。

しかしながら、神聖な神と罪を受け継ぐ人間の断ち切れた関係を回復させるためには、神から切り離す原因となった罪から人間を解放しなければなりません。そこで、神がやったことは、神のひとり子をこの世に送り、彼に人間の罪からくる罰を全て受けさせて身代わりとして死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにする、ということでした。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させて、人間に永遠の命への扉を開きました。サレプタの未亡人は、自分の罪のために子供が犠牲にさせられたと勘違いしましたが、私たちの場合は、私たちの罪のためにこともあろうに天地創造の神のひとり子が犠牲にさせられたのです!人間は、イエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受けることで、イエス様の身代わりの犠牲による罪の赦しにすっぽり包まれて、そこから神との結びつきを持ってこの世を生き始めます。そこで苦難や困難に遭遇しても、それは神の罰の結果ではない、むしろ神の業が行われる起点なのだという態度になります。

このように、エルサレムに向かう道を歩み出したイエス様は、人間を助けることを途中でやめたのではなかったのでした。そうではなくて、本当に人間を助けるために十字架の道を選んだのでした。もちろん、病気や飢えや悪霊から人間を助けることも大事です。しかし、イエス様は人間と神の結びつきが失われていることをまず解決しなければならないと考えて道を選んだのでした。これで、イエス様を救い主と信じる者にとって、苦難や困難は神の罰の結果ではなくなって神の業が行われる起点になりました。それでは、最愛の人を失ってしまった悲しみが苦難・困難の場合、最愛の人が生き返ってこないならば、一体何が神の業になるのでしょうか?

4.喪失の悲しみから復活の希望へ

その問いの答えを探す時、イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡を行ったのは何のためだったのかを考えるとよいでしょう。ただ未亡人を可哀そうに思って助けてあげただけだったでしょうか?エリアの生き返らせの奇跡とイエス様のそれとでは違いがあります。エリアは子供を生き返らせる時に神に祈り、それを聞いた神が生き返りを起こしました。神に生き返らせてもらったということです。ところが、イエス様の場合は「娘よ、起きなさい」とか「ラザロ、出てきなさい」とか、今日の個所のように「若者よ、起きなさい」とか、全部自分の命令で生き返らせています。神の力を仲介したエリアと違って、イエス様は自分が生き返らせる力を直に持っていることを示しました。将来の復活の予行練習みたいなものと言ってもいいかもしれません。

イエス様は人々に教えていた時、「終わりの日」に自分を救い主と信じる者を「復活させる」と公言していたことを思い出しましょう(ヨハネ639節、40節)。終わりの日の復活とは、この世を去った者たちが最後の審判の日に眠りから目覚めさせられ、イエス様の犠牲を受け入れて罪の赦しを得た者には神が「お前は義とする」と宣告される、そして、新しい朽ちない復活の体を着せられて懐かしい人たちと一緒に天の御国に迎え入れられる、これが復活です。そうすると、生き返りの奇跡で生き返らせられた人たちは復活したのではなく、生き返った後は寿命が来るまで生きたというにすぎず、この世を去った後は復活の日の目覚めまでは眠っているのです。生き返らせの奇跡は復活ではありませんでしたが、それをすることでイエス様が復活させると言っていることが口先だけでなく、本当にその力を持っていることを思い知らせることになりました。

キリスト信仰とその中にある復活信仰に立つと、亡くなった方は復活の目覚めの日までは眠りについているという立場になります。そして再会の日まで祈り・感謝を捧げたり思いを打ち明けたり人生の出来事を報告する相手はあくまで天の父なるみ神という立場になります。ところが、日本の大方の人は、仏壇などがありますので亡くなった方がそういう相手になって常にコミュニケーションを取れていつでも身近にいる存在になります。復活信仰だとコミュニケーションの相手は私たちの造り主である神だけになって寂しくなってしまうと思われるかもしれません。それでは喪失の悲しみは癒せないと言われるかもしれません。しかし、祈りを捧げる相手が創造主の神であればあるほど、愛する方と復活の日に再会できるという希望が強められていきます。確かに愛する方を失って神への感謝ということは遠のくかもしれないが、復活の日の再会の希望が強まれば、亡くなった方と共に過ごした日々の思い出がとても美しい麗しいものに変わり、それはきっと高価な芸術作品の絵画以上になるでしょう。この素晴らしい過去が神への感謝になり、それと将来の復活への希望が合わされれば、亡くなった方が今静かに眠っていても不安になることはなくなります。キリスト信仰の場合、まさにそこに、悲しみは残っても、日常は回り、新たに生まれる喜びも味わえるという神の業が働くのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン



後注1.「ダビデの子、ホサナ」は、フィンランドやスウェーデンでは待降節第一主日の礼拝で歌われることが伝統になっている讃美歌です。教会の「新年」を元気よく始める雰囲気に溢れる歌です。

後注2.(ヘブライ語とギリシャ語が分かる人にです。)列王記上1718ヘブライ語の文מה-לי ולךを見た人は、マルコ124節で悪霊がイエス様に言った言葉τι ημιν και σοι;とヨハネ4節でイエス様が母マリアに言った言葉τιεμοι και σοι;を思い出すのではないでしょうか?ヘブライ語の文、ギリシャ語の文ともにシンタックススが同じだからです。意味はマルコ124節は「我々とお前の間に何があるのか?」⇒「お前は我々に何をするつもりなのか?」、ヨハネ24節は「私とあなたの間に何があるのか?」⇒「あなたは私に何を求めるのか?」同様に列王上1718節も「私とあなたの間は何があるのか?」⇒「あなたは私に何をするつもりなのか/何を求めるのか?」。

後注3.ラザロの生き返らせでは、σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイは使われず、かわりにενεβριμησατο τω πνευματι και εταραξεν εαυτον(ヨハネ1133節)という言い方がされています。新共同訳では「心に憤りを覚えて、興奮した」とありますが、何に憤ったのかわからないし、すぐ後でイエス様も一緒に泣いてしまうので(35節)、ここはやはりイエス様が本当に可哀そうに思ったのだと考えた方がいいと思います。

2019年6月24日月曜日

なぜ神は三位一体なのか? (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年6月16日(三位一体主日)むさしの教会

イザヤ書6章1-8節
ローマの信徒への手紙8章1-13節
ヨハネによる福音書16章12-15節


説教題 なぜ神は三位一体なのか?


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.はじめに

本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

宗教学では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の世界三大一神教の類似性ということがよく言われます。ユダヤ教は旧約聖書を用いるし、イスラム教は新約旧約聖書を全く独自の仕方で用いています。しかしながら、神学的には三つの宗教が同じ種に属するという話には無理があります。なぜなら、キリスト教では神は三位一体ですが、ユダヤ教とイスラム教はそうではないからです。共通の聖典を持っている宗教同士でさえ、三位一体がキリスト教と他を切り離しているのです。共通の聖典などない他の宗教とキリスト教の間には類似性など論じる可能性はもっとなくなります。

 キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどにわかれていますが、わかれていてもこれらが共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体として受け入れています。そうした共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。わかれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があると言えます。また、わかれた教会が一致を目指す時の土台とも言えます。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。

 ところで、神が三位一体という説は、キリスト教が誕生した後で作りだされた考えにすぎないという見方があります。しかし、その見方は正しくありません。三つの人格を一つにして持つ神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。

その例として、ソロモン王の知恵の集大成である箴言の82231節を見ると、神の「知恵」というものがいかに人格を持った方であるかが言われています(「知恵」は「彼」と呼ばれます)。「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言われています。ところでイエス様は、自分がソロモン王の知恵より優れたものであると言っていました(ルカ1131節、マタイ1242節)。ソロモン王は神の知恵を人間に伝達しましたが、イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると言ったことになります。そこで箴言のなかに登場する「知恵」、天地創造の場に居合わせた「知恵」について、初期のキリスト教徒たちは、これがイエス様を指しているとすぐわかりました。そのために、御子は既に天地創造の時に父なるみ神と一緒にいたと言うようになったのです(第一コリント86節、コロサイ11418節、ヨハネ1章、ヘブライ113節)。さらに、神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を作り上げていきましたが、その時、御子が創造の業に積極的にかかわったことを明らかにしようとして、それでイエス様のことを神の「言葉」そのものと言うようになりました(ヨハネ1章)。

ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」である御子だけではありませんでした。創世記12節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています。創世記126節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。


2.どのようにして三位一体なのか、ではなく、なぜ三位一体なのか?

三位一体とは、わかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?理屈で理解しようとすると、三つの人格がどのようにして一人の神になるのかということに目が行ってしまい、これは行き詰ります。それならば、なぜ神は三つの人格を一度に備えた一人の神でなければならないのか、ということを考えると、聖書はこの「なぜ」の問いには答えを出していることがわかります。神が三位一体であるというのは、私たちに愛と恵みを注ぐために神はそうでなければならない、三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体でなければならないのです。以下、そのことを見てまいりましょう。

まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。神に造られた最初の人間が神に対して不従順になって罪を犯し、死ぬ存在になってしまったのです。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いている。このように人間が罪ある存在とわかると、神は全く正反対の神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

神の神聖さとは、罪を持つ人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約の箇所イザヤ6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは肉眼で神を見てしまう。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

イザヤは自分の罪と自分が属する民の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤが大やけどを負わなかったということは、罪から清められたことを示しています。罪から清められたイザヤは神と面と向かって話ができるようになります。モーセは、そのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されましたが、山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間にとって危険なものなのです。

このように神と人間との間には果てしない溝が出来てしまいました。しかし、私たちが神との結びつきを回復してこの世の人生を歩めるようにすべく、そして、この世を去った後は永遠に自分の許に戻れるようにすべく、神は溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされました。その救いの手がイエス様でした。本日の福音書の箇所の中でイエス様は弟子たちにこう言います。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「理解できない」、ギリシャ語の動詞βασταζω「背負いきれない」、「耐えられない」という意味です。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を神との結びつきから切り離している罪と死から救い出すために、イエス様がこれから十字架刑に処せられて死ぬことになるということです。このようなことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。

しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それらを受け入れることができるようになりました。まず、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死ななければならなかったのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲の生け贄になったということがわかりました。さらに、イエス様の復活によって永遠の命に至る扉が開かれて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとそこに至る道に置かれる、そして、神に見守られて導かれてその道を歩めるようになったこと、以上のこと全てが真理だとわかって受け入れることができるようになったのです。それができるようになったのは聖霊が働いたためです。どれも人間の理解力、理性では理解できないことだからです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。

ところが、こうした神の真理がわかってイエス様を救い主と信じて永遠の命に至る道を歩むようになっても、この世には神の真理を曇らせよう、イエス様が救い主であることを忘れさせようとする力が働いています。イエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを目に適う者に見て下さる、これが真理なのに、そんなに甘くはないぞと言って、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に増幅しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、私たちは、本日の福音書の箇所で前のところ(ヨハネ1426節)でイエス様が「弁護者」である聖霊を送ると言われたことを思い出さなければなりません。

私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架での人間の罪の償いが自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは、神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。

キリスト信仰者はこの世の人生でこれを何度も何度も繰り返して自分の内に宿る罪を圧縮していきます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ813節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。一度に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。

このように聖霊は私たちが神の真理にしっかりとどまれるように応援し助けてくれます。先程のイエス様の13節の言葉は、日本語訳では「聖霊があなたたちを導いて真理をことごとく悟らせる」でしたが、ギリシャ語原文では「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「真理全体の中にとどまれるように導いてくれる」とか「真理全体へと導いてくれる」などと訳すことも可能な文ですοδηγησει υμας εν τη αληθεια παση。つまり、真理をわからせてくれるだけでなく、真理にしっかりとどまれるように助けてくれる、それが聖霊です。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちがこの世の力や罪と戦う時、私たちは一人ぼっちではなく、イエス様が約束された聖霊が働いてくれることを忘れないようにしましょう。

13節から15節にかけてイエス様が教えていることは、聖霊が私たちを導いてくれる時、それは聖霊が自分で好き勝手なことを告げるのではなく、イエス様がこう言いなさいと言ったことを私たちに告げるのだ、ということです。父なるみ神のものは同時に御子のものでもあると言われているのは(15節)どういうことかと言うと、イエス様がこう言いなさいと聖霊に言うことは、それは父なるみ神がこう言いなさいと言ったことでもある、ということです。このように、父と子と聖霊は共通の真理のもとで働くという意味でも、三位一体なのです。


3.三位一体の神だから私たちと共におられる

このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順に陥ったために、神は今度はひとり子を用いて私たち人間を罪と死の支配から贖い出して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中に生きることとなりましたが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しに生きていることを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から導きや指導を受けられるようになりました。

ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて生きられるようになってこそ、神に造られた目的を果たすことになるということです。本当に三位一体はすごいことです!私たちにあるべき姿を示し、そうなれるようにする力そのものだからです。

最後に、父なるみ神とひとり子は天の御国におられるとは言えども、三位一体の神は私たちの近くにおられるという不思議なことを確認しておきましょう。スオミ教会の三位一体主日の礼拝説教で毎回見せているものですが、ここにこんな三角形があります。それぞれの頂点には、父、御子、聖霊と記されています。この三角形全体が三位一体の神です。まず、イエス様が地上に贈られる以前は、三つの頂点は天の御国にいますから、説教壇の表面を地上とすると、三角形は地上に対して上方に平行してあります。ただし、聖霊はずっと天にいっぱなしだったのではなく、旧約聖書を繙くと、聖霊がイスラエルの民の指導者に力を与えたり、預言者を空間移動させたりすることがありました。そのように聖霊は、時として地上にいる特定の個人に働きかけることがありました(士師記634節、1325節、Iサムエル116節、エゼキエル22節、371節)。しかし、聖霊が本格的に地上に送られてそこに留まって大勢の人間に働きかけるようになったのは、やはり、聖霊降臨の時からです。

さて、イエス様が地上に贈られました。神の身分でありながら神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり(フィリピ267節)、乙女マリアから人間として生まれました。三角形は平行でなくなって、イエス様の頂点を下にするようになりました。

父   霊  
  

  子

さて、イエス様が十字架の上で死なれ、死から復活させられ、そして天に上げられる日が来ました。イエス様は、自分が天の父のもとに戻った後は、信仰者が一人ぼっちに取り残されることがないように、父のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、1526節、16415節、ルカ2449節、使徒18節)。さあ、イエス様は天に上げられます。聖霊は本当に送られるでしょうか?どうなるでしょうか?(三角形の御子の頂点を上げると、聖霊の頂点が下がって、父と御子の頂点が上になる。)ほら、大丈夫でした。ちゃんと聖霊が送られました。

父   子  
  

  霊


               
          
               
             

イエス様は、しっかり約束を守りました。良かったですね。

聖霊が送られたおかげで、人間はイエス様を救い主と信じることができるようになります(第一コリント123節)。聖霊は、聖書の御言葉を通して人間に働きかけ、キリスト信仰者がしっかり神との結びつきを持ってこの世の人生を歩めるように助けてくれます。また聖霊は自分の判断に基づいて、信仰者にいろいろな賜物を与えます。賜物を与えられた人は、まだ信じていない人を信仰へ導いたり、既に信じている人には信仰をしっかり守るように助けたりします。そのようにしてキリスト教会がまとまりを保って成長するように助けます。皆さん、どうですか?父と御子は天におられるとは言っても、三位一体と聖霊のおかげで、全然遠くにいる感じがしないでしょう。それどころか、私たちには聖書の御言葉と聖餐式があるので、神はまさに私たちの耳元や口元にまでおいでになられるのです。このことを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン