2022年6月29日水曜日

将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年6月26日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会

 

列王記上19章15~16、19~21節

ガラテアの信徒への手紙5章1、13~25節

ルカによる福音書9章51~62節

 

説教題「将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 これまでガリラヤ地方を主な活動舞台にしてきたイエス様が、ついに運命的なエルサレム行きを決意し、そこを目指して歩み始める。本日の福音書の箇所の冒頭は、このことを記しています。イエス様は、既に弟子たちに前もって告げ知らせていたように(ルカ922節、44節)、エルサレムでどんな運命が待ち受けているか、自分でもよく知っていました。行けば、苦しみを受け殺される、しかも普通の人間が被る死とは異なる、もっと重い死を被ることになる。それを知って向かうのです。しかし、それは、神の人間救済計画の実現のためにしなければならないことでした。まさにそのために、イエス様は、天の父なるみ神のもとからこの世に贈られてきたのですから。

 さて、ガリラヤ地方からエルサレムに行こうとすると、その間にサマリア地方があります。そこに住むサマリア人たちとユダヤ人たちは、歴史的・宗教的な理由からお互いに反目し合っていました。サマリア地方は古くは、ダビデの王国が南北に分裂した後は北王国の中心でした。しかし、北王国は次第に、天地創造の神でありまたイスラエルの民を奴隷の国エジプトから導き出した神から離れ、カナンの地の土着の霊であるバアルの信仰に染まっていきます。この辺の事情は、預言者エリアの孤独な戦いについて列王記上の中に記されています。神から離れた北王国は紀元前700年代にアッシリア帝国に滅ぼされます。国の主だった人たちは占領国に連行され、代わりに異民族が送られてきます。そうして、サマリア地方は宗教的・民族的な純粋さを失っていきます。サマリア人たちは、旧約聖書のモーセ五書は持ち続けましたが、預言書は無視しました。また神に生け贄を捧げる場所としてゲリシムという山を選び、エルサレムの神殿も無視していました。そういうわけで、ユダヤ人たちはサマリア人を毛嫌いし接触を避けていました。ユダヤ人のそういう態度は福音書の随所に出てきます。本日の福音書の箇所で、イエス様一行がサマリアの村に宿と食事の提供を願い出て拒否されますが、その理由として、イエス様がエルサレムを目指して進んでいたからと記されています。サマリア人としては、誤った礼拝場所に巡礼に行く者たちをどうして世話しなければならないのか、ということだったのでしょう。この拒否に怒った弟子たちが、こんな村は神の力で焼き尽くされるべきだといきり立ちました。これに対してイエス様は、そんなことを言ってはいけないとたしなめ、その村はそのままにして、別の村を経由して行きました。

 このサマリア地方での出来事に加えて、本日の福音書の日課では、イエス様に付き従うことについての教えがあります。三人の男の人が登場します。そのうち二人は自ら志願します。一人はイエス様が付き従いなさいと声をかけます。しかし、いずれの場合もイエス様は、付き従うことに二の足を踏ませるような厳しいことを言います。特に、イエス様が自分で付き従いなさいと声をかけた人に対して、その人がまず死んだ父親を埋葬してから来ます、と言ったのに、イエス様は、埋葬は他人に任せて、あなたはただ神の国を言い広めなさい、と命じます。これは、日本のように死んだ人の霊を崇拝する伝統が強いところでは、キリスト教はなんとひどい宗教だという反感を生み出すことになります。このイエス様の教えについて、本説教の後の方で見てみます。

 サマリア地方の出来事は一見すると、イエス様は慈悲深い愛に満ちた方であることを言っているように見えます。イエス様につき従うことの教えの方は逆に、彼の弟子になることにとても厳しい条件を課しているように見えます。しかし、そういうイエス様の優しさとか厳しさという理解はまだまだ浅い理解です。このサマリアの出来事と弟子の条件の教えは、一見すると関連性がないみたいですが、実はあります。それを理解するカギは今日の個所に2回出てくる言葉「神の国」です。人間と「神の国」の関係が今日の日課の中で問題になっているとわかると、イエス様は心優しいお方とか厳しいお方とかいうような頼りない理解を突き破って堂々とした理解に入ることができます。

 

2.「神の国」とはどんな国?

 

 そのためには、まず「神の国」がどんな国かわからないと話になりません。特に一般的また俗に言う「天国」と大きく違うことがわからないといけません。両者を混同してはいけないのです。俗に言う「天国」は人間が死んだら天使のように空に舞い上がって行くところで、亡くなった方が上からこちらを見下ろしているとか見守っているとかいう所です。ところが、キリスト信仰の「神の国」は全く異なります。聖書では、「神の国」は人間が「行く」ところではありません。そっちの方がこちらに「やって来る」ものです。

 例えば、イザヤ書の終わりの方で(6517節、6622節)、今ある天と地が新しい天と地に再創造される日についての預言があります。黙示録21章ではまさにその再創造の日に「神の国」が新しい天と地のもとに降りてくると預言されています。「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地と全ての被造物が共に激しく揺さぶられて崩壊していくなかで、ただ一つ揺さぶられずに現われるのが「神の国」であると言っています。黙示録21章はまた「神の国」がどういう国か次のように述べています。そこは「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録213‐4節)。神が全ての涙を拭うというのは、痛みの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。「神の国」が現われる天地の大変動の時はまた、最後の審判が行われます。それなので、前の世で被ってしまった不正義は全て最終的に清算されて完全な正義がやっと実現する国です。さらに「神の国」は黙示録19章で盛大な結婚式の披露宴にたとえられます。つまり、この世の労苦がすべて報われて労われる国ということです。

 「神の国」がそういう遠い将来に新しく再創造された天と地のもとにやって来る国となると、誰がそこに迎え入れられるかという問題があります。不正義は入り込む余地がないことから、誰もがということではないことが明らかです。誰が将来到来する「神の国」に迎え入れられるかという問題に取り組んでいるのが聖書です。その問題の解決策として、天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが聖書の一番伝えたいことです。

 聖書の立場は、人間はそのままの状態では「神の国」に迎え入れられないというものです。ヨハネ3章でイエス様がはっきりそう言っています。どうしてかと言うと、人間には最初に造られた人間の時から神の意志に反しようとする性向、罪を持ってしまっているからです。そのため、人間は神との結びつきを失ってしまい、死ぬ存在になってしまったと創世記に記されています。人間はそのままの状態では神との結びつきを持たないでこの世を生きることになり、この世から去った後も神のもとに戻ることは出来ません。それで神は、人間が再び自分との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう、この世から去った後も天地再創造の日に復活を遂げさせて永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めてひとり子を贈られたのでした。そのひとり子イエス様を贈って何をしたかと言うと、神と人間の結びつきを失わせている罪を全てイエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで人間に代わって罪の罰を受けさせたのです。つまり、人間に代わってイエス様を断罪して、この神のひとり子の身代わりの死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。

 そこで今度は人間の方が、十字架の出来事は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しをお恵みのように頂けます。神はまた、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。それで、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて罪の赦しを受け取った者は、その道に置かれて歩み出します。行き先は、天地再創造の復活の日に復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられる地点です。それが「神の国」です。

 それなので、キリスト信仰にあっては、「神の国」は死んでフワフワ上がって行ってそこから下を見下ろす所ではありません。遠い将来にそれが到来する日を目指して進んでいくところです。イエス様が祈りなさいと命じた「主の祈り」の中でも「御国を来たらせたまえ」と祈ります。ここにキリスト信仰とそれ以外の死生観の大きな違いがあります。

 ここで起こって来る疑問は、この世で「神の国」が到来する日を目指しながら歩んでも、その日の前に死んでしまったらどうなるのかということがあります。キリスト信仰にあっては、その日までは安らかに眠っているのです。イエス様もパウロも、キリスト信仰者にとって死は復活の日までの眠りに過ぎず、その日に復活の主であるイエス様が来て起こしてくれると言っています。眠っているから、下を見下ろしたり見守るということもありません。ここにもキリスト信仰の死生観のユニークさがあります。

 

3.サマリアの人たちは方向転換した

 

 それでは、福音書の日課に戻りましょう。イエス様は、エルサレムを目指し始めました。それは、受難と十字架の死と死からの復活を全てこなして神の人間救済計画を実現するためでした。それを実現すれば、人間はたとえ罪の汚れを持っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、神聖な神の国に迎え入れることができるようになります。

 このような全人類史的な意義を持つ任務を負ったイエス様をサマリア人の村が受け入れを拒否しました。憤慨した弟子のヤコブとヨハネは天から火を送って焼き払ってしまったらどうですか、イエス様に聞きます。彼らの言葉づかいは、列王記下の1章で預言者エリアがバアル崇拝に走る国王の使者を天からの火で焼き殺した時の言葉を思い出させます。実際、弟子たちは、この出来事が脳裏にあったのでしょう。しかし、イエス様は、拒否したサマリア人の村はそのままにしておきなさい、と言われる。なぜでしょうか?

 イエス様が心優しい慈愛に満ちた方だからと言うのは、まだ核心を捉えていません。イエス様は、父なるみ神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげたい、そしてゴールとして「神の国」に迎え入れてあげたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるようお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書545節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる気前の良い方だということなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか神に背を向けた生き方から方向転換して神に立ち返る生き方に入って神の国に迎え入れられるようにしようと猶予期間を与えているのです。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、方向転換の可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いい気になって、いつまでも方向転換をしないで済ませていいはずがない、と気づかなければならないのす。もし、この世の人生の段階で方向転換がないと、それは神罰を受けないで済むための「罪の赦し」を拒否したことになります。

 それでは、このサマリア人の村はどうだったのでしょうか?猶予期間を与えられて方向転換したでしょうか?それがしたのです!使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムにおいてキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムから脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域がサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことを認めなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が「神の国」に迎え入れられることが全てに優先されるということがあったのです。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されたのです。イエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、「神の国」に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。

 

4.将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう

 

 次に、イエス様に付き従うことも、神の国に迎え入れられることに関係することを見てみましょう。

 三人の男の人が登場します。最初の人は、イエス様に付き従うことを志願します。それに対するイエス様の答えは、付き従いの生活はそんなに甘くはない、というものです。エルサレムまで一緒に上っていく途上で、いつもマリアやマルタの二姉妹のような支持者から食事と床を提供される保証はない、場合によっては食べるものもなく、雨風にさらされて寝ることにもなる、そのようにしてエルサレムまで行って、イエス様の十字架と復活につきあって目撃者となったら、あとはどうなるのか?復活後のイエス様は天に上げられてしまう。そうなると、もう付き従うイエス様はいらっしゃいません。イエス様につき従うこともそれで終わってしまうのか?実はイエス様の発言は、昇天以後のことも視野に入っていたのです。一度、神の国に迎え入れられる道に置かれてそれを歩み出したら、今度は他の人もそこに迎え入れられるように働きかけをしなければならないのです。なぜなら、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようになることは神の御心だからです。そうするとこの働きも、イエス様と一緒にエルサレムに上っていくことと同じように、安逸の保証がないものになります。いつも支持者や賛同者に囲まれるとは限らず、いつも寝食が満足に得られる保証もないのです。

 このことが、二番目の男の人のところで明確に出てきます。父親の埋葬には行かず、神の国を言い広めよ。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言うのは、死体を死体のところにほおっておけというような、死体遺棄ではありません。「死んでいる者たち」とは、神との結びつきを回復していない人たちを指します。永遠の命に至る道を歩んでおらず、この世から死んだら、復活を果たせず永遠の滅びに陥ってしまう人、これを「死んでいる者たち」と言っているのです。父親の埋葬はそのような人たちに任せて、あなたのなすべきことは、「神の国」について教え伝えることだとイエス様は言うのです。つまり、人々が「神の国」に迎え入れられるように働きなさいということです。人々が神との結びつきを持って生きられるように助けなさい、永遠の命に至る道に入って歩めるようにしなさい、つまり、「死んでいる者たち」をそのように生きる者にしなさいということです。

 こうして見ると、ここのイエス様の教えは、キリスト信仰者は親の葬儀をするな、軽んじろ、ということではないことがわかります。葬儀をするにしても、人々を「神の国」に迎え入れられるように導きなさい、ということです。その意味でキリスト教会の葬儀はこの任務に取り組んでいます。故人にゆかりのある人たちが集まって、その方の死を悲しみ、遺族の悲しみと個人の懐かしい思い出を心を一つにして分かち合い、また遺族に慰めの言葉をかけて励まし合う、ここまではキリスト教に限らず他の宗教も同じでしょう。しかし、この先は大きく異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰では、死は復活の日までの安らかな眠りに過ぎず、復活の日に復活を遂げられたら、今度は懐かしい人との再会があるという希望があります。復活の体と永遠の命を持つ者同士が合いまみえるという希望です。キリスト教の葬儀では、悲しみの中でもこの再会の希望が確認されます。そのようにして、参列する人たちが「神の国」に迎え入れられることを再確認し合い、参列者がキリスト信仰者でない場合は、「神の国」がどのようなものであるかを伝える伝道的な意味を持つ、これがキリスト教の葬儀です。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という主の命令は、そこでも守られているのです。

 ここで日本のキリスト信仰者にとって重い課題となるのは、参列する葬儀がキリスト教式でなかったらどうすべきか、ということです。これも、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」が原則になります。つまり、まだ「神の国」に向かう道を歩んでいない人たちに、自分がまさにその道を歩んでいることを証し、さらにその人たちをその道に導いていくことができれば、この原則に沿ったものとなります。その時、死んだ者の葬りを死んだ者に任せるくらいに「神の国」を言い広めることになっています。しかし、証しや導きは具体的にはどういう形をとるでしょうか?本説教では、こうしなさい、ああしなさい、ということは言わず、皆さんお一人お一人の心に問題提起をすることにとどめておくことにします。

 さて、三番目の男の人の場合です。「鋤に手をかけて後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主は言われました。ここで早合点してはいけないのは、イエス様は家族を見捨てろと言っているのではないということです。イエス様の原則からすれば、家族ももちろん「神の国」に迎え入れられるように導く働きかけの対象です。その意味で、家族のもとには留まれるのです。この三番目の男の人のところで問題になっていることは、家族に対して「神の国」に向かう道に導く働きかけをしないで家族のもとに留まると、自分自身が道を踏み外してしまうリスクがあるということです。家族の絆というのはそれ位強力なものです。しかし、家族の人たちが「神の国」に迎え入れられるように働きかけをすれば、絆は保っていても「神の国」に相応しいのです。そうは言っても、家族の人たちがイエス様に関心があるとか、救い主として受け入れる準備があるとか、そういう理想的な場合はなかなかないでしょう。イエス・キリストの名を口にしただけで嫌な顔をされてしまうのが大半なのではないか?それなら、まず祈ることから始めます。私たちの愛する人たちが私たちと一緒に「神の国」に向かう道を歩めるように、一緒に復活を遂げて将来そこに迎え入れられるように父なるみ神に知恵と力と勇気をお願いします。

 兄弟姉妹の皆さん、以上からおわかりのように、イエス様の厳しい教え、葬式に出るなとか家族を捨てろと言っているように見える教えは、そうすることが目的なのではなく、「神の国」を証しし言い広めることが真の目的なのです。そのために「神の国」がどういう国かわからないと話になりません。今日の説教でもそれがわかるようにお話しした次第です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年6月27日月曜日

自分の意志は弱くても聖書と聖礼典を用いれば神の力が働く (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年6月19日(聖霊降臨後第二主日)スオミ教会

 

イザヤ書65章1~9節

ガラテアの信徒への手紙3章23~29節

ルカによる福音書8章26~39節

 

説教題「自分の意志は弱くても聖書と聖礼典を用いれば神の力が働く」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、居場所は墓場であった。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというようなスリラー映画の光景を思い浮かべるかもしれませんが、岩にくり抜かれた墓穴です。家に住まずに墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露を忍んでいたということです。イエス様が来て、その男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名をレギオンと言いますが、それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味します。つまり沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。イエス様がそれらを男の人から追い出すと、今度は豚の群れに入っていき、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、群れ全部は崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。

 

 この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つですが、だからと言って、イエス様はすごいですね、で終わる話ではありません。じゃ、何で終わる話かと言うと、今日の説教題です。人間の意思が弱くても、聖書と聖礼典(洗礼と聖餐)を正しく用いれば、神の大きな力が働くということです。ちょっとピンとこないかもしれませんが、これからの説き明かしでわかります。

 

2.イエス様と使徒たちに並ぶものとしての聖書と聖礼典

 

 出来事の説き明かしに入る前に、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取るという話は聖書にもよく出てくるし、聖書の外の世界にも沢山あります。異常行動をやめさせるために悪霊の追い出しということがあるのですが、それは現代社会には相応しくないものと考えられます。現代では、異常な行動の解決には医学的、特に精神科的ないし心理学的な解決がはかられるからです。原因を悪霊に求めて解決を図ろうとするのは前近代的と考えられます。しかしながら、医学的に解決しようとしても思うように解決できない時は、原因を霊的なものと考えてそこから解決を求めようとする人たちがいるのも事実です。

 

 イエス様が悪霊追い出しをやったのは、まだ医学が発達していない古代だからそうしたのであり、それは時代遅れなのだということか、それとも、救世主が行ったことに時代遅れなどないということか、どっちでしょうか?

 

 ここで一つ注意すべきことは、悪霊追い出しを行ったのはイエス様とイエス様が権限を与えた弟子たちです。イエス様が天に上げられ、弟子たちもこの世を去った後、誰がその権限を持つのでしょうか?人によっては、自分はイエス様から権限を与えられたと言って、悪霊追い出しをする人がいるかもしれません。しかし、イエス様から権限を与えられたことがどうやってわかるでしょうか?最初の弟子たちの場合は、わかるも何も目の前にいるイエス様から直接与えられました。イエス様から直接与えられなくなったら、どうやってわかるのか?きっと結果でわかるということになるのでしょう。つまり、悪霊よ、出て行け、と言ったらその通りになってとりつかれた人は普通になった、だから自分はイエス様から権限を与えられているのだ、と。しかし、それで本当に大丈夫でしょうか?

 

 私はこの問題では慎重な立場を取る者なので次のように考えます。確かにイエス様と弟子たちは悪霊の追い出しをしましたが、彼らが活動した時代はまだ新約聖書が存在しない時代でした。新約聖書の代わりに何があったかと言うと、生身のイエス様がいて、イエス様が天に上げられた後は生身の弟子たちがいました。弟子たちは目撃者としてイエス様の教えや行いや出来事を証言しました。それが口伝えで伝えられて、やがて書き留められていきました。またパウロを含む弟子たちは証言だけでなくキリスト信仰について教えることもしし、各地の教会に教えの手紙を書きました。こうして、まだ新約聖書は出来ていませんが、弟子たちの証言と信仰の教えがあり、洗礼と聖餐の聖礼典もありました。

 

 弟子たちがこの世を去った後に証言や教えの手紙がまとめられて新約聖書ができました。最初の弟子たちは、ひょっとしたらイエス様の代理人として自分たちの弟子に奇跡の業を行う権限を与えたかもしれません。しかし、その詳細はわかりません。いずれにしても、イエス様と直接の弟子たちがこの世からいなくなった後は、彼らに代わるものとして新約聖書と聖礼典が残りました。それで私は、異常な行動も含めた人間のいろんな問題の解決にあたっては、イエス様と最初の弟子たちに並ぶものとして聖書と聖礼典があるのだから、それらを用いることが大事だと考えます。聖書と聖礼典を用いることの重要性についてはまた後でお話しします。

 

3.出来事の歴史的信ぴょう性について

 

 それでは出来事の説き明かしに入りましょう。まず書かれてあることをもとに状況を詳しく把握しましょう。そうすると、この出来事が作り話でなく本当の出来事であることがわかってきます。

 

 これと同じ出来事は、マタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、起きた場所はルカとマルコではゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域です。聖書の後ろにある地図を見ると、ガダラはガリラヤ湖の南東、ゲラサはもっと南東の内陸部でとてもガリラヤ湖沿岸とは言えません。豚の群れが飛び込むような崖はガリラヤ湖の南側の距離的にはガダラの町に近い所にあります。ゲラサと書いたマルコとルカは間違えたのでしょうか?

 

 この問題は、福音書がいつ頃出来上がったかということを考えると解決します。4つの福音書は、どれも出来上がったのは早くて西暦70年というのが聖書学会の定説になっています。つまり、イエス様の活動時期から一世代二世代後のことです。イエス様が活動した時代は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していました。マタイ福音書が出来上がった頃はガダラに属していました。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「あの時あの崖はゲラサに属していたが」という意味です。マタイがガダラと言うのは「あの崖は今はガダラに属しているが」という意味です。いずれにしても同じ崖を意味しているのです。

 

 新共同訳では「ゲラサ人」、「ガダラ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民、ガダラという町の住民です。ゲラサ人、ガダラ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけて二つの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していたと考えられます。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族にとって汚れた動物である豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?それは本日の説教のテーマに関わる大事な問題です。これは後ほどわかります。

 

 さて三つの福音書の地名の相違の問題は解決しましたが、もう一つ大きな違いがあります。それはマルコとルカでは悪霊にとりつかれた男の人は一人なのに、マタイでは二人います。これはどういうことでしょうか?どっちかが間違っているのでしょうか?これは、先ほども申しましたように、福音書が書かれた時期がイエス様の昇天から一世代二世代後だったことが影響しています。マルコとルカは直接の目撃者ではないので、福音書を書く時はいろんな情報源から情報を得て書きました。そのことはルカ福音書1章ではっきり言われています。マタイ福音書は、言い伝えによると、12弟子の一人のマタイの記録が土台にありますが、それ以外にも他の情報源の情報も加えられています。もしゲラサの出来事がマタイ自身が目撃したことであれば、男の人は本当に二人だったことになります。もし別の情報源に由来するものであれば、その情報源が二人と言っていたことになります。マルコとルカの情報源は一人と言っていたことになります。どっちが正しいのでしょうか?

 

 一人か二人かの確定は難しいですが、それでも確実に言えることがあります。それは、出来事が言い伝えられていく過程で情報が分かれてしまい、男の人の数が情報経路Aでは一人、情報経路Bでは二人になってしまったということです。それでも大事なことは、大元には本当に起きた出来事があって、それが広範な地域に伝えられていく過程で違いが生じた、しかし、共通点があることが出来事の信ぴょう性を示しているということです。共通点とは、イエス様がガリラヤ湖の対岸に行って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って豚は崖に向かって突進して湖に落ちておぼれ死んでしまったということです。これらはマルコ、マタイ、ルカに共通してあります。これは、本当に起こったことが出発点にあって、それが言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりして異なってくるという、福音書の中でよく見られることです。イエス様の復活の出来事の記述はいい例です。

 

4.悪霊にとりつかれた男の人の背景

 

 今日は出来事の記述はルカのバージョンなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。ここで、この男の人はユダヤ人か異邦人かという問題を見てみます。豚の放牧の他にも、町の人たちの多数派が異邦人と考えられることがあります。それは、この奇跡を見て町の人たちはイエス様に退去するように言ったことです。ガリラヤ地方かユダヤ地方だったら、これだけの奇跡を見せられたら、預言者の到来だとか、果てはメシアの到来とか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言われたでしょう。ところが、町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているからだと恐れたのです。旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待を持っていないことを示しています。

 

 そこで問題の男の人も異邦人かというと、そうではないのです。異邦人が多数派を占める地域の中で少数派として暮らすユダヤ人と考えられます。どうしてかと言うと、イエス様はマタイ106節から明らかなように活動の焦点をイスラエルの民に置いていたからでした。それで、旧約聖書を受け継ぐ民を相手に天地創造の神とその意思について正確に教え、特に宗教エリートの誤りを正し、来るべき復活の日に到来する神の国について教えたのです。この神の国への迎え入れをユダヤ民族だけでなく全ての民族に及ぼすためにイエス様は十字架の死と死からの復活を遂げられました。しかし、これはまだ後のことです。エルサレムに入られる前のイエス様の活動はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。イエス様がローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたことは例外的なこととして描かれています。悪霊にとりつかれた男の人はそういう異邦人がどうのこうのという問題はなく、ストレートにイエス様の活動の対象になっているのでユダヤ人と言えます。

 

 悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えてくれるようお願いします。しかし、イエス様は自分の家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の者たちに、旧約聖書に預言されたことが実現し始めていることを伝えよという命令でした。やがて十字架と復活の出来事が伝わることになれば、やっぱりあのお方だった、旧約の預言は本当だった、と確信することが出来たでしょう。ところで男の人は家の者どころか、イエス様を拒否したゲラサ/ガダラの人々にも伝えたのです。これは、後々の福音伝道の良い下準備になりました。

 

5.聖書と聖礼典を用いると神の力が働く

 

 ここから聖書と聖礼典の用い方の話に入ります。男の人が癒されるプロセスを見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったと思われるかもしれませんが、それはあり得ません。なぜなら悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力ある方とわかっていて恐れているので、自分から進んで彼のもとに行こうとはしないからです。それなのに男の人が行ったというのはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方から、舟から岸に上がったイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明らかです。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどのようにしてイエス様の前に行くことができたのでしょうか?

 

 それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されても、イエス様に会うという意志があれば、悪霊はそれを妨げられない位の力がイエス様から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、誰かが、あれは今やガリラヤ全土で旧約聖書の預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と言ったのを聞いたかもしれません。または、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊の動揺を男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していくほど悪霊の動揺は大きくなり、悪霊は男の人が行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということかもしれません。いずれにしても明白なことは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊が嫌がることをする意志さえ持てれば、あとは邪魔されることはなく、あれよあれよとそのまま行けるということです。それ位、神の力が働くということです。

 

 さあ、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は地獄ではなくて放牧中の豚に入ることをお許し下さいとお願いする。どうして悪霊は豚に行きたいかと言うと、こういうことです。悪霊が人間にとりついても人間が助かろうとする意志を持てば、たとえそれがどんなに小さな意志でも、それがイエス様と結びついたら最後、悪霊はもう何もなしえない位の大きな意志になることが明らかになりました。悪霊としても、もう人間にとりついても無駄だ、イエス様が現れた以上は同じことの繰り返しになると観念したのでしょう。それで、豚ならばイエス様に結びつけるような意志は持たないだろう、とりついたらそのまま自己破壊にまっしぐらだろう、やりやすい相手だと思ったのでしょう。イエス様は悪霊に豚にとりつくことを許可しましたが、何が起こるかお見通しだったでしょう。案の定、豚は本当に自己破壊に突き進んでしまいました。悪霊はその道連れとなってしまいました。

 

 この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のように自己破壊の状態にあっても、そこから助かろうとする意志がどんなに小さくても一応あって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔されることなく行けるようになる位に神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば自分の外にある神の力が代わりに働いてくれて主のもとに行けます。私たちの場合は、たとえ悪霊追い出しの奇跡をするイエス様や弟子たちが目の前にいなくとも、聖書を繙けばイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたことが証言されています。そこに記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架で果たした私たち人間の罪の償いが私たちに効力を発して私たちは神から罪を赦された者と見なされ、天地創造の神と結びつきを持って生き始めます。しかも、私たちはイエス様の復活が切り開いた永遠の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきを持って歩み始めます。それなので悪霊の方が、信仰と洗礼を持つ者に対してパニック状態になるのです。ちょうどイエス様の前で悪霊がパニック状態になっているのと同じです。

 

 悪霊がパニック状態に陥った後は何が起こるのか?場合によっては、ゲラサの男の人のように即、問題の解決が得られることもあります。即でない場合でも、神が良かれと考える仕方と時間で、良かれと考える人を送って解決を与えます。それは必ずしも、自分が望む仕方、時間、助け人でないこともあります。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神は必ず解決を与えて下さいます。 

 

 最後に、洗礼を受けて罪の償いが効力を持ったと言っても、私たちが肉の体を持って生きる以上はまだ罪は内側に残っています。それで罪の自覚と赦しの願いと赦しの宣言は繰り返されます。実はこの繰り返しこそが、内なる罪をイエス様と共に圧し潰していくことになるのですが、それでも時として、自分は本当に罪から解放されているのだろうか疑ったり心配になったりします。しかし、だからと言って、受けた洗礼には意味がなかったとか、もう一度受ける必要があるなどという考えは無用です。それは洗礼の意味を見失う危険な考えです。本日の使徒書の日課ガラテア327節でパウロが言うように洗礼を受けてキリストに結ばれた者はキリストを衣のように着せられたのです。一度着せられたら自分で手放さない限り、神が着続けさせて下さいます。聖餐式はまさに洗礼で着せられた衣がちゃんと着せられたままであることを確認する儀式です。神に対しても自分に対しても確認します。また、詩篇235節で言われるように、敵に対しても確認します。敵は聖餐を受ける者に対して手出しできず歯ぎしりするしかないのです。

 

 兄弟姉妹の皆さん、イエス様や弟子たちが私たちの目の前で悪霊の追い出しをしてくれなくても、私たちには聖書と聖礼典があります。それらを用いれば同じ力を受けていることがわかるはずです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年6月13日月曜日

神が三位一体であることと私たち (吉村博明)

主日礼拝説教 2022年6月12日(三位一体主日)スオミ教会

 

箴言8章1~4、22~31節

ローマの信徒への手紙5章1~5節

ヨハネによる福音書16章12-15節

 

説教題 「神が三位一体であることと私たち」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

聖霊降臨後の最初の主日である本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天地創造の神を三位一体の神として崇拝します。先週は聖霊降臨祭で聖霊を覚える主日でした。それで父、御子、聖霊が出揃ったということで今日の礼拝は三位一体を覚えるのにちょうど良い日です。

 

三位一体とは一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているということです。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神です。今日は、本日与えられた聖書の日課に基づいて三位一体に迫ってみましょう。

 

ところで宗教学では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という世界三大一神教には類似性があるとよく言われます。ユダヤ教は旧約聖書を用いるし、イスラム教は新約聖書と旧約聖書を全く独自の仕方で用います。しかしながら、三つの一神教が同じ種に属するという話は神学的に無理があります。なぜなら、キリスト教では神は三位一体で、ユダヤ教とイスラム教はそうではないからです。共通の聖典を持っているとは言え、三位一体があるために、キリスト教は他と分け隔てられるのです。それなので、共通の聖典などない他の宗教とキリスト教の間なら、類似性を論じる可能性はもっとなくなります。

 

 キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどに分かれていますが、分かれていても共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体とします。共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。分かれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があります。また、分かれた教会が一致を目指す時の土台にもなります。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。

 

2.三位一体は旧約からある

 

 ところで、神が三位一体というのは、キリスト教が誕生した後で作られた考えだという見方があります。その見方は正しくありません。三つの人格を持ちながらも一人の神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。

 

その例として本日の旧約の日課、箴言の8章は重要です。その2231節を見ると、神の「知恵」は人格を持つ方であることがわかります。まず「知恵」は自分のことを「わたし」と言って語ります。さらに、「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言います。30節を見ると、「わたしは巧みな者」と言っていますが、ヘブライ語のאמוןという言葉は「職人」を意味します。「知恵」が父と一緒に創造の作業を行っていたことを示唆する言葉です。それで、箴言のこの個所を読んだ方は、あれっ、イエス様のことを言っているみたいだ、と思うでしょう。コロサイ115節を見ると、御子は全ての被造物に先立ってあった、そして天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも造られた、と言っています。また、ヨハネ福音書1章ではイエス様のことを神の言葉、ギリシャ語でロゴスと言っており、それは天地創造の前から存在して、やはり天地創造に関与していたことが言われています。そうなると、神の「知恵」は後に「イエス」の名を付けられる神のひとり子と同一ではないかと思われます。

 

もちろん、神の「知恵」と神のひとり子を一緒にするのはどうかと思われる人もいるかもしれません。その理由として、二ケア信条では神のひとり子は「造られたのではない」と言っているのに、「知恵」の方は「造られた」(22節)と言っているからです。これはヘブライ語をよく見ないといけません。「知恵」が造られたと言う時の「造られた」はקנהという言葉です。ところが、神が天地創造を行って被造物を造った時の言葉はבראと違います。日本語では両方葉を「造られた」と訳してしまって一緒くたになってしまいました。ヘブライ語ではそうならないように区別して違う言葉を用いているのです。それで、「知恵」は被造物のように造られたものではないのです。

 

これと同じことが「生まれる」という言葉についても言えます。二ケア信条では、神のひとり子は造られたのではなく「生まれた」と言っています。神の知恵も箴言8章24節と25節で「生み出された」と言います。この箴言の「生み出される」はヘブライ語でקדהです。ところが普通、母親が子供を産む時にはילדという言葉を使います。このように違う言葉を使うことで「知恵」が「生み出される」ことは被造物の生殖作用と異なる生じ方であることを意味しているのです。

 

 このように天地創造の前から存在していた「知恵」とひとり子は重なってきます。イエス様自身、自分はソロモン王の知恵より優れた知恵であると言っていました(ルカ1131節、マタイ1242節)。イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると意味したのです。

 

 箴言の「知恵」がひとり子にもっと同一性を持つことがあります。30節と31節です。新共同訳では「楽を奏し」などと訳していて、まるで神の知恵が音楽の才能を持つかのように言われていますが、この訳は良くありません。良い訳は次の通りです。

 

「私は造り主のもとで職人であった。 つまり、創造に関与した。 私はそこで世々限りなく喜びを体現する者、造り主のみ前で笑いや楽しみを振りまき、造られた大地を楽しみとした。私は地上の人々に親切にするだろう。」これなら、神の知恵は神のひとり子にぐっと近づくでしょう。

 

 ここで、どうして新共同訳で神の知恵が楽器を演奏するなどと言っていることについてひと言述べておきます。問題となっているヘブライ語の言葉שחקは、「幸せである」とか「楽しませる」と言う意味を持ちます。それがもっと特定化されて「ダンスをする、楽器を演奏する」という意味も持ちます。新共同訳はそっちを取ったので神の知恵はなんだかダンス・バンドのようになってしまいました。他にも注釈すべきことがありますが、ここでは深入りしません。

 

 いずれにしても、神の知恵は造り主の許で職人であった、そこで代々限りなく喜びを体現する者で、造り主のみ前で笑いや楽しみを振りまき、造られた大地を楽しみとしていた。そして、いつの日か、地上の人々に親切にする日が来ると言うのです。こうなると神の知恵は神のひとり子のイエス様に限りなく近づきます。

 

 旧約聖書のヘブライ語原文の中には、単語の意味と文法からみて神のひとり子・イエス様のことを言っていると思われるものが沢山あります。しかし、翻訳や解釈をする人は必ずしもそう訳するとは限りません。その理由は、イエス・キリストは旧約聖書の書物が生まれる何百年前以上の人なので、旧約聖書を記した人たちはまだ知っているはずがない。彼らが書いたものは彼らの歴史的文脈の中で理解すべきで、後世の事柄を解釈や翻訳にむやみに持ち込まないという態度なのです。私は、もちろん単語の意味や文法的に無理なら当然しませんが、可能であればなるべくするようにします。宗教改革のルターも、イエス・キリストは旧約聖書に見出すことができるし、そうすべきだと言っています。

 

 旧約聖書にイエス・キリストを見出さないようにする聖書の解釈・翻訳の例としてスウェーデンのルター派教会が2000年に公式採用した聖書があげられます。そのイザヤ7章のインマヌエル預言を見ると、「処女がみごもって男児を産む」はなくなり、「若い女性がみごもって男児を産む」になりました。処女受胎が消えたのです。また、三位一体の関係で言えば、創世記の最初で「神の霊が水の表を動いていた」がなくなって「神の風が水の表を吹いていた」になりました。聖霊が天地創造の前に存在していたことが消えたのです。このような聖書を読んで育ったら、どんなキリスト信仰が生まれるでしょうか?

 

 話がわき道にそれましたが、神の知恵が神のひとり子・イエス様と同一であるとすると、今度は次のような疑問が起こります。ヨハネは福音書の冒頭でイエス様のことを「言(ことば)」ロゴスと呼んでいるぞ、「知恵」ではないぞ、なぜ「はじめに知恵ありき」ではなくて「はじめに言ありき」なのか?

 

 もっともな質問です。そこで、もし私がヨハネだったら次のように考えたでしょう。イエス様は本当に神のひとり子で天地創造の前から存在し、父なるみ神と一緒に天地創造に携わった方だ、まさに箴言の「知恵」と同じ方だ。この方をギリシャ語文明の人たちにどう言ったらよいのだろう?ヘブライ語で知恵はホクマーだ。ギリシャ語では普通ソフィアと訳されている。イエス様をソフィアと呼んでギリシャ語圏の人たちは我々と同じようにイエス様のことを理解してくれるだろうか?ソフィアは女性名詞だし、仮にイエス様をそう呼んでみたら、なんだか哲学者みたいにならないだろうか?旧約聖書に出てくる「知恵」は人間の知恵や理性を超える神の知恵だ。困ったなぁ。そうだ!ギリシャ語には人間の知恵や理性を超えたもっと偉大なものを意味する言葉があった。ロゴスだ!しかも、ロゴスには「言葉」という意味もあるぞ。神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を造り上げていった。それで、イエス様を神の「言葉」ロゴスと呼べば、神の創造の業に関わったこともはっきりするぞ。よし、決めた。イエス様をロゴスと呼ぶことにしよう!

 

 このように、神のひとり子をロゴスと呼ぶことは、神の壮大で深遠な「知恵」と神の力ある「言葉」の両方を意味するのにぴったりだったのです。

 

ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」であるひとり子だけではありませんでした。創世記12節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています(スウェーデン語の聖書では神の風になってしまいましたが)。創世記126節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。

 

3.「どのようにして三位一体なのか」ではなく「なぜ三位一体なのか」

 

そうは言っても、三位一体はわかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?頭で理解しようとすると、三つの人格がどのようにして一人になるのかということに頭を使ってしまい、これは行き詰ります。それならば、なぜ神は三つの人格を備えた一人の神でなければならないのか?これを考えると、聖書はこの「なぜ」の問いには答えを出していることがわかります。神が三位一体であるというのは、私たちに愛と恵みを注ぐために神はそうでなければならない、三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらいに神は三位一体でなければならないのです。以下、そのことを見てまいりましょう。

 

まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪の時にできてしまいました。神に造られた最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになって死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロがローマ5章で明らかにしているように、死ぬということは人間は誰でも罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのです。人間は神との結びつきを失って、結びつきのないままこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去って神のみもとに戻ることが出来なくなってしまいました。

 

しかし神は、私たちが神との結びつきを回復してこの世の人生を歩めるようにすべく、そして、この世を去った後は復活の日に復活を遂げて永遠に自分のもとに迎え入れてあげようと、神は溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされました。その救いの手がイエス様でした。本日の福音書の箇所の中でイエス様は弟子たちにこう言いました。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「理解できない」と。ギリシャ語の言葉βασταζω「背負いきれない」、「耐えられない」という意味です。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を神から切り離している罪と死から救い出すために、イエス様がこれから十字架刑にかけられて死ぬということです。このことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。

 

しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それを受け入れることができるようになりました。まず、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死ななければならなかったのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲だったということがわかりました。さらに、イエス様の復活によって私たち人間に永遠の命に至る道が切り開かれた、そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその道に置かれ、神との結びつきを持てて神に見守られ導かれてその道を歩めるようになりました。弟子たちは、以上のことを真理として受け入れることができるようになったのです。それができるようになったのは聖霊が働いたためです。それらのことは人間の理解力、理性では理解できないことです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。

 

 ところが、聖霊の働きは真理を理解させることだけに留まりません。13節のイエス様の言葉は理解した後のことも言っています。新共同訳の訳は少し狭すぎます。その文は次のように訳すべきです。「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「聖霊はあなたたちを真理全体の中に留まれるように導いてくれる」とか「聖霊はあなたたちを真理全体へ導いてくれる」です。聖霊は真理をわからせてくれるだけでなく、私たちが真理にしっかり留まって生きられるように助けてくれるのです。これは、すごいことですが、どうやってそんなことが出来るでしょうか?

 

 私たちは洗礼を受けてイエス様を救い主と信じていても、私たちにはいつも罪の自覚があります。神の意思に反しようとするものが自分の内にあることにいつも気づかされます。それで、神と自分との関係は大丈夫なのだろうかと心配になったり悲しくなったりします。しかし、聖霊はすかさず私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も打ち立てられたままであることを示して下さいます。私たちは安心して、この永遠の命に向かう道を進むことができます。

 

 また私たちは、罪と直接関係がないことでも、困難や試練に遭遇し不運に見舞われます。その時、神との関係を疑ってしまいます。神はこんなことが起きないようにしてくれなかった、神は私を見捨てたのだなどと思ってしまいます。そのような時にも聖霊は聖書の御言葉をてこにして私たちの心の目と耳を開いて本当のことを示してくれます。本当のこととは、神との関係、結びつきは試練や困難な時にも平時同様、何等変更はないということです。それがわかると、試練や困難は私たちを打ちのめすものでなくなります。それらは私たちが神と一緒に通過するプロセスに変わります。一人で通過するのではなく、神と一緒にです。その時、詩篇23篇のみ言葉「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を恐れじ。汝、我とともにいませばなり」、これが真理になります。

 

 このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に至る道を歩めるように守り導いて下さり、復活の日に私たちを御自分のもとに迎え入れて下さいます。これは全て神の愛から出てくることです。この神の愛は三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。

 

 まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪を持つようになってしまったために、ひとり子を贈って私たち人間を罪と死の支配から引っこ抜いて下さり、みもとに迎え入れられる地点へと続く道に置いて下さいました。こうして、私たちは神との結びつきを持ってこの道を進むこととなりました。人生の中で道を踏み外しそうになると聖霊から指導を受けられるようになりました。

 

ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて、神の意思に沿うようにと心を常に神に向けたまま生きられるようにして、この世だけでなく次に到来する世にまたがって生きられるようにすることです。三位一体のすごさは、私たちにあるべき姿を示すだけでなく、そうなれるようにする力そのものであることです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年6月6日月曜日

聖霊を受けた者がなすべきこと (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年6月5日 聖霊降臨祭 スオミ教会

 

使徒言行録2章1-21節

ローマの信徒への手紙8章14-17節

ヨハネによる福音書14章8-17、25-27節

 

説教題 聖霊を受けた者がなすべきこと

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の想像を絶する力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の今日、イエス様が約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちはこの信仰を携えて復活の日を目指してこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 

 本日の説教は三つのテーマについてお話しようと思います。使徒言行録が伝える聖霊降臨の出来事をよくみると、私たちはイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生れます。最初にそれを見ていきます。二番目のテーマは聖霊とは何者かについて、イエス様が本日の福音書の日課の中で「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいます。それはどういう意味か明らかにします。毎年教えていることのおさらいですが、これがわかると私たちは神に対して感謝の気持ちに満たされます。三番目は、そのような聖霊を受けた者のなすべきことが同じ福音書の日課で言われているので、それを見ていきます。聖霊は自分の考えに基づいて信仰者一人ひとりに様々な賜物を与えます。それで、なすべきことは人それぞれ違ってくるかもしれませんが、みんなに共通してなすべきことが日課で言われています。それは、イエス様を愛して彼の掟を守ること、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。

 

2.聖霊降臨とイエス様の再臨を待つ者であるとの自覚

 

 まず、聖霊降臨の出来事からイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生まれることについて。聖霊降臨が起きた時、駆け付けた群衆は、イエス様の弟子たちが神の偉大な業についてなんと自分たちの言葉で語っているのを聞いてびっくり仰天します。当時のエルサレムは、地中海地域と現在の中近東の地域から大勢のユダヤ人が集まる国際的な都市でした。弟子たちはそれぞれの民族の言葉で話をし出したのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(24節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。

 

 弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったでしょうか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。もう一つ神の偉大な業として考えられるのはバビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還を果たしたという出来事です。さらに、神が私たち人間を含め万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も神の偉大な業に付け加えてよいでしょう。

 

 ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」には、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となったイエス様のことでした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の想像を絶する力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これも、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうしてユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。

 

 そこでペトロは群衆に向かってこの不思議な現象を説明します。ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(21421節)では、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の成就であると説き明かします。後半部分では、イエス様の出来事そのものについて説き明かします(2240節)。本日の日課は前半までです。実は後半部分が群衆の神への立ち返りをもたらす決定打になっています。しかし、今日はそこには立ち入らずに前半部分だけを見ます。

 

 ペトロは、この不思議な現象はヨエル書315節で預言されている神の霊の降臨であるとわかりました。このように、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったのです。ところでペテロは、ヨエル書を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言います。「終わりの時に」はギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文では「終わりの日々」とは言っておらず、「その後で」と言っています。これはペトロが改ざんしたのではなく、旧約聖書のギリシャ語訳が「終わりの日々に」と訳したことに倣ったのです。翻訳した人たちは原文の意味を終末論の観点で確定したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。

 

それでは「終わりの日々」とはどんな日々か?イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になりました。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直す天地大変動の時です。その時そこに唯一の国として神の国が現れて、誰がそこに迎え入れられるか最後の審判が行われます。そのため、イエス様の再臨を待つ日々は終わりに向かう日々で「終わりの日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちましたが3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。

 

19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。初めは、神の掟を破り続けたイスラエルの民が罰として外国の軍隊に攻められるという神の怒りの日と考えられていました。バビロン捕囚の後の時代には、この世が終わり天地の大変動が起きて神の罰が下される日という具合に終末論的に理解されるようになりました。イエス様の十字架と復活の出来事の後は、さらに彼の再臨が「主の日」に加わりました。

 

21節を見ると、そういう天地の大変動の時に無事に神の国に迎え入れられるのはイエス様の名により頼む者たちであると言われています。ペトロの説明の後半は、群衆に主の再臨に備えてそういう者になりなさいと導く内容です。 

 

こうして聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。この宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。共に主の名により頼み、共に主の再臨を待つ群れが誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

 

3.弁護者、真理の霊

 

 次に、聖霊とは何者か?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。

 

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて話します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。お前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、再臨の日までお前たちがこの世で孤児になることはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊とは、何が真理でそれが私たちにどう関係するのか?これらのことは以前もお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。

 

 聖霊は私たちを何に対して弁護してくれるのか?私たちを告発する者に対してです。何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、外側も内側も神の意思に沿えない者であることが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。悪魔のそもそもの目的は人間と神の間を引き裂くことです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けてしまったりすれば、それはもう悪魔にとって万々歳なことになります。

 

 人を落胆させたり神に背を向けさせてしまうものは、罪の他にもあります。私たちがこの世で遭遇する不幸や苦難です。神が私にこんな仕打ちをされるということは、私に何か至らないことがあるということなのか?自分に原因があると思って絶望してしまったり、あるいは、私の何が悪くてこんな仕打ちを!と神に原因を見て失望してしまったりします。これも悪魔の目指すところです。

 

私たちがどんな状況にあっても神の愛を疑わず信じ神のもとから離れず留まることが出来るように助けてくれるのが聖霊です。聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架で死なれたことで自分の罪を償って下さったとわかっています。それで、イエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いているのです。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。聖霊はすかさず私たちの方を向いて次のように促してくれます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています。」キリスト信仰者には洗礼を通してこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さいます。その時、私たちは本当にこれからは神の意思に沿うように生きていかねばという心を強くするでしょう。

 

 不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と天地創造の神との結びつきは失われていないとわかります。神との結びつきがあるからには神の守りと導きもあるとわかります。あの方は十字架の上で犠牲になられたが、神の想像を絶する力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足下に踏み潰しておられる。そのような方と私は洗礼によって結び付けられている。そういうふうにわかると不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていた不幸や苦難が、今度は逆に、存在して見捨てることをしない神と一緒にくぐり抜けるためのプロセスに変わります。真に詩篇234節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。波風たける時も一緒に歩んで下さる神に心が向くようになります。

 

次に聖霊が「真理の霊」とはどういうことか?キリスト信仰の観点では人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ないということです。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2000年前に現在イスラエル国がある地域のナザレ出身のイエスは旧約聖書と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史上の人物理解に留まります。

 

 ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活した、これで彼が神のひとり子であることが旧約聖書の預言から通して明らかになります。では、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪の償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの次に到来する新しい世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を与えられて神の国に迎え入れて下さる。それが実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊は私たちがこの真理をわかり、それを持ってこの世を生きられるように働くのです。

 

人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、聖霊が働くからです。この聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間を聖霊の働きの中に閉じるのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、聖霊の働きにすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないぞ、とか、救い主は沢山いるぞ、イエスはそのうちの一人にすぎない、とか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは耳に届かなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持っているので、霊的に安全地帯にいることになります。

 

4.聖霊を受けた者がなすべきこと

 

 さて、洗礼を通して聖霊を常駐させることになったキリスト信仰者に共通してある、なすべきことを見ていきましょう。まず、イエス様を愛して彼の掟を守ることです。ヨハネ1415節でイエス様は言われます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をまもる。」私たちがイエス様の掟を守ることは、彼を愛することの当然の帰結として出てくるということです。ここで言われていることは、掟を守れ、掟を与えた者を愛せ、ということではありません。イエス様を愛するならば掟を守るのが当たり前になるということです。宗教改革のルターはまさにこの箇所について、「いかにしたらそのようなイエス様を愛する愛が持てるようになるか?」と問い、次のように答えます。それは、「人間の心は惨めなので、何か外部から来る素晴らしいものを味わうことがないと、人間は愛することができない。」それでは、外部からくる素晴らしいものとは何でしょうか?

 

 それがわかるためには、キリスト信仰者はどうしてイエス様を自分の救い主として信じるようになったかを振り返ればよいでしょう。

 

 イエス様が私たちの救い主となったのは、言うまでもなく、彼のおかげで私たちが天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになったからです。神との結びつきをもってこの世の人生を歩めるようになると、順境の時にも逆境の時にも何ら変わらぬ神の導きと守りを得られるようになり、この世から別れても復活の日に復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられるようになりました。これが外部からくる素晴らしいものです。これがあるからイエス様を愛することができ、神を全身全霊で愛することができ、隣人を自分を愛するがごとく愛することができるのです。

 

 次のなすべきことは、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。

 

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言います。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を癒した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?

 

弟子たちがイエス様の業を行うと言うのは、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に向かう道を歩める可能性を開いて下さいました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものにすることができるようにしました。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにするという点では同じ業を行っているのです。

 

さらに弟子たちの場合は、活動範囲がイエス様よりも急速に広がりました。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、弟子たちの場合は遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。その意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うようになったと言えるのです。弟子たちの活動はイエス様が天に上げられた後で本格化します。イエス様は自分が天の父のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束していました(ヨハネ1416章)。聖霊は福音が宣べ伝えられる場所ならどこででも働き、福音を聞く人を神のもとに導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られて弟子たちが福音を伝道して群れがどんどん大きくなっていったのです。

 

イエス様は13節と14節で、私の名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。神との結びつきを持てて永遠の命に至る道を進む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは「この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように」ということに行きつきます。同時に、まだ結びつきを持てておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない人たちについては、「その歩みが始まりますよう」にという願いになります。イエス様がその通りにしてあげると約束されたのですから、たとえ何年何十年かかってもそれを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者のなすべきことです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン