2022年6月27日月曜日

自分の意志は弱くても聖書と聖礼典を用いれば神の力が働く (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年6月19日(聖霊降臨後第二主日)スオミ教会

 

イザヤ書65章1~9節

ガラテアの信徒への手紙3章23~29節

ルカによる福音書8章26~39節

 

説教題「自分の意志は弱くても聖書と聖礼典を用いれば神の力が働く」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、居場所は墓場であった。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというようなスリラー映画の光景を思い浮かべるかもしれませんが、岩にくり抜かれた墓穴です。家に住まずに墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露を忍んでいたということです。イエス様が来て、その男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名をレギオンと言いますが、それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味します。つまり沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。イエス様がそれらを男の人から追い出すと、今度は豚の群れに入っていき、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、群れ全部は崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。

 

 この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つですが、だからと言って、イエス様はすごいですね、で終わる話ではありません。じゃ、何で終わる話かと言うと、今日の説教題です。人間の意思が弱くても、聖書と聖礼典(洗礼と聖餐)を正しく用いれば、神の大きな力が働くということです。ちょっとピンとこないかもしれませんが、これからの説き明かしでわかります。

 

2.イエス様と使徒たちに並ぶものとしての聖書と聖礼典

 

 出来事の説き明かしに入る前に、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取るという話は聖書にもよく出てくるし、聖書の外の世界にも沢山あります。異常行動をやめさせるために悪霊の追い出しということがあるのですが、それは現代社会には相応しくないものと考えられます。現代では、異常な行動の解決には医学的、特に精神科的ないし心理学的な解決がはかられるからです。原因を悪霊に求めて解決を図ろうとするのは前近代的と考えられます。しかしながら、医学的に解決しようとしても思うように解決できない時は、原因を霊的なものと考えてそこから解決を求めようとする人たちがいるのも事実です。

 

 イエス様が悪霊追い出しをやったのは、まだ医学が発達していない古代だからそうしたのであり、それは時代遅れなのだということか、それとも、救世主が行ったことに時代遅れなどないということか、どっちでしょうか?

 

 ここで一つ注意すべきことは、悪霊追い出しを行ったのはイエス様とイエス様が権限を与えた弟子たちです。イエス様が天に上げられ、弟子たちもこの世を去った後、誰がその権限を持つのでしょうか?人によっては、自分はイエス様から権限を与えられたと言って、悪霊追い出しをする人がいるかもしれません。しかし、イエス様から権限を与えられたことがどうやってわかるでしょうか?最初の弟子たちの場合は、わかるも何も目の前にいるイエス様から直接与えられました。イエス様から直接与えられなくなったら、どうやってわかるのか?きっと結果でわかるということになるのでしょう。つまり、悪霊よ、出て行け、と言ったらその通りになってとりつかれた人は普通になった、だから自分はイエス様から権限を与えられているのだ、と。しかし、それで本当に大丈夫でしょうか?

 

 私はこの問題では慎重な立場を取る者なので次のように考えます。確かにイエス様と弟子たちは悪霊の追い出しをしましたが、彼らが活動した時代はまだ新約聖書が存在しない時代でした。新約聖書の代わりに何があったかと言うと、生身のイエス様がいて、イエス様が天に上げられた後は生身の弟子たちがいました。弟子たちは目撃者としてイエス様の教えや行いや出来事を証言しました。それが口伝えで伝えられて、やがて書き留められていきました。またパウロを含む弟子たちは証言だけでなくキリスト信仰について教えることもしし、各地の教会に教えの手紙を書きました。こうして、まだ新約聖書は出来ていませんが、弟子たちの証言と信仰の教えがあり、洗礼と聖餐の聖礼典もありました。

 

 弟子たちがこの世を去った後に証言や教えの手紙がまとめられて新約聖書ができました。最初の弟子たちは、ひょっとしたらイエス様の代理人として自分たちの弟子に奇跡の業を行う権限を与えたかもしれません。しかし、その詳細はわかりません。いずれにしても、イエス様と直接の弟子たちがこの世からいなくなった後は、彼らに代わるものとして新約聖書と聖礼典が残りました。それで私は、異常な行動も含めた人間のいろんな問題の解決にあたっては、イエス様と最初の弟子たちに並ぶものとして聖書と聖礼典があるのだから、それらを用いることが大事だと考えます。聖書と聖礼典を用いることの重要性についてはまた後でお話しします。

 

3.出来事の歴史的信ぴょう性について

 

 それでは出来事の説き明かしに入りましょう。まず書かれてあることをもとに状況を詳しく把握しましょう。そうすると、この出来事が作り話でなく本当の出来事であることがわかってきます。

 

 これと同じ出来事は、マタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、起きた場所はルカとマルコではゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域です。聖書の後ろにある地図を見ると、ガダラはガリラヤ湖の南東、ゲラサはもっと南東の内陸部でとてもガリラヤ湖沿岸とは言えません。豚の群れが飛び込むような崖はガリラヤ湖の南側の距離的にはガダラの町に近い所にあります。ゲラサと書いたマルコとルカは間違えたのでしょうか?

 

 この問題は、福音書がいつ頃出来上がったかということを考えると解決します。4つの福音書は、どれも出来上がったのは早くて西暦70年というのが聖書学会の定説になっています。つまり、イエス様の活動時期から一世代二世代後のことです。イエス様が活動した時代は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していました。マタイ福音書が出来上がった頃はガダラに属していました。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「あの時あの崖はゲラサに属していたが」という意味です。マタイがガダラと言うのは「あの崖は今はガダラに属しているが」という意味です。いずれにしても同じ崖を意味しているのです。

 

 新共同訳では「ゲラサ人」、「ガダラ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民、ガダラという町の住民です。ゲラサ人、ガダラ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけて二つの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していたと考えられます。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族にとって汚れた動物である豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?それは本日の説教のテーマに関わる大事な問題です。これは後ほどわかります。

 

 さて三つの福音書の地名の相違の問題は解決しましたが、もう一つ大きな違いがあります。それはマルコとルカでは悪霊にとりつかれた男の人は一人なのに、マタイでは二人います。これはどういうことでしょうか?どっちかが間違っているのでしょうか?これは、先ほども申しましたように、福音書が書かれた時期がイエス様の昇天から一世代二世代後だったことが影響しています。マルコとルカは直接の目撃者ではないので、福音書を書く時はいろんな情報源から情報を得て書きました。そのことはルカ福音書1章ではっきり言われています。マタイ福音書は、言い伝えによると、12弟子の一人のマタイの記録が土台にありますが、それ以外にも他の情報源の情報も加えられています。もしゲラサの出来事がマタイ自身が目撃したことであれば、男の人は本当に二人だったことになります。もし別の情報源に由来するものであれば、その情報源が二人と言っていたことになります。マルコとルカの情報源は一人と言っていたことになります。どっちが正しいのでしょうか?

 

 一人か二人かの確定は難しいですが、それでも確実に言えることがあります。それは、出来事が言い伝えられていく過程で情報が分かれてしまい、男の人の数が情報経路Aでは一人、情報経路Bでは二人になってしまったということです。それでも大事なことは、大元には本当に起きた出来事があって、それが広範な地域に伝えられていく過程で違いが生じた、しかし、共通点があることが出来事の信ぴょう性を示しているということです。共通点とは、イエス様がガリラヤ湖の対岸に行って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って豚は崖に向かって突進して湖に落ちておぼれ死んでしまったということです。これらはマルコ、マタイ、ルカに共通してあります。これは、本当に起こったことが出発点にあって、それが言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりして異なってくるという、福音書の中でよく見られることです。イエス様の復活の出来事の記述はいい例です。

 

4.悪霊にとりつかれた男の人の背景

 

 今日は出来事の記述はルカのバージョンなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。ここで、この男の人はユダヤ人か異邦人かという問題を見てみます。豚の放牧の他にも、町の人たちの多数派が異邦人と考えられることがあります。それは、この奇跡を見て町の人たちはイエス様に退去するように言ったことです。ガリラヤ地方かユダヤ地方だったら、これだけの奇跡を見せられたら、預言者の到来だとか、果てはメシアの到来とか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言われたでしょう。ところが、町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているからだと恐れたのです。旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待を持っていないことを示しています。

 

 そこで問題の男の人も異邦人かというと、そうではないのです。異邦人が多数派を占める地域の中で少数派として暮らすユダヤ人と考えられます。どうしてかと言うと、イエス様はマタイ106節から明らかなように活動の焦点をイスラエルの民に置いていたからでした。それで、旧約聖書を受け継ぐ民を相手に天地創造の神とその意思について正確に教え、特に宗教エリートの誤りを正し、来るべき復活の日に到来する神の国について教えたのです。この神の国への迎え入れをユダヤ民族だけでなく全ての民族に及ぼすためにイエス様は十字架の死と死からの復活を遂げられました。しかし、これはまだ後のことです。エルサレムに入られる前のイエス様の活動はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。イエス様がローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたことは例外的なこととして描かれています。悪霊にとりつかれた男の人はそういう異邦人がどうのこうのという問題はなく、ストレートにイエス様の活動の対象になっているのでユダヤ人と言えます。

 

 悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えてくれるようお願いします。しかし、イエス様は自分の家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の者たちに、旧約聖書に預言されたことが実現し始めていることを伝えよという命令でした。やがて十字架と復活の出来事が伝わることになれば、やっぱりあのお方だった、旧約の預言は本当だった、と確信することが出来たでしょう。ところで男の人は家の者どころか、イエス様を拒否したゲラサ/ガダラの人々にも伝えたのです。これは、後々の福音伝道の良い下準備になりました。

 

5.聖書と聖礼典を用いると神の力が働く

 

 ここから聖書と聖礼典の用い方の話に入ります。男の人が癒されるプロセスを見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったと思われるかもしれませんが、それはあり得ません。なぜなら悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力ある方とわかっていて恐れているので、自分から進んで彼のもとに行こうとはしないからです。それなのに男の人が行ったというのはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方から、舟から岸に上がったイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明らかです。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどのようにしてイエス様の前に行くことができたのでしょうか?

 

 それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されても、イエス様に会うという意志があれば、悪霊はそれを妨げられない位の力がイエス様から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、誰かが、あれは今やガリラヤ全土で旧約聖書の預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と言ったのを聞いたかもしれません。または、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊の動揺を男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していくほど悪霊の動揺は大きくなり、悪霊は男の人が行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということかもしれません。いずれにしても明白なことは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊が嫌がることをする意志さえ持てれば、あとは邪魔されることはなく、あれよあれよとそのまま行けるということです。それ位、神の力が働くということです。

 

 さあ、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は地獄ではなくて放牧中の豚に入ることをお許し下さいとお願いする。どうして悪霊は豚に行きたいかと言うと、こういうことです。悪霊が人間にとりついても人間が助かろうとする意志を持てば、たとえそれがどんなに小さな意志でも、それがイエス様と結びついたら最後、悪霊はもう何もなしえない位の大きな意志になることが明らかになりました。悪霊としても、もう人間にとりついても無駄だ、イエス様が現れた以上は同じことの繰り返しになると観念したのでしょう。それで、豚ならばイエス様に結びつけるような意志は持たないだろう、とりついたらそのまま自己破壊にまっしぐらだろう、やりやすい相手だと思ったのでしょう。イエス様は悪霊に豚にとりつくことを許可しましたが、何が起こるかお見通しだったでしょう。案の定、豚は本当に自己破壊に突き進んでしまいました。悪霊はその道連れとなってしまいました。

 

 この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のように自己破壊の状態にあっても、そこから助かろうとする意志がどんなに小さくても一応あって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔されることなく行けるようになる位に神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば自分の外にある神の力が代わりに働いてくれて主のもとに行けます。私たちの場合は、たとえ悪霊追い出しの奇跡をするイエス様や弟子たちが目の前にいなくとも、聖書を繙けばイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたことが証言されています。そこに記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架で果たした私たち人間の罪の償いが私たちに効力を発して私たちは神から罪を赦された者と見なされ、天地創造の神と結びつきを持って生き始めます。しかも、私たちはイエス様の復活が切り開いた永遠の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきを持って歩み始めます。それなので悪霊の方が、信仰と洗礼を持つ者に対してパニック状態になるのです。ちょうどイエス様の前で悪霊がパニック状態になっているのと同じです。

 

 悪霊がパニック状態に陥った後は何が起こるのか?場合によっては、ゲラサの男の人のように即、問題の解決が得られることもあります。即でない場合でも、神が良かれと考える仕方と時間で、良かれと考える人を送って解決を与えます。それは必ずしも、自分が望む仕方、時間、助け人でないこともあります。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神は必ず解決を与えて下さいます。 

 

 最後に、洗礼を受けて罪の償いが効力を持ったと言っても、私たちが肉の体を持って生きる以上はまだ罪は内側に残っています。それで罪の自覚と赦しの願いと赦しの宣言は繰り返されます。実はこの繰り返しこそが、内なる罪をイエス様と共に圧し潰していくことになるのですが、それでも時として、自分は本当に罪から解放されているのだろうか疑ったり心配になったりします。しかし、だからと言って、受けた洗礼には意味がなかったとか、もう一度受ける必要があるなどという考えは無用です。それは洗礼の意味を見失う危険な考えです。本日の使徒書の日課ガラテア327節でパウロが言うように洗礼を受けてキリストに結ばれた者はキリストを衣のように着せられたのです。一度着せられたら自分で手放さない限り、神が着続けさせて下さいます。聖餐式はまさに洗礼で着せられた衣がちゃんと着せられたままであることを確認する儀式です。神に対しても自分に対しても確認します。また、詩篇235節で言われるように、敵に対しても確認します。敵は聖餐を受ける者に対して手出しできず歯ぎしりするしかないのです。

 

 兄弟姉妹の皆さん、イエス様や弟子たちが私たちの目の前で悪霊の追い出しをしてくれなくても、私たちには聖書と聖礼典があります。それらを用いれば同じ力を受けていることがわかるはずです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン