説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2022年6月5日 聖霊降臨祭 スオミ教会
使徒言行録2章1-21節
ローマの信徒への手紙8章14-17節
ヨハネによる福音書14章8-17、25-27節
説教題 聖霊を受けた者がなすべきこと
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の想像を絶する力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の今日、イエス様が約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちはこの信仰を携えて復活の日を目指してこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。
本日の説教は三つのテーマについてお話しようと思います。使徒言行録が伝える聖霊降臨の出来事をよくみると、私たちはイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生れます。最初にそれを見ていきます。二番目のテーマは聖霊とは何者かについて、イエス様が本日の福音書の日課の中で「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいます。それはどういう意味か明らかにします。毎年教えていることのおさらいですが、これがわかると私たちは神に対して感謝の気持ちに満たされます。三番目は、そのような聖霊を受けた者のなすべきことが同じ福音書の日課で言われているので、それを見ていきます。聖霊は自分の考えに基づいて信仰者一人ひとりに様々な賜物を与えます。それで、なすべきことは人それぞれ違ってくるかもしれませんが、みんなに共通してなすべきことが日課で言われています。それは、イエス様を愛して彼の掟を守ること、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。
2.聖霊降臨とイエス様の再臨を待つ者であるとの自覚
まず、聖霊降臨の出来事からイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生まれることについて。聖霊降臨が起きた時、駆け付けた群衆は、イエス様の弟子たちが神の偉大な業についてなんと自分たちの言葉で語っているのを聞いてびっくり仰天します。当時のエルサレムは、地中海地域と現在の中近東の地域から大勢のユダヤ人が集まる国際的な都市でした。弟子たちはそれぞれの民族の言葉で話をし出したのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。
弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったでしょうか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。もう一つ神の偉大な業として考えられるのはバビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還を果たしたという出来事です。さらに、神が私たち人間を含め万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も神の偉大な業に付け加えてよいでしょう。
ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」には、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となったイエス様のことでした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の想像を絶する力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これも、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうしてユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。
そこでペトロは群衆に向かってこの不思議な現象を説明します。ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14-21節)では、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の成就であると説き明かします。後半部分では、イエス様の出来事そのものについて説き明かします(22-40節)。本日の日課は前半までです。実は後半部分が群衆の神への立ち返りをもたらす決定打になっています。しかし、今日はそこには立ち入らずに前半部分だけを見ます。
ペトロは、この不思議な現象はヨエル書3章1-5節で預言されている神の霊の降臨であるとわかりました。このように、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったのです。ところでペテロは、ヨエル書を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言います。「終わりの時に」はギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文では「終わりの日々」とは言っておらず、「その後で」と言っています。これはペトロが改ざんしたのではなく、旧約聖書のギリシャ語訳が「終わりの日々に」と訳したことに倣ったのです。翻訳した人たちは原文の意味を終末論の観点で確定したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。
それでは「終わりの日々」とはどんな日々か?イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になりました。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直す天地大変動の時です。その時そこに唯一の国として神の国が現れて、誰がそこに迎え入れられるか最後の審判が行われます。そのため、イエス様の再臨を待つ日々は終わりに向かう日々で「終わりの日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちましたが3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。
19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。初めは、神の掟を破り続けたイスラエルの民が罰として外国の軍隊に攻められるという神の怒りの日と考えられていました。バビロン捕囚の後の時代には、この世が終わり天地の大変動が起きて神の罰が下される日という具合に終末論的に理解されるようになりました。イエス様の十字架と復活の出来事の後は、さらに彼の再臨が「主の日」に加わりました。
21節を見ると、そういう天地の大変動の時に無事に神の国に迎え入れられるのはイエス様の名により頼む者たちであると言われています。ペトロの説明の後半は、群衆に主の再臨に備えてそういう者になりなさいと導く内容です。
こうして聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。この宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。共に主の名により頼み、共に主の再臨を待つ群れが誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。
3.弁護者、真理の霊
次に、聖霊とは何者か?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。
それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて話します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。お前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、再臨の日までお前たちがこの世で孤児になることはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊とは、何が真理でそれが私たちにどう関係するのか?これらのことは以前もお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。
聖霊は私たちを何に対して弁護してくれるのか?私たちを告発する者に対してです。何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、外側も内側も神の意思に沿えない者であることが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。悪魔のそもそもの目的は人間と神の間を引き裂くことです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けてしまったりすれば、それはもう悪魔にとって万々歳なことになります。
人を落胆させたり神に背を向けさせてしまうものは、罪の他にもあります。私たちがこの世で遭遇する不幸や苦難です。神が私にこんな仕打ちをされるということは、私に何か至らないことがあるということなのか?自分に原因があると思って絶望してしまったり、あるいは、私の何が悪くてこんな仕打ちを!と神に原因を見て失望してしまったりします。これも悪魔の目指すところです。
私たちがどんな状況にあっても神の愛を疑わず信じ神のもとから離れず留まることが出来るように助けてくれるのが聖霊です。聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架で死なれたことで自分の罪を償って下さったとわかっています。それで、イエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いているのです。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。聖霊はすかさず私たちの方を向いて次のように促してくれます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています。」キリスト信仰者には洗礼を通してこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さいます。その時、私たちは本当にこれからは神の意思に沿うように生きていかねばという心を強くするでしょう。
不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と天地創造の神との結びつきは失われていないとわかります。神との結びつきがあるからには神の守りと導きもあるとわかります。あの方は十字架の上で犠牲になられたが、神の想像を絶する力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足下に踏み潰しておられる。そのような方と私は洗礼によって結び付けられている。そういうふうにわかると不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていた不幸や苦難が、今度は逆に、存在して見捨てることをしない神と一緒にくぐり抜けるためのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。波風たける時も一緒に歩んで下さる神に心が向くようになります。
次に聖霊が「真理の霊」とはどういうことか?キリスト信仰の観点では人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ないということです。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2000年前に現在イスラエル国がある地域のナザレ出身のイエスは旧約聖書と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史上の人物理解に留まります。
ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活した、これで彼が神のひとり子であることが旧約聖書の預言から通して明らかになります。では、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪の償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの次に到来する新しい世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を与えられて神の国に迎え入れて下さる。それが実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊は私たちがこの真理をわかり、それを持ってこの世を生きられるように働くのです。
人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、聖霊が働くからです。この聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間を聖霊の働きの中に閉じるのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、聖霊の働きにすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないぞ、とか、救い主は沢山いるぞ、イエスはそのうちの一人にすぎない、とか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは耳に届かなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持っているので、霊的に安全地帯にいることになります。
4.聖霊を受けた者がなすべきこと
さて、洗礼を通して聖霊を常駐させることになったキリスト信仰者に共通してある、なすべきことを見ていきましょう。まず、イエス様を愛して彼の掟を守ることです。ヨハネ14章15節でイエス様は言われます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をまもる。」私たちがイエス様の掟を守ることは、彼を愛することの当然の帰結として出てくるということです。ここで言われていることは、掟を守れ、掟を与えた者を愛せ、ということではありません。イエス様を愛するならば掟を守るのが当たり前になるということです。宗教改革のルターはまさにこの箇所について、「いかにしたらそのようなイエス様を愛する愛が持てるようになるか?」と問い、次のように答えます。それは、「人間の心は惨めなので、何か外部から来る素晴らしいものを味わうことがないと、人間は愛することができない。」それでは、外部からくる素晴らしいものとは何でしょうか?
それがわかるためには、キリスト信仰者はどうしてイエス様を自分の救い主として信じるようになったかを振り返ればよいでしょう。
イエス様が私たちの救い主となったのは、言うまでもなく、彼のおかげで私たちが天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになったからです。神との結びつきをもってこの世の人生を歩めるようになると、順境の時にも逆境の時にも何ら変わらぬ神の導きと守りを得られるようになり、この世から別れても復活の日に復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられるようになりました。これが外部からくる素晴らしいものです。これがあるからイエス様を愛することができ、神を全身全霊で愛することができ、隣人を自分を愛するがごとく愛することができるのです。
次のなすべきことは、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。
12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言います。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を癒した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?
弟子たちがイエス様の業を行うと言うのは、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に向かう道を歩める可能性を開いて下さいました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものにすることができるようにしました。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにするという点では同じ業を行っているのです。
さらに弟子たちの場合は、活動範囲がイエス様よりも急速に広がりました。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、弟子たちの場合は遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。その意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うようになったと言えるのです。弟子たちの活動はイエス様が天に上げられた後で本格化します。イエス様は自分が天の父のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束していました(ヨハネ14-16章)。聖霊は福音が宣べ伝えられる場所ならどこででも働き、福音を聞く人を神のもとに導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られて弟子たちが福音を伝道して群れがどんどん大きくなっていったのです。
イエス様は13節と14節で、私の名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。神との結びつきを持てて永遠の命に至る道を進む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは「この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように」ということに行きつきます。同時に、まだ結びつきを持てておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない人たちについては、「その歩みが始まりますよう」にという願いになります。イエス様がその通りにしてあげると約束されたのですから、たとえ何年何十年かかってもそれを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者のなすべきことです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン