2021年4月26日月曜日

主は我が羊飼い、我に不足なし (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年4月7日 復活節第四主日

 

使徒言行録4章5-12節

ヨハネの第一の手紙3章16-24節

ヨハネによる福音書10章11-18節

 

説教題 「主は我が羊飼い、我に不足なし」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課の個所は、イエス様が自分のことを命がけで羊を守る良い羊飼いにたとえる教えです。羊とはイエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。そうすると、キリスト信仰者はいつもこのようにイエス様に命がけで守られて何にも害を被らないで済むのかと驚かれるかもしれません。しかし、キリスト信仰者だって、大きな病気をしたり事故に遭ったりします。それじゃ、なんだ守られていないじゃないか、イエスは調子のいいことを言ってと思われてしまうかもしれません。しかし、病気になったり事故に遭ったりしても目の前が真っ暗になりっぱなしにならない、必ず前方に光を灯してくれてそこを目指して歩めるようにして下さる、光が見えるまでは暗闇の中で傍にいて支えるように一緒に歩いて下さる、そのようにイエス様は導いて下さる、それで守られていると言うのです。

 

そういう暗闇の中にもあるイエス様の導きや守りというのは、本日の日課の個所だけからではなかなか見えてきません。実は本日の個所は、101節から始まる大きな一まとまりの中の一部です。イエス様はまず、羊の囲いについて話しをします。その後で自分のことを「囲いの門」であると言い、その次に今日の「自分は良い羊飼い」と言うのです。この全部を見ないとイエス様が自分のことを良い羊飼いと言っている意味の全容はわかりません。それに加えて16節で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない」と言っています。いきなり「この囲い」と言われても困るのですが、「囲い」については10章の最初で言われているので、本当にそこから見ないと今日の個所はわかりません。日本のルター派教会の区分の仕方がこうなっているためですが、文脈を無視して今日の区分だけに特化して説き明かしするのは無理があります。そういうわけで、本日の福音書の日課はヨハネ10章の11節からですが、1節から見ていこうと思います。11節から18節までは先ほど読んだので、補足として1節から10節までを拝読します。

 

(ヨハネ10110節の朗読)

 

 イエス様はまず1節から5節まで羊の囲いについて話します。羊の飼育が重要な産業になっているところでは塀の囲いを作って、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。塀は木材や石で造られました。泥棒が「乗り越える」と言うのをみると、それなりの高さがあったと言えます。さらにイエス様の話しから判断すると、囲いの中には複数の所有者の羊が一緒に入れられていたようです。羊飼いが、さあ、これから自分が所有する羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、囲いの門番に所有者である本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の羊を呼び集める。羊は生まれた時から同じ羊飼いに飼われていれば自分の羊飼いを声で聞き分けられたでしょう。別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がったでしょう。こうして、羊飼いはどれが自分の羊かわかり、羊も誰が自分の羊飼いかわかって、一緒になって牧草地を目指して囲いの外に出て行きます。

 

以上の話は、当時の人が聞いたら、身近であたりまえなことの描写でした。イエス様は何のためにこんな話をし始めたのでしょうか?イエス様がこの話をしたのは、ある安息日の日に盲目の人の目を開く奇跡を行った後でした。人々の間でイエス様のことを、こうした奇跡が行えるのは神から送られた者だからだと言う人もいれば、逆に、安息日には仕事をしてはならないという律法の掟を破ったのだから神由来などではないとか賛否両論が沸き起こりました。ファリサイ派という当時のユダヤ教社会の宗教エリートたちは、イエス様が神から送られた方ということをどうしても信じようとしない。それでイエス様は彼らの心の目は盲目であると指摘したのでした(93941節)。このやり取りの続きとしてイエス様は羊の囲いと羊飼いの話をされたのです。

 

羊の囲いの話は、当時の人なら誰にでも思い浮かぶ身近な光景でした。ただ、イエス様は何か大事なことをわかりやすく教えるために人々にとって身近なことを取り上げたのです。その大事なこととは、自分が何者で何のためにこの世に送られてきたかを明らかにすることでした。宗教エリートたちは6節で言われるように、この話が何を意味するのか理解できません。そこでイエス様は話しを説き明かします。まず自分は羊の囲いの門であると言い、次に自分は良い羊飼いであると言います。門も羊飼いも話の中にありました。キーワードです。イエス様が羊の囲いの門である、良い羊飼いであるというのはどういうことかわかれば、イエス様が何者で何のためにこの世に贈られてきたかがわかります。

 

2.イエス様は羊の囲いの門

 

 イエス様はヨハネ109節で次のように言われます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」日常身近なこととして考えれば、確かに、門を通って囲いの中に入る羊は危険から免れて安全な状態にいます。そして囲いを基地として今度は羊飼いに導かれて出て行けば牧草地にたどり着けます。ここの霊的な意味は絶大です。新共同訳では「門を出入りして」と言って、行ったり来たりの感じがしますが、ギリシャ語原文を見ると「門の中に入って、そして外に出る」と言っていて、行ったり来たりの感じはありません。「中に入って、そして外に出る」だけです。

 

イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れの中に入ることを意味します。どんな群れかというと、万物の創造主である神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持ってこの世の人生を歩む者の群れです。そして、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に迎え入れられる者の群れです。このようにこの世においても、この次に到来する世においても天地創造の神との結びつきを持って生きる者の群れです。

 

 このようにイエス様という門を通って群れの中に入って神との結びつきを持つようになったら、今度は「外へ出て、牧草地を見いだすことになる」と言います。これは、群れに加わった者がイエス様という良い羊飼いを先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行くことを意味します。そして、この群れは最後には緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達します。渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という労いと安息の地が約束されているのです。

 

このように、この世においても、この次に到来する世においても天地創造の神との変わらない結びつきを持てて生きられること、これが「救われる」ということです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、まさにイエス様という門を通って救われた者の群れに加わるということです。

 

それでは、なぜ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることが、そのような神との結びつきを持てて救われることになるのか?それは、人間には神聖な神の意思に反しようとする性向、罪があるためで、この罪の呪縛から人間を解放するためにイエス様が働かれたのでした。父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に送って、彼があたかも全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に他人の罪を全て負わせて、その神罰をゴルゴタの十字架の上で受けさせたのです。つまり、人間の罪の償いをご自分のひとり子に果たさせたということです。それで今度は人間の方が、このことは自分のためになされたのだとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるので神から罪を赦された者として見なされます。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを持てるようになっています。神との結びつきが持てるようになれば、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれて、その道を歩むようになります。イエス様が死から復活させられたことでそこに至る道が開かれたのです。

 

イエス様のことを通らねばならない門であるということは、イエス様自身、別の個所でも述べていました。ヨハネ146節です。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

 

ギリシャ語の原文では、「道」、「真理」、「命」それぞれの単語に定冠詞ηがついています。英語で言えばtheです。イエス様は天の父なるみ神のもとに到達できる道、真理、命の決定版ということです。そういうわけで、救いに与る者たちの群れに加われるためには、イエス様は真に通らなければならない門なのです。

 

「わたしよりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)と言う時の盗人とか強盗とは何か、考えてみましょう。これは、人間を救いの群れから連れ去って、神の国に向かう道から外してどこか別のところに引っ張って行こうとする者たちです。そして引っ張って行った先で屠ってしまい滅ぼしてしまう。「滅ぼしてしまう」というのは、せっかく神との結びつきを持てて生きられるようになったのに、それが全て失われてしまうことを意味します。何が救いの群れの中にいる者をこのような滅びに陥れるのでしょうか?この世は、神との結びつきを壊そうとするもので満ち満ちています。私たちはイエス様の十字架のおかげで神から罪の赦しを日々与えられているのに、それを与えられないようにするものがいろいろあるのです。

 

もしキリスト信仰者が神の意思に沿うように語ったり行ったり思ったりすることが出来ない自分にガッカリしてしまう時があれば、それは霊的に健康である証拠です。なぜなら、その時その人は心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが今も打ち立てられたままであることを見て、神への感謝と畏れを新たにして歩み始めることが出来るからです。ところがこの世は、神の意思に沿えなくても、そんなことはいちいち悲しんだりしなくてもいいんだよ、とか、神はそんな厳しいことは言っていないよ、神は愛だから何でも認めてくれるよ、とかいうような声で満ちています。まさしく創世記3章に出てくる蛇の手口と同じです。そういう惑わしに乗ってしまえば、もう罪は気づかないものになってしまいます。罪に気づかなければ、赦しの必要性も感じられなくなります。そうなれば、イエス様の十字架と復活は自分とは関係のない出来事になってしまい、それでイエス様は自分の救い主ではなくなります。まさにこの時、神との結びつきは失われてしまいます。

 

盗人、盗賊とは、このような惑わす声をもって近づいてくるもの全てを意味します。私たちは、そのような声に耳を傾けず、イエス様の声に耳を傾けるべきです。イエス様の声とは、まず聖書の中に記されているイエス様の言葉があります。それから直接イエス様から世に遣わされた使徒たちの教えもイエス様の声の延長です。これらに加えて、イエス様の言葉や行いの裏付けになるものが旧約聖書の至るところにあります。それらにも耳を傾ければイエス様の声がよりよく聞こえてきます。

 

ここでイエス様が16節で言われたこと、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」、これについて見てみましょう。「この囲いに入っている」羊と「入っていないほかの羊」がいて、イエス様は両方の羊のグループを荒地の向こうにある緑豊かな牧草地に導いていく、つまり、この世の荒波の海路の向こうにある永遠の安息地、神の御国に導いていく、ということです。囲いに入っている羊と入っていない他の羊とは何を指すのでしょうか?

 

囲いに入っている羊と言うのは、ユダヤ人の中でイエス様を約束の救世主メシアと信じた者たち、つまり「ユダヤ人キリスト教徒」です。ペトロもヨハネも他の12弟子もイエス様の母マリアも、それからパウロも皆、ユダヤ人キリスト教徒です。囲いに入っていない他の羊と言うのは、ユダヤ人以外の諸民族で後になってイエス様を救い主と信じた人たち、「異邦人キリスト教徒」です。彼らは初めの頃はまだ囲いに入っていませんでしたが、やがてイエス様という門を通って囲いに入って神との結びつきを持つ群れに加わり、そしてイエス様という「良き羊飼い」に導かれて、最初のグループと一緒に牧草地を目指すようになりました。この異邦人キリスト教徒のグループは具体的には、初めはローマ帝国内の諸民族、やがてヨーロッパやアフリカやアジアの諸民族に広がっていきます。イエス様は、この「ユダヤ人キリスト教徒」と「異邦人キリスト教徒」の二つのグループを一つの群れとして、神の御国に導くと言われるのです。

 

意外に思えるかもしれませんが、聖書のなかで人間界を二分している主要な境界線は、キリスト教徒か非キリスト教徒かではありません。そうではなくて、ユダヤ人かまたは「その他大勢」かです。この「その他大勢」が俗にいう異邦人と呼ばれるものです。そのなかには、日本人だけでなく、ヨーロッパ人も、アメリカ人も、アフリカ人も、中国人も韓国人もみんな全部一緒くたに含まれます。「エフェソの信徒への手紙」2章で使徒パウロが教えるように、キリストは十字架で人間を罪の支配から贖う業を行って、この二つのグループ、つまりユダヤ人と「その他大勢」を一つの体として神と和解させたのです。

 

3.イエス様はいつも共にいて下さる良い羊飼い

 

 さて、イエス様という門を通って救われた者の群れに加わったら今度はイエス様を羊飼いとして囲いを出て牧草地を目指して進んで行きます。ここでは、良い羊飼いと雇い人とが対比されます。雇い人は、羊の所有者に代わって羊の番をする者ですが、狼が現れるなど危険が生じると羊をおいてさっさと逃げてしまう。ところが、良い羊飼いはそのような場合でも逃げはせず、羊を守るためだったら、自分の命さえも惜しまないと言うのです。実際、イエス様は人間が罪の支配から解放されるために人間の全ての罪を引き取って、それから生じる全ての神罰を受けて自分を犠牲にされました。イエス様は十字架に掛けられる前の晩、この犠牲を引き受けることができるかどうか自問自答して苦しみますが、それが自分をこの世に遣わした父なるみ神の御心である以上、それに従って引き受けますと言ったのです。

 

ここで狼が何を象徴しているか見てみましょう。盗人、強盗の場合は、人間を救いの群れから連れ去って、神との結びつきを失わせて滅びに導くものでした。狼の場合は、羊を盗んだり連れ去ることが直接の目的ではなく、羊やその群れを即破壊することを目的とします。その意味で狼は、罪の支配力、罪の呪いそのものを象徴しています。しかし、イエス様は十字架の死を遂げることで抱き合わせの形で罪の力を無にし、人間をそれらから救い出して下さったのです。

 

次に雇い人ですが、これは本当の羊飼いではない偽りの羊飼いです。本当の羊飼い、良い羊飼いのイエス様は自分の命と引き換えに人間が神との結びつきを回復できるようにしました。御自分の流した血を代価・身代金として、人間を罪の支配下から解放した/買い戻した/贖い出したのです。偽りの羊飼いである雇い人には同じことはできません。偽りの羊飼いについて、ユダヤ民族の歴史には具体例がありました。エゼキエル書34章をみると、神は、自分の民を羊の群れ、その民の指導者を牧者にたとえて、牧者が羊の群れを養わずに自分自身を養っているだけの無責任を非難します。そして、無能な牧者に代わって真の牧者を起こすと約束します(エゼキエル341023節)。イエス様がこの世に送られたというのは、この預言の実現だったのです。

 

さて、キリスト信仰者は自分の命を投げ出してまで守ってくれるイエス様を救い主と信じて復活の日を目指して進んで行くのですが、それでも大きな病気になったり事故にも遭遇する。そうなると守ってもらえなかったということなのか?そうではないということが、これまでの説き明かしで明らかになったのではと思います。

 

少し振り返りますと、牧草地を目指して進むというのは、復活の日の神の国を目指して進むことでした。人間が神の国に迎え入れられるようになるために、イエス様はそれを妨げる罪の力を自分を犠牲にして無力にしました。そうして罪の償いと罪の赦しを自分のものにしてその中に留まる人たちが誕生しました。彼らを復活の主が神の国へと導き、道中を守って下さるようになりました。

 

その道中が害悪の一切ない常時平穏無事な世界でないことは、例えば詩篇234節でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を行くとも禍を恐れじ。」イエス様に守られて導かれる者でも、「死の陰の谷」を進まなければならないことがあるのです。しかし、「禍を恐れじ」。なぜなら、暗闇の時にも「汝、我と共にあり」だからです。暗闇なのにどうやってイエス様が共にいて下さるとわかるのかと言うと、もし道を外しそうになったら、羊飼いが杖で叩いてそっちじゃないと気づかせてくれるように、気づかせてくれると言うのです。「汝の鞭、汝の杖、我を慰む。」一瞬痛みを感じたかもしれないが、主はちゃんと傍におられるとわかる安心が痛みなどなかったようにします。

 

そういうわけで目の前が真っ暗になりっぱなしにならない、イエス様は必ず前方に光を灯してくれて、そこを目指して進めるようにして下さる、光が見えるまでは暗闇の中でもちゃんと傍にいて支えるように一緒に歩いて下さるのです。イエス様がそんなに身近におられるのがわかる人というのは、聖書の御言葉を身近なものにし聖餐に与る人です。今コロナで聖餐式を持てませんが、その分み言葉を身近なものにすることが大事になっています。主にあって兄弟姉妹である皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2021年4月19日月曜日

復活の主から旧約聖書を教わって、彼の力に与ろう! (吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教

2021年4月18日 復活節第三主日

 

使徒言行録3章12-19節

ヨハネの第一の手紙3章1-7節

ルカによる福音書24章36b-48節

 

説教題 「復活の主から旧約聖書を教わって、彼の力に与ろう!」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

先週申し上げましたように、日本のルター派教会の聖書日課は復活祭から聖霊降臨祭までは第一の日課は旧約聖書ではなく使徒言行録からです。フィンランドでは通常通り旧約聖書からです。どうして違いがあるのかわかりませんが、日本にいるので日本のやり方に従って説き明かしをしていきます。とは言っても、説教の中で旧約聖書に立ち戻ることはいつもあります。新約聖書は旧約聖書を土台にしているので、旧約に立ち返らずに新約を教えることは不可能です。

 

本日の3つの日課はどれもイエス様の復活が中心にあります。使徒言行録の個所では、ペトロが足の不自由な人を癒した後で驚く群衆に向かってどうして癒しが起こったのか説明します。そこでイエス様の復活を信じることが決め手になっていることを話します。第一ヨハネの個所では、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は神の子とされており、将来復活の日にはイエス様と同じようになるのだと言います。そして福音書のルカの個所は、ずばり復活したイエス様が弟子たちの目の前に現れた時の出来事です。このように本日の日課は、というか本日の日課も、イエス様の復活はキリスト信仰にとって大事なことなのだと私たちに言い聞かせています。そういうわけで本日の説教でもイエス様の復活と私たちの将来の復活について深めていこうと思います。本説教では、3つの異なるテーマについてお話しようと思います。一つ目は、イエス様の復活によって旧約聖書がユダヤ民族にとっての神聖な書物から全世界の民族にとって神聖な書物になったということ。二つ目は復活の体について。三つ目は復活したイエス様の名前が持つ力についてです。

 

2.イエス様の復活と旧約聖書の普遍化

 

復活祭から聖霊降臨祭までは復活節と呼ばれる期間です。約2000年前のその時は復活したイエス様が昇天するまで40日間地上にいて弟子たちを初め大勢の人たちに姿を現し、弟子たちに旧約聖書を正確に教えた期間でした。本日のルカ2444節でイエス様は次のように言われます。モーセ五書と預言書と詩篇の中で自分について書いてある事柄は全て実現されなければならないということ、これこそが十字架の出来事の前にお前たちに言っていたことなのだ。その次の45節を直訳するとこうです。イエスはこれを言って弟子たちの閉じていた理解を開いてあげて聖書がわかるようにしてあげた。つまり、弟子たちは旧約聖書の随所にイエス様のことが書かれていることがわからず、その意味で旧約聖書がわかっていなかった。それをわかるようにしたということです。

 

そうしたイエス様について書かれていながら、そうと理解されていなかった事柄の例として、次のことを述べます。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」これは旧約聖書のいろんな個所をまとめてくっつけたようなものです。分解すると、まず神から遣わされた神聖な方が人間の罪の償いのために身代わりとなって神から罰を受け苦しみを受けて死なれたということ。これはイザヤ書5253章にかけてあります。また、ダビデの子孫の死の苦しみについては詩篇22篇にあります。イエス様が3日間葬られた状態でいた後に復活されたことは、預言者ヨナが大魚の腹の中に3日間閉じ込められた後で脱出できたことが暗示していました(マタイ123940節)。ホセア書62節では、3日後の復活が暗示されています。またイザヤ書496節を見ると、神に遣わされた神聖な方が諸国民の光となって神の救いが世界の果てにまで及ぶようにすることが述べられています。

 

弟子たちの旧約無理解の是正はエマオの道の出来事にも起きます。これは今日のルカの個所の直前にある出来事です。二人の弟子が沈鬱な表情でエマオに向かっていました。そこに復活したイエス様が合流しますが、なぜか二人はイエス様とはわからない。彼らは困惑した様子で話します。民族の解放者と期待されていたイエス様が死刑にされてしまった上に彼の遺体が墓になかった。墓に行った女性たちが天使からイエス様は生きておられると告げられた。これらは一体何なのだ、全くわけがわからない。そこでイエス様はいかにも呆れたという様子で返します。お前たちは旧約聖書を全く知らないからそうなってしまうのだ、メシアが苦しみを受けた後で神から栄光を受けると書いてあるではないかと。そして弟子たちに旧約聖書について講義を始めるのです。旧約聖書にはイエス様に起こったことを言い当てた御言葉が沢山あることが教えられます。このようにイエス様の十字架と復活の後で旧約聖書はイエス様を知るための書物として立ち現われたのです。

 

弟子たちが旧約聖書をそのように理解していなかったのは、当時「メシア」の理解の仕方がユダヤ民族を異民族支配から解放してくれる王様というものが一般的だったからでした。確かに旧約聖書のメシアに関係する個所はそのように理解できました。しかも、バビロン捕囚後のユダヤ民族がずっと大国の支配に置かれ続けたという歴史状況の中ではそういう救国の王様への期待が強まるのはやむを得ないことでした。しかし、聖書にはそのような理解では意味不明になる個所が多くありました。イザヤ書53章の人間の身代わりになって苦しみのうちに死ぬ「神の僕」とは一体誰か?「衣を取ろうとしてくじを引く」(詩篇2219節)とはなんのことか?「渇くわたしに酢を飲ませようとする」(詩篇6922節)とはなんのことか?

 

ところが天地創造の神の最大の関心事は、ユダヤ民族を他民族の虐げや支配から解放することではなく、民族に関係なく人間全てを支配している罪と死から解放することだったのです。

 

 どうして神はそんな解放を目指したのでしょうか?それは、もともと人間は神に造られた当初は罪と死の支配下になかったからでした。それが、創世記の最初に記されているように、人間が神の意思に反しようとする性向すなわち罪を持ってしまったために神聖な神との結びつきが切れてしまい、人間は死ぬ存在になってしまったのでした。人間を造られた神としては、なんとか結びつきを回復してあげようと計画を立てそれを実行に移したのでした。まず、ひとり子をこの世に贈って人間として生まれさせて人間の痛みや苦しみがわかるようにしました。次に、ひとり子を通して人間に神の意思を正確に教え、また今の世が終わった後に到来する神の国についても教えました。そして解放の業を成す時が来ました。神のひとり子は人間と神の結びつきを断ち切ってしまった原因である罪を全部自分で引き受け、ゴルゴタの十字架の上でその神罰を全て受けて死なれました。イエス様の十字架の死はまさに人間に代わって罪の償いを神に対して果たして下さったことだったのです。

 

実に復活されたイエス様が旧約聖書とはそうした神の人間救済計画について教える書物であることを明らかにしたのでした。これで弟子たちにも合点がいきました。イザヤ書53章の人間の身代わりになって苦しみ死ぬ「神の僕」とはまさにイエス様のことであり、「衣を取ろうとしてくじを引く」も「渇くわたしに酢を飲ませようとする」もみな、イエス様が十字架にかけられたことについて言っていることが明らかになったのです。こんなのは序の口と言えるくらい数多くの聖句がイエス様の活動や彼に起こった出来事について言っていることが明らかになりました。これでメシアの意味が民族の解放者から人間を罪と死の支配から救う救い主に結晶化したのです。

 

このようにイエス様の復活によって旧約聖書は人間に救いをもたらそうとする神の意思を表す書物であることが明らかになりました。それなので救いの実現のために大きな役割を果たす神のひとり子について述べるのは当然なのです。

 

イエス様の復活は旧約聖書の性格を大きく変えただけではありません。彼の復活により死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、また永遠の命が待つ神の御国に至る道が人間に開かれたのです。人間はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものに出来れば罪を償ってもらった者になります。罪を償ってもらったら、神から罪を赦された者として見てもらえ、罪を赦されたら、もう神との結びつきを切り裂くものはなくなってその結びつきの中で生きられます。万物の創造主の神と結びついて生きていければ神以外に何も恐れるものはなくなります。万が一この世から別れることになっても恐れなく神に全てを委ねて眠りにつき、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられ永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられます。本当にイエス様の復活のおかげで私たちにこのように永遠の命に至る道が開かれました。

 

そこで、どうすればその道に入れてそこを進めるようになれるかと聞かれるでしょう。それにはイエス様の果たされた罪の償いを自分のものにすることがないといけません。それでは、どのようにして自分のものにすることが出来るのでしょうか?それは、イエス様が私の身代わりになって罪の償いを果たして下さった、だから彼は私の救い主ですと信仰告白して洗礼を受けることによってです。そうすると罪の償いがその人の内に入って、その人は永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。

 

3.復活の体について

 

本日の使徒書の日課、第一ヨハネ3章でキリスト信仰者は復活の日にイエス様と同じようになると言われています。イエス様と同じようになるとはどうなるのでしょうか?それを知る手掛かりとして復活されたイエス様がどのようであったかを見てみます。イエス様の復活については、2週間前の復活祭の説教で詳しくお教えしましたが、今日は少し違った角度から見ていきます。

 

本日の福音書のルカ24章で復活したイエス様が弟子たちの前に現れます。弟子たちの驚きようから察するに本当に突然彼らの間に立っていました。ヨハネ20章ではさらに詳しく、扉には鍵がかかっていたのに、いつの間にかイエス様が弟子たちの間に立っていました。弟子たちが、幽霊が出たとパニックに陥ったのは当然です。しかし、イエス様は、幽霊ではないと否定し、その証拠に手と足を見て触ってみよ、幽霊には肉と骨はないが自分にはちゃんとある、確認しなさいと命じます。このようにイエス様には一応体があります。ただ自由に空間移動をするので私たちの体とは異なっています。しかし、幽霊のように体があるのかないのか不確かな存在ではありません。さらに、食べ物はないかなどと聞いて、みんなの見ている前で食事もする。ここまでくると、復活したイエス様は少なくとも私たちと同じ食欲を持つ存在です。しかし、それでも私たちと異なり自由な空間移動が出来るので、今ある天と地の中で働いている重力Gのような自然法則に支配されていません。

 

 使徒パウロは、第一コリント15章で、体には今のこの世での体と将来の新しい世での「復活の体」の二つがあることについて詳しく教えています。復活の日が来ると、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(5253節)。また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(4243節)と言います。イエス様はズバリ、死者の中から復活する者は天使のようになるのだと言っています(マルコ1225節)。

 

 またイエス様は十字架刑の時に被った手足の傷を見せます。これは復活後のイエス様は死ぬ前のイエス様と同一人物であることを如実に示します。イエス様は、体の有り様はこの世的なものから「復活の体」へと全く異なるものにはなったけれども、復活後も同じイエスとしての自我を持ち、死ぬ前の出来事を完全に過去のものとして、今は全く新しい現実に生きる者となっている。このように、神から復活させられる者は死ぬ前と同じ人格と自我を持ち、他方で体は全く新しい「復活の体」という存在になるのです。

 

このことは実は、日本の仏教の間でごく一般に抱かれている死生観と大きく異なる点ではないかと思います。そこでは、人は死ぬと成仏に至る何十年かの修行の道への歩みを始めるとされます。キリスト信仰では復活の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠り、復活の日に目覚めさせられます。また、仏教で修行の道を歩む者は住職から戒名という新しい名をもらいます。

 

聖書の観点では、「名前」というのは単なる名称にとどまりません。人の名前はその名前を持つ人そのものないしその人がその人である本質も意味します。それなので「神の名により頼む」とは「神により頼む」の意味で、「神の名を侮辱する」とは「神を侮辱する」です。またよく使われる「父と子と聖霊の御名によって」というのも、考えるとわからなくなってきますが、要は「父と子と聖霊と繋がって、結ばれて」です。または、「父と子と聖霊の影響下に服して」と言ってもいいと思います。そういうわけで「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を受けると、それは三位一体の神に本気で結びつけられてしまうことになります。洗礼とは本当に大変なことなのです。

 

話が少しそれましたが、キリスト信仰では亡くなった方がこの世の体から離れて復活の日の体を待っている状態においても、同じ人、同じ人格なので新しい名前を付ける必要はありません。

 

このようにキリスト信仰では、死からの復活とは新しい体を伴う復活であり、死ぬ前と復活後の人格は同一で復活後も自我を持つということがはっきりあります。そのように復活した者が自分の造り主、自分に命を与え罪と死の支配から解放してくれた神のもとに迎え入れられる。これがキリスト信仰者の死生観です。

 

ところで、2000年前のイエス様の復活と将来の私たちの復活の間には大きな違いがあります。イエス様の復活は、今あるこの世の中で起きました。つまり、私たちが今生きている天と地の下で起きました。私たちの将来の復活は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ6517節、6622節)、そして、造られたものは全て揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが現れる時(ヘブライ122628節)に起こります。その時がいつであるかは、神以外に知ることは許されていません(マルコ1332節)。その時、イエス様は天使の軍勢を従えて再臨し、この世の人生で彼を救い主と信じる信仰にしっかり留まった者たちを神の国に迎え入れます。その時、既に死んでいて眠りについていた人たちは復活させられてから、御国に迎え入れられます。

 

こうして復活の体と命を得た者たちが一堂に会する神の国は、大がかりな結婚式の祝宴にもたとえられます(黙示録1979節)。それは、この世の人生に起きたあらゆることについての完全かつ最終的なねぎらいを受ける時です。先ほど見たように復活の体は食欲を持つので、祝宴ではこの世離れした最上級のものが供されるでしょう。どんなメニューか考えただけでもワクワクしてしまいそうです。こんなことを考えるのは不謹慎でしょうか?

 

4.名前の力を信仰で受け取る

 

先ほど聖書の観点では名前は単なる名称に留まらず、名前を持つ人そのものないしその人がその人である本質も意味すると申しました。この観点は、本日の使徒言行録の個所の理解にとって大事です。ペトロが足の不自由な人を癒す時、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言います。「イエス・キリストの名によって」というのは、「イエス・キリストと繋がって、結びついて、その影響下に服して」ということです。足の不自由な人は歩けるようになりました。イエス・キリストと繋がる、結びつく、影響下に服するとはどういうことか考えてみましょう。その前に、イエス・キリストという名前ですが、キリストは新約聖書が書かれているギリシャ語のクリストスです。クリストスは旧約聖書が書かれているヘブライ語ではムシィーアハ、メシアです。つまるところイエス・キリストというのは、メシアのイエスという意味です。メシアの意味は、先ほど見たように人間を罪と死の支配から解放する救い主です。 

 

「イエス・キリスト」、「メシアのイエス」と繋がる、結びつく、影響下に服するというのはどういうことか?それがわかる手がかりが本日の使徒言行録の中にあります。ペトロが群衆に対してどうしてこの人の足が治ったかについて説明しているところです。16節でペトロはこう言います。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」

 

名前が強くしたり癒したりするというのは分かりにくいですが、先ほど見たようにイエス様そのものイエス様の本質が強くした癒したという意味です。ここで思い出さなければならないことはイエス様そのものとか彼の本質とは言うまでもなく、彼が神のひとり子であること、十字架の上で人間の罪を償い罪の人間を死に陥れる力を殺いだこと、そして死から復活されて死を超えた永遠の命を持って生きておられること、これらがイエス様そのもの、彼が彼である本質です。そのような本質を備えた方がこの足の悪い人を強める力があったのです。

 

しかしながら、イエス様そのものにそのような力があるとしても、それだけでは不十分であることをペトロは同じところで言っています。「それは、その名を信じる信仰によるものです。」「その名を信じる信仰」とはずばり、その名前を持つ方、イエス様を信じる信仰のことです。つまり、癒しは二つの条件が重なって起こったのです。まず、イエス様は今は天の父なるみ神の右に座してはいても地上で癒しを行う力を持っているという条件。それと、イエス様を救い主と信じる信仰があり、その信仰がイエス様の力を受け取る受け皿になっているという受け手側の条件。この二つの条件は人間の救いにもあてはまります。イエス様は十字架と復活の業で人間の救いを実現されたのではありましたが、人間の側で信仰の受け皿でそれを受け取らないとダメなのです。受け取らないでいたら実現した救いは人間の外側によそよそしく留まってしまいます。だから、福音の伝道と洗礼は大事なのです。

 

ペトロの言葉の後半ではこう言われていました。「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」「イエスによる信仰」とはわかりにくいと思います。各国語の訳も苦労しています。それらについてはここでは立ち入りません(後注)。ここは直訳すると「イエスを経由してある信仰」とか「イエスを手段にしてある信仰」です。つまり、「他の者を経由しない信仰」、「他の者を手段にしない信仰」です。そうすると、やはりイエス様を唯一の救い主と信じる信仰ということになります。ペトロは、イエス様が持つ力と彼を唯一の救い主と信じる信仰がその力の受け皿になっているということ、この、力と受け皿が一緒に働いて癒しが起きたと言っているのです。

 

それでは、イエス様に癒しを与える力があり、私たちの方でイエス様を救い主と信じる信仰があって、イエス様の力を受け取る受け皿を持っていたら、同じような癒しは必ず起こるのか?これはとても気になるところです。イエス様には力があり、こちらもイエス様を救い主と信じて力を受け取る受け皿はある、それなのに力が来ないで癒しが起きなかったらどうしようと心配もします。その時は次のように考えたらよいでしょう。確かにイエス様には癒しを与える力があり、私も彼を救い主と信じて癒しを受け取る態勢はできている。もし癒しがすぐ起きなくても、それは直ぐには起こさないから引き続き祈りなさいと時間をかけさせようというお考えなのでしょう。あるいは、神は目前の癒しではなく別のことで力を与えたのであり、その別のことで神の栄光を現わしなさいということでしょう。いずれにしても、力ある方と信仰という受け皿の両方がそろっていれば、病気をはじめ他のあらゆる事柄に神の栄光が増し加わる何かが必ず起きます。それなので力ある方が私たちの一番期待していることに働いてくれなくとも、別のことで働かれるので大丈夫です。それで大丈夫と言うのが、復活の希望を持って生きるキリスト信仰者です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)使徒言行録316節のペトロの言葉の後半にある、足の不自由な人を人々の前で完全に癒したものを「イエスによる信仰」と言っていることについて。ギリシャ語原文はη πιστις η δι’ αυτουで、直訳すれば「彼を通してある信仰」、「彼を手段にしてある信仰」。「彼」でなくて「彼の名前」の可能性もありますが、名前はその人そのものと考えれば「彼」でもいいことになります。それに「彼の名前」だったら、前半にある言い方に倣ってη πιστις του ονοματος αυτοςないしη πιστις αυτουになるのでは?

参考までに他の国の言葉ではどう訳しているか見てみますと、

英語NIVは、Jesus’ name and the faith that comes through him

ドイツ語ルター訳1912年版は、den Glaube durch ihn

スウェーデン語は、den tro som kommer genom detta namn

フィンランド語は、usko, jonka Jeesus antaa

 英語は「名前」にこだわったので原文にないJesus’ nameをつけたのでしょう。つけないでthe faith that comes through himだけだったら原文通りになると思います。ドイツ語のihnは恐らく「名前」でしょうね。スウェーデン語はドイツ語と大体同じです。フィンランド語「イエスが与える信仰」は上手に逃げた訳ということでしょうか。考え方は間違ってはいませんが。それにしても新共同訳の「イエスによる信仰」とはどういう意味でしょうか?

 

 

 

2021年4月12日月曜日

たとえ目には見えなくとも神との平和があるというのが信仰 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021

2012年4月11日 復活節第二主日

 

使徒言行録4章32-35節

ヨハネの第一の手紙1章1節-2章2節

ヨハネによる福音書20章19-31節

 

説教題 「たとえ目には見えなくとも神との平和があるというのが信仰」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の個所には、二つの大きなテーマがあります。一つは、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言ったことです。イエス様の言われる平和とは何かということが一つ。もう一つのテーマは、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになったという出来事です。その時イエス様は言いました、「私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである」と。イエス様は、見て信じるのではなく見ないでも信じられることが大切だと言います。イエス様の言われる平和、それと見ないでも信じられる幸い。この二つは実は関連しあっています。というのは、イエス様の言われる平和も目には見えないもので信じるものだからです。

 

見ないでも信じられるということはキリスト信仰にとって大事なポイントです。使徒パウロは第二コリント418節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、57節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ824節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」111節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

 

このようにキリスト信仰では目で見ないで信じられるということがポイントになっています。そのことを本日の聖書の御言葉をもとに見ていきましょう。

 

2.神と御子と一体になることで復活を心で信じられる

 

 まず、この目で見ない限り信じないと言ったトマスのことについて。彼の言ったことはもっともなことです。この目で見ない限り信じない。これは普通の宗教ならどこでも考えられることでしょう。何か不思議な業を行う、医療手段を講じなくて不治の病が治るという奇跡、そういうことを行った者に対して私たちはこの人には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれるかもしれません。

 

 ところが、イエス様がここで教えていることは、「信じる」とは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じることが本当の信じることだということです。ちょっと変な感じがしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を「信じます」とは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。

 

 イエス様の弟子たちは主の復活の目撃者です。彼らの場合は信じるも何も目で見てしまったのでそうとしか言いようがありません。本日の使徒書の日課の第一ヨハネの個所も、私たちはこの目で見た、この耳で聞いた、この手で触れた、だから宣べ伝えているのだと言います。使徒たちの場合は、目で見たことを証言します。これが目で見なくても証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?一つには、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭してまで宣べ伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあります。ところが、見ないで信じるようになった人たちも次第に最初の目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていきます。彼らも使徒たちと同じように、神のひとり子が十字架にかけられ、3日後に死から復活された、それは旧約聖書に預言されていたことの実現であったのだ、と宣べ伝え出したのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

 

 ところで昨年も申し上げたことですが、もしタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行くことが出来たら、ビデオ撮影をして、それをSNSで拡散することが出来ます。世界中の人が目撃できます。あっ、イエスは生き返っているぞ!壁をすり抜けたぞ、すごい、すごい、という具合に瞬く間に5,000万回、5億回と再生されて、いいね!や驚き顔の絵文字で溢れかえるでしょう。世界中の人がイエス様の復活はあったと言うでしょう。しかしながら、それは「信じる」ことではありません。使徒パウロはローマ109節で「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と言います。「心で信じる」というのは、復活は頭では理解できないことだが心でその通りだと受け取るということです。SNSだと頭で理解する必要もないし心で受け取る必要もありません。瞬間的な反応だけです。イエス様の復活の動画を見てすごいと感じても、「心で信じる」がなければ、すぐ次に投稿されるもっと凄いものを待ち始めています。イエス様の復活はギガバイトの堆積物の中に埋もれていくだけです。こういうことを考えると、SNSというのは人間の頭と心のために本当に役立っているのか立ち止まって考えてみることも必要なのではないかと思う者ですが、どうでしょうか?

 

 話が少し横道にそれましたが、パウロの言葉は、イエス様の復活というのは頭で一生懸命理解しようとしても受け取り不可だが、心は受け取り可ということを意味します。心で受け取ることが出来るから目撃しなくても信じることができるのです。それでは、イエス様の復活を心で受け取るとはどういうことでしょうか?

 

 本日の使徒書の日課「第一ヨハネの手紙」の個所にその鍵があるので、それを見てみます。ヨハネは、目撃者である使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えるのは伝えられた者が伝える者と一体性を持つためであると言います(13節)。日本語訳では「交わりを持つため」と言っています。交流関係を持つみたいですが、ギリシャ語のコイノニアという言葉はもっと広くて深い意味です。フィンランド語訳やスウェーデン語訳では「一体性」を意味する言葉です(yhteysgemenskap)。ドイツ語訳ではあのゲマインシャフトでまさに共同体です。ひるがえって英語ではフェローシップ、仲間です。どの訳語も重なる部分はありますが、微妙に違っていると思います。どちらかと言うと日本語の「交わり」と英語のフェローシップは少し浅い狭い感じがします。そう言うとまた先週に続いて聖書の翻訳の日米同盟と欧州連合の対決を持ち出してしまうのですが、私としては「一体性」とか「共同体」の方があっているのかなと思います。その理由として、本日の使徒言行録の日課で信仰者たちが財産を共有する出来事がありました。ここでコイノニアの形容詞形コイノスが使われています。信徒たちが財産を共有する位に一体性を持っている、共同体を形成しているということです。

 

 私たちが礼拝の中で唱える「使徒信条」は2000年近い伝統を持つキリスト教信仰告白の基本中の基本ですが、その終わり部分で信じる事柄の一つに「聖徒の交わり」というのがあります。これもギリシャ語原文を見るとコイノニアで、信仰者が一体であること、共同体を形成していることを意味します。「交わり」と言うと、スオミ教会では礼拝後にコーヒータイムを持ちますが(今はコロナで控えています)、そういう交流や歓談のひと時を連想してしまうかもしれません。しかし、コイノニアは交流や歓談を超えた、それこそ場合によっては財産の共有に至るくらいの一体性、共同性を意味するのです。

 

 さて、ヨハネは、自分たち使徒が見聞きしたことを宣べ伝えるのは、宣べ伝えられた人たちが伝えた人たちと一体性を持つためと言います。しかし話はそこにとどまりません。そのすぐ後でとても本質的なことを言います。それは、宣べ伝える自分たちは父なるみ神とそのひとり子イエス様と「一体性・コイノニア」を持っていると言うのです(13節、日本語では「交わり」、英語ではフェローシップ、ドイツ語ではゲマインシャフト、スウェーデン語・フィンランド語も「一体性」を意味する言葉)。つまり、自分たちが見聞きしたことを宣べ伝えるのは、伝えられた人たちが伝えた自分たちと一体性を持てて、今度はその一体性を通して伝えられた人たちも自分たちが持っている神・御子との一体性に与れるようになるためだと言うのです。つまり伝える人たちと伝えられた人たちが共に神・御子と一体性を持つことが目指されているのです。両者が共に神・御子と一体性を持つので、両者は互いに一体ということになります。

 

 このようにヨハネをはじめ使徒たちが目で見たことを証言するのは、それを聞いたりまたは読んだりした人たちが神・御子と一体性を持てるようになって、それを通してお互いに一体となるためでした。これが意味することは、神と御子と一体性を持てれば、別にイエス様の復活を目で見たか見なかったかはそんなに大した問題ではなくなるということです。逆に復活の主を目で見たとしても、神と御子との一体性を持てなければ、その見たことは先ほど見たようなSNSのニュース拡散と同じことになります。

 

 ここで、神と御子と一体の関係を持つことが、復活を自分の目で目撃していなくても心で信じられるようになる条件であることが見えてきました。それでは神と御子との一体の関係はどうやって持てるようになるのでしょうか?

 

 イエス様の復活について聞いた人たちが、どのようにして神と御子との一体の関係を持てるようになって、復活を心で信じられるようになったか?答えは、聞いた人たちがユダヤ人か非ユダヤ人かによって多少異なってきます。

 

まずユダヤ人の場合。彼らには旧約聖書があったので、イエス様の十字架の死と死からの復活を知らされた時、預言が実現したことがわかりました。十字架の出来事は神が遣わした神聖な方が人間の罪を償うために犠牲の死を引き受けるというイザヤ書53章の預言が実現したのだと。3日後に死から復活されることはヨナ書2章に暗示されていたと。そして、復活された主はこの世の肉の体とは異なる体を纏っていたことはダニエル書12章の預言の実現だと。イエス様の十字架と復活の出来事の前はメシアとはユダヤ民族を異民族の支配から解放する地上の王様と考えられていました。しかし、そのような理解だと旧約聖書の中に解明できないことが多く残りました。イエス様の十字架と復活の後、メシアとはユダヤ民族か非ユダヤ民族かに関係なく人間を罪と死の支配から救い出して、天地創造の神との結びつきを回復させてくれる方。人間がこの世を去った後も復活の日に目覚めさせて神の御許に迎え入れられるようにしてくれる、そういう永遠の命の救い主、それがメシアだという理解になりました。それで旧約聖書の不可解だったことが次々とわかるようになったのでした。それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神との結びつきを持てるようになったのです。その時はもう、イエス様の復活を心で信じています。

 

ただし、ユダヤ人はイエス様に対する姿勢で二分してしまいます。イエス様を救い主メシアと信じるようになった人たちと、信じない人たちとにです。

 

 非ユダヤ人の場合は少し勝手が違いました。彼らは、旧約聖書を持っていないので預言を知りません。また地中海世界の東部はギリシャ文明が浸透している地域なので、人々は多神教の考え方に慣れています。彼らは使徒たちの宣べ伝えを聞いて、どうやって神・御子との一体性を持てるようになって復活を心で信じられるようになったのでしょうか?

 

ユダヤ教とキリスト教では言うまでもなく、万物の創造主の神、天と地と人間を造られ人間に命と人生を与えた神が全ての中心にあります。使徒パウロがアテネのアレオパゴスにて居並ぶギリシャの哲学者・知識人を前にキリスト信仰を弁明したことがあります。使徒言行録の17章です。そこでパウロは、万物の創造主、人間一人一人の造り主である神は将来この世を正当に裁くことになると述べました。そういう裁きの日が将来起こることがイエス様の復活によってはっきりしたと言うのです。どういうことかと言うと、人間が天地を創造し自分をも造られた神を知らずに好き勝手にやる時代はもういい加減終わりにしなければならないということをはっきり示したのがイエス様の復活であった。死んだ者を新しく復活させる神は、心を改める者に同じように復活に与らせて下さるが、改めない者はこの世から死んだ後、復活に与れず滅びに落ちてしまう。そういう審判の日が来るのであると。

 

これを聞いたギリシャの知識人たちは、死者の復活など馬鹿々々しいと取り合いませんでした。ところが、この後で何人かの人たちがパウロを訪ねてきたのです。彼らに何が起こったのでしょうか?彼らの心が多くの神々や霊々にではなく唯一の万物の創造主に向けられるようになったのです。創造主の神に心が向くと、神が人間に対して造り主である自分に立ち返りなさいと呼びかけていることがわかります。そこでその神と自分の関係を考えると、自分には神の神聖さにそぐわない汚れがあることに気づきます。その時、神のひとり子イエス様が十字架で死なれたのは自分の汚れを引き取って下さったことで、そのおかげで自分は神の目に相応しいものになれるということがわかったのです。イエス様が私の救い主である限り、私は創造主の神と結びつきを持って生きられる、この世においても、次に到来する世においても。そういうことが彼らの心の中に起こったのでした。

 

 このように非ユダヤ人に対しては、天地創造の神、自分自身の造り主がおられることがわかり、次にその神と自分自身の関係がどうなっているかを考えることが出発点になりました。神との関係が問題ないものになるように、そのひとり子のイエス様が十字架で自分を犠牲にされた、だから彼を救い主と信じて洗礼を受ければ神との結びつきの中で生きられることになります。今のこの世でも、次に到来する世でも、です。このようにイエス様を救い主と信じている時は既に彼の復活を心で信じています。この非ユダヤ人の事例は私たち日本人にも当てはまるのではないかと思います。 

 

3.たとえ目には見えなくとも神との平和があるというのが信仰

 

イエス様が弟子たちにあるようにと言った「平和」についてみてみます。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、この「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉です。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使われたでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉はヘブライ語のシャーロームשלומという言葉です。シャーロームという言葉はとても幅広い意味を持っていて、国と国が戦争をしないという意味の平和もありますが、その他に、繁栄とか、成功とか、健康とかいうように人間個人にとって望ましい、何か理想な状態を意味しています。イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。

 

どういう意味かわかるために、イエス様が十字架に掛けられる前日に弟子たちに言われた次の言葉を見てみます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ1427節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違っているでしょうか?

 

イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。「ローマの信徒への手紙」51節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和なのです。つまり、イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげでなくなったという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで神と一体になれるという平和です。イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は平和がない敵対関係だったということは「コロサイの信徒への手紙」12122節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間が、イエス様の犠牲によって和解できる道が開かれ、イエス様を救い主と持つことで神のみ前に立たされても問題ない者とされたということです。

 

こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが回復した者は神と一体になっていて神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に向かう道に置かれその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康などこの世的な目に見える平和シャロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、万物の造り主である神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係は変更なく保たれています。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与って罪からの贖いを強めていけば、そして御言葉の説き明かしを通して信仰を研ぎ澄ませていけば、神の目から見て神と一体であることは何ら変わらず、結びつきも平和な関係もしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世から別れる時、この世の人生の時に神との結びつきと平和な関係をこのように鍛え上げていれば行く先を安心して神に任せることが出来ます。復活の日に目覚めさせられて主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さいます。

 

それなので、主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちはイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、この復活の希望はいつも心の中で研ぎ澄まされた状態にあり、それで私たちの魂は復活の日に障害物なく直結しています。パウロが目で見なくても希望している状態でもう救われているというのは真理です!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン