2021年5月31日月曜日

三位一体の神と新たに生まれること (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年5月30日 スオミ教会

 

イザヤ書6章1-8節

ローマの信徒への手紙8章12-17節

ヨハネによる福音書3章1-17節

 

説教題 三位一体の神と新たに生まれること


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

 

そうは言っても、三位一体はわかりにくいことです。三つあるけれども三つあると言わないで一つだという。いち足す、いち足す、いちは三ではなくて一であると。どのようにしてそんなことが可能なのかと考えると、もう無理です。しかし、キリスト信仰者はこういうものなんだと受け入れている。どうして受け入れられるかと言うと、三つがどういうふうにして一つになるのかということはあまり考えません。むしろ、なぜ三つが一つなのかということを考えるからです。そして、なぜそうなのかということの答えを聖書から見つけているからです。どんな答えかと言うと、神がそういう三位一体であるというのは私たちに愛と恵みを注ぐためにそうなのだということです。三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体でなければならないということです。本日の説教を通してそのことがわかるようにしていきましょう。

 

2.神聖と非神聖の断絶

 

 まず最初に思い起こさなければならないことは、天地創造の神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。神に造られた最初の人間が神の意思に背くような性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで死ぬ存在になってしまったのです。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で述べるように、死ぬということは人間誰でも罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には神の意思に背く罪が脈々と続いているというのが聖書の観点です。このように人間が罪を持つ存在であるとわかると、神は全く正反対の神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

 

 罪を持つ人間にとって神の神聖さとはどんなものであるか、それについて本日の旧約の日課イザヤ6章の個所はよく表しています。預言者イザヤはエルサレムの神殿で肉眼で神を見てしまいました。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

 

 イザヤは自分の罪と自分が属している民族の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤが大やけどを負わなかったというのは罪から清められたことを示しています。罪から清められたイザヤは神と面と向かって話ができるようになります。モーセの場合はそのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されました。しかし、彼が山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間には危険なものなのです。

 

 このように神と人間との間には神聖と非神聖の果てしない溝が出来てしまいました。しかし、その神が溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされたのです。その救いの手がイエス様でした。そのことをイエス様は本日の福音書の日課の中でニコデモに教えます。そこでは「新たに生まれる」ということがポイントになっています。神聖な神との結びつきを回復してこの世を歩め、この世を去った後は神の御許に永遠に迎え入れられるようにする、これが「新たに生まれる」ことです。それはどのようにして起こるのか、それを次に見てみましょう。

 

3.悩めるファリサイ派のニコデモ

 

 まずニコデモについて少し述べておきましょう。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。彼らは旧約聖書に記されたモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に守ることを主張し、それを実践していました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

 

 イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な行為に留まるものではない。内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければなりませんでした。つまり、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ522節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになるとイエス様は教えたのです(同528節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。

 

 全人的に神の意思に沿っているかどうかが基準になると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 

 ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このようなやり方で神の前の清さは保証されるのだろうか、そもそもそういうやり方で天地創造の神の目に適う者になれるのだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するファリサイ派だったと言えます。32節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様と向き合うといつも議論の応酬でしたので、夜こっそり一人で出かけるというのは意味深です。案の定、ニコデモはイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。

(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ75052節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、アリマタヤのヨセフと一緒にローマ帝国総督のピラトの許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(193942節))。

 

4.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

 

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである「新たに生まれる」ということについて見ていきます。ところで、「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。例えば、貧乏な人が今度生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことに悔しい人が生まれ変わったら有名になりたいとか、そういうことを言うことがあると思います。また、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃんかおばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現する言葉と言うことができます。時として、自分は前世では別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。ただ、輪廻転生の考えでは生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなってしまいます。

 

 聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられて運が良ければ朽ちない復活の体を着せられて永遠バージョンの命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。

 

 そうすると、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」というのはどういうことでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないということです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。さすがイエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモ(10節)です。ファリサイ派とは言え、聖書をそれなりに学んでいるので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれて出てきてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われて、年とった自分が母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。

 

ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。どんな誕生なのかと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(56節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて、そこで神からの霊、聖霊を注がれることを意味します。

 

人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのですが、それは単なる肉の塊です。その肉の塊は、創世記26節やエゼキエル書37910節で言われるように、神から霊を吹き込まれて生きものとして動き始めます。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神自身の霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊を注がれることで霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。

 

5.肉的な存在から霊的な存在へ

 

 それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるるかもしれませんが、そうではありません。ここで言っている「霊」は先ほどから言っている神の霊、聖霊のことです。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

 

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

 

 風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、その生まれが風の動きのように起こるだとか、そのようなことはどのようにして起こり得るのか?彼の問い方には、途方に暮れた様子がうかがえます。

 

 これに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞かない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。イエス様は核心部分に入ります。

 

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」

 

 つまり自分が「水と霊による新たな生まれ」を起こすのである、と。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。ここでイエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。

 

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」

 

 これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、これは何のことでしょうか?

 

 イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。先ほど申し上げたように、人間の、神の意思に背こうとする罪のゆえに神との間に果てしない溝が出来てしまいました。しかし、神は人間が自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげようと、そしてこの世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それで溝を超えて私たち人間に救いの手を伸ばされました。その救いの手がイエス様でした。神はこのひとり子をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせました。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出しました。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受けると、この償いと赦しの状況に入れることになります。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きることになり、この世を去った後は永遠に造り主のもとに迎え入れられることになります。このように神との結びつきを持って生きる者は、永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して進むことになります。まさにイエス様が言われたこと、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。

 

6.キリスト信仰者の霊的な戦いと聖霊の支援

 

 しかしながら、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのためキリスト信仰者の内に駐留する聖霊が、神さまの御心はこうですよ、と聖書の御言葉で示してくれているのに、それに背を向けて考えを持ってしまったり、果ては行ってしまうことすらあります。もっとひどい場合には御言葉自体を曲解したりぼやかしたりしてしまうこともします。このように人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。

 

 この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。使徒パウロも認めているように、「他人のものを自分のものにしたいと思ってはいけない」と十戒の中で命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐそう思ってしまう自分に、つまり神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ沿えないのなら、そんな鬱陶しい神の意思なんか捨てて生きていけばいいじゃないか、などと言ってしまったら、イエス様の犠牲を踏みにじることになります。しかし、心の奥底から完全に沿えるようにしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。

 

ここで大事なことは、自分の真実の姿にいい加減いやになった時は、いつも必ず心の目をゴルゴタの十字架に向けるのです。目をそこに向けさせてくれるのは聖霊です。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神のひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげと、お前があの方を真の救い主と信じた信仰のゆえに、神はお前を赦して下さったのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。救いに関してお前は先回りされたので、あとは何も考えずにその後を追いかけるだけでよいのだ。あの夜、イエス様がニコデモに言っていたことを思い出しなさい。

 

モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、人の子も高く掲げられなければならない。彼を信じる者が永遠の命を得るために。

神はそういう仕方でこの世に愛を示された。それで人の子を贈られたのだ。彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るために(ヨハネ31416節)。 

 

 こうして聖霊の働きで再び心の目を開けてもらった信仰者は、神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思にすっぽり包まれているので、また先まわりされたことの後追いが始まります。

 

キリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきますが、こうすることで自分の内に宿る罪を圧し潰していきます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ813節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。一度に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。

 

7.おわりに ― 素晴らしき三位一体

 

 このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪を宿すようになってしまったために、神は今度はひとり子を犠牲にして私たち人間を罪と死の支配から解放して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中で生きられることになりましたが、人生の中でいろんなことがあってそのことを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から指導や支援を受けられるようになりました。

 

ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえますが、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配から解放されて永遠の命まで生きられるようになるという、造られた目的を達成するということです。このように三位一体は私たちにあるべき姿を示し、そうなれるようにする力そのものです。本当に三位一体はすごいです!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2021年5月26日水曜日

「イエス様は子供たちを祝福された」(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

洗礼式説教 2021年5月23日スオミ教会

 

マルコによる福音書10章13-16節

 

説教題 「イエス様は子供たちを祝福された」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. これからIくんの洗礼式を執行するにあたって御言葉の説き明かしをいたします。Iくんはまだ生後5か月の赤ちゃんです。皆さんもご存じのように赤ちゃんや子供に洗礼を授けることはルター派教会では当たり前のことですが、教派によっては認めないところもあります。その理由として、洗礼は教義を理解して信仰告白をしてから授けるべきとの考え方があるからです。そうすると、教義を理解もしていない信仰告白もしていない子供やましてや赤ちゃんに洗礼を授けるのは意味のないことでしょうか?

 

 この疑問に対して、実は今読みました福音書の個所でイエス様が答えを用意しています。イエス様が述べたことは、洗礼を受けるのに子供でも赤ちゃんでも問題はない、むしろ大人よりも赤ちゃんの方が相応しいということさえ示唆しているのです。このことがわかるために、この出来事中の次の3つの点に注目しましょう。まず、子供たちはイエス様のもとに連れて来られたということ。きっと親たちが連れて行ったのでしょう。イエス様が抱きかかえたということは本当に赤ちゃんもいたのでしょう。第二の注目点は、親たちが連れて行った目的はイエス様が子供たちに触れるためであったということです。イエス様は結果的に子供たちに手をかざして祝福を与えますが、親たちは祝福を考えておらず、ただイエス様が触れてくれればいいという考えで子供たちを連れて行ったのです。第三の注目点は、もうおわかりの通り、イエス様は触れるどころか祝福を与えたのでした。以上の三点に注意すると、洗礼は子供でも赤ちゃんでも授けるのは問題ないということが分かります。

 

2. 親たちが子供をイエス様のもとに連れて行ったのは触れてもらうためだったということですが、なぜ触れてもらうのがそんなに大事だったのでしょうか?福音書の他の個所にもあるように、イエス様や彼が纏っている衣に触れて病気が治ったという奇跡の出来事がありました。それで、イエス様に触れてもらったら病気の子供が癒されるとか何か御利益を期待したのでしょう。

 

 どうして親たちは祝福ではなくて触れてもらうことをお願いしたのでしょうか?祝福は何か飾りみたいで、触れてもらうことで得られる御利益の方が意味があるということでしょうか?その逆です。祝福は飾りどころかとても大きな意味のあることでした。それで子供なんかに簡単にお願い出来るものではなかったのです。祝福は畏れ多いので、せめて触れて下されば十分ですということだったのです。

 

 祝福がそんなに大きな意味のあることというのは、人によっては奇異な感じを受けるかもしれません。それは、恐らく日本語の「祝福」という漢字言葉のせいだと思います。日本語で例えば、結婚式でみんなで新郎新婦を祝福した、などと言います。つまり、祝福はお祝いの気持ちを表すことと同じなのです。ところが聖書の「祝福」は全く違います。それは、天地創造の神の良い意思が働くことを意味します。例えば、キリスト信仰者は食前の祈りでこれから頂く食べ物を祝福して下さいと神に祈ります。それは食べ物をお祝いすることではなく、食べ物を通して神の良い意思が働くことをお願いすることです。エサウは父ヤコブから受け継ぐことになっていた神の祝福を弟ヤコブに奪われ、復讐心に燃え上がりました。エサウが失ったのはお祝いではなく、後継ぎに与えられる神の良い意思でした。

 

 このように聖書では祝福とは神が人間に与えるものです。お祝いの気持ちで理解したら人間が与えるものになってしまい、神が与えるという重大性が見えなくなります。キリスト教会の礼拝の終わりで牧師ないしは教会が特別に認めた信徒が会衆に向かって祝福をします。これは人間が祝福を与えているのではなく、神の祝福を取り次いでいるのです。

 

 このように祝福とはとても重大なことでした。それで親たちは万物の創造主の神の良い意思が子供に働けばいいと、実質は祝福を願いつつも、それは畏れ多いことなので触って下さるだけで結構ですと言って連れて行ったのです。ところが、イエス様は触れるだけでなく、文字通り祝福を与えたのです。

 

3. この時イエス様は、子供にも大人同様に祝福を与えてもよいのだということを行動をもって示しました。自分はもうすぐ十字架の受難と死からの復活を遂げることでこの世に大いなる祝福をもたらすが、それは子供にも大人にも等しく与えられるものであるということを暗示したのです。

 

 イエス様が十字架の受難と死からの復活でもたらした祝福とは何だったでしょうか?それは、人間が内に持ってしまっている罪を人間に代わって神に対して償って下さり、それで人間が神から罰を受けないで済むようにして下さったということです。さらに、神の力で復活させられたことで死を超えた永遠の命に至る道を人間に開いて下さったということです。この罪の赦しと永遠の命の可能性がこの世の全ての人間に開かれたのです。宗教改革のルターが言うように、この世の全ての人間に対してこの真の救いが提供されているという意味でこの世は祝福されています。しかし、ルターが同時に指摘するように、全ての人間がこの神が提供するものを受け取ってはいないのです。せっかく神が準備できたのでどうぞ受け取って下さいと提供して下さっている、それでもう十分な祝福なのに、多くの人たちはそれに背を向けて受け取っていないのです。このようにルターは、救いが準備されたということとそれを受け取って自分のものにすることは別物であるとはっきり言います。

 

4. 天地創造の神がひとり子を用いて人間の救いを総仕上げしてくれて、それを今度は人間にどうぞと提供して下さっている。それを受け取るのが洗礼ということになります。大人の場合、洗礼とはそういう救いを受け取ることであるとわかって受けなければなりません。受け取る救いは何であるかをわかるために、例えば、万物の創造主の神は人間に対してどうあれと言っているかとか、その神から見て人間はどう見えているかとか、神と自分自身の関係はどうなっているかということを意識しなければわかりません。そうすると、意識などしていない小さな子供は救いを受け取れるのかという疑問に戻ります。

 

 それに対してイエス様は受け取れることを態度と言葉で示したのです。子供たちは親に連れて来られました。大人のように自分の足で行ったのではありません。赤ちゃんは運ばれて。ちょうど今、Iくんが聖卓の前に連れて来られたようにです。連れて来られた子供たちを弟子たちは追い返そうとしましたが、イエス様はそれを諫めて受け入れました。そして言いました。「子供のように神の国を受け取らない者はそこに入れない」と。子供が神の国を受け取る仕方は、イエス様が子供たちに祝福を与えたのと同じことです。つまり、ただただ自分を受け入れてくれる方のところに連れて行ってもらって、そこで与えられるものを素直に受け取るという仕方です。大人の場合は、これだけ理解した、これだけ良いことをした、だから受け取れる、あるいはまだ不足で受け取れない、ということが入り込み、救いの受け取りがなんだか取り引きのようになる危険があります。神はそれを望んでいません。大人も学ぶ時は、神がイエス様を用いて総仕上げした救いがどれほど大きなものか圧倒されて理解も能力も何もなしえないことがわかるくらいになれば、子供のように受け取ることができるでしょう。でも、普通はそこまでいくでしょうか?

 

仮にそこまで行かなくとも、洗礼を受けて救いを受け取ったら、あとは子供のように受け取ることを目指すことになるでしょう。つまり救いは自分の理解力や能力では何もなしえない、ただただイエス様が成し遂げたことが全てで、そこに現れた神の愛と恵みと憐みに自分を委ねるしかないというふうに自分を変えていく、あるいは神に変えられていくということでしょう。

 

子供の時に洗礼を受けて救いを既に受け取っている人の場合は、その人の親が、あなたはこういうものを神さまから頂いたのですよ、と気づかせてくれることが必要です。一緒にお祈りしたり、会話の中にイエス様や神さまのことを出したりして、生活の中に救いの香りが漂うようにします。そうすることで子供も自分には神さまからの頂きものがあるとわかるようになります。ある程度の年齢になったら、頂き物を言葉で言い表して整理して確認し、この確認したものをもってこれからの人生も生きますと誓うことが必要です。それが堅信礼です。多くの欧米語ではコンファメーションといい、まさに確認です。フィンランドでは中学2年がその年と定められています。もちろん、違う年でも構いません。そういうわけで、Iくんのご両親と教保におかれては、教会にはそういう確認のための学びの機会があることを覚えて頂き、その時までは生活の中にイエス様の福音が響くように、また香るようにお努め下さるよう、お願い申し上げます。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2021年5月24日月曜日

聖霊が希望を強めてくれる (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2023年5月23日 聖霊降臨祭 スオミ教会

 

使徒言行録2章1-21節

ローマの信徒への手紙8章22-27節

ヨハネによる福音書15章26-27節、16章4b-15節

 

説教題 聖霊が希望を強めてくれる

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時、イエス様が約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰を持てて救われた者としてこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 

 本日の説教は三つのテーマについてお話しようと思います。最初に聖霊降臨の出来事について本日の日課の個所をもとに少し詳しく見てみます。二番目のテーマは聖霊とは何者かということについて、特にイエス様が本日の福音書の日課の中で聖霊を「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいて、どうしてそうなのかということを見てみます。毎年教えていることのおさらいです。最後は、本日の使徒書の日課ローマ8章でパウロが聖霊はキリスト信仰者の希望を強めてくれる働きをすると教えていますので、それについて見てみます。

 

2.聖霊降臨の出来事

 

 聖霊降臨とは、先ほど朗読して頂いた通り、イエス様の弟子たちが聖霊降臨を受けて群衆の目の前で、群衆のそれぞれの母国語で話を始めたという出来事です。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは留学もせず英会話学校にも行かず突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(24節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?群衆の驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(211節)」。

 

 弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったのでしょうか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのはバビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。さらに考えられるのは、神が私たち人間を含めた万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。

 

 ところが弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが自分たちの目で直に目撃して、その証言者となったイエス様のことでした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうしてユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。

 

 そこでペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象を説明します。群衆の中には新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れなことを言う人もいました。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと的外れな意見に真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?

 

 ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(21421節)では、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の実現であると言います。後半部分では、イエス様の出来事そのものについて説き明かしをします(22240節)。この後半部分が群衆の神への立ち返りをもたらす決定打になっていますが、本日の日課から外れるので、そこには今日は立ち入らず後日に譲り、今日は前半部分だけを見ます。

 

 ペトロはまず、この不思議な現象はヨエル書315節の預言の成就であると説き明かしします。分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまって彼らは異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出しました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったとわかったのです。

 

 ところでペテロは、ヨエル書の箇所を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と述べます。「終わりの時に」とはギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヘブライ語原文のヨエル書では「終わりの日々」とは言っておらず、「その後に」と言っています。これはペトロが引用で改ざんしたのではなく、ギリシャ語訳の旧約聖書が「終わりの日々に」と訳していることに倣ったのです。訳した人たちは終末論の観点でヘブライ語の意味を確定したわけです。ペトロはそれに倣ったのでした。

 

それでは「終わりの日々」とはどんな日々かと言うと、イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になるというのです。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が新しく創造され直すという天地大変動の時で、それはまた唯一残る神の国が現れて、誰がそこに迎え入れられるかという最後の審判が行われる時でもあります。イエス様の再臨を待つ日々は「終わりに向かう日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちましたが仮に3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われていますが、これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。バビロン捕囚の後の時代には終末論的に理解されるようになります。イエス様の十字架と復活の出来事の後は彼の再臨の日を意味するようになります。

 

21節を見ると、そういう天地の大変動の時に無事に神の国に移行できるのは、創造主の神の名により頼む者たちであると言われています。ペトロの大説教の後半は、群衆にそのような者になりなさいと導く内容です。 

 

こうして聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

 

3.弁護者、真理の霊

 

 それでは、聖霊とは一体何者でしょうか?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。

 

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて話します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で孤児のようになることはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、本日の福音書の箇所でも言われるように、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊とは、何が真理でそれをどうしようと言うのか?これらのことは以前の説教でも何度かお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。

 

 聖霊が「弁護者」ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのです。では何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟の光に照らされて、外面的にも内面的にも神の意思に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前に進み出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はどうしようもない罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神の間を引き裂くことです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向け神のもとから立ち去ったりすれば、それはもう悪魔にとって万々歳なことになります。

 

 人を落胆させたり神のもとから立ち去らせるものには罪の他にもあります。私たちがこの世で遭遇する不幸や苦難です。神は私の至らなさに不満でそれでこんな目に遭わせているんだ、と自分に原因を見て絶望してしまったり、または、私の何が悪くてこんな仕打ちを!と神に原因を見て失望してしまったりします。このような絶望、失望に陥ることも悪魔の目指すところです。

 

私たちがどんな状況にあっても神の愛を信じられるように、しっかり神のもとにとどまることが出来るように助けてくれるのが聖霊です。聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように言って弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それが自分の罪に対してもそうであるとわかって、それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いているのです。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向いて次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と。キリスト信仰者は神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦してくれるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上はこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

 

 不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と天地創造の神との結びつきは失われていないのだとわかります。神との結びつきがあるということは神にしっかり守られていることだとわかります。あの方は十字架の上で犠牲になられたが、神の想像を絶する力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足下に踏み潰しておられる。そのような方と私は洗礼によって結び付けられている。そういうふうにわかると不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは不幸や苦難は神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていたのが、今度は逆に、存在しかつ見捨てない神と一緒にくぐり抜けるための一つのプロセスに変わります。真に詩篇234節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。嵐吹き荒れる時でも一緒に歩んで下さる神に心が向くようになります。その時、不幸や苦難はもはや自分を打ちのめそうとする嵐ではなくなり、ただの耳障りな強風、煩わしい雨水にしかすぎなくなります。全身ずぶ濡れにはなりますが、家に帰れば湯船につかって服を取り換えてさっぱりできるんだ、というような気持ちで歩めるようになります。フィンランド人だったらサウナでしょう。

 

次に聖霊が「真理の霊」とはどういうことか?2週間前の説教でもお教えしましたが、キリスト信仰の観点では人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ないということです。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の現在イスラエル国がある地域でナザレ出身のイエスは旧約聖書とその神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史上の人物理解に留まります。

 

 ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言を通して明らかになります。では、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪の償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの世の次に到来する世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。そうした旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊はこの真理を私たちの心に示す働きをするのです。

 

人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、この真理を示されたことに気づいたからです。人生のいろんな経験を通して神はこの気づきへと導かれます。気づかせた聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間をその働きの下に服させるようにするのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、聖霊の働きの下にすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないとか、また、救い主は沢山あってイエスは単なるそのうちの一人にすぎないとか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは何の意味もなさなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持って生きることができるので、霊的に安全地帯にいることになります。

 

(以下は説教の時に長くなるので省略しました。「ところで、先ほど見たような習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。聖霊降臨の出来事はまさにその力が与えられた出来事でした。このような特別な力は「恵みの賜物」とか「聖霊の賜物」と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマと言います。こうした賜物は教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰にどの賜物を与えるか決めて与えます。それゆえ、何か賜物を与えられても、与えてくれた方は取り上げることも出来る方だとわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いることが求められています。キリスト教の教派によっては、聖霊の賜物を追求することを強調する派もあるのですが、ルター派はどちらかと言うとその点はおとなしい方かもしれません。なぜそうなのかはいろいろ理由が考えられますが、一つには、聖霊のことをここで申し上げた「弁護者」、「真理の霊」として捉えていることが大きいのではないかと思われます。」)

 

4.聖霊が希望を強めてくれる

 

最後に聖霊がキリスト信仰者の希望を強めてくれることを本日の使徒書の日課のパウロの教えから見てみましょう。まず背景としてローマ6章から7章にかけてパウロが教えていたことを駆け足で見てみます。

 

人は洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると、罪に対しては死んで神に対して生きるようになると言います。罪に対して死ぬと言うのは、罪が洗礼を受けた人を支配しようとしても出来ないくらいにその人は死んでしまっているということです。だから、洗礼を受けた人は罪に服従することはなくなって、代わりに神に服従するようになるのです。しかしながら、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたとは言っても、私たちは実際はまだ死んで葬られていないし、ましてや復活して復活の体も纏っていません。私たちはまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具になってしまっています。さらに、十戒の掟が神の意志に反することは罪であるとはっきり言い、私たちの真実の姿を晒す鏡のように立ちはだかります。キリスト信仰者は十戒の掟を通して神の意志が何であるかわかっているのですが、その通りに行えない、語れない、思考できない自分というものを、まさに十戒を通して気づかされてしまうのです。そうなると私たちは、洗礼を受けるとますます神から遠ざかってしまうのでしょうか?

 

いいえ、そういうことではないのです。パウロは7章の最後で、キリスト信仰者は意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。しかし、洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはないと断言するのです。81節です。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。もちろん肉の面でも従えれば言うことなしですが、それは復活の日に神の栄光に輝く復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉の体に打ち込まれているのです。

 

意識や理解の面で神に従うということに続いて、パウロは、キリスト信仰者に洗礼の時に注がれた聖霊が宿っている限り、信仰者は間違いなく復活に向かって進んでいると言います。811節です。神はキリスト信仰者に宿る聖霊を通して信仰者の朽ち果て滅びる肉の体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのです。

 

意識や理解の面で神の命じることがわかっていて、聖霊が宿っていれば、大丈夫、信仰者は復活に向かって進んでいます。そこでもう一つキリスト信仰者を大丈夫にするものについて言われます。それが824節で言われる「希望」です。パウロがここで言う希望の内容は23節にあるように、肉の体から解き放たれることです。将来、死者の復活が起きる日に朽ち果てる肉の体に替わって神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる、これが希望の内容です。その体は今のこの世の段階ではまだ目にすることは出来ません。希望するだけです。パウロが言うように、それを目にしたらもう希望することはないのです。目に見ていないから希望するのです。

 

そういうわけで「希望によって救われた」というのは、復活の体をまだ目にしていない段階で、それを希望している段階で救われた状態つまり神の国に足を踏み入れたということです。復活の体を着せてもらえるという希望を持てていること自体が、今この世で間違いなく神との結びつきを持って復活の体の国に向かって進んでいることになっている。一旦足を踏み入れてしまったら、もう抜け出せないと言えるくらいに神の国に向かって進んでいるということです。ところが、そう言われて感激したのも束の間、すぐ聖霊と肉、神の意思と罪の意思の狭間に置かれて苦しい思いをする現実に戻ってしまい希望が萎えてしまいます。

 

しかし、聖霊が萎えさせないのです!どうしてか?26節でパウロは言います。聖霊は私たちが弱いから助けてくれるのだ。どのようにしてか?私たちのつたない祈りを神に取り次いでくれることによって!私たちは罪の自覚の時、苦難困難の時、もちろん神に祈ります。時として、この言葉で祈り足りているのか、この言い方で聞き入られるのか、不安になります。実は私たちが祈る時、私たちに駐留する聖霊が私たちの祈りを全て神の耳に入るように祈り直して神に伝達してくれるのです。言い足りなかったことは補い、言い間違えたことは訂正して。それは人間の言葉になっていないただの吐く息のようなものかもしれないが、聖霊が取り次ぐ祈りは神の意思に沿うものになっている。だから神は私たちにどんな解決、どんな時間表がいいかちゃんと考えて下さる。このように洗礼を受けて聖霊を注がれたら最後、自分から背を向けて振り払わない限り、神との結びつきは切ろうにも切れない、希望は弱まろうとしてもそれは決して失われないものになっているのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2021年5月17日月曜日

キリストの体の部分でいれば大丈夫 (吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年5月16日 昇天主日

 

使徒言行録1章1-11節

エフェソの信徒への手紙1章15-23節

ルカによる福音書24章44-53節

 

説教題 「キリストの体の部分でいれば大丈夫」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。近年、国民の教会離れ聖書離れが急速に進んでいるフィンランドですが、それでもカレンダーを教会の伝統に合わせることがまだ残っているのは驚きです。今日は昇天日の直近の主日で、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 

さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。昨年と一昨年はエフェソ1章の聖句と結びつけて説き明かしをしました。一昨年はエフェソ1章の特に19節から21節に注目しました。そこでは、一度死んだ人間を復活させて復活の体を纏わせるということと、その者を創造主の神の御許に引き上げるということ、このことがまずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要であるということが言われています。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違うものを用いています(δυναμις,κρατοςισχυς)。私たちの新共同訳聖書では「力」という言葉は2回しか出て来ません。もう一つはどこに消えてしまったのでしょう。エネルギーという言葉も2回あり(ενεργεια2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεωも用いています。このようにパウロはこの神の想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようと頑張っているのに、日本語訳はそれが見えにくくなって残念です。とにかく死者を復活の体を纏わせて復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方だということが言われています。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというわけです。

 

ところがそれだけにとどまりません。ここからが大事なポイントです。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです(19節)。つまり、キリスト信仰者も将来イエス様と同じように神の力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それをこの自分にも及ぼして下さる、そう信じられるかどうかが信仰の大きな鍵になるということを一昨年に申し上げた次第です。

 

昨年はさらにエフェソ1章の終わりの22節と23節に注目しました。教会は「キリストの体」であるとパウロは言います。ここで言われる「教会」は、スオミ教会のような個別の教会ではありません。また複数の教会から構成される教団でも、ルター派とかカトリックというような教派のことでもありません。それは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に至る道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。個々の教会、教団、教派という人的組織を超えた見えない教会です。それが「キリストの体」です。

 

そしてそのキリストはと言えば、今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立って、それらを足蹴にしていると。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実世界にある国の権力だけでなく、見えない霊的な力も全部含みます。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様はそうかもしれないが、信仰者は正直なところいろんな力の足蹴にされている方ではないか?「キリストの体」だなんて、パウロはちょっとはったりを効かせすぎではないか?でもこれはやっぱり本当のことなのです。昨年はこのことを確認しました。今年は、このことを19節から23節全体を見ながら、もっとはっきり出してみたいと思っています。つまり、キリスト信仰者はキリストの体の部分でいるので何があっても本当は大丈夫ということです。

 

2.イエス様の昇天

 

その前にイエス様の昇天の出来事をどう理解したらよいかということを毎年お教えしていますが、それをおさらいしておきます。

 

新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(19節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。それで、イエス様の昇天を同じようなイメージで捉えてしまったら、あまり真面目に受け取られなくなってしまうのではないかと心配します。

 

しかしながら、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。これは、スーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。

 

そうすると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろありました。それを忘れてはなりません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ1462節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。

 

これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。

 

 ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多くありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました(このことについては今年の復活祭の礼拝説教でお話ししましたのでご関心ある方はホームページで過去の説教をご覧下さい)。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物である天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

 

3.天の御国

 

イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されてきました。ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみましょう。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?毎年お教えしていることですが振り返ってみましょう。

 

地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏等々、いろんな圏があって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、先日も野口宇宙飛行士の帰還がニュースになりましたが、そういう宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。

 

どうしてかと言うと、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは信仰というものと全く別世界のことだからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

 

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す人の脳神経の作用という言い方になっていくでしょう。

 

ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに、人間の命と人生は実は、この現実の世界だけでなく創造主の神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がどうしてひとり子を私たちに贈って下さったのかということがわかってきます。それは私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

 

それでは、イエス様を贈ることでどうやって人間がそのような大きな人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神に対して不従順になって罪というものを持つようになってしまって、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る、神の意思に背こうとする性向、罪、それは行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまった。そこで神は、この失われてしまった結びつきを回復するために人間の罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。

 

どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を人間に開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けるとその人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ったことになります。罪を償われた状態に入ることになるので神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の御国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ててその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きる命を持てるようになったのです。

 

4.キリストの体の部分でいるから大丈夫

 

キリスト信仰者は永遠の命と復活の体が待っている神の御国に向かう道を進んでいます。この道を歩む信仰者たちが集まって見えない教会、つまり個別の教会、教団、教派を超えた教会を形作っています。パウロはエフェソ1章で、この見えない教会の頭としてイエス・キリストがあり、教会はその体であると言います。人間は聖書の御言葉の力を及ぼされて洗礼を受けることでその体の部分になれます。そして、体の部分である信仰者は聖餐式のパンとぶどう酒で霊的な栄養を受けながら、また説教を通して御言葉の力を及ぼされて体の部分として成長を遂げていきます。

 

そこで、体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる、目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている自分たちはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実がある。イエス様が人間を罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまないし死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝るイエス様に繋がっている信仰者なのにどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 

それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろうという力が働いているところです。大きな人生なんて無理だよ、と。それで、人間が自分の造り主に心と目を向けられないようにしてやろうとか、そのようにして人間が造り主の神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いています。これらが既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらはイエス様が再臨される日に消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の巨大な力が今度は信仰者たちに働くのです。その結果、イエス・キリストの体は全部が天の御国の中に置かれることになります。聖書のあちこちに預言されているように、その時は新しい天と地が創造されるので、この世自体がなくなってしまうのです。

 

そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実の中で生きていくことになります。一方では全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられるという現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ1633節で次のように言われたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

もちろん、いくら守られているとは言っても、攻めたてられたらそんな気はしません。しかし、私たちが部分として留まっているこの体は神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているのです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。そこで私たちとしては、聖餐式で霊的な栄養を受けながら、説教を通して神の御言葉の力を及ぼされながら、この体に留まって成長していくだけで十分なのです。ただ今は、コロナ禍のために聖餐式は受けられません。辛いところです。それだけに説教者は今の時ほど御言葉の力を一層引き出すために説き明かしに努めなければならない時はないでしょう。スオミ教会はキリストの体の末端に連なる取るに足らない教会かもしれませんが、それでも説教者は御言葉の説き明かしにおいては他の立派な教会の説教者と同じように最善を尽くしているということをどうかお忘れにならないように。

 

 最後に宗教改革のルターが、キリスト信仰者はイエス様の強い守りの中にいるということと、体の部分である者同士が祈り合ってお互いを支え合うことを忘れてはならないと教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。その教えとは、マタイ1127節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」の説き明かしです。

 

「『全てのもの』とは文字通り全てのものである。全てのものが我らの主イエス様の手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。これの例外は何もない。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

 このことからも、イエス様の御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、我らに真の知識と真の光が与えられる。もしイエス様が全てのものを手中に収め、父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自らが述べているように(ヨハネ102829節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ない。確かに悪魔は機会を捉えてはキリスト信仰者をあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬みや憎しみで心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと仕掛けてくるだろう。しかし、悪魔の攻撃を受けてもキリスト信仰者は怯む理由も必要もない。なぜなら、我らには悪魔をも足下に屈服させている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ我らを真にお守り下さる方である。

もちろん、悪魔の攻撃は君をとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも恐ろしいことだ。それだからこそ君は祈らなければならない。君が堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちも君のために祈らなければならない。どんなことがあっても神が君を見捨てることはない。これは揺るがないことである。イエス様は必ず君を苦境から救ってくれよう。そうである以上、君の方から簡単に神の御国から離脱するようなことはあってはならないのだ。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。