2015年2月23日月曜日

悪魔の攻撃、イエス様の勝利、天使の見守り (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2015年2月22日 四旬節第一主日

創世記9章8節-17節
ペテロの第一の手紙3章18-22節
マルコによる福音書1章12-13節

説教題 悪魔の攻撃、イエス様の勝利、天使の見守り


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.       

 キリスト教会の暦は、この間の水曜日から四旬節に入りました。本日はその最初の主日礼拝です。いつも申し上げているところですが、教会の暦というものは、月日や季節の移り変わりを通しても私たちに父なるみ神の愛と恵みを思い起こさせてくれるものです。ですから、教会の暦を覚えながら日々を生き過ごすことは、私たちの信仰生活や教会生活にとってとても大事です。

 本日の福音書の箇所は、イエス様の荒野での試練についてです。この出来事は、マタイ福音書とルカ福音書では詳細に記述されていますが、マルコ福音書ではたったの二節しかありません。荒野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がおらず、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語られたものと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書には詳細に語られたものが伝承されて記載されましたが、マルコ福音書には要約された形のものが伝承されて記載されたと言えます。たった2節だけから説教をしなければならないというのは、少し酷な感じもしますが、しかしよく考えてみると、ルターだったら、仮に1節しかなくても1時間位は説教できたでしょう。しかも、その内容ときたら聖書のことばかりです。これは驚くべきことです。というのは、説教者の中には、自分の思い出話を語ったり、また自分が読んで感銘を受けた本の紹介をして会衆と感動を分かち合うことを通して、上手く時間を埋める方もいらっしゃいます。もちろん、思い出話や読書感想がその日の聖句をしっかり解き明かすものであれば問題はないのですが、私としてはルターを見習って行きたいと思います。

さて、話をもとに戻します。本日のマルコ福音書の記述は要約された形ですが、それでも、マタイ福音書やルカ福音書にはないことが含まれていますので、それを見てみましょう。

 「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日の間、サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒におられ、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合に、いろんな出来事が同時に入り混じっています。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。そこで、マタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を受けてそれを撃退した後に起きるという順番です(マタイ411節)。

そこで、これを踏まえてマルコの記述をわかりやすくすると、次のようになります。「イエスは荒野で40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後、野獣のただ中にいたが、天使たちに仕えられていた。」新共同訳にある「野獣と一緒におられた」というのは、野獣と仲よく暮らしたみたいですが、ここではそうではなく、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたということです。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」とも訳すことができるからです。ちなみに、フィンランド語とスウェーデン語の聖書では「野獣のただ中に」です。ルター版のドイツ語訳は「野獣のところに」、英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。

さてイエス様は、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害は及ばなかったのであります。荒野の野獣というのは、目に見える具体的な危険です。天使というのは、人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔からの誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は何も及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の見守りというのは、ただ単に荒野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指しているとも考えられます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。

マタイ福音書とルカ福音書の記述では、イエス様が悪魔からどんな試練を受け、どうそれに打ち勝ったかということが詳しく記されていますが、その後の野獣の危険と天使の見守りについては何も触れられていません。このことについては、本説教の終わりの方で明らかにしていこうと思います。まずは、イエス様が悪魔からどんな試練を受けて、それにどう打ち勝ったのかということについて、マタイとルカの記述に基づいてみることとします。

2.

 マタイとルカの記述によると、イエス様は、40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続け(特にルカ42節)、最後に三つの誘惑を受けます。そのうちの二つは、「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、「お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に向かって身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神の子です。だから、パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?

それは、もしそうしていれば確かに神の子としての力を見せつけることができたでしょうが、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従うことになってしまうからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ、お前が神の子ならわけないだろ、それとも逃れられないのか、だったらお前は神の子でもなんでもないんだ、というように、苦しみからの逃れと神の子であることの証明を結びつけて自分の意思に従わせようとしたのです。ここまで追い詰められ言われたら普通はやるしかありません。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはならないということを貫きました。たとえそれが空腹と恐怖の中に留まることを意味しようとも。

 三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、先の二つに増して、私たち人間の救いにとってとても重要な意味を持ちました。というのは、イエス様は、この荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりで、その時、神から聖霊を受け、また神の子であるとの認証を神から受けていたのです(マルコ11011節)。もし、その神の子が悪魔にひれ伏してしまったならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともしない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺るぐことなく保たれました。実に際どかったと言えます。

3.

 それでは次に、イエス様はどのようにして悪魔の誘惑に打ち勝ったかをみていきましょう。結論から申しますと、三つの誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのに、イエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。

 まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記83節の言葉をもって誘惑を無力にします。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神のみ言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験するのであります。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく実体のある真実の言葉であります。もし、悪魔が空腹の満たしのような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを自分の言いなりにしようとしたら、私たちはこの申命記の言葉を突き出すことで悪魔に対して次のように反論することができます。「悪魔よ、私の空腹が満たされることも満たされないことも全てはみ神次第である。満たされる時も満たされない時も私の命は神の御言葉を拠りどころとして立つ。だから、悪魔よ、お前は私の空腹の問題解決には何の関係もないのだ。」

次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと誘惑した時、今度は巧妙にも聖書の御言葉を使います。それは詩篇911112節「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのであります。それに対してイエス様は、申命記616節をもって誘惑を無力にします。それは、こういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって、指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。実にシナイ半島の荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満をぶつけ早急に解決を求めました。彼らは、神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに、新たな困難が生じる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、言うことを聞いてくれないなら、もう知らない、エジプトに帰ってやるからと、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記の6章で、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時に、神は40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるのです。

それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?期待した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、また祈りを通して得られた解決が自分の意にそぐわないものでも、それを最上の解決として受け取る、それくらいに神を信頼する、ということです。この申命記616節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への深い信頼を示すものです。実は、このイエス様の神への深い信頼というものは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(23節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。これなどは、“コピペ”(コピー・アンド・ペースト)の先駆けではないでしょうか?しかし、そんなやり方で真理と張り合えるなどと思うのは、愚の骨頂です。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちが本当の真理の上にしっかり踏みとどまれるように、日々の聖書の繙きと学びを怠らないようにしましょう。

さて、三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対して、イエス様は申命記613節の御言葉を突きつけて誘惑を無力にします。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神をまさに天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えた創造主として仰ぐことです。そして、天においても地においても神より力ある者は存在しない、と敬うことです。たとえ、神の力が働いていないように見える時であっても、神の力が目に見えて働く時と同じくらいに、神は変わることなく全てに優る力を持つ方である、と恐れることです。神より力ある者は存在しないということは、神に敵対する者からすれば恐怖以外の何ものでもなく、そのような者は神から逃避しなければなりません。しかし、神との結びつきを持って生きる者からみれば、神以外には何も恐れるものはなく、神は全ての恐れから私たちを守って下さるので、私たちは神のもとにいて大きな安心を得ることができます。つまり、神に結ばれた者にとって神は、恐怖の的とか、逃避する相手ではなく、安心の源、とどまる場所なのであります。

悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持拡大できたとしても、神に敵対していれば、死んだ後は造り主から永遠に引き裂かれてしまい、永遠に止むことのない滅びの世界に投げ込まれます。そこには権力も富も持ち運ぶことはできません。しかし神との結びつきをもって生きる者は、死んだ後はそれこそ手ぶらで永遠に造り主のもとに戻ることができるのです。この世にいる時は安心の源から安心を得、次の世ではその源に戻ることができるのであります。このように神を畏れるということは、神との結びつきをもって今の世と次の世をあわせた一つの大きな人生を歩むということであります。それに比べたら、悪魔がやると言った権力や富はなんと小さなものでしょうか?そんなもののために神との結びつきを捨ててみろなどとは、なんと情けないことを聞くのでしょうか?

4.

 以上のように、イエス様は聖書にある神の御言葉を用いて、悪魔の誘惑を無力にしました。これからもわかるように、神の御言葉をしっかり携えていくことは、悪魔の攻撃を無力化するのにとても大事です。私たちも聖書の御言葉を日々の栄養にして摂取していきましょう。

さて、悪魔はイエス様のもとから退散しましたが、イエス様は今度は野獣のただ中にいて、天使に仕えられて守られた状態に入られました。これは、ユダヤの荒野にいた時の状況を指しているのか、それともその時から十字架の受難の道に入るまでの全ての状況を指しているのか、どっちを指すかということについては、ここでは決着をつけることはしません。どちらをとっても、この「野獣の危険と天使の見守り」というのは、よく見るとこれは、先ほども触れました詩篇91篇で言われていることの実現です。悪魔が愚かなコピペをした1112節に天使の見守りについて言われており、それに続く13節に野獣の危険から守られることが言われています。11節から13節までを引用します。

「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道をどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んでいく。」

悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は、悪魔の魂胆を見抜いたので、天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。もしお前たちが来たら、私が助かった瞬間に私は悪魔に従ったことになってしまう。」そして、イエス様は、見事に一人で悪魔に打ち勝ちました。悪魔が退散した後で、野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちに来るのを許して仕えさせたのであります。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。

ところが、十字架の受難が始まると、イエス様は守りが全くない状態に陥ってしまいました。イエス様が逮捕される時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ265354節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?それは彼自身が言った通り、聖書の言葉が実現するためでした。それでは、聖書の言葉が実現するとはどういうことかと言うと、それは、父なるみ神が計画した人間救済計画を実現することです。神が計画した人間救済計画とは何か?それは、罪と神への不従順がもたらす永遠の死の滅びから人間を救い出すことです。この救いを実現するために、神のひとり子が私たちの身代わりとなって罪と不従順の罰を請け負い、十字架の上で死なれたのです。もしイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのであります。ちょうど本日の福音書の出来事のように、本当は回避出来るけれども、悪魔の言いなりにならないために、あえて空腹と恐怖を選んだのと同じなのであります。

5.

それでは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者の場合はどうでしょうか?神との結びつきがありますから、詩篇91篇に言われているように神に守られていると言えるでしょうか?例えば、ライオンと毒蛇を踏みつけて何事もなくて済むでしょうか?ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、自分がどれだけ神に守られているかを周囲にみせて驚かせてやろう、とか、「神様、あなたは私を助けてくれて当然でしょ」という気持ちでライオンと毒蛇を踏みつけたら、まずは助からないということです。なぜなら、それは文字通り神を試すことになるからです。

反対に、神を試すことをせず、周囲に見せつける意図も持たず、またどんな状況にあっても神は信頼するに値する方と信じて疑わない時、神は私たちの心からの助けの叫びを聞いて下さいます。ここでもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、ライオンや毒蛇を誤って踏んでしまい、心から助けを求める時、奇跡が起こって助かる場合もありますが、奇跡が起きず助からない場合もあるということです。助からない場合があるとは、神は助ける力がなかったということでしょうか?

いいえ、そうではありません。そのことがわかるために、ここで、ダニエルと二人の友人が火の燃え盛る炉に投げ込まれる直前にバビロン帝国のネブカドネツァル王に対して言った言葉をみてみると良いでしょう。王は三人に対して自分の神々を拝むよう強要し、それを拒否されたために三人を炉に投げ込むことを決定しました。

「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救って下さいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」(ダニエル31718節)。

ここで明らかなことは、ダニエルたちは、神は基本的には彼らを救う力を持っていると固く信じていることです。その時、「そうでなくとも」というのは、ひょっとしたら救ってくれない場合もあるかもしれない。しかし、それは神に力がないからでなく、神はなんらかの意図があって救わないということである。反対に神が救う場合も同じで、神はなんらかの目的をもって救う。それなので、救われた者は、これからは神について周囲の人々に証ししていかなければならなくなるでしょう。翻って救われなかった者については、神は、よくそこまで頑張った、もう十分だ、お前の労苦は必ず報いて労ってやろう、またお前が被った損害は百倍以上にして回復してやろう、今はただ、それが起きる復活の日まではゆっくり休んでいなさい、ということで、神はその人を一足早くこの世から導き出した、ということです。いずれにしても、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを持って生きる者は、どっちに転んでも、神に見守られ天使の護衛をつけてもらっていることに何の変更もないのです。それで何があっても、神から見捨てられたなどと不安になったり心配になったりする理由も必要もないのです。

最後に、私たちを見守る父なるみ神は、私たちに天使の護衛をつけてくれているということを、ルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めにしたいと思います。あるフィンランド人の宣教師が私に言っていたのですが、彼女が日本のあるルター派教会で天使について話しをしたところ、クスクス笑われてしまったそうです。へぇー、フィンランドのクリスチャンって、天使なんか信じているんですか、と。以下は私の言葉ではないので、私に笑わないで下さい。

「ヘブライ人への手紙114節」の御言葉「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」についてのルターの解き明し

「もちろん、神は、天使の仕えなしでも、我々を悪魔やその他のあらゆる苦難から直接守ることができる。しかし、神はそうせずに、被造物である天使をもって別の被造物である人間に仕えさせることに決められたのである。それゆえ我々としては、神は天使を通して我々を守り助けて下さるということを知るようにしよう。そして、そのような仕方で助けて下さる神に感謝しよう。神という方は、私たちが助けを必要としている時、どのような仕方であれ、助ける決意でいらっしゃるまさに命の神なのだから。

 しかしながら、もし我々が神の御言葉を心に留めず、神の父親的な見守りに感謝をしなければ、神は天使を自分のもとに留めてしまい、かわりに悪魔を送って悪に染まった我々が神の言うことを聞くようにと再教育するであろう。その時の惨めな状態といったらないであろう。我々が覚えていなければならないことは、神は悪魔の怒り狂う攻撃から我々を守り、我々に仕えるために愛すべき天使を造られたということである。この神の御心は、我々を勇気づけてくれる。天使は、親切で寛大で善意溢れる霊であり、悪魔の攻撃を撃退する時には、いつも我々のために身を投げ出してくれる。もう一つ忘れてはならないのは、神は一人のキリスト信仰者を守るために一人の天使を送るのではなく、大勢の天使を送って下さるということである。そういうわけで我々は、無信仰者のように何か守りがあった時はすぐ全ては偶然の産物だったなどと納得する生き方をしてはならない。例えば、誰かがあやうく溺れかかったところを助かったとか、大きな石が当たってもけがをしないですんだとか、そういうことが起こった時、運がよかったなどと言ってはならない。それは、愛すべき天使の仕業なのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2015年2月19日木曜日

雪よりも白く (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2015年2月15日 変容主日

列王記下2章1節-1節a
コリントの信徒への第二の手紙3章12-18節
マルコによる福音書9章2-9節

説教題 雪よりも白く


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.       

 本日は、教会の暦では1月に始まった顕現節が終わり、来週からイースター/復活祭へと向かう四旬節が始まる前の節目にあたります。この日に定められた福音書の日課の中に、イエス様が高い山の上で「姿が変わった」(92節)という出来事があるため、「姿が変わった」、「変容した」ということで、変容主日とも呼ばれます。イエス様が「変容した」というのは、ギリシャ語の原文では正確には受動態ですので、「変容させられた」です。誰によってさせられたかというと、新約聖書のギリシャ語では受動態の形を取る時、「誰によって」がつかないと、大抵の場合は天の父なるみ神を指します。神を名指しすることは畏れ多いので、あえて言わないのであります。そういうわけで、イエス様は父なるみ神によって変容させられた、のであります。

それでは、イエス様はどう変容させられたかというと、姿が変わって身に着けている衣服が非常に白く輝いたということが言われています。このように衣服の変化については述べられていますが、他の部分はどうだったかは定かではありません。マタイ福音書の同じ出来事を扱ったところを見ると(172節)、衣服だけでなくイエス様の顔が太陽のように輝き始めた、とあります。またルカ福音書をみると((929節)、やはり衣服だけでなく顔のみかけが別物だったと記されています。マルコ福音書では記されているのは衣服だけですが、最初に「姿が変わり」(2節)と言って、その後で衣服が白く輝きだした(3節)と言っているので、衣服以外の姿に関する部分も変わっているのは明らかです。ただ、衣服の白さの輝きがあまりにも尋常ではなかったので、そっちの方を特筆したのでしょう。

「姿がかわる」「変容する」というギリシャ語の言葉メタモルフォオーμεταμορφοωについて見ますと、もちろん外面的な部分の目に見える変化を意味する言葉ですが、その変化には目に見えない内面的な変化が伴っていることも含んでいます。つまり、内面と外面、目に見えない部分と見える部分が連動した総体的な変化です。例えば、「ローマの信徒への手紙」122節で使徒パウロは、キリスト信仰者に次のように勧めます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」この「変えていただき」というのは、ギリシャ語原文でメタモルフォオーμεταμορφοωの語が使われています。つまり、「変容させていただきなさい」ということで、これは内面と外面双方にかかわる変化です。本日の使徒書の日課、第二コリント318節も同じです。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」この「造りかえられていく」というのが、やはりギリシャ語原文でメタモルフォオーμεταμορφοωの語が使われています。顔の覆いというのは、15節で神の御言葉を理解できなくさせる心の覆いであると言われています。16節でイエス様がその覆いを取り去ってくれることが言われ、そうして人は神の御言葉が正しくわかるようになって、神の栄光を映し出すようになっていくということが言われます。

天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えられた神の御心を船の錨のように自分の心の中に下ろすこと。そうして世の中の流れに流されないで、神の御心に沿う自分の人生を生きること。そのようなキリスト信仰者は、この世の人生の段階で神の栄光を少しずつ映し出し始めます。周囲の人はそれに気づく人もいれば、気づかない人もいる。しかし、父なるみ神は確かにその変化を見届けているのです。そして最終的には、死者の復活が起きるこの世の終わりの日に、信仰者は完全に神の栄光を現わす者となり、まさに高い山で変容したイエス様と同じような姿になっているのであります。

そういうわけで本説教では、私たち自身が日々それに向かって変容させられて最終的に完全に同じにされるという、このイエス様の変容の姿を中心に解き明かしをしていこうと思います。

その前に一つ余計な補足をしますが、本日の福音書の箇所に出てくる「高い山」についてです。この山は実際に存在する山として特定できるでしょうか?それは、できます。マルコ827節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから本日の箇所までは地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北にそびえる標高2700メートル程のヘルモン山と考えられます。(キリスト教の古い伝承ではガリラヤ地方のターボル山というのもあるそうですが、これは丘陵地帯の中の600メートル位の標高ですから、「高い山」には当たらないでしょう。)それで、ヘルモン山ということにしますと、この山の頂上は森林限界を超えたところにあり、夏でも雪田を残しているそうです。これを聞くと、登山を趣味にしている人なら、日本アルプスの景色を思い浮かべるでしょう。孤高と言うことであれば、同じ標高を持つ白山のイメージになるかもしれません。こういう高い山の常として、頂上からは雲海を見下ろすことが出来ます。雲海が乱れて雲が頂上を覆うと、頂上は濃い霧のただ中になります。本日の箇所で、神の声が轟いたのは山頂が雲に覆われた時でした(97節)。高い山の山頂が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではなく普通に起こることです。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲でそれを神が利用したと考えられますし、または、神がこの出来事のために編み出した雲に類する現象だったということも考えられます。どっちだったかはもはや判断できません。この件は、別に判断しないままにしても、本説教の解き明しには何の支障もありません。

2.

 山の上でイエス様が変容した時、マルコの注意を最も引いたのは、イエス様の来ている服が非常に真っ白に輝いたということでした。どうして、服が白く輝いたことが「変容」の出来事の中で最も注意を引いたのでしょうか?このことは、続きの文を見ればわかります。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります(93節)。「さらし職人」というのは、衣服や布の汚れや余計な色を洗い落として純白にする職業の人たちです。今で言えば、漂白するということでしょう。当時どんな漂白剤があったのか、それとも水で洗っては日光に晒す、の繰り返しだったのかは、ちょっと調べがつかなかったのですが、いずれにしても古代世界においても、衣服・布を純白にする専門家がいたということであります。ここで重要なのは、「この世のどんなさらし職人」も白くできないくらいに白く輝いたということであります。イエス様が放った白い輝きは、この世的でない白さ、天上の白さだったということになります。まさにここで、イエス様は、罪や神への不従順の汚れに全く染まっていない神のひとり子としての神聖な本性をあらわしたのであります。

 罪や不従順の汚れに全く染まっていないイエス様は、どのような純白さを持っているかを示されました。そのことによって、逆に私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在かが明らかにされます。神の目から見て、人間の真の姿というのは、最初の人間の堕罪の事件以来、神への不従順と罪を代々遺伝的に受け継いでしまう存在でした。それが、人間の本性なのです。もちろん、世界には悪い人だけでなく、良い人も沢山います。しかし、創世記217節と「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が不従順に陥って罪を犯したことが原因で人間は死する存在になってしまいました。それで、人間は代々死んできたように、代々罪と不従順の汚れを受け継いできたのです。

人間が、この汚れから洗い清められ、神に義と認められて、最終的に永遠の命を得て神聖な神の国に迎え入れられるようになるためには、まさに神の神聖な意思を100%満たすことができなければなりません。しかし、それは人間には不可能なことです。神の神聖な意思を表しているものとして律法という掟があります。しかし、それは、使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしているように、人間が神に義と認めてもらおうと満たしていくものではありません。そうではなくて、人間が神の神聖な意思からどれだけ遠ざかった存在であるかを思い知らせる鏡、それが律法なのです。詩篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(514節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げていますが、これからも明らかなように人間の罪と不従順の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 人間が自分の力で罪と不従順の汚れを洗い清めることは不可能ですが、神がかわりにそれをしてあげることは可能です。神は、罪と不従順を受け継ぐ人間を「赦す」ことで、人間が洗い清められた者になれるようにしました。それでは、赦すことで、どうやって人間を洗い清められた者に変えることが可能なのでしょうか?それは次のような次第で行われました。神はまず、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が背負うべき罪と不従順の罰を全て彼に請け負わせて、十字架の上で死なせました。イエス様が身代わりの犠牲になったことで、人間を罪と不従順の罰から免れさせたのであります。つまり、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。それに加えて、神は一度死なれたイエス様を三日目に蘇らせて、死を超えた永遠の命への扉を人間のために開いて下さいました。私たちは、これらのことが自分のためになされたのだとわかってイエス様こそが救い主と信じて洗礼を受けると、「キリストを被せられて着せられた」者(ガラテア327節)となって、永遠の命に至る道を歩み始めるのであります。こうして人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようになったのであります。

もちろん、キリスト信仰者とは言っても、キリストを頭から被せられただけですので、内側にはまだ罪と不従順に結びついた「古い人」が残存しています。しかし神は、イエス様を救い主と信じる信仰を持つ者に被さっているイエス様の白い衣を見て、その人に植えつけられた「新しい人」を見て下さるのです。この時、私たちは、自分のひとり子を犠牲にしてまで、このような取り計らいをして下さった神に対して感謝の気持ちで満たされ、神の御心に沿って生きるのが当然という心意気になっていくのです。神を全身全霊で愛そう、また隣人を自分を愛するが如く愛そう、という心が当然というふうになっていくのです。

ここで一言注意しておくと、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」は、本当は全人類にどうぞと提供されています。しかし、この救いが自分に向けられたものであることがわからず、そのためイエス様を救い主とも信じず、洗礼を受けないでいると、提供された救いは提供されている状態にとどまるだけです。受け取られた状態にはありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた場合にのみ、提供された救いは受け取られることになり、イエス様の白い衣を着せられることになります。

3.

 以上から、イエス様が変容した時、それは、彼が罪や不従順の汚れに全く染まっていない神のひとり子としての神聖な本性をあらわしたということが明らかになりました。それにあわせて、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、イエス様の純白な本性を頭から被せられるということもわかりました。そこから私たちの変容が始まり、それは復活の日に完結します。洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく「新しい人」を日々育て、肉に宿る「古い人」を日々死に引き渡す内面の戦いを戦うことが変容を遂げていくことです。

それでは、この世の人生で「新しい人」はどのように育てていくのか?それは、他でもなく父なるみ神の御言葉を日々心に留めること、他でもなく父なるみ神に祈りを捧げ、他でもなく父なるみ神に感謝を捧げることです。もし、み神から遠ざかってしまったことに気づいたなら、すぐ立ち返ること。もし、遠ざかりの原因に神の意思に反することがあれば、罪を犯したことを認めて、すぐイエス様の犠牲に免じて赦してもらうことが大事です。そして、聖餐式で霊的な栄養を頂くことも忘れてはなりません。これらのことをするのは「新しい人」を育てることですが、同時に「古い人」を死に引き渡すことにもなります。「古い人」は、最終的に私たちがこの世を去る時に肉と一緒に消滅します。

 以上、イエス様の変容の純白の意味をはっきりさせましたが、ここで少し本日の箇所でわかりにくいところを見てみます。なぜイエス様は山に行く時、12弟子のうちから3弟子だけを選んだのか?出現したモーセとエリアは一体どんな存在なのか?二人がイエス様と話をした時、何を話していたのか?ペトロが建てると言った仮小屋とは何か?そして、なぜイエス様は三人の弟子たちが目撃したことを彼の復活が起きる前に人前で話してはならないと命じたのか?ということです。これらは確実な答えを導き出すのは困難ですが、イエス様の変容の純白の意味に比べたら大きな問題ではありません。駆け足で見ていきます。

 まず、モーセとエリアの出現について。モーセは神から直接十戒を授かってそれを人間に受け渡した神の人、エリアは預言者の代表格です。遥か昔の時代に活躍した二人が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?俗にいう幽霊でしょうか?人が死んだらどうなるかということについて、聖書が明らかにしていることをおさらいしますと、人はこの世から死んだら、神の国とか天国とか呼ばれる所に迎え入れられるかどうかの決定を待つ。その決定がなされるのは、この世の終末の日であり、終末の日とは今ある天と地が新しい天と地にとってかわる日であり、また死者の復活が起きる日です。その日に決定がなされます。そうなると、復活の日までは天国にはまだ父なる神と御子と天使の軍勢以外いないということになって、ルターが教えるように、この世を去った人は復活の日が来るまでは神のみが知る場所にいて安らかに眠るだけということになります。

ところが、エリアは、本日の旧約の日課に記されているように、生きたまま神のもとに引き上げられました(列王下211節)。モーセについては、死んだとは記されていますが、彼を葬ったのは神自身で、人は誰もモーセが葬られた場所を知らないという、これまた謎めいた最後の遂げ方をしています(申命記346節)。このようにモーセとエリアの場合、この世から別れを告げる時に神の御手が働いて通常の別れ方をしていない、ひょっとしたら安らかに眠る段階を超えて終末の日、復活の日を待たずして神の国、天国に迎え入れられた可能性さえ考えられます。まさにその二人が同じ神の計らいによって高い山に出現させられたのであります。幽霊などという代物ではありません。そもそも幽霊というものも、亡くなった人はとりあえず神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋ですので、出てくることがあるというのは、これは神の計らいによるものではない全く別物ですので、一切関わりを持たないようにすべきです。

次にペトロが建てると言った仮小屋について。「仮小屋」というのは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言います。スケーネーは、「ヘブライ人への手紙」89章に出てきますが、神に礼拝を捧げる場所である「幕屋」を意味します。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことであります。しかしながら、ペトロの提案は問題がありました。なぜなら、イエス様をモーセやエリアと同列に扱ってしまうからです。確かに、モーセは律法を直接神から人間に受け渡した神の人、エリアは預言者の代表格です。しかし、イエス様自身は神の子であり、律法の実現を体現された方、預言者たちが預言したことの成就そのものであります。まさに律法や預言の実現・成就そのものであり、それらを受け渡した人、宣べ伝えた人とは同等には扱えない存在です。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまいます。こうしたペトロの提案は、天の一声に一蹴されてしまいます。「これは私の愛する子。彼に聞き従え。」まさに、「ここにいるのは神の子である。律法の受け渡し人、預言の宣べ伝え人と一緒にするな」ということであります。

 次に、山の上で見たことを自分の復活が起きるまでは言いふらすなというイエス様のかん口令について。イエス様の十字架と復活の出来事が起こる前は、人々は彼のことを預言者とか王という意味でのメシアと見なしていました。しかし、受難を通過して神の人間救済計画を実現する意味でのメシアだとは誰一人として考えていませんでした。そのような時勢に、山の上で見たことを言い広めたら、ナザレのイエスはモーセ、エリアと並ぶ偉大な預言者だ、という噂が広まったでしょう。十字架の死と死からの復活の出来事が現実に起きない限り、イエス様がメシアであることの本当の意味はわかりません。イエス様としては、十字架と復活の出来事の前に余計な誤解や憶測を増やすことは避け、ただ黙々と神の人間救済計画の実現の道を進むことに集中したのであります。

 なぜ3人の弟子を選んだのか、ということについては、会堂長ヤイロの娘を生き返らせた時(マルコ537節)やゲツセマネでの祈りの時(1433節)でも同じ3人を選んでいるので、これらを一緒にして考える機会がある時に述べてみたいと思います。モーセとエリアはイエス様に何を話していたのか、ということについては、推測の度合いが高くなるので、ここではやめておきます。
 
先にも申しましたように、これらのことは、イエス様の変容の純白の意味に比べたら大きな問題ではありません。

最後に、洗礼を通してイエス様の純白の衣を着せられた人間はどのように生きていくことになるか、ということについて、ルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めにしたいと思います。この教えは、詩篇519節で、ダビデ王が神に対して、自分を雪より白くして下さい、と嘆願したことについての解き明しです。

「どのようにして人間は、雪よりも白くなることができるであろうか?これに対する答えは以下の通りである。まず、人間の中には霊と肉があるが、聖パウロの言葉を借りれば、人間には肉と霊の汚染状態が残り続ける。肉が汚染された状態とは、悪い欲望、殺意、盗み、憎悪、嫉妬、その他これらに類するものがあることである。霊が汚染された状態とは、神の罪の赦しの恵みを疑うこと、信仰が弱いこと、神に対して文句を言うこと、絶え間ない苛立ち、そして神の意思を知ろうともしないし理解しようともしないことがあることである。

 もし君がキリスト信仰者というものを正しく判定しようとするなら、信仰者をその本性において見極めようとしてはならない。なぜなら、本性において見極めようとする時、君はキリスト信仰者の中に清さが全くないということに気づかされるからだ。そうではなくて、聖霊によって新しく誕生させられた者としてキリスト信仰者はどんな性質を持っているかを観察しなければならない。この霊的な新しい誕生は、人間が自分で実現することはできない。それを実現できるのは、ただ神のみである。

この霊的に新しく誕生する時に人間は雪よりも白くなり、汚れを伴った最初の肉体的な誕生はもはやその人に害を及ぼす力を持たない。もちろん、人に罪と不従順の汚れは残り続けるが、父なるみ神が目に止められるものはそれらではなく、洗礼の時に被せられた純白の服、霊的に新しく誕生した人の信仰、そして神の愛するひとり子が十字架で流した清く神聖な血である。ひとり子の清く神聖な血というものは、純白な服と同じように、霊的に新しく誕生する人に着せられる装飾品のようなものである。このように、キリスト信仰者というのは、本性において見るとまだ汚れが残っている者であるが、洗礼と聖霊がもたらす霊的な新しい誕生を通して、またイエス様を救い主と信じる信仰においてキリストを身に纏っているので、雪よりも白いのである。」、


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン