2018年10月29日月曜日

救いと大いなる安息の地を目指して (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2018年10月28日 聖霊降臨後第23主日

エレミア書31章7-9節
ヘブライの信徒への手紙4章1-13節
マルコによる福音書10章46-52節

説教題 「救いと大いなる安息の地を目指して」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中、エリコという町に立ち寄り、そこで一人の盲人の物乞いの目を見えるようにしたという奇跡の出来事についてです。ここで注目すべきことは、イエス様がこの盲人の男バルティマイを癒す直前に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われたことです。この言葉は一体何を意味しているのでしょうか?癒す前にこの言葉が言われたことに注意します。もし癒された後で「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったのなら、筋が通ります。イエス様はバルティマイの信仰を立派と認めてその褒美に目を見えるようにしてあげた、ということになるからです。ところがイエス様は、目が見えるようになる前にそう言ったのです。一体どういうことでしょうか?そこで、イエス様は治っていない段階で「もう治った」と言って、確実に治ることを預言っぽく先回りして言ってみせた、と考えることができるかもしれません。つまり、本当は後に言うべき言葉を預言者っぽく先に述べたというわけです。そうすると結局は、病気が治るというのはイエス様に立派と認められる信仰があったおかげということになり、もし治らなければ立派な信仰がないということになってしまいます。イエス様は、病気が治る治らないで信仰の優劣が決まると言われているのでしょうか?本説教の最初の部分では、イエス様が言われる「救い」ということについて少し考えを深めていこうと思います。

その次の部分では、「救い」について、本日の旧約の日課エレミヤ書31章とヘブライ4章の聖句が二つの大事な視点を明らかにしていますので、それを見ていこうと思います。一つ目の視点は、今の世の次に来る世の人生というのは、とてつもなく大きな安息の地での人生であるという、ヘブライ4章の視点です。もう一つの視点は、今のこの世の人生はその大いなる安息の地を目指す歩みであるという、エレミヤ31章の視点です。

2.救いとは何か?

「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉の意味について。この言葉は、これと同じ出来事が記されているルカ18章にも言われています。また違う出来事の時にも同じ言葉が使われています。それはマルコ5章とマタイ9章で、12年間出血が止まらず治療に財産を使い果たした女性がイエス様の服に触れば治ると考えて、それをして出血が止まりました。この時イエス様は女性が癒された後で問題の言葉を述べました。事後的に言ったので、信仰のおかげで治ったと言っているように聞こえます。でも、どうして事後的になったかと言うと、この女性の場合は初めイエス様に内緒に服に触って、それから癒しが起きました。イエス様はそれに気づいてこの言葉を発したので事後的になったのです。バルティマイの時は、イエス様は初めにこの懇願する人を見てこの言葉を発して、その後で癒しが起きたので、事前的になりました。

ルカ7章にも同じ言葉が言われる出来事があります。それは、罪を犯した女性がイエス様から赦しを受けて、感謝の行為をイエス様に行ったところです。その時イエス様は女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言います(50節)。この時は病気の癒しはありません。そういうわけで、「信仰が救った」というのは、必ずしも病気が治ることに結びつくわけではないことがわかります。

このイエス様の言葉の意味を考える時、ギリシャ語の原文を見てみるとよいと思います。以上の5か所で「救った」という動詞はみな現在完了形です(セソーケンσεσωκεν)。現在完了などと言うと英語の授業みたいで嫌になる人が出るかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語とは違うところがあるので英語のことは忘れて大丈夫です。ギリシャ語の現在完了の基本的な意味は、「過去のある時点で起きたことが現在まで続いている状態にある」ということです。それに即して問題となっているイエス様の言葉をみてみると、こうなります。「過去のある時点から現在まであなたは信仰によって救われた状態にある」ということです。過去のある時点と言うのは、イエス様を救い主と信じた時です。つまり、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまで、その人は救われた状態にあった、ということです。これは少し変です。というのは、まだ目が見えるようになる前に既に救われていたと言うからです。普通だったら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずなのに、イエス様ときたら、治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるなどと言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと「救われる」ことは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあることはある、と言っているのです。それでは救いとは一体何なのでしょうか?病気の状態にあっても救われた状態にあるなんて有り得るのでしょうか?病気が治ることと「救われる」ことは別問題と言うのなら、逆に健康であっても救われた状態にないというのもあることになります。イエス様が考える救いとは何なのでしょうか?救われていないとはどんなことなのでしょうか?

聖書の立場では、人間が救われていない状態というのは、神に造られた人間の内に神の意志に反する罪が入り込んで、それで造り主との結びつきが失われてしまった状態のことをいいます。それで、この罪の問題をどうにか解決できて神との結びつきを回復できることが救いになります。神との結びつきをうまく回復できるとどうなるかと言うと、この世の人生でいついかなる時でも、順境の時だろうが逆境の時だろうが、絶えず神から助けと良い導きを得られて歩むことが出来るようになるということです。万が一この世から去らねばならない時が来ても、その時は神が御手をもって御許に引き上げて下さり、神のもとに永遠に戻ることができるようになるということです。

そういうふうに神との結びつきが回復できるためには人間に内在する罪の問題を解決しなければならないのですが、それはどうやってできるのでしょうか?人間が自分で罪を除去することは出来るでしょうか?イエス様は、マルコ7章の律法学者との論争で、人間を汚しているのは人間の内に宿っている諸々の性向である、それで、どんな宗教的な清めの儀式をしても罪の汚れは除去できないと教えます。それならば、十戒をはじめとする律法の掟をしっかり守ることで人間は神の目に相応しいと見なされて結びつきを回復できるでしょうか?イエス様は十戒の第5の掟「汝殺すなかれ」について、兄弟を憎んだり罵ったりしても破ったのも同然と教えました。また第6の掟「汝姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目で見たら破ったのも同然と教えました。つまり、十戒の掟は外面的な行為だけでなく、内面の心の有り様まで問うのだと教えます。そこまで言われると神の目に相応しい人は誰もいなくなります。まさに使徒パウロがローマ7章で教えるように、十戒というのは外面的に守って自分は神の目に適う者だと得意がれるためにあるのではない、内面までも問うことで自分はどれだけ神の意志から離れてしまった存在か映し出す鏡のようなものなのです。

そうなると人間はもはや自分の力では罪の問題を解決することが出来ません。天の父なるみ神は、これは救いようがない、もう万事休すだ、と思ったでしょうか?そうは思いませんでした。神の意図は人間が自分との結びつきを回復してほしいということでした。それで神は問題の解決のためにひとり子のイエス様をこの世に送り、本来だったら人間が背負わなければならない罪の重荷を全部、彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運ばせて、そこで人間に下されるはずの神罰を全部彼に受けさせて死なせたのです。神が取った解決策はまさに、ひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すということだったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれました。そこで人間の方が、これら全てのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主とわかって洗礼を受けると、このイエス様の犠牲に免じた罪の赦しはその人にその通りになります。神から罪の赦しを受けられれば、神との結びつきが回復できることになり、今のこの世の人生と次に来る世の人生を合わせた大きな人生を神との結びつきの中で生きることができるようになります。これが救いです。  

この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために整えてくれたものです。人間はイエス様を救い主とわかって洗礼を受けるとこの救いを受け取ることが出来、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる限り、受け取った救いは失われることはありません。これは、受け取る人が健康であるか病気であるかは関係ありません。また、救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄光を今度は病気の時と違った形で現わしていかなければならない、まさにそのために癒されたのだと気づかなければなりません。

ところで、バルティマイの癒しの奇跡の時はまだ十字架と復活という救いの出来事は起きていません。それなので、「あなたの信仰があなたを救った」と言われても、なかなか自分は本当に救われているとは思えないでしょう。「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にあった」と言われても、十字架と復活が起きる前ですと、それはただの口先の言葉にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しの奇跡が起きたことはイエス様の言葉は口先だけではないということが明らかになったのです。イエス様の言葉は口先だけのものではないということは、マルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きました。イエス様は、その人とその人を必死になって連れてきた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男は口先でこんな出まかせを言っている、自分を神と同等扱いにして神を冒涜している、と批判する。これに対してイエス様は、自分の口から出る言葉は単なる音声だけでないことを示すために、男の人に立ちあがって行きなさいと命じると、その人の麻痺状態は消え去って本当に歩いて行ってしまいました。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。

ルカ7章の罪を赦された女性の場合は、病気の癒しはありませんが、罪の赦しを与えてくれたイエス様に対して深い感謝の気持ちを持ちました。罪の赦しを与えられたことで、断ち切れていた神との結びつきが回復する。そして十戒の掟からすればまだ罪を内に持っているのに、イエス様の十字架の身代わりの犠牲のおかげで、神の目からは大丈夫とみてもらえる。本当に罪の赦しの恵みの中で生きられるようになる。だからその後は大丈夫と見られていることに恥じない生き方をしなければと注意するようになる。注意することは緊張感をもたらしますが、同時に罪の赦しの恵みの中にいられる安心感もあります。ここから先はもう神に対して感謝以外何もなくなります。この感謝の気持ちが、神を全身全霊で愛し、神がそうしなさいと言っている、隣人を自分を愛するが如く愛する心と力を生み出していきます。罪を赦された女性はその例です。

3.大いなる安息の地を目指して

以上、救いというのは、聖書の立場では、神から罪の問題を解決してもらって神との結びつきを回復でき、その結びつきを持ってこの世の人生と次の世の人生を合わせた総合的な人生を生きられるようになることだと申し上げました。その救いについて、本日の旧約の日課エレミヤ書31章と使徒書の日課ヘブライ4章は大事な視点を教えてくれています。

ヘブライ4章では、次の世の人生のことを「神の休息の場」(η καταπαυσις αυτου)と言っています。ヘブライ44節で創世記の出来事が振り返られていますが、神は天地創造の業を行って7日目に全てのなすべき業から離れて休まれました。天と地の創造という壮大な事業の後に入れる休息ですので、これもまた壮大な休息です。ヘブライ4章は、私たち人間もこの壮大な神の休息の場に入ることができるのだと言っています。すごいことです。410節で言われるように、その休息の場に入れる者は神もそうだったように全てのなすべき業から離れて休むことになります。それはどんな休息かというと、黙示録19章で結婚式の祝宴に例えられています。これはこの世の労苦が全て労われることを象徴しています。さらに黙示録214節で神は全ての涙を拭われると言われますが、これはこの世で被った全ての不正義や不正が最終的に完全に償われることを象徴します。同じ節ではまた、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と言われます。最初のものは過ぎ去ったというのは、今ある天と地が新たに創造される天と地に取って代わられて、今の天と地のもとであった全ての神の意志に反することが消え去って、全てのことが新しくされて、全てが神の意志に沿うものになっていることを意味します。それは死も悲しみも嘆きも労苦もないところです。

そのような壮大な神の休息の場に向かって、そこに向かう道に置かれた者は神に守られながら歩んでいくことが、エレミヤ書31章で言われます。そこに向かう道は、9節で言われるように「泣きながら(בבכי)、神に助けを求めながら(בתחנונימ)」進まなければならないこともあるくらい、苦難困難の時もあるかもしれない。しかし、同じ9節で言われるように、神が父親としていてくれる位に神に守られるというのが大前提としてある、だからその道は本当は真っ直ぐに延びる平らな道で誰も歩くのが難しいことはない。目の見えない人、足の不自由な人、妊婦やまさに出産しようしている人といった、普通なら長旅は無理と見なされる人たちも全く大丈夫だ、と言うのです。壮大な休息の場に向かう道を進むというのは、それくらい神に守られて歩むことなのです。

これと同じことが、先月の説教で解き明かししましたイザヤ書35章でも言われていました。そこでお教えしたことは、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを持ってこの世の人生を歩む者は、イエス様の敷かれた「聖なる道」を進む。その道は順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと導きを得られる道である。万が一この世から去らねばならない時が来ても、復活の目覚めの時に御許に引き上げてもらえる道である。そこで天使たちの歓呼の声をもって迎えられる。

先月の説教でも申し上げたのですが、エレミヤ書31章やイザヤ書35章をこのように今の世から次の世への歩みについて言っているなどと言うと異論が出るかもしれません。というのは、これらの個所は一見すると、紀元前6世紀のバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が祖国帰還できるようになることの預言に見えるからです。民の祖国帰還は歴史上の出来事として起こりました。しかし、祖国に帰還した後も民の状態は預言された理想の状態からは程遠いということが次第に明らかになってきます。イザヤ書の終わりの方56章から後を見ると神がまさにそのことを明らかにします。そうすると、民の間でも、祖国帰還を言っているように見えた預言は実は天の神の国への帰還を意味していたのだ、民の理想の状態についての預言も、異民族から解放されて幸せ一杯のユダヤ民族のことを言っているのではなく、罪の問題を解決された人間が神の国に迎え入れられることを意味するのだ、と理解されるようになります。

そうすると、じゃあのバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できたことは何だったのか?それは預言とは無関係なことだったのか?いいえ、そういうことではありません。歴史上起きたことは、将来起きる全人類的な祖国帰還の何かミニチュア模型のようなものなのです。神は将来、全人類的な祖国帰還を起こすが、その意志と力を持っていることを小手調べとして歴史の中で示してみせたのです。将来起こる預言の本当のこと、これが本当に起こるのだとわからせるために小手調べのようなことをした例は、イエス様にもあります。死んでしまったラザロとヤイロの娘を生き返らせた時がそうです。イエス様はその者たちは死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。その時イエス様は、死というのは復活の日までの眠りに過ぎず、その眠りから起こす力を自分は持っているのだ、ということを、復活の日も最後の審判もまだ来ていない段階で前もって奇跡を通して示されたのです。

この世の人生と次の世の人生を合わせた総合的な人生を生きるというのは、神との結びつきを持って生きることそのものですが、そこではイエス様を救い主と信じる信仰があってこそ神との結びつきが持てることを忘れてはいけません。イエス様を救い主と信じる信仰は特に、二つの人生の間を移行する時に決定的に重要です。ヘブライ41213節で、神の言葉がどれだけ鋭く見抜いて裁く力があるかが言われています。最後の審判の時に全ての人は神の前で何も隠せない、丸裸同然で、神に対して申し開きをしなければならない。お前はどうしてあの時あのようにしたのか、あのようなことを言ったのか、考えたのか、と聞かれて、記憶にありません、が通用しないのです。これは恐ろしいことです。しかし、ここでイエス様を救い主と信じる者は心配無用であるということを思い出しましょう。私たちが至らない者だから、神はひとり子イエス様を身代わりの犠牲にしたことを思い出しましょう。ヘブライ413節の後の個所はまさに、そのことを思い出しなさいと私たちの心の目をイエス様に向けさせる個所です。本日の日課は本当はそこまであるべきだったと思います。

ヘブライ41416節はイエス様を救い主と信じる信仰がある限り神の御前に立たされても大丈夫であると教えます。イエス様のことをあまり聞きなれない「大祭司」という言葉で呼んでいますが、これは神殿で務めを果たしていた大祭司が人々の罪と自分の罪を神の前で償うためにいろんな儀式を行って、特に動物を犠牲の生贄に供えることをしていた。それに対してこの新種の大祭司は自分自身を犠牲の生贄に供することで人間の罪の償いを果たして下さった。しかも、供されたのは神聖な神のひとり子だったのでこれ以上神聖な犠牲はなく、それで神の目から見てこの犠牲で十分となり、罪の償いのためにこれ以上供するものは何もなくなってしまった。さらに私たちにとって大きな慰めになるのは、この自分を犠牲に供した大祭司は神のひとり子で神と同じ存在でありながら私たち人間と同じようにこの地上に生きて同じような試練を受けた。だから、私たちの辛さや苦しみもちゃんとわかってくださっている。だから、罪がもとで私たちの心に神への恐れが生じたとき、また困難や苦難の中で誰もわかってくれない助けてくれないという気分に陥った時、この大祭司のもとに跪きなさい、すがりつきなさい、そうすれば必ず神から助けと導きを得られる、そう教えています。最後にこの個所を引用して、本説教の締めにしたく思います。

 「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちは公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2018年10月15日月曜日

神の創造の秩序と結婚 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2018年10月14日 聖霊降臨後第二十一主日

創世記 2章18-24節
ヘブライの信徒への手紙 2章5-9節
マルコによる福音書 10章1-16節

説教題 「神の創造の秩序と結婚」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様はなぜ、離婚は神の創造の秩序に反すると教えるのか?

本日の福音書と旧約聖書の日課は、男女の関係について人間の造り主である神はどうあるべきと考えておられるか、ということを教えています。福音書の個所で、ファリサイ派の人たちがイエス様を試そうとして質問してきました。夫が妻を離縁することは許されるか、という質問でした。ファリサイ派というのは当時のユダヤ教社会の宗教エリートで律法の規定をとても重んじて自分たちこそ天地創造の神の意志をしっかり守って生きていると思っていました。イエス様は彼らの律法の理解が神の意図するものと違っていることをいつも指摘するので、ファリサイ派はイエス様を排斥しようと企むようになっていました。

ファリサイ派がイエス様を試すために質問したというのは、旧約聖書の申命記の24章に夫が妻に離縁状を書いて家から追い出してもよいという規定があることによります。モーセの律法の規定の一つです。イエス様は活動を開始した最初の頃に、十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」について、みだらな思いで他人の妻を見る者は行為で犯していなくとも心の中で姦淫を犯したことになる、と教えていました。さらに離縁状も相手が裏切ったという位の重い理由がない限り書いてはいけない、と教えました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか、離縁状を書いて別れてもいいというのが神の御心ならば、このイエスは十戒を勝手に厳しく解釈して人々に不安を与えているのではないか、今それを公衆の面前で明らかにしてやろう、そういう魂胆なのです。

夫が妻と別れるのは許されるのかという質問に対して、イエス様は質問者の魂胆はお見通しでしたが、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。そこでイエス様は神のもとから送られた神のひとり子として父である神の御心を明らかにします。モーセが離縁状の規定を定めて離婚を認めたのは、人間の心がかたくなになっていることを考慮してそうしたのだ、と。私たちの新共同訳では「心が頑固」と言いますが、それだと何か意地っ張りとか、妥協しないというような、そんなに悪い意味には捉えられないのではないでしょうか。ギリシャ語のσκληροκαρδια「心がかたくなな状態」という意味で、「頑固」に比べてもっと深刻な状態のことを言います。どんな状態かと言うと、イザヤ書610節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下そうとして、民の心を一層「かたくなにせよ」、それで神の御心を見たり聞いたりできないようにせよ、と言うところがあります。それと同じことで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになって、神に背を向けて、神の御心を知ろうともわかろうともしない状態です。

それでは、結婚について何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり結婚を壊してはいけない、離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそれが神の御心だとわかるのかというと、それは神の創造の秩序がそういうものだからだと言うのです。神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれたギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言われます。結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した男と女、つまり父と母から離れて父と母のように一緒になることで、その一緒というのは神の目からすれば融合と言っていいくらいの結びつきです。そういう流れになるのが神の御心ならば、一度結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。

それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間の心にあるからだ、とイエス様は明かします。心のかたくなさがあるため、創造の秩序に現われる神の御心を知ろうともわかろうともせず、伴侶を裏切って別の相手と一緒になるということが起きます。イエス様は、そのような重大なことが起きれば、離縁状はやむを得ないと言っているのであって、自分の好みや都合でもう一緒にいたくない程度で書くものではないと言うのです。離縁状は認可されてはいるが、その発動は神の創造の秩序を損なうようなことが起きてしまった時できるというものです。創造の秩序を損なうこととして、伴侶を裏切ることの他に伴侶に命の危険をもたらす事態も考えてよいと思います。そういう重大なこともないのに離縁状を書くのは、今度はそれが神の創造の秩序を損なうことになるので、離婚はしてはいけないということなのです。

そのようなイエス様の方針は、弟子たちから見ても厳しすぎるようでした。マタイ19章を見ると、イエス様とファリサイ派のやり取りを聞いていた弟子たちが、夫婦の結びつきはそこまでして維持しなければならないのなら、結婚しない方がましです、などと言います(マタイ1910節)。イエス様の弟子のくせに何を情けないことを言うか、と思わせますが、やはり弟子とは言え、離婚の可能性は開かれていたほうがいいと思うくらい、当時も夫婦の関係はいろいろ大変だったことをうかがわせます。イエス様が離縁状の条件をとことん狭めたことからも伺えるように、実際には重大な理由なくしても離縁状を書いて離婚することは結構あったのかもしれません。それも、人間の心がかなくなであることの現れです。

ここで気づかなければならない大事なことがあります。それは、人間の心からかたくなさが取れること、つまり神に背を向けた生き方をやめよう、神の御心をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?キリスト信仰が主眼とするところを思い出しましょう。それは、神のひとり子であるイエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償うために十字架にかけられて死なれた、彼の身代わりの犠牲のゆえに神から罪の赦しを得て生きられる道が人間に開かれたということです。

人間はこの良い知らせを聞いて、イエス様は救い主とわかって洗礼を受けると、罪の赦しを頂いた者としてそれに恥じない生き方としようという心になります。もう神に背を向けて生きるのはやめよう、神の御心を知って、それに沿うように生きようと志向します。夫婦も、自分は神から罪の赦しという大きな赦しを頂いていることがわかれば、ちょっとしたことで相手を怒ったり責めたりせず、言葉を選んだりするようになります。万が一火花が散ってしまっても、赦しを願うこと、赦しを与えることがどれだけ大切なことかはイエス様の十字架を思い出せばわかるはずです。自分の受けた大きな赦しは、いつも自分に言い聞かせなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。自分への言い聞かせはどうやってするのかと言うと、それは、聖書にある神の御言葉が宣べ伝えられるのを聞いたり、また自分で聖書を繙いて自省することです。そして神に祈り、自分の非力さや未熟さを直してくれるようにお願いすることです。

2.イエス様はなぜ、離婚した後の再婚は姦淫になると教えるのか?

本日の福音書の個所のイエス様の教えの中で、夫婦は別れてはいけないということに加えて、離婚した後の再婚は姦淫、姦通になるという驚くようなことが言われます。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」ここで、日本語で「姦淫」とか「姦通」と言う言葉は何を意味するか見てみますと、十戒の第6の掟は「姦淫」、本日のマルコの個所では「姦通の罪」という言葉が使われますが、双方とも同じことを指しています。旧約聖書のヘブライ語の言葉נאף、新約聖書のギリシャ語μοιχευω, μοιχαομαιがもとにありますが、これらの言葉のドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳はとても単純明快で「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉で訳されています(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の訳はadulteryで、ドイツ語等に比べたら一目で意味がわかりませんが、英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、日本語で姦淫とか姦通と言っているものは、最近の日本で新聞・週刊誌の報道で聞かない日はないと言えるくらいよく耳にする「不倫」ということになります。

そこでイエス様が離婚後の再婚を姦淫と言うのはどうして驚きかと言うと、正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのではと思われるからです。しかし、イエス様はそう思わない。なぜでしょうか?それは、神の創造の秩序から見てそうなるからです。神の創造の秩序とは何か、もう少し詳しく見てみましょう。それは、本日の旧約聖書の日課である創世記218節から24節までの個所で述べられていることです。イエス様はファリサイ派とのやり取りの中でこの個所の最後の24節を引用していますが、この個所全体を念頭に置いて話されたのは間違いないでしょう。

創世記218節から24節は、人間の女性が造られた経緯が記されています。2章の初めに男性が土から造られたことが記されています。最初人間はこの男性が一人だけでした。神は、彼が独りでいるのは良くない、彼に「合致するような助け」(עזר כנגדו)を造ろう、と言って、まず土からいろんな動物を造って彼の前に出します。男性が動物たちにどんな名前をつけるか、それを神が見るというのは、男性が動物たちの中からそのような助けを見つけるかどうか見るということです。男性は動物たちに名前を付けましたが、「合致するような助け」は見出すことはできませんでした。それなら、と神は今度は、男性の骨や肉を材料にして、動物たちとは違うものを造ります。男性のあばら骨一本から女性を造ったような書き方ですが、初めはそうだったかもしれないが最終的にはいろんな骨や肉も材料になったようです。新共同訳で男性が女性のことを「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言っていますが、ヘブライ語はもっとはっきりしていて、女性の骨は「わたしの骨からである」(עצמ מעצמי)、女性の肉は「わたしの肉からである」(בשר מבשרי)、と言っています。女性を見た男性は、これこそ自分に「合致する助け」と見なしました。

あと新共同訳に男性の言葉の下にカッコがあって「イシュ」、女性には「イシャー」とカタカナで書かれていますが、これは何かと言うと、「イ(-)シュ」(איש)は男性を意味する単語で、「イ(ッ)シャー」(אשה)はそれの女性形の形です。ドイツ語の名詞には男性、女性、中性と性別がありますが、それと同じことです。男性「イ(-)シュ」が自分の一部を材料にして造られたものを自分に「合致する助け」と見なし、これに「イ(-)シュ」を女性形にした形「イ(ッ)シャー」という名前を付けたということです。

さて、女性が男性の「助け人」として造られたとか、男性の骨や肉を材料にして造られたなどと聞くと、聖書は女性を男性の付属物にしていると怒られてしまうかもしれません。しかし、女性が男性を助けられるためには、男性も女性を助けなければできません。例えば、仕事をする女性が家事育児全部任されて男性が仕事だけ専念してよいということになったら女性は潰れてしまい、助けるどころではなくなります。最初は男性の助けのために女性を造ると言いますが、いったん造られたらお互い助け合う関係になるのではないでしょうか?(ヘブライ語の言葉כנגדוにそんな相互性を含めてもいいような気さえするのですが、専門家はどう思うでしょうか?)それから、男性の骨と肉を材料にしているということも、もし男性が女性を低くみたら、それは材料がその程度だったと自分で認めることになってしまうので、男性は女性に対してあまり大きな顔をしない方がいいということになります。

そこで、男性と女性が自分たちがそれぞれ生まれ出てきた男性と女性、つまり父と母のもとを出て一緒になることを一体になる、一つの肉になると言います。同じ肉と骨がもとにあるので分離したものがまた一つになることが結婚ということになります。それで、離婚は一つに融合していたものを二つに分かれてしまうことと言ってよいでしょう。姦淫とは二つのものが融合してできたものを二つ以外のものが入り込んで融合が壊れてしまうことと言ってよいでしょう。そうすると、離婚したらもう融合もなくなっているのだから再婚は姦淫にならないのではと思われるのですが、イエス様はそうだと言われる。どうしてでしょうか?それは、一度一つになった肉は、人間の目では別々になって解消したとしても、神の目からすれば、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は消せないということのようです。だから、別れても新しい相手と一緒になると、神の記録にある一つになったものに対して外のものが入り込んでくる、つまり姦淫と同じことになるというのです。

しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の教えに従っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと言われるでしょう。それを神の意志に反するなどと言われては、もう神なんか相手にしたくないという気持ちになるかもしれません。あるいは、自分の信じたい神はそんな偏狭ではない、もっと気前がいい方だ、という考えになってしまうかもしれません。でも、それは創造主の神に対して心をかたくなにすることになってしまうのです。

どうしたらよいでしょうか?「新しい出会い」、「人生の再出発」と思っていたことは実は神の意志に反する、そう言った張本人のイエス様は何をしたでしょうか?そういう厳しいことを言って、さらには心の中で描いただけでも同罪だと言ったのです、そこまで厳しいことを沢山言って、その通りに出来ない人たちに後ろめたい気持ちを与えたり不愉快にさせて、自分は偉そうにして出来ない人たちに軽蔑の眼差しだったでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は、人間が持っている神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべてにかかわる神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間があまりにも無防備になっている、この状態をなくして人間が神から優しく守られて生きられるようにしよう、それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと罰を人間の代わりに受けられたのです。

イエス様を救い主と信じるところには、神の罪の赦しがあります。何も知らずに新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを頂く者として生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神から守られて生きられるようになるためにひとり子も惜しまなかった神の愛です。自分がしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を死なせなければならないほどの重大なことだったのだと思い知れば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きたらいいか、行ったらいいか、考えたらいいか、全てにおいて何が神の意志に沿うことか考えるようになります。そのようにして神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しの救いに沿うものに変えられていくと思います。

3.独身でいることは神の創造の秩序に反しない。一人でいようがいまいが肝要なことは終末・復活への備え

最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚という結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは、創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ1912節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。

使徒パウロは第一コリントの7章で結婚について教えていますが、読むと未婚者とやもめに対して、結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います。加えて、結婚しても罪を犯すことにはならないとも言っていて、我慢できなければ仕方ないですね、結婚してもいいですよ、という調子です。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられて最後の審判や死者の復活が起きる日がもうすぐやってくる、そういう切迫した思いが当時のキリスト信仰者の間で強く持たれていました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちましたが、まだ今ある天と地はそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではなく、イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ2414節など)。

それでも、キリスト信仰者はいつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。これもイエス様が命じられていることです(マタイ2444節など)。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは矛盾があるように感じられます。今愛情を注いでいるものが、無駄なことのように感じられてしまうからです。その場合は、ルターのように考えます。つまり、家族とか伴侶とか子供とかは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って、それらを忠実に世話し守り愛し育てる。贈られる神はまた取り上げられる神でもある。だから、もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。もちろん、これは痛みを伴います。その時こそ、キリスト信仰には「復活の再会の希望」があることを思い起こす時です。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は限られているのでとても大事なものとわかります。贈られたものと共にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そのように考えれば、終末を頭のどこかで覚えながら、今愛情を注ぐものがあることは矛盾しないのではないでしょうか?

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2018年10月9日火曜日

永遠の命の約束 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

「いずみ会」修養会早朝礼拝説教
2018108日(国民宿舎「サンレイク草木」中庭にて)

説教題「永遠の命の約束」

聖書の箇所 ペトロの第一の手紙1章22-25節

 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
 こう言われているからです。
「人はみな、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。(新共同訳)


 私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.この聖句は、日本人をおやっと思わせてちょっと立ち止まらせる、そんな聖句ではないでしょうか?「人はみな、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ、草は枯れ、花は散る」などとは、中学の国語の授業で暗記させられた平家物語の冒頭部分「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」を彷彿させ、皆さん共感を覚えるのではないでしょうか?特に日本の場合は桜の花がこの、美しいもの華やかなものはいつまでも続かないという思いを強めるのに一役買っていると思われます。加えて、散りゆく桜を見て美しさ華やかさは儚いものだと思っているうちに、いつしか逆に儚いもの散ること自体が美しいのだと言い換えられて強調されるようになる、そういうことが戦争中の日本にはあったのではないでしょうか?(最初の特攻隊の部隊の名前に本居宣長の「山桜」短歌の言葉が使われたり、ある特攻兵器は「桜花」と名付けられたり、軍歌の「同期の桜」などに表れていると思います。)

そういう日本人が共感を覚えるようなことを言った後で、この聖句は突然、共感者の夢を覚ますようなことを言います。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」ギリシャ語の原文を直訳すると、「主の言葉は永遠にとどまる、残る」(μενει εις τον αιωνα)です。つまり、草や花そして人間のように枯れたり散ったりせず、ずっとずっと永遠に残る、です。この聖句はイザヤ書408節の引用でもあります。ヘブライ語の原文を直訳すると、「永遠に続く」とか「永遠に効力を持つ」(יקומ לעולמ)です。人間が持てる華やかさも、またそれを持つ人間自身も永遠には続かない、草や花のように枯れたり散ったりして終わってしまう。もっともなことです。ところが、この聖句は、私たちの目と心をそこに止めっぱなしではいけない、と言わんばかりに、「しかし」(δε)と言って、神の言葉は永遠に続く、永遠に残る、永遠に効力を持つ、と言います。そこに目と心を向けよ、と言うのです。この聖句は限りある人間に、特に限りあることに思い入れが強い私たち日本人に何を呼び掛けているのでしょうか?

2.まず、「神の言葉は永遠に続く」とはどんなことか考えてみましょう。私がこの世から死んだ後も聖書は読み続けられるでしょう。その意味で、聖書が世代を超えてずっと読み継がれていくということでしょうか?そうではありません。聖書の立場では、この世というものは天地創造の神に造られて始まった、そしてそれには終わりがある、その時新しい天と地が創造されて今のものに取って代わるということがあります。森羅万象の有り様がかわるので、聖書を繙くという今の世の人間の営みはもうありません。なぜなら、聖書の立場では、今の世が新しい世に取って代わる時、死者の復活が起きて、神の御許に招かれる者は栄光の復活の体を着せられて永遠に神の御許に戻るということがあるからです。その時、神が聖書の御言葉を通して約束していたことは、もう繙いて読むことではなくなって、実現したものになって見たり味わったりすることになるのです。

そういうわけで、神の言葉が永遠に続くというのは、それが神の揺るがない約束としてあって、今の世を貫いて新しい世にて実現する日を待っている、まさに天地創造の神が約束したものなのでそれは神の側で忘れられずに実現する日までちゃんとある、ということです。

このように神の言葉はというのは全て、今の世に代わる新しい世の創造、死者の復活、永遠の命についての神の約束です。それだけではありません。第一ペトロの聖句に引用されているのはイザヤ書406節から8節までですが、7節をみると、「草は枯れ、花は散る」と言った後で、「なぜなら、神の息吹が吹き付けたからだ」と言っています(「神の息吹」は「神の霊」、「神の風」(רוח יהוה)とも訳すことが可能です)。この部分はペトロの引用では省かれていますが、イザヤ書では、枯れること散ることが神から罰を受けたためであると言われているのです。罪の汚れを内に持つ人間は誰もそのままでは神聖な神の前に立たされたら焼き尽くされてしまう存在でしかありません。

しかし神は、人間が罪から離れて最後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、自分のもとにいて完全に安全、安心でいられるようにしてあげよう、まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そしてイエス様を十字架の上で人間に代わって罪の償いをさせて死なせ、彼の犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。さらにイエス様を死から復活させることで永遠の命の扉を人間のために開いたのです。人間はこの「福音」を聞いて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになったのです。順境の時も逆境の時も変わらずに神に守られて励まされて慰められて時には叱咤されて、歩むことになったのです。

第一ペトロの聖句は、永遠に続く神の言葉のことを「福音として告げ知らされた言葉」であると言います。イザヤ書の時代ではイエス様の十字架と復活の出来事はまだ預言されただけでした。預言されたことが実際に起こったおかげで、神は私たちに永遠の命の約束も必ず果たして下さるのだとわかるようになりました。こうしてイエス様の十字架と復活の「福音」と永遠に続く神の言葉は切っても切れない関係になりました。イエス様の福音を宣べ伝えることは、神の永遠の命の約束は本当なのだと宣べ伝えることになるのです。

3.さて、この世には枯れない散らない、永遠に続く神の言葉というものがあることがはっきりしました。それは、イエス様の十字架と復活の「福音」に裏打ちされた、神の永遠の命の約束です。この約束が果たされると信じて生きることは、永遠に続くものがあると信じることになります。それだけではありません。第一ペトロの聖句では、「人間」は草のように枯れると言っていますが、ギリシャ語では草のように枯れるのは「肉」(σαρξבשר)です。そして、神の言葉を受け入れて聞き従う者は「新しく生まれた者」と言います。つまり、人間の有り様が肉だけではなくなって、霊が加わるのです。それで、永遠に続くものがあると信じるだけでなく、永遠そのものに与ることになるのです。枯れたり散ったりするものばかりのこの世にあって、朽ち果てないものに属して生きることになるのです。

 それでは、永遠に続くものを信じ、永遠そのものに与って生きることは、日本人らしくないでしょうか?また、咲いている時間が短いゆえに美しさが一層際立って見える桜の花を美しいとは感じなくなってしまうでしょうか?

そういうことにはならないと思います。というのは、キリスト信仰者は、桜の花が短く咲いて散ってしまうことにも、永遠を司る神の御心が表れているとわかるからです。花の後は葉桜になって、花ほど美しくないかもしれないが、その新緑はゴールデンウィークの頃までは陽光の中でキラキラ輝きます。その後は緑濃くなって夏を越し、秋には散って、木枯らしの冬を越して、また3月終わりに芽が出てきて見る見るうちに開花します。花が散るというのは、一つの素晴らしい段階が終わって次の素晴らしい段階の始まりです。ひっそりと佇む段階もあるが、その後にまた素晴らしい段階が来る。創造主の神は桜にそのような習性を与えたのです。このように季節に応じた桜の有り様に神の御心を知ることができます。もちろん、樹齢長い桜と言えども、神が与えた寿命を満たせば枯れてしまいます。それでも寿命と季節の有り様を与えた神の御心はそのままで変わりません。

 永遠に続くものを信じ、それに与って生きることが日本人らしくないとすれば、何が日本人らしいでしょうか?その日本人らしさの中では、希望や喜びは何でしょうか?

 キリスト信仰者の希望や喜びは、永遠に続く神の言葉を信じ、永遠の命に与ることにあります。神は、人間が御心に沿って罪から離れて生きるようにと、御言葉を与えました。さらに御言葉を正確にわかってそれに基づいてこの世を生きて、永遠の命への道を歩めるようにと、イエス様を送られました。そういうふうに言うと、キリスト信仰者は永遠の命ばかり考えてこの世で生きることはどうでもよくなってしまうのか、と思われてしまうかもしれません。いいえ、そんなことはありません。第一ペトロの聖句は永遠に続く神の言葉について述べていますが、同時に愛し合いなさいと勧めていることにも注目しましょう。イエス様の福音に裏打ちされた神の言葉を受け入れ聞き従う者は、神から頂いた恵みの大きさにただただ恐れ入りひれ伏してしまうので、もう些細な事、利己的な思いや下心、他者との比較などは馬鹿馬鹿しくなって、そういうものから心が洗われてしまいます。その清められた状態にふさわしい生き方は愛に生きることだと、ペトロはまだ気づいていない信仰者に思い起こさせているのです。

 ところで神の御心は、神の創造の中にある自然の営みにも表れています。その中には、人間にとって冷酷な自然もあります。それに挑むと命を落としてしまうような自然です。瞬間風速60メートルの暴風の中を、神が守ってくれるから大丈夫だ、などと言って車で出かけるのは、神を試すことになります。他方で、人間に喜びと感動を与える美しいものもあります。昨晩、皆さんと一緒に星野富弘さんの半生記を扱ったビデオを見ましたが、その中で彼が、体が自由な若い頃はよく山に登り花なんかあまり目を留めなかったが、体が不自由になって花が身近な自然になって以来、花には「手の込んだ美しさがある」とわかるようになったと言っていました。まさにこのことです。この世で永遠の命への道を歩む私たちは、神の御心が働いている美しいものをもっと見つけようではありませんか。何が神の御心が働く美しいものかは、御言葉に基づいて生きていけばわかるはずです。御心が働いているとわかれば、美しいものから慰めと力づけを得られます。神はそのために美しいものを備えて下さったのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2018年10月1日月曜日

キリスト信仰にあって他者に仕えるとは? (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2018年9月30日 聖霊降臨後第十九主日

エレミア書11章18-20節
ヤコブの手紙4章1-10節
マルコによる福音書9章30-37節

説教題 「キリスト信仰にあって他者に仕えるとは?」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 先週の福音書の個所はマルコ82738節でしたが、それはマルコ福音書全体の中で大きな転換点をなしているということを先週の説教でお話ししました。それまでガリラヤ地方とその周辺地域で活動していたイエス様は、ガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで先週の箇所の出来事があって、イエス様は初めて弟子たちに自分の受難と死からの復活について預言します。9章に入ると「高い山」に登って自分の姿が変わるところを弟子たちに目撃させる出来事があります。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。

南下途中のイエス様と弟子たちは、まずガリラヤ地方に戻ってきます。少し奇妙なことに本日の個所でイエス様は自分が同地方に入ったことを人に知られたくなかった(30節)とあります。なぜでしょうか?これは、先週申し上げたことを思い出すとよいでしょう。先週の箇所で、イエス様は弟子たちに自分がメシアであることを言い広めてはいけないと命じたことがありました。その理由として、メシア、すなわち頭に油を注がれて神の目的のために聖別された者のことですが、そのメシア理解についてイエス様が自分自身について考えていたことと人々の理解の間に大きな相違がありました。イエス様にとってメシアというのは、人間と神との結びつきを回復して、人間がその結びつきの中でこの世を生きられるようにする、また人間がこの世から去ることになってもその時は自分の造り主である神のもとに永遠に戻れるようにする、そういうことを実現する者がメシアでした。まさに人間の救い主です。ところが当時の人々は、メシアと聞けば、ダビデ王朝の子孫がユダヤ民族を他民族支配から解放して王の位について諸国に号令をかけるという民族解放者をイメージしていました。このような理解が持たれたのは、旧約聖書のあちこちにそういう理解ができる預言があったからですが、天地創造の神の意図はそんな一民族の解放にはありませんでした。しかしながら、特定の歴史状況の中で生きてその中で抱かれてきた夢や願望を皆が共有していると、旧約聖書にある神の深い本当の意図を理解することはなかなか難しいことでした。これは、きわめて人間的なことです。メシアが神の意図に沿う正しい理解がされるためには、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事を待たなければなりませんでした。

そういう時勢でしたから、もしイエス様がメシアであると言い広められたらどうなるか?ユダヤ民族の人たちはついに自分たちの解放者がやって来た、と大喜びですが、当時ユダヤ民族を実効支配していたローマ帝国やそれに取り入る傀儡政権の指導層は絶対反対だったでしょう。ローマ帝国は反乱に神経をとがらせていたので、もし鎮圧部隊出動ということにでもなれば、イエス様のエルサレム入城予定に支障をきたしたでしょう。イエス様にしてみれば、全ての出来事が福音書に記されているように起きるためには、今のところは自分がメシアであると言い広められない方が目的に適ったのです。

2.弟子たちのメシア・イメージの混乱

ところで、ガリラヤ地方に戻ってきたイエス様一行が、まだガリラヤ湖畔の町カペルナウムに到着する前のことでした。イエス様は再び自分の受難と死からの復活について預言します。先週の福音書の個所で初めてこの預言が語られました。その時は、驚いたペトロがそんなことはあってはならないと否定して、イエス様からはお前は人間の栄光だけを考えて神の計画を無にしようとしている、悪魔同然、と叱責されてしまいます。ペトロのメシア理解が民族解放の英雄だったことを露呈したのです。この二度目の預言の時も、弟子たちはその意味をまだ理解できず、反論すると厳しい叱責が待っているので怖くて何も聞くことができません。メシアの正しい意味を理解できるためには、本当に十字架と復活の出来事が起きないと無理だったのです。

この時、弟子たちの間でイエス様に従っていくことは一体何なのだろうかという疑問が起きたと考えられます。この方はエルサレムに入城したら神の偉大な業を行って、天から降ってくる天使の軍勢と一緒に占領者と傀儡政権を打ち倒し、民族を解放して真の王として君臨して諸国に号令をかける、まさにそういう方と信じて、我々はついてきたのではなかったか?それなのに、自分は殺されてしまうなどと言われる。しかも、3日後に死から復活するなどとも。それではユダヤ民族の解放はどうなってしまうのか?直近の弟子としてついて来ている我々の立場はどうなってしまうのか?殺されてしまうと言うのは、あまりにもあっけない結末ではないか?しかし、死から復活するというのは一体何なのだ?新たに指導を開始して民族解放運動が新局面に入るということなのか?こんなふうに、弟子たちの抱いてきた民族解放や英雄のイメージが壊されて、新しいイメージが描ききれないという状況があったと思われます。このイエス様の再度の預言の後で弟子たちは、「誰が最も偉大な者か」ということについて議論し合いますが、恐らくメシア・イメージが混乱したことが原因にあったと考えられます。

3.キリスト信仰にあって他者に「仕える」とは?

 さて、カペルナウムの滞在先となった家の中でイエス様は弟子たちに道中何を話し合っていたのかと聞きました。弟子たちは答えませんでしたが、イエス様は全てお見通しでした。そこでイエス様は、最も偉大な者について教えます。これは、人間の目から見たのではなく、神の目から見て最も偉大な者ということです。イエス様の教えは35節から37節までの3節に凝縮されています。まず35節で言葉で教えます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」人間の目から見たら、偉大な人、先頭に立つ人というのは、皆から尊敬されたり畏怖されたりして皆に仕えられる人です。ところが、イエス様に言わせれば、他人に仕えてもらう者ではなく、逆に他人に仕える者の方が神の目から見て偉大で先頭に立つ者である、ということなのです。人間の目から見たら逆ですが、神の目から見たらそうなのだ、というのです。

他人に仕えることで神の目から見て偉大な者、先頭に立つ者になったのは、まさにイエス様でした。イエス様は神のひとり子として本来ならば天の御国にて神の栄光に包まれていればよいお方でした。ところが、人間が神に対する不従順のために罪を持つようになってしまって神との結びつきを失ってしまった、そのために神は人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしようと、それでひとり子のイエス様をこの世に送られました。人間の乙女マリアを通して生まれるという仕方で送られました。それで、人間の心と体と魂を持てて、私たち人間の悩みや苦しみをわかることができたのです。そして最後は、神からの罪の罰を全部人間の身代わりとなって引き受けて十字架の上で死なれました。人間は、この神のひとり子の身代わりの犠牲が自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この犠牲に免じて神から罪の赦しが得られ、そのようにして神との結びつきが回復することとなりました。

それだけではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命の扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。神との結びつきを持って生きる者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになってもその時は自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。私たち人間にこの救いをもたらすために、イエス様は神の栄光に包まれたひとり子でありながら、私たち人間と同じ姿かたちをとってこの世に送られて十字架の死と苦しみを受け入れたのです。まさに、全ての人の後になって全ての人に仕えたのです。まさにこのことが使徒パウロの「フィリピの信徒への手紙」2章の中で述べられています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです(611節)」。

このようにイエス様は、もともとは全ての人に先立つ方だったのに全ての人の後になって全ての人に仕えて、再び先頭に立つ者となられたのです。イエス様は弟子たちに、先頭に立つ者になりたかったら、全ての人の後になって全ての人に仕えなさい、後になろうともせず仕えようともしない者は先頭に立つ者にはなれない、と教えました。これはどういうことでしょうか?もちろんこれは、弟子たちも犠牲の生け贄となって十字架にかかって神から罪の赦しを得られるようにしなさい、ということではありません。罪の赦しと神との結びつきを回復してくれた犠牲は神のひとり子が全て行いました。私たち人間がひとり子と同じくらい神聖な生け贄になれるわけがありません。神が受け入れられるくらいに神聖な生け贄は神のひとり子しかいません。そういうわけで、人間を罪の支配状態から贖い出す犠牲はイエス様の十字架一回限りで、それ以上はいらないのです。そうすると、「すべての人の後となり、すべての人に仕える」というのはどういうことでしょうか?

キリスト信仰にあって他者に「仕える」というのはどんなことかを考える時、使徒言行録6章の出来事が参考になります。エルサレムで最初のキリスト信仰者たちが共同体を形成しつつあった頃でした。12弟子は祈りや神の御言葉を教えるだけでなく、礼拝・集会に来た人たちの食事のことも監督しなければならない状態でした。そこで礼拝や教えに専念することができるように、つまり信仰者の霊的な必要を満たすことに専念できるように、食事のような信仰者の体の必要を満たすことに専念する人たちを別に選出したのです。使徒言行録6章に出てくる「仕える」という言葉は、このように神の御言葉に仕えることと(τη διακονια του λογου4節)、体の必要を満たす仕え(διακονειν τραπεζαις 2節)の双方に関係してきます。

そういうわけで、キリスト信仰にあって「仕える」とは、既にイエス様を救い主と信じている人たちの間では、その信仰にしっかりとどまれるように、イエス様のおかげで回復した神との結びつきを失わないで生きられるように、霊的・肉的に支えることであると言うことができます。そう言うと、クリスチャンは相手が信仰者でなかったら「仕え」ないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。天地創造の神の意志は、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようにすることです。それなので、相手が信仰者でない場合は、その結びつきを回復できるようにすることを念頭に置いて助ける、仕えるということになります。そう言うと今度は、それじゃ、宗教に勧誘するための人助けではないかと言われてしまうかもしれません。確かに、神との結びつきの回復など持ち出さないで、人助けや仕えをすることは可能です。しかし、キリスト信仰の場合は、どうしてもイエス様の十字架のおかげで神との結びつきに道が開いたということがあるので、どうしてもそれが関係せざるを得ないのです。それに、物質的な支援は万能ではなく、霊的な支援にこそ計り知れない力が秘められているということがあると思います。このことは、イエス様の言葉「人はパンのみに生きるにあらず、神の口から語られる全ての言葉によっても生きる」(マタイ44節)、これを思い巡らすと見えてくるのではと思います。自分の造り主との結びつきは決して失われない、という確信があれば、たとえ物質的な支援に限りがあったとしても絶望状態にはならないのではないでしょうか?キリスト信仰の支援というのは、そういう確信にかかわるものです。

4.「イエス様の名前に依拠して」

全ての人に仕えること、これはキリスト信仰の場合、人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにする、霊的に肉的にそう出来るように支えてあげる、ということを述べてまいりました。そのことが続く36節と37節のイエス様の行いと教えに結びついています。行いとは、子供を弟子たちの前に立たせて抱いたことです。教えとは、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」です。このイエス様の行いと教えは、どうキリスト信仰者の「仕え」と結びつくのでしょうか?それを見ていきましょう。

イエス様は、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(36節)。私たちの新共同訳では「抱き上げて」とありますが、ギリシャ語の動詞εναγκαλισαμενοςは、「曲げた腕(αγκαλη)の中に入れる(εναγκαλιζομαι)」という意味ですので、そのままでいけば「抱きしめる」の意味です。それにこだわると、子供は立ったままということで、イエス様が屈むようにして腕を回して抱いたということになります。もちろん、子供を真ん中に立たせた後すかさず、よっこらしょっと、と抱っこした可能性も否定できません。どちらでも良いではないかと思われるかもしれませんが、子供を抱っこするというのはよくあることなので、立たせたまま屈んで抱いた方がとても劇的な感じがします。

いずれにしてもイエス様は、全ての人の後になって仕えるということを教えるために、弟子たちの前に子供を連れてきて抱っこするなり抱きしめるなりしました。そして行為を言葉に言い換えて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。イエス様を受け入れること、またイエス様をこの世に送られた神を受け入れること、これは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ、神をイエス様の父として信じることです。まさにキリスト信仰そのものです。イエス様は、子供を受け入れることがそういうキリスト信仰を証しするような、そんな子供の受け入れ方をしなさい、それが全ての人の後になって仕えることになる、それで神の目からみて先頭に立つ者になる、と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

子供を受け入れることがキリスト信仰を証するような、そんな子供の受け入れ方とは、どんな受け入れ方でしょうか?ここでカギになってくるのが、子供を受け入れる時、「私の名のために」と言っていることです。イエス様の名のために子供を受け入れる。それでは「イエス様の名のために」とはどんなことなのか?これもギリシャ語の厄介な表現がもとになります(επι τω ονοματι μου)。英語、ルター訳ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳の聖書ではどれも、「私の名において」です(in my name, in meinen Namen, minun nimessäni, i mitte namn, ただし、Einheitsübersetzung訳では「私のためにum meinetwillen」)。イエス様の名において子供を受け入れる、これもわかりそうでわかりにくい表現です。イエス様の名前と子供の受け入れはどう関係するのでしょうか?

ギリシャ語の表現のもともとの意味は、「イエス様の名に基づいて」とか「依り頼んで」という意味です。そうは言っても、それが子供の受け入れをどう規定するかはまだまだわかりにくいです。ただ、一つはっきりしていることがあります。それは、子供を受け入れる際に依拠するのがイエス様の名前であって、他の何者の名前にも拠らないということです。子供を受け入れる時、引き合いに出すのは誰か過去の偉人が慈善を沢山行ったから自分もそれに倣ってそうする、ということではない。また他ならぬ自分が善意を持って慈善をするというような自分自身に依拠することでもない。ましてやいろんな宗教の神々や霊の名を引き合いに出すことなんかでもない。ただただイエス様の名前だけを引き合いに出してそれに依拠して、子供を受け入れるということです。

それでは、その唯一の名前の持ち主であるイエス様というのはどんな方でしたか?イエス様とは、十字架の犠牲の死を遂げることで人間を罪の支配状態から贖い出して下さった方です。そして死から復活されたことで人間に永遠の命の扉を開かれた方です。このように人間の救いを実現して下さった方なので、その名前は先ほどの「フィリピの信徒への手紙」にも謳われていたように、あらゆる名にまさる名であり、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてがひざまずく名です。そのような名を引き合いに出して子供を受け入れるというのは、まさに受け入れられる子供も、受け入れをする大人と同じように、イエス様が実現した罪の赦しの救いを受けられるようにすることです。そして大人と同じように神との結びつきを回復してこの世を生きられ永遠の命に至る道を歩めるようにすることです。つまり大人と全く変わらぬ神の御国の一員に受け入れて一員として扱い、かつ一員でいられるように育てたり支えたりすることです。たとえ子供であっても大人と同じくらいに、イエス様が実現した罪の赦しの救いは提供されている、永遠の命に至る道は開かれている、ということをしっかり認めて、子供もそれを受け取ることができるようにしてあげる、その道を歩むことができるようにしてあげる。

このように考えれば、イエス様の名のために、とか、イエス様の名において、とか、その名に依拠して、とか言って、子供を受け入れるとはどういうことかおわかりになるのではと思います。こういう受け入れ方をした時、ああこの人はイエス様を受け入れている、イエス様を送られた父なるみ神を受け入れているということがわかるのです。そのようにして子供を受け入れ導いた時、その子供はイエス様に抱っこされたか、または抱きしめられたことになるのです。

ところで、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いと永遠の命に至る道というものは、子供だけに提供されたり開かれたものではありません。提供されているにもかかわらずまだ受け取っていない人、開かれているにもかかわらずまだ歩んでいない人は大人も子供も含め世界にまだまだ大勢います。また、一度は受け取って歩み始めたが、受け取ったことを忘れてしまったり道に迷ってしまった人もいます。その意味で、イエス様が弟子たちの前で立たせて抱きしめるのは別に子供でなくてもよかったのですが、やはり弟子たちが「偉大なものは誰か」ということに関心が向いてしまって「仕える」ということを忘れてしまっていた時なら、小さい子供を抱きしめるのを見せるのは効果的だったでしょう。このイエス様の抱きしめが、「仕える」ことを目に見える形で表したのです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちは、イエス様に抱きしめられた者、抱っこしてもらった者ですので、お互いに信仰を支えあうようにしましょう。まだ救いを受け取っていない人や道に迷ってしまった人たちに対しては、受け取ることが出来るように、道に戻ることが出来るように祈りましょう。もしそうした人たちに教えたり諭したりする機会が来ることをよく注意し、もしその機会が与えられたら、神が聖霊を働かせて相応しい言葉を与えられるように祈りましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン