2016年10月31日月曜日

「信仰浄化」としての宗教改革 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年10月30日(聖霊降臨後第24主日)スオミ教会

列王記下22章8-20節
ガラテアの信徒への手紙5章1-6節
ヨハネによる福音書2章13-22節

説教題 「信仰浄化」としての宗教改革


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.宗教改革をどのように考えたらよいか?

 本日はキリスト教会のカレンダーでは聖霊降臨後第24主日と定められている日ですが、ルター派教会のなかでは宗教改革主日とも定められています。今から499年前の1517年、ドイツ東部の地方都市ヴィッテンベルグの大学の神学教授であったM.ルターが当時のカトリック教会のあり方に疑問を呈して公開討論を求めて95箇条の論点を公表、これがきっかけとなって、その後「宗教改革」と呼ばれる世界史的な出来事に発展していきました。論点を公表した日がその年の1031日だったため、その日に近い主日が宗教改革主日に定められているわけです。よく言われるようにルターが95箇条の論点の紙を本当にヴィッテンベルグの教会の扉にくぎ打ちしたのかどうかは、歴史的事実として確定されていないようです。ルターの肖像画を描いたことで有名なルーカス・クラナハという画家がおりますが、今ちょうど上野の国立美術館で展覧会をやっております。彼のルターの肖像画はどれをみても自信満々というか、ふてぶてしい顔つきをしていて、この男ならくぎ打ちくらいやったのではないかと思わせます。今手元にフィンランドの聖書日課がありますが、その表紙はクラナハが描いたルターの肖像画です。こんな顔です。いずれにしても、少なくとも1031日の日付で95箇条を大司教宛てに送付していますので、この日が宗教改革の発端というのは間違いないでしょう。来年は500年を迎えることになります。





ルターが問題として提起したことは、世界史の教科書にも出て来るのでよく知られていますが、当時のカトリック教会が実施していた、いわゆる免罪符、難しい言葉で言えば贖宥状の制度でした。お金を出してこれを購入すれば犯した罪に対する神の罰を免れるというものです。しかし、問題は免罪符という一つの制度の是非にとどまりませんでした。論争は、そのようなものを生み出した教会の聖書の理解とか罪や救いについての考え方、教会や教皇の権威についての考え方、さらにはそうしたもの全ての土台にある神学や哲学という根本的なところにまで広がりました。さらに、ルターを支持するか反対するかということが単なる神学的な意見の相違に留まらず、当時のドイツやヨーロッパの社会や政治状況とも絡み合って、ヨーロッパ全体を揺るがす宗教、思想、政治、社会に及ぶ大変動が起こったのであります。

その結果、ヨーロッパのキリスト教世界がカトリック教会の一枚岩ではなくなり分裂していきました。ヨーロッパのキリスト教世界は既に11世紀までに、西方教会と呼ばれるカトリック教会と、東方教会と呼ばれ後のギリシャ正教、ロシア正教になっていく教会が東西二つに分裂していました。それが今度は西のカトリック教会内部で分裂が起こったのです。ルターが95箇条の論点を掲げてから100年以内には、地域的に大ざっぱにみて北部ヨーロッパはルター派、中南部はカトリック、イングランドは英国国教会、オランダや中部ヨーロッパの一部はカルヴァンの宗教改革に由来する改革派教会に色分けされ、その他に再洗礼派と呼ばれる教会が各地に点在するという状況になりました。

ヨーロッパ全体を揺るがす宗教、思想、政治、社会に及ぶ大変動が起きたと言う時、それぞれの領域でどんな変動が起こったかを話すことは西洋史の専門家に任せなければなりません。ここでは一つだけ、宗教改革の後世に対する影響の中で洋の東西を問わず重要な意味を持つものについて述べてみたいと思います。ルターは、当時の神聖ローマ帝国の帝国議会に召喚され、居並ぶ権力者たちの前で自説を撤回するように求められました。その時ルターは、自分の良心は神の御言葉に結びつけられている、神の御言葉に照らして明らかに間違っているのならば話はわかるが、そうでない以上は撤回などできない、と言って拒否しました。その結果、ルターは国内での法律上の一切の権利や保護を失います。このように、人間には権力者が曲げようとしても曲げられないものがある、それがたとえ命を失う危険を伴ってもやはり曲げられない、そういう崇高なものがある、ということをルターは身をもって示しました。この事件がもととなって後に「良心の自由」と呼ばれる人権の一つの要が出てくるのです。

 このように「宗教改革」と呼ばれる出来事は、宗教以外の領域にも大変動をもたらしたのですが、宗教の領域に限ってみて、どんな改革だったかを考えてみます。「宗教改革」は英語、ドイツ語、スカンジナヴィアの言語ではみな同じ言い方をします。Reformationです。フィンランド語では一風変わっていてuskonpuhdistus「信仰浄化」という言い方がされます。Reformationという言葉をみてみますと、formation「形作ること、形成すること」に「し直す」の意味を持つreがつきます。「形作り直すこと、形成し直すこと」です。

それではキリスト教の何をどう形作り直す、形成し直すのかというと、以下のようなことです。カトリック教会はもともとは使徒的な信仰を守り受け継ぐ教会として出発しました。ところが時代の変遷と共に聖書に基づくとは言えない制度や慣行も生み出されて伝統化していき、免罪符はその最たるものでした。ルターが行おうとした改革運動は、そういう聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てて、ただ神の御言葉である聖書のみに権威を認めて、その下に教会を成り立たせようとするものでした。これがキリスト教とその教会を形作り直す、形成し直す、ということです。フィンランド語で宗教改革を「信仰浄化」というのは、まさに神の御言葉にのみ権威を認めて、聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てていくという面を前面に出していると言えます。

一般には「改革」という言葉は、過去の古いものをやめて新しいものにとって替えて時代の要請に応えられるようにするという理解がされると思います。日本語で行政「改革」とか教育制度「改革」という時、それを英語に直すとreformを使います。そういう政治的社会的な「改革」は、reformationを使わずにreformを使うのです。ところが宗教「改革」はreformではなく、reformationです。注意が必要です。日本語で同じ「改革」という言葉を使うからと言って、政治的社会的な改革と同じように考えてはいけません。ルターの行った宗教改革とは、ただ単に過去の古いものをやめて新しくして時代の要請に応えたというような改革ではなかったのです。前にもみましたように、ルターの場合は、まず聖書という過去に成立した根源的な権威に立ち返り、聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てていく、そのようにして聖書の権威に立ち返ろうとする時にそれを邪魔するものを打ち破っていく、その結果として時代の行き詰まり状況を打ち破って新しい地平線が開けた、これがルターの改革の本質ではないかと思います。このように宗教改革は「改革」とは言いつつも、根源的な権威に立ち返るという方向性があります。ルターは聖書を研究する際には新約聖書はギリシャ語、旧約聖書はヘブライ語の旧約聖書を用いましたが、根源的な権威に立ち返ろうとすれば原語にあたろうとするのは当然のことでしょう。そういうわけで、もしキリスト教会が人間の編み出したものに縛られ出した時には、使徒的な信仰を守りギリシャ語とヘブライ語の聖書に依拠する者は宗教改革を起こせる可能性を持っていると言うことができます。

2.ヨシア王の「信仰浄化」

 以上、少し長くなりましたが、宗教改革というものをどのように考えたらよいかということを述べました。本日の聖句の解き明しに入ろうと思います。本日の旧約聖書と福音書の日課をみますと、双方ともそれぞれの仕方で「信仰浄化」の面がみられ、ある意味で宗教改革的な出来事と言えます。

まず、旧約聖書の日課はユダ王国のヨシア王の時代の出来事です。イエス様の時代より約650年前、私たちの時代から約2650年前のことです。ちなみに宗教改革は、イエス様の時代から約1500年くらい後に起きました。ダビデ王、ソロモン王のイスラエル王国が南北に分裂して出来た北王国がアッシリア帝国に滅ばされて100年位たっていました。南のユダ王国は信仰ある王ヒゼキヤのもとでアッシリア帝国の攻撃を防ぎましたが、その次のマナセ王が天地創造の神を離れて異教の神々を崇拝し出し、国は宗教的にも政治的社会的にも神の意思に反することばかりとなってしまいました。このマナセ王の大罪のゆえに神はユダ王国も見捨てると決定しました(列王記下2326節、243節)。どのように見捨てるかと言うと、アッシリア帝国の後に興ったバビロン帝国を罰を下す手段にして、これにユダ王国を滅ぼさせるというものでした。この罰はマナセ王の100年程あとに実現します。ユダ王国は滅ぼされ、その主だった人たちは捕虜としてバビロンに連行されました。これは歴史上、実際に起きた事件です。

さてマナセ王の大罪ですが、その次のアモン王も偶像崇拝をやめませんでした。ところが、その次に王位を継いだヨシアは祖父と父親の偶像崇拝に倣おうとせず、天地創造の神に立ち返ろうとしました。ある日、エルサレムの神殿の改修工事に携わる者たちの給与問題を解決するために書記官シャファンが神殿に派遣されました。神殿の大祭司ヒルキヤが神の律法の書物を発見したと言って、それをシャファンに渡します。律法の書物とは、モーセ五書の原型のようなものだったと考えられます。シャファンはそれを持ち帰って、ヨシア王に読み聞かせました。王は大変な衝撃を受けました。そこに書いてあったのは、天地創造の時から最初の人間の堕罪、そこからアブラハムをはじめとする家父長たちの出来事、さらにイスラエルの民のエジプト脱出からカナンの地への移住の出来事ですが、それはただ単に歴史の流れの記録ではなく、いたるところに神の意思と掟が詳しく記されていました。ヨシア王は、神に選ばれた筈のイスラエルの民がどれだけ神の意思に反してきたか思い知らされました。しかも書物には、神の意思や掟に反すれば何が起きるかについてもちゃんと記されていました。神の罰としてイスラエルの民が他国に滅ぼされて強制連行されてしまうということです(申命記28章)。

 ヨシア王は家臣を女預言者フルダのもとに送って、神の罰を避けるために何をなすべきか、ということについて神の意思を尋ねさせます。残念ながらユダ王国に降りかかる災難は変更されないことが明らかになってしまいました。ただヨシア王が神に立ち返る心を持ったことは受け入れられて、災難はヨシア王の時代には起こらないことになった。これが、ヨシア王が神からかけてもらった憐れみでした。

ヨシア王は、ユダ王国の運命はもう変えられないとは知りつつも、それはそれとして、やらねばならないことは結末がどうであれやらねばならないこととして、偶像廃棄の大改革を始めます。それは本日の日課の後の23章に記されています。そこを読んで驚かされるのは、ユダ王国全土にはいかに異教の神を祀ったり生け贄を捧げる場所が沢山あったかということです。そればかりではありません。エルサレムの神殿にも異教の神々の偶像が設置されていたのです。アシェラ像というのが何回も出て来ますが、これはカナンの地の神バールの妻の女神で農作物に豊作をもたらす神として信仰されていました。イスラエルの民がカナンの地に入った時は牛や羊を引き連れる牧畜の民でしたが、定住が進んで農耕を始めると、このカナンの豊穣の神が身近に感じられるようになったと思われます。列王記下23章にもあるように、アシェラ女神崇拝には神殿男娼もつきものだったというから、おぞましい限りです。そのようなものが国中に蔓延していたのです。ヨシア王はこれらを次々と破壊し、ユダ王国を天地創造の神に立ち返らせようとしました。しかしながら、このヨシア王の宗教改革は一代限りでした。ヨシア王の後を継いだ王たちは皆また偶像崇拝に戻ってしまいます。

このようにヨシア王は、根源的な律法に立ち返って国や社会を天地創造の神の意思に沿うものに戻そうとして、偶像という人間が編み出した被造物の崇拝対象を廃棄しようとしました。この意味でヨシア王は信仰の浄化に努めたということができます。しかし、それでも神が既に定めた国や民族の運命を変えることはできませんでした。神が王に憐れみをかけたのは、せいぜい王が自分の国の滅亡を目にしないで、それが起きるのは王がこの世を立ち去った後になるということでした。それでは、なぜ神はかける憐れみをもう少し大きくして民全体に対する罰を撤回するところまで行かなかったのでしょうか?神は、マナセ王の大罪がイスラエルの民の運命を決した、ということに固執するかのようです。ヨシア王のように律法に徹底して立ち返るということをしても、せいぜい災難の時期を後ろにずらすだけでした。一度燃え上がった神の怒りは、律法の掟を一生懸命守っても静められないのです。これは、人間は律法の掟を守ることによって神に「よし(義)」と認められないし、救いも受けられないということを示しています。人間が神に「よし(義)」と認められて救いを受けられるためには、神のひとり子イエス様がこの世に送られるのを待たなければなりませんでした。

ところで、イスラエルの民は罰が確定されてしまい、バビロン捕囚に陥りますが、まさにその捕囚の時に人間の救いの道筋が示されるということが起こりました。ダニエルの出来事と預言がそれです。バビロン捕囚が起きたからこそ、ダニエルが登場して、彼が異教の王たちの前で行った力強い信仰告白を私たちは聞くことができます。また「人の子」と呼ばれる救世主の到来や死からの復活が起きるという預言もダニエルを通して聞くことができます。神の罰としてのバビロン捕囚が起きなかったならば、ダニエルの信仰告白も預言も生まれなかったのです。

そういうわけで、神はダニエルを通して救世主の到来や死からの復活について人間に伝えさせるために、バビロン捕囚を実行したとさえ言えます。このように神の歴史運営というのは、一見して人間の救いにとって無意味に見える出来事を用いて意味あるものに変えるということもされるのです。本当に人智を超えた全知全能の神ならではの業です。ダニエルの他にも、神は自分が罰したイスラエルの民を見捨ててはいないことを示すために、今度はペルシア帝国にバビロン帝国を滅ぼさせて民がユダの地に帰還できるようにする憐れみを示します。これは出来事が起きる前にイザヤ書などの預言書にて預言され、実際に実現したのです。

3.イエス様の「信仰浄化」

次に福音書の日課は、エルサレムに乗り込んだイエス様が神殿で商売をしていた者たちを荒々しく追い出すという出来事です。これは一見すると、イエス様は神殿から商売とか金銭のようなものを排除して、神の崇拝を清らかなものにしようとしているように見えます。しかし、実はそうではありません。神殿での崇拝を清めようとしているのではなく、神殿での神の崇拝自体を止めさせようとしているのです。それがわかるために、神殿で行われていた商売は、実は神殿での崇拝をスムーズにするためのものだったことに注意しましょう。商売人たちは、ただ単に金儲けのために売っていたのではないのです。エルサレムの神殿にお参りに来る人たちは、地中海世界各地のユダヤ人であったり、多神教的なギリシャ人、ローマ人だったりしました。彼らのお参りの便宜を図るために、両替をしたり、神殿に捧げる犠牲の生け贄の動物を売っていたのです。まさに神殿での崇拝の運営をスムーズにさせるものでした。

神殿から商売人を追い出したイエス様の意図は、神殿で動物の生け贄を捧げて罪を赦されるという崇拝の形式はもう歴史的使命を果たしたということを表明する行為だったのです。神から罪を赦されるためには神殿で生け贄を捧げることを毎年繰り返さなければなりませんでした。もうすぐ罪の赦しのために一回限りですむ犠牲の生け贄が供される。神と人間の間に何か決定的なことが起きる。その一回限りの犠牲の生け贄がイエス様だったのです。これから罪の赦しのために捧げられる生け贄は、毎年繰り返して捧げるような効力が一時的なものではない。一回限りの犠牲で十分というくらい永久保証が効いています。それくらい神によしと認められる神聖な犠牲が捧げられる。捧げられた後は、今やっている神殿での崇拝はもう用を足さなくなるというくらい神聖な犠牲が。

そもそも神殿で罪の赦しを得る崇拝が行われてきたのは、将来の本番に備える予行練習のようなもので、本番とはイエス様がゴルゴタの丘の十字架にかけられて自分を犠牲に捧げた時のことでした。本番が成し遂げられて、もう予行練習は必要なくなりました。それでイエス様は、今ある神殿を壊してみよ、自分は三日後にそれを立て直す、と言われたのです。壊してみよ、というのは、もう動物の生け贄のような身代わりになるものを捧げて自分の罪の赦しを得ようとするやり方は終わったのだ、神殿は歴史的使命を果たしたのだ、ということです。三日後に立て直す、というのは、十字架の上で死んだイエス様が今度は神の力で三日後に復活させられることを指します。ユダヤ人たちは、このメタファーを理解せず、文字通りに受け取って少し滑稽ですが、復活させられたイエス様が私たちを罪の支配状態から解放して下さる、その意味でイエス様がまことにもって神殿の機能を果たすのです。

神から罪の赦しを得られて、罪の支配状態から解放されるには、神のひとり子の神聖な犠牲で十分でした。そのひとり子を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それで神から受ける罪の赦しは効力を持ち、その人は罪の支配状態から解放され、堕罪の時以来失われていた神との結びつきを回復させることができます。これらのことは、本当に神のひとり子の犠牲で十分なのです。あとのことは罪の赦しに関係のない余計なことです。神に認められようとして人間が自分で何かをしようとするのは余計なことです。何度でも申しますが、イエス様が全部して下さったので、人間が神との結びつきを持って生きられるためには、イエス様の犠牲を受け入れて、彼を救い主と信じれば、それで十分なのです。その他のことは余計なことですので、排除されるべきものです。ここに文字通り信仰浄化があります。

イエス様の十字架での死とは人間の罪をすべて償うために捧げられた犠牲なのだ、とわかり、それでイエス様は私が神の罰を受けないですむようにして下さったのだとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、本当にその人にとって罪の償いがその通りになります。それでその人は神の罰を免れるようになり、永遠の滅びに陥らないようになって永遠の命を持てるようになり、罪と死の支配状態から解放されます。イエス様が十字架の上で流した血を代償にして、私たち信仰者は罪と死の支配状態から買い戻されて自由の身にされました。もう何も恐れるものはありません。確かに、周囲には怖いものがあるかもしれませんが、神にこれだけ目をかけられ愛されていることがわかれば、その怖いものは一体何であろう。そうしたものはあなたにとって神でもなんでもありません。あなたの神は、ひとり子イエス様をあなたに贈られた方以外にはいません。それをいつも自分に言い聞かせるべきです。

ところで、洗礼を受けて罪と死の支配状態から解放されたと言っても、罪の思いを持ってしまうことはあるし、場合によっては罪が行為にまで現れてしまうこともあるかもしれません。しかし、その時はすぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けるべきです。あなたの罪はあのお方の肩の上に重々しく圧し掛かっている。あなたの肩には圧し掛かっていない。そのように神は罪を移動させて下さった。神に赦しを乞えば、神は、ひとり子の犠牲の死に免じて赦してあげよう、と言ってすぐ赦して下さり、もう罪を犯さないように、と優しく言って下さる。このようにイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、罪の力、永遠の命に入らせないようにする死の力は無力化しているのです。

 こうして神の愛がどのようなものかがわかって神への感謝の気持ちに満たされたあなたは、神がおっしゃられるように、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、という心になっていきます。それが、本日の使徒書の日課にある「愛の実践を伴う信仰」(ガラテア56節)ということです。ギリシャ語の原文では「愛を通じて作用する信仰」、少し言い過ぎになるかもしれませんが、「愛を通して生きたものになる信仰」です。イエス様を救い主と信じる信仰から愛が始まって、その愛が信仰を生きたものにします。このように信仰と愛はしっかり結びついています。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2016年10月26日水曜日

神のひとり子の尊い犠牲のゆえに (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年10月23日(聖霊降臨後第23主日)武蔵野教会

申命記10章12-22節
テモテへの第二の手紙4章6-18節
ルカによる福音書18章9-14節

説教題 神のひとり子の尊い犠牲のゆえに


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前が示すごとく、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。なぜ占領された国民の中に、占領国に仕えようとする人が出てくるかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように警告します。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が自分の利益しか考えない裏切り者とみなされて、同胞から憎まれていたことは驚きに値しません。

ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際に存在した徴税人とは様子が違うのです。福音書に登場する徴税人には、邪悪なところがみられないのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの悔い改めを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねました。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、これまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。

もちろん本日の箇所の徴税人は、イエス様のたとえに登場する架空の人物です。しかし、それでもこのような改心した徴税人が実際にいたことは、洗礼者ヨハネのもとを訪れた徴税人のグループがいたという歴史的事実から明らかです。ルカ19章の徴税人ザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決心をしました。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てた、ということです。

以上から、福音書に登場する徴税人は、神に背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返らなければならないと感じていた人たちでした。

ところが、聖書を読む人の中には、このような神のもとに立ち返る徴税人というものを否定する人もいます。その人の一人に、E. P. サンダースSandersという著名な新約学者がいます。1986年に出版されて世界的に注目された彼の研究書Jesus and Judaism(「イエスと第二神殿期ユダヤ教世界」とでも名付けてよいと思います)の中に、イエス様が十字架刑に処せられるに至った要因について述べているところがあります。要因の一つとしてサンダースがあげるのは、イエス様が徴税人その他の罪びとたちと食事を共にしたということです。つまり、イエス様は罪びとたちを神への立ち返りがない状態、改心していない状態で受け入れて、罪びとの罪を公に承認したというのです。これが、当時のユダヤ教社会の宗教指導層の反感を買い、イエス様に対して敵意を抱かせることになったとサンダースはみるのです。もし、イエス様と食事を共にした罪びとたちが神への立ち返りを行った「元罪びと」であったならば、それはそれで宗教指導層にとっておめでたいことだから、その場合は反感も敵意も生まれなかっただろう。しかし、実際にはイエス様は罪人の罪をおおっぴらに承認する行動に出て、支配者たちに衝撃を与えた、とサンダースは考えるわけです。

 しかしながら、それではイエス様という方は、支配者たちにショッキングなことをやってみせて体制を引っ掻き回す、なにか注目集めの騒がし屋のようになってしまいます。私としては、もっと福音書に記述されている出来事、つまり、徴税人のグループが洗礼者ヨハネのもとに行って洗礼を求めたこと、レビが全てを捨ててイエス様に付き従ったこと、イエス様に受け入れられたザアカイが不正で築いた富になんの価値も見出さなくなったこと、こうした出来事にもっと注目すべきではないかと思います。イエス様と食事を共にした罪びとたちというのは、イエス様の招きがきっかけとなって神のもとに立ち返った人たちだったのです。

 それならば、なぜユダヤ教社会の宗教指導層は、イエス様とこうした「元罪びと」たちの食事の宴をみて満足しなかったのでしょうか?もちろん、指導者たちには満足できない理由がありました。というのは、神への立ち返りということが、指導者たちの権威を素通りして、完全にイエス様の招きの力で実現したからです。マルコ福音書2章に、イエス様が全身麻痺の男の人を癒す奇跡を行った出来事が記されています。その時イエス様は、自分が人間の罪を赦すことが出来る者であると人々に示されました。罪を赦す立場にあるというのは、神と同等の地位にあるということです。このような、人間に罪の赦しを与え、神のもとへ立ち返らせることができる人物というのは、宗教指導層からすれば自分たちの権威に対する重大な挑戦と受け取られたのです。

 以上から次のことが明らかになります。もし人が天地創造の神に背を向けていた生き方を変えなければならない、神のもとに立ち返らなければならない、とわかったら、その人とイエス様の出会いはもう目と鼻の先です。キリスト信仰者の間でよく言われる言葉に「イエス様はあなたをあるがままの状態で愛される」とか「受け入れて下さる」というものがあります。誠にありがたい言葉です。しかし、これが意味するところは、イエス様は、あなたが神の意思に反する生き方をし続けてもよいと認めているということではありません。そうではなくて、それが意味しているのは、まず、「イエス様は、あなたが弱かろうが貧しかろうが、神のもとへ立ち返らなければいけない、とわかる日を待ち望んでいらっしゃる」ということです。あなたが立ち返らなければいけないとわかるや否や、「イエス様は、あなたが弱かろうが貧しかろうが、立ち返る生き方をしっかり守って支えて下さる」ということです。これが、イエス様があなたをあるがままの状態で愛し、受け入れてくれるという意味です。神の意思に反する生き方をし続けて良いという意味ではありません。

2.

本日の福音書の箇所で、イエス様は祈りについて何か教えています。そのことをみてみましょう。二つの全く対象的な祈り方について述べられています。一方は、自分は神が定めた規定をちゃんと行っていると神に報告します。まるで神に対して念を押すような高慢さが見られます。自分が周りにいるような罪びとたちと同じでないことを感謝します、などと言うのは醜いエリート意識そのものです。他方は、自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが全てです。胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。先週の主日の福音書の箇所も祈りについての教えでしたが、それは、執拗に願い求める未亡人と神をも畏れない裁判官のたとえでした。そこで、イエス様は、神を信頼して気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを教えました。それに続くのが本日の福音書の箇所で、イエス様は、神の御前で自分を低くするような仕方で祈らなければならないと教えます。

先週と本日の教えには面白い関連があります。先週の「やもめと裁判官」のたとえは、弟子たちに述べられていました。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(189節)述べられます。ここで「正しい」というのは、ギリシャ語では「義」を意味する言葉(δικαιος)ですので、「神の目から見て申し分ない」とか「神の目に相応しい」という意味です。そのように自分たちは神の御前に立っても全く大丈夫、焼き尽くされることはない、と自信満々で、他の者は大丈夫ではないと見下している者たちです。誰のことを指すのでしょうか?

「やもめと裁判官」の最後のところで、イエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、果たして、やもめのような執拗さをもって祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問をイエス様は、たとえを聞いていた弟子たちにしました。この質問をした後で「ファリサイ派と徴税人」のたとえを今度は、自分は神に相応しいと自信満々な者たちに向けて話されました。つまり、このたとえが向けられた相手というのは、弟子たちの中で、自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると信じていた者たちだったのです。自分が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか、というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる者を相手に述べられたのです。

そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の箇所の教えを、さらに一歩踏み込んだ教えと言えます。たとえ、信仰ある人が最後まで気を落とさずに絶えず祈り続けたとしても、もしその人がファリサイ派の人のように祈ったら、せっかくの絶えざる祈りといえども何の意味もなくなってしまいます。

先ほど、洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないためにヨハネの洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねたことを述べました。そして、本日の箇所の徴税人の場合は「何をしなければならない」という問いを通り越して、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけだったことも申しました。神から罰せられるというのは、この世の人生を終えた後で自分の造り主である神のもとに永遠に戻れなくなるということですが、この世の人生の後だけのことに限られません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、神から守りと良い導きを得られません。それで罰は将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっていると言えます。そこで、私は罪びとです、神に背を向けて生きてきましたと認めて、神さま、罰しないで下さい、と憐れみを乞うた徴税人が神の目に相応しい者、神の御前に出て大丈夫な者、義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。

これとは反対にファリサイ派の人の場合は、宗教的な規定をしっかり守っているので、自分では神に背を向けた生き方をしているとは思いもよらないし、神のもとに十分立ち返っていると思っていました。しかし、その彼が祈った後で、神の目に義なる者とはされなかったのです。なぜでしょうか?マルコ福音書7章にイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にするのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。それでは、どうしたら人間は自分を造られた神から切り離された状態に終止符を打てて、神との結びつきの中で生きることが出来るのでしょうか?

これを人間の力ではできないと知っていた神は、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、本来は人間が背負うべき罪の罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、このイエス様の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたのです。さらに神はイエス様を死から復活させて永遠の命があることを人間に示し、その扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の身代わりの死に免じて罪が赦されます。こうして人間は、イエス様の贖いの業とそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで神の目に相応しい者となり、神との結びつきを持ってこの世を生きることができるようになりました。神との結びつきを持って生きられるのですから、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、今度は永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようになったのです。

3.

イエス様を救い主と信じて、神との結びつきの中で生きることになったとは言っても、肉をまとって生きる私たちには、まだ同じ内在する罪や汚れた悪い思いを抱えています。神に背を向ける生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならないとわかるのは、キリスト信仰者になる時だけに限られません。信仰者となった後も、「神様、罪びとの私を憐れんでください」という祈りは終わることはありません。そのように言うと、私は徴税人のように罪を犯していないから、そこまでする必要はないという人も出て来るかもしれません。自分は、盗みも偽証もしないし、ましては不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。しかし、イエス様はこのことについて何と教えていたでしょうか?たとえ行為で犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わってくると教えました。

スウェーデンやフィンランドには罪を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」の二つを言い表す言葉があります([]gärningsyndarvsynd[フィ]tekosyntiperisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いできた罪です。これがあるから前者の罪も起こる、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。キリスト信仰者と言えども、この罪を持たないという者は誰もいません。キリスト信仰者もそうでない者もこの点では全く同じ状態にあるのです。ところが、キリスト信仰者の場合は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神から頂いた「罪の赦しの恵み」のおかげで、原罪が人間を永遠の死に押しやろうとする力を失っています。キリスト信仰者がこの信仰と恵みにとどまる限り、原罪は抜け殻のままで、死を超える永遠の命につながっていられるという希望を持つことができます。願わくば、一人でも多くの方がこの希望に与れますように。

このように信仰者となった後も、「神様、罪びとの私を憐れんでください」という祈りは終わることはありません。ただ、イエス様を救い主と信じてこの祈りを祈る人は、イエス様の身代わりの死に免じて神から罪を赦されます。イエス様を信じない人は、誰かの何かに免じて罪が赦されるということがないので、全て自分の力で神から赦しを得なければならなくなります。しかし、それは不可能です。

4.

 最後に申し上げたいこととして、本日の箇所の徴税人の祈りには「イエス様のゆえに」とか「イエス様の御名を通して」ということがありませんでした。ただ単に自分が罪びとであることを神に認めて、赦していただけるように、と神に憐れみを乞う祈りです。罪の告白だけです。「イエス様のゆえに」がないのは、このたとえが話されたのはまだイエス様の十字架と復活が起きる前のことだったので、無理もありません。徴税人は全身全霊で罪の告白をしましたが、果たして自分が神から憐れみを受けて罪を赦されたのかどうか、わかる術もなく家に帰らなければなりませんでした。もちろんイエス様は赦されたと宣言しますが、徴税人はその宣言を聞きませんから、何も確かなことはなく家に帰っただけです。神からは赦しを受けているのに、自分では全く気がつかない、全く気の毒です。

 しかしながら、十字架と復活の出来事の後は状況が一変しました。私たちは、心の目をゴルゴタの十字架に向け、あのお方の肩の上に私たちの罪が重くのしかかっていることを見ることができる時、あそこに私たちの罪の赦しがあるとわかります。父なるみ神はひとり子を犠牲にすることを厭わないくらいに私たちを愛して下さることがわかります。このように私たちの罪の告白は、「イエス様の尊い犠牲」に依拠して赦しを乞う告白です。神は、罰するかわりに本当に赦しを与えて下さることを私たちがわかるように、イエス様をこの世に送られて十字架の死に引き渡したのです。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは本当に、イエス様の尊い犠牲のゆえに、罪を赦されて神の御前に出ても大丈夫な者とされていることを忘れないようにしましょう。そして、この同じ希望に出来るだけ多くの人が与れるように福音のために働いてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン