2016年9月26日月曜日

天国と地獄と神の正義 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年9月29日(聖霊降臨後第十九主日)スオミ教会

アモス書6章1-7節
テモテへの第一の手紙6章2C-19節
ルカによる福音書16章19-31節

説教題 天国と地獄と神の正義


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

.

 本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくて架空の話を持ち出して教えています。この箇所でイエス様は実にいろいろなことを私たちに教えています。今日はそれらについてじっくり見ていきましょう。

まず、イエス様の話の中に登場する金持ちは富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人です。毎日贅沢に着飾って、優雅に遊び暮らしていたというから億万長者です。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は実際に起きた出来事に登場する現実の人ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזךという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人々はきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったことでしょう。ラザロは、金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと思っていたが、それにすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。しかし、こんな近くに助けをずっと求めている人がいたのに、金持ちはそれを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。

さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、彼の遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事は序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは、「陰府」の世界に行き、そこで永遠の火に毎日焼かれなければならなくなった。ラザロの方は、天使たちによって天の御国に連れて行かれ、そこでアブラハムと共に「宴席についた」。まさに名前の意味「神は助ける」がやっと実現したのです。

 金持ちは、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富の主人となって、富を神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。

 以上が本日の福音書の箇所の要旨です。読めば誰でも、ああ、イエス様は神に仕えず財産に仕えてしまったら天国に行けない、財産を隣人愛に用いないといけない、と教えているんだな、とわかります。それはそれで間違いではありませんが、それではまだまだ不十分です。本日の箇所は、天国や地獄というものについて、また神の正義ということについてもいろいろなことを教えています。今日はそれらについて明らかにしていきたいと思います。

天国や地獄などと言うと、人によっては、人間がすべきことやしてはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて、時代遅れのやり方だと思う方もいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこにいくのかとか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかないのか、という問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。人によっては、どこにも行かない、死んだらそれで終わりで消えてなくなる、だからこの世では他人に迷惑をかけないで自分の好きなことをするのが一番いい生き方なのだ、と考える人もいるでしょう。また人によっては、死んだら魂だけ残って、どこか安逸な場所に行って他の魂たちと会することになるとか、または新しく別の人間ないし動物に生まれ変わるとか、いろいろあると思います。では、天地創造の神とそのひとり子イエス様は、このことについてどう教えているか?これは聖書全体を見渡さないといけない大きな問題ですが、今回は本日の福音書の箇所をもとにみていきたいと思います。

2.

 本日の箇所は、よく見ると、あれ少しおかしいなと思わせることがあります。金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと共に宴席に着く。そう書いてあります。しかし、よく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海の世界ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。

 黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます。つまり、復活の体を着せられて神の御許に迎え入れられます。その次に、これ以外の人たちが復活させられますが、この者たちは前世での行いに基づいて裁かれます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(46節)。これに続いて、新しい天と地が創造されて古い天と地に取って代わり(211節)、そこに神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。

こうしてみますと、神の国つまり天国とか地獄というものは、将来、復活や最後の審判が起きる日になって、迎え入れられたり、投げ込まれたりするところです。そういうわけで「陰府」とは、復活や最後の審判が起きる日まで死んだ者が安置される場所で、今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と述べました。復活の出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。

そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の地獄に投げ入れられるかは、これはまだ先のことで、今の天と地がまだ存在する段階では「陰府」で安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われるのですが、イエス様はどうして「陰府」と言ったのか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVではhell「地獄」と訳されていますが、脚注で「ギリシャ語ではハディス」と記しています。つまり、ギリシャ語では地獄ではなく陰府を意味する言葉が使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、と断っているのです。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、Einheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltで、「地獄」と区別しています。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、しっかり地獄と区別されています。

 どうしてイエス様は、復活と最後の審判が起きる日に投げ込まれる地獄をそう呼ばずに「陰府」とよんだのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって復活と最後の審判が起きる将来のことです。ところが、金持ちはラザロを自分の家の兄弟のもとに送ってくれと頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまうと、復活と最後の審判が起こったことになってしまいます。つまり、今の天も地も自分の家もなくなって、兄弟たちも既に裁かれてしまったことになる。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。これが、イエス様が火の海を地獄ではなく陰府と言った理由と考えられます。このようなことは、自由な創作をすれば起きることで、イエス様は理解不足だったなどと考える必要はないでしょう。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで時間の正確な流れにはこだわらなかった、ということです。それでは、その大事なこととは何かと言うと、一つは神の正義について、もう一つは死からの復活を信じることと旧約聖書との関係についてです。後ほどこれらについて見ていきますが、ここではもう少し天国と地獄について注意すべきことを見ていきたいと思います。

22節と23節でラザロがアブラハムと共に「宴席」についていると言われていますが、実はギリシャ語の原文では宴席のことは何も言われていません。ラザロはアブラハムの「胸元」にいると言われています。まるで子供が親に抱きかかえられてすやすや眠っているような印象を受けます。英語訳NIV、ドイツ語訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳の聖書どれを見ても「宴席」はありません。アブラハムの「胸元」ないしは「脇に」とか「傍らに」と訳されています。なぜ、日本語では宴席が出てきてしまったのでしょうか?これは、黙示録19章にあるように、天国が盛大な祝宴にたとえられていることからきていると思われます。さらに、ラザロと金持ちの間にはお互いの往来を不可能にする大きな淵があるということが、天国を連想させたと思われます。それで、ラザロは天国の祝宴で祝杯をあげていると考えられたのかもしれません。このように、ラザロと金持ちはそれぞれ天国や地獄を連想させる場所にいるのですが、イエス様は実はそこまではっきり言い切ってはいません。金持ちに関しては地獄と言わず「陰府」と言い、ラザロに関しては宴席とまでは言わず、アブラハムの「胸元」と言っています。実に微妙です。時間の正確な流れにこだわらないと言いつつも、ある意味では正確さも期しているのです。

ところで、死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、その場所が陰府ということにすると、聖書には例外もあるということに注意が必要です。復活や最後の審判の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人がいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもそのような者と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記345節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、復活や最後の審判の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうかということですが、これはもうそこにおられる父なるみ神しか知ることができません。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。

3年前、SLEYの元日本宣教師で文字通り生涯を日本での福音伝道に捧げたパップ・カタヤさんという方がこの世の人生の歩みを終えて永眠に入られました。国教会の牧師をされている兄弟の方が追悼文をSLEYの新聞に寄稿しまして、その最後の文がとても印象的だったのを覚えています。「安らかな眠りについているバップの前で今祝宴の準備がなされています」というものでした。これは、キリスト信仰の死生観をとても正確に言い表していると思いました。姉は天国に近いところにいるという希望を表明しつつも、まだ天国の祝宴の席にはついていないことをはっきりさせているからです。それは復活の日を待たなければならないのです。日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった方が今天国から見守ってくれているという言い方をするのをよく聞きます。天国というキリスト教的な言葉を使いますが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。亡くなった方が安らかに眠ると、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と心配になってしまうでしょう。キリスト信仰では、天と地と人間の造り主である父なるみ神が見守ってくれるので何も心配はいりません。創造主である神が死からの復活を起こす日がいつかやってくるのです。

3.

以上、天国と地獄について注意すべきことを述べました。これから、イエス様が金持ちとラザロの話で教えようとしている二つの大事なことを見ていきます。一つ目は、神の正義についてです。神は正義をどう実現されるか?イエス様の教えから明らかになることは、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には次の世で必ず解決されるということです。ルターなどは、この世で悪が罰せられずに我が物顔でのさばればのさばるほど、次の世で受ける報いもそれに比例して大きくなると言っています。本日の箇所の25節でイエス様はアブラハムの口を借りて次のように言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」まさに、「高くするものは低められる。低くするものは高められる」というイエス様の教え通りです。このように、復活の日、最後の審判の日には、歴史上全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われるのです。

黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在するということが言われていますが、これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。

この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うように、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。つまり、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神への感謝ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握しているのです。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあっても、神は後で何百倍にして返して下さるのです。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないのです。

 ところで、キリスト教に地獄のような裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「キリスト教って確か赦しの宗教じゃなかったの?」と思われるからです。その通り、キリスト信仰は罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとは、それまで神に背を向けて生きていたことを間違いと認めて、このような至らない私の罪をイエス様は十字架まで背負って行かれて、そこで私のかわりに神の罰を受けて死なれた、だからイエス様は私の救い主です、そのイエス様の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい、このように祈れば、神からいただける赦しです。このような立ち返りをすれば、どんな極悪非道の悪人でも、たとえ世間は赦さないと言っていても、神は赦し受け入れて下さるのです。本日のイエス様の教えの趣旨からははみ出しますが、金持ちについても、もしラザロが死んだ後で神のもとへ立ち返る生き方を始めていたならば、火の海に投げ込まれずにすんだのです。

4.

二つ目の大事な事は、死からの復活の信仰と旧約聖書の関係についてです。イエス様はアブラハムの口を借りて、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言いました。モーセと預言者とは旧約聖書を指します。旧約聖書をしっかりわかっていないと、死から復活させられたイエス様を信じることはできないのでしょうか?私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時、一体どれだけ旧約聖書のことをわかっていたでしょうか?

旧約聖書を知らず、また天と地と人間を造られた神を知らないまま、死者から生き返った者を見たら、特に日本人だったら、自分の伝統的な宗教の枠内で出来事を把握しようとするか、または新しい宗教団体を結成してしまうでしょう。そのようにして、聖書の神からますます遠ざかってしまうでしょう。しかしながら、死から復活したのがイエス様である場合は、逆に人間を聖書の神に引き戻す力が働くのです。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した者たち、そして彼らの証言を聞いて信じた人たちは皆、私たちも含めて、本当にモーセと預言者に立ち戻ることになったのです。天地を創造し人間を造られた神に立ち戻ることになったのです。どうしてそのようなことが起きたのでしょうか?

それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を出発点として、遡るようにして旧約聖書の意味が明らかになっていったことがあります。死からの復活が現実に起きたことを知った人たちは、みんなが預言者と騒いでいたあのナザレのイエスは真に神の子だったのだ、と。そう言えば、彼は自分でも自分のことを神の子と言っていたし、またメシアとか、ダニエル書で預言されている「人の子」とも言っていたが、全て預言通りだったのだ、と。なぜ神の子が死ななければならなかったのか?それは、イザヤ53章に預言されているように、人間が受けるべき罪の罰を全て引き受けられたのだ、と。イエス様が罰を全部引き受けて下さったので、私たちは罰を免れる状態にあるのだ、と。まさにこれで、アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった造り主の神と造られた私たち人間との関係が回復したのだ、と。私たちの身代わりとなって私たちを罪と死の奴隷状態から贖って下さったイエス様を自分の救い主と信じる信仰、この信仰によって私たちは神との結びつきを取り戻すことができ、この結びつきの中でこの世の人生を歩むことができることになったのだ、と。イエス様を死から復活させたことで、神は永遠の命の扉を私たちのために開かれた。だから、私たちは、万が一この世から死ぬことになっても、信仰によって神と結びついた者を、神は御手をもって御許に引き上げて下さるのだ、と。

このように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる人は、既に旧約聖書に貫いている神の人間救済計画を体得しているのです。天と地と人間を造り、私に命と人生を与えて下さった神は、私がこの世に誕生するはるか以前に、このようなことをずっと計画していて、ひとり子イエス様をこの世に送られることで計画を実現されたのだ、と。このようにして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の意思に沿って生きようとすることが当然という心意気になり、神の意思をちゃんと知ろうとして、旧約も新約も同様に日々繙いて、そこから神の御言葉に聞こうとするのです。このようにして私たちに新しい人生を与えて下さった父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2016年9月19日月曜日

創造者である神を畏れることは知恵のはじめ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年9月18日(聖霊降臨後第十八主日)スオミ教会

コヘレトの言葉8章10-17節
テモテへの第一の手紙2章1-7節
ルカによる福音書16章1-13節

説教題 創造者である神を畏れることは知恵のはじめ


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

.

 本日の旧約聖書の日課コヘレト81017節と福音書の日課ルカ16113節はとても難しいところです。まずコヘレトを見ると、1213節で、罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が長生きしているという現実があるにもかかわらず、本当は神を畏れる人が幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできず幸福になれない、と確信をもって言う。ところが、続く14節で、善人でありながら悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある、これまた空しい、と言う。さっきの確信はどうしてしまったのか?さらに15節をみると、快楽をたたえる、などと言う。人間には飲み食いして楽しむ以外の幸福はない、快楽は神が人間に与えた人生の日々の労苦に添えられたものだ、などと。まるで、神を畏れて正しく生きようとしても結局いいことはなく、悪を行っても罰せられずに逆にいいことが起こるのだから、快楽に身をまかせてしまった方が意味がある、とさえ受け取られます。なぜこんな書物が聖書の中に収められることができたのでしょうか?

実を言うと「コヘレトの言葉」は、そういう、神を畏れて生きるのは意味がない、だから快楽主義でいいんだ、と言っている書物ではありません。本当は全く逆なのです。この書物のすぐ前にソロモン王の「箴言」という有名な書物があります。その17節に「主を畏れることは知恵の初め」と言われます。実は、「コレヘトの言葉」もこれと全く同じ土台に立っているのです。それでは、なぜそう見えないのか?「コレヘトの言葉」も「主を畏れることは知恵の初め」という土台に立っていることは、この書物が書かれた背景をしっかりみればわかってきます。そういうわけで本日は、この「コレヘトの言葉」の日課を正しく理解することに努め、それを通して、私たちが生きる人生の方向性を明らかにしたいと思います。

とは言いつつも、ルカ福音書の箇所もとてもやっかいなところです。イエス様が不正を働いた管理人をほめて、不正にまみれた富で友達を作れ、などとは一体どういうことなのか?この難しい教えについて、いろいろな解釈がなされてきました。そのひとつとして、イエス様は人生の危機の打開のために早急な決断を下すことが大事だと教えている、そう理解する人もいます。しかしながら、素早い決断が危機打開の決め手、優柔不断では危機は乗り越えられない、というのは、なにも神のひとり子がわざわざ天から降ってまでして教えなくても、人間の知恵で十分わかります。イエス様は、人間の知恵をなぞり書きしたりお墨付きを与えるために天の父なるみ神のもとからこの世に送られたのではありません。人間の知恵をはるかに上回る神の知恵を知らしめ、場合によっては、人間の知恵を粉砕して、私たちを神の知恵に服させるために来たのです。

実は、この福音書の箇所は、3年前、本スオミ教会の説教で解き明しをしておりまして、今回それを読み返してみたら、修正する必要がないとわかりました。それで、本説教にてそれをそのまま読み上げてもよいかなと思ったのですが、やはりコヘレトの箇所を今回も放っておくわけにはいかないと思いました。どうしたらよいかと思ったのですが、ルカ福音書の方は、3年前お聞きにならなかった方もいらっしゃるので、短く要点だけをお話ししようと思います。その後でコヘレトの箇所を解き明かしてみたく思います。

2.

ルカ16113節を理解できるために、この箇所で一番大事なポイントを見つけてそこから全体を見渡してみることをしてみます。大事なポイントは最後の13節にあります。神と富の双方に仕えることはできない、ということです。イエス様の教えの主眼は、神こそ仕えるべき主人である、富を主人にしてはいけない、逆に富に対しては主人になりなさい、富を奴隷にしなさい、ということです。人が富に対して主人になるというのは、富を神の御心に沿うように自由に使うということです。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する、これに沿うように使いなさい、ということです。

イエス様がこのことを教えなければならなった背景には、人が富の主人になれずに、逆に富の奴隷になってそれに仕えてしまって神に仕えられないという状況が一方にありました。他方では、弟子たちの中に、イエス様に付き従うためには富を一切捨てなければならないという考えがありました。しかし、捨てることが出来れば、自分は大決断をしたので神から見返りを与えられて当然だ、という考え方になってしまいました。人間が自分の業で神に指図することになってしまいます。そこで、イエス様は、たとえ富を持っていても、それに対して主人のように振る舞えれば問題ない、その富を神の意思に沿うように用いれば、富を持っていながら神を主人とすることができる、という第三の道を示したのです。

「不正な」富という時の「不正な」という言葉は、元にあるギリシャ語の言葉アディキアαδικια使い方を見ると、「神を神とも思わない」とか「神からかけ離れた」という意味を持つことがわかります。富と言うのは本質上、人の心を神から引き離す力を持っている、その意味で富は「不正な」ものですが、それに対して主人として振る舞い、神に対しては仕える者として生きれば、永遠の命に与ることに何も問題はないのです。不正な管理人という、おそらく実際に起きた出来事を題材にして教えることで、そのことが強調されます。

そこで、神に仕えつつも富に対して主人として振る舞うことが本当にできるかどうかということについてですが、十字架と復活が起きる前の段階では不可能に思えたでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後、神はひとり子イエス様を犠牲にして人間を罪の奴隷状態から買い戻した、自由な身にして下さった、そのことがわかってイエス様を救い主と信じる信仰に入った者からすれば、富は色あせたものになり、主人になることができる道が開かれたのです。

3.

 それでは、コヘレト81017節の解き明しに入ります。まず「コヘレト」、ヘブライ語でコーヘレトゥקהלתとは誰か?これは人の名前ではありません。11節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあって、ダビデの子供にそんな名前の者がいたかと思われてしまいます。これはヘブライ語の「集める、召集する」を意味する動詞カーハールקהלを名詞化した形と考えられています。ただ、それが具体的に何を意味するかは研究者の間で一致がありません。そこで、旧約聖書のギリシャ語の翻訳をみると、コーヘレトゥは「伝道者」「説教者」を意味するエクレーアステースεκκλησιαστηςという言葉に訳されています。それで、この書物のタイトルはラテン語でEcclesiastesとなって、英語訳NIVの聖書でも同じタイトルを用いています。スウェーデン語やフィンランド語の聖書でも、これがもとになって「伝道者」、「説教者」を意味する言葉をタイトルにしています。日本語の聖書はヘブライ語の言葉をカタカナにしただけなので、以上の事情が分からないと、ダビデにそんな名前の子がいたと勘違いしてしまいます。

 それでは、ダビデの子でエルサレムの王になった「コヘレト」とは誰かというと、これは紛れもなくソロモン王であります。それでなぜ、そうはっきり言わなかったのか?すぐ前の書物「箴言」ではソロモン王の名が冠せられているのに。この書物を読むとたいていの方は、とても悲観的なことが書いてあるという印象を持ちます。本日の箇所をみても、神を畏れる生き方をしても悪い報いが起き、悪を働いても罰も受けずに長生きしているのが現実だ、全ては空しく、だから快楽に身を任せていいのだ、と言っているように見えます。とても「箴言」を著した同じ人物の書物には思えません。人によっては、ギリシャ哲学のいろんな潮流の影響をみる向きもありますが、そうなるとこの書物はソロモン王のずっと後の時代に成立したことになります。

 このように、この書物の趣旨を悲観主義とみなすと、ソロモン王と関係ない書物になってしまうのですが、実は関係があるのです。フィンランドのA.ラートという旧約聖書学の教授は、「コヘレトの言葉」のような書物がなぜ旧約聖書の中に収められたかということについて次のように述べております。この書物はユダヤ教の伝統の中で古くからずっと権威ある地位を持っていた。その伝統の中で同書は、晩年のソロモン王が自分の犯した過ちを振り返ってそれを悔い、神への畏れに基づく真の知恵に再び戻った、そういう内容の書物である、そう理解されてきた。それでこの書物はユダヤ教の伝統の中で紛れもなく聖書の一つとなりうる、権威ある書物と見なされてきたのである。

ソロモン王が犯した過ちとは何か?ソロモン王と言えば、たいていの方は、ダビデ王の後を継ぎイスラエル国家の全盛期を築いた人物、エルサレムの大神殿を完成させ、彼が神の御前で祈った祈りは、聖書の神を信じる者にとって祈りの模範と見られています。王はまた、神から知恵を授けられ、それに基づいて国民を指導し、周辺諸国の王たちもソロモン王に聞き従い、貢物を携えて王のもとに出入りした。エルサレムは、諸国がもたらした財宝で溢れかえった。まことに神から大きな祝福を受けた王でした。

ところが、この後で何が起こったでしょうか?列王記上11章を見ると、状況が一変します。ソロモン王は、諸国から女性を招いて妻にしたり愛人にします。113節をみると、王妃が700人、側室が300人、合計1,000人いました。これは文字通りハーレムです。実は、この1,000人の女性のことは、コヘレト728節に言及されています。いったい、「汝、姦淫するなかれ」という十戒の第六の掟はどうなってしまったのか?女性が未婚者であれば不倫にあたらないと思ったのでしょうか?それとも、相手の女性たちはイスラエルの民に属さないので、十戒は関係ないと考えたのでしょうか?状況を一層悪くしたのは、まさに相手の女性たちが異教の神々を崇拝する他民族出身だったことでした。ソロモン王は、関係を持った女性たちの神々を崇拝し出します。このように、「ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった」(119節)。

そのような経歴を辿ってしまったソロモン王が晩年に過去を振り返り、自分がいつの間にか神の知恵から離れ、自分の知恵、人間的な知恵に頼って生きるようになったことに気づく。真の知恵は神を畏れることから与えられるのに、人間的な知恵に頼ろうとしたのは神を畏れなくなってしまったからだと気づく。そこで、「コヘレトの言葉」の最後に結論として次のように言われます。

「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。」(121314節)

これが、この書物の一番大事なポイントなのです。神を畏れることを止めて、人間的な知恵に頼るようになり、出口のないトンネルに入ったようになって、悩みに悩んで悲観的なことを言って、最後にたどりついたのがこれだったのです。以上のような背景を意識して読むと、本日の箇所も正しく理解できます。

まず、810節。これは、とてもやっかいな節です。原文のヘブライ語の文ですが、一番権威ある写本の文が難しく、意味の通る文にしようとして、翻訳によっては違う写本を用いるものもあります。日本語の新共同訳は権威ある写本を用いていますが、この訳でも不十分な気がします。詳しいことはここでは立ち入りません。英語やフィンランド語の訳は違う写本に基づいているので、文の内容自体が日本語と違うものになっています。これも果たして良い解決法かどうか、疑問ありです。スウェーデン語訳の聖書などは、この節は(....)となっていて、もうお手上げです、とさじを投げています。そんな中で、日本語訳は頑張っていると思うので、大体このような意味のことを言っているのだな、という受け止め方でいきましょう。

次に11節から13節までですが、日本語訳では大体こうでした。悪事に対して何も対策が取られなければ人は大胆に悪事を働き、罪を犯し百度も悪事を働いている者が長生きしている、そういう現実がある。それにもかかわらず、私は次の真理を知っている。つまり、神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできないし幸福にもなれない。ところが次の14節では、そういう真理を知っていても、やはり善人でありながら悪人の業の報いを受ける者がいたり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がいる、と現実には真理が覆される状況がある、と言っている。これを「空しい」ことと言っています。まるで、神を畏れて神の意思に従って善を行っても、悪人が受けるような報いを受けてしまう、だから神を畏れたり善を行うことは空しいのだ、と言っているようにみえます。ところが、前に述べた背景を考えながら読むとそうでないことがわかります。

11節から13節までをヘブライ語に即してみると、「にもかかわらず」の前後の文を訳と逆にするのが正確だと思います。つまり、私は、神を畏れる人は畏れるから幸福になり、悪人は畏れないから長生きできないし幸福になれないという真理を知っていたにもかかわらず、対策が取られないので人は悪事を大胆に働き、彼らは長生きしている、そういう現実がある。この不条理な現実の描写が14節でも続き、善人でありながら悪人の業の報いを受ける者がいたり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がいる、ということになります。このほうが訳のように行きつ戻りつせずに、すっきりするのではないかと思います。

「空しい」こととはどういうことか?神を畏れても、善を行っても、あるべき結果と正反対のことが起こるので「空しい」ということなのでしょうか?そうではありません。「空しい」とは「空虚」とか「無意味」ということですが、コヘレトの他の箇所で何度も「空しい」と「風を追うこと」が一緒に使われていることに注意しましょう(217節、26節)。「風を追うこと」とは、風をつかまえようとすること、手に入れようとすることです。それは不可能で、やっても意味のないこと、それで空しいことです。そこで、神を畏れる者や善を行う者に相応しい結果が現れないことが空しいというのは、どういうことかと言うと、それは、そういう不条理なことがどうして起きるのか、それを解明したり説明しようとすることが「風を追う」ようなことであり、空しいということなのです。神を畏れることや善を行うことが、空しいとか風を追うことと言っているのではなくて、この世で起きてしまう、不条理な出来事を理解できると思って捉えようとすることが空しいのです。「空しい」のもとにあるヘブライ語の言葉ハ-ベルהבלですが、英語NIVでは「無意味」、フィンランド語では「無駄なこと」と訳されています(スウェーデン語では「空っぽ」、「空虚」)。

そこで、もし、不条理なことを人知で解明できると思ってそれをしようとすると、神は全知全能で愛と恵みに満ちた方という考えと衝突することになります。神はやはり全知全能ではなく力に限界があったのだ、とか、神は首尾一貫性がなくて気まぐれなのだ、とか、そういう神の本質を疑う考えが出てきてしまう。人間の理性や知恵で答えを出そうとすると、神がそれらで捉えられる存在に貶められて、神を人間と同じレベルで考えてしまうのです。場合によっては、神など存在しないのだ、という無神論の考えも出て来るでしょう。または天地創造の神ではだめだ、別の神がいいんだという考えも出るかもしれません。ソロモン王がどうして異教の神々を崇拝するようになったかを考える時、好きになった女性たちが崇拝しているので、情欲と一緒に目が曇らされて流されてしまったということかもしれない。または、自分は知恵に満ちた者だ、解明できないことは何もない、と驕りだして、そこで神を畏れても不条理なことが起きるという問題を人間的な知恵で解明しようとして行き詰り、天地創造の神に疑いを持つようになった。その隙を、女性たちが崇拝する異教の神々にうまく突かれてしまったのか。いろんな推測ができます。

いずれにしてもソロモン王は、人間の知恵と能力で神のなさることの全て、特に人間の目では理に適わないと思えることを解明しようとすることは、空しい、風を追うようなことだということがわかったのです。1617節で王は、神のすべての業を観察したが、太陽の下に起こるすべてのことを人間は解明できない、どんなに労苦し追及しても出来ない、賢者が自分はわかったと言っても本当は解明できていない、と断言しますが、これが空しいこと、風を追うことなのです。神を畏れ神の意思に従って善を行うことが空しいのではありません。

15節をみると、空しいから快楽をたたえる、などと言っていますが、そんな訳だと悲観主義の刹那主義になります。そうではありません。まず「快楽」と訳されているヘブライ語の言葉シムハーשמחהは、そんな強い意味はなく、ただの「喜び」です。人生の日々の労苦の中で食べたり飲んだりできるという喜びを讃える、ということです。神を畏れ神の意思に沿って善を行っても良いことがかえってくるとは限らず、正反対なことさえ起きる。それは人間の能力では解明できない。風を追うようなことだ。そんな中で良いことが確実にあるとすれば、それは飲んだり食べたり、また他の具体的な喜びがそれで、それらは人生の日々の労苦の中にあっても人について来るものである。神が人間に人生を与える以上、そうした喜びも神から与えられるものである。そういうわけで、こうした喜びを味わうというのは神に感謝して行う、そういう謙虚な慎ましい喜びです。神に背を向けて大胆に快楽に走ることではありません。99節に「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい」というのも同じことです。ここで「妻」とは単数形で一人の妻です。ソロモン王が正気に返ったことがわかります。

4.

解明不可能な不条理なことばかりで労苦を強いられるこの世にあっては、神を畏れることが全てだ、というのが「コヘレトの言葉」の結論でした。それでは、神を畏れたら、こうした難しい問題の解決になるのか?そもそも、神を畏れるとはどういうことか?

人間の知恵で不条理なことを解明しようとすると神を人間のレベルに引き下げることになる、と先ほど申し上げました。そのようなことをすると、神を畏れることを止めることになります。神を畏れるとは、大体次のような心意気になることです。

神は全てを知っている。私そのものについても、私の身に起こることについても全て、私以上に知っている。なぜなら、神は私を造り私に命と人生を与えた永遠の創造者だからだ。しかし私は造られた者で限りある存在だから、そうした神が知っていることをまさに神が知るように知ることはできない。私が出来ることと言えば、自分に起こる全てのことは神が知っているのだから、知ることは神に任せて、自分は神の意思に沿うように生きるだけだということだ。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するだけだ。知ることを神に任せてもいいと言うくらいに神を信頼しきれるのは、神がひとり子のイエス様を私の救いのために送って下さったことによる。最後の審判の時、「裁きの座で善だけでなく悪をも一切の業を、隠れたことも全て引き出される」とき、私が永遠の死の滅びに陥らないように、私の至らない部分、罪をイエス様に全部負わせて十字架の上まで運ばせて、イエス様がそこで私の罪の罰を代わりに受けて下さるようにしたのが、私の造り主である神であった。それで、私はこの世にあっては絶えず、順境であろうが逆境であろうが、神の守りと導きを受けられるようになった。万が一この世から死んでもすぐに神の御許に引き上げられ、復活の日に永遠に造り主のもとに戻れるようになった。知ることを神に任せて、あとは神の意思に沿うように生きれば、不条理なことの結末と全容は後で必ず目の前に明らかにされる。神がよかれと思われる時に。もし、この世の段階で明らかにされない場合は、遅くとも最終的には復活の日、「全ての目から涙が拭われる」(黙示録214節)日に全て明らかにされる。死からの復活があることも、神がイエス様を復活させられたことではっきり示された。もし、知ることを神に任せず、神の意思に沿うように生きなければ、不条理なことは結末を迎えることなく、不条理なままで終わってしまう。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、この世というところは解明できないことだらけですが、このような心意気を持って歩んでまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン