2020年7月27日月曜日

洗礼には人生の重荷を軽くする何かがある (吉村博明)

 

 

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年7月5日(聖霊降臨後第五主日)スオミ教会

 

ゼカリヤ書9章9-12節

ローマの信徒への手紙7章15-25節

マタイによる福音書11章16-19、25-30節

 

 

説教題 「洗礼には人生の重荷を軽くする何かがある」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の日課の終わりにあるイエス様の言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」これを聞いた人は、キリスト信仰者でなくても、この世にはこういうことを言ってくれる人がいるんだ、とありがたく感じて、イエス様の言うとおり彼のもとに行ってみようという気持ちになるのではないでしょうか?イエス様のもとに行くとはどういうことでしょうか?聖書をよく読んでイエス様のことをもっと知ろうとしたり、イエス様にお祈りしてお願いしたりすることが考えられます。もっと近づきになるために教会の礼拝に参加してみよう、洗礼を受けてみようと考える人も出てくるかもしれません。ただ、人によっては、教会なんかに行かなくても洗礼なんか受けなくても自分はイエス様のもとに行けると言う人もいるかもしれません。

 

さて、どんな仕方にせよ、自分では「イエス様のもとに行った」つもりだったのだが、果たして重荷はなくなって安らぎは得られたかどうか?人によっては、人生や生活の問題が解決したと言ってイエス様の言ったことは本当だという人がいるかもしれません。しかし、そうならなかったら、どうなるのか?イエスはあんな調子のいいことを言ったが、自分の重荷は相変わらずだ、彼のもとに行っても何の御利益はなかった、と言って教会や聖書から離れて別のところに安らぎを求めようとすることにならないでしょうか?

 

イエス様の言葉で注意しなければならないことがあります。それは、イエス様は重荷がなくなるとは言っていないということです。自分が与える荷は軽いと言っているように、彼のところに行っても何がしかの荷は背負わされる。しかし、それは軽いと言うのです。それから、軛。軛とは昔、牛や馬の頸に木の板をつけて、それを綱か何かで後ろの馬車か農作業の道具に連結させてそれらを引かせるためのものでした。軛を付けられた家畜は後ろのものを引っ張っていかなければなりません。イエス様は軛を取り除くとは言っていません。自分が与える軛は負いやすい、つまり、彼のところに行っても何がしかの軛は負わされることになるが、それは大きな負荷はかからないと言うのです。

 

そうなると、今の自分には何も重荷も軛もない、人生全て思い通りにいっていると思っている人はイエス様のもとに行く必要性はない、なんでわざわざ荷や軛を負わなければならないんだと思うでしょう。また、自分には重荷も軛もあって大変な人生だ、それらを全て取っ払って欲しい、軽いとは言え、新しく背負わなければならないのはいやだという人もイエス様にもとに行くのを躊躇するでしょう。もっとも、軽くなるだけでも十分ですからイエス様の与える軛と荷を下さい、という人は行くでしょう。

 

本日の説教では、イエス様の与える軽くて負いやすい荷とか軛とは何を意味するのかを見ていこうと思います。それが明らかになると今度は、自分には重荷も軛もない、だからイエスのところに行く必要はないと言っている人は本当にそうだと言い切れるのか?それから、重荷も軛もない人生を追い求めることは意味のあることなのか?そういうことを考え直すきっかけになるのではないかと思います。

 

 イエス様の言う、軽い荷、負いやすい軛の意味を明らかにする前に、イエス様にまつわる誤解について触れておこうと思います。イエス様にまつわる誤解というのは、本日の旧約の日課ゼカリア書の個所と福音書のマタイ11章の1619節が関係します。この誤解について説明しておくと、イエス様の重荷と軛のことがよくわかるようになると思います。

 

2.イエス様にまつわる誤解を解く

 

 イエス様にまつわる誤解について、ゼカリア書9章の個所がどう関係するかと言うと、そこで王様がロバに乗ってエルサレムにやって来るという預言があります。ゼカリアは紀元前6世紀の終わり頃に活動した預言者ですが、この預言は西暦30年プラスマイナス何年かの頃、イエス様が群衆の歓呼の中をロバに乗ってエルサレムに入城した時に実現します。しかしながら、その時の群衆の気持ちとしては、この方がもう直ぐかつてのダビデ王の王国を再興して、他民族の支配をはねのけて広大な版図を持つ王国を打ち立てて下さる待望の王なのだという期待でした。それで歓呼で迎えたのでした。ゼカリア書の個所で神が「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河の地の果てにまで及ぶ」と述べていたことがいよいよ実現すると思ったのでした。

 

 ところが実際には何が起こったかというと、イエス様はユダヤ教社会の宗教指導層と激しく衝突します。占領者であるローマ帝国の軍事介入を恐れた指導層はイエス様を逮捕して帝国の官憲に引き渡して裁判にかけさせ十字架刑に処してしまいました。群衆はなんだ期待外れだったと背を向けてしまいました。イエス様に付き従っていた弟子たちも逃げ去ってしまいました。

 

 ところがその後で、神が預言者たちを通して預言していたことはユダヤ民族の解放と王国の復興なんかではなく、もっと大きなことだったということが明らかになる、そんな出来事が起きました。神が言わんとした大きなこととは、人間が天地創造の神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにするということでした。そして、この世を去った後も造り主の神のもとに永遠に迎え入れられるようにするということでした。このことが明らかになった出来事とは、イエス様の死からの復活でした。創造主の神の力でイエス様は死から復活させられて、肉の体ではない復活の体をもって弟子たちの前に現れたのでした。この復活の出来事をもって、イエス様は死に繋ぎとめられない方である、よって神のひとり子であることが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかけられて死ななければならなかったのか?それも、旧約聖書のイザヤ書53章などにある預言から明らかになりました。それは、人間が神との結びつきを持てないようにしているた原因である人間の内に宿る罪を、イエス様が全部自分で引き取って神に対して償って下さったということだったのです。まさに神のひとり子の神聖な犠牲だったので、これ以上の償いはないという位の償いがなされたのでした。

 

 そこで人間が、これらの出来事は本当に自分のために起きて、それでイエス様は救い主だとわかって洗礼を受けると、彼がしてくれた罪の償いがその人のものになります。神聖な神のひとり子にしてもらった償いは完璧なものだったので、神からは罪を赦された者として見なしてもらえ、それで神との結びつきを持ってこの世を生き始めることとなります。この世を去った後も、イエス様を救い主として信じる信仰に生きていたことを神に認めてもらえて、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて造り主の神のもとに永遠に迎え入れられます。

 

 ゼカリア書に預言されている平和な世というのは、今ある天と地が新しく創造し直された時に現れる神の御国を意味します。今のこの世でも戦争のない平和な時期があります。しかし、その後にまた戦争が起こって、また平和という繰り返しです。また自分たちのいるところは平和でも、他のところでは戦争があります。もちろん、この世で全世界的で永続的な平和が実現することがよいに決まっていますが、聖書の観点はそういう平和は今の次に来る世に実現するというものです。それじゃ、聖書はこの世の平和を望まないのかと言われてしまうかもしれませんが、そうではありません。ローマ12章でパウロが説くように、キリスト信仰者は全ての人たちと平和に暮らさなければならない、相手と平和な関係が持てるかどうかが自分たちにかかっている時はそうしなければならないのです。相手が応じてくれるかどうかわからなくても、こちらからはそうしなければならないのです。

 

 ゼカリア書91112節の御言葉「またあなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえにわたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ」について。「契約の血」というのは、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前にこれを聞いた人たちは出エジプト記24章にあるような神とユダヤ民族の間の契約を指すと思ったでしょう。しかしながら、「契約の血」は十字架と復活の後はイエス様が十字架で流された血を意味します。キリスト信仰者は聖餐式で祝福されたぶどう酒をイエス様の血として受けますが、それは罪が償われて神との結びつきに生きるという契約を守るためにそうするのです。

 

 それから捕らわれ人の解放と帰還のテーマがありますが、これは一見、他の預言書にあるバビロン捕囚からの解放と祖国帰還の預言と同じように見えます。しかし、ゼカリア書は紀元前6世紀の終わり、祖国帰還の後に出た預言書です。それなので、ここで言われる帰還はもはやユダヤ民族の祖国帰還ではなくて、人間一般が神のもとへ帰還することを意味します。「捕らわれた人」とは、まさに罪や罪がもたらす死に捕らわれたことを意味します。「水のない穴」とはヘブライ語の単語列の直訳ですが、辞書によれば「死者の居場所」という意味もあります。それなので、罪と死に捕らわれた人がイエス様のおかげでそこから解き放たれて永遠の命に向かって進めるようになったことを意味します。

 

 以上のように、ゼカリア書の預言は、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は神の意図を理解するのは難しいものでした。本日の福音書の個所の最初の部分マタイ111619節からも、十字架と復活の前はイエス様は理解されなかったことが言われています。洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場して、もうすぐ救世主が現れる、だから心を改めて迎える準備をしなさいと言う。それに対して、自分たちの権威にしがみつく宗教指導者たちはヨハネのことを悪魔にとりつかれた者と中傷する。続いて登場したイエス様に対しても同じでした。イエス様が一声かけると、罪びとたちは次々と心を改めて彼につき従って行きます。民族の裏切り者と目されていた取税人たちが全てを捨てて付き従ってきました(ルカ52728節、19110節)。イエス様はそういう回心した元罪びとたちと食事を共にしたのですが、それに対しては、大食漢、大酒飲みという非難が付きまといました。イエス様が開いた食事会は、実は復活の日に神の国に迎え入れられた者たちが持つことになる大祝宴の予行演習のようなものだったのです。

 

こういう、神の計画に対する指導者たちの無理解について、イエス様はたとえを用いて描写します。それは子供たちが広場に座って「僕らは嬉しい曲を弾いてるのに君らは踊ってくれない、弔いの歌を歌っているのに泣いてくれない」とお互いに言い合っているのと同じだと言います。旧約聖書の「コヘレトの言葉」3章に、天の下の出来事には全て定められた時があると言われ、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時もそうだと言います。子供たちが自分たちの歌や演奏に君たちは乗ってこないとお互いに愚痴を言い合っているのは、この定められた時がわからないことを意味します。指導者たちは洗礼者ヨハネやイエス様が到来した時が神の定めた時であることがわからず、全く見当はずれなことを言い合っているのが、広場の子供たちが定められた時をわからないのと同じだと言うのです。

 

19節の「知恵の正しさは、その働きによって証明される」というのは、「知恵」は旧約聖書の箴言にあるように、神の知恵のことです。しかも、それは聖霊のように人格化されています。それでここで言う「知恵」とはずばりイエス様のことを指します。神の知恵そのものであるイエス様が神の意思に沿う方であることは、指導層の目には見えなくても、彼の行っている奇跡の業や権威ある教えから明らかだったのでした。

 

3.洗礼には人生の重荷を軽くする何かがある

 

さて、イエス様が与える軽い荷と負いやすい軛の意味を見ていきましょう。先々週から使徒書の日課は「ローマの信徒への手紙」6章で今日は7章です。これらの個所が軛と荷の意味を明らかにするのに役立ちます。

 

少しおさらいになりますが、パウロは6章で、キリスト信仰者は洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様の死に結びつけられると、「罪に対して死ぬ」ことになると言います。その意味は、信仰者は罪に対して死んでしまったので罪の影響力が及ばない、それで本当は罪から自由な身であるということです。このように罪に対して死ぬと今度は返す刀で神に対して生きることになります。神に対して生きるとは、かつて罪に利益をもたらすように生きていたのを打ち切って今度は神に利益をもたらすように生きることです。つまり、服従する相手が罪から神に変わったのです。

 

しかしながら、イエス様の死と復活に結びつけられたと言っても、まだ本当に死んで葬られて復活していないので、「罪に対して死に神に対して生きる」というのは、まだ土台が打ち立てられた段階です。建物全体が完成したのではありません。私たちが纏っている体はまだ復活の体ではなく、肉の体です。この体は、油断するとすぐ、洗礼前の時のように神に対してではなく罪に対して生きようとします。罪に対して生きてしまうと、心は「体の欲望」の言うことに聞き従ってしまいます。「体の欲望」とは、神聖な神の意思に反するとわかっていても、口に出してしまわずにはいられない、行為に出してしまわずにはいられない、思わずにはいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としかいいようがないものです。先週もお教えしましたが、十戒でしてはいけないと言われていること、両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを口にしたり思ったり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫をしてしまうこと、他人のものを自分のものにしてしまうこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人を妬んだり、その持っているものを自分のものにできないかと思い巡らすことです。

 

洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられたら、罪は本当は支配者ではなくなっている筈なのに、肉の体を纏っているために肉の思いをかなぐり捨てて行ったり語ったり思ったりすることが自然に自動的に出来ないのです。まさにそのために自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるのかを知って自覚することが大事になります。それでパウロは、自分の肢体を神の意思に反することのために用いるのをやめて、神の意思に沿うことのための武器、道具にしなさいと繰り返し教えるのです。

 

本日の7章で話がもっと深まります。イエス様の十字架と復活のおかげで罪の償いを果たしてもらったということは、キリスト信仰者が神との結びつきを持って生きられるのは神からのお恵みということでしょう。自分で律法を守り抜いてそうなったのではありません。それで神から義と認めてもらうことに関して言えば、律法は何の意味も持っていません。ところが、神のお恵みがあるからと言って、それで人間から罪が消えて肉の思いも持たなくなって全身全霊で神の意思に沿えるようになったということではありません。律法は人間には罪があることを示す機能は果たすのです。それはキリスト信仰者であっても、肉の体を纏っている限りそうなります。

 

律法はとても厄介なものです。パウロも言うように、もしそれがなければ罪の自覚は生まれません。しかし、自覚がないからと言って罪が存在しないということではありません。神の意思に反する行いや思いや言葉は、律法がなくてもあるわけで、律法があると、それらは神の意思に反するものであると言い表すことができます。神の意思に反する行いや思いや言葉が罪であると言い表されると、今度は肉が待ってましたとばかり、それに加担しようとします。神から罰を受けないためには、神の意思に反する行いや思いや言葉をなんとか食い止めなければなりませんが、それは時として大自然に抵抗するような難儀さを感じます。

 

そこにイエス様の十字架と復活の出来事が起こりました。神罰は全部イエス様が受けて下さいました。洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられて、罪に対して死に神に対して生きることが始まりました。十字架と復活が起きる前の律法しかなかった時は、罪に対して死んでおらず、神に対して生きることもなく、罪の力をもろに受けながら、神罰を受けないように受けないようにとただただ自力でもがくだけでした。しかも、罪の力を全面的に受けながらもがくのです。これは大変な重荷であり、凄まじい軛です。しかし、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると罪に対して死に神に対して生きられます。もちろん、まだ肉の体を纏っているので律法が私たちの内に宿る罪を暴露します。しかし、そのたびに洗礼の時に注がれた聖霊が「あなたは神に対して生きる者になっています。神に対して生きているのであれば、あなたは罪に対して死んでいるのです」と思い起こしてくれます。先ほど、キリスト信仰者は洗礼によって本当はどんな状態にあるのかを知って自覚することが大事であると申しました。かつては、思い起こしをしてくれる方もなく、肝心の思い起こすべき状態そのものがありませんでした。それが今では洗礼によって新しく生まれた状態があります。それを洗礼によって注がれた方が絶えず思い起こして下さるのです。もちろん、律法がある限り罪の自覚は消えません。しかし、それは新しくされた状態と聖霊のおかげで、かつてのような重荷、軛ではなくなりました。まさに軽くされた荷、負いやすくされた軛がここにあります。

 

以上から、イエス様が与える軽くて負いやすい荷や軛とは何かが明らかになります。それは、洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられて、罪に対して死に神に対して生きることそのものです。そこで罪の自覚は洗礼前より一層はっきりするので、そこがきつく重くなるところですが、イエス様の罪の償いは消えてなくならないので、イエス様を救い主と信じる信仰にある限り神との結びつきはしっかり保たれています。何も心配はありません。だからイエス様の与える荷は軽く、軛はきつくないのです。信仰にあるのに罪の自覚が出てくるということ自体が、神に対して生きていることの証しです。

 

そうなると、イエス様が軽くすると言ったのは、人生の重荷や軛のことではなく、神と人間の結びつきにかかわる重荷や軛ということになります。これを聞いて、なんだ人生の重荷ではないのかと、がっかりする人もいるかもしれません。ところが、この人間と神の結びつきにかかわる重荷が軽くされるということは実は人生の重荷の軽減にもつながるのです。そのことを宗教改革のルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

 

「信仰の教師である我々は、イエス様を救い主と信じる信仰について教えたら、次は善き業を行うことについて教える。もし君が信仰によってイエス様を自分のものとし、彼のおかげで神の御前で義なる者となれたのなら、その次は善き業を行いなさい。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛し、神に祈りを捧げ、神に感謝し敬い賛美し人前で告白しなさい。そして、隣人に仕え、自分の務めを忠実に果たしなさい。

これらの業が本当の意味で善き業になるのは、それらがイエス様を救い主と信じる信仰から生じてくる時である。罪の赦しは自分の業績によってではなくただひとえにイエス様のおかげで得られものなので、それを喜び感謝する心で行う業は全て本当に善き業なのである。その時、私たちは背負わなければならない自分の十字架や人生の重荷を全て耐えることができる。そのようにしてイエス様は私たちの荷を軽くし軛を負いやすくされるのだ。

キリスト信仰者とは、このように罪の赦しが与えられて良心が罪の重圧から解放されているので、あらゆることを楽に取り組む出来るのである。彼の心の中では全てのことが麗しいものに変わり、遭遇するあらゆる事柄に喜んで取り組み、耐え忍ぶことが出来るのである。しかし、イエス様の与えて下さる罪の赦しを持たない人にとっては、取り組み耐え忍ばなければならないことは全て重く嫌なものになる。なぜなら、彼はしたくないことを仕方なくしているだけだからだ。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン