2013年9月23日月曜日

キリスト信仰者とこの世の富 (吉村博明)


 
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年9月22日(聖霊降臨後第十八主日)
スオミ教会にて

コヘレトの言葉8:10-17、
テモテへの第一の手紙2:1-7、
ルカによる福音書16:1-13

説教題 キリスト信仰者とこの世の富


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 本日の福音書の箇所はとても難しいところです。イエス様がひとつのたとえを話します。これが実際に起きた出来事に基づく話なのか、イエス様の全くの創作かはわかりません。私は、実際に起きた話に基づいていると推測するのですが、その理由はここでは立ち入らず、先に進みます。

たとえはこうでした。ある金持ちの人に財産を管理する人がいたが、その人は主人の財産を「無駄遣い」していた、というより、ギリシャ語のディアスコルピゾーδιασκορπιζωという動詞は、「じゃんじゃん使いまくっていた」と言っていいでしょう。それはやがて、主人の知るところとなり、主人は彼を解雇することに決め、あわせて会計報告を提出するよう命じます。主人に解雇通告を言い渡されている間、管理人は心の中で身の振り方を考えました。困ったことになったぞ、転職するにしても肉体労働するには力がないし、乞食になるのも嫌だ。そうだ、この金持ちの主人に負債がある人たちのところに行って、彼らの借金を主人に内緒で減額してしまおう。そうすれば、僕が失業した時、借金を減らしてもらった者たちは僕を家に迎え入れてくれるだろう。管理人は、借用証書も管理しております。会計報告を出すまでは、彼はまだ管理人でいられます。まず、油100バトスの負債がある人を呼び出します。証書を新しいものに取り換えてやるから、ここに50バトスと記載しろ、古いやつは破棄しろ、と命じる。1バトスは39リットル位と言いますから、油3,900リットルの半分1,950リットルが帳消しになりました。大きな2リットル入りのペットボトルが975本分の油です。負債者は負担減に喜んだでしょう。次に小麦100コロスの負債がある人を呼んで、80コロスと書かせる。1コロスは、393リットルということで、半分ではないにしても、それでも小麦7,860リットル分が帳消しになりました。2リットル入りのペットボトルで3,930本分の小麦です。負債者は喜んだでしょう。

このように管理人は公文書を偽造するわけですが、驚いたことに、イエス様は、この管理人が「賢く立ち振る舞った」(φρονιμως εποιησεν)として、ほめるのであります。8節をみると、管理人のことを「不正な」と言っています。主人の財産を使い込んだから「不正を働いた」ことは明らかです。しかし、イエス様は、この公文書偽造に関しては、「賢く立ち振る舞った」とほめるのであります。イエス様がさらなる不正行為をほめるとは、一体どういうことでしょうか?

この難しいたとえについて、いろいろな解釈がなされてきました。そのひとつとして、イエス様はこのたとえで危機打開のために早急な決断を下すことは大事だと教えている、そう理解する人もいます。しかしながら、素早い決断が危機打開の決め手、優柔不断では危機は乗り越えられない、というのは、なにも神の御子がわざわざ天から下ってまでして教えなくても、人間の知恵で十分わかります。イエス様は、人間の知恵をなぞり書きしたりお墨付きを与えるために天からこの世に送られたのではありません。人間の知恵をはるかに上回る神の知恵を知らしめ、場合によっては、人間の知恵を粉砕して、私たちを神の知恵に服させるために来たのです。

このたとえの別の解釈として、イエス様が既成秩序に挑む革命的思想家ないし革命家そのものであることがこのたとえからも見て取れる、と言う人もいます。債務者の負担を軽減するために金持ち債権者の財産をあえて無断で使用した、という点がそうです。しかしながら、このたとえでは、弱者救済という正義の問題と私有財産保護という合法性の問題の関係についての深い議論は何もありません。管理人の行為の動機は、ただ、自分の身を救うためという自分が中心になっているだけです。

たとえからさらに進んでみると、11節でイエス様は、「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値のあるものを任せられるだろうか」と言います。これを見ると、管理人が借用証書を偽造したのは、やはり忠実とは言えないのではないか、と思えます。ならばなぜ、イエス様は管理人をほめたのか?さらに最後の節では、神と富の両方に仕えることはできない、と教え、人は神のみに仕えなければならない、富に仕えてはならない、と説いているように見えます。そうなると、富に対して忠実たれ、と教えていた前の節とどうかみ合うのか?なんだか本日の箇所は、支離滅裂に見えてきます。

しかしながら、イエス様を救い主と信じる信仰の目をもってこの箇所を何度も読み返し、あわせて聖書の他の箇所で何が言われていたかということも思い出しながら読んでいくと、本日の箇所も理解できます。ギリシャ語の原文の知識も理解に役立つものですが、理解を助けるのは、あくまでも信仰の目を持って読むかどうかにかかっている、ということを忘れないようにしましょう。それでは、以下、本日の箇所の解き明しに入って行きたいと思います。

2.

 本日の箇所が理解できるためには、この箇所で一番重要なポイントになっていることを見つけて、そこから箇所全体を見渡して理解するようにするとよいでしょう。本日の箇所の一番重要なポイントとは、最後の節である13節です。聖書を読む時に、たいていの場合、ひとつのまとまった箇所のポイントは終わりの部分にあると覚えておくとよいでしょう。時として冒頭に来ることもあります。さて、13節はこうでした。

「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 ここで、イエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えます。二人の主人に仕えられない、というのは本当かなと疑問がでるかもしれません。有能な働き手だったらできるのではないかと。「仕える」という動詞は、ギリシャ語で見ると、正確には「奴隷として仕える」(δουλευω)という意味です。奴隷は主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能なわけであります。イエス様は、人間の神や富に対する関係も同じだと教えるのであります。つまり、どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になるというのであります。

 ここでひとつ注意したいのは、イエス様は、神に仕える者は財産を持つな、とは教えていないことです。イエス様が言っていることは、神と富の双方に仕える、従属することはできない、ということです。富に従属せず、神に従属するならば、富を持つことは可能なのであります。もちろん富を持つことがそのまま富に従属することになって神への従属が消えてしまえば、その時は富は持つべきではないということになります。しかしながら、ルターは、人間が富に従属せず、神に従属したままで、富を持つことが可能である、と次のように教えています。

「主が『神と富に仕えることはできない』と教える時、『仕える』という言葉が一番重要である。お金や財産や家や家族を持つこと自体は罪ではない。ただ、それらが君自身を支配して君がそれらに仕える者にならないよう注意しなければならない。そうではなくて、逆にそれらの者が君に仕えるようにしなければならない。なぜなら、神に従属する時、君は財産の主人なのだから。

 神は、我々が出し惜しみしたり欲張ったり、減ったらいやだなどと言って、お金や財産に仕える身分にならないようにと望んでおられる。神が我々に望んでおられることは、心配事は神にかわって心配してもらうという位に神に信頼し、我々としてはあとはただ与えられた課題にしっかり取り組んでいく、そうしたことを望んでおられるのだ。何かに仕える者はその何かの奴隷であり、その時、彼は財産を所有する者ではなく、財産に所有されている者である。そういう人は、使うことが必要な時が来ても、財産を使う勇気が持てず、財産を使って他の人たちに仕えることもできない。つまり、お金が自分のもとを旅立たせる勇気がないのである。ところが、もし人が財産の主人であれば、財産はその人に仕えるのであり、その人が財産に仕えることはないのである。例えば、君が着る物に困っている人を目にしたとする。すると君はお金に向かって次のように言う。『敬愛する金貨君!あそこに貧しくて上着がなく震えている人がいる。さあ、ここから出て行って、彼に仕えなさい!』また、次のようにも言う。『価値あるお金君、あそこに病人が助けも慰めも与えられないでいる。ここから出て行って、急いで彼を助けに行きなさい!』財産の主人とは、財産をこのように扱うことが出来る者を言う。

キリスト信仰者というものは、財産についてはこのように考えて行動する者を言うのである。使徒パウロは、欲張りや出し惜しみは偶像崇拝とまで言った。キリストは、それを富に従属することと言った。君が自分に主人を選ぶ時、それ自体は何もできない死んだも同然の金属のかけらよりは、生ける神に仕えることを望のではないだろうか?生ける神こそは、君のために喜んで用いられる準備ができているのである。主は言われる。全身全霊で私のものになるか、さもなければ、私と全く関係のない者にとどまっていなさい、と。」

以上、キリスト信仰者というものは、神以外に従属するものがなく、それで富の主人になれるというルターの教えでした。それでは、そのようなことはどのようにして可能なのでしょうか?それは、人間が自分で切磋琢磨して道徳的に自分を鍛え上げて、そのように自分を自分で作り上げていくことではありません。そうではなくて、神からとてつもなく高価なものをいただいたので、もうそれに比したら他の全てのものは、たとえどんな多額の財産・資産であっても色あせてしまう、それくらい高価なものをいただいた、そういうことがあって可能になります。それでは、その神から頂いた高価なものとは何か?それは、神のひとり子イエス様が本当は人間が受けるべき罪と不従順の裁きを自ら引き受けて十字架の上で死なれたこと。そして一度死んだイエス様を神が復活させて、復活の命・永遠の命に至る扉を人間のために開いたこと。人間は、これら全てのことが自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、今まで罪と不従順のために断ち切れていた神との関係を回復させることができること。そして、それからは神との結びつきの中で生きられるようになり、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その瞬間神は御手をもって御許に引き上げて下さること。こうして人間は永遠に自分を造って下さった神のもとに戻ることができるのであります。正確に言えば、キリスト信仰者は、既に造り主のもとに戻る道を歩んでいるのであります。

3.

本日の箇所のポイントである13節を要約するとこうなります。キリスト信仰者は神から計り知れない高価なものをいただいたので、神に従属して仕える者であり、富に対しては主人としてふるまう者であるということ。富を手にしている者は、それを「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛と、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛のために用いるようになるということ。そうすれば、富を持っていても、神に従属して仕えることは出来るということでした。このポイントを念頭に置いて本日の箇所を眺めていくといろいろなことがわかってきます。

まず、11節「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せられるだろうか」。「不正にまみれた富について忠実たれ」という教えには戸惑います。この「不正にまみれた富」は、9節にも出てきます。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と。これにも戸惑います。ギリシャ語の言葉はアディコスαδικος(形容詞)、アディキアαδικια(名詞)ですが、「不正な」という意味は辞書にある代表的な意味です。ところが、言葉の使い方は、「不正な」という意味から派生していろいろあります。本日の箇所の後ですが、ルカ18章に、やもめにしつこく訴えられる裁判官のたとえがあります。イエス様はこの裁判官を「不正な裁判官」と呼ぶのですが(6節)、同じアディキアαδικιαという言葉が使われています。しかし、この裁判官の何が不正なのかは明らかでありません。明らかなことは、この裁判官は「神をも畏れず、人を人とも思わない」ということだけです。つまり、「不正な」というのは、「神からかけ離れた」とか「神を顧みない」という意味で「不正な」ということであります。

ここから本日の箇所の「不正にまみれた富」というものもわかってきます。先ほど13節のポイントで見たように、富には人間の心を従属させ、神への従属を妨げる力があります。「不正にまみれた富」というのは、まさに富というものが人を神からかけ離れたものにする、神を顧みないものにする、という意味で「不正な」ということになります。つまり、「不正にまみれた富」とは、「性質上、人間を神から遠ざける力を持つ富」ということであります。そのような富に「忠実」であれ、というのはどういうことか。「忠実」というのは「神から遠ざかる」ことの反対のことを意味するので、神に対して忠実、神に従属して仕えるという意味です(「忠実な」ピストスπιστοςは「信仰を持った」という意味もあります)。つまり、「人間の心を支配しようとする力を持つ富であるが、それを神に従属して仕えるような仕方で取り扱う」ことで、先ほどのルターの教え、富の主人となってそれを隣人の必要に用いる、という教えと一致します。そうすれば、神は「本当に価値あるものを任せる」、つまり神がイエス様を用いて実現した価値ある救いを委ねる、ということになります。

12節「他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」。これも、富・財産は自分の私有物のようでありながら、実は神という他人から預かっているものなので神の御心に従って取り扱わなければならない、と考えればよいのです。その時、「あなたがたのもの」が与えられるというのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるあなたは、神が実現した救いを自分のものにしているということです。

10節「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。「ごく小さな事」ελαχιστοςとは、別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われる言葉ですので、「ささいなこと、取るに足らない事」です。つまり、「人を神から引き離す力を持つ不正な富」を指します。その富に対して、神の御心に従うように立ち振る舞う者は、より価値あることにも同じように立ち振る舞う。しかし、富に対して、「不忠実に」立ち振る舞う者、つまり神の御心に従わないで立ち振る舞う者は、より価値あることに対しても同じである、ということです。(日本語で「不忠実」と言っているのは、ギリシャ語でアディコスαδικος、つまり先ほども見たところですが、神を顧みないという意味で「不正な」という意味です。)

 次に9節を見てみましょう。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。「不正にまみれた富」というのは、先ほど見ましたように、「性質上、人間を神から引き離して従属させようとする力を持っている不正な富」ということです。ここで問題になるのは、永遠の住まいに迎え入れてくれる友達とは誰か、ということです。永遠の住まいに迎え入れるというのは、この世の人生の歩みを終えて、復活の日に復活させられて造り主である父なる御神のもとに戻ることです。そうなると、この友達はもう、人間ではありません。復活の日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる最後の審判の日、主イエス様と共に到来する天使たちを指します。富は人間を神から引き離そうとする力を持っているが、神に従属する者としてそれを用いる。これは、先ほどルターの教えに見たように、富の主人として立ち振る舞うこと、神への愛と隣人愛の手段として富を用いるということです。天使というものは、当時のユダヤ教社会の考えでは、人間の行ったことや人間に起きたことを全て詳細に記録して神に報告する役割を持つ存在でした。このようにして、「不正にまみれた富」で「永遠の住まい」に迎え入れくれる「友達」をつくるのであります。

神を唯一の主人として従属し仕え、富に対しては逆にその主人となって、神への愛と隣人愛の手段としてそれを用いる。これは、天使たちを通じて絶えず神に知らされることとなる。これが9節の意味でした。ところで、本日の箇所は全て、弟子たちを相手にして話されています(1節)。従って、この9節も弟子たちに対する教えです。なぜイエス様は、弟子たちにこのようなことを教えなければならなかったのか。それは、弟子たちの間には、神に仕える者は財産を持ってはならない、富と関係を持ってはならない、という雰囲気が支配的だったことが考えられます。富が人間の心を神から引き離す力を持っている危険をよく知っていたイエス様は、金持ちに対してはとても厳しい意見を持っていました。金持ちが神の国に入れることは、駱駝が針の穴を通るよりも難しいとさえ言いました。その時、ペトロは、自分たちは何もかも捨てて主に従って来ました、と強調しました(マルコ102331節、マタイ192330節、ルカ182430節)。ペテロの発言には、財産を捨てることが神の国に入れる条件という考えが見え隠れしています。しかし、イエス様は本日の箇所で、神を唯一の主人として従属して仕えることは、財産を持っていても可能であるということを教えようとしたのです。8節でイエス様は、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言います。「この世の子ら」とは、神よりも富に仕えてしまう人たち、「光の子ら」とは、富よりも神に仕える人たちです。「光の子ら」は、すぐ財産を遠ざけようとする傾向がある。しかし、財産を持っていても、神を唯一の主人として従属して仕え、財産に対しては主人となることができるのだ。それを神への愛と隣人愛の手段として用いて、永遠の住まいに向って歩むことは可能なのだ、と。このことを教えるために、金持ちの財産管理人の出来事をたとえに用いたのであります。

イエス様は、この財産管理人が将来自分を受け入れてくれる場所を確保するために主人の財産をどう用いたかということに注目します。その例にならえば、富を持つ「光の子」が将来の受け入れ先、つまり神の国ないし永遠の住まいを確保するには、まず、自分が所有している財産は神からの預かりものと考え、自分はその単なる管理人と考えなければならない。次に、神から預かった財産の管理を任されたというのは、財産を神の御心に沿うように用いなければならない。つまり、神への愛と隣人愛の手段として用いなければならない。たとえの中の管理人は、主人の財産を用いて負債者の負担を軽減しました。それが、結果として、彼の将来の受け入れ先を決めました。「光の子」の管理人も、神から預かった財産を神への愛と隣人愛の手段として用い、重荷に喘ぐ人の負担を軽くすることに用いれば、それが神の国という永遠の住まいへの受け入れ準備になるというわけです。

金持ちの財産管理人のたとえが話された背景には、富に仕える者は神に仕えず、神に仕える者は富を捨てるという二分極化がありました。これに対して、イエス様は、富を持っていても心は富に縛られず神に従属して仕えて、神の国に受け入れられることは可能であるという第三の道を教えようとして、このたとえとそれに続く教えを述べたのでした。富というものは、性質上、人間を神から引き離す力を持っているが、それでも神を主人、富を奴隷とする者になって、神の意思の実現のために役立てることができる、これが本日の箇所の趣旨であると言うことができます。

最後に注意しなければならないことをひとつ申し上げます。神を主人とし、富を奴隷とすることは、人間が自分で切磋琢磨して道徳的に自分を鍛え上げて、そのように自分を自分で作り上げていくことではありません。先ほども申しましたように、それは、神からとてつもなく高価なものをいただいたので、もうそれに比したら他の全てのものは、たとえどんな多額の財産・資産であっても色あせてしまう、それくらい高価なものをいただいた、そういうことがあって可能になります。その神から頂いた高価なものとは、私たちのために十字架上の贖いの業と死からの復活を成し遂げたイエス様であると申しました。この高価なものが色あせてしまわないように、日々御言葉に聞き、神からの助けと良い導きを祈り求め、神によく信頼して信仰の人生を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2013年9月17日火曜日

命を買い戻せる代価(マルコ8章37節)とは? (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年9月15日(聖霊降臨後第十七主日)
スオミ教会にて

イザヤ書50:4-11、
ヤコブの手紙2:1-18、
マルコによる福音書8:27-38

説教題 命を買い戻せる代価(マルコ837節)とは?



私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 本日の福音書の箇所は、読み通していくと、さほど難しいことはなく、理解できる気がします。まず、人々がイエス様のことを過去の預言者がよみがえって出てきた者と考えていることが明らかになりました。それに対して、ペテロはイエス様のことをメシアと信じていることが明らかになりました。その後で、イエス様は御自分が受難のうちに死ぬも三日目によみがえると預言します。これにショックを受けたペトロがそれを否定するとイエス様は激しく叱責しました。その後で、イエス様は、自分につき従う者は各自それぞれの十字架を背負わなければならない、とか、何が命を救うことになり何が失うことになるかについて教えます。そして、人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか?自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか?という有名な言葉が続きます。読む人は誰でも、イエス様は命のかけがえのなさ、大切さを教えているのだと理解するでしょう。

しかし、本当に理解したのかな、わかったつもりはいやだな、と二、三度読み直してみると、一度目には気づかなかったようなことが出てきます。例えば、ペトロがイエス様のことを「メシア」と信じていると言った時、そのメシアとは何だったか?確か、救い主、救世主という意味だと聞いたことがあるな。しかし、それならイエス様はなぜメシアである御自分のことを誰にも話してはならない、と弟子たちに命じたのか?また、イエス様が受難の死と死からの復活を預言した時、ペトロがそれを否定して、イエス様は激しく叱責する。ペテロのことをサタン、つまり悪魔呼ばわりさえする。ペテロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてなのか?さらに、イエス様がつき従う者に背負いなさいと言った十字架とは何なのか?何か人生の苦難や困難から逃げてはいけない、しっかり取り組みなさい、ということなのか?苦難や困難のない安逸安泰な人生を望んではいけないのだろうか?それから、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは、一体どういうことか?どうせ失われるのだから、自分の命を救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?さらに、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うとはどういうことか?一度失った命が救えるというのは、一体どういうことなのか?

このように、聖書は一度読んでわかったような気がしても、何度か読み返すと、実はわからないことだらけだった、というようなことがいつも出てきます。しかし、不理解点を発見できることで、私たちは、自分の造り主である神の御心・御意思を明らかにしていこうとする出発点に立つことができます。どうか、本説教を通しても、それが明らかになりますように。

2.

 まず初めに、ペトロがイエス様のことを「メシア」と言った、そのメシアについて少し解説します。これはヘブライ語の言葉(משיחマーシーァハ)で「油注がれた者」の意味です。具体的には、イスラエルの初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上101節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は、神の約束もあって(サムエル記下71316節)、ダビデの家系に属する王を意味するようになります(それ以外の使い方としては、イザヤ451節、レビ記43節、ダニエル926節、詩篇10515節等ご参照)。ユダ王国が滅びると、今度は、将来ユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨するダビデ家系の王が現れるという期待が強まります。イエス様の時代に近づくと、メシアとは、ダビデ家系でユダヤ民族解放を主任務とはしつつも、この世の終わりに現れて、神の救いを全世界に及ぼす救世主という理解も持たれるようになります。

 このヘブライ語のメシアは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(χριστοςクリストス)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語になおして付けたということであります。

 さて、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちに「御自分のことを誰にも話さないように戒めた」とありますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前でも無数の奇跡を成し遂げており、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人を沢山運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。従って、イエス様が「誰にも話さないように」と戒めたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。メシアということについて、自分がメシアであるということについて人に話すな、ということだったのです。どういうことかと言うと、先ほどもみましたように、メシアの意味として、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解したら、どうなるか?イエス様は、本当は神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られました。それなのに一つの民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人類救済計画の矮小化です。加えて、支配者のローマ帝国は王国復興を企てる反乱者には常に神経をとがらせていました。王国復興者としてのメシアの噂が広がれば、反乱鎮圧のための軍隊出動という事態になったでしょう。そうなれば、エルサレムに赴いて受難と復活を遂行するというイエス様の行動計画に支障をきたすことになったでしょう。
 
 ところで、ペトロのメシア理解にもおそらく一民族の解放者のイメージが強くあったと考えられます。それで、イエス様が迫害されて無残にも殺される、という預言を聞いた時、王国復興の期待を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならない、と否定してしまったのだと言えます。

3.

 それにしても、預言を否定したペテロを「サタン、悪魔」呼ばわりして叱責するとは、いくらなんでも言い過ぎではないか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死をくぐり抜けて死からの復活を実現しなければならない、そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画の実現を邪魔することになる。神の計画の実現を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、神の計画を認めないというのは、悪魔に加担することになってしまいます。ここで、この神の計画とは何かということについて少しおさらいをしましょう。

キリスト信仰では、人間は誰もが神に造られ、神から命と人生を与えられたということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ623節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。

このため神は、人間との結びつきを回復させようと、また、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順の汚れを除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。マルコ7章の初めにイエス様とファリサイ派の有名な論争がありますが、それは、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、人間は自分の造り主との結びつきを失ったままで、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対して神がとった解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いを全てこのイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、イエス様を犠牲に用いた神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのイエス様を自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪が残ったままイエス様の神聖さを頭から被せられます。人間はこのようにして、造り主である神との結びつきを回復し、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得てこの世の人生を歩めるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。
 
 さて、イエス様の弟子たちは、イエス様にユダヤ民族解放の期待を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から下る天使の軍勢の支援を受けてローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち滅ぼして、永遠に存続するダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する - そういう壮大なシナリオを思い描いていたことでしょう。ところが、「迫害されて殺されるも、三日目に復活する」という預言を聞かされて、最初、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てが起きた後で、あれは特定民族を超えて全世界に及ぶ神の人間救済計画の実現だったのだ、とわかるようになったのであります。

4.

 それでは、イエス様が、「つき従う者」つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か。そして、命を救う、失う、と言っていることは何か。それらについてみてまいりましょう。

 まず、私たちがそれぞれ背負うべき十字架とは何か?自分を捨てるとはどういうことなのか?これについては、先週の礼拝説教でも取り上げました。イエス様を救い主と信じ、神との結びつきの中で生きられるようになったキリスト信仰者というものは、そのような結びつきを可能にして下さった神と御子に絶えず感謝の念を抱く者です。その感謝のゆえに、神の御心・御意思に従って生きるのは当然という心を持っています。神の御心・意思とは十戒に凝縮されていますが、イエス様はそれをさらに凝縮して二つの掟の形で提示しました。一つは、「神を全身全霊全力をもって愛せよ」という神への愛、もう一つは、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛です。先週の説教でも強調したところですが、隣人愛は、神への愛から独立してあるのではなく、それを土台としてあります。それゆえ、キリスト信仰者の隣人愛というものは、隣人が同じ信仰者である場合には、隣人がしっかり信仰にとどまって神との結びつきの中で生きられるように助けることが底流にあります。隣人が信仰者でない場合も、その人がいつの日にか、イエス様を救い主と信じて、その人の造り主でもある神との結びつきの中で生きることが出来るよう導いていくことが底流としてあります。このような神への愛と隣人愛の実践は、実社会・実生活の中ではいろいろな困難をもたらします。しかし、それにもかかわらず、神の御心・御意思である以上はやるしかない。これが、十字架を背負うことであり、自分を捨てることである、と申し上げた次第です。

 ところが、こうは言っても、私たちは、神を果たして全身全霊全力で愛していると言えるかどうか、隣人を自分を愛するが如く愛していると言えるかどうか、という局面に多く出くわします。失敗ばかりで、神の御心・御意思に従って生きるなど、もう不可能だ、と思わされることが多く出てきます。
 
 この問題について、ルターがキリスト信仰者というものをどう捉えているか、それを見るのが有益です。ルターによれば、キリスト信仰者とは、神の霊に結びつく新しい人を自己の内に植えつけられた者ということになります。そこで、キリスト信仰者の人生とは、この神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくことだ、とルターは教えます。古い人を死なせるというのは、言葉はどぎついですが、これはなにも物騒なことではありません。ルターによれば、まず、自分の肉の内に古い人があることを素直に認め、それが神の意志に反して生きるようにと自分をたえず導くことを心から悲しみ忌み嫌うこと。そして、それにもかかわらず神はイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに私を罰するかわりに赦して下さる。そのようにして神から赦しを不断に受け取ること。これが古い人を死なせ、新しい人を育てることなのです。神の赦しという重石をのせられて、古い人は日々力を失っていくのであります。聖餐式でパンとぶどう酒を頂く毎に、このプロセスは強まっていきます。

「自分を捨てる」とは、一般に思われがちですが、なにか自分で自分を律せられる無私無欲の立派な人間を目指していくということではありません。それは、肉に結びついた古い人を死なせていこう、神の霊に結びついた新しい人を育てていこう、という歩みを始めることです。このプロセスは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。

 最後になりましたが、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう。35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという言葉です。生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力の核のようなものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。36節で「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言います。ここの「命を失ったら」の動詞「失う」(ζημιοω)と、前の35節で二度「命を失う」と言っている動詞「失う」(απολλυμι)のギリシャ語は違う言葉を使っています。36節の動詞の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。それで、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意する辞書もあります。そうなると35節と36節はどう理解したらよいでしょうか?

34節の「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、感謝に満たされて神の御心・御意志に従って生きるということでありました。これにあわせて、神との結びつきの中で、内なる新しい人を日々育て、古い人を日々死なせ、神のもとに永遠に戻る道を歩むことであるとも申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を「救う」とか「失う」とか言っているのは、実は、造り主である神のもとに戻る道を「歩んでいるか」「歩んでいないか」ということであることが明らかになってきます。これに沿って、以下に、35節以下を整理してみます。

35節はこうなります。「自分を捨てようともせず十字架を背負おうともせずして、永遠の命を得ようとしても、それは得られない。なぜなら、それは造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいないからだ。しかし、自分を捨てて十字架を背負う者は、信仰の迫害にあって命を失おうとも、永遠の命を得る。なぜなら、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいたからだ。命を失った瞬間に父なる神は御手をもってその人をみもとに引き上げて下さる。」

36節はこうなります。「たとえ全世界を手中に収めても、命に関して欠けていることがあれば、何の役に立とうか?造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいない者は、全世界を支配して莫大な財産を有していても、そうしたものでは死の瞬間に永遠の命を買い取ることはできないのだ。」

そして、37節に続きます。「人間は、今の命が終わった後の命を買い取ろうにも、何を代価として支払うことができようか?全世界も財産も代価としては不足すぎるのだ。」詩篇4989節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。しかし、人間にこの代価、身代金を支払って下さる方がついに現れたのです。それが、イエス様の十字架の死だったのです。神のひとり子が犠牲となって十字架の上で血みどろになって流した血が全世界や財宝にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を奴隷状態にしていた罪と不従順の力から私たちを解放し、造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たちは今、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでおりますが、この道の歩みにおいて、どんなことが起きても、私たちの命は、とてつもなく尊い犠牲を払ってもらって造り主である神のもとに買い戻された命であるということを忘れないでいきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン