説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2013年9月22日(聖霊降臨後第十八主日)
スオミ教会にて
コヘレトの言葉8:10-17、
テモテへの第一の手紙2:1-7、
ルカによる福音書16:1-13
説教題 キリスト信仰者とこの世の富
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所はとても難しいところです。イエス様がひとつのたとえを話します。これが実際に起きた出来事に基づく話なのか、イエス様の全くの創作かはわかりません。私は、実際に起きた話に基づいていると推測するのですが、その理由はここでは立ち入らず、先に進みます。
たとえはこうでした。ある金持ちの人に財産を管理する人がいたが、その人は主人の財産を「無駄遣い」していた、というより、ギリシャ語のディアスコルピゾーδιασκορπιζωという動詞は、「じゃんじゃん使いまくっていた」と言っていいでしょう。それはやがて、主人の知るところとなり、主人は彼を解雇することに決め、あわせて会計報告を提出するよう命じます。主人に解雇通告を言い渡されている間、管理人は心の中で身の振り方を考えました。困ったことになったぞ、転職するにしても肉体労働するには力がないし、乞食になるのも嫌だ。そうだ、この金持ちの主人に負債がある人たちのところに行って、彼らの借金を主人に内緒で減額してしまおう。そうすれば、僕が失業した時、借金を減らしてもらった者たちは僕を家に迎え入れてくれるだろう。管理人は、借用証書も管理しております。会計報告を出すまでは、彼はまだ管理人でいられます。まず、油100バトスの負債がある人を呼び出します。証書を新しいものに取り換えてやるから、ここに50バトスと記載しろ、古いやつは破棄しろ、と命じる。1バトスは39リットル位と言いますから、油3,900リットルの半分1,950リットルが帳消しになりました。大きな2リットル入りのペットボトルが975本分の油です。負債者は負担減に喜んだでしょう。次に小麦100コロスの負債がある人を呼んで、80コロスと書かせる。1コロスは、393リットルということで、半分ではないにしても、それでも小麦7,860リットル分が帳消しになりました。2リットル入りのペットボトルで3,930本分の小麦です。負債者は喜んだでしょう。
このように管理人は公文書を偽造するわけですが、驚いたことに、イエス様は、この管理人が「賢く立ち振る舞った」(φρονιμως εποιησεν)として、ほめるのであります。8節をみると、管理人のことを「不正な」と言っています。主人の財産を使い込んだから「不正を働いた」ことは明らかです。しかし、イエス様は、この公文書偽造に関しては、「賢く立ち振る舞った」とほめるのであります。イエス様がさらなる不正行為をほめるとは、一体どういうことでしょうか?
この難しいたとえについて、いろいろな解釈がなされてきました。そのひとつとして、イエス様はこのたとえで危機打開のために早急な決断を下すことは大事だと教えている、そう理解する人もいます。しかしながら、素早い決断が危機打開の決め手、優柔不断では危機は乗り越えられない、というのは、なにも神の御子がわざわざ天から下ってまでして教えなくても、人間の知恵で十分わかります。イエス様は、人間の知恵をなぞり書きしたりお墨付きを与えるために天からこの世に送られたのではありません。人間の知恵をはるかに上回る神の知恵を知らしめ、場合によっては、人間の知恵を粉砕して、私たちを神の知恵に服させるために来たのです。
このたとえの別の解釈として、イエス様が既成秩序に挑む革命的思想家ないし革命家そのものであることがこのたとえからも見て取れる、と言う人もいます。債務者の負担を軽減するために金持ち債権者の財産をあえて無断で使用した、という点がそうです。しかしながら、このたとえでは、弱者救済という正義の問題と私有財産保護という合法性の問題の関係についての深い議論は何もありません。管理人の行為の動機は、ただ、自分の身を救うためという自分が中心になっているだけです。
たとえからさらに進んでみると、11節でイエス様は、「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値のあるものを任せられるだろうか」と言います。これを見ると、管理人が借用証書を偽造したのは、やはり忠実とは言えないのではないか、と思えます。ならばなぜ、イエス様は管理人をほめたのか?さらに最後の節では、神と富の両方に仕えることはできない、と教え、人は神のみに仕えなければならない、富に仕えてはならない、と説いているように見えます。そうなると、富に対して忠実たれ、と教えていた前の節とどうかみ合うのか?なんだか本日の箇所は、支離滅裂に見えてきます。
しかしながら、イエス様を救い主と信じる信仰の目をもってこの箇所を何度も読み返し、あわせて聖書の他の箇所で何が言われていたかということも思い出しながら読んでいくと、本日の箇所も理解できます。ギリシャ語の原文の知識も理解に役立つものですが、理解を助けるのは、あくまでも信仰の目を持って読むかどうかにかかっている、ということを忘れないようにしましょう。それでは、以下、本日の箇所の解き明しに入って行きたいと思います。
2.
本日の箇所が理解できるためには、この箇所で一番重要なポイントになっていることを見つけて、そこから箇所全体を見渡して理解するようにするとよいでしょう。本日の箇所の一番重要なポイントとは、最後の節である13節です。聖書を読む時に、たいていの場合、ひとつのまとまった箇所のポイントは終わりの部分にあると覚えておくとよいでしょう。時として冒頭に来ることもあります。さて、13節はこうでした。
「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
ここで、イエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えます。二人の主人に仕えられない、というのは本当かなと疑問がでるかもしれません。有能な働き手だったらできるのではないかと。「仕える」という動詞は、ギリシャ語で見ると、正確には「奴隷として仕える」(δουλευω)という意味です。奴隷は主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能なわけであります。イエス様は、人間の神や富に対する関係も同じだと教えるのであります。つまり、どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になるというのであります。
ここでひとつ注意したいのは、イエス様は、神に仕える者は財産を持つな、とは教えていないことです。イエス様が言っていることは、神と富の双方に仕える、従属することはできない、ということです。富に従属せず、神に従属するならば、富を持つことは可能なのであります。もちろん富を持つことがそのまま富に従属することになって神への従属が消えてしまえば、その時は富は持つべきではないということになります。しかしながら、ルターは、人間が富に従属せず、神に従属したままで、富を持つことが可能である、と次のように教えています。
「主が『神と富に仕えることはできない』と教える時、『仕える』という言葉が一番重要である。お金や財産や家や家族を持つこと自体は罪ではない。ただ、それらが君自身を支配して君がそれらに仕える者にならないよう注意しなければならない。そうではなくて、逆にそれらの者が君に仕えるようにしなければならない。なぜなら、神に従属する時、君は財産の主人なのだから。
神は、我々が出し惜しみしたり欲張ったり、減ったらいやだなどと言って、お金や財産に仕える身分にならないようにと望んでおられる。神が我々に望んでおられることは、心配事は神にかわって心配してもらうという位に神に信頼し、我々としてはあとはただ与えられた課題にしっかり取り組んでいく、そうしたことを望んでおられるのだ。何かに仕える者はその何かの奴隷であり、その時、彼は財産を所有する者ではなく、財産に所有されている者である。そういう人は、使うことが必要な時が来ても、財産を使う勇気が持てず、財産を使って他の人たちに仕えることもできない。つまり、お金が自分のもとを旅立たせる勇気がないのである。ところが、もし人が財産の主人であれば、財産はその人に仕えるのであり、その人が財産に仕えることはないのである。例えば、君が着る物に困っている人を目にしたとする。すると君はお金に向かって次のように言う。『敬愛する金貨君!あそこに貧しくて上着がなく震えている人がいる。さあ、ここから出て行って、彼に仕えなさい!』また、次のようにも言う。『価値あるお金君、あそこに病人が助けも慰めも与えられないでいる。ここから出て行って、急いで彼を助けに行きなさい!』財産の主人とは、財産をこのように扱うことが出来る者を言う。
キリスト信仰者というものは、財産についてはこのように考えて行動する者を言うのである。使徒パウロは、欲張りや出し惜しみは偶像崇拝とまで言った。キリストは、それを富に従属することと言った。君が自分に主人を選ぶ時、それ自体は何もできない死んだも同然の金属のかけらよりは、生ける神に仕えることを望のではないだろうか?生ける神こそは、君のために喜んで用いられる準備ができているのである。主は言われる。全身全霊で私のものになるか、さもなければ、私と全く関係のない者にとどまっていなさい、と。」
以上、キリスト信仰者というものは、神以外に従属するものがなく、それで富の主人になれるというルターの教えでした。それでは、そのようなことはどのようにして可能なのでしょうか?それは、人間が自分で切磋琢磨して道徳的に自分を鍛え上げて、そのように自分を自分で作り上げていくことではありません。そうではなくて、神からとてつもなく高価なものをいただいたので、もうそれに比したら他の全てのものは、たとえどんな多額の財産・資産であっても色あせてしまう、それくらい高価なものをいただいた、そういうことがあって可能になります。それでは、その神から頂いた高価なものとは何か?それは、神のひとり子イエス様が本当は人間が受けるべき罪と不従順の裁きを自ら引き受けて十字架の上で死なれたこと。そして一度死んだイエス様を神が復活させて、復活の命・永遠の命に至る扉を人間のために開いたこと。人間は、これら全てのことが自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、今まで罪と不従順のために断ち切れていた神との関係を回復させることができること。そして、それからは神との結びつきの中で生きられるようになり、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その瞬間神は御手をもって御許に引き上げて下さること。こうして人間は永遠に自分を造って下さった神のもとに戻ることができるのであります。正確に言えば、キリスト信仰者は、既に造り主のもとに戻る道を歩んでいるのであります。
3.
本日の箇所のポイントである13節を要約するとこうなります。キリスト信仰者は神から計り知れない高価なものをいただいたので、神に従属して仕える者であり、富に対しては主人としてふるまう者であるということ。富を手にしている者は、それを「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛と、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛のために用いるようになるということ。そうすれば、富を持っていても、神に従属して仕えることは出来るということでした。このポイントを念頭に置いて本日の箇所を眺めていくといろいろなことがわかってきます。
まず、11節「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せられるだろうか」。「不正にまみれた富について忠実たれ」という教えには戸惑います。この「不正にまみれた富」は、9節にも出てきます。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と。これにも戸惑います。ギリシャ語の言葉はアディコスαδικος(形容詞)、アディキアαδικια(名詞)ですが、「不正な」という意味は辞書にある代表的な意味です。ところが、言葉の使い方は、「不正な」という意味から派生していろいろあります。本日の箇所の後ですが、ルカ18章に、やもめにしつこく訴えられる裁判官のたとえがあります。イエス様はこの裁判官を「不正な裁判官」と呼ぶのですが(6節)、同じアディキアαδικιαという言葉が使われています。しかし、この裁判官の何が不正なのかは明らかでありません。明らかなことは、この裁判官は「神をも畏れず、人を人とも思わない」ということだけです。つまり、「不正な」というのは、「神からかけ離れた」とか「神を顧みない」という意味で「不正な」ということであります。
ここから本日の箇所の「不正にまみれた富」というものもわかってきます。先ほど13節のポイントで見たように、富には人間の心を従属させ、神への従属を妨げる力があります。「不正にまみれた富」というのは、まさに富というものが人を神からかけ離れたものにする、神を顧みないものにする、という意味で「不正な」ということになります。つまり、「不正にまみれた富」とは、「性質上、人間を神から遠ざける力を持つ富」ということであります。そのような富に「忠実」であれ、というのはどういうことか。「忠実」というのは「神から遠ざかる」ことの反対のことを意味するので、神に対して忠実、神に従属して仕えるという意味です(「忠実な」ピストスπιστοςは「信仰を持った」という意味もあります)。つまり、「人間の心を支配しようとする力を持つ富であるが、それを神に従属して仕えるような仕方で取り扱う」ことで、先ほどのルターの教え、富の主人となってそれを隣人の必要に用いる、という教えと一致します。そうすれば、神は「本当に価値あるものを任せる」、つまり神がイエス様を用いて実現した価値ある救いを委ねる、ということになります。
12節「他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」。これも、富・財産は自分の私有物のようでありながら、実は神という他人から預かっているものなので神の御心に従って取り扱わなければならない、と考えればよいのです。その時、「あなたがたのもの」が与えられるというのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるあなたは、神が実現した救いを自分のものにしているということです。
10節「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。「ごく小さな事」ελαχιστοςとは、別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われる言葉ですので、「ささいなこと、取るに足らない事」です。つまり、「人を神から引き離す力を持つ不正な富」を指します。その富に対して、神の御心に従うように立ち振る舞う者は、より価値あることにも同じように立ち振る舞う。しかし、富に対して、「不忠実に」立ち振る舞う者、つまり神の御心に従わないで立ち振る舞う者は、より価値あることに対しても同じである、ということです。(日本語で「不忠実」と言っているのは、ギリシャ語でアディコスαδικος、つまり先ほども見たところですが、神を顧みないという意味で「不正な」という意味です。)
次に9節を見てみましょう。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。「不正にまみれた富」というのは、先ほど見ましたように、「性質上、人間を神から引き離して従属させようとする力を持っている不正な富」ということです。ここで問題になるのは、永遠の住まいに迎え入れてくれる友達とは誰か、ということです。永遠の住まいに迎え入れるというのは、この世の人生の歩みを終えて、復活の日に復活させられて造り主である父なる御神のもとに戻ることです。そうなると、この友達はもう、人間ではありません。復活の日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる最後の審判の日、主イエス様と共に到来する天使たちを指します。富は人間を神から引き離そうとする力を持っているが、神に従属する者としてそれを用いる。これは、先ほどルターの教えに見たように、富の主人として立ち振る舞うこと、神への愛と隣人愛の手段として富を用いるということです。天使というものは、当時のユダヤ教社会の考えでは、人間の行ったことや人間に起きたことを全て詳細に記録して神に報告する役割を持つ存在でした。このようにして、「不正にまみれた富」で「永遠の住まい」に迎え入れくれる「友達」をつくるのであります。
神を唯一の主人として従属し仕え、富に対しては逆にその主人となって、神への愛と隣人愛の手段としてそれを用いる。これは、天使たちを通じて絶えず神に知らされることとなる。これが9節の意味でした。ところで、本日の箇所は全て、弟子たちを相手にして話されています(1節)。従って、この9節も弟子たちに対する教えです。なぜイエス様は、弟子たちにこのようなことを教えなければならなかったのか。それは、弟子たちの間には、神に仕える者は財産を持ってはならない、富と関係を持ってはならない、という雰囲気が支配的だったことが考えられます。富が人間の心を神から引き離す力を持っている危険をよく知っていたイエス様は、金持ちに対してはとても厳しい意見を持っていました。金持ちが神の国に入れることは、駱駝が針の穴を通るよりも難しいとさえ言いました。その時、ペトロは、自分たちは何もかも捨てて主に従って来ました、と強調しました(マルコ10章23-31節、マタイ19章23-30節、ルカ18章24-30節)。ペテロの発言には、財産を捨てることが神の国に入れる条件という考えが見え隠れしています。しかし、イエス様は本日の箇所で、神を唯一の主人として従属して仕えることは、財産を持っていても可能であるということを教えようとしたのです。8節でイエス様は、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言います。「この世の子ら」とは、神よりも富に仕えてしまう人たち、「光の子ら」とは、富よりも神に仕える人たちです。「光の子ら」は、すぐ財産を遠ざけようとする傾向がある。しかし、財産を持っていても、神を唯一の主人として従属して仕え、財産に対しては主人となることができるのだ。それを神への愛と隣人愛の手段として用いて、永遠の住まいに向って歩むことは可能なのだ、と。このことを教えるために、金持ちの財産管理人の出来事をたとえに用いたのであります。
イエス様は、この財産管理人が将来自分を受け入れてくれる場所を確保するために主人の財産をどう用いたかということに注目します。その例にならえば、富を持つ「光の子」が将来の受け入れ先、つまり神の国ないし永遠の住まいを確保するには、まず、自分が所有している財産は神からの預かりものと考え、自分はその単なる管理人と考えなければならない。次に、神から預かった財産の管理を任されたというのは、財産を神の御心に沿うように用いなければならない。つまり、神への愛と隣人愛の手段として用いなければならない。たとえの中の管理人は、主人の財産を用いて負債者の負担を軽減しました。それが、結果として、彼の将来の受け入れ先を決めました。「光の子」の管理人も、神から預かった財産を神への愛と隣人愛の手段として用い、重荷に喘ぐ人の負担を軽くすることに用いれば、それが神の国という永遠の住まいへの受け入れ準備になるというわけです。
金持ちの財産管理人のたとえが話された背景には、富に仕える者は神に仕えず、神に仕える者は富を捨てるという二分極化がありました。これに対して、イエス様は、富を持っていても心は富に縛られず神に従属して仕えて、神の国に受け入れられることは可能であるという第三の道を教えようとして、このたとえとそれに続く教えを述べたのでした。富というものは、性質上、人間を神から引き離す力を持っているが、それでも神を主人、富を奴隷とする者になって、神の意思の実現のために役立てることができる、これが本日の箇所の趣旨であると言うことができます。
最後に注意しなければならないことをひとつ申し上げます。神を主人とし、富を奴隷とすることは、人間が自分で切磋琢磨して道徳的に自分を鍛え上げて、そのように自分を自分で作り上げていくことではありません。先ほども申しましたように、それは、神からとてつもなく高価なものをいただいたので、もうそれに比したら他の全てのものは、たとえどんな多額の財産・資産であっても色あせてしまう、それくらい高価なものをいただいた、そういうことがあって可能になります。その神から頂いた高価なものとは、私たちのために十字架上の贖いの業と死からの復活を成し遂げたイエス様であると申しました。この高価なものが色あせてしまわないように、日々御言葉に聞き、神からの助けと良い導きを祈り求め、神によく信頼して信仰の人生を歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン