2018年9月24日月曜日

内なる古い人と新しい人の戦い (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2018年9月23日 聖霊降臨後第十八主日

イザヤ書50章4-11節
ヤコブの手紙2章1-18節
マルコによる福音書8章27-38節

説教題 「内なる古い人と新しい人の戦い」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っているイエス様の有名な教えです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(マルコ83437節)。」

これを読む人はたいてい、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているのだと理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値のあるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。そうすると、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というのは、これとどう結びつくでしょうか?人間、どうせいつか必ず死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?さらに、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うというのはどういうことなのか?大抵の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだな、と理解するのではないでしょうか?そうすると、最初に言っていること、イエス様に付き従いたい者は自分を捨てて自分の十字架を背負え、というのは、殉教の道を進めと言っているように聞こえてきます。一方で、命は地球より重いなどと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのOKというのは矛盾しているのではないか?

聖書を読むと、一つのまとまった個所の中にある個々の教えはそれぞれ理解や納得できるが、その個所全体でみると矛盾だらけでどう繋がるのか?と思わせることがあります。今日の個所の場合、どうしたらよいでしょうか?せっかくイエス様が教えたことだからどれも大事ということで、全体を見ないで個々バラバラで見ることに徹するのが一つのやり方かもしれません。例えば、命の大切さを教える時、イエス様が命は地球より重いとおっしゃていることだけを見て、自分を捨てて十字架を背負えとか福音のために命を失えと言っているところには目をつぶる。また、イエス様が殉教の覚悟を説いておられると言う時は、命の大切さの教えには目をつぶる。必要に応じてある箇所をクローズアップして、それに合わない個所は脇に置いておく。そういうやり方しかないのか?全体を通して意味が通るということはないのか?果たして本日の福音書の個所は、全体を見ると矛盾があるのかどうか、少しじっくり見てみましょう。

2.「メシア」とは?

本日の福音書の箇所は命についての教えだけではありませんでした。命のことは34節から38節までですが、本日の個所はその前もあって27節から33節はイエス様とは何者かということが述べられています。この両方を合わせて全体を見て、筋が通るかどうか見ようというのですから、大変です。

さて、このマルコ82738節ですが、これは、マルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで、本日の箇所の出来事があり、その後でその地方の「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させます。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、本日の箇所はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい始める出発点です。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて、自分の受難と復活について預言します。

 それでは本日の箇所の前半、827節から33節までを見ていきましょう。まずイエス様は、人々は彼のことを何者と考えているか、という質問をします。人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが弟子たちの答えから明らかになりました。それに対して、ペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることが明らかになりました。その後でイエス様は、自分の受難と死からの復活について預言しました。それを聞いてショックを受けたペトロがそれを否定すると、イエス様は厳しく叱責したのです。ここで注意しなければならないのは、「メシア」とは何者かということです。普通、救い主とか救世主を意味すると言われます。それならイエス様はなぜメシアである自分のことを誰にも話してはならないと弟子たちに命じたのでしょうか?また、ペトロがイエス様の受難と復活の預言を否定した時、イエス様は激しく叱責してペトロのことをサタン、悪魔とまで言う。ペトロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてそんなに怒ったのか?以下そうした疑問に答えていきましょう。

まず初めに「メシア」について。これはヘブライ語の言葉マーシーァハ(משיח)で「油を注がれて聖別された者」の意味です。具体的には、ユダヤ民族の初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上101節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は神の約束に基づき(サムエル記下71316節)、ダビデの家系に属する王を指すようになります。(それ以外の使い方もあります。イザヤ451節、レビ記43節、ダニエル926節、詩篇10515節等ご参照。)

紀元前6世紀にユダヤ民族の王国は滅びますが、その後、ダビデの家系に属しユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨する王メシアが現れるという期待が高まります。これがイエス様の時代に近づくと、メシアとはこの世の終わりに現れてユダヤ民族の解放だけでなく全世界に神の救いを及ぼす、そういう一民族の解放に留まらない、文字通り「世の救い主」、「救世主」という理解も出て来るようになります。

ヘブライ語のメシアという言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(クリストスχριστος)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとは、これはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語に訳して、イエスという名にくっつけたということです。

 話が脇道に逸れましたが、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちにそのことを誰にも話すなと命じますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前で無数の奇跡の業も行い、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人たちを運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。

実は、イエス様が「誰にも話さないように」と命じたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。触れ回ってはいけないのは自分がメシアであるということ、これを言いふらしてはならないということだったのです。どういうことかと言うと、先ほども申しましたように、メシアという言葉には、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解してしまったら、どうなるでしょうか?イエス様とは本当は、神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られた方です。それなのに一民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人間救済計画の矮小化です。それだけではありません。当時イスラエルの地を占領していたローマ帝国は王国復興を企てる反乱者にはいつも神経をとがらせていました。もしガリラヤ地方で反乱鎮圧のため軍隊出動という事態になっていれば、エルサレムで受難と復活の任務を遂行するというイエス様の予定に支障をきたし、福音書に記録されているような出来事は起きなかったでしょう。

 それから、ペトロのメシア理解もおそらく、民族の解放者のイメージが強くあったと思われます。だから、イエス様が迫害されて無残にも殺されるという預言を聞いた時、ペトロは王国復興の夢を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならないと否定してしまったのでしょう。

それにしても、預言を否定したペテロに「サタン、悪魔」と言って叱責するのは、いくらなんでも強すぎはしないでしょうか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画を邪魔することになる。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないということは、悪魔に加担することと同じになってしまいます。これが、イエス様の強い叱責の理由です。

3.神の人間救済計画

 ここで、この神の計画というものについて少しおさらいをしましょう。キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまった、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯し、罪を持つようになってしまったために人間は死ぬ存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ623節)。このように人間が死ぬということが、造り主である神との関係が壊れているということの現れなのです。

このため神は、人間が神との結びつきを回復してその結びつきの中で生きられるようにしよう、たとえこの世から死ぬことになってもその時は造り主である自分のところに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この救いの計画はいかにして実現されたでしょうか?罪が人間の内に入り込んで、神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪を除去しなければならない。しかし、それは人間の力では不可能なことでした。マルコ7章の初めにイエス様と宗教指導層の間の有名な論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまったか、という論争です。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世で神と結びつきを持って生きることも、神のもとに戻ることもできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、人間が神に対して負っている罪という負債を全部ひとり子に背負わせて、罪の罰を彼に叩きつけて十字架の上で死なせる。まさに、ひとり子の身代わりの死に免じて人間を赦す、というものでした。その時人間の方が、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうすることで人間は神から罪の赦しを受け取ることができるようになりました。神から罪の赦しを得られたということは、神との結びつきが回復したことです。そうして人間は神との結びつきの中でこの世を生きられるようになり、順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと導きを得られるようになり、万が一この世から死んでも、その時は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

人間は洗礼を受けることで、まだ罪を内に持ったままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。この衣にしっかり包まれて自分から手放さない限り、神は私たちをイエス様の清さを持つ者とみて下さり、内にある罪には目を留められません。このようなやり方で結びつきを回復し保って下さる神に驚きと感謝の気持ちが生まれます。罪が内にあるのにもかかわらず、清いものと見て下さることに気恥ずかしさと畏れ多さを感じます。まさにここから、このような神の意志に沿うように生きなくてはという心が生まれます。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するがごとく愛するという心です。今月の使徒書の日課はヤコブ書ですが、神から罪の赦しを受けた者がすべき隣人愛について教えています。先週は、怒りに身を任せるなとか、舌を制して言葉を選べとかありました。本日の個所では、キリスト信仰者の間では立場や地位で人を区別するなということを教えています。金持ちの信仰者を優遇し、貧しい信仰者を軽く扱うことはしてはいけない、皆同じ扱いにしなければならない、ということです。人間誰でも、貧しい人は自分に何の益ももたらさないが、金持ちや地位ある人はひょっとしたら、という気になります。キリスト信仰にあっては、相手が益をもたらすかもたらさないか一切見ないで同じように親切にしなさいということです。金持ちや地位ある信仰者も、自分になされる親切さが貧しい人に対するものと同じであることを不満に思ってはいけない、それは当たり前のことと思わなければならないということです。

ここで注意しなければならないことは、怒りに身を任せないとか、舌を制するとか、皆同じ扱いであることを受け入れるとか、他の隣人愛の例も含めて、それらは頑張って気合を入れて達成して、神様やりました!と、まるで神に認めてもらうために頑張るものではないということです。そうではなくて、自分には神の意志に反することが沢山あって、それは本当はいつの日か神の御前に立たされて咎められる根拠になる、そういうものがあるにもかかわらず、神はイエス様の犠牲に免じて咎めないと言って下さる。イエス様の白い衣を纏っている者として見て下さる。本当の自分とはかけ離れているが、そのかけ離れた方が本当の自分であるとおっしゃってくれている。それなら、これからはそれに合わせるように生きていかなくては。被さられた白い衣にふさわしい生き方をしなくては。キリスト信仰にあっては、隣人愛とはこのように神の罪の赦しを受けた後に生じてくる実のようなものなのです。赦しを受けるために、神に目をかけてもらうためにする業績ではないのです。赦しは既に受けているのです。

気合を入れて達成するぞ、というものではなく、生じてくる実のようなものですので、一つ一つこなしていくような時間をかけて成長するようなことになります。これは、ルターが言うように、キリスト信仰者のこの世の人生というものは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結び付く古い人を日々死なせていくプロセスであるということです。怒りに身を任せてしまうこと、舌を制することができないこと、地位や立場で人を選別し、自分もそれを期待すること等などを満載している肉に結び付く古い人、これを神から頂いた罪の赦しとイエス様の白い衣を重しにして、押しつぶしていくプロセスです。一回つぶしてもまた出てきたらまたつぶすという繰り返しです。このプロセスは、信仰者がこの世を去って肉の体を脱ぎ捨てて復活の日に復活の体を着せられる時に終わります。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者はその時完全なキリスト信仰者になるのです。

4.内なる古い人と新しい人の戦い

 以上、神の救いの計画について述べてまいりました。本日の福音書の個所に戻りましょう。イエス様の弟子たちは、彼にユダヤ民族解放の夢を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から降る天使の軍勢の力を得てローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち倒し、永遠に続くダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する、そういう壮大なシナリオを思い描いていました。ところが、「迫害されて殺されて三日目に復活する」などと聞かされて、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てのことが起きた後で、起きたことは実はユダヤ民族を超えて全人類にとって重大なことだったのだ、旧約聖書にあった一民族の解放を言っているように見えた預言は実は全人類の救いを言っていたのだとわかったのです。

以上がマルコ827節から33節の内容でした。神の人間救済計画の全容が明らかになりました。誠に壮大な内容です。神の人間救済計画についてわかったところで、マルコ834節から38節を見るとその内容もよくわかってきます。

 それでは、イエス様が、つき従う者つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?それらについてみていきましょう。

 まず、私たちの背負う十字架ですが、これは、イエス様が背負ったものと同じものでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって全人類の罪の負債を全部請け負って、罪の罰を全て引き受けて、人間の救いを実現した以上、私たちはそれと同じことをする必要はないし、そもそも神のひとり子でもない私たちにできるわけがありません。

それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど申しました、キリスト信仰者の人生は、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスであるということを思い出しましょう。

「自分を捨てる」というのは、肉に結びついた古い人を死なせていく、神の霊に結びついた新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。捨てるのは古い自分です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。プロセスですので、この世を去るまでは捨て続けます。「自分を捨てる」と言うと、なにか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえたり、逆に自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえたりするかもしれません。そのいずれでもありません。そうではなくて、神が与える罪の赦しに包まれて、さらに包まれようと赦しに次ぐ赦しを受けて古い人が衰えて新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てることです。

そういうわけで、私たちがそれぞれ背負う十字架とは、洗礼を受けた時に始まる新しい人と古い人との内的な戦いということになります。戦いの現れ方は、それぞれ人が置かれた状況によって違ってくるでしょう。職場や家庭などの具体的な人間関係の中で、死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるかもしれません。自分より良い境遇の人を妬むことで古い人が強まるかもしれません。あるいはキリスト信仰の故に、誤解を受けたり仲間外れになったりすると、イエス様を救い主と信じることが揺らいでしまって、新しい人の育ちが鈍くなるかもしれません。このように背負う十字架は、それぞれ見た目は違っても、新しい人と古い人の間の戦いを戦うという点ではみな同じです。

 さてここで、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう(下注)。36節でイエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言いました。ここの「命を失ったら」の「失う」と、その前の35節で「命を失う」と二度出てくる「失う」ですが、原語のギリシャ語ではそれぞれ違う動詞を使っています(35節はαπολλυμι36節はζημιοω)。36節の動詞(ζημιοωの正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため、辞書によっては、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意するものもあるくらいです。「失う」と訳したら、ここのイエス様の教えは、命は地球より重し、になります。「傷がついている、欠陥がある」と訳したら、どうなるでしょうか?

先ほど、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて古い人と新しい人との内的な戦いを始めることであると申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を救うとか失うとか言っているのは、実は、この内的な戦いを戦いながら、神との結びつきに生きて神のもとに戻る道を歩んでいるかいないかということに関係することがわかってきます。以下、35節から先を整理してみます。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」解説的に言い換えるとこうなります。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりのままにいて新しい人を植えて育てようとしない者は、神のもとに戻る道を歩んでいない。この世の人生が終わったら全て終わりになる。神のもとに戻る道を歩んでいる者は、この世の人生が終わったら新しい人生が待っている。イエス様を救い主と信じて内的な戦いを始めた者は、たとえ信仰が原因で命を失うことがあっても馬鹿を見たことにはならない。その者は永遠の命を得る。なぜなら神のもとに戻る道を歩んでいたからだ。」ここで殉教の可能性が出ますが、そんな極限状況に至らなくても、罪の赦しの福音に立って生きていれば、永遠の命を先取りしているわけだから、その意味で今の命は失っていると言ってもよいでしょう。

36節と37節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら(傷がついていたら)、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これも次のように解説的に言い換えることができます。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりに生きていて神のもとに戻る道を歩んでいない者は、命に傷がついているのである。そのような者が全世界を手中に収めても何の得があろうか?この世の人生が終わったら全て終わりではないか?死を超えた永遠の命を望んでも、世界中の富を差し出しても永遠の命を買い取ることなどはできないのだ。」

詩篇4989節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。命は、失ってしまったら、全世界の資産の合計を差し出しても元に戻らないし、新しい永遠の命にも変えることもできません。ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さった方がおられたのです!神のひとり子イエス・キリストが犠牲の生け贄となって十字架の上で流した血が全世界の総資産をはるかに上回る代価、身代金になったのです。それをもって、人間を罪の支配から解放し、私たちの造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たち一人一人は、神の目から見てそれくらい高価なものなのです。

それですから、兄弟姉妹の皆さん、神はこれだけのことをして下さった方であることを忘れないようにしましょう。そして、私たちがイエス様により頼みながら古い人を日々死なせ新しい人を日々育てていくとき、神は私たちをいつも守り導き助け出してくださることを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(下注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)

2018年9月17日月曜日

イエス様の敷かれた『聖なる道』を進む (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2018年9月16日 聖霊降臨後第十七主日

イザヤ書35章4-10節
ヤコブの手紙1章19-27節
マルコによる福音書7章31-37節

説教題 「イエス様の敷かれた『聖なる道』を進む」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.はじめに

今年の夏フィンランドに滞在していて、日本のニュースが今までになく多かったことに驚かされました。ニュースというのはどれも自然災害に関するもので、西日本を襲った豪雨洪水や台風、酷暑、それに北海道の地震など、これらは皆様に身近なものだったので、ここで改めて話する必要はないでしょう。滞在先で近所の人たちから、テレビのニュース見たけど君には被災地に親せきや友人はいるのか?と心配の声を何度もかけられました。この場にても被害に遭われた方々、被災された方々に心からお見舞いの気持ちでいることをお伝えしたく思います。

7年前の東日本大震災の時もそうでしたが、こういうことがあると、キリスト教の神と結びつけていろんな疑問が起こります。例えば、なぜ神はこのような災害をくい止めなかったのか?全能の神などと言いながら、本当は力がないのではないか?また、神は我々が悪いことをしたことに罰を下したというのか?それでは、我々はどんな悪いことをしたというのか?こんな被害を被るに相応しい悪をしたというのか?神は憐れみ深い方などと言いながら、本当は血も涙もない存在ではないか?大体そういった疑問です。

ここで、人間に起こる不幸について、特に自然災害がもたらす不幸について、それが果たして神が残酷な心で引き起こすものか、それとも力不足で阻止できないのかどうかについて考えてみましょう。不幸には人間の愚かさがもとで起こるものもありますが、ここでは人間の出来、不出来がもとで起こるのではない自然災害について考えます。

聖書によれば、神は天と地とその間にあるものを含めた一切のもの、まさに万物を造られた創造主です。この万物の中には沢山の法則が働いています。例えば、重力や引力が働いているので私たちはみな地上に足をつけて立っていられるし、月も落ちてきません。光は1秒間に30万キロの速さで進みます。水は0度になると凍り、100度で沸騰します。神が創造した万物にはこういう法則が無数に働いているのです。神はまさにこういう法則が働くように万物を造ったと言ってもよく、これらの法則は万物を万物たらしめる法則なのです。そして大事なことですが、これらの法則は人間が頑張って変えようとしても変えられるものではなく、人間はこれらの法則を超えられないように造られているのです。

そういうわけで、もし海底で二つのプレートがぶつかり潜り合って抑えつけられている方が抑えの限界に達すれば、元に戻ろうとする力が働くのは当然で、いつかは地震を引き起こします。重力その他の自然の法則が働く限り、それは必ず起きるのです。そう考えると、地震というのは、神が何か、ちょっとこの国民に痛い目をあわせてやろうかなどと、その時々の気分で引き起こすものではないことがわかります。神が創造した万物には、万物を万物たらしめている法則が働いていて、法則に見合った条件が全てそろうと地震は起きてしまうのです。条件がそろったにもかかわらず起きない場合は、神が自然法則に影響を及ぼしていることになり、奇跡ということになります。奇跡とは、イエス様が水の上を歩いたことからも明らかなように、自然法則を超えたところに起きます。それで、地震を消滅させたければ、重力その他物理的な法則を変えることができなければなりません。しかし、それは新しい自然法則を作るようなことで、神でもない私たち人間には不可能です。地震に絶対に遭遇したくないという人は、日本列島から出ていかなければなりません。

しかし、ここで生活すると決めた以上は、覚悟を決め、被害を最小限に食い止めるために最大限のことをしなければならない。万が一の時はどのように立ち振る舞うべきか学ばなければならない。地震だけでなく火山噴火や台風も同じです。これはこの列島に住む人なら誰でも共有していることでしょう。とは言え、覚悟を決める、とか、いつも備えていなければならない、というのは落ち着かないものです。あまりいい気はしません。でも、多くの人は日々の営みに心を注いで忘れてしまうかもしれません。あるいは忘れるために営みに集中するかもしれません。ところで日本列島は、温帯モンスーン地帯に位置することによる自然の豊かな恵みがあります。四季の移り変わりに色とりどりの花が伴います。これは、神の創造の中で働く自然法則の別の側面です。それを享受できることは人生を豊かにします。しかし、他方で人生を破壊する自然法則の働きもあります。

人生を豊かにするものと破壊するもの、どっちも確実にあるものです。日本列島で生活する限り、この二つを抱えて生きていかなければならない。豊かにするものだけを見て破壊には心を向けまいとすれば、破壊に遭遇したら全てがお終いになってしまいます。逆に破壊の方に心が向いて豊かにするものが見えなくなったら、生きる意味がなくなります。どのようにこの二つの相反するものを抱えて生きていったら良いのか?最近日本列島を襲った自然災害とこれから起こりうる災害のゆえに、そんなことを考えながら、本日の聖書の個所を読み直してみました。これが最適な抱え方だ、という明確な答えは見つからなかったのですが、こういう方向で考えたらいいのでは、というものは見えてきたと思います。以下それについてお話していきたいと思います。


2.イザヤ書全体の中の35章について

本日の聖句の中で旧約聖書の日課イザヤ書35310節を中心に見ていきます。3節と4節「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪を報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」。ここで、天地創造の神からの励ましと力づけの言葉が述べられています。さてこの言葉は、人生を破壊するものを恐れる私たちを心を落ち着かせてくれるでしょうか?「敵を打ち、悪を報いる神が来られる」というのが新共同訳の訳ですが、ヘブライ語の原文は「悪に対する報いが来る、被った害に対する償いが来る」意味です。神がやって来て悪を叩き潰すということではなく、神が悪を叩き潰す時がやってくるということです。それがお前たちの救いだ、だからしっかりしろ、と言うわけです。この励ましはどうでしょうか?先ほど申し上げた、人生を豊かにするものと破壊するものを同時に抱えて生きる力を得るには少しかけ離れている感じがします。もう少しイザヤ書35章をみてみましょう。

5節と6節をみると、見えない人の目が開く、聞こえない人の耳が開く、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる、口の利けなかった人が喜び歌う、と言っています。これはすぐイエス様が行った奇跡を業を指すとわかります。本日の福音書の個所でイエス様は、耳が聞こえず舌が回らずちゃんと話せない人を癒し、耳が聞こえ話ができるようにしました。目の見えない人が見えるようになる奇跡、歩けなかった人が躍り上がる奇跡は福音書の他の個所に記されています。

6節後半から7節までをみると、乾いた荒れ地が水の潤う大地に変化することが言われています。8節からは、その大地を通る「聖なる道」について言われます。「汚れた者」は入れない道ということですが、誰のことを指すのか?それは、そこを通る人が誰かわかれば、そうでない人のことを言っているのだとわかります。それでは、その道を通る人というのは誰か?9節「解き放たれた人々」、10節「主に贖われた人々」です。ヘブライ語の単語の意味は、両方とも「主に買い戻された人々」です。もちろん「解き放たれた」とか「贖われた」と訳しても同じ意味になります。肝心なことは、主つまり神はその人たちを何から買い戻したのか、何から贖ってくださったのか、何から解き放ってくださったのか、これがわかることです。このことは後に見ていきます。

そうすると道に入れない「汚れた者」とは神に買い戻されていない人を指すとわかります。8節に「愚か者がそこに迷いいることはない」とありますが、ヘブライ語原文を素直に訳すと「愚か者がその道から迷い出ることはない」です(フィンランド語の聖書もそう訳しています)。つまり、神に買い戻されて「聖なる道」を歩く人の中には何か至らない人もいるが、そんな人でも神に買い戻されている以上、その道から外れることはないということです。さらに、その道を通るとき、獅子も獣も襲ってこないというのは、道を通る者は危険から守られているということです。

「聖なる道」を進んだ者たちは、喜びに満ちてシオンに帰り着く、と言われます。シオンとはエルサレムの町を指します。さて、これは一体どういうことか?最初に神は励ましと力づけの言葉を述べ、その根拠に悪に対する報いと被った害に対する償いの時が来ると言われる。そして、イエス様の行った奇跡の業が述べられ、荒れ地が水の潤う大地に変化し、そこに「聖なる道」が敷かれ、神に買い戻された人たちが危険から守られて、ゴールであるエルサレムに歓呼で迎えられて到着する。なんだか、日本列島にいる私たちにははあまり関係のない話に聞こえます。でも、果たしてそうでしょうか?ここで、このイザヤ書35章の聖句をイザヤ書全体の中でとらえてみます。

イザヤ書はとても重層的な書物です(旧約聖書の書物はみんなそうです)。イザヤ書は大きく分けて三つの部分にわけられ、まず1章から39章までが最初の部分です。ここには、紀元前700年代に活動した預言者イザヤの働きと彼が神から受けた言葉が記されています。イザヤの時代はユダヤ民族にとって一つの激動の時代で、民族は南北二つに分かれていましたが、双方とも天地創造の神の意志に背く生き方をして、その罰としてまず北側のイスラエル王国が大国アッシリアに滅ぼされる。続いて南のユダ王国にもアッシリアは攻撃をしかけますが、イザヤの伝える神の言葉にヒゼキア王が従い、敵の大軍は敗退するという奇跡的な事件が起こります。これが1章から39章までの内容です。本日の35章はここに含まれています。

次に40章から55章が来ます。場面は一変して、イザヤの時代から200年経った後の出来事が出てきます。200年の間に何があったかというと、イザヤの後もユダ王国はしばらく続きますが、やはり神の意志に背く生き方をし、これも罰として大国バビロンによって滅ぼされ、民の主だった者は異国の地に連行されます。「バビロン捕囚」と呼ばれる世界史の教科書にも出てくる事件です。民は半世紀以上バビロンの地で辛苦を味わいますが、そこで神は民の罪の償いは済んだとみなして祖国帰還を約束します。これは、実際にペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼしたことで実現します。イザヤ書40章から55章までは、この民の祖国帰還と希望に満ちた将来についての預言が中心になっています。

ところが最後の部分56章から66章になると、祖国帰還した民はまだ約束された理想の状態になっていないことが明らかになります。そして、理想の状態は、今ある天と地が終わりを告げて神がそれに代わって新しい天と地を創造する時に持ち越されるという考えが出てきます。

こうしたイザヤ書全体からみると、35章で言われていることは一見すると、イスラエルの民がバビロン捕囚を終えて解放されて祖国帰還する預言に見えます。神の報いと償いは、バビロン帝国の滅亡と民の祖国帰還と考えられます。民が喜びに満ちてシオン、つまりエルサレムに到着するというのはまさに帰還です。喜びに満ちて祖国帰還する者たちにとって歩む道のりは周りは荒れ地でも水の潤う大地のイメージがわくかもしれません。旅路の安全も、ペルシャ帝国の王が勅令を出して帰還を認めたのだから大丈夫ということかもしれません。しかし、目の見えない人の目が開き、耳の聞こえない人の耳が聞こえるようになる奇跡の出来事は祖国帰還の時にあったでしょうか?祖国帰還後の民の状態について6317節は次のように述べています。「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、わたしたちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか」という預言者の嘆きの言葉です。祖国帰還した民は実は道を迷い出てしまった状態にあり、目と耳だけでなく心も閉ざされてしまっていたのです。


3.イエス様とイザヤ書35

ところが、イスラエルの民の祖国帰還から500年経った後、このイザヤ書35章の預言が祖国帰還の時とは異なる、真の実現につながる出来事が起こりました。イエス様の登場です。先にも申しましたように、イエス様は数多くの奇跡の業を行いましたが、35章に述べられている癒しの奇跡も行っています。本日の耳が聞こえず舌が回らず話が出来ない人を癒す時も、35章が土台にあることに気づきます。「エッファタ」というのは何か呪文みたいですが、これは呪文なんかではなく、イエス様の時代にイスラエルの地で話されていたアラム語という言語で、「お前は開かれた状態になれ」という意味の普通の命令文です。アラム語で「イップェター」אפתהと言います。これが、新約聖書がギリシャ語で書かれたため「エッファタ」εφφαθαとギリシャ文字で記されました。いずれにしてもイエス様の肉声に触れられる個所です。このイエス様の「開け」という命令文は、イザヤ書355節で耳が聞こえるようになることを「耳が開く」と言っていることに対応しています。

そこで、イエス様はその人を癒す時どうして指を耳に入れて、唾のついた指でその舌に触れたのか?これにはいろんな説明があると思いますが、イザヤ書35章に照らし合わせてみるとつながりが見えてくると思います。耳が聞こえないというのは、耳が閉じている状態と考えられたので、指を入れることでその人に開く状態を感じさせる。その後で「開け」と言って聞こえるようになったので、聞こえることはまさに耳の開いた状態だと感じとれます。唾をつけたことについてですが、イザヤ書356節のヘブライ語の原文をみると、「口の利けなかった人が喜び歌う。なぜなら荒れ野に水が湧いで荒れ地に川が流れるから」と、新共同訳にはありませんが「なぜなら」(כי-)と言っています。つまり、荒れ地が水で潤うことが口の利ける原因になっています。舌がまわらなかった人の口をイエス様が唾で潤したのだと考えることができます。どうして水を用いないのかという疑問も起きますが、その時の差し迫った状況を思い浮かべれば、それが潤す手っ取り早い手段だったということがわかります。

このようにイエス様の奇跡の業がイザヤ書35章の預言を実現したことがわかりましたが、それでも実現していないこともはっきりあります。それは、イエス様のシオン、つまりエルサレムの入城に関してです。確かにイエス様は弟子たちを大勢従えて、群衆の歓呼の中でエルサレムに到着しました。しかし、そこで待っていたのは十字架刑の受難でした。イザヤ書35章の終わりには、喜びと歓呼の中に到着した民から「嘆きと悲しみは消え去る」と言われています。それと反対のことが起こるのです。イエス様の出来事はまだ預言の一部分の実現にしかすぎず、全部の実現には至らなかったのでしょうか?


4.イエス様が敷かれた「聖なる道」を進む

いいえ、そうではありません。実はイエス様はある意味で35章の預言を全部実現していたのです。どういうことでしょうか?

イエス様が十字架刑にかけられたのは、天地創造の神の計画に含まれていたものでした。神はひとり子であるイエス様をご自分のもとからこの地上に送られ、乙女マリアを通して人間として誕生させました。神の計画とは、創世記に記されている堕罪の出来事があったために神と人間の結びつきが失われてしまったことを回復させることでした。どうして結びつきが失われてしまったかというと、堕罪の時に人間に入り込んだ罪がそれを壊してしまったのです。神聖な神が罪を滅ぼそうとすると、それを持つ人間も滅ぼすことになります。人間には神との結びつきを回復してほしい、その中で生きてほしい、そう願った神は、人間の罪の問題の解決のために罪の罰をひとり子のイエス様に全部負わせ、彼の身代わりに免じて人間を赦すという挙に打って出たのです。それがイエス様の十字架の死だったのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命のあることを示され、そこに至る道を整えて下さいました。

そこで人間は、イエス様の犠牲があったので神から罪を赦されるのだ、とわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じれば、神からの赦しはその人にその通りになります。このようにして神の赦しに包まれた人は、神との結びつきを回復してその中で生きることになります。神との結びつきを回復した人とは、まさに神が買い戻してくださった人です。何から買い戻したか?罪の支配からです。何をもって買い戻したか?神のひとり子が十字架で流した尊い血を代償にしてです。神は、ひとり子を犠牲に供してもいいというくらいに、私たちを大事な者と扱って下さったのです。

神との結びつきの中で生きるようになった人は、この神の愛に対して感謝で満たされ、神の意志に沿うように生きようと志向します。神がこの至らぬ自分にこれだけのことをして下さった以上、自分も隣人に対しては同じようにしようと志向します。本日の使徒書の日課ヤコブ1章では、そうした神への感謝から生じる隣人への立ち振る舞いとして、まず自分をまくしたてないで相手のことを聞いてあげること、怒りをすぐに表さず、舌を制御して言葉に気をつけることをあげています。これらを努力するにあたっては、神が自分にどんな恩恵を与えて下さったかをいつも思い出すようにします。

使徒パウロは、復讐は神に任せよ、悪に対しては悪ではなく善をもって応ぜよ、敵が飢えていたら食べさせよ(ローマ12章)と教えています。これは悪をのさばらせて良いということではありません。復讐は神のすることと言っていることから明らかです。神は最後の審判の時にこの世で起きた正義と不正義の貸し借りを清算して、正義を最終的に実現します。イザヤ書354節で言われている、悪に報いを、被った害には償いを、というのはまさに最後の審判を指します。

イザヤ書35章の最後の節で神に買い戻された人たちが歓呼と喜びの中でシオンに到着すると、「嘆きと悲しみは逃げ去る」と言われます。使徒ヨハネは黙示録の終わりで、今の天と地に代わる新しい天と地が創造されること、その中で神に買い戻された人たちが復活させられ永遠の命を与えられること、そして神が「彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみ嘆きも労苦もない」(黙示録204節)ことが起きると予言しています。ここで、イザヤ書35章の民の到着の出来事というのはこの復活の出来事と新しい天と地の創造を指すことが明らかにされています。それではシオン‐エルサレムとは何なのか?それは、この地上にある町を意味しません。黙示録では「天上のエルサレム」と言っていて、新しい天と地の中に現れる神の国、神に買い戻された人たちが到達する国を意味します。そこに到着することを「帰り着く」と言っています。これは、堕罪の起きる前に人間が神のおられるところに一緒にいた、そこに戻ることを意味します。

そうすると、イザヤ書35章の預言は、イエス様が奇跡の業と十字架と復活の業で全て実現したことがわかります。イエス様が、神に買い戻された人たちが進む道、「聖なる道」を敷かれたのです。その道を進むと、せっかく回復した神との結びつきを失わせてやろうと、いろんな試練や反対する力が起こってきます。しかし、使徒パウロが教えるように「どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ839節)ので、それらにはそんな力はないのです。神の愛にとどまる限り、神の御許に到達できる安全性は保証されているのです。

こうして、イエス様を救い主と信じて、神との結びつきを回復してこの世の人生を歩む者は、イエス様の敷かれた「聖なる道」を進みます。その道は、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと導きを得られる道です。万が一この世から去らなければならない時が来ても、復活の目覚めの時に御許に引き上げてもらえる道です。そこで喜びと歓呼をもって迎えられます。そして、忘れていけないことは、まだこの地上で道を進む時、周囲の素晴らしい自然大地を目にした時は、まさに創造の神の良い業として楽しんでいいということです。そのために神は人生を豊かにするものを造られたのですから。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、神に買い戻されてイエス様の敷かれた「聖なる道」を歩む私たちは、最終目的地までしっかり守られると神から安全を保証されていることを忘れないようにしましょう。そして、道すがら神が造られた人生を豊かにするものを楽しんでよいことも忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン