2017年11月27日月曜日

最後の審判で神は何を裁くのか (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年11月26日 聖霊降臨後最終主日
日本福音ルーテル三鷹教会

エゼキエル書34章11-16、20-24節
エフェソの信徒への手紙1章15-23節
マタイによる福音書25章31-46節

説教題 「最後の審判で神は何を裁くのか」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 今日は聖霊降臨後最終主日ですので、教会の一年は今週で終わり、新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それはまた最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。とは言っても、今のフィンランドでそうした自省をする人はどれくらいいるでしょうか?「裁きの主日」の礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くと、町々は、待ってました、とばかりにクリスマスのイルミネーションが点灯され始めます。いつも、待降節までまだ1週間あるのに、と思ったものです。近年では「裁きの主日」の前に点灯してしまうそうです。

さて、本日の福音書の箇所ですが、これはキリスト信仰者が社会的弱者やその他の困難にある人たちを助ける行動へと駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終末の時に再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで、多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮者、特に子供たちに主の面影を見て、支援に乗り出して行きます。

しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かになってしまう、つまり、人間の救いは善い業をしたかどうかに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の立場と相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本には、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場があります。私がフィンランドに住んでいた時、隣の市の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの主日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者のインタビュー記事があり、マタイ25章の本日の箇所と信仰義認の関係をどう考えるかという質問がされました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でいたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。

問題は、ルター派を越えてキリスト教そのものの在り方に関わります。というのは、善い業を行えば救われると言ったら、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。仏教徒だって、イスラム教徒だって、果てはヒューマニズム・人間中心主義を追及する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っています。それを実践すれば、みんなこぞって神の国に入れることになります。しかし、それは、ヨハネ146節のイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?

この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言うならば、本日の箇所は、善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も、信仰による救いを教えていることがわかります。これから、そのことをみてまいりましょう。ひょっとしたら、本説教は途中まで聞くと、この箇所を拠りどころにして支援活動に携わるキリスト信仰者を憤慨させてしまうかもしれません。しかし、最後まで聞けば、本説教は、支援活動に水を差すものでは全くなく、活動にしっかりした土台を据えるものであることがわかると思います。

2.

 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、諸国民全てを御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、この審判の場には、人々のグループは二つではなく、実は三つあります。三つ目のグループとは誰のことか?40節をみると、再臨の主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言っています。日本語で「この最も小さい者」、「この」と単数形で訳されていますが、ギリシャ語原文では複数形(τουτωνなので「これらの」が正解です。一人ではありません。原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」となります。つまり、第三のグループとして主の兄弟グループも同じ場にいるのです。主は、羊と山羊の二グループに対して「ほら、みなさい」と、兄弟グループを指し示しているのです。

それでは、この主の兄弟グループとは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は、物理的身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような抽象的な意味です。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような者たちです。社会の基準からみて価値なしとみなされる者たちです。従って、主の兄弟たちは子供に限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいでしょう。

それでは、この主の兄弟グループは、もっと具体的に特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えがすぐに得られます。10章で、イエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、宣教に派遣します。その際、使徒たちに宣教旅行の規則を与えて、迫害に遭遇しても神は決して見捨てないと励まします。そして、使徒たちを受け入れる者は使徒たちを派遣した当のイエス様を受け入れることになる(1040節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(4142節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」(ここではτουτωνをちゃんと複数形で訳しています)、「小さい」ミクロスμικροςという単語は、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが(マタイ186節)、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことについて述べているので、この「小さい者」は、子供は指しません。使徒たちです。使徒とは何者か?イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめなさい、また自分がなさる業をしっかり見届けなさい、と自ら選んだ直近の弟子たちです。さらに、教えと業だけでなく、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を命を賭してでも宣べ伝えなさい、と選ばれた弟子たちです。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。マタイ10章では、使徒を受け入れて、渇きに苦しむ使徒に水一杯を与える者は報いを受けられると言っていますが、本日の箇所も同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をして、病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言っているのです。

3.

 以上、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを社会的弱者・困窮者一般と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちはどうなってしまうでしょうか?キリスト者とは人を助けてこそキリスト者だと考えている人は、支援の対象が福音を宣べ伝える使徒に限られていると聞いたら、なんと視野の狭い解釈だと怒ってしまうでしょう。しかし、これは解釈ではありません。書かれてあることを素直に読んで得られる理解です。そうなると、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう弱者・困窮者一般の支援は考える必要はないということになるのか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ1025-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者一般の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということにあります。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申しましたように、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは、別にキリスト教徒でなくてもわかり、実践できます。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。本説教は、そのことも明らかにしていくことになります。

 さて、使徒というのは、先ほども申しましたように、イエス様が自分の教えをしっかり聞きとめるようにと、また自分の業をしっかり見届けるようにと、選んだ者たちです。実際に彼らは、教えと業に加えてイエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を宣べ伝え始めました。福音が宣べ伝えられていくと、今度は人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろ支援してあげる人たちが出てくる。他方では、福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出てくる。ここで思い起こさなければならないことは、支援した人たちというのは、支援することで、逆に使徒の仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。その意味で、支援した人たちは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだからという同情心で助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音のゆえに彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのです。つまり、支援した人たちは福音に対して態度を決定して、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った人たちです。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちです。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのです。そういうわけで、本日の箇所は、文字通り信仰義認を教えるもので、善行義認なんかではありません。

4.

以上、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らに対する支援は彼らが携えてきた福音を受け入れたことの帰結であることが明らかになりました。実に、神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒を支援するのが当然になるくらい福音を受け入れるか否かということになります。福音を受け入れることがポイントになるとすれば、最後の審判の該当者は使徒の時代の人たちに限られません。その後の時代からずっと今の時代の人々みんなが該当者になります。使徒の後の時代の人たちは、もし仮に使徒たちが生きているとしたら、自分たちも同じように支援してあげられなければならない、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならない、さもないと神の国に迎え入れられないということです。

 そうは言っても、本日の箇所でイエス様は支援のことばかり言っていて、福音の受け入れについては何も言っていないではないか、との疑問が起きるかもしれません。イエス様が福音の受け入れを前提にしつつも、それには触れずに、支援のことだけを言っているのにはわけがあります。イエス様はこの教えを述べる際、本日の旧約の日課エゼキエル書34章の解き明しとして述べていることがあります。どういうことかと言うと、エゼキエル書3411節から24節までの箇所は、一見するとバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が将来祖国に帰還でき、民を虐げた民族は神から罰を受けると預言しているように見えます。同じような預言は、イザヤ書やエレミア書にも多く見られます。ところが、めでたく祖国帰還した後も、イスラエルの民の現実は預言で言われる理想状態から程遠いと気づかれるようになります。それで、預言は実はまだ未完なのだ、それは今ある天と地が終わりを告げて新しく創造し直される時、まさに真の神の国が現れる時に実現するという預言だったのだ、と理解されるようになります。本日の福音書の箇所のイエス様の教えは、エゼキエル書の預言をバビロン捕囚からの解放という歴史的出来事を越えて、まさに終末論の観点で解き明かすものでした。

 エゼキエル書の箇所の中で何度も「羊と羊の間を裁く」と言われますが(17節、20節、22節)、ヘブライ語の単語שהは羊と山羊の両方含めた意味ですので、羊と山羊がごっちゃ混ぜになった状態です。ここでは羊が良い者、山羊が悪者というような特定化はありません。はっきりしているのは、太っていて力強い者が牧草地や水場を独占し、やせて力弱い者には踏み荒らされた牧草地と水場しか残されない、それで神は裁きを行って虐げる者を罰する。虐げられる者は、「私の群れ(צאני、羊も山羊も含む)」と何度も言ってそれを守ると言われます。イエス様は、その裁きの内容を具体的に述べるわけです。判決と根拠を明確にし、良い者は羊、悪者は山羊と特定化します。 
 
イエス様の解き明しにはエゼキエル書の預言には見られない新しい事が一つあります。エゼキエル書の預言の裁きは、虐げる者と虐げられる者の間の裁きですが、イエス様の解き明しの裁きには、虐げられる者を支援する者が加えられたということです。ただ単に虐げられた使徒を神が守って下さると言うだけならば、エゼキエル書のように二つのグループで十分です。しかし、イエス様は、虐げられた者を使徒と位置づけるだけでなく、彼らに連帯する者たちを加えたのです。すなわち、使徒が携えてきた福音を受け入れるという態度決定をした者たちです。エゼキエル書の預言にこのような具体的な内容が与えられたのは、十字架と復活の出来事の後に起こってくる人間の態度決定が考慮に入れられたからです。

 ここで使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて触れておきましょう。福音とは、一言で言えば、人間が堕罪の時に失ってしまっていた神との結びつきを、神の計らいで人間に取り戻して下さったという、素晴らしい知らせです。創世記3章にあるように、人間が神に造られた時に持っていた神との結びつきは、人間が神への不従順に陥り罪を持つようになってしまったために失われてしまいました。神との結びつきを失った人間は死ぬ存在となり、人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。

 失われた結びつきを回復するために神は、ひとり子イエス様をこの世に送り、彼を用いてそれを実行しました。人間には神との結びつきの回復を不可能にしている罪が染みついている、それで、イエス様に人間の罪を全部負わせて、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして全ての罰を受けさせて死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すという策を講じました。これがゴルガタの丘の十字架で起きた出来事です。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命の扉の門を人間のために開かれました。

 人間は、これらのことが自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものにすることができ、その瞬間から罪の赦しが効力を発揮します。こうして人間は罪を赦された者として神との結びつきを回復でき、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。それからはずっと順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御許に引き寄せて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになりました。これほど私たち人間のために尽くして下さる愛と恵みの神は永遠にほめたたえられますように。以上が、使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音でした。

 人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかった時、神に対する深い感謝から、神に対して背を向ける生き方はやめよう、これからは神の意思に沿うように生きようという心を持つようになります。神から受けた恩寵の大きさがわかれば、自分の利害のちっぽけさもわかって、自分の持っているものに執着せず、それを他の人々のために役立てようという心を持つようになります。真に、キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。

 ここで、神の意思に従って生きるという時の「神の意思」について触れておきます。神の意思とは、要約すれば、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つに尽きます。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、この神が自分にどれだけのことをして下さったかがわかるようになった時です。隣人愛の方は、キリスト信仰では、それは神への全身全霊の愛を土台にしています。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業がまさに神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかをいつも吟味する必要があります。神としては、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取るようにと望んでいるので、キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを忘れてはなりません。

5.

以上、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準として明らかになったのは、使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。その信仰から神の意思に沿うように生きるようという心が生まれ、そこからキリスト信仰者の善い業が生まれてくるということです。このように言うと、次のような疑問が沸き起こります。福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?態度決定する機会も与えられずに、お前は福音を受け入れなかったと言われて火に投げ込まれてしまうのはあんまりではないか?この疑問は、特に日本のキリスト信仰者にとって気になるところではないかと思います。というのは、復活の日、キリスト信仰者の自分は信仰者でなかった肉親に再会できないのではないかという不安が生じるからです。

近年ではキリスト教会の中でも、いろんな宗教があるというのはいろんな登山道を登って同じ頂上に到達するようなものだという考え方をする人が増えてきたと聞きます。そんなご時世ですから、先ほどのイエス様の言葉、彼こそが天地創造の神のもとに到達する唯一の道、命、真理であるという言葉をそのまま信じると、お前は時代遅れの世間知らずだと言われてしまうでしょう。しかし、そう言われるのを承知の上で話を続けます。

 福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、ここでは黙示録20章を手掛かりにしてみてみます。そこでは、死者の復活と最後の審判が起きる時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちと言われます(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(1315節)。それ以外の者たちとは、文字通り、信仰のゆえに命を落とした者たち以外の者たちです。まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守るような極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。そして信仰を持たなかった人たちがいます。信仰を持たなかったというのは、洗礼を受けたがそれが何の意味も持たない生き方をした人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全部ひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。

 ただ、ひょっとしたら、洗礼を受けたあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を唯一の救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。詳細な真実は神の記録に記されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。また、ひょっとしたら、洗礼を受けなかったあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。そういうわけで、福音が伝えられなかった人たちについてはなおさら、神に任せるしかないのです。

 キリスト信仰を持たずに死んだ人と復活の日に再会できるかどうかという大問題で、このように全てを全知全能の神に任せるというのは、大抵の場合、心に平安をもたらします。それでも、何かのきっかけでこの平安が揺らぎ、今はっきりした答えが欲しいという思いにとらわれることがあります。その時、あなたが自分の希望を神の御心だと言ってしまったら、神をあなたの希望に従わせてしまうことになってしまいます。この問題は、人間の限られた知見や能力ではどうにもならないことなのです。

ここで肝要なことは、もう一つの大問題、すなわちこの世を去る時にどこに行くかのという問題で、あなた自身はどこに行くのがいいのか、ということです。あなた自身はどうなのか、ということです。この問題で聖書が示す選択肢は言うまでもなく、この私を造って下さって、ひとり子イエス様を送って下さった父なるみ神のもとに戻るということです。ルターの言葉を借りれば、この世の歩みを終えて心地よい眠りをひと眠りした後、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて天の祝宴に迎え入れられるということです。復活の日までひと眠りするのですから、登山道なんか登りません。

この選択肢でなければ、別の宗教が教えるところがいいのか、それとも、何も明らかにしないまま逝くのがいいのか、ということになります。もし、造り主の父なるみ神のもとに行くことでいいと決めたら、あとは、復活の日の再会については、お祈りの中で父なるみ神に希望を打ち明けて、最後に「私の思いではなく、あなたの思いが行われますように」と付け加えることです。自分で解決できないことに自分を思い煩わせないことです。

神は罪を焼き尽くさずにはいられない厳しい神聖な方であり、また人間が罪と一緒に焼き尽くされることを望まず、そのためにイエス様を送られた憐れみ深い方でもあります。このために私たちの側で不安と期待が入り乱れることは避けられません。しかし、全知全能の神に全てを任せるしかないというところに落ち着けば、使徒パウロの次の言葉はあなたにとってその通りになるはずです。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ467節)

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2017年11月22日水曜日

神が備えて下さった愛に生きよ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 
2017年11月19日(聖霊降臨後第24主日)スオミ教会

ホセア書11章1-9節
テサロニケの信徒への第一の手紙3章7-13節
マタイによる福音書25章1-13節

説教題 神が備えて下さった愛に生きよ


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 本日の福音書の箇所から、イエス様の時代のユダヤ教社会の結婚式の様子が窺い知れます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に行って結婚を正式に申し込みます。先方の両親からOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで祝宴が盛大に催されました。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従う役割を担います。こうしたおとめたちの付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。

本日の福音書の箇所でイエス様は、こうした婚礼の行列に付き従うことになった10人のおとめたちに何が起きたかを話します。わかりそうでわかりにくい話だと思います。わかりそうなことと言えば、10人のうち賢い5人は、花婿が花嫁の家を出るまで時間がかかることを見越して、ともし火が消えないように予備の油を準備する。愚かな5人はそうしない。案の定、花婿はなかなか出て来ず、10人とも疲れて眠ってしまう。すると突然、花婿が出てきて、これから祝宴に向かって出発するぞ、と号令がかかる。はたと目が覚めたおとめたちは支度をするが、愚かなおとめたちはともし火が消えそうなのに気づいて慌てて買いに行く。その間に行列は出発してしまい、さっさと祝宴会場に行ってしまう。油を買って来たおとめたちは閉ざされた門の前でおろおろするばかり。中に入れて下さいと懇願するが、花婿からお前たちなど知らないなどと言われて文字通り門前払いを食ってしまう。

 こういうことを言っていることくらいは誰にでもわかります。何がわかりにくいかと言うと、花婿は5人に対してなぜそんなに冷たく振る舞うのか、ということがあると思います。5人はただ見通しが甘かっただけなのに、花婿自らが門の反対側から「お前たちなど知らない」などと言うのは、ちょっと冷たすぎはしないか?結婚式のお祝いの行列にともし火を持って付き従うというのは、そんなに花婿の名誉にかかわるもので、それをちゃんと果たせないというのはそれほどの大失態になったということなのか?これは、当時の民衆の生活史を綿密に調べないとわかりません。ただ一つ言えることは、この話はたとえということです。架空の話で実際に起こったことではありません。イエス様は教えを述べる時によく誇張を用いました。一粒の種は良い土地に落ちれば30倍、60倍、100倍の実がなるんだ、とか、からし種という数ミリ程度の種から鳥が巣を作れる位の大きな木が育つ、とか、また、罪を犯した兄弟を許すのは7回までですかと聞かれて、いや7の70倍許しなさい、とか、聞く人の度肝を抜くような言い方をします。それを考えると、本日の5人のおとめに対する冷たい仕打ちも、聞く人に何かを強く警告するために言っているのだとわかります。それでは何を警告しているのか?

それがわかるためには、このたとえは何についてのたとえかがわからなければなりません。それは、本日の福音書の箇所の冒頭に明確に言われています。この10人のおとめのたとえは「天の国」についてのたとえです。天の国、「神の国」とも言い換えられますが、それがどんな国かをわからせるために、このたとえが話されているのです。それでは、このたとえから神の国とはどんな国であるとわかるでしょうか?そのことをこれから明らかにしていきましょう。

2.

神の国について、最初に一般的に、大ざっぱに述べておきます。これまでの説教の中で何度も取り上げてきましたが、神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」、「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間の五感や理性で認識・把握できるような、この現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、ご自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

 神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはイエス様が再臨される日でもあり、また最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章や「ペトロの第二の手紙」3章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨したイエス様が、その時点で生きている者たちとその日死から目覚めさせられた者たちの中から御心に適う者を見出して神の国に迎え入れます。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな結婚式の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録214節(717節も)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。

神の国を結婚式の祝宴として述べている黙示録19章によれば、花婿はイエス様であり、花嫁はイエス様を救い主と信じた者たちの集合体です。マタイ22章の最初のところでもイエス様は「神の国」について結婚式の祝宴を題材にしてたとえを述べていますが、そこでの花婿はイエス様自身を指しています。

 そうしますと、本日のたとえにある結婚式の祝宴は将来現れる「神の国」を意味します。そうすると、ともし火に買い置きの油を用意した賢い5人は、神の国に入ることができた者たち、用意しなかった愚かな5人は入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、愚かな5人のようになってはならない、神の国に入れなくなってしまわないように注意しなさい、と警告していることがわかってきます。ここで一つ難しいことが出て来ます。イエス様はたとえの結びで、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と述べるところです。あれ、神の国に入れるために目を覚ましていなさい、居眠りしてしまったら入れなくなってしまうぞ、と言うのなら、賢いおとめたちだって眠りこけてしまったではないか、ということになるからです。賢いおとめたちは、予備の油を準備したおかげで神の国に入れたのであって、頑張って目を覚ましていたからではありません。この「目を覚ましていなさい」という命令には、文字通りの事柄ではなく、何か深い意味が込められています。それはどんな意味なのでしょうか?

3.

 5人の賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」とも言われています。そうすると、「目を覚ましていなさい」というのは、具体的に寝ずに起きていることを意味するのではなく、なにか用意ができている状態にあることを意味する、そういう象徴的な意味を持っているのだと分かります。そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と言っているところで「眠り込んでしまった」というのも、本当に具体的に寝てしまうことではなく、何かを象徴的に意味しているとわかります。どんな意味でしょうか?「眠り込んでしまった」という言葉は、ギリシャ語ではカテウドーκαθευδωという動詞ですが、これは「眠る」という意味の他に「死ぬ」という意味もあります(第一テサロニケ510節)。さらに7節で「おとめたちは皆起きて」と言うところの「起きて」という言葉は、ギリシャ語では、エゲイローεγειρωという動詞で、これも「起きる」という意味の他に「死から復活する、蘇る」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。

こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して死者の復活が起こる日のことについて教えていることがわかります。今のこの世が終わりを告げ、神が天と地を新しく創造し直す日のことです。その日、死から目覚めさせられた者のうちある者は祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられないということが起こる。イエス様は、神の国に迎え入れられるために、この世の人生で用意をしなければならない、と教えられます。賢いおとめたちが油を用意してともし火が消えないようにしたような用意をしなければならない。それでは、その用意をするとは何をすることなのかを考えなければなりません。

これからそれを見ていきますが、ここで一つ申し添えておきたく思います。イエス様の教えというのは、このように、今の世と次に来る新しい世とか、死者の復活とか、そういう今のこの世を超えた視点を持って語られているということをよく覚えておく必要があります。その視点を抜きに本日の箇所を理解しようとしたら、人間何事も準備が大切だ、とか、先を見越して行動することが大切だ、とか、そんな誰でもわかるような人生訓をイエス様が述べていることになってしまいます。そんなことを教えるためにイエス様は創造主の神のもとから送られてきたのではありません。人間が将来の神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方ができるために送られてきたのです。

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それでは、「用意する」生き方とはどんな生き方かをみていきましょう。答えはすぐお話しできるのですが、せっかく今日の聖書日課に旧約聖書と使徒書の日課もあるので、ちょっと遠回りになるかもしれませんが、それらを手掛かりに述べていきたく思います。

まず旧約の日課のホセア書をもとにして「用意する」生き方の解明に入って行こうと思います。ホセアとは、イエス様が活動する700年以上も前の時代の預言者です。当時イスラエルの民は北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂していました。本日の箇所のエフライムというのは北王国を指します。イスラエルの民は分裂以前から異教の神々を拝む偶像崇拝に走るようになり、特に北王国は重症に陥っていました。天地創造の神としては、せっかく数ある民族のなかからスラエルの民を選んで、彼らを通して神の意思を全人類に知らしめる役割を担わせたにもかかわらず、しかも我が子のように守ってあげたにもかかわらず、民の心は神を離れて他の霊的なものに移ってしまった。十戒などの神が与えた掟も守られなくなって、その結果、政治的にも社会的にも不正義がまかり通るようになってしまった。

天地創造の神というのは、罪を目の前にすると即焼き尽くしてしまう神聖さを有する方です。民の罪は消滅してもらわなければなりません。そのことが歴史の中で実現します。アッシリア帝国という大国が北王国を攻撃して滅ぼしてしまうという出来事がそれです。紀元前722年のことでした。ホセア書1157節でそのことが預言されます。「剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼす」(6節)というところで、「たわ言」と言うのは、偶像崇拝を行った祭司や預言者たちの「空虚な言葉」のことです。「たくらみ」というのは彼らが国の指導者たちに語って惑わした助言を指します。神は罪を滅ぼすために天から炎を送るのではなく、敵軍を送ってその剣で滅ぼしてもらったということです。

しかし、神の神聖さに反する罪を滅ぼそうとすると、それを持っている人間をも抱き合わせで滅ぼすことになってしまう。これが神にとって痛いところであるということが89節で言われます。アドマとツェボイムというのは、創世記19章で罪の町ソドムとゴモラが天からの炎を浴びて滅ぶ出来事がありますが、炎を浴びた地域の中にあった町のことです(申命記2922節)。神は性質上、罪を焼き尽くさずにはいられない神聖さを有する。しかし、自分が選んで世話し導いた民を焼き尽くしたくはない。そこで神は、一度国家滅んで異国の地に連行された民はある期間が過ぎれば、罪の償いを果たしたということにして、祖国に帰還させると約束します。この約束は多くの預言書の中で繰り返され、それは最終的に紀元前538年にイスラエルの民が祖国に帰還できた時に実現します。

ところが神は、この一民族の歴史的な出来事を行った時、それ自体のために行ったのではありませんでした。神はユダヤ民族のみならず人類全てに関しても罪を焼き尽くす神聖な方であるということ、それにもかかわらず人間に赦しを与えて焼き尽くされないように大丈夫にしてくれる方であるということ、このことを一民族の歴史の出来事を通して全人類に前もって示したのです。

そして、前もって示されたことがはっきり現れる日が来ました。それがイエス様の十字架の死と死からの復活でした。神聖な神のもとから送られた神聖なひとり子でありながら、イエス様は全人類の罪を背負って神の罰を受けて十字架の上で死なれました。まさに罪を焼き尽くす神の神聖さによって滅ぼされたのです。神はひとり子をこのように犠牲に供することで人間が焼き尽くされないですむようになる道を整えました。さらにイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開きました。このような人間を罪から贖いだす業を行って下さったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその者に効力を持ち始めます。その人は、神がイエス様を用いて整えた罪の赦しの中で生き始めます。自分で罪を償ったわけではないのに、神のひとり子の犠牲のおかげで罪を赦されて焼き尽くされないようにされている。イエス様の犠牲を重く受け止めれば受け止めるほど、与えられた罪の赦しを損なわないようにしよう、汚さないようにしようと注意して生きるようになります。そのために神の意思をちゃんとわかるようにしようと聖書の御言葉にますます触れようとします。

 しかしながら、御言葉を通して神の意志を知ろうとすればするほど、自分はそれから遠い存在であること、罪や神に対する不従順に満ちていることに気づかされます。神を全身全霊で愛することが神の意志なのに、自分はそうしていないではないか、その愛に基づいて隣人を愛することが神の意志なのに、そうしていないではないか、と。ルターも、このことはよく承知で、彼に言わせれば、キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者だということになるのです。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、また神の守りを信用しないで心配事に身も心も委ねてしまうこと、その他もろもろの欠点に出くわすのです。

 そうなると、古い自分を捨てて新しく生まれ変わったと喜んだ人はがっかりしてしまうかもしれません。なんだ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と。でも実は新しく生まれ変わっているのです。信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けます。聖霊があると、神への不従順、罪をつきとめてくれて、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に心に教えてくれます。これに目や耳をそむけずにすぐ神に向かって自分の非を認めて、主イエス様のゆえに赦して下さい、と祈ると、神は「わかった、わが子イエスの犠牲に免じて赦す。もう罪を犯さないように」と言って下さいます。この時信仰者の心の目はゴルゴタの十字架に向けられ、そこで十字架にかけられた主の両肩や頭の上に自分の罪が覆いかぶさっていることに気づきます。あそこに罪の赦しが本当にあることがわかります。その時、もう罪は犯すまいと決心を新たにします。

このようにキリスト信仰者の生き様というのは、洗礼の時に植えつけられた内なる新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせることの繰り返しになります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、ひと眠りの後、目覚めさせられて復活の命と体を与えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時「完全なキリスト教徒」になるのです。

さて、5人の賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、こうした新しい人を日々育て、古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いが不断に続くことを意味します。信仰の戦いが終息せずに不断に続くようにするものは何かと言うと、それは聖書の神の御言葉の上に立つこと、聖礼典の恵みに結びついていることです。御言葉の上に立つこと、聖礼典と結びつくこと、これが買い置きの油になります。これがある限り、信仰の戦いは不断に続き、ともし火の火が消えることはありません。「目を覚ましていなさい」の象徴的な意味は、まさに信仰の戦いをしっかり戦いなさいということです。そうすることが、将来の復活の日に向けて「用意をする」生き方です。時として、神を全身全霊で愛することをせず、隣人を自分を愛するが如く愛さず、神の意志に背いてしまう時があるでしょう。また外見上は大丈夫のようでも心の中でそうなってしまうことがあるでしょう。それは避けられません。しかし大事なことは、そのたびに父なるみ神に赦しを祈り、主の十字架のもとに立ち返ることです。父なるみ神は罪を焼き尽くさないではいられない神聖な方であるにもかかわらず、人間がそうなってしまわないためにイエス様をこの世に送られました。完璧な正義と完璧な憐れみ、神の愛とはこの二つが完璧にあるのです。神が正義だけを振りかざしたら、人間は皆滅んでしまいます。逆に、憐れみだけだと、人間はつけ上がります。人間がつけ上がらず、逆にへりくだって謙虚になるような、そんな憐れみを神は示されたのです!イエス様を送ることによってです。こんな完璧な愛が他にあるでしょうか?兄弟姉妹の皆さん、この愛にとどまって生きようではありませんか!

5人の愚かなおとめについて一言申し上げれば、彼らは誰を指すのか?洗礼を受けた後、新しい人を育てて古い人を死なせるという信仰の戦いを放棄してしまった人のことか、それともそもそもそういう戦いに入ることもなく、肉だけで生きる人のことか、確定は難しいと思います。大事なことは、イエス様は警告としてこのたとえを話しているということです。つまり、今肉だけに生きる人も、信仰の戦いから離脱してしまった人も、はやくこの戦いを始めなさい、戦いに戻りなさい、ということです。それが将来の復活の日に向けて用意をすることになります。本日の使徒書の日課で使徒パウロは「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈っています(第一テサロニケ312節)。お互いの愛と全ての人への愛と二つの愛がありますが、お互いの愛とは、信仰者が互いに向け合う愛で、信仰者が戦いを続けられるように支え合うことです。全ての人への愛というのは、信仰者でない人が同じ神の愛に生きられるように祈り導くことです。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン