説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教
2017年11月19日(聖霊降臨後第24主日)スオミ教会
ホセア書11章1-9節
テサロニケの信徒への第一の手紙3章7-13節
マタイによる福音書25章1-13節
説教題 神が備えて下さった愛に生きよ
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所から、イエス様の時代のユダヤ教社会の結婚式の様子が窺い知れます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に行って結婚を正式に申し込みます。先方の両親からOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで祝宴が盛大に催されました。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従う役割を担います。こうしたおとめたちの付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。
本日の福音書の箇所でイエス様は、こうした婚礼の行列に付き従うことになった10人のおとめたちに何が起きたかを話します。わかりそうでわかりにくい話だと思います。わかりそうなことと言えば、10人のうち賢い5人は、花婿が花嫁の家を出るまで時間がかかることを見越して、ともし火が消えないように予備の油を準備する。愚かな5人はそうしない。案の定、花婿はなかなか出て来ず、10人とも疲れて眠ってしまう。すると突然、花婿が出てきて、これから祝宴に向かって出発するぞ、と号令がかかる。はたと目が覚めたおとめたちは支度をするが、愚かなおとめたちはともし火が消えそうなのに気づいて慌てて買いに行く。その間に行列は出発してしまい、さっさと祝宴会場に行ってしまう。油を買って来たおとめたちは閉ざされた門の前でおろおろするばかり。中に入れて下さいと懇願するが、花婿からお前たちなど知らないなどと言われて文字通り門前払いを食ってしまう。
こういうことを言っていることくらいは誰にでもわかります。何がわかりにくいかと言うと、花婿は5人に対してなぜそんなに冷たく振る舞うのか、ということがあると思います。5人はただ見通しが甘かっただけなのに、花婿自らが門の反対側から「お前たちなど知らない」などと言うのは、ちょっと冷たすぎはしないか?結婚式のお祝いの行列にともし火を持って付き従うというのは、そんなに花婿の名誉にかかわるもので、それをちゃんと果たせないというのはそれほどの大失態になったということなのか?これは、当時の民衆の生活史を綿密に調べないとわかりません。ただ一つ言えることは、この話はたとえということです。架空の話で実際に起こったことではありません。イエス様は教えを述べる時によく誇張を用いました。一粒の種は良い土地に落ちれば30倍、60倍、100倍の実がなるんだ、とか、からし種という数ミリ程度の種から鳥が巣を作れる位の大きな木が育つ、とか、また、罪を犯した兄弟を許すのは7回までですかと聞かれて、いや7の70倍許しなさい、とか、聞く人の度肝を抜くような言い方をします。それを考えると、本日の5人のおとめに対する冷たい仕打ちも、聞く人に何かを強く警告するために言っているのだとわかります。それでは何を警告しているのか?
それがわかるためには、このたとえは何についてのたとえかがわからなければなりません。それは、本日の福音書の箇所の冒頭に明確に言われています。この10人のおとめのたとえは「天の国」についてのたとえです。天の国、「神の国」とも言い換えられますが、それがどんな国かをわからせるために、このたとえが話されているのです。それでは、このたとえから神の国とはどんな国であるとわかるでしょうか?そのことをこれから明らかにしていきましょう。
2.
神の国について、最初に一般的に、大ざっぱに述べておきます。これまでの説教の中で何度も取り上げてきましたが、神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」、「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間の五感や理性で認識・把握できるような、この現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、ご自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。
神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。
神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはイエス様が再臨される日でもあり、また最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章や「ペトロの第二の手紙」3章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨したイエス様が、その時点で生きている者たちとその日死から目覚めさせられた者たちの中から御心に適う者を見出して神の国に迎え入れます。
その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな結婚式の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節も)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。
神の国を結婚式の祝宴として述べている黙示録19章によれば、花婿はイエス様であり、花嫁はイエス様を救い主と信じた者たちの集合体です。マタイ22章の最初のところでもイエス様は「神の国」について結婚式の祝宴を題材にしてたとえを述べていますが、そこでの花婿はイエス様自身を指しています。
そうしますと、本日のたとえにある結婚式の祝宴は将来現れる「神の国」を意味します。そうすると、ともし火に買い置きの油を用意した賢い5人は、神の国に入ることができた者たち、用意しなかった愚かな5人は入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、愚かな5人のようになってはならない、神の国に入れなくなってしまわないように注意しなさい、と警告していることがわかってきます。ここで一つ難しいことが出て来ます。イエス様はたとえの結びで、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と述べるところです。あれ、神の国に入れるために目を覚ましていなさい、居眠りしてしまったら入れなくなってしまうぞ、と言うのなら、賢いおとめたちだって眠りこけてしまったではないか、ということになるからです。賢いおとめたちは、予備の油を準備したおかげで神の国に入れたのであって、頑張って目を覚ましていたからではありません。この「目を覚ましていなさい」という命令には、文字通りの事柄ではなく、何か深い意味が込められています。それはどんな意味なのでしょうか?
3.
5人の賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」とも言われています。そうすると、「目を覚ましていなさい」というのは、具体的に寝ずに起きていることを意味するのではなく、なにか用意ができている状態にあることを意味する、そういう象徴的な意味を持っているのだと分かります。そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と言っているところで「眠り込んでしまった」というのも、本当に具体的に寝てしまうことではなく、何かを象徴的に意味しているとわかります。どんな意味でしょうか?「眠り込んでしまった」という言葉は、ギリシャ語ではカテウドーκαθευδωという動詞ですが、これは「眠る」という意味の他に「死ぬ」という意味もあります(第一テサロニケ5章10節)。さらに7節で「おとめたちは皆起きて」と言うところの「起きて」という言葉は、ギリシャ語では、エゲイローεγειρωという動詞で、これも「起きる」という意味の他に「死から復活する、蘇る」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。
こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して死者の復活が起こる日のことについて教えていることがわかります。今のこの世が終わりを告げ、神が天と地を新しく創造し直す日のことです。その日、死から目覚めさせられた者のうちある者は祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられないということが起こる。イエス様は、神の国に迎え入れられるために、この世の人生で用意をしなければならない、と教えられます。賢いおとめたちが油を用意してともし火が消えないようにしたような用意をしなければならない。それでは、その用意をするとは何をすることなのかを考えなければなりません。
これからそれを見ていきますが、ここで一つ申し添えておきたく思います。イエス様の教えというのは、このように、今の世と次に来る新しい世とか、死者の復活とか、そういう今のこの世を超えた視点を持って語られているということをよく覚えておく必要があります。その視点を抜きに本日の箇所を理解しようとしたら、人間何事も準備が大切だ、とか、先を見越して行動することが大切だ、とか、そんな誰でもわかるような人生訓をイエス様が述べていることになってしまいます。そんなことを教えるためにイエス様は創造主の神のもとから送られてきたのではありません。人間が将来の神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方ができるために送られてきたのです。
4.
それでは、「用意する」生き方とはどんな生き方かをみていきましょう。答えはすぐお話しできるのですが、せっかく今日の聖書日課に旧約聖書と使徒書の日課もあるので、ちょっと遠回りになるかもしれませんが、それらを手掛かりに述べていきたく思います。
まず旧約の日課のホセア書をもとにして「用意する」生き方の解明に入って行こうと思います。ホセアとは、イエス様が活動する700年以上も前の時代の預言者です。当時イスラエルの民は北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂していました。本日の箇所のエフライムというのは北王国を指します。イスラエルの民は分裂以前から異教の神々を拝む偶像崇拝に走るようになり、特に北王国は重症に陥っていました。天地創造の神としては、せっかく数ある民族のなかからスラエルの民を選んで、彼らを通して神の意思を全人類に知らしめる役割を担わせたにもかかわらず、しかも我が子のように守ってあげたにもかかわらず、民の心は神を離れて他の霊的なものに移ってしまった。十戒などの神が与えた掟も守られなくなって、その結果、政治的にも社会的にも不正義がまかり通るようになってしまった。
天地創造の神というのは、罪を目の前にすると即焼き尽くしてしまう神聖さを有する方です。民の罪は消滅してもらわなければなりません。そのことが歴史の中で実現します。アッシリア帝国という大国が北王国を攻撃して滅ぼしてしまうという出来事がそれです。紀元前722年のことでした。ホセア書11章5-7節でそのことが預言されます。「剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼす」(6節)というところで、「たわ言」と言うのは、偶像崇拝を行った祭司や預言者たちの「空虚な言葉」のことです。「たくらみ」というのは彼らが国の指導者たちに語って惑わした助言を指します。神は罪を滅ぼすために天から炎を送るのではなく、敵軍を送ってその剣で滅ぼしてもらったということです。
しかし、神の神聖さに反する罪を滅ぼそうとすると、それを持っている人間をも抱き合わせで滅ぼすことになってしまう。これが神にとって痛いところであるということが8-9節で言われます。アドマとツェボイムというのは、創世記19章で罪の町ソドムとゴモラが天からの炎を浴びて滅ぶ出来事がありますが、炎を浴びた地域の中にあった町のことです(申命記29章22節)。神は性質上、罪を焼き尽くさずにはいられない神聖さを有する。しかし、自分が選んで世話し導いた民を焼き尽くしたくはない。そこで神は、一度国家滅んで異国の地に連行された民はある期間が過ぎれば、罪の償いを果たしたということにして、祖国に帰還させると約束します。この約束は多くの預言書の中で繰り返され、それは最終的に紀元前538年にイスラエルの民が祖国に帰還できた時に実現します。
ところが神は、この一民族の歴史的な出来事を行った時、それ自体のために行ったのではありませんでした。神はユダヤ民族のみならず人類全てに関しても罪を焼き尽くす神聖な方であるということ、それにもかかわらず人間に赦しを与えて焼き尽くされないように大丈夫にしてくれる方であるということ、このことを一民族の歴史の出来事を通して全人類に前もって示したのです。
そして、前もって示されたことがはっきり現れる日が来ました。それがイエス様の十字架の死と死からの復活でした。神聖な神のもとから送られた神聖なひとり子でありながら、イエス様は全人類の罪を背負って神の罰を受けて十字架の上で死なれました。まさに罪を焼き尽くす神の神聖さによって滅ぼされたのです。神はひとり子をこのように犠牲に供することで人間が焼き尽くされないですむようになる道を整えました。さらにイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開きました。このような人間を罪から贖いだす業を行って下さったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその者に効力を持ち始めます。その人は、神がイエス様を用いて整えた罪の赦しの中で生き始めます。自分で罪を償ったわけではないのに、神のひとり子の犠牲のおかげで罪を赦されて焼き尽くされないようにされている。イエス様の犠牲を重く受け止めれば受け止めるほど、与えられた罪の赦しを損なわないようにしよう、汚さないようにしようと注意して生きるようになります。そのために神の意思をちゃんとわかるようにしようと聖書の御言葉にますます触れようとします。
しかしながら、御言葉を通して神の意志を知ろうとすればするほど、自分はそれから遠い存在であること、罪や神に対する不従順に満ちていることに気づかされます。神を全身全霊で愛することが神の意志なのに、自分はそうしていないではないか、その愛に基づいて隣人を愛することが神の意志なのに、そうしていないではないか、と。ルターも、このことはよく承知で、彼に言わせれば、キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者だということになるのです。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、また神の守りを信用しないで心配事に身も心も委ねてしまうこと、その他もろもろの欠点に出くわすのです。
そうなると、古い自分を捨てて新しく生まれ変わったと喜んだ人はがっかりしてしまうかもしれません。なんだ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と。でも実は新しく生まれ変わっているのです。信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けます。聖霊があると、神への不従順、罪をつきとめてくれて、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に心に教えてくれます。これに目や耳をそむけずにすぐ神に向かって自分の非を認めて、主イエス様のゆえに赦して下さい、と祈ると、神は「わかった、わが子イエスの犠牲に免じて赦す。もう罪を犯さないように」と言って下さいます。この時信仰者の心の目はゴルゴタの十字架に向けられ、そこで十字架にかけられた主の両肩や頭の上に自分の罪が覆いかぶさっていることに気づきます。あそこに罪の赦しが本当にあることがわかります。その時、もう罪は犯すまいと決心を新たにします。
このようにキリスト信仰者の生き様というのは、洗礼の時に植えつけられた内なる新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせることの繰り返しになります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、ひと眠りの後、目覚めさせられて復活の命と体を与えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時「完全なキリスト教徒」になるのです。
さて、5人の賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、こうした新しい人を日々育て、古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いが不断に続くことを意味します。信仰の戦いが終息せずに不断に続くようにするものは何かと言うと、それは聖書の神の御言葉の上に立つこと、聖礼典の恵みに結びついていることです。御言葉の上に立つこと、聖礼典と結びつくこと、これが買い置きの油になります。これがある限り、信仰の戦いは不断に続き、ともし火の火が消えることはありません。「目を覚ましていなさい」の象徴的な意味は、まさに信仰の戦いをしっかり戦いなさいということです。そうすることが、将来の復活の日に向けて「用意をする」生き方です。時として、神を全身全霊で愛することをせず、隣人を自分を愛するが如く愛さず、神の意志に背いてしまう時があるでしょう。また外見上は大丈夫のようでも心の中でそうなってしまうことがあるでしょう。それは避けられません。しかし大事なことは、そのたびに父なるみ神に赦しを祈り、主の十字架のもとに立ち返ることです。父なるみ神は罪を焼き尽くさないではいられない神聖な方であるにもかかわらず、人間がそうなってしまわないためにイエス様をこの世に送られました。完璧な正義と完璧な憐れみ、神の愛とはこの二つが完璧にあるのです。神が正義だけを振りかざしたら、人間は皆滅んでしまいます。逆に、憐れみだけだと、人間はつけ上がります。人間がつけ上がらず、逆にへりくだって謙虚になるような、そんな憐れみを神は示されたのです!イエス様を送ることによってです。こんな完璧な愛が他にあるでしょうか?兄弟姉妹の皆さん、この愛にとどまって生きようではありませんか!
5人の愚かなおとめについて一言申し上げれば、彼らは誰を指すのか?洗礼を受けた後、新しい人を育てて古い人を死なせるという信仰の戦いを放棄してしまった人のことか、それともそもそもそういう戦いに入ることもなく、肉だけで生きる人のことか、確定は難しいと思います。大事なことは、イエス様は警告としてこのたとえを話しているということです。つまり、今肉だけに生きる人も、信仰の戦いから離脱してしまった人も、はやくこの戦いを始めなさい、戦いに戻りなさい、ということです。それが将来の復活の日に向けて用意をすることになります。本日の使徒書の日課で使徒パウロは「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈っています(第一テサロニケ3章12節)。お互いの愛と全ての人への愛と二つの愛がありますが、お互いの愛とは、信仰者が互いに向け合う愛で、信仰者が戦いを続けられるように支え合うことです。全ての人への愛というのは、信仰者でない人が同じ神の愛に生きられるように祈り導くことです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン