2017年11月8日水曜日

聖書の人間観と死生観 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年11月6日(全聖徒主日)スオミ教会

エゼキエル書37章1-14節
ローマの信徒への手紙6章1-11節
ヨハネによる福音書15章1-17節

説教題 聖書の人間観と死生観

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

キリスト教会のカレンダーでは本日は聖霊降臨後から第22の主日ですが、日本のルター派教会では「全聖徒主日」としても定められています。キリスト教会では古くから111日を、キリスト信仰の故に命を落とした殉教者を聖徒とか聖人として覚える日としてきました。加えて112日を、キリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。ラテン語で、殉教者を覚える日はFestum omnium sanctorum、信仰者を覚える日はCommemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれてきました。フィンランドでは、これらを合わせて11月最初の土曜日を「全聖徒の日」として両者を覚える日にしています。
  
日本のルター派教会のカレンダーでは、111日が「全聖徒の日」、それに近い主日が「全聖徒主日」と定められています。今日のことです。111日が中心なのを見ると、ラテン語の伝統の殉教者中心のようにみえます。それでも多くの教会では私たちのもとを旅立った信仰の兄弟姉妹の遺影を飾ることが行われていますので、フィンランドと同じように殉教者と信仰者両方を覚える日として定着しているのではないかと思います。

 ここで、亡くなった方を「覚える」ということはどういうことかを注意しなければなりません。というのは、こうして遺影を飾っていると、さも亡くなった方が今見えない形で私たちと一緒に礼拝を守っているかのような感覚を持たれる方がいらっしゃるかもしれないからです。ルターが教えていますが、人は死ぬと、この世が終わりを告げて死者の復活が起きる日までは、神のみぞ知る場所にいて静かに眠るのであります。終末と復活の日が来たら目覚めさせられ、神に相応しいとされた者は輝く復活の体を着せられて、天の御国の祝宴に迎え入れられるのであります。その日までは眠るだけです。イエス様も、死んだ者を蘇らせる奇跡を行った時、「この者は死んではいない。眠っているだけだ」と言って蘇らせました(マルコ539節等共観箇所、ヨハネ1111節)。まことにキリスト信仰にとって、「生きる」とはこの世の体を着て生きる日々と復活の輝く体を着て生きる日々の両方を合わせて生きることです。「死ぬ」とは、この世の体を着て生きた後は輝く体もなく祝宴への迎え入れもないことです。本日の福音書の箇所のイエス様の言葉を借りれば、「枝のように外に投げ捨てられ枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ156節)ということです。

 亡くなった方は、復活の日まで安らかに眠っているとすれば、私たちを見守るとか、導くとか、助言するとかいうことはありません。私たちを見守り、導き、助言をするのは、これは、私たちを造られ、私たちに大事な命と人生を与えて下さった造り主の神以外にはいません。今見えない形で、礼拝を守るために集まった私たちと一緒にいるのは、他でもないこの神です。

 そういうわけで、亡くなった方たちを覚えるというのは、その方たちと共に過ごした日々を何ものにも換えがたい大切なものとして心に抱くことです。そして、そのような日々とそのような方たちを与えて下さった神に絶えず感謝し、復活の日の再会に希望を託すことを許していただけるよう神に祈ることです。このようにしてキリスト信仰者は、過去の思い出を大切にして、それを神に感謝しながら将来の希望の日のことを神に委ねて今日を生きていくのであります。

このように全聖徒主日の意味を考えると、復活や終末などキリスト教の死生観の中心的な事柄に触れることにもなります。死生観という言葉には、「死」と「生」の両方が含まれています。生を考える時、死というものを切り離さないで考えるということです。キリスト信仰においては、この世を去る死は一時の眠りに入る段階であって、本当の死はその後に来るか来ないかがわかるということだ、と先ほど申しました。また、人間にはこの世の体を持って生きる日々だけではなく、復活の体を持って生きられる可能性があることも申しました。二つの異なる体があるというので、キリスト信仰には死生観と結びつく人間観もあると言えます。本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の箇所は、キリスト信仰の死生観と人間観をよく表している箇所だと思います。もちろん、聖書の他の箇所でも表わされています。本日の説教題に「聖書の人間観と死生観」などと大見得切ったものをつけてしまいましたが、正確には「エゼキエル書371節から14節を通して見る聖書の人間観と死生観」です。もし聖書の関連個所全部について見ることができたら、文字通り「聖書の人間観と死生観」の話が出来ます。でも、合計14節だけでも30分近い話になるのに、そんなことしたら何日位かかるでしょうか?

2.

本日のエゼキエル書の箇所にある出来事は、イエス様が登場する500年以上も前のことです。かつて神に選ばれたイスラエルの民でしたが、国の指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続けた結果、ついに神から罰として強大なバビロン帝国を遣わされてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいました。国民の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の古代史にも「バビロン捕囚」として登場する歴史的な事件です。連れて行かれた者の中に預言者のエゼキエルがいました。本日の箇所は、神の霊に導かれてある谷に連れて行かれたエゼキエルが、そこに無数の枯れた骨を見る。ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられたという出来事です。最近はやりのハロウィーンのせいで、こんな話は真剣に受け取るに値しないと思う人がいるかもしれません。でも、ここはこの世の喧騒から一時自分を遮断して、静かに聖書の神の御言葉に心の耳と目を向けましょう。教会とはそういう場所です。礼拝とはそういう時間帯なのです。実はこのエゼキエルの出来事には、紀元前500年代当時を生きる人々にとって有する意味と、歴史を越えて現代を生きる私たちにとって有する意味の二つの意味があります。

 まず、当時の人々にとって有する意味について見てみます。3711節に、なぜ天地創造の神はエゼキエルにこのような光景を見せたのかが明らかにされます。この大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びた自分たちは荒野に放置された枯れた骨も同然だ、希望はなく消滅するしかない、などと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できる、と約束する。神は、約束を本当に実現できる力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。ここまで見せつけられたら、神の約束を信じないわけにはいかないでしょう。

 このように、この光景は国難に陥って国が滅びてしまった民が復興することを確信させるために見せられたのでした。しかし、ここには同時に、人間というものは神に造られた被造物であるという、聖書の人間観がよく出ています。そこにも注意しなければなりません。8節に言われるように、骨に肉や皮膚がついてもまだ生きてはいませんでした。なぜなら、霊がなかったからです。神は霊を「与える」と言います(6節、下注参照)。神は霊を次のように与えました。エゼキエルに「霊に預言せよ」と命じ(ヘブライ語の辞書HolladayConciseによれば「預言者として霊に語れ、命じろ」、つまり「預言者の権威を持って命じろ」ということです)、霊が風のように四方から来てこれらの骨に吹きつけるようにせよ、と命じます。すると横たわっていた肉体は霊を受けて生き返ります。霊が風のように言われますが、これはヘブライ語の言葉רוחが霊と風の両方を意味することによります。これは絶妙な言葉だと思います。風は空気の移動なので目には見えません。木の枝や葉がざわざわなって風の力が働いたのを見て、吹いたことがわかります。霊も人間の目には見えません。その力が働いた結果を見ることしかできません。このことは、イエス様もヨハネ38節の有名な「風は思いのままに吹く」と述べているところで教えています。

以上から、人間が生きるためには神が与える霊を受けなければ生きられず、霊がなければ肉体はあってもただの物体にしかすぎないというのが聖書の立場であることが明らかになります。ここで一つ付け加えますと、霊がなければ動かないのは肉体だけではありません。人間には手足、目耳口、内臓や血管などの体の部分や器官の他に、感情や気持ちを生み出す心もあります。「心臓」と聞けば、それは血液を送り出すポンプのことを言うとわかります。血液循環に何か問題があって痛みを感じれば、「心臓」が痛いと言いますが、「心」が痛いとは言いません。「心」が痛いと言ったら、ジェスチャーとして心臓の部分に手をあてて言いますが、それは気持ちや感情の問題で血液循環の問題ではありません。そういう心や精神の部分も、肉体と同じように、霊を受けないと作動しません。このように、人間が神に造られたというのは、肉体や心や精神の部分を造っていただいただけでなく、最後の仕上げとして霊を与えて下さったということです。

このように霊とは人間を肉体や心や精神を持って生きるものにする決め手ということがわかりましたが、本日の箇所をよく見るともう一つ別の霊があることに注意しなければなりません。実は、これはヘブライ語の原文を見ないと気づくことができません。14節で神は「また、わたしがお前たちに私の霊を与えると、お前たちは生きる」と言われます。新共同訳では「吹き込む」ですが、ここもヘブライ語原文は「与える」です。それよりも重要なことは、新共同訳では単に「霊」を吹き込む、と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。14節の前で枯れた骨が生き返る光景の時に出て来る「霊」は全部、「私の」はなく単に「霊」だけです。14節で問題となっていることは枯れた骨の生き返りではなく、イスラエルの民の祖国帰還です。その時民は生き返ったも同然で、その時与えられる霊は「私の」霊、つまり神の霊なのであります。こうなると、二つの異なる霊があることになります。両方とも神から与えられるものですが、一つは人間を生きるものにする時に与えられる霊、もう一つはイスラエルの民が祖国帰還と復興を遂げる時に与えられる神の霊です。神が与えられる霊には二つあるということは、どう理解したらよいのでしょうか?

3.

理解の鍵は、使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」81416節で次のように教えているところにあります。それを少し見てみましょう。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になってあかしして下さいます。

いろんな霊が出て来るので、解きほぐしていきましょう。まず、「神の霊」というのは、父、御子、御霊の三位一体の神の御霊つまり聖霊を指します。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神の霊、聖霊を受けます。聖霊を受ける受けないで何が違ってくるかと言うと、イエス様のことを現在パレスチナと呼ばれる地域で2000年前に活動した歴史的人物だと言う場合には聖霊は働いていません。それが、イエス様のことを歴史的人物のみならず、彼のゴルゴタの十字架の死や死からの復活というのは実は現代を生きる自分のためになされたのだとわかり、それでイエス様は自分の救い主だと信じるというようになれば、それは聖霊が働いたからそうなったということになります。

 これに対して「人を奴隷として恐れに陥れる霊」とは、天地創造の後で人間に罪を吹き込んで、人間を神の罰を受ける存在にしてしまった悪魔のことを指します。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、この霊の力に支配されないように守られています。これが、本日の使徒書の日課「ローマの信徒への手紙」6章の中で使徒パウロが、洗礼を受けた者は「罪に対して死んでいる」と言っていることなのです(2節)。「罪に対して死んでいる」と言うのは、罪と無関係になったということです。イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、罪には人間を再び支配下に置く力はないのです。

洗礼を受けることでイエス様の十字架の死に結び付けられて、このように罪に対して死んだ者になると、今度はイエス様の死からの復活に結び付けられて、神に対して生きるようになると言われます(11節)。これはどういうことか?イエス様はゴルゴタの十字架で人間の罪を請け負って代わりに神罰を受けられました。彼の身代わりの犠牲のおかげでこの自分も神から罪の赦しを受けられるようになったのだ、まさに神がひとり子を犠牲に用いて準備した罪の赦しを頂けるのだ、このように神のひとり子の犠牲を重々しく受け止め、神から受け取ったものの大切さが分かればわかるほど、心は聖書に明らかにされている神の意思に沿うように生きようと志向し出します。神を全身全霊で愛そう、その愛に立って隣人をしっかり愛そう、という心意気になって行きます。神の意思に背くような生き方はしないようにしようという心意気になって行きます。この時、天地創造の神は裁く神でなく慈愛に満ちた父親になっています。それで、神のことを「アッバ」と呼ぶのだとパウロは言います。アッバとは、イエス様をはじめ当時のパレスチナの地域の人の言葉であるアラム語で「お父さん!」と呼びかける言葉です。天地創造の神を、そのように身近で慈愛に満ち、見守り助けてくれる父親として抱き、お祈りを通して思いや願いを全て打ち明けられるのは、これは聖霊が働いているからです。

 先ほどのローマ8章に戻ります。ここでのパウロの教えで興味深いのは、キリスト信仰者の内には二種類の霊があるということです。一つは先ほど申し上げた神の霊、聖霊ですが、もう一つは、信仰者が神の子であることを聖霊と一緒に証する「わたしたちの霊」です。これは、私たちが肉体や心や精神を持った生き物になるために神から与えられる霊です。キリスト信仰者もそうでない者も、生き物として持っていなければならない、神から与えられた霊です。それがキリスト信仰者になると、聖霊がその上に被せられるように与えられます。聖霊がなくてただの霊だけでも、もちろん生きられます。肉体や心や精神を用いた活動を行うことが出来ます。ただ、イエス様が歴史上の人物とは知ってはいても、自分の救い主にはなっていません。ひとり子を犠牲にすることをいとわないくらい人間のことを思って下さった神を慈愛に満ちた父であるということもわかりません。神がひとり子イエス様を犠牲にしてまでもたらしてくれた罪の赦しもまだ受け取っておらず、罪が償われたという解放の喜びや安堵もありません。さらに、人間を罪の支配下に留めたがる悪魔の霊に対して隙だらけになってしまいます。

4.

 以上、人間は生き者になるために天地創造の神から霊を与えられなければならないこと、さらに神のことを慈愛に満ちた父親と抱ける「神の子」となるためには神の霊、聖霊が与えられなければならないことが明らかになりました。この二つの異なる霊は、エゼキエル書の二つの霊に重なります。37章の1節から10節までは、枯れた骨が生身の人間に生き返ることを言っていました。そのために神から与えられる霊が必要とされました。この光景を見せられたエゼキエルは、枯れた骨のようになったイスラエルの民ではあるが、神はこれを生き返らせて下さる、つまり祖国に帰還させて復興させて下さると確信できました。そして、それは実際に紀元前538年に歴史的出来事として実現しました。37章の14節で「私の霊」と出て来るのは、これは祖国に帰還するイスラエルの民がどんな霊を受けるかを示しています。実際に祖国に帰還したのは、旧約聖書のネヘミア記やエズラ記を見てもわかるように生身の人たちです。枯れた骨に肉と皮膚がついて霊が与えられて生き返った者たちが帰還したのではありません。帰還した人たちは生き者としていたので、そのための霊は既に持っています。

そういうわけで、帰還の時に与えられる「私の霊」とは生き者にする霊ではなくて、神の子にする聖霊を指します。さて、歴史的事実としてイスラエルの民は祖国帰還を果たし復興しました。しかし、本当に聖霊を受けて神の子となって果たしたのかというと、そこには複雑な問題がありました。聖霊を受けて神の子となって祖国に帰還・復興するというのが預言でした。ところが帰還と復興は遂げても、民は神の意思に沿う生き方が出来ていないということが明らかになってきました。国民は復興したとは言っても、国は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国に支配され続けていました。イザヤ書2章にあるように異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言からほど遠い現実がありました。そうなると、民に聖霊が与えられて神の子とされるのはまだ実現していないのではないか?預言書に言われる祖国帰還と復興というものも実は別のものを指し、それはまだ実現していないのではないか?そう考えられるようになります。つまり、預言はまだ未完だという理解です。

どうしてこのようなことになったかと言うと、神は天地創造の後に生じた人間の罪の問題の解決を図るとき、一民族の歴史的復興でそれを果たすつもりはありませんでした。なぜなら問題は全人類にかかわる問題だからです。一民族の復興で解決される類のものではありません。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者に言葉を下しますが、歴史の限られた状況の中で下され、また下された預言者もその状況を手掛かりにしてしか言葉を理解できません。その結果、イスラエルの民の祖国帰還や復興という一民族の歴史的出来事は、本当の預言実現の模型のようになっていきます。

全人類に関わる罪の問題が解決したのは、イエス様が十字架の死をもって人間を罪の支配から贖い出した時、そして死から復活されることで永遠の命への扉を開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は、罪の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されて聖霊を与えられて神の子として「新しい命に生きる」(ローマ64節)ようになることを見通した預言でした。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル371213節)というのは、神の子となった者たちがまさに復活の体を着せられて、天上のエルサレムとも呼ばれる神の国に「帰還」するという、まさに復活の日をも見通す預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的事実だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事と将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということを忘れてはいけません。

5.

先ほど、聖霊を与えられて神の子となった者は、悪魔が支配しようとする力から守られていると申しました。守られてはいても、攻撃は受けます。しかし、攻撃は受けても守られています。このことをルターが本日の福音書の箇所にあるヨハネ151節「わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫である」を解き明していますので、それを引用して本日の説教の締めとしたく思います。

「見よ、主イエス様は受難と死を目の前にしてこのように述べて自分自身を励まされた。そればかりではない。主は我々もこの同じ励ましの言葉に拠り頼みなさいと教えておられるのだ。主が言わんとされるのは次のことだ。『私は真のぶどうの木である。私の父が自ら植え愛される木である。あなたたちは、私と私の父の愛すべき枝である。ぶどうの木が一生懸命肥料を与えられ刈り込まれ、丁寧に世話をされるならば、そのような木はまさに私のことである。悪魔よ、この世の闇よ、来るなら来てみよ、私に成し得ることをしてみるがよい。どちらにしても、お前たちは愛する私の父が認める範囲を越えて私に何かしでかすことは不可能なのだ。』
 父なるみ神は私たちのことも同じように守って下さる。それで私たちに悪が襲いかかっても、それはそのまま神に対して襲いかかることになって結局は悪は自滅せざるを得ない。果たして、これ以上の励ましがこの世にあるだろうか?農夫というものは、ぶどうの木の近くに住み、どこにも行かず、いつも全部の枝の世話をし、他の誰にも木を任せたりはしない。父なるみ神も同じである。
 イエス様を救い主と信じる信仰に留まって、この美しい御言葉を完全に自分のものとして所有する者は、どんな困難にあってもきっと勇気を失わないであろう。しかしながら、このような御言葉やそれが与えるイメージが我々の内に命を持てるためには、それこそ肉ではない霊的な耳と目が必要とされる。なぜなら、肉の目から見て、困難にある信仰者はぶどうの木や枝なんかではなく、雑草や灌木にしか映らない。しかし、霊的な目からみたら真のぶどうの木にしっかり繋がる枝以外の何者でもないのである。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン



下注 新共同訳では「吹き込む」と訳されていますが、ヘブライ語の原文では「与える」です。どうしてそのように訳されたかについて、天地創造の時に神が最初の人間を造られた時に「命の息を吹き入れられた(創世記27節)」とあることに拠ると考えられます。本説教では原文に忠実に見ていくことにします。