2017年10月30日月曜日

神の前でやましさのない生き方は可能か (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2017年10月29日 宗教改革主日

ヨシュア記24章14-24節
コリントの信徒への第一の手紙1章10-18節
マタイによる福音書5章1-6節

説教題 「神の前でやましさのない生き方は可能か」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は宗教改革主日ということで、日本のルター派教会に定められた福音書の箇所はマタイ51節から6節まで、あの有名なイエス様の「山上の説教」の出だしの部分です。「山上の説教」は、ガリラヤ地方の小高い山の上で群衆に向かって語られた教えで、マタイ5章から7章までの長きにわたります。教え終わった時、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われています(729節)。そのように聞く人に強いインパクトを与えた教えでした。2000年後の今を生きる私たちが読んでも、例えば「復讐してはならない、敵を愛せよ、人を裁くな」というのは崇高な理想に聞こえます。また、「野の花を見よ、働きもせず、紡ぎもしない、それなのに、天の父なるみ神はこのように装って下さる。お前たちにはなおさらである。だから思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」などは、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず、読む人に慰めと励ましを与えるものです。そうかと言えば、モーセ十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」について、たとえ殺人を犯さなくとも、心の中で兄弟を罵ったら同罪であると言います。また、第六の掟「汝姦淫するなかれ」についても、たとえ不倫をしなくとも、ふしだらな目で異性を見たら同罪である、などと教えます。そこまで言われたら神の御前で正しい人間などいなくなってしまうではないか、と反発してしまいます。このように「山上の説教」には、崇高な理想を感じさせる教えもあれば、励ましや慰めに満ちた心温まる教えもあり、ちょっと受け入れられないぞ、というような教えもあります。いずれにしてもイエス様は確信を持って語るので、聞く人は何か不動の真理が述べられていると気づき、大きな権威を感じました。

 本日の福音書の箇所として定められている51節から6節までですが、実はこれは、51節から12節までがひとくくりの部分なので、それの出だしの部分でもあります。そのひとくくり出来る1節から12節までというのは、「幸いな人」についての教えです。「幸い」と訳されるもとのギリシャ語の言葉μακαριοςですが、これは普通の「幸せ」と異なる意味を持ちます。それで、訳語として「幸せ」でない言葉を考えなければなりません。「幸い」という日本語が選ばれました。そこで、この「幸い」と普通の「幸せ」はどう違うかと言うと、例えば、お金でも健康でも家族でも、一般に持っているのが望ましいと思われているものを持てたら、それは「幸せ」なことです。人によっては、不足なく持てるだけでは物足りず、人よりも多く持てることを「幸せ」と感じる人もいます。

 「幸い」は次元が違います。これは何かを不足なく持っているか、沢山持っているか、とは関係なくある幸せです。誤解を恐れずに言えば、お金がない時にも、健康が損なわれた時にも、家族がいない時にも、ある幸せです。お金とか健康とか家族がある時の幸せよりも、もっと深いところにある幸せです。「幸せ」がこの世と密着しているものなのに対して、「幸い」はこの世離れしています。貧乏や病気になって一体何が「幸い」か!と言われてしまうかもしれませんが、もちろん、貧乏や病気になったら自動的に「幸い」を得るということではありません。これから解き明かしていくように、イエス様が指し示す方向に進んで行かないと得られません。逆に、金持ちは「幸い」を得られないかというと、そういうことではなく、金持ちもイエス様の方向に進んで行ければ得られます。ただし、イエス様も他の箇所で教えるように、人間は持っているものへの執着があるために、深いところにある「幸い」に目が向きにくいということがあります。

2.

 さて、この「幸いな人」についての教えは、一見すると互いに相反するような内容です。どんな人が幸いか?誰がこの世離れした深い幸せ「幸い」を得ることができるのか?本日の箇所の中でリスト・アップされているのですが、どうも首尾一貫していないのです。

 まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。この「心の貧しい人」というのは、よく指摘されるところですが、ギリシャ語の原文では「霊的に貧しい人」です。英語の聖書(NIV)もスウェーデン語もフィンランド語もルター訳によるドイツ語も皆「霊的に貧しい」と訳しています。どうして新共同訳で「心の貧しい人」と訳されたかはわかりません。「心が貧しい」と言うのは、辞書を見ますと、人格や器量が乏しいさま、とか、考えが狭かったり偏っていたりすることとか、何か至らない人間を指す言葉です。「霊的に貧しい」というのは、そういう、人間同士の関係で至らないところがあるという意味ではありません。そうではなくて、天地創造の神に対して至らないところがあるということです。そして、その至らなさを自覚していることです。例えば、十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかを知っているのに、それを行うことが出来ない、そういう無力な自分を思い知る。これが霊的に貧しい状態です。自分は確かに殺人もしないし不倫も盗みも働かない。だから神はよしと認めて下さるかと言えば、「山上の説教」で神のひとり子自身が、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと、神聖な神は外面的な行為のみならず人間の心の奥底まで潔白かどうかを見ておられる。なにしろ神は天と地のみならず人間をも造られた創造主で、人間一人一人に命と人生を与えられた方である。私たちの髪の毛の数から心の奥底までも全部お見通しである。そうなれば、自分は永遠に神の前に失格者である。このように神聖な神の意思を考える時、汚れに満ちた自分に気づき意気消沈する。これが霊的に貧しいことです。そして、このような者が「幸いな者」と言うのです。

それでは、なぜ、そのような者が幸いなのか?その理由も言われています。「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」新共同訳では理由の意味は出ていませんが、ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。これは不思議な事です。「天の国」、つまり「神の国」のことですが(マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わず「天」に置き換える傾向があります)、それが、神の御前に立たされても何の問題もない、霊的に完璧な者が幸いで神の国を持てる、とは言わない。全く逆に神聖な神の前に出されたら罪の汚れのゆえに焼き尽くされてしまう自分を自覚している、そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てると言われるのです。これは一体何なのでしょうか?後で明らかにしていきます。

 次に悲しむ者が幸いな者と言われます(4節)。悲しむことが一般的に言われているので、何が悲しみの原因かは特定出来ません。前の節にあるように、神の前に立たされて持ちこたえられない霊的な貧しさが考えられます。また神とではなく人間との関係で社会や生活の中でいろんな困難に直面していることも考えられます。両方考えて良いと思います。ここでも「悲しむ者」がなぜ幸いなのか、理由が述べられています。「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言及されていなければ、その場合たいていは神が行為の主体です。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになる、ということです。

 次に「柔和な人々」が幸いな者と言われます(5節)。「柔和」とは、辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語πραυςは従順で大人しい感じを指しますが、例えば、酷いことが起きたり酷い人が来ても取り乱したりしないで、全てを静かに受け入れて静かに対処することができる、そういう内面の強さに裏打ちされた従順さ大人しさです。忍耐強さ、へりくだりの心、素直さを含んでいます。これは、霊的に貧しい人や悲しんでいる人に比べて素敵な感じがします。そんな従順で大人しい人たちが幸いである理由は、「地を受け継ぐことになるからだ」と言います。わかりにくい事ですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、神に選ばれたイスラエルの民がこれまた神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味します。キリスト信仰の観点では、「約束の地」とは将来復活の日に現れる「神の国」になりますので、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」を得る、そこに迎え入れられることになります。

 次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神に相応しいとされることです。神の前に立たされても大丈夫、問題ない、やましいところはない、とみなされる状態です。それが「義」です。先ほど見た、霊的に貧しい者は神の前に立たされたら大丈夫でない状態にあることを自覚しています。それで義に飢え渇くことになります。そのような者が幸いと言われますが、その理由は「彼らは満たされることになるからだ」と言われます。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということになります。義がない状態にあって、それを自覚して希求する者は必ず義を神から頂ける。だから義のない状態を自覚して悲しみ希求する者は幸いである、と。

 以上みてきたように、幸いな者は、一方では霊的に貧しい者、悲しんでいる者、義に飢え渇く者があげられます。あまり好ましい状態にあるとは思えないのですが、でも将来状況が変わるので今から幸いなのだと言う。他方で柔和な者が幸いな者としてあげられ、これは好ましい状態と思われるので、幸いと言われても納得できます。本日の箇所の後の7節から12節までを見ても同じことが言えます。幸いな者として、憐れみ深い人(7節)、心の清い人(8節)、平和を実現する人(9節)のように好ましい状態の人があげられます。他方で、義やイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに迫害される者(10-11節)もあげられます。迫害されてしまうなんて好ましい状態ではありません。

3.

当時はじめてこのイエス様の教えを聞いた人たちは面食らったでしょう。なぜなら、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は専ら好ましい状態にある人のことを指したからです。一つの例として、詩篇の第一篇があげられます。
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(13節)
「主の教え」というのは、ヘブライ語原文ではトーラーなので、具体的には十戒を含むモーセの律法です。天地創造の神が人間に求めるものを明らかにしたのが律法です。それを与えられたイスラエルの民はとても誇りに思い、それを心に留めて守ろうとしました。そのような者が幸いなのである、と。

幸いな者のもう一つの例は詩篇の32篇です。
いかに幸いでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は(12節)。

神から罪を赦され、神の前に立たされても大丈夫、よしとみなされる者が幸いな者です。人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に基づいて贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。

イエス様の教えを聞いた人たちは、旧約聖書の伝統に立っているので、「幸いな人」と聞いて、律法を心に留めて守る人とか、神殿での儀式を通して罪の赦しを一時的に得られる人とか、そういう人を連想しました。先ほど挙げた詩篇の第1篇と32篇は、ヘブライ語の原文では「幸いなるかな」אשריという言葉が先に来て、「~する人」という言葉が続きます。イエス様は「山上の説教」をアラム語というヘブライ語に近い言葉で話しましたが、聖書ではギリシャ語に翻訳されて記されています。それでも形は同じで、「幸いなるかな」μακαριοιという言葉が先にきて、「~する人」と続いて行きます。語るリズムは旧約聖書と同じなのに、聞いているうちに、律法のこととか、罪の赦しのことが言われず、好ましい状態の人が言われたり、好ましくない状態の人が言われたり、聞いている人たちは、一体なんだこれは?と思ったでしょう。

イエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。人間の造り主である神は、人間の心の潔癖さも求めておられるのだ。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は本当の罪の赦しはそこにはない。毎年繰り返される生け贄の捧げではなく、一回捧げたらもう十分、これ以上捧げる必要はないという位の生け贄が捧げられた時、本当の罪の赦しがあるのだ。だから私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう。本当の罪の赦しを与えてあげよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になるのだ。そして、本当の「幸いな者」になると、お前たちは今度は、霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、義に飢え渇いたり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。また同時にお前たちは柔和な者になり、憐れみ深い者、心の清い者になり、平和を実現する者にもなるのだ。

それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、人間が律法を心に留められるようにして本当の「幸いな者」にしたのでしょうか?

4.

 それは、天地創造の神の人間救済計画を実行することで行われました。もともと人間は神に創造された当初は罪を持たない、従って罪の赦しを必要としない存在として、神聖な神のみもとにいることができていました。ところが、創世記3章に記されているように、神に対して不従順になり罪を犯し、罪が人間の内に入り込んだがために人間と神との結びつきは失われて、神のもとにいられなくってしまいました。この時、人間は死ぬ存在となってしまいました。神はこの状態を悲しみ、それを直すためにひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様に人間の全ての罪を背負わせて、ゴルゴタの十字架の上で人間の身代わりに全ての罪の罰を受けさせて死なせました。あたかも彼が罪の張本人であるかのように。本当は彼こそ罪と何の関係もない神聖な神の子だったにもかかわらず。神がこのようにしたのは、ひとり子イエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたからです。この犠牲は神聖な神の神聖なひとり子の犠牲でした。神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。あとは人間の方が、これらのことは自分のためにもなされたのだとわかり、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその人にその通りに起こります。

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、使徒パウロが「ガラティアの信徒への手紙」326-27節で言うように、イエス様を衣のように頭から被せられます。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

イエス様という神聖で義を持つ方を衣のように被せられた人は、まだ内側に罪の汚れを持ってはいても、父なるみ神はその人の汚れなき純白な衣に目を留めて下さいます。至らぬ自分なのに、ひとり子を犠牲にするくらい、よくして下さったのだ、そう神に感謝の気持ちで満たされた人は、神がそうしなさいと言われることはその通りだとわかり、そのようにしようとします。神がしなさいと言われることを要約すると、まず、神を全身全霊で愛することがあります。次に、その神への愛に立って隣人を自分を愛する如く愛することです。イエス様はこの二つの愛に律法の全てがかかっていると言われました。

こうして神への感謝の念から律法が心に留められるようになります。そうなると今度は、律法に照らし合わせてみると自分は神の意思に沿うように生きていないではないか、沿うように思ったり行ったり語ったりしていないではないか、ということに気づかされるようになります。外面的には罪を行為にして行っていなくとも、心の中で神の意思に反することがあることに気づかされます。その時キリスト信仰者はすぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、イエス様を救い主と信じていますので、私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、私たちはまた新しいスタートを切ることができます。このようにキリスト信仰者は、心の中に置かれた律法と外側から与えられる罪の赦しという恵みの間で内的な戦いを戦わなければなりません。しかし、イエス様に結びついている限り、いつも罪の赦しが勝ちます。純白の衣は、少し引っ張られたかもしれませんが、大丈夫ちゃんと身に纏っています。

キリスト信仰者がイエス様の十字架の死を重く受け止めて、被せられた純白の衣を価値あるものとわかっているならば、罪が心の壁を破って行為に現れる危険は少ない、とは言っても、内的な戦いをしっかり戦っていなかったり、あるいは本当に隙を突かれたとしか言いようがないくらいの不注意が原因で行為の罪を犯してしまうこともあります。その場合は、相手があることなので謝罪や償いの問題が出て来ます。キリスト教の伝統がある社会ならば、「神に赦された以上、私が許さないわけにはいかない」という精神がみられます。日本では「絶対に許せない」、「神が赦しても自分は許せない」などという言い方が聞かれます。そのようなところでは、誠心誠意がなかなか通じないかもしれません。大変なことと思います。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって罪の赦しを祈れば、神は内的な戦いの時と同じように赦して下さるから大丈夫です。純白の衣は強い力ではぎ取られそうになりましたが、大丈夫ちゃんと纏っています。世間や人間との関係では厳しいものがありますが、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神は純白の衣を纏う者をちゃんと見守り、支え、導き出して下さいます。

そして、いつか神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと認めざるを得ないのはわかりつつも、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まったつもりでした、それには不十分なところもあったかもしれませんが、それ以上のことは出来ませんでした、と神に申し開きをします。自分にやましさがないことを主張できるとすれば、これ以上のことは出来ないでしょう。しかし神はその時、次のように言われるでしょう。「お前は、イエスの純白な衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力が来ても、しっかり握り掴んで手放さないようにした。そのことは今お前が同じ衣を着て立っていることからわかる。」その人は自分にはやましさがないことを神に認めてもらったことを知り、これまで経験したことのない深い安堵と深い感謝に満たされます。そして「小羊の婚宴」(黙示録19章)と呼ばれる祝宴の席に通され、神に全ての涙を拭われて、死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない(黙示録214節)神の国に迎え入れられるのです。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン