2017年8月14日月曜日

イエス様の弟子の役割(吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年7月9日(聖霊降臨後第五主日)スオミ教会

出エジプト記19章1節-8a6節
ローマの信徒への手紙5章12節-15節
マタイによる福音書9章35節-10章15節

説教題 「イエス様の弟子の役割」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。                                                                                アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 キリスト信仰者というのは、イエス様の弟子であるとよく言われます。弟子である以上は、先生であるイエス様の教えをよく聞いて、それを守らなければなりません。最初に、イエス様の教えをよく聞いて守るということはどういうことかについて、少し考えてみたいと思います。

 二、三年前のことでしたか、キリスト教の別の教派の方からメールを頂きまして、なんでもスオミ教会のホームページを見て、お宅の教会は「新しく生まれ変わる」ことが出来ていないのでは、などと批判的なコメントを受けたことがあります。「新しく生まれ変わる」ということについて、その教派にはきっと自分たちの考え方があるのだろう、それで議論してもかみ合わないだろうと思い、他のコメントにはお答えしたのですが、それについては触れませんでした。それ以後はその方からはメールは頂いていません。

 「新しく生まれ変わる」ということについて、私はすぐヨハネ福音書3章にあるイエス様の言葉を思い出します。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。これらの言葉を総合すれば、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けて神から聖霊を頂ければ、新たに生まれ変わることが起きる、ということは明らかです。人間は、信仰と洗礼によって新しく生まれ変わって神の国に迎え入れられて永遠の命を得ることができる、ということです。

ところが、聖書にはそれでは不十分だと思わせるような教えもあります。「ヤコブの手紙」2章を見ますと、行いが伴わない信仰は役に立たない、死んでいる、と繰り返し言っていて、24節などは「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」とまで言っています。これはパウロが、人間は信仰によって義とされる、つまり神の目に適う者とされる、と強調したのと真っ向から対立しているように見えます。こうしたパウロの考え方は「ローマの信徒への手紙」1章から5章にかけてよく表れています。

ただ、ここで注意しなければならないのは、パウロはイエス様を救い主と信じたら、それで全てが解決したとは言いません。もちろん、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から罪の赦しを頂くことができるようになり、最後の審判の時に神の罰を受けないで済むようになったという意味では全ては解決しています。もう、救いを得ているからです。問題は、こうした永遠の安心を神から与えてもらった以上は、この世を生きる際にはその神の御心に沿うように生きていこうと志向するようになるかどうか、ということです。ローマ121節でパウロは信徒たちに向かって「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして捧げなさい」と勧めます。生け贄などとは、ちょっとギョッとさせる表現です。どういうことかと言うと、続く2節を見ればわかります。つまり、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになって、それで神の罪の赦しの中で生きられるようになったら、あとは何が神の御心か、何が神に喜ばれる善いことで完全なことかよく見極めながら生きていきなさい、たとえ罪に満ちた世の中の考えと相いれないものであっても、そうしなさい、ということです。それが神に喜ばれる聖なる生けにえになるということです。

またガラテア56節でパウロは、「イエス・キリストに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と教えます。イエス様を救い主と信じる信仰に生きるならば、モーセ律法の掟の一つである割礼を受けるか受けないかは意味を持たない。持つのは、「愛の実践を伴う信仰」である、と。この最後の部分はギリシャ語原文を忠実に訳すと「愛を通して働く(作動する)信仰」です(注意!日本語訳はενεργομενηαγαπηςにかけているような訳ですが、かかっているのはあくまでπιστιςです!)。つまり、ここのポイントは、イエス様を救い主と信じる信仰というのは、本質上、働きが伴うものなのだ、ということです。どうして信仰には本質上、働きが伴うのか、と言うと、前にも申しましたが、罪の赦しの中で生きられる、最後の審判の日に神の裁きを免れる、ということから永遠の安心感を持てて、そこから神の御心に適う生き方をしようという心意気になるからです。そこで、神の御心に適う生き方とは何かと言えば、それは、イエス様流に要約すれば、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということです。

こういうふうに見て行けば、ヤコブが、行いが伴わない信仰は役に立たない、とか、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではない、などと言ったことも、実はパウロと正反対のことを言っているのではないことがわかります。二人とも、信仰とは心意気を生み出すものだ、心意気を生み出さない信仰は信仰ではない、ということでは同じです。ヤコブの場合は、手紙の受け手側の教会の中で、心意気を生み出さないような信じ方が蔓延していたのでしょう。逆にパウロの場合は、ほとんどいつもそうなのですが、神から罪の赦しを頂けるために人間は何かしなければならないという考え方と対決しなければなりませんでした。そんな考え方は、せっかくイエス様が自分の命を犠牲にして人間の罪を十字架の上で償って下さったのに、それを無意味なものにしてしまいます。このように、基本的には同じ立場に立っていても、教える相手の状況に応じて言い方が異なるということはよくあることです。

宗教改革のルターの言い方はパウロに倣っています。それは宗教改革の状況がパウロにそうさせたからですが、ルターにしてもパウロ同様、人間の善い業というのは、神から救いを頂くためにするというような救いの条件としてするのではありませんでした。イエス様を救い主と信じる信仰のおかげで罪の赦しの中で生きられるようになった結果、まさに救われた結果、実のように育ってくるものでした。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。イエス様を救い主と信じる信仰に生き始めて救われた者となったら、その人は100%神の御心に沿って生きるようになるのか、善い業しか行わない完璧な善人になるのか、というとそういうことではありません。ルターは、完璧なキリスト信仰者などこの世にいない、みんな初心者のようなもので、完璧に向かうプロセスにあるのだ、しかも完璧になるのはこの世から死んで肉体が滅びる時だ、などと言っています。その完璧に向かうプロセスには何があるかと言うと、それは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく「新しい人」と、肉体と一緒に以前から存在して罪に結びつく「古い人」との内的な戦いです。この戦いは、先ほどのパウロの勧め「この世ではなく神の御心に倣うようにして自分を聖なる生けにえとせよ」、これを実践しようとすると必ず激しさを増します。しかし、信仰者には、罪と死を十字架の上で滅ぼした永遠の勝利者イエス様がいつもついていて下さるので、たとえ苦戦を強いられても、必ず勝つ戦いを戦っているというわけです。

ここで冒頭に提起した「新しく生まれ変わる」ということについて申し上げると、それは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら、もう100%神の御心に沿って生きるようになるとか、善い業しか行わない完璧な善人になるとか、そういうプロセスの終点に到達することではありません。そうではなくて、そのプロセスに参入すること自体が実は「新しく生まれ変わる」ことであり、そこから離脱することなく内なる戦いを戦い続けることが新しく生まれ変わった命を生きることになるということです。このようにして生きるキリスト信仰者は、まさにイエス様が十字架の上で成し遂げたことを生きる根拠にして、自分や周囲の者をイエス様の教えと神の御心に沿うようにしようとしているので、これは正真正銘の弟子です。

2.

本日の福音書の箇所でイエス様は、多くの弟子たちの中から12人を選びました。この12人は「弟子」という言葉ではなく「使徒」という言葉で言い表わされます。ギリシャ語でも別々の言葉です。「使徒」アポストロスというのは、ギリシャ語の「送り出す、派遣する」という動詞アポステッローから来ています。本日の箇所は、イエス様がこの12人を派遣する場面です。12という数字は、ユダヤ民族を構成するヤコブの12支族から来ている象徴的な数です。そこで本日の箇所で興味深いのは、イエス様は派遣先をユダヤ民族に限っていることです。ユダヤ民族以外の民族、つまり異邦人たちのところには行ってはならない、と言うのです。何故でしょうか?皆様もご存知のように、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後まもなくして、キリスト信仰の伝道は急速に周辺民族に及んで行きました。本日の箇所でイエス様が行ってはならないと名指ししたサマリア民族などは、いち早くキリスト信仰を受け入れた民族です。どうして、この時のイエス様は異邦人伝道を禁じたのでしょうか?このことを見てみましょう。

鍵になるのは、イエス様が12人に託した役割の中に「天の御国は近づいた」ということを宣べ伝えることです(7)。「天の御国」または「天国」とは、マタイ以外の福音書では「神の国」と呼ばれています。マタイの場合は、「神」という言葉は畏れ多いので「天」に言い換えることがほとんどです。そういうわけで「天の御国」、「天国」、「神の国」はみな同じものを指しますが、ここで特に日本人が注意しなければならないことがあります。それは、聖書の「天国」というのは、黙示録や「ヘブライ人への手紙」などから明らかなように、将来、今ある天と地が終わりを告げて神が新しい天と地を創造する時に現れてくるものであるということです。その時、イエス様が再臨し、死者の復活が起こって、イエス様を裁き主とする最後の審判が行われ誰がそこに迎え入れられて誰が入れられないかということが決められるということです。なぜ日本人が注意しなければならないかというと、人間は死んだらどこに行くかということについて、仏教や神道にはちゃんと教えがあると思うのですが、一般の人たちは死んだらすぐ天国に行って、そこから地上にいる友だちを見守ってくれていると思っている人が多いからです。聖書の「天国」は世の終わりに現れて、死から復活させられた者が再会しあうところです。

そう言うと、なるほど天国は世の終わりに現れるのか、それなら、その時までは亡くなった人はどこにいるのか、という質問がおきるでしょう。ルターによれば、復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っている、ということになります。そう言うと、あれっ、カトリックでは聖人というものがあって、もう天国にいる人がいるんじゃなかったっけ、という質問もおきるかもしれません。確かに聖書をよく読むと、エノクやエリヤのようにこの地上から直接神の御許に引き上げられた者がいるので、既に今の段階で天国には神と天使以外にも誰かいるということになります。しかし、それが誰かは私たち人間にはわからないのです。実はルターも聖人の存在を否定はしませんでした。ただ、彼の立場ははっきりしていて、聖人は崇拝の対象ではない、それはあくまで父、御子、御霊の三位一体の神である、ということです。

さて、イエス様が活動を開始した時のメッセージは「悔い改めよ、神の国は近づいた」でした。「神の国」が近づいたことを告げ知らせるのと同時に、イエス様は無数の奇跡の業を行いました。不治の病を治し、悪霊を追い出し、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満たし、自然の猛威を静めたりしました。神の国とは、黙示録を繙くまでもなく、悩みも嘆きも苦しみも死もない至福の国です。神が全ての涙を拭って下さるという、この世での無念が最終的に全て晴らされる国です。本当に天国です。実は、イエス様が起こった奇跡というのは、神の国がどんなところであるかを人々に垣間見せるものでした。病気も飢えも危険もない国。つまり、この世では奇跡なのが奇跡ではなく、当たり前になっている国です。イエス様が12人を派遣した時に奇跡を行える力を与えたというのは、イエス様がしたのと同じように神の国の実在を示すためのものでした。それで、神の国の実在を示す相手が最初ユダヤ民族に限られたことも理解できます。旧約聖書に新しい天と地の創造について預言されているからです。そういうことを全く知らない異民族に奇跡を見せたら、どうなったでしょうか?ギリシャ神話の神々のリストを増やすことになっていたでしょう。実際、癒しの奇跡を行ったパウロは寸でのところでギリシャ神話の神に祭り上げられるところでした。

イエス様の十字架の死は、人間の罪を人間に代わって償うという身代わりの犠牲でした。創世記に記されているように、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は神の国から出て行かなければならなくなりました。しかし、神は、人間が再び神の国に入れるようにと、それでひとり子イエス様をこの世に送って彼に人間の罪の罰を全部受けさせて、それをもって人間の罪を赦すこととしたのです。このように神がひとり子イエス様を用いて完成した罪の赦し、これを受け入れた者は、文字通り罪の赦しの中で生きられるようになり、神の国に至る道に置かれて、それを歩むようになるのです。

こうして、イエス様の十字架の死と死からの復活をもって、人間が神の国に迎え入れられる可能性が開かれました。これが福音です。奇跡の業を行って神の国の実在性を示すよりも、福音を伝えることの方が人々を神の国に至る道に導く手段として主流になっていきました。まさに十字架と復活の出来事を待って異邦人への伝道が解禁されたというのはよく理解できます。もちろん使徒言行録の時代やその後の時代にもいろいろな奇跡が行われましたし、現代でも行われていると聞きます。しかし、仮に奇跡を起こせなくても、がっかりする必要はありません。福音があり、イエス様を救い主と信じているならば、その人の神の国への迎え入れは確固として揺るがないからです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、イエス様の弟子でもあるキリスト信仰者にとって、まだ神の国に至る道に入っていない人たちを福音を持って導いてあげること、そして既にその道にある兄弟姉妹たちがしっかり歩めるように福音を持って支えてあげること、これらは大切な役割であるということを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2017年8月7日月曜日

人を変える憐れみ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2017年7月2日(聖霊降臨後第四主日)スオミ教会

ホセア書5章15節-6章6節
ローマの信徒への手紙5章6-11節
マタイによる福音書9章9-13節

説教題 「人を変える憐れみ」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。                                                                                                                                               アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 イエス様は、当時のユダヤ教社会の中で罪人の最たる者と見なされた人たちを受け入れて自分のもとに招いたり、果ては自分の弟子にしたりしました。このことが、ファリサイ派と呼ばれる宗教エリートたちのひんしゅくを買いました。本日の福音書の箇所はそうした出来事について述べています。ファリサイ派というのは、ユダヤ民族が神の民として神聖さを保てるように、モーセの律法のみならず、そこから派生して出て来た数多くの戒律をも守るべしと主張したグループです。

 この本日の福音書の箇所を読み返してみて、最近フィンランドで起きた出来事が頭に思い浮かびました。それは、日本でも大きなニュースになりましたが、大量の難民移民がヨーロッパに押し寄せたことに関係します。移民難民はフィンランドにも大勢入り、ピークだった2015年は3万人位に上りました。人口550万程の国に3万人というのはとても大きな数です。12500万の日本で考えたら70万近くになります。かつては北欧諸国の中で最も移民難民の受け入れに消極的だったフィンランドですが、時代は本当に変わったと思いました。これらの移民難民は、全国各地に設けられた一時収容施設で過ごした後、各自治体に振り分けられました。それで、難民の地位が認められたり、滞在資格を得ることの出来た人たちの新しい居住地での生活が始まりました。

同国のルター派国教会も大きな課題に直面しました。移民難民の大半はイスラム教徒です。一方で、これをイエス・キリストの福音の伝道のチャンスと見なす人たちがいました。他方で、他の宗教の人たちを改宗する必要はない、自分の宗教を続けられるようにしてあげなければならない、国内にモスクを建ててあげなければならないと言う人もいました。ところが現実に、移民難民の中でキリスト教に関心を持って自分から教会に来る人も出て来ました。そうした人たちの中には洗礼を受けるに至った人もいます。私どものミッション団体SLEY(フィンランド・ルター派福音協会)が毎年夏に開催する全国大会に昨年参加しました時に、会場でそういった移民難民出身の若者を何人も見かけました。SLEYはまた、ヘルシンキの中心部に、もともとは教会だったが売られて30年近くナイトクラブにされてしまっていた建物を買い取って教会に復元することをしました。それを昨年から移民難民向けの伝道センターとして用いています。伝道とはまさに、イエス・キリストの福音を知らない人たちにそれを伝え教えることです。もちろん洗礼に至るのが理想ですが、それを聞いて受け入れるか入れないかはその人の問題になります。そういうわけで伝道は、移民難民の宗教を尊重する人たちが批判するような、宗教強制ではありません。

そのような時、世論の中に別のタイプの疑問の声が聞かれました。それは、移民難民が洗礼を受けてキリスト教徒になったとしても、それはどこまで純粋なものかという疑問でした。ひょっとしたら滞在を有利にするための手段にしているのではないか、と。それに対してSLEYの新聞の編集主幹は次のような見解を表明しました。誰も人の心の奥底はわからない、それは神しかわからない、それゆえ我々としては、イエス様を信じて洗礼を受けた者は皆分け隔てなく兄弟姉妹として接する以外にはないのだ、という見解です。

私は、これはもっともなことだと思いました。あの人のイエス様を救い主と信じる信仰は本物だろうか、などと疑って接したらどうなるでしょうか?その人自身としては他の動機などなく信じているのに、それを疑われるというのはショックではないでしょうか?偉そうなことを言っているが、キリスト教会が唱える愛など偽善にしかすぎない、と思わせてしまう危険があります。

これとは逆のケースとして、何か別の動機があって教会のメンバーになった人がいたとします。しかし、そのようなものは誰も見抜けません。自分はわかるぞ、と思った人も、それは全体像のほんのちっぽけなかけらにしかすぎません。人間の真実はあまりにも深く、一人一人の心の中の全体像を見抜けて把握できるのは人間を造られた神しかいません。神は、私たちが神のようになって見抜けとは命じていません。神が私たちに命じているのは、仮に別の動機があったにせよ、お前が全神経を集中させるのはそこではない。その人もお前と全く同じようにイエス様を救い主と信じる信仰に生きる兄弟姉妹として接するべきである、ということです。そうすることで、その人にあった別の動機なるものは意味を失って押し潰されていき、最後には塵と消えて、信仰だけが残る、そういうことだと思います。実は、イエス様が罪人を受け入れることにもそういう力がある、ということが本日の福音書の箇所から見てとることができます。

2.

徴税人というのは、当時のユダヤ教社会のなかで罪人の最たるものとみなされていました。どうしてかと言うと、彼らの主たる任務は、イスラエルを支配しているローマ帝国のために住民から税金を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ったりしていたからでした。なぜ、占領された国民から、占領した側に仕えるような仕事につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道であったからです。各福音書を見ると、徴税人が認められている額以上の税を取り立てていたことが窺い知れます。例えば、ルカ福音書の3章で、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけるところがあります。そこで「定められた以上に取り立てるな」と戒めています。同じルカ19章で改心した徴税人のザアカイは、イエス様に次のように言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」このように、占領国の利益のために仕えるのみならず、自分自身の私腹も肥やしたわけですから、徴税人が自分の利益しか考えない国の裏切り者と見なされ憎まれていたことは想像に難くありません。

イエス様は徴税人のマタイに弟子になってついて来るよう命じ、マタイはつき従いました。そして自分の家にイエス様とその弟子たちを招き、加えて他の徴税人その他もろもろの罪人たちも一緒の食事の席につきました。そこをファリサイ派の人たちに目撃されて非難されます。当時は、食事に招かれて同席するというのは、とても親しい近い関係になったことを意味しました。

 イエス様は、神由来としか思えないような権威をもって天地創造の神について人々に教え、無数の奇跡の業も行い、大勢の群衆が付き従うようになっていました。宗教エリートのファリサイ派は、この男は一体何をしでかすつもりなのか、伝統的な権威を破壊しようとする危険人物なのか、気が気でなりません。このように大勢の人々に偉大な預言者の再来と見なされて支持されたイエス様が、突然、徴税人その他罪人と同じ食事の席についたのです。これは、ファリサイ派にとってイエス様の教えが間違っていることを示す証拠になりました。なぜなら、罪人とは神の裁きを受ける者なのに、これを断罪するどころか、一緒に食事までするとは、この男にはもう神について教える資格などない、と。

 ファリサイ派の批判に対して、イエス様が返した言葉は次のものでした。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(1213節)。ここには大事なことが沢山詰まっています。まず、イエス様は、自分と徴税人その他罪人との関係を医者と患者の関係にたとえます。そうすると、イエス様は罪人の抱える病気を治してあげるということになります。それはどんな病気で、イエス様はそれをどのように治されるのでしょうか?それから、「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」というのは、本日の旧約の日課、ホセア書66節にある神の御言葉の引用です。これはイエス様が罪人たちを受け入れて招くこととどう関係するのでしょうか?さらに、イエス様がこの世に送られてきたのは「罪人を招くため」と言われますが、罪人を招くとはどういうことなのか?まさか罪人と一緒にどんちゃん騒ぎをすることではないことは誰でもわかります。「招く」とは、どこに「招く」ことでしょうか?以下、これらのことを見ていこうと思います。

3.

 先ほど述べましたように、イエス様の時代のユダヤ教社会では、徴税人は罪人の最たるものと見なされていました。ところが興味深いことに、福音書に登場する徴税人は、少し勝手が違います。例えば、先ほども触れたルカ3章では、洗礼者ヨハネが神の裁きの日が来ることを大々的に告げ知らせると、大勢の人たちが悔い改めの洗礼を受けに来ました。その中に徴税人たちの姿も見られました。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとに立ち返る必要性を感じたのです。同じルカの18章にイエス様のたとえの教えで、自分の罪を自覚して神に赦しを乞う徴税人の話があります。たとえなので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人を思い起こせば、全く非現実的な話ではありません。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様をなんとか一目見ようと木に登り、それに気づいたイエス様が彼を受け入れた途端、悪いことをして蓄えた富を捨てるという決心をしました。ルカ5章で、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人は、「全てを捨てて」つき従いました。つまり、イエス様につき従うや否や、それまでの生き方を捨てたのです。

 このように福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方は良くないと感じつつも、自分の力では変えることが出来ないでいた、それが、イエス様の招きを受けた瞬間に生き方が変えられたのでした。そういうわけで、イエス様と一緒に食卓についた徴税人その他の罪人は実は生き方が変えられた人たちだったのです。その意味で彼らはその時は元罪人でした。しかしながら宗教エリートは、この変化を本当のものとして受け入れられません。彼らの目ではまだ現役の罪人です。どうして受け入れられなかったのでしょうか?

 それは、罪人たちの罪の赦しというものが、宗教エリートが主張する、いろいろな儀式的な手続き手順を踏まえておらず、イエス様という一個人が受け入れて招くことで赦しが与えられてしまったということがありました。そうなると、宗教エリートたちが教えたことや守れと言っていた掟が一気に意味を失ってしまいます。そのため、イエスが行っていることは、神の受け入れでも罪の赦しでもなんでもない、罪人たちの新しい生き方なども新しい生き方に値しない、という見方になってしまうのです。それでは、イエス様の招きや受け入れというのは本当に罪の赦しがあって新しい生き方をもたらすものであるというのは、どうやってわかるでしょうか?

 先ほども申しましたように、イエス様はホセア書66節の神の言葉を引用しました。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。」罪人たちが罪の赦しを経た新しい生き方を始めたことを疑う宗教エリートに向かって、イエス様は、この言葉の意味を学びなさい、と叱責します。私たちもわからなければなりません。どんな意味でしょうか?ヘブライ語の原文を忠実に読むと、「私が求めるのは『忠実』であって、いけにえではない」です。福音書はギリシャ語で書かれているのでイエス様が引用した言葉はギリシャ語の「憐れみ」です。引用元のヘブライ語の言葉は「忠実」です。 

このように原文の言葉が変化したことが何を意味するかを少し考えてみます。ホセアというのは、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂した後に活動した預言者です。紀元前700年代の人です。南のユダ王国の国民はエルサレムの神殿で、神から罪の赦しを得るために律法の規定に従って多くの羊や牛を犠牲の生け贄として捧げていました。しかし、それはいつしか心を伴わない表面的な行為になってしまって、儀式を重ねる一方で神の意思に反することを繰り返すようになっていました。そのため、律法の規定を与えたのは神ですが、これではいくら生け贄を捧げられても何の意味もありません。人間が自分の罪を心から悔いて神に立ち返る生き方をしますと誓うための儀式なのに、心を改めることはなくなって儀式をすることだけで満足するようになってしまったのです。それで神は、そんな生け贄はもういらない、と言われたのです。

 それでは、神は生け贄に換えて何を求めたかと言うと、「忠実」がそれでした。神に対する民の忠実さ、民が神の意思に沿うように生きる、神に対して忠実に生きるということです。新共同訳では「愛」と訳されていますが、厳密に言うと「忠実」です。(私が使用する辞書HolladayConciseには、חסדに「愛」の意味はありませんでした。)ホセア書の大切なポイントの一つとして、民が天地創造の神に背を向けて違う神々を拝むようになったことを、結婚相手が不倫をしたことにたとえることがあります。そういう背景から考えるならば、問題となっている言葉は辞書にある「忠実」をそのまま使って良いと思います。「誠実」とか「相手を裏切らない」と言ってもよいでしょう(フィンランド語訳の聖書は「忠実」、英語訳とスウェーデン語訳は「愛」でした)。

ところが、紀元前200年代に旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に翻訳された時、この問題の言葉は「忠実」から「憐れみ」ελεοςという言葉に訳し替えられました。福音書はギリシャ語で書かれていて、そこではイエス様は「忠実」ではなく「憐れみ」を使ったことになっています。イエス様はほぼ間違いなくアラム語で話していたので、ホセア書の言葉を引用した時にヘブライ語に倣ったか、ギリシャ語に倣ったか、アラム語の記録がないのでわかりません。残された文書はギリシャ語のものしかなく、それを手掛かりにするしかありません。加えて、イエス様がギリシャ語に倣って「憐れみ」を使ったことにした方が、神の人間救済計画がはっきりするということがあります。そういうわけで、イエス様は「憐れみ」を使ったことを前提にして話を進めていきます。

イエス様に受け入れられ招かれて新しい生き方を始めた罪人たちは、神に対して「忠実」に生きるようになった者たちです。つまり、ホセア書の神の言葉が実現したことになります。律法の規定通りに神殿で生け贄を捧げなくとも、神に対して忠実になれるようになったのです。一体、そのような変化はどのようにして生まれるのでしょうか?神に対して忠実になりなさい、と言われて、はい、なります、と言って、すぐなれるでしょうか?そんな力はどこから来るのでしょうか?

 そのような変化をもたらす原動力として「憐れみ」が出てきた、と言うことが出来ます。つまり、ヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時、ヘブライ語の「忠実」にかえてギリシャ語の「憐れみ」という言葉が採用されたのですが、それは、「忠実」ということを捨て去ったのではなく、むしろ、神に対する忠実さを実現するものとして「憐れみ」を出したということです。つまり、イエス様は神が求めるのは「憐れみ」だとおっしゃったが、それは神に対する忠実さを実現するためのものなんだな、と理解するわけです。このように、ギリシャ語訳のホセア66節とそれのイエス様の引用の中に「憐れみ」という言葉をみたら、ああ、これはヘブライ語の原文で言っていた「忠実」が元にあって、まさに神に対する忠実さを実現するために「憐れみ」がひっぱり出されたんだな、という具合に二重に理解しないといけないのです。まことに聖書は底が深い、侮れない書物です。

4.

それでは、「神に対する忠実さ」を実現する「憐れみ」とは、どんな憐れみなのかを見てみましょう?まず「憐れみ」とは、罪人を受け入れて招く心の有り様です。この心の有り様があって、イエス様は罪人を受け入れて招きました。ところが、受け入れられて招かれた罪人たちは、今度は神に対して忠実な者に変わりました。そういうわけで、罪人を受け入れて招く「憐れみ」は、受け入れられて招かれた者の側に、生き方の変化、神に対して忠実になるという変化、そういう変化をもたらす力を持っているのです。ただ罪人を招いて一緒に飲んで食べて、それで罪人が、なんだ罪を犯していても、こんなに気前よくしてくれるんなら、このままでいいや、なんて思ったら、これは「神に対する忠実さ」をもたらすものではありません。それは、神が求める「憐れみ」ではありません。単なる無責任な気前の良さです。イエス様が言われる「憐れみ」とは、受け入れられた者、招かれた者に変化をもたらす力を持つものです。

イエス様が憐れみで受け入れ招いた罪人たちはいい気になることなく、逆に生き方を変えて神に対して忠実になりました。これは、まさにイエス様が行った病の癒しや悪霊の追い出しと同じ奇跡の業です。ところで、イエス様が人の生き方を変えるような憐れみをかけるというのは、当時の罪人だけではありませんでした。神の目から見て罪の汚れを持ってしまっている全ての人間が相手でした。特に何か罪状があるわけではないのですが、私たち人間は神聖な神の目から見たら皆、「罪びと」です。そのような私たちをイエス様は憐れみで受け入れて招いて下さり、招きを受けた私たちは神に対して忠実になる、そういう憐れみを私たちは受けたのです。いつ受けたのでしょうか?それは、イエス様が十字架の死を遂げられた時から始まります。このことについて、本日の使徒書「ローマの信徒への手紙」5章でパウロがよく教えています。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬものはほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者はいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(68節)。

人というのは、相手が正しい人であったり善い人であったりしても、その人のために命を捨てるということはなかなか出来ないものである。それなのに、イエス様ときたら、我々のような罪の誘惑には弱く、神を顧みようともしない、そういう罪びとにすぎない者のために命を捨てられた。こんなどうしようもない者なのに、神のひとり子の命に値する位の価値がある者として扱って下さった。人が受ける憐れみでこれ以上のものがあるだろうか?

「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(910節)。

 我々は、イエス様が十字架で流された尊い血を代償として、罪のもとから神のもとに買い戻されたのである。イエス様が自分を犠牲にしてまで我々の罪を償って下さったので、我々は罪の赦しの中で生きることができるようになった。つまり我々は今、イエス様のおかげで神の目に相応しい者に変えられているのだ。このようにしてイエス様が我々のために神との和解を打ち立てて下さったので、我々は最後の審判を心配しないですむようになり、死を超えた永遠の命に与れることを確信できるのである。

「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」(ローマ511節)。

 未来について心配しないですむようになり、希望を持って生きることができるようになった今、我々は神を誇りに思ってこの世を生きる。罪ある我々が神と和解出来るようにと自分を犠牲にするくらいの憐れみをかけて下さったイエス様、この方を送って下さったのは父なる神に他ならない。我々が誇りに思える方で神以上の方はいない。

 兄弟姉妹の皆さん、このパウロの聖句からも、イエス様の憐れみには本当に私たちの生き方を変える力があるとわかります。私たちはこの憐れみを受けて神に対して忠実になるようにと生き方を変えられました。私たちも隣人を受け入れて招かなければなりません。しかも、それは隣人の生き方を変えるようなものでなければなりません。そのような受け入れや招きを私たちは出来るでしょうか?そうなるように神に祈らなければなりません。生き方を変える憐れみが神の御心である以上は、その祈りは必ず聞き遂げられるでしょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン