2015年12月21日月曜日

マリアの旅立ち (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2015年12月20日待降節4主日 スオミ教会

ミカ書5章1-4a
ヘブライの信徒への手紙10章5-10節
ルカによる福音書1章39-45節

説教題 「マリアの旅立ち」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに                                                                                

 今年の待降節も第4主日となりました。クリスマス・イブと一般に呼ばれる降誕祭前夜まであと4日、その翌日が私たちの救い主イエス様の降誕祭となります。降誕祭前夜の礼拝で普通読まれる福音書はルカ2章のイエス様の誕生の出来事についての箇所です。あの有名な、ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に住民登録をせよという勅令を出した、という出だしで始まる箇所です。これでイエス様の誕生がいつ、どのような歴史状況の中で起きたかということがわかります。天と地と人間を造られた神が人間の救い主を天の御国から私たち人間のいるこの世に送られたという、そういう現実を超えるような出来事がちゃんと現実の中で起きたということがはっきりします。天の御国という、この世と全く異なる物理的世界におられた方がこの世に送られて人間と一緒に生活できるためには、人間と同じ姿かたちをとらなければならない。それでイエス様は、マリアという人間の女性を母親として赤ちゃんになって誕生したのです。まさに「フィリピの信徒への手紙」2章で次のように言われているとおりです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者とになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

 人間が永遠の救いに与れるようにと、これほどまでに御自分を低くされることを厭わなかった神は永遠にほめたたえられますように。

2.洗礼者ヨハネと救い主イエス様の役割

 本日の福音書の箇所は、先週に引き続いて、イエス様の母親になるマリアに何が起きたかということについてです。先週の福音書の箇所では、天使ガブリエルがマリアのもとに来て、マリアが聖霊の力で神の子を産む、と告げます。これに対してマリアは最初戸惑いながらも、最後は、告げられた通りになりますように、と言って神が計画していることを受け入れます。

 本日の箇所では、マリアは親戚のエリザベトという女性に会いに行きます。エリザベトは高齢でもう出産は望めない体でしたが、これも天使ガブリエルが夫のザカリアのところに来て、エリザベトは神の力によって男の子を産むことになる、と告げます。ザカリアとエリザベトの間に生まれる子供にも神の計画が託されていました。それは、「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」(ルカ116節)ことでした。その子はヨハネという名をつけられました。大人になったヨハネは「悔い改めの洗礼」を人々に授けました。これはどんな洗礼かというと、当時イスラエルで水を使った清めの儀式が行われていましたが、ヨハネの立場は、そんなもので罪の汚れは消すことは出来ない。罪の汚れを消せない以上、人間は神の裁きから逃れられない。それで、神の裁きを免れるために人間は逆に、罪の汚れを自分の力では消すことが出来ないと観念して認めることから出発しなければならない。そこで、裁きを免れるように神から憐れみを受けられることが大事になる。神から憐れみを受けられるためにはまず、それまで神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようにしなければならない。ヨハネの洗礼は、そういう神への立ち返りをしたという印の洗礼です。しかし、立ち返りをして神の方を向くようになったとは言っても、それだけでは人はまだ神から憐れみを受けていません。

その神の憐れみを受けられるようにしてくれたのがイエス様でした。どのようにしてイエス様は、罪にまみれた人間が神の憐れみを受けられるようにして下さったのでしょうか?イエス様は、本来人間が受けるべき神の罰を人間に代わって全部一人で請け負って十字架の上で死なれました。神のひとり子が人間の罪を全部人間に代わって十字架の上まで背負って運んで下さったのです。人間の罪を償う犠牲の生け贄の中でこれほど神聖なものはありません。この犠牲でもう十分とした神は、この犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命に至る扉を人間に開いて下さいました。人間は、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪が赦され、死を超えた永遠の命に至る道に置かれて、その道を神に守られながら歩むことができるようになるのです。これが、神が人間のために整えてくれた「罪の赦しの救い」です。

こうして洗礼者ヨハネの洗礼を受けて神への立ち返りを目指すようになった人たちは、今度はイエス様の十字架と復活のおかげで神の憐れみをしっかり受けることができるようになりました。十字架と復活の後は、もうヨハネの洗礼はいりません。そのままイエス様を救い主と信じ、イエス様が命じた洗礼を受ければ、神の憐れみを受けられます。神の憐れみを受けた者が罪の赦しを神に願い出ると、神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さるのです。

以上述べたことから、洗礼者ヨハネが人間には拭いきれない罪の汚れがあることを人々にしっかり思い起こさせて神に向かって立ち返らせたことがわかってきました。ヨハネは本当に自分の後にやって来るイエス様のために道を整えたということがよくわかります。

3.マリアのエリザベト訪問

 本日の福音書の箇所で、マリアの訪問を受けて挨拶されたエリザベトは、胎内の赤ちゃんが小躍りするくらい反応したことを感じます。その瞬間エリザベトは聖霊に満たされて、マリアのことを「私の主の母」と呼びます。「主」というのは、新約旧約聖書双方を通じてたいていの場合、神そのものを指す言葉です。つまりエリザベトは、マリアが生むことになるのは神が人の姿をとった方であると言っているわけで、さすが聖霊に満たされただけあって、これは立派な預言です。

 本日の箇所は一見すると、出産不可能と言われたエリザベトが身ごもって、それをマリアがお祝いに行って、逆にエリザベトから祝われてしまったという、二人の妊婦が互いにおめでとうの気持ちを伝えあっているような微笑ましい出来事に見えます。しかし、よく見ると二人の出会いはあまり普通ではありません。はっきり言って異常です。かたや、不妊で高齢の女性が神の力で子を身ごもって、妊娠6か月目に入っている。他方で、まだ結婚生活に入っていない婚約中の乙女が聖霊の力で身ごもった。婚約中の女性が身ごもったということになると、当然誰がその父親かという問題が起きてきます。先日、最高裁が再婚禁止期間に関する訴訟で判決を下しましたが、あれなどは十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」がしっかり守られていれば起こりえない問題です。ところがマリアの場合は掟を破ってもいないのに、世間の目から見れば破ったと見なされる状況に陥ってしまった。マタイ119節で婚約者のヨセフが婚約破棄を考えたと言われていますが、これは当然でしょう。しかし、天使から事の真相を知らされたヨセフは、周囲からどんな目で見られようとも神の計画ならばマリアを妻として受け入れよう、と決心しました。とにかく、そういう普通ありえない出産を迎えることになる二人の母親が会うというのが本日の福音書の箇所の出来事なのです。

 マリアはエリザベトから祝福の言葉をかけられますが(142節)、マリアがエリザベトのもとに出向いたのはどうもお祝いの言葉を述べに行くことが第一の目的だったのではないようです。マリアのエリザベト訪問から、マリアの信仰がよくわかりますので、それを見ていきたいと思います。私たちにとっても学ぶことがいろいろあると思います。

4.マリアの信仰 - 神に全てを委ねる信頼

 まずルカ145節を見てみましょう。エリザベトがマリアに次のように述べます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 「幸い」という言葉ですが、これは時間が経てば過ぎ去ってしまうような、この世的な幸福や幸運ではありません。「幸い」とは、もっと持続的、不変な幸福で、この世を超えて永遠の命に与ることに結びついた幸福です。先ほど、キリスト信仰者は、この世の人生の段階で永遠の命に至る道を歩んでいる、と申しましたが、これが「幸い」なことなのであります。たとえ、この世の人生で逆境に陥って貧乏になったり病気になることがあっても、永遠の命に至る道を踏み外さずに歩み続けられるのであれば、その人は「幸い」なのであります。マタイ5章でイエス様自身が言われるように、「幸いな」人は、霊的に貧しい人であったり、今悲しんでいる人であったり、義に飢え渇く人であったり、また義のために迫害される人であったりします。どれもみな永遠の命に至る道を歩み続ける人を指しています。逆に、この世の目から見て幸福や幸運にどっぷりつかる人生を送ることができても、信仰を持たず永遠の命に至る道を歩まない人は幸いではないのであります。

マリアは婚約中の妊娠という、人の目から見て幸福とは言えない不名誉な境遇に置かれることを覚悟で、神の人間救済計画という御心を実現するためならば、とそれを受け入れたのであります。神の人間救済計画とは、人間を永遠の命に至る道に置いてそれを歩めるようにして、人間を「幸い」な者にすることでした。そのような計画の実現のために自らを捧げたマリアも「幸いな」人なのであります。

 ルカ145節のエリザベトの言葉「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」に戻ります。これは、私たちが用いる新共同訳の文章です。ギリシャ語の原文はわかりそうで少しわかりにくい形でして、次のようにも訳せます。「信じたこの方は、なんと幸いでしょう。なぜなら、主がおっしゃったことは必ず実現するからです」。実は、ドイツ語のルター訳やフィンランドやスウェーデンのルター派教会の聖書は、こちらの訳をとっています。英語のNIVはと言えば、それは日本の新共同訳と同じです(英語でもジェームズ王欽定訳はルターや北欧諸国の訳と同じです)。一方では、「神が言ったことが必ず実現すると信じたマリアは幸いだ」と言う。他方では、「信じたマリアは幸いだ。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」と言います。

 つまり、ドイツ・北欧の訳では、マリアがどうして「幸い」かということについて理由がついています。理由は、神が彼女に言ったことは必ず実現するから、それで信じたマリアは幸いだというのです。(この訳は、マタイ5章にあるイエス様の有名な山の上での説教の言い方を思い起こさせます。「悲しんでいる人は幸いである。なぜなら(οτι)彼らは慰められるからだ(4節)」。)「信じたマリアは幸いである。なぜなら(οτι)神の言ったことは実現するからだ」。英語・日本語の訳では、マリアがどうして「幸い」なのか理由がなく、ただ神が言ったことが実現するんだと信じたマリアは幸いだとだけ言います。どちらが正しい訳でしょうか?どちららでも良いように見えますが、ドイツ・北欧の訳の方がマリアの信仰を深く知る上で役に立ちます。

ドイツ・北欧の訳で一つ考えなければならないことは、「信じたマリアは幸いだ」と言う時、ではマリアは一体何を信じたのかということです。英語・日本語の訳では、信じた内容は「神が言ったことが実現する」ということとはっきりしています。それを信じたマリアは幸いということになる。ドイツ・北欧の訳では、ただ単に「マリアは信じた」です。マリアは何を信じたのでしょうか?ここでエリザベトの夫ザカリアに何が起きたかを振り返ってみると参考になります。ルカ1525節の出来事です。エルサレムの神殿の祭司であったザカリアが神殿の聖所で務めを果たしている時、天使ガブリエルが来て、妻のエリザベトが洗礼者ヨハネを産むことになると告げる。ザカリアは高齢でそんなことは不可能と言う。天使は、お前は伝えた言葉を信じなかったので、それが起きる日までは口がきけない状態になる、と言い、ヨハネの出産の日までその通りになってしまう。

 天使ガブリエルとのやりとりは、マリアの場合はどうだったでしょうか?マリアが神の子を産むことになると天使から告げられて、まだ婚約中の身でどうしてそんなことが可能か、と聞き返します。これは一見、ザカリアがしたような反論にも聞こえます。しかし、マリアは最後には、「お言葉通り、この身に成りますように」と言って、天使が言ったことを受け入れました。これが、ザカリアとの大きな違いです。これが、マリアが「信じた」ことの内容を理解する鍵になります。マリアが「信じた」のは、起きる事柄の真実性を信じたというよりも、その通りになってもいいですと受け入れたことを指します。これが、マリアが「信じた」ということです。

このように、信仰には、神が起きると言うことを信じる、とか、聖書に起きたと書かれていることを信じる、とか、神が示した事柄の真実性を信じるという意味があります。それに加えて信仰には、マリアのように、神が起こすと言っていることをそれでいいですと言って受け入れること、神に自分の運命を委ねること、つまり神を信頼するということも含まれます。事柄の真実性を信じることと神を信頼するということ、信仰にはこうした二つの要素が含まれています。そういうわけで、「信じたマリアは幸いである。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」というのは、神を信頼して自分を神の御手に委ねたマリアは幸いである、なぜなら神が言ったことは必ず実現するからだ、という意味になります。英語・日本語の訳では、この神に対する信頼の面が出てこなくなります。

5.マリアの信仰 - 神が示した事柄の真実性を信じる

 天使のみ告げの時に明らかになったマリアの信仰には、神に対する信頼があったことが明らかになりました。神が示した事柄の真実性を信じることも、もちろんあります。そのことも見てみましょう。139節で、「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とあります。マリアが出かけた行先は、ザカリアとエリザベトの家があるユダ地方の山間部にある町ということなのですが、どの町かは不明です。ここで、「そのころ」というのは、どのころなのでしょうか?この部分のギリシャ語はわかりそうで、よく見るとわかりにくい形になっています。普通の言い方だったら、マリアは「思い立って出発した」(αναστασα επορευθη)と言うところを、「思い立って」と「出発した」の間に「数日間」(εν ταις ημεραις ταυταιςという語句がついています。見れば見るほど、天使がお告げをした後、マリアは数日間、早く出発しなければ早くしなければ、という状態にあって、その状態が終わるやいなや本当に「急いで」(μετα σπουδης)出発したという感じが伝わってきます。とにかく出発するまで数日間かかったことははっきりしています。そのため、フィンランド語やスウェーデン語の訳では「数日後」とはっきり訳されています。ドイツ語のEinheitsübersetzung共同訳?)も「数日後」です。ただし、英語NIVは「その時」、「当時」at that timeで、どちらかと言えば新共同訳と同じです。このように英語と日本語の訳が一致するのをばかり見ると、なんだか聖書の翻訳にも日米同盟があるような感じですが、いずれにしても、マリアが出発するまで何日かかかって早く行かねばという状態があって、出発するともう「急いで」行ったということがはっきりします。

それでは、なぜマリアはしたくてもすぐ出発できなかったのでしょうか?そのことについて聖書は何も書いていないので未熟な憶測は禁物ですが、無理やりな霊的な推測はせずに実際的に考えれば、準備の問題があったと考えられます。ザカリアとエリザベトが住むユダ地方の山間部の町、どの町か不明ですが、ナザレがあるガリラヤ地方からユダ地方の中心地エルサレムまで直線距離で100キロ位ありますので、少々の長旅です。途中にはユダヤ人に反感を持っているサマリア人が住むサマリア地方を通らなければならない。またイエス様が「善いサマリア人」のたとえ話のなかで、エリコとエルサレムの間の道に山賊が出て旅人を襲うという話がありますが、そういう危険もあったでしょう。若い女性のマリアが一人で旅立ったとは考えにくく、誰かはわかりませんが付き人をつける必要があったでしょう。道は舗装されていないし、途中にコンビニもありませんから、旅行の準備はそれなりに大変だったと思われます。そういうふうに考えれば、早く出発しなければ、早くしなければという状態がわかってきます。そして出発するや否や、のんびりマイペースでではなくて、「急いで」出発したのであります。

 この、早くエリザベトのもとに行かねば、行かねばというマリアの気持ちは、これはルカ2章に登場する羊飼いと同じです。羊飼いたちは天使から、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中で寝かされている乳飲み子が救世主誕生の印である、と告げられました。羊飼いたちはベツレヘムの郊外にいたので、すぐ現場に急行できました。ルカ216節に「急いで行って」とある通りです。羊飼いたちは、まだ見ていないのに、天使の告げたことを本当のことと信じて急いで出かけて行ったのです。神が示した事柄の真実性を信じたのです。マリアの場合も同じです。天使から、お前は乙女のまま神の子を産むことになる、高齢のエリザベトが身ごもっているのがその印である、神に不可能なことはない、と告げられ、まだ見ていないのに本当のことと信じて、一刻も早く出発したいという気持ちで旅の準備をし、整うや急いで出かけて行ったのです。そしてマリアの場合は、神が示した事柄の真実性を信じることと神に全てを委ねる信頼の両方があったのです。信仰と洗礼の恵みの中に生きる私たちも、その両方を持って旅立つことが出来ますように。

6.おわりに

 神が示した事柄の真実性を信じることと神に全てを委ねる信頼の両方を持って旅立った人物としてもう一人忘れてはならない人がいます。アブラハムです。ルターが「ヘブライ人への手紙」11章の中で述べられているアブラハムの信仰について解き明かしをしていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです(ヘブライ人への手紙118節)」

「アブラハムは、一体どこに到着するのか自分でも知らないまま、神に命じられた通り自分の国を旅立って行った。行き先はどこにあるのか、そこで何が待っているのか、自分は何もわからない。それを知っている神がただ行きなさいと命じられる。まさにここに、信仰の困難かつ大きな戦いと試練がある。

 しかし、その時アブラハムは一体何をしたであろうか?彼がしたことはただ、神が彼に与えた言葉を唯一確かなものとして携えて出発したことである。その言葉とは、「私はお前に祝福を授ける」というものであった。信仰というものは、はっきり見える目を持っているのである。その目は、光が全くない暗闇の中でも見ることができる。信仰とはまさに、何も見えないところで見、何も感じることができないところで感じるのである。

 「ヘブライ人への手紙」のこの御言葉は、まさに私たちのために書かれた。それは、私たちがアブラハムのように神の御言葉に拠って立つことを学ぶためである。この御言葉の中で神は、私たちの身体と命、さらには魂までをも守り抜くと約束して下さっているのである。たとえ、そのように見えなくてもそのように感じられなくとも、そうなのである。だから、全てのことが正反対のようになってしまったと思われても、あなたはただ神が約束されたことを信頼することに努めなさい。アブラハムに対しても神は、約束を実現するのを何年もかけて待たせたのだ。今の時代を生きる私たちに対しても神の助けや導きがなかなか得られないように見える場合でも、あなたは信じることを止めてはならない。なぜなら、神が定めた時をあなたに待たせるのは、あなたの信仰を強めるためという意図があるからなのである。それはアブラハムに対しても起こったことなのである。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2015年12月7日月曜日

救い主を待ち望む者の心得 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教

2015年12月6日(待降節第2主日)

スオミ教会

マラキ書3章1-3節
フィリピの信徒への手紙1章11
ルカによる福音書3章1-6節

説教題 救い主を待ち望む者の心得


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.  はじめに

 先週の主日に本年の待降節が始まり、本日はその二回目の主日です。待降節とは、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美を捧げながら、降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節や降誕祭は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2000年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待ち望む心を活性化させる期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、ですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるように生きていかねばなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、今のこの世が終わりを告げる日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それはまた、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていません。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心をしっかり持ち、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命と人生は自分の造り主である神から与えられたものという自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場とか境遇、直面する課題というものは、取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらはまさに神由来であるために、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、そうする。解決が必要な問題は解決に向けて努力する。こうした世話や改善や解決をしていく際の判断の基準として、キリスト信仰者は、まず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、ということを考えます。それと同時に、この神への全身全霊の愛に基づいて、自分は隣人を自分を愛するが如く愛しながらやっているかどうか、ということを絶えず考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界の中にしっかり留まり、それとしっかり向き合い取り組みながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な者ではありません。

さて、主を待ち望む信仰者が心得ておくべきことがいろいろあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。主を待ち望む者が心得るべきものとは、簡単に言えば、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言うことです。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに」なるくらいに道を整える。そうすれば「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」ことになるのです。このように言うと、一つ疑問が起こります。あれ、この「主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ」というのは、救い主イエス様の最初の到来を待ち望んでいた人たちに対して言われていたことではなかったか、第二の到来を待つ私たちにも関係するのか、という疑問です。それが実は関係するのです。もちろん、最初の到来を待ち望んでいた人たちには、まだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。私たちにはそれらは既に起きています。そういう違いはあります。それでも、主を待ち望む者がすべきこととして道の整えはあります。それでは、主の道の整え、その道筋をまっすぐにするというのは、具体的に何をすることなのか?このことについて、以下みていくことといたします。

2.主の道の整えよ - 十字架と復活の出来事の前の時代

 初めにイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の人たちにとっての「主の道の整え」について見ていきましょう。

その時、洗礼者ヨハネが救い主に先だって登場しました。彼が宣べ伝えたことは、「悔い改めの洗礼」でした。新共同訳では「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。ギリシャ語の原文は、もちろん、そのように訳すことができます。しかし、ヨハネの洗礼が罪の赦しを得させた、という理解には留保をつけましょう。なぜなら、神が与えるものとしての罪の赦しは、イエス様が十字架で死なれた時にはじめて実現したからです。それで、ヨハネの洗礼がすでに罪の赦しを与えたような表現は避けた方がよいでしょう。それでは、ヨハネの洗礼はどう理解したらよいでしょうか?

洗礼者ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」とも言われています。「悔い改め」と言うと、何か悪いことや落ち度のあることをして悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書に頻繁に出てくる言葉、「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞シューブשובと結びつけて考えられるようになりました。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで神に背を向けて生きていたことを改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、というように意味が限定されていったのです。そういうわけで、「悔い改めの洗礼」とは、「神のもとに立ち返る洗礼」という意味になるのです。

この「神のもとに立ち返る洗礼」は、当時のユダヤ教の考え方からすれば、画期的だったと思われます。当時のユダヤ教にも水を用いた清めの儀式がありました。しかし、同じ水を用いた儀式でも、ヨハネの洗礼は全く次元の異なるものでした。皆様も覚えていらっしゃると思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との有名な論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争です。ファリサイ派が重視した宗教的行為に食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清めがありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。

ところがイエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、十戒を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないので、神の意思の実現・体現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えるのであります。

洗礼者ヨハネが「罪の赦しに導くための、神のもとに立ち返る洗礼」を宣べ伝えた時、まだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。つまり、神が与えるものとしての「罪の赦し」はまだ実現していません。ヨハネが人々を自分の洗礼に呼びかけたというのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている存在である、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすることで、人間は、もうすぐ実現することになる罪の奴隷状態からの解放を全身全霊で受け入れられる器になれる、ということであります。

このように洗礼者ヨハネは、人間の造った掟や儀式で汚れがなくなると信じること自体から清められよ、そうすることが神の整える救いを全身全霊で受け取ることができるために必要なことだ、と教えるのであります。それができると、あとは神からの救いがスムーズに入ってくる。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということなのです。人間の掟で汚れが無くなると言うなら、もう神が整えた救いはいらなくなってしまいます。神が整えた救いがやってくることの障害になってしまいます。道は整えられず、でこぼこはそのままなのであります。

 そういうわけで、ヨハネの洗礼は人間の心をもうすぐ現れるイエス様に向けさせるものでした。単なる清めの儀式にはイエス様との関連は何もありません。

3.イエス様の十字架と復活がもたらしたもの

 さて、イエス様の十字架と復活の出来事は起きました。それでは、罪の赦しはどのように得ることができるでしょうか?洗礼者ヨハネの時のように、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということはまだ必要なのでしょうか?それは、ヨハネの時は違う仕方ですが、必要なのです。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」というのは、神や彼が送られる救い主が遠方から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように曲がりくねっている道を真っ直ぐにし、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。もちろん、神は、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは神に障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおいているか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神はそのままほっておかれるのです。

 私たちの内にある神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを、私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?そもそも、私たちは、神の近づきがとても良いものであるとわからなければ、何が障害になっているかとか、それをいかに取り除くことができるかということには興味を持とうとはしないでしょう。そういうわけで、最初に、神が私たちに近づくということはどういうことなのか、どうしてそれが素晴らしいことなのか、ということについて考えてみなければなりません。

「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在だったのです。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言った言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。この神への不従順が原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです(623節)。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。こうして、人間は、神との最初にあった結びつきを失ってしまいました。

 これに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分のところに戻ることができるようにしてあげよう、と考えて人間救済の計画をたてました。そして、それを実現するために、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。

 神が人間の救いのためにイエス様を用いて行ったことは次のことです。人間は自分の力で罪と不従順を心身から除去することができない。それが出来ない以上、人間は罪の呪いの力の下に留まるしかない。そこで神は、人間の全ての罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせる。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を取ったのです。それだけで終わりませんでした。神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間のために開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、罪が人間に対して持っていた力を無力にし、死を超える命の可能性を人間のために開いたのです。これが、天地創造の神による人間救済です。

 このように、遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に送ることで、その彼を通して、私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復できて、再び永遠の命を持つことができるためでした。このことは、ヨハネ福音書316節にイエス様の言葉として凝縮されています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

4.主の道を整えよ - 十字架と復活の出来事の後の時代 - 洗礼への道

 それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?

私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の全ての罪を背負われたと聞きました。その時、まさに自分の罪が他の人たちの分と一緒に十字架上のイエス様の肩に重くのしかかっていることに気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩に、頭に、全身に、私の罪がはりつけられている、と直視することができるでしょうか?それができた瞬間、それまで歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の彼の地である歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の事件が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。それは、異国の宗教の話などではなく、まさに天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えた全人類の創造主である神の計らいだったのだということが明らかになります。あのおぼろげだった歴史上の人物が、明瞭に私たちの目の前に私たちの救い主として立ち現われてくるのです。

 イエス様が私たちの救い主として立ち現われたというのは、それはもう彼を自分の救い主と信じることです。人間は、イエス様を自分の唯一の救い主と信じた時、神から相応しい者、義なる者と認められます。神は、お前は私がお前に送ったイエスをやっと救い主と信じた、だから彼の身代わりの犠牲に免じて、お前の罪を赦そう、と言ってくれるのです。私たち人間はまだ肉を纏っている以上は、罪と不従順を内に宿しています。しかし、神は、それが理由で神との結びつきを認めない、とは言われません。イエス様を救い主と信じる以上は罪を赦す、と言われるのです。罪が赦されるというのは、罪の支配力がその人に対して無力になり、罪の呪いが消えたということです。人間は、罪の赦しを得ることで神との結びつきを回復できるのです。

しかしながら、罪の支配力が無になったとは言っても、支配力を無にされた罪は怒り狂って、あたかもまだ勢力を保っているように見せかけて、隙を見つけては信仰者を惑わし、再び人間を罪の支配下に置いて、神との結びつきを失わせようとします。これが悪魔の仕事なのです。人間は、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰で、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることができますが、それが一過性のもので終わってしまったら、それは救いではありません。この救いを持続的に持てるために、洗礼が必要なのです。なぜなら、洗礼によって、人間に神の霊、聖霊が注ぎ込まれるからです。聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が唯一の救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時に、いつも私たちをイエス様のもとに連れ戻す働きをします。私たちに残存する罪や悪魔だけでなく、私たちが人生の中で遭遇する様々な苦難や困難も、私たちには救い主がいることを忘れさせようとします。そのような困難の真っ只中にあっても、イエス様が私たちの救い主であることになんら変更はない、私たちが救われていることは洗礼の時からそのままである、としっかり答えられるのは、これは聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べたのです。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ83839節)

5.主の道を整えよ - 十字架と復活の出来事の後の時代 - 洗礼の後

 以上から、私たちが神と救い主の近づきを受け入れるためには、イエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受けることであることがわかりました。これがイエス様の十字架と復活の後の時代を生きる私たちにとって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことであります。

 ところが、この道の整え、道筋をまっすぐにすることは、信じて洗礼を受けて終わりません。自分を造ってくれた神が、意にそぐわなかった自分を御子イエス様の犠牲のゆえに受け入れてくれたということがわかって、神への感謝に満たされて、これからは神の御心と意思に沿う生き方をしよう、沿う考え方をしよう、と志すにもかかわらず、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。しかし、忘れてはならないことは、告白に続く罪の赦しの宣言が「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい」という確証を与えてくれることです。主の道を整えるとは、このように、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けた後も続きます。

ルターは、人間が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去って、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意思に反することが自分自身にも自分の周囲にも沢山現れて、私たちを気落ちさせて神の愛から切り離そうとします。そうしたことを相手に苦しい戦いを強いられることが何度も何度も繰り返されます。しかし、神の意思に反することを体現しているものは、恐るべきものではありません。本当に恐れるべきものは、人間を造り、一人一人の髪の毛の数まで数えておられ、肉体だけでなく魂も滅ぼすことが出来る神であります。その神が大きな愛を示して私たちにイエス様を送って下さいました。イエス様は、十字架の死と死からの復活を成し遂げられることで、罪と死と悪魔が私たちを服従させようとする力を無にして下さいました。そのイエス様が、マタイ福音書2820節で、信じる者たちと毎日、世の終わりまで共にいる、と約束されました。なにをか恐れじです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン