説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2015年12月20日待降節4主日 スオミ教会
ミカ書5章1-4a節
ヘブライの信徒への手紙10章5-10節
ルカによる福音書1章39-45節
説教題 「マリアの旅立ち」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
今年の待降節も第4主日となりました。クリスマス・イブと一般に呼ばれる降誕祭前夜まであと4日、その翌日が私たちの救い主イエス様の降誕祭となります。降誕祭前夜の礼拝で普通読まれる福音書はルカ2章のイエス様の誕生の出来事についての箇所です。あの有名な、ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に住民登録をせよという勅令を出した、という出だしで始まる箇所です。これでイエス様の誕生がいつ、どのような歴史状況の中で起きたかということがわかります。天と地と人間を造られた神が人間の救い主を天の御国から私たち人間のいるこの世に送られたという、そういう現実を超えるような出来事がちゃんと現実の中で起きたということがはっきりします。天の御国という、この世と全く異なる物理的世界におられた方がこの世に送られて人間と一緒に生活できるためには、人間と同じ姿かたちをとらなければならない。それでイエス様は、マリアという人間の女性を母親として赤ちゃんになって誕生したのです。まさに「フィリピの信徒への手紙」2章で次のように言われているとおりです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者とになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
人間が永遠の救いに与れるようにと、これほどまでに御自分を低くされることを厭わなかった神は永遠にほめたたえられますように。
2.洗礼者ヨハネと救い主イエス様の役割
本日の福音書の箇所は、先週に引き続いて、イエス様の母親になるマリアに何が起きたかということについてです。先週の福音書の箇所では、天使ガブリエルがマリアのもとに来て、マリアが聖霊の力で神の子を産む、と告げます。これに対してマリアは最初戸惑いながらも、最後は、告げられた通りになりますように、と言って神が計画していることを受け入れます。
本日の箇所では、マリアは親戚のエリザベトという女性に会いに行きます。エリザベトは高齢でもう出産は望めない体でしたが、これも天使ガブリエルが夫のザカリアのところに来て、エリザベトは神の力によって男の子を産むことになる、と告げます。ザカリアとエリザベトの間に生まれる子供にも神の計画が託されていました。それは、「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」(ルカ1章16節)ことでした。その子はヨハネという名をつけられました。大人になったヨハネは「悔い改めの洗礼」を人々に授けました。これはどんな洗礼かというと、当時イスラエルで水を使った清めの儀式が行われていましたが、ヨハネの立場は、そんなもので罪の汚れは消すことは出来ない。罪の汚れを消せない以上、人間は神の裁きから逃れられない。それで、神の裁きを免れるために人間は逆に、罪の汚れを自分の力では消すことが出来ないと観念して認めることから出発しなければならない。そこで、裁きを免れるように神から憐れみを受けられることが大事になる。神から憐れみを受けられるためにはまず、それまで神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようにしなければならない。ヨハネの洗礼は、そういう神への立ち返りをしたという印の洗礼です。しかし、立ち返りをして神の方を向くようになったとは言っても、それだけでは人はまだ神から憐れみを受けていません。
その神の憐れみを受けられるようにしてくれたのがイエス様でした。どのようにしてイエス様は、罪にまみれた人間が神の憐れみを受けられるようにして下さったのでしょうか?イエス様は、本来人間が受けるべき神の罰を人間に代わって全部一人で請け負って十字架の上で死なれました。神のひとり子が人間の罪を全部人間に代わって十字架の上まで背負って運んで下さったのです。人間の罪を償う犠牲の生け贄の中でこれほど神聖なものはありません。この犠牲でもう十分とした神は、この犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命に至る扉を人間に開いて下さいました。人間は、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪が赦され、死を超えた永遠の命に至る道に置かれて、その道を神に守られながら歩むことができるようになるのです。これが、神が人間のために整えてくれた「罪の赦しの救い」です。
こうして洗礼者ヨハネの洗礼を受けて神への立ち返りを目指すようになった人たちは、今度はイエス様の十字架と復活のおかげで神の憐れみをしっかり受けることができるようになりました。十字架と復活の後は、もうヨハネの洗礼はいりません。そのままイエス様を救い主と信じ、イエス様が命じた洗礼を受ければ、神の憐れみを受けられます。神の憐れみを受けた者が罪の赦しを神に願い出ると、神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さるのです。
以上述べたことから、洗礼者ヨハネが人間には拭いきれない罪の汚れがあることを人々にしっかり思い起こさせて神に向かって立ち返らせたことがわかってきました。ヨハネは本当に自分の後にやって来るイエス様のために道を整えたということがよくわかります。
3.マリアのエリザベト訪問
本日の福音書の箇所で、マリアの訪問を受けて挨拶されたエリザベトは、胎内の赤ちゃんが小躍りするくらい反応したことを感じます。その瞬間エリザベトは聖霊に満たされて、マリアのことを「私の主の母」と呼びます。「主」というのは、新約旧約聖書双方を通じてたいていの場合、神そのものを指す言葉です。つまりエリザベトは、マリアが生むことになるのは神が人の姿をとった方であると言っているわけで、さすが聖霊に満たされただけあって、これは立派な預言です。
本日の箇所は一見すると、出産不可能と言われたエリザベトが身ごもって、それをマリアがお祝いに行って、逆にエリザベトから祝われてしまったという、二人の妊婦が互いにおめでとうの気持ちを伝えあっているような微笑ましい出来事に見えます。しかし、よく見ると二人の出会いはあまり普通ではありません。はっきり言って異常です。かたや、不妊で高齢の女性が神の力で子を身ごもって、妊娠6か月目に入っている。他方で、まだ結婚生活に入っていない婚約中の乙女が聖霊の力で身ごもった。婚約中の女性が身ごもったということになると、当然誰がその父親かという問題が起きてきます。先日、最高裁が再婚禁止期間に関する訴訟で判決を下しましたが、あれなどは十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」がしっかり守られていれば起こりえない問題です。ところがマリアの場合は掟を破ってもいないのに、世間の目から見れば破ったと見なされる状況に陥ってしまった。マタイ1章19節で婚約者のヨセフが婚約破棄を考えたと言われていますが、これは当然でしょう。しかし、天使から事の真相を知らされたヨセフは、周囲からどんな目で見られようとも神の計画ならばマリアを妻として受け入れよう、と決心しました。とにかく、そういう普通ありえない出産を迎えることになる二人の母親が会うというのが本日の福音書の箇所の出来事なのです。
マリアはエリザベトから祝福の言葉をかけられますが(1章42節)、マリアがエリザベトのもとに出向いたのはどうもお祝いの言葉を述べに行くことが第一の目的だったのではないようです。マリアのエリザベト訪問から、マリアの信仰がよくわかりますので、それを見ていきたいと思います。私たちにとっても学ぶことがいろいろあると思います。
4.マリアの信仰 - 神に全てを委ねる信頼
まずルカ1章45節を見てみましょう。エリザベトがマリアに次のように述べます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
「幸い」という言葉ですが、これは時間が経てば過ぎ去ってしまうような、この世的な幸福や幸運ではありません。「幸い」とは、もっと持続的、不変な幸福で、この世を超えて永遠の命に与ることに結びついた幸福です。先ほど、キリスト信仰者は、この世の人生の段階で永遠の命に至る道を歩んでいる、と申しましたが、これが「幸い」なことなのであります。たとえ、この世の人生で逆境に陥って貧乏になったり病気になることがあっても、永遠の命に至る道を踏み外さずに歩み続けられるのであれば、その人は「幸い」なのであります。マタイ5章でイエス様自身が言われるように、「幸いな」人は、霊的に貧しい人であったり、今悲しんでいる人であったり、義に飢え渇く人であったり、また義のために迫害される人であったりします。どれもみな永遠の命に至る道を歩み続ける人を指しています。逆に、この世の目から見て幸福や幸運にどっぷりつかる人生を送ることができても、信仰を持たず永遠の命に至る道を歩まない人は幸いではないのであります。
マリアは婚約中の妊娠という、人の目から見て幸福とは言えない不名誉な境遇に置かれることを覚悟で、神の人間救済計画という御心を実現するためならば、とそれを受け入れたのであります。神の人間救済計画とは、人間を永遠の命に至る道に置いてそれを歩めるようにして、人間を「幸い」な者にすることでした。そのような計画の実現のために自らを捧げたマリアも「幸いな」人なのであります。
ルカ1章45節のエリザベトの言葉「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」に戻ります。これは、私たちが用いる新共同訳の文章です。ギリシャ語の原文はわかりそうで少しわかりにくい形でして、次のようにも訳せます。「信じたこの方は、なんと幸いでしょう。なぜなら、主がおっしゃったことは必ず実現するからです」。実は、ドイツ語のルター訳やフィンランドやスウェーデンのルター派教会の聖書は、こちらの訳をとっています。英語のNIVはと言えば、それは日本の新共同訳と同じです(英語でもジェームズ王欽定訳はルターや北欧諸国の訳と同じです)。一方では、「神が言ったことが必ず実現すると信じたマリアは幸いだ」と言う。他方では、「信じたマリアは幸いだ。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」と言います。
つまり、ドイツ・北欧の訳では、マリアがどうして「幸い」かということについて理由がついています。理由は、神が彼女に言ったことは必ず実現するから、それで信じたマリアは幸いだというのです。(この訳は、マタイ5章にあるイエス様の有名な山の上での説教の言い方を思い起こさせます。「悲しんでいる人は幸いである。なぜなら(οτι)彼らは慰められるからだ(4節)」。)「信じたマリアは幸いである。なぜなら(οτι)神の言ったことは実現するからだ」。英語・日本語の訳では、マリアがどうして「幸い」なのか理由がなく、ただ神が言ったことが実現するんだと信じたマリアは幸いだとだけ言います。どちらが正しい訳でしょうか?どちららでも良いように見えますが、ドイツ・北欧の訳の方がマリアの信仰を深く知る上で役に立ちます。
ドイツ・北欧の訳で一つ考えなければならないことは、「信じたマリアは幸いだ」と言う時、ではマリアは一体何を信じたのかということです。英語・日本語の訳では、信じた内容は「神が言ったことが実現する」ということとはっきりしています。それを信じたマリアは幸いということになる。ドイツ・北欧の訳では、ただ単に「マリアは信じた」です。マリアは何を信じたのでしょうか?ここでエリザベトの夫ザカリアに何が起きたかを振り返ってみると参考になります。ルカ1章5-25節の出来事です。エルサレムの神殿の祭司であったザカリアが神殿の聖所で務めを果たしている時、天使ガブリエルが来て、妻のエリザベトが洗礼者ヨハネを産むことになると告げる。ザカリアは高齢でそんなことは不可能と言う。天使は、お前は伝えた言葉を信じなかったので、それが起きる日までは口がきけない状態になる、と言い、ヨハネの出産の日までその通りになってしまう。
天使ガブリエルとのやりとりは、マリアの場合はどうだったでしょうか?マリアが神の子を産むことになると天使から告げられて、まだ婚約中の身でどうしてそんなことが可能か、と聞き返します。これは一見、ザカリアがしたような反論にも聞こえます。しかし、マリアは最後には、「お言葉通り、この身に成りますように」と言って、天使が言ったことを受け入れました。これが、ザカリアとの大きな違いです。これが、マリアが「信じた」ことの内容を理解する鍵になります。マリアが「信じた」のは、起きる事柄の真実性を信じたというよりも、その通りになってもいいですと受け入れたことを指します。これが、マリアが「信じた」ということです。
このように、信仰には、神が起きると言うことを信じる、とか、聖書に起きたと書かれていることを信じる、とか、神が示した事柄の真実性を信じるという意味があります。それに加えて信仰には、マリアのように、神が起こすと言っていることをそれでいいですと言って受け入れること、神に自分の運命を委ねること、つまり神を信頼するということも含まれます。事柄の真実性を信じることと神を信頼するということ、信仰にはこうした二つの要素が含まれています。そういうわけで、「信じたマリアは幸いである。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」というのは、神を信頼して自分を神の御手に委ねたマリアは幸いである、なぜなら神が言ったことは必ず実現するからだ、という意味になります。英語・日本語の訳では、この神に対する信頼の面が出てこなくなります。
5.マリアの信仰 - 神が示した事柄の真実性を信じる
天使のみ告げの時に明らかになったマリアの信仰には、神に対する信頼があったことが明らかになりました。神が示した事柄の真実性を信じることも、もちろんあります。そのことも見てみましょう。1章39節で、「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とあります。マリアが出かけた行先は、ザカリアとエリザベトの家があるユダ地方の山間部にある町ということなのですが、どの町かは不明です。ここで、「そのころ」というのは、どのころなのでしょうか?この部分のギリシャ語はわかりそうで、よく見るとわかりにくい形になっています。普通の言い方だったら、マリアは「思い立って出発した」(αναστασα επορευθη)と言うところを、「思い立って」と「出発した」の間に「数日間」(εν ταις ημεραις ταυταις)という語句がついています。見れば見るほど、天使がお告げをした後、マリアは数日間、早く出発しなければ早くしなければ、という状態にあって、その状態が終わるやいなや本当に「急いで」(μετα σπουδης)出発したという感じが伝わってきます。とにかく出発するまで数日間かかったことははっきりしています。そのため、フィンランド語やスウェーデン語の訳では「数日後」とはっきり訳されています。ドイツ語のEinheits‐übersetzung(共同訳?)も「数日後」です。ただし、英語NIVは「その時」、「当時」at that timeで、どちらかと言えば新共同訳と同じです。このように英語と日本語の訳が一致するのをばかり見ると、なんだか聖書の翻訳にも日米同盟があるような感じですが、いずれにしても、マリアが出発するまで何日かかかって早く行かねばという状態があって、出発するともう「急いで」行ったということがはっきりします。
それでは、なぜマリアはしたくてもすぐ出発できなかったのでしょうか?そのことについて聖書は何も書いていないので未熟な憶測は禁物ですが、無理やりな霊的な推測はせずに実際的に考えれば、準備の問題があったと考えられます。ザカリアとエリザベトが住むユダ地方の山間部の町、どの町か不明ですが、ナザレがあるガリラヤ地方からユダ地方の中心地エルサレムまで直線距離で100キロ位ありますので、少々の長旅です。途中にはユダヤ人に反感を持っているサマリア人が住むサマリア地方を通らなければならない。またイエス様が「善いサマリア人」のたとえ話のなかで、エリコとエルサレムの間の道に山賊が出て旅人を襲うという話がありますが、そういう危険もあったでしょう。若い女性のマリアが一人で旅立ったとは考えにくく、誰かはわかりませんが付き人をつける必要があったでしょう。道は舗装されていないし、途中にコンビニもありませんから、旅行の準備はそれなりに大変だったと思われます。そういうふうに考えれば、早く出発しなければ、早くしなければという状態がわかってきます。そして出発するや否や、のんびりマイペースでではなくて、「急いで」出発したのであります。
この、早くエリザベトのもとに行かねば、行かねばというマリアの気持ちは、これはルカ2章に登場する羊飼いと同じです。羊飼いたちは天使から、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中で寝かされている乳飲み子が救世主誕生の印である、と告げられました。羊飼いたちはベツレヘムの郊外にいたので、すぐ現場に急行できました。ルカ2章16節に「急いで行って」とある通りです。羊飼いたちは、まだ見ていないのに、天使の告げたことを本当のことと信じて急いで出かけて行ったのです。神が示した事柄の真実性を信じたのです。マリアの場合も同じです。天使から、お前は乙女のまま神の子を産むことになる、高齢のエリザベトが身ごもっているのがその印である、神に不可能なことはない、と告げられ、まだ見ていないのに本当のことと信じて、一刻も早く出発したいという気持ちで旅の準備をし、整うや急いで出かけて行ったのです。そしてマリアの場合は、神が示した事柄の真実性を信じることと神に全てを委ねる信頼の両方があったのです。信仰と洗礼の恵みの中に生きる私たちも、その両方を持って旅立つことが出来ますように。
6.おわりに
神が示した事柄の真実性を信じることと神に全てを委ねる信頼の両方を持って旅立った人物としてもう一人忘れてはならない人がいます。アブラハムです。ルターが「ヘブライ人への手紙」11章の中で述べられているアブラハムの信仰について解き明かしをしていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。
「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです(ヘブライ人への手紙11章8節)」
「アブラハムは、一体どこに到着するのか自分でも知らないまま、神に命じられた通り自分の国を旅立って行った。行き先はどこにあるのか、そこで何が待っているのか、自分は何もわからない。それを知っている神がただ行きなさいと命じられる。まさにここに、信仰の困難かつ大きな戦いと試練がある。
しかし、その時アブラハムは一体何をしたであろうか?彼がしたことはただ、神が彼に与えた言葉を唯一確かなものとして携えて出発したことである。その言葉とは、「私はお前に祝福を授ける」というものであった。信仰というものは、はっきり見える目を持っているのである。その目は、光が全くない暗闇の中でも見ることができる。信仰とはまさに、何も見えないところで見、何も感じることができないところで感じるのである。
「ヘブライ人への手紙」のこの御言葉は、まさに私たちのために書かれた。それは、私たちがアブラハムのように神の御言葉に拠って立つことを学ぶためである。この御言葉の中で神は、私たちの身体と命、さらには魂までをも守り抜くと約束して下さっているのである。たとえ、そのように見えなくてもそのように感じられなくとも、そうなのである。だから、全てのことが正反対のようになってしまったと思われても、あなたはただ神が約束されたことを信頼することに努めなさい。アブラハムに対しても神は、約束を実現するのを何年もかけて待たせたのだ。今の時代を生きる私たちに対しても神の助けや導きがなかなか得られないように見える場合でも、あなたは信じることを止めてはならない。なぜなら、神が定めた時をあなたに待たせるのは、あなたの信仰を強めるためという意図があるからなのである。それはアブラハムに対しても起こったことなのである。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン