2012年12月17日月曜日

神がそうなると言われることは必ずそうなる (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年12月9日待降節第三主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて
 
サムエル記下7:8-16、
ローマの信徒への手紙16:25-27、
ルカによる福音書1:26-38
 
説教題 「神がそうなると言われることは必ずそうなる」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

今年の待降節ももう第三主日を迎えるに至りました。待降節の期間、私たちの心は、2千年以上の昔にパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝と賛美の心を持って、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。
 
 待降節は、ややもすると、過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。先週、日吉教会の説教でも強調したことですが、待降節が未来に結びつく意味があるというのは、イエス様が、御自分で約束されたように再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、「今年もこれで終わり、めでたし、めでたし」ですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。主の再臨の日とは、またこの世の終わりの日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる日、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日がいつであるかについて、イエス様は、父なる神以外は誰も知ることができない、と言いました。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、と教えました。主の再臨を待ち望む心を強め、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。
 
それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきますが、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は造り主の神から与えられたものとの自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものも、実は、取り組むために神が与えたものという認識があります。神由来ならばこそ、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものは忠実に誠実にそうし、改善が必要なものはそうし、また解決が必要な問題はしっかり解決にあたる。そうした世話、改善、解決をする際に、いつも判断の基準にあるのが、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているか、また隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているか、ということであります。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な存在ではありません。
 
さて、主を待ち望む者が心得ておくべきことがあります。先週の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが宣べ伝えた「神のもとに立ち返るための洗礼」について述べていました。その箇所が私たちに教えていることは、キリスト信仰者といえども、自分には神への不従順と罪が宿っていることから目をそらさず、人生の歩みの中でたえず神のもとに立ち返る生き方をしなさい、ということでした。たえず神のもとに立ち返るとは、洗礼を受けた時の自分に何度も戻り、そこから何度も再出発することであります。本日の箇所は、天使ガブリエルがマリアに救い主の母となることを告げる出来事ですが、この箇所が教えていることは、神がそうなると言われたことは必ずそうなる、それを信じなさい、ということです。たとえ、自分の思いや考えと合わなかったり、あまりにもかけ離れていてまともに受け入れられないものでも、神がそう言われる以上は、そうなるのだ、だから、それを受け入れて優先させなさい、ということです。人間にとって、たとえ神のためとは言え、自分の意思を脇に置きやるというのは抵抗があるものです。ましてや、そうすることでいらぬ困難や試練を招いてしまってはなおさらです。しかし、神は、まさにそのような者と共に一緒におられるのです。そうしたことを本日の福音書の箇所をもとにみていきましょう。
 
 
2.

神から遣わされた天使ガブリエルがマリアのもとにやってきて、神が計画していることを告げます。ガブリエルという名の天使は、旧約聖書のダニエル書にも登場し(8章と9章)、神に敵対する者が跋扈する時代の到来とその終焉についてダニエルに告げます。ガブリエルはまた、マリアのもとに来る6か月前にエルサレムの神殿の祭司であるザカリアにも現れ、高齢の妻エリザベトが男の子を産むと告げます。この子が将来の洗礼者ヨハネです。 
 
ガブリエルがマリアに告げたことは、マリアがまだ婚約者のヨセフと正式に結婚する前に、神の霊の働きで男の子を身ごもる、ということでした。さらに、その子は神の子であり、神はその子にダビデの王座を与え、その国は永遠に続く、ということも告げられました。そして、その子の名前は、「主が救って下さる」ということを意味するイエスと名づけよ、と命じました。
 
ダビデの家系の王が君臨する王国が永遠に続くという思想は、本日の旧約の日課であるサムエル記下7章のところで、預言者ナタンがダビデ王に伝えた神の言葉の中に見られます。歴史上は、ダビデ家系の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に潰えてしまいます。捕囚が終わってイスラエルの民がユダの地に帰還した後は、もうダビデ家系の王国は実現しませんでした。そのため、ユダヤ人の間では、いつかダビデの家系に属する者が王となって国を再興するという期待がいつも残っていたのであります。しかしながら、神が計画した永遠に続く王国とは、地上に建国される国家ではなく、天の御国でありました。今の世が終わりを告げて、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時に、唯一揺るぎないものとして立ち現われる神の国です(ヘブライ122628節)。私たちキリスト信仰者が主の祈りを祈る時に、「御国を来たらせたまえ」と唱える、あの永遠の御国のことであります。そこで王として君臨するのはイエス・キリスト、死からの復活の後に天に上げられて、今は父なる神の右に座して、この世の終わりの日に再臨する主なのであります。イエス様は、人間としてみてどこの家系に属するかをみれば、ダビデの子孫であるヨセフを育ての父親として持ちましたので、ダビデの末裔ということができます。しかし、イエス様の本当の父親は、被造物に属する人間ではありませんでした。
 
マリアが処女のまま妊娠するということが、どうして起きたのか、それは私たちの理解と想像を超えることであります。本日の福音書の箇所で、天使ガブリエルは、聖霊がマリアの上に降り、神の力が彼女を覆う、と言いますが(35節)、それでは身ごもるに至った生物学的な過程は全くわかりません。マタイ120節で天使はヨセフに、マリアの中で受胎したものは聖霊に由来する、とだけ述べます。このように聖書の記述には、処女受胎の科学的説明に資する手がかりは何もないので、それがどのようにして起きたかは理解することができません。しかし、「どのようにして起きたか」ではなくて、「なぜ起きたか」については、聖書をもとにして理解することができます。聖書の中に記される神の人間救済計画が理解のカギです。
 
創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順に陥り罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神から切り離されて生きなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と述べている通りです(ローマ623節)。人間は罪と不従順がもたらす死の力の下に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできません。そこで、父なる神は、人間が再び造り主である御自分のもとに戻れるようにと計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済計画です。
 
人間が神聖な神のもとに戻れるようにするためには、なによりも人間を罪の奴隷状態と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には、自身に宿る罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪と不従順からくる罰を全て負わせて死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。この神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が、私たちを罪の奴隷状態から解放する身代金となったのであります(マルコ1045節、エフェソ17節、1テモテ26節、1ペテロ11819節)。さらに、神は、一度死んだイエス様を復活させることで、死を超えた復活の命、永遠の命が存在することを示されました。人間は、この神が御子を用いて実現した赦しの救いを受け入れることで、救いに与ることができます。つまり、救われるのです。赦しの救いを受け入れることとは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして、人間は、この世の人生の段階で、復活の命、永遠の命に至る道を歩み始めることができるようになります。順境の時にも逆境の時にも常に神の御手に守られて生きるようになり、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになります。
 
それでは、なぜ、聖霊による受胎が必要だったのか?なぜ、神と同質である御子がこのようにしてまで人間として生まれてこなければならなかったのか?赦しの救いを実現するためには、誰かが犠牲にならなければなりませんでした。それを神が自ら引き受けたのでした。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。なぜなら、人間の罪と不従順の罰を全て受ける以上は、罰を罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのであります。そうすることで、使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア313節)。「フィリピの信徒への手紙」268節には、次のように謳われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。このように、私たちの救いのためにひとり子をも惜しまなかった父なる神と、その救いの計画の実現のために御自身を捧げられた御子、そして、私たちが信仰を持って生きられるよう支えて下さる聖霊は、とこしえにほめたたえられますように。
 
 
3.

天使ガブリエルから神の計画を告知されたマリアは、最初はそれを信じられませんでした。しかし、ガブリエルは、天と地に存在する真理の中で最も真理なことを述べます。「神にできないことは何一つない」(37節)。これは少々味気ない訳です。ギリシャ語原文の趣旨を活かした訳は、実は、本説教題に掲げたように、「神がそうなると言われることは(ρημα)、必ずそうなる」ということであります。(もちろん、「神にとって不可能なことは何もない」と訳すことも可能ですが、すぐ後のルカ145節との関係をみれば、説教題の訳が適当と考えます。)それに対するマリアの答えは、(これはなかなか良い訳でして)「わたしは主のはしためです。お言葉(ρημα)通り、この身に成りますように」でした(37節)。これは、神の意思を受け入れるということであります。この受け入れは、神の子の母親になれるという意味では大変名誉なことでありますが、別の面ではマリアのその後の人生に深刻な影響をもたらすものであります。というのは、ユダヤ教社会では、婚約中の女性が婚約者以外の男性の子供を身ごもるという事態は、申命記22章にある掟に鑑みて、場合によっては死罪に処せられるほどの罪でした。そのため、マリアの妊娠に気づいたヨセフは離縁を考えたのでした(マタイ119節)。しかし、ヨセフも天使から事の真相を教えられ、神の計画の実現のために言われた通りにすることに決めました。神の人間救済計画の実現のために、特別な役割を与えられるというのは、最高な栄誉である反面、人間の目からすれば、最悪な恥となることもあるという一例になったのであります。イエス様の出産後、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害のため、赤ちゃんイエスを連れて大王が死ぬまでエジプトに逃れなければなりませんでした。その後で、三人はナザレの町に戻りますが、そこで人々にどのような目で見られたかは知る由はありません。仮に、「この子は神の子です、天使がそう告げたんです」と弁明したところで、人々は真に受けないでしょうから、一層立場を悪くしないためにも、何も言わずにいた方が賢明、ということになったのではないでしょうか。いずれにしても、社会的に大変微妙な、辛い立場に置かれるわけです。このように、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」(28節)と言われて、本当に神から恵みを受けて神が一緒にいてくださることになっても、それが必ずしも、人間的におめでたいことにはならないことがあるのです。しかし、そのようなおめでたくない場合にも、神は共におられるのです。神がそうなると言われたことは、必ずそうなる、と信じて、それに従う時、人間的には辛い状況が生じても、実は、そういう状況そのものが、神が共におられることを示すのです。マリアは、それを受け入れました。この受け入れは、順境の時にも逆境の時にも常に神が共にいる、という生き方をすることを意味しました。たとえ神が共にいても逆境になるのは嫌、神が一緒にいなくても順境でいられるなら、そっちの方がいい、という生き方は選びませんでした。たとえ逆境が伴うことになっても、神が常に共にいる生き方を選びました。ここに、私たちの信仰人生にとって、学ぶべきことがあります。
 
本説教の初めに、キリスト信仰者というのは、世話したり守るべきものは忠実に誠実にそうする、改善が必要なものはそうし、解決が必要な問題はしっかり解決にあたる者である、これら全てのことをする際の判断基準として、神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかという唯一神への愛、また隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかという隣人愛の二つがある、と申し上げました。こういうキリスト信仰者の生き方は、ある場合には、利他的な隣人愛のゆえに評価されたり賞賛されたりするでしょう。しかし、いつもほめられっぱなしではないと思います。隣人愛の基礎にある、唯一神への愛のために、偏狭なやつだと遠ざけられたり、忌み嫌われたり、ひどい場合は憎悪の対象になることもあると思います。キリスト信仰者の信仰人生とは、実は、この相反する反応にたえずぶつかっていなければならないものではないかと考える者です。もちろん、これらは人間が示す反応なので、いちいち振り回される必要はないのですが、それでも、もし、耳に入ってくるのが評価や賞賛など聞き心地のよいものだけになってしまったら、その時は、唯一神への愛がどうなっているか、立ち止まって考えてみるよい機会だと思います。
 
最後に、神が常に共におられるという生き方をする者が、そのために、困難や試練に直面した時、試練をまさに神由来のものとしてしっかり受け止めることについて、ルターは次のように教えています。それを引用して、本説教の締めにしたいと思います。
 
「信仰は、試練や困難を全て軽微なものに、はては甘美なものにさえする。そのことは殉教者の生き方に見られる。信仰がなければ、たとえ全世界の安楽を手中に収めたところで、全てのことは重荷になり、苦々しい気持ちを掻き立てるだけとなる。そのことは、無数の金持ちたちの惨めな人生が示している。
 
こんなことを言う者がいる。『現在の困難な状況は、自分の愚かさや悪魔のために陥ったのではなく、神がこうなさったからだ、と誰かが納得させてくれれば、この状況を受け入れてやってもいいのだが。』そういう者に対し我々はこう答える。『なんという愚かな考えだ。信仰の欠如以外の何ものでもない。』キリスト自身がおっしゃったではないか。『父なる神の意思が働かなければ、鳩さえも空から落ちることはない。私たちの髪の毛は一本残らず数えられている』、と。
 
 もし君が、それ自体は罪と無関係な困難な状況に陥ったとしよう。もちろん、同じ困難な状況は、罪や愚かさが原因となっても陥ることはあるのだが、ここでは、罪とは無関係にそういう状況に陥ったとしよう。実は、そのような状況に陥るというのは、神の御心に適うことなのである。神にとって、罪以外のものならばなんでも御心に適うのである。君が何か困難な問題に取り組んでいるとしよう。その問題が罪と無関係ならば、君が取り組むことになったのは、神がそれをお許しになったからなのである。君は、ただ正しく考え行動することに注意して、その問題に取り組みなさい。さらに、取り組む際に、どうしても気が進まなかったり、なぜ自分がこんなことを、などと思う時、そう思うこと自体がまさに神の御心に適うことに取り組んでいることの表れなのである。まさにその時、神は、君の信仰が揺らぐかどうか、信仰にしっかり立つかどうか、それを見るために、悪魔が君を試すのを許可しているのである。神は、君が信仰にとどまって戦い、成長する機会を与えて下さっているのである。」

 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン



2012年12月10日月曜日

神のもとに立ち返る心を忘れずに、救い主の到来を待て (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 201212日待降節第二主日 日吉教会

マラキ書3:1-3、
フィリピの信徒への手紙1:3-11、
ルカによる福音書3:1-6
 
説教題 「神のもとに立ち返る心を忘れずに、救い主の到来を待て」

 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン


私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.

先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。本日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間未満の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間であります。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔にパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主をお送り下さった神に感謝と賛美の心を持って、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。
 
 待降節は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えますが、私たちキリスト信仰者は、そこには未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、のお祝いですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。主の再臨の日とは、この世の終わりの日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる日、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日がいつであるかは、父なる神以外には知らされていない、と。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を強め、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。
 
それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は造り主の神から与えられたものとの自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは取り組むために神が与えたものという認識があります。それらは神由来であるがゆえに、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものは忠実に誠実にそうし、改善が必要なものはそうし、また解決が必要な問題は解決に向けて努力していきます。そうした世話、改善、解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は、絶えず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているか、また隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているか、ということを考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な存在ではありません。
 
さて、主を待ち望む者が心得ておくべきことがあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。
 
 
2.

 本日の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました(ルカ180節)。そして、その日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、罪の赦しに導くための悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めました。そして、大勢の人々がヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ福音書の記者は、その時がいつだったかについて、「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」であったと記しています。
 
 少し歴史的事実を確認してみましょう。ティベリウスはアウグストゥスの次のローマ皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年といいますが、ティベリウスは西暦14年の9月に即位したので、その年を数え入れて15年目なのか数えないのかは不明です。いずれにしても、第15年目は西暦28年か29年ということになります。イエス様がヨハネから洗礼を受けて公けに活動を開始してから十字架と復活の出来事までどれくらいの年月だったかは、諸説があり、最短説で1年位、普通は3年位だっただろうと見なされています。そうすると、イエス様の受難と復活は西暦29年から32年の間というふうに絞られてきます。ヘロデ、フィリポ、リサニアの3人の領主の名前が出てきますが、ヘロデ大王が紀元前4年に死ぬと、イスラエルの地は4つに分割され、ユダヤ地方は息子のアルケラオ、ガリラヤ地方はもう一人の息子ヘロデ・アンティパス、イトラヤとトラコン地方はさらなる息子フィリポが領主となりました。そういうわけで、本日の福音書の箇所でガリラヤの領主と言われるヘロデは、ヘロデ大王の息子のアンティパスのことで大王ではありません。時々混同する人もいるのですが、イエス様が誕生した頃のヘロデと大人のイエス様を迫害したヘロデは親子で別人です。ユダヤ地方はアルケラオがすぐ死んで、ローマ帝国の総督ピラトが支配することとなり、帝国の直轄支配を受けます。(アビレネの領主リサニアについては、家系は不明です。)
 
 このようにルカは神の業が行われたことを、いつどこでどのような歴史状況の下で行われたかを正確に記そうとします。イエス様が誕生する部分の描写も同じです(2章)。どうしてルカは局地的な出来事を大きな歴史に結びつけて記述するのかというと、それは、彼自身が福音書の巻頭言で言っています。つまり、自分は、キリスト教徒が信じている事柄が歴史的に本当に起こったものであるとはっきりさせるために、信頼できる目撃者・関係者の証言や断片的に書きとめられた記録を集めて、それらに基づいてしっかりした一大記録をまとめ上げる、という目標があるからです。
 
もちろんそういう目標だけでなく、ルカは、天地創造の神は人間の歴史にも働きかける神であるという旧約の信仰をしっかり受け継いでいます。旧約聖書、特に預言書を繙くと、誰々王の治世何年に神の言葉が預言者誰々に降った、という言い方が多く出てきます。神は、天地創造の後は天の御国に引きこもって、あとは堕罪に陥った人間が勝手にしていればよい、などと御国で隠居生活を送っているのではありません。神は堕罪に陥った人間が再び造り主である自分のもとに戻れるようにしようと決意し、そのために時と場所と民族を選び、あとは人間の歴史の流れと共に歩み、絶えず自分の意思や御心を人間に発信し続けます。そして時が満ちた時、はじめからそうすると決めていたことを実行するに至りました。つまり、人間を堕罪状態から救い出すために自分のひとり子を犠牲に供することに踏み切ったのです。このような計り知れない知恵と力と愛を持つ神は、とこしえにほめたたえられますように。
 
 
3.

さて、主の再臨を待ち望む者が心得るべきことは何かを見てみましょう。神の言葉が降ったヨハネが宣べ伝えたことは、「罪の赦しに導くための悔い改めの洗礼」でした。新共同訳では「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。ギリシャ語の原文は、もちろん、そのようにも訳すことができます。しかし、ヨハネの洗礼が罪の赦しを得させるものである、という理解には留保をつけましょう。なぜなら、神が与えるものとしての罪の赦しが実現するのは、イエス様が私たちを罪の奴隷状態から贖うために十字架で死なれた時にはじめて実現したのでありますから、ヨハネの洗礼がすでに罪の赦しを与えたような表現は避けた方がよいでしょう。説明を付して訳するとこうなります。「やがて起こるイエス様の十字架と復活をもって罪の赦しは実現されるのであるが、今はまだそれが起こる前の段階なので、今は将来の罪の赦しに導かれるために悔い改めの洗礼を受ける。」これがヨハネの洗礼の趣旨であったと言うことができます。
 
それでは、その「悔い改めの洗礼」とはどんな洗礼なのでしょうか?「悔い改め」と言うと、何か悪いことや落ち度のあることをして悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、とても深い意味があります。どういう意味かといいますと、この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書に数多く出てくる言葉、「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになるのです。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで神に背を向けて生きていた状態を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、という具合に、その意味内容が限定されるようになったのです。そういうわけで、「悔い改めの洗礼」とは、「神のもとに立ち返る洗礼」、「神のもとに立ち返ることを趣旨とする洗礼」という意味になるのであります。
 
この「神のもとに立ち返る洗礼」というのは、当時のユダヤ教の考え方からすれば、画期的だったと思われます。当時のユダヤ教にも水を用いた清めの儀式がありました。しかし、同じ水を用いた儀式でも、ヨハネの洗礼は全く次元の異なるものでした。皆様も覚えていらっしゃると思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為に食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζωβαπτισμοςが使われています(マルコ74節)。つまり、これらの清めの儀式も洗礼の一種なのであります。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、十戒を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないので、神の意思の実現・体現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えるのであります。
 
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます洗礼により、イエス様を衣のように着せられる、被せられるというのは、ガラテア327節やローマ1314節に言われています(さらにエフェソ42324節とコロサイ3910節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人です)。こうして人間は、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになるのであります。このようなはかりしれない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。
 
以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事の後になってはじめて、永遠の命を保証する「神のもとへの立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、十戒を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に宿る古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てながら、「神のもとに立ち返る」道を歩むこと、それであります。
  
 
4.

 ここで、ヨハネの洗礼、つまり「罪の赦しに導くための、神のもとに立ち返る洗礼」に戻りましょう。洗礼者ヨハネがこの洗礼を人々に宣べ伝えた時、まだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。つまり、神が与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。ヨハネが人々を自分の洗礼に呼びかけたというのは、ファリサイ派が唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている存在である、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすることで、人間は、もうすぐ実現することになる罪の奴隷状態からの解放を全身全霊で受け入れられる器になれる、ということであります。
  
ファリサイ派は、ユダヤ教の先祖伝来の掟である清めの儀式的行為で神の神聖さに与れると信じていました。洗礼者ヨハネは、まず汚れきっていることを認めよ、人間の造った掟で汚れがなくなると信じること自体から清められよ、そうすることが神の整える救いを全身全霊で受け取ることができるために必要なことだ、と教えるのであります。それができると、あとは救いがスムーズに入ってくる。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということなのであります。人間の掟で汚れが無くなると言うならば、もう神が整えた救いはいらなくなってしまう。神が整えた救いがやってくることの障害になってしまう。道は整えられず、でこぼこはそのままなのであります。
 
ところで、本日の福音書の箇所にはイザヤ書403-5節が引用されているのですが、この引用は旧約聖書の記述と少し異なっていることに気づかされます。時間の制約上、細かい点には立ち入りませんが、新約聖書にある旧約の引用は元の言葉と違っているのが、よく見受けられます。イエス様も含めて引用した人たちは、旧約聖書を正確に覚えていなかったのでしょうか?そうではありません。本日の箇所の引用に限って言うと、実はこれは、旧約聖書のギリシャ語訳が背景にあります。旧約聖書は、紀元前4世紀から3世紀にかけて、今のエジプトのアレキサンドリアで大々的にヘブライ語からギリシャ語に訳されました。なぜ、ヘブライ語の旧約聖書とギリシャ語の訳に違いがでてくるのか、また、なぜ新約聖書にある旧約の引用は、あるところはヘブライ語と同じで、あるところはギリシャ語と同じか、これも一回やそこらの説教や講義では語りつくせない壮大な背景があります。これだけをみても聖書というのは、とても深い書物であることがわかります。旧約新約のいろんな書物をたえずつきあわせながら、関連づけながら見ていく必要があります。そうすることで、神の私たち人間に対する計画や御心がわかっていくのであります。聖書はまさに神の御言葉なのであります。そういうわけで、安易に、聖書と関係のない人間の知識、神の計画や御心と関係のない知識をもって聖書の理解の手がかりにしようとすることは避けなければなりません。そんなことをすれば、本当の神から遠ざかってしまい、神の計画や御心がますますわからなくなってしまいます。聖書をあなどってはいけません。
 
 
5.

最後に、私たちは、神の救いの業が実現した十字架と復活の後の時代を生きています。三位一体の神と結びつけられて洗礼を受けたので、私たちは神の実現した救いを受け取り、イエス様の白い衣を着せられています。ヨハネの宣べ伝えた「神のもとに立ち返る洗礼」は必要ありません。しかし、先程も申しましたように、白い衣の中に残存している罪と不従順の古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく信仰人生を歩まなければなりません。そこでは、罪の告白と赦しの宣言は絶えず必要です。洗礼を受けて、もう神のもとに完全に立ち返ったと思ってはなりません。信仰人生自体が、「神のもとに立ち返る」ことを繰り返す人生であります。ルターは、キリスト信仰者が「神のもとに立ち返る」というのは、洗礼の時点に戻ることである、と教えています。そういうわけで、私たちはこの世の人生の歩みの中で何度も洗礼という原点に立ち帰り、何度もそこから再出発するのであります。私たちの命にこのような確固とした土台を与えて下さった神に感謝しましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン