2017年9月25日月曜日

神の救いを贈り物として受け取る信仰 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

市ヶ谷教会

主日礼拝説教 2017年9月24日 聖霊降臨後第16主日

エレミア書15章15-21節
ローマの信徒への手紙12章9-18節
マタイによる福音書18章1-14節

説教題 神の救いを贈り物として受け取る信仰


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 イエス様が子供をとても大切に考えていたことは、福音書からよく伺えます。本日の箇所の出来事は、マルコ福音書9章とルカ福音書9章にも記されています。また、ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章では、イエス様から祝福をいただこうと親たちが子供を連れていく場面があります。それを弟子たちが遮ろうとしたところ、イエス様は逆に弟子たちを叱って、「神の国は彼らのような者たちのものだ」と言い、祝福を授けます。本日の箇所でイエス様は、大人たる者は子供の信仰を見習いなさいというようなことを教えます。また、子供の信仰を損なう者を父なるみ神は断じて許さないということも教えます。子供の信仰とはどういうものか?どうしてそれが手本となるのか?そういったことを後ほどみてみたいと思います。その前に、本日の箇所を、書かれていることを正確に把握しながら、理解を深めてまいりましよう。その後で、イエス様が子供の信仰を引き合いに出して、何を私たちに教えようとしているのか、それを見てまいりましょう。

2.

 弟子たちがイエス様に「天の国で一番偉い者は誰か?」と質問しました。「天の国」とは、神の国のことです。マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わないようにしようとするので、かわりに「天」という言葉をよく使います。マタイ20章(マルコ10章)に、ヤコブとヨハネの母親がイエス様に、神の国が到来したあかつきには息子たちをイエス様の右大臣と左大臣にして下さい、と嘆願する場面があります。他の弟子たちは、この抜け駆け行為を見て憤慨します。どうやら当時の弟子たちは、将来到来する神の国の序列や位階に関心があったようです。神の国に君臨しそれを統治することになる王、イエス様の側近になれるのは誰なのか?自分か、それとも他の者か?

ところがイエス様は、神の国で一番偉い者は誰かということには答えずに、突然、子供を弟子たちの前に立たせて言いました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」つまり、誰が神の国に入れるかということを教えるのです。誰が神の国で一番偉いかを言う前に、そもそも誰がそこに入れるのかという問題に注意を喚起するのです。その後で、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と述べて、最初の質問に答えるのです。これには弟子たちもギャフンとしたでしょう。心を入れ替えて自分を低くして子供のようにならなければ、神の国で一番偉い者になれるどころか、神の国自体に入ることもできないのですから。ここで、イエス様が教える神の国と弟子たちが理解していた神の国には大きな違いがあることは明白です。そういうわけで、イエス様が教える神の国とはどんな国かということについてみる必要があります。神の国は、先週の「人の子」と同じように、一回程度の説教では語り尽くせない大変大きなテーマです。それでも、なんとか頑張って大事な点は押さえてみたく思います。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、それは本当は人間が五感や理性を使って認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。加えて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。これらが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から除去しなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、それは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪から来る神罰を全部彼に肩代わりさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。神は、まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりませんでした。神は今度は、一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全てこの自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。「神の恵み」と言うように「恵み」という言葉がありますが、北欧のルター派の国スウェーデンやフィンランドの言葉では「恵み」は「恩赦」を意味する言葉の派生語です([]nåd benåda[フィ] armo armahtaa)。つまり、これらの国の言葉では「神の恵み」とは「罪の赦しの恵み」の意味が強く出るのです。

ところで、キリスト信仰者とは言えども、信仰者でない人と同様にまだ肉を纏って生きていますから、もちろん罪をまだ内に持っています。しかし、信仰者の違う点は、神の意思に反する何かが心のどこかで頭をもたげるとすぐ罪だと気づき、すかさず心の目をゴルゴタの十字架に向けて、「イエス様を救い主と信じますから赦して下さい」と神に祈ります。すると神は、「わかった、イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す、だからもう罪を犯さないように」と言って赦してくれて、信仰者が新しいスタートを切れる力を与えてくれます。

そういうわけでキリスト信仰者とは、絶えず神の方を向いて歩き、神との結びつきにしっかりとどまろうと日々歩む者と言えます。歩む先は死を超えた永遠の命が待つ神の国です。この道を歩む者はこの世の人生の段階で既に神の国の一員として迎え入れられています。

ところで、神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありませんが、目に見えるようになる日が来ます。それは復活の日と呼ばれる日であり、また最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、イエス様が再臨され、その時点で生きている信仰者たちと、その日死から復活させられる者たちをあわせて、これらを神の国に迎え入れて、王として君臨される。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録214節(717節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは、神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり無数にしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。少し脇道にそれますが、キリスト教会のある教派の総会を覗いたことがありますが、そこで「我々はこの地上で神の国を建設しよう」などと目標を決めていました。神の国とは、この世の中に人間が建設するものではなく、本来は神が整備するものです。ルターも、神の国は神のもとから来るもの、と言っています。従って、キリスト教会の役割は、できるだけ多くの人が神の国に迎え入れられるようにすることだと思います。

3.

 神の国が以上述べたようなものであることは、実はイエス様の十字架と復活の出来事の後にはっきりします。十字架と復活が起きる前の人々の神の国理解と神のひとり子イエス様の理解の間にはギャップがありました。神の国を人々がどう理解していたかは、福音書の記述や当時のユダヤ教社会の思想から大体見当がつきますが、それはここでは立ち入らないことにします。いずれにしても、十字架と復活の出来事が起きる前は、人々は神の国とそこに君臨するメシアについて正確な理解を持っていませんでした。そういう時に、弟子たちは「神の国で誰が一番偉いか」などと質問したのです。イエス様の答えは弟子たちの予想を超えたものでした。まず、神の国に入れるための条件が言われたのです。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない」と。これはどういうことでしょうか?

「心を入れ替える」というのは、ギリシャ語の原文では「立ち返る」という意味の動詞στρεφωです。それが意味するところは、今の自分は神のもとからも、また神の意志からも離れてしまっている、だから今神のもとに立ち返らねば、と気づくことです。「子供のようになる」というのは、先ほど申しました、神がイエス様を用いて実現して下さった「罪の赦しの救い」を子供のようにいただくということです。神が「どうぞ受け取りなさい」と言って下さるものを、ケチも文句もつけずに(もちろんつけようがないものですが)、ただただ受け取るだけです。これだけのものをいただけるのだから、こちらからも何かしないといけないとか、そんな返礼は考えず、ただただ受け身になって受け取るだけです。まさに大人としての自負も誇りもない状態で、まさに子供のようになって受け取るだけです。ここまでして「自分は何もできない、おできになるのは天の父なるみ神だけだ」と観念して受け取らないと、イエス様の犠牲の上に成り立つ罪の赦しはその人にその通りにならないのです。本日の箇所では、イエス様は特に洗礼には言及していませんが、それはこの発言がまだ十字架と復活の出来事が起きる前になされたためで、それらが起きた後は、人間は洗礼を通して救いの所有者になることがはっきりしてきます。

神のもとに立ち返って、神がイエス様を用いて実現された「罪の赦しの救い」を子供のように無力な者になって受け取る、こうして人間は神の国に迎え入れられることができる。このように神の国に入れる条件を明らかにした後でイエス様は今度は、その神の国の中で一番偉い者は誰かという、最初の質問に答えます。「自分を低くして、この子供のようになる人」がそれです。これは、今述べた神の国に入れる条件と同じ内容です。「自分を低くする」とは、こと救いに関しては、人間は何もなしえない、能力と知識をいかに高めて一生懸命業を行っても、人間は死を超えた永遠の命を持てない、神の方で整えてくれて与えてくれなければ持てない。そのように観念して、救いに関しては神に全く依存するということです。ちょうど子供が親に依存しなければ生きていけないように。ここでは、「この子供のように自分を低くする人」と言って、弟子たちの目の前に立たせてある子供を指して、低くした状態がどんなものであるかを視覚に訴えています。

5節でイエス様は「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。この文のギリシャ語原文は少し厄介なところで、私なりに解決策があるのですが、話が細かくなるので立ち入りません。新共同訳の文を使っても、前後の脈絡をしっかり押さえておけば大丈夫です、と言うにとどめます(*後注)。この「受け入れる」ということですが、これは、孤児とか貧しい子供を引き取るというような人道支援的な意味ではありません。次の6節でイエス様が「わたしを信じるこれらの小さい者の一人」と言っていることに注意しましょう。ここで引き合いに出される子供は、イエス様を救い主と信じる信仰を持つ子供です。信仰を持つ子供ということに注意すると、先ほどの5節の「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れる」の意味が明らかになります。それは人道支援ではなく、信仰を持つ子供を信仰者の共同体、教会の一員として、しかも大人と対等な一員として受け入れて、その信仰をしっかり守り支える、という意味です。10節でイエス様が「神の御前にいる守りの天使は大人だけでなく、ちゃんと子供にもついている、だから子供を見下してはならない」と教えていることにも注目しましょう。イエス様を救い主と信じる者は、大人だろうが子供だろうが、皆全く同じくらいに「罪の赦しの救い」と「神の国への迎え入れ」を持つのです。

6節から9節にかけて、「つまずき」の問題が出てきます。「つまずき」とは原語のギリシャ語でスカンダロンσκανδαλονといい、正確には「つまずかせるもの」という意味です。日本語でも英語借用語としてスキャンダルという言葉があります。日本語で「醜聞」と訳されることがあります。昨今の日本ではニュースで醜聞が多すぎるのではないかと思わされます。それだけ「つまずく」人が多いということなのでしょう。

「つまずかせるもの」は、どう私たちをつまずかせるでしょうか?先ほど申しましたように、私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで「罪の赦しの救い」を所有することができるようになり、この世にあって神の国に至る道に置かれて、今その道を神から力を得ながら歩んでいます。キリスト信仰者とは、自分の肉に宿る古い人間を日々死なせ、洗礼を通して植えつけられた新しい人間を日々育てていく者です。そうした時、「つまずかせるもの」が、古い人間と結託して新しい人間の成長を妨げたり阻止しようとします。暴力をもって信仰を捨てさせようとする迫害もありますが、もっとソフトな誘惑もあります。例えば、「これをすれば君は素敵なことを経験できるぞ。もちろん君の言う信仰には相いれないかもしれないがね。今どきそんな古めかしいことに自分を縛りつけて何になるんだい?」という具合にです。しかし、キリスト信仰者にすれば、神のひとり子が十字架の上で流した尊い血が代償となってこの私を罪と死の支配下から解放してくれたということが最大の自由であります。この世が誘う「素敵なこと」こそが束縛です。イエス様が言われるように、五体満足のまま地獄におちるよりも、五体不満足のまま永遠の命に入れる方がよいというのは、健康や富や名声に恵まれてこの世を生きても、それが自分を造ってくれた神に背いて得られたり、また享受したりするものならば、呪われたものでしかないのです。

しかしながら現実には、「つまずかせるもの」の誘惑に聞き従って、新しい人間を育てることを止めて、古い人間にとどまってしまう人も出てきます。特に若者は、新しく生まれ変わりたい、今とは違う自分になりたい、と希求する心が強いので、洗礼で植えつけられた新しい人間をしっかり見据えていないと、「つまずかせるもの」がひけらかす人間像が何か新しく見えて、本当の新しい人間が古くなったように見えてしまう危険があります。

12節から14節までは、迷い出てしまった1匹の羊と迷わなかった99匹の羊のたとえ話です。もし信仰を持つ子供ないし若者が信仰から外れる道に迷い出てしてしまった場合、父なるみ神は見つかるまで探し出す決意でいるということです。迷い出した者自身が見つけられるのを拒否しない限り、必ず神に見出されて天の御国への道に再び戻して下さいます。洗礼を受けて救いの所有者になったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて生きるようになった人たちが、どうか神によって見つけられますように。

4.

 それでは、イエス様が子供の信仰を引き合いに出して、私たちに信仰について何を教えようとしているのか、それを見てみましょう。大人の信仰に何か問題があるのでしょうか?子供の信仰には、本当に大人が見習わなければならないものがあるのでしょうか?こうしたことを考える時、幼児洗礼の意味を振り返ってみるとよいと思います。

生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授けることに意味があるのかという疑問はキリスト教会の歴史においてしばしば議論されてきました。まだ信仰告白はおろか、言葉さえ発せられない赤子がイエス様を救い主と信じる信仰を持っているかどうかとても疑わしい。洗礼を施すなら、ある程度年齢が進んで、聖書を理解でき、イエス様を救い主と信じますと自分で決意できる段階で授けるのが正しいと考える教派もあります。

ここで、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」は、人間の貢献が全くない100%神の業であった、ということを思い返す必要があります。神が救いを完成品として、どうぞ受け取りなさいと、全人類に差し出して下さっている。「罪の赦しの救い」はまさに神の全人類に対する無償の贈り物です。救われるために人間がすることと言えば、それをただ受け取るだけです。人間が受け身に徹すれば徹するほど、贈り物の無償性がはっきりします。その意味で幼児洗礼ほど、救いが贈り物であることが鮮明になる機会はないのです。逆に言うと、理解力がなければだめだとか、何々しなければ施さない、受けないと言う場合は、贈り物に条件が課せられることになります。その時また、信仰が人間の自由な意思決定に従うものとなって、哲学や思想やイデオロギーのように、人工物化する危険があります。

もちろん、幼児洗礼を受けて、それで全てが解決するということにもなりません。ルター派が国教会となっているフィンランドでも現在多くみられるのですが、幼児洗礼がすっかり形式的な通過儀礼になってしまい、親は教会にも行かず、子供を日曜学校にも行かせない、家庭で一緒にお祈りすることもなければ、神やイエス様について教えることもないということが起きる。そうなると、子供は自分が救いの所有者であることに気づかずに育ってしまう。そのままで堅信礼を迎えてしまうと、そこでよほどの導きに遭遇しない限り、それも形式的な通過儀礼に終わってしまう。その後の人生において、「聖書に書いてある神の御言葉などは時代遅れのもので、そんなものいちいち聞き従っていたら、自由な生き方や自己実現の邪魔になる」と言わんばかりの、無信仰の人が多く出てきます。そのような場合、幼児洗礼で与えられた贈り物はその人にとって何の意味もありません。正確を期して言うと、贈り物の意味自体は消滅しません。贈られた人が意味に目を背けて生きているだけです。そこで、もし、そういう人が信仰に立ち返れば、それは既に与えられている贈り物の意味を再びかみしめて生きることになるので、新たに洗礼を受ける必要はありません。いずれにしても、人が幼児洗礼で受け取った贈り物の意味をわかり、それを携えて生きるようになるためには、家庭の信仰生活の大切さは強調しても強調しすぎることはありません。

ところで、日本ではキリスト教徒は圧倒的少数派で、洗礼を受ける人も家族代々受けるというよりも、人生の歩みの途中で受けるということが多いです。そうなると、信仰を自分の自由な意思決定に従わせてしまう危険がでてきます。青年とか大人になって洗礼を受けるのだから、赤ちゃんのような完全な受け身状態で贈り物を受けるというのは不可能です。しかし、そうであればこそ、理解力を持つ大人は、「受け身に徹すれば徹するほど救いは贈り物になる」という真理の一点に理解力を集中すべきです。「私は自分の能力か何かを持ってこの救いを得た」などと考えてはいけません。2000年前の彼の地で起きた出来事は、今を生きる私のためになされた、とわかったとき、自分の持つ能力、業績、名声その他そういったものは贈り物を受け取る際に意味がないばかりか、邪魔にさえなることに気がつくでしょう。その意味で、子供が有利な地位にあることは否めません。本日の箇所でイエス様が「自分を低くして子供のようになれ」と教えられたのは、まさに、救いを贈り物として携えて生きていけるために必要なことなのです。

最後に、幼児洗礼が孕む問題として、それが子供の信教の自由を制限するのではないと心配されることについて一言申し上げたく思います。日本ではキリスト教徒の親が子供は成長してから自分で決めるべきだとして洗礼を授けないことがよくあると聞いたことがあります。どうして親は、自分が受け取った救いの贈り物は何にも代えがたい素晴らしいものだと信じているなら、どうして自分の子供に同じ素晴らしいものを受け継がせたいと思わないのでしょうか?子供が大きくなって、世界の諸宗教や思想、哲学、イデオロギーを客観的に眺められる知識を築いた後、果たして、自分はこれを選ぼうと言って何かを選ぶでしょうか?私が思うに、そうなると逆に選択するのは難しくなるのではないか、むしろ全てを客観的に眺められる立場でい続けようということになると思います。しかし、もし子供をキリスト信仰を持つ者として育てれば、子供は世界の諸思潮に向き合う際の拠点を得ることになります。その拠点を持つが故に必然的に生まれてくる荒波にも乗り出して行くことになります。そのような拠点を与えることは自由の制限にはならないと思います。さらに、キリスト信仰者の自由とは、何と言っても罪と死の支配下からの自由であり、同時に父なるみ神に対する感謝の念から神の意思に沿うように生きようと志向する自由です。いずれも、イエス様の十字架と復活から生じた自由です。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、主の十字架と復活を語らずして、キリスト者の自由を語るなかれ、です。これをよく肝に銘じておきましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


(* 後注) 5節のギリシャ語原文ですが、τοιουτοは関係形容詞であることに注意して、新共同訳のようなδεξηταιεπι τω ονοματι μουという結びつきで考えないで、τοιουτο επι τω ονοματι μουという結びつきでみるべきではないかというのが私の解決策です。そうすると、「このような私の名に拠り立つ子供を一人でも受け入れる者は、私を受け入れるのである」という意味になります。つまり、イエス様を救い主と信じる子供を受け入れて、その子の信仰をしっかり守り支える者は、イエス様をしっかり受け入れて信じているのである、という意味です。次に来る6節とのつながりで考えると、こちらの方がすっきりするのではないかと思います。

2017年9月18日月曜日

教会にしかない鍵 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2017年9月17日 聖霊降臨後第15主日

出エジプト記6章2-8節
ローマの信徒への手紙12章1-8節
マタイによる福音書16章13-20節

説教題 「教会にしかない鍵」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 本日の福音書の箇所は一回読むとなんとなくわかった感じになります。ああ、イエス様は弟子たちに質問して、人々は「人の子」を誰だと考えているか、と聞くんだな。それに対して弟子たちは「人々は『人の子』を洗礼者ヨハネとか旧約聖書のいろんな預言者だと思っています」と答えるんだな。次にイエス様はペトロに「お前は私を何者と思うか」と尋ねて、ペトロは「メシアです、生ける神の子です」と答えるんだな。それに対してイエス様は、ペトロがそう答えたのは神がわからせたからだ、と言っているんだな。そしてイエス様はペトロを将来のキリスト教会の長にする、教会の鍵を与えると言って、彼を教会内で権威ある地位につけるんだな。なるほど、なるほど、簡単じゃないか。

ところが本日の箇所は本当はとても難しいのです。一つ例を挙げると、イエス様が弟子たちに、人々は「人の子」を誰だと考えているかと尋ねるところです。「人の子」と言うのは、皆様もご存知のように、旧約聖書ダニエル書7章でダニエルがみた預言の幻の中に登場します。今あるこの世が終わりを告げる時、神の国が到来する。それを統治する者が「人の子」です。イエス様は、この「人の子」が誰かということについて、当時の人々の見解を弟子たちに聞いたのです。弟子たちの答えは、洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、エリヤだとかエレミアだとか旧約聖書の預言者の名をあげる人もいます、というものでした。このように「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、イエス様は今度は、それでは弟子たちは彼のことを誰だと思うか、と尋ねます。つまり質問が「人の子」についての人々の見解から、イエス様自身についての弟子たちの見解にかわるのです。これは一体どういうことでしょうか?「人の子」について、人々はああ思っている、こう思っている、と答えた後だから、続く質問としては、それでは弟子のお前たちは「人の子」をどう考えるか、というのが自然な流れではないでしょうか?イエス様の二つの質問 - 「人の子」についての人々の見解とイエス様についての弟子たちの見解 - これらは一体どう繋がっているのでしょうか?

 もう一つ難しいことは、イエス様が弟子たちに自分がメシアであることを人々に話してはならないと命じたことです。メシアとは、これも皆様ご存知のように、ヘブライ語の「油を注がれて聖別された者משיח」という意味です。旧約聖書では神から特別な任務を与えられた者を指し、イスラエルの歴代の王が代表的な例です。そういうわけで、「油注がれた者משיח」はユダヤ民族の現実の王様の印でした。これがバビロン捕囚の後の時代になると次第に、ダビデ王の子孫で将来イスラエルの王国を再建する待望の王様を意味するようになります。さらに紀元前32世紀頃になると、ユダヤ教社会のなかで、今あるこの世の終わりとその後に来る新しい世ということに関心が高まりだします。そうした時、メシアとは、そういう終末の時に現れて、天地創造の神への信仰を守り抜いた者たちを苦難から救い出して、これを死から復活させた者たちと合流させて新しい世に迎え入れてくれる、そういう救い主と考えられるようになります。

さて、イスラエルの王国を再建するダビデ家系の王様を意味するにせよ、また終末の救世主を意味するにせよ、どちらをとるにしても、問題は、なぜイエス様は、自分がメシアであることを人々に話してはならない、と命じたのか?彼が無数の奇跡の業を行ったことは既に多くの人たちに知れ渡っているし、その教えは神から授かったとしか言いようがないくらいの権威をもっていたことも誰の目にも明らかだった。それなのに、なぜズバリ、あの方こそメシアだ、と公に言ってはならないのか?

 三つの目の疑問は、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、そのことをお前にわかるようにしたのは神である、と言って、そのペトロを教会の基にすると言います。「ペトロ」という名前は「岩」を意味するギリシャ語のペトラから来ています。「陰府の力も教会には対抗できない」と言いますが、具体的に何を意味するのか?さらに、ペトロに天の御国の鍵を渡し、ペトロが「地上でつなぐことは天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とは何を意味するのか?ペトロに教会内での権威ある地位を与えるんだな、ということはわかりますが、具体的に何を意味しているのか?

本日の箇所は、以上の三つのことがわからないとわかったことにならないのです。それで、本日の説教ではそれら三つの疑問点、イエス様の二つの質問はどう結びつくのか?なぜイエス様はメシアと公言してはならないと命じたのか?ペトロを土台にして建てられる教会とは何か?これらを明らかにしたいと思います。

2.

最初の疑問。イエス様が「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、今度は彼自身についての弟子たちの見解を質問したことは、どう繋がるか?これを明らかにする鍵は、「人の子」とは何かということです。実は、このダニエル書に出てくる「人の子」というのは、当時のユダヤ民族にとっても、また現代の旧約聖書学の研究者にとってもやっかいな問題でして、それを一礼拝の説教で説明することはほとんど不可能です。大ざっぱで荒っぽい説明になることを承知で話を進めていきます。

初めに触れましたように、「人の子」はダニエル書7章に登場します。この世の終末の時、ある強大な国家が「日の老いたる者」に滅ぼされて、そこで「人の子のような者」が登場します。「日の老いたる者」とは、原語(アラム語のעתיק יומין)の意味では「年齢を無限に重ねた者」、つまり天地創造の神を指します。この神から、「人の子」は王権と権威を授けられて、終末後に現れる神の国を統治します。これがダニエル書の預言です。

ところで、紀元前2世紀半ば頃からイエス様が登場するまでの200年位の間に、パレスチナのユダヤ教社会の中で、「人の子」のことをダニエル書のような新しい世に登場する王だけでなく、ずばりメシア救世主と同一視する思想が現れます。他方で、本日の福音書の箇所が示すように、イエス様の時代の人々は「人の子」を洗礼者ヨハネとかエリヤとかエレミアとか迫害を受けた預言者たちと見なしていました。つまり、迫害を受けた預言者の誰かがこの世の終わりの時に再び現れて、新しい世の神の国の指導者として君臨するというイメージを「人の子」に抱いていたのです。

このように当時の人々が「人の子」のことを、迫害を受けた者と考えていたとすれば、イエス様も十字架の受難を受けたのだから、名だたる預言者のリストに彼を付け加えてもいいではないか、と思われます。しかし、時はまだ、イエス様の十字架の出来事が起きる前のことです。誰もそんなことが起きるなどとは予想もしていなかったので、それは無理です。弟子たちの答えを聞いたイエス様は、人々が「人の子」の正体に自分を含めていないことがわかりました。それで弟子たちに、それではお前たちは私のことを誰だと思うかと尋ねました。イエス様は自分が「人の子」であると知っていて、それで弟子たちに自分を誰だと思うかと聞かれたのです。果たして弟子たちは、あなたこそ「人の子」ですと答えられるだろうか?しかし、イエス様の十字架の受難や死からの復活をまだ見ていない弟子たちにとって、彼を「人の子」とみなすのは無理でした。以上からわかるように、イエス様の一見結びつかない二つの質問は実は、「人の子」を主題にしているという点で結びついているのです。

ペトロは、イエス様のことを「人の子」と答えるかわりに、メシア救世主、生ける神の子である、と答えました。「生ける神」というのは、金や銀や銅や木や石で作った像ではなく、本当に生きていて万物を創造し影響力大の言葉を発する神ということです。イエス様はまさしく「人の子」であると同時に、メシア救世主であり神の子でもあるので、ペトロの答えは「人の子」は抜け落ちたけれども間違ってはいません。興味深いことに、本日の箇所に続く21節から23節にかけて、イエス様はまさに自分の受難について預言されます。つまり、迫害を受けるという意味で自分は「人の子」でもあると明らかにされるのです。「人の子」とは誰かという質問の答えをここで自ら示すのです。

3.

 二番目の疑問は、なぜイエス様は自分がメシアであることを公にしてはならないと命じたかということです。先ほど、イエス様の時代のユダヤ教社会ではメシアについて、二つの思潮、現世的で民族的な英雄として考える思潮と、現世から新しい世の永遠の命へ橋渡しをする救世主と考える思潮、この二つがあると申しました。イエス様は確実に後者の意味での救世主ですが、十字架と復活の出来事が起きる前は、弟子たちもイエス様をどこまでそういう救世主として理解していたか、むしろ現世的民族的英雄観が強かったのではないか、そういうことが福音書の他の箇所から窺うことができます。弟子たちにしてそうでしたから、イエス様を歓呼で迎えた群衆はなおさらそうだったでしょう。

そういうメシア理解がされていた当時のユダヤ教社会において、まだ十字架と復活の出来事が起きる前に、この方はメシアだと広めたらどうなるでしょうか?現世的な民族的英雄として理解されれば、ローマ帝国の支配からの解放を夢見る愛国的ユダヤ人は熱狂するでしょう。しかし、帝国当局は彼を危険な反乱者として断固たる措置をとらなければならなくなるでしょう。他方で、救世主ということを前面に打ち出せばどうなるか?ユダヤ教の指導者たちはそれを神への冒涜と受け取り、やはり抹殺しなければならないということになるでしょう。イエス様に対する疑念は既に高まっていました。もし彼に対する迫害がもっと早く起きてしまったら、エルサレムを舞台にした十字架と復活の出来事は、実際に起きたように起こることができなくなってしまいます。ヨハネ福音書の中に、イエス様が群衆の前で公然と教えを宣べていて、逮捕するまたとない機会だったにもかかわらず、誰も彼に手を下さなかったという不思議な場面があります。ヨハネはそれを「時がまだ来ていなかったからだ」と説明します(730節、820節)。そして、あの運命的な過越祭の直前、エルサレムに入城したイエス様は「人の子が栄光を受けるときが来た」と自ら述べます(ヨハネ1223節)。つまり、「時」が来るまでは、イエス様は無傷でいなければならなかったのです。

イエス様はまさに、私たち人間を罪と死の支配下から救い出して、造り主である神のもとに私たちを贖い出すために、犠牲の生け贄となるべくエルサレムに入ったのです。この世の終わりの時に天地創造の神は最後の審判を司り、全ての民族を裁きにかけるのですが、その神に前もって捧げられた完全無傷な生け贄、それがイエス様でした。以上のような次第で、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、イエス様について正確なことを言うと、エルサレムで実現されなければならない神聖な贖いの業を妨げてしまう恐れがあったのです。この段階でイエス様がメシアであることを公にしてはならないというのは、以上のような背景を考えればよいと思います。もちろん、十字架と復活の出来事の後は逆に、イエス様をメシアであると公けにしてよくなりました。否、公けにしなければならなくなったのです。

4.

 三つの目の疑問は、ペトロを土台にして建てられる教会とは何か、というものです。本日の箇所の17節から19節までのたった3節だけですが、内容がぎっしりですので、じっくり見ていきます。

 まず、17節のイエス様の言葉、イエス様がメシア、生ける神の子であるとペトロに現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ギリシャ語の原文を忠実にみると、「お前に明らかにしたのは血と肉ではない。私の天の父なのだ」です。新共同訳にあるような「人間」ではなくて「血と肉」σαρξ και αιμαと言っています。この「血と肉」というのは、もちろん「人間」を意味する熟語なので、訳のように言っても間違いではないのですが、ただ、それだと、ペトロにわからせたのは神であって誰か他の人間が入れ知恵したのでははない、ということになってしまいます。しかし、そういう意味ではありません。神から霊的な影響力を及ぼされないと人間は単なる血と肉の塊にとどまり、その状態ではイエス様の正体を理解できない、ということです。ペトロがわかったというのは、彼が神から霊的な影響力を及ぼされて、単なる血と肉の塊でなくなった、ということです。

そういうわけで、ペトロがイエス様のことを「メシアです、生ける神の子です」と言った時、彼は神からの霊的な影響力に服していたことになります。ただし、この影響力に服することはまだ決定的ではありませんでした。というのは、皆さんもご存知のように、ペトロはイエス様が十字架に掛けられる直前に主を見捨てて逃げてしまったからです。しかし、十字架と復活の出来事の後は全てが一変しました。まず、霊的な影響力に決定的に服することが聖霊降臨の時に起こりました。それからは、ペトロも他の使徒たちもどんな迫害にも屈せずに、イエス様こそ神の子、救い主メシア、将来再臨する「人の子」であると公けに宣べ伝え始めたのです。そのように見ていくと、十字架と復活の出来事の前に、ペトロがイエス様のことをメシア、生ける神の子と言い表したというのは、霊的な影響力に服することの走りだったと言うことができます。

イエス様の十字架と復活の出来事の後、そしてそれに続く聖霊降臨の後、人間が天地創造の神からの霊的な影響力に服するというのはどういうことかが明らかになりました。それは神がイエス様を用いて実現した人間救済が人間の心にすっと入るようになったということです。どういうことかと言うと、旧約聖書の創世記の初めにありますように、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事で人間の内に罪が入り込み、人間と神との関係は壊れてしまいました。神はそれを深く悲しみ、なんとか関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに万が一、この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。これらが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から取り除かなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、それは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神の関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪からくる神罰を全部彼に肩代わりさせて十字架の上で死なせました。まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりません。神は今度は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間に開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全部自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。イエス様のことを単なる過去の歴史上の人物ではなく、現代を生きる自分自身の救い主とわかるというのは、天地創造の神の霊的な影響力が働いていることを示しています。洗礼を受けるというのは、その影響力に服することを決定的にすることです。

イエス様がペトロを基にして教会を建てると言うのは、教会というのは単なる建物ではなくて、まさに天地創造の神の霊的な影響力に服してもはや単なる血と肉の塊でなくなった者たちから構成されるものを意味します。

このことがわかると、イエス様の次の言葉「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」の意味もわかってきます。この言葉もギリシャ語原文に忠実にみると「陰府の門も教会を圧倒することはできない」です。日本語訳で「力」と言っているのは「門」πυλαι(複数形)です。フィンランド語、スウェーデン語、英語(NIV)の聖書も「陰府の門」と訳しています。(ドイツ語訳Einheitsübersetzungは「陰府の力」でした。)「陰府」(ギリシャ語αδης、ヘブライ語שאול)というのは、死者が安置される場所という意味ですが、これはよく混同されますが、火が燃え盛る地獄(ギリシャ語γεεννα、アラム語גיהנס)とは別のものです(ルカ16章でイエス様がたとえを使って教えている箇所で陰府と地獄が一緒になっていますが、これは例外的です)。火が燃え盛る地獄というのは、今ある世が終わりを告げる時、今ある天と地が創造主の神によって新しい天と地に造りかえられる時、最後の審判が行われて、罪の支配下に甘んじていた者たちがそこに投げ込まれてしまうというように、火の地獄というのは最後の審判の時に出て来るものです。陰府というのは、その日が来るまでこの世を去った者が眠りについている場所です。ルターに言わせれば、この世の痛みや苦しみから解かれて復活の日まで安らかに眠る場所です。

陰府はよく地下にあるイメージを持たれますが、それは埋葬されるのが地面の下だったり墓石の下だったりするためでしょう。しかし、この世の向こう側のことなので、下とか上とかは言えません。いずれにしても、人間は死んで陰府の門を一度くぐってしまうと門は固く閉ざされ、もうこちら側には戻っては来れません。その意味でこの門は何ものをも寄せ付けない力を持っている。ところが、イエス様を救い主と信じる者は、復活の日に復活の命と体を与えられて神のもとに引き上げられる。固く閉ざされた門をぶち破るようにして出てくるのです。教会とはそういう者たちから構成されるので、それで陰府の門は教会を圧倒することはできない、ということになるのです。

 最後に、天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことを見てみましょう。この「地上でつなぐこと、解くこと」は一体何を意味するのでしょうか?まず、「地上で解くこと」から見てみます。これはギリシャ語原文の言葉(λυω)の背景にあるアラム語(イエス様が話していた言葉)の言葉(שרא)から見ると、「地上で許可すること」になります。何を許可するのかというと、天の御国に入れてもらうことです。ペトロが地上で天の御国への入国を認めるとした者は天の方でもそれに倣うということです。「地上でつなぐ」も同様にギリシャ語の言葉(δεω)の背景にあるアラム語の言葉(אסר)からみると「地上で縛りつける、禁止する」という意味になります。天の御国への入国を許可しないということです。つまり、ペトロが地上で天の御国への入国は認めないとした者は天の側でもそれに倣うということです。これで、ペトロに託される鍵が何の鍵であるかが明らかになりました。

ところが、ここで注意しなければならない大事なことがあります。それは、天の御国への入国を許可するか否かを決めるのは、これは最後の審判を司る天地創造の神であって、いくら神からの霊的な影響力に服するとはいえ、人間個人が行う筋のものではないということです。それなら、なぜイエス様はペトロがそれを決められるかのように言っているのでしょうか?イエス様の趣旨を理解するようにしましょう。

神から霊的な影響力を受けてイエス様をメシア、生ける神の子と証したペトロを中心にして、共に聖霊降臨を受けた使徒たちを土台にして教会が誕生しました。先にも申しましたように、教会は神からの霊的な影響力に服する者たちから構成されるものです。ここでのイエス様の趣旨は、天の御国に入れるための鍵、つまり復活の日に死から目覚めさせられて復活の命と体を与えられて造り主の御許に迎え入れらえるための鍵、その鍵はまさに教会にあって、それ以外にはない、ということです。教会は神の御言葉、つまり十字架と復活の業を成し遂げたイエス様を神のひとり子、メシア救い主と証する神の御言葉を持っています。そしてその御言葉を外に伝える役割を果たしています。教会はまた、天地創造の神からの霊的な影響力に服することを決定的にする洗礼を持っています。そして洗礼を受けた者たちに霊的な栄養を与える聖餐式も持っています。この栄養を受けると、神の御心に沿うようにこの世の旅路を歩む力が得られます。このように、教会にこそ、天の御国への鍵があるのです。イエス様は、この鍵と関わりを持ちなさいとおっしゃっているのです。関わりを持たないと天の御国への入国を認めてもらえなくなる、だから関わりを持ちなさい、と促しているのです。この私にはその鍵で扉を開けてもらえるのだろうか、などと心配するには及びません。イエス様を救い主と信じる者が「その鍵で私にも開けて下さい」とお願いすれば、必ず開けてもらえる、そうイエス様は約束されているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン