説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2017年9月17日 聖霊降臨後第15主日
出エジプト記6章2-8節
ローマの信徒への手紙12章1-8節
マタイによる福音書16章13-20節
説教題 「教会にしかない鍵」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所は一回読むとなんとなくわかった感じになります。ああ、イエス様は弟子たちに質問して、人々は「人の子」を誰だと考えているか、と聞くんだな。それに対して弟子たちは「人々は『人の子』を洗礼者ヨハネとか旧約聖書のいろんな預言者だと思っています」と答えるんだな。次にイエス様はペトロに「お前は私を何者と思うか」と尋ねて、ペトロは「メシアです、生ける神の子です」と答えるんだな。それに対してイエス様は、ペトロがそう答えたのは神がわからせたからだ、と言っているんだな。そしてイエス様はペトロを将来のキリスト教会の長にする、教会の鍵を与えると言って、彼を教会内で権威ある地位につけるんだな。なるほど、なるほど、簡単じゃないか。
ところが本日の箇所は本当はとても難しいのです。一つ例を挙げると、イエス様が弟子たちに、人々は「人の子」を誰だと考えているかと尋ねるところです。「人の子」と言うのは、皆様もご存知のように、旧約聖書ダニエル書7章でダニエルがみた預言の幻の中に登場します。今あるこの世が終わりを告げる時、神の国が到来する。それを統治する者が「人の子」です。イエス様は、この「人の子」が誰かということについて、当時の人々の見解を弟子たちに聞いたのです。弟子たちの答えは、洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、エリヤだとかエレミアだとか旧約聖書の預言者の名をあげる人もいます、というものでした。このように「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、イエス様は今度は、それでは弟子たちは彼のことを誰だと思うか、と尋ねます。つまり質問が「人の子」についての人々の見解から、イエス様自身についての弟子たちの見解にかわるのです。これは一体どういうことでしょうか?「人の子」について、人々はああ思っている、こう思っている、と答えた後だから、続く質問としては、それでは弟子のお前たちは「人の子」をどう考えるか、というのが自然な流れではないでしょうか?イエス様の二つの質問 - 「人の子」についての人々の見解とイエス様についての弟子たちの見解 - これらは一体どう繋がっているのでしょうか?
もう一つ難しいことは、イエス様が弟子たちに自分がメシアであることを人々に話してはならないと命じたことです。メシアとは、これも皆様ご存知のように、ヘブライ語の「油を注がれて聖別された者משיח」という意味です。旧約聖書では神から特別な任務を与えられた者を指し、イスラエルの歴代の王が代表的な例です。そういうわけで、「油注がれた者משיח」はユダヤ民族の現実の王様の印でした。これがバビロン捕囚の後の時代になると次第に、ダビデ王の子孫で将来イスラエルの王国を再建する待望の王様を意味するようになります。さらに紀元前3,2世紀頃になると、ユダヤ教社会のなかで、今あるこの世の終わりとその後に来る新しい世ということに関心が高まりだします。そうした時、メシアとは、そういう終末の時に現れて、天地創造の神への信仰を守り抜いた者たちを苦難から救い出して、これを死から復活させた者たちと合流させて新しい世に迎え入れてくれる、そういう救い主と考えられるようになります。
さて、イスラエルの王国を再建するダビデ家系の王様を意味するにせよ、また終末の救世主を意味するにせよ、どちらをとるにしても、問題は、なぜイエス様は、自分がメシアであることを人々に話してはならない、と命じたのか?彼が無数の奇跡の業を行ったことは既に多くの人たちに知れ渡っているし、その教えは神から授かったとしか言いようがないくらいの権威をもっていたことも誰の目にも明らかだった。それなのに、なぜズバリ、あの方こそメシアだ、と公に言ってはならないのか?
三つの目の疑問は、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、そのことをお前にわかるようにしたのは神である、と言って、そのペトロを教会の基にすると言います。「ペトロ」という名前は「岩」を意味するギリシャ語のペトラから来ています。「陰府の力も教会には対抗できない」と言いますが、具体的に何を意味するのか?さらに、ペトロに天の御国の鍵を渡し、ペトロが「地上でつなぐことは天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とは何を意味するのか?ペトロに教会内での権威ある地位を与えるんだな、ということはわかりますが、具体的に何を意味しているのか?
本日の箇所は、以上の三つのことがわからないとわかったことにならないのです。それで、本日の説教ではそれら三つの疑問点、イエス様の二つの質問はどう結びつくのか?なぜイエス様はメシアと公言してはならないと命じたのか?ペトロを土台にして建てられる教会とは何か?これらを明らかにしたいと思います。
2.
最初の疑問。イエス様が「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、今度は彼自身についての弟子たちの見解を質問したことは、どう繋がるか?これを明らかにする鍵は、「人の子」とは何かということです。実は、このダニエル書に出てくる「人の子」というのは、当時のユダヤ民族にとっても、また現代の旧約聖書学の研究者にとってもやっかいな問題でして、それを一礼拝の説教で説明することはほとんど不可能です。大ざっぱで荒っぽい説明になることを承知で話を進めていきます。
初めに触れましたように、「人の子」はダニエル書7章に登場します。この世の終末の時、ある強大な国家が「日の老いたる者」に滅ぼされて、そこで「人の子のような者」が登場します。「日の老いたる者」とは、原語(アラム語のעתיק יומין)の意味では「年齢を無限に重ねた者」、つまり天地創造の神を指します。この神から、「人の子」は王権と権威を授けられて、終末後に現れる神の国を統治します。これがダニエル書の預言です。
ところで、紀元前2世紀半ば頃からイエス様が登場するまでの200年位の間に、パレスチナのユダヤ教社会の中で、「人の子」のことをダニエル書のような新しい世に登場する王だけでなく、ずばりメシア救世主と同一視する思想が現れます。他方で、本日の福音書の箇所が示すように、イエス様の時代の人々は「人の子」を洗礼者ヨハネとかエリヤとかエレミアとか迫害を受けた預言者たちと見なしていました。つまり、迫害を受けた預言者の誰かがこの世の終わりの時に再び現れて、新しい世の神の国の指導者として君臨するというイメージを「人の子」に抱いていたのです。
このように当時の人々が「人の子」のことを、迫害を受けた者と考えていたとすれば、イエス様も十字架の受難を受けたのだから、名だたる預言者のリストに彼を付け加えてもいいではないか、と思われます。しかし、時はまだ、イエス様の十字架の出来事が起きる前のことです。誰もそんなことが起きるなどとは予想もしていなかったので、それは無理です。弟子たちの答えを聞いたイエス様は、人々が「人の子」の正体に自分を含めていないことがわかりました。それで弟子たちに、それではお前たちは私のことを誰だと思うかと尋ねました。イエス様は自分が「人の子」であると知っていて、それで弟子たちに自分を誰だと思うかと聞かれたのです。果たして弟子たちは、あなたこそ「人の子」ですと答えられるだろうか?しかし、イエス様の十字架の受難や死からの復活をまだ見ていない弟子たちにとって、彼を「人の子」とみなすのは無理でした。以上からわかるように、イエス様の一見結びつかない二つの質問は実は、「人の子」を主題にしているという点で結びついているのです。
ペトロは、イエス様のことを「人の子」と答えるかわりに、メシア救世主、生ける神の子である、と答えました。「生ける神」というのは、金や銀や銅や木や石で作った像ではなく、本当に生きていて万物を創造し影響力大の言葉を発する神ということです。イエス様はまさしく「人の子」であると同時に、メシア救世主であり神の子でもあるので、ペトロの答えは「人の子」は抜け落ちたけれども間違ってはいません。興味深いことに、本日の箇所に続く21節から23節にかけて、イエス様はまさに自分の受難について預言されます。つまり、迫害を受けるという意味で自分は「人の子」でもあると明らかにされるのです。「人の子」とは誰かという質問の答えをここで自ら示すのです。
3.
二番目の疑問は、なぜイエス様は自分がメシアであることを公にしてはならないと命じたかということです。先ほど、イエス様の時代のユダヤ教社会ではメシアについて、二つの思潮、現世的で民族的な英雄として考える思潮と、現世から新しい世の永遠の命へ橋渡しをする救世主と考える思潮、この二つがあると申しました。イエス様は確実に後者の意味での救世主ですが、十字架と復活の出来事が起きる前は、弟子たちもイエス様をどこまでそういう救世主として理解していたか、むしろ現世的民族的英雄観が強かったのではないか、そういうことが福音書の他の箇所から窺うことができます。弟子たちにしてそうでしたから、イエス様を歓呼で迎えた群衆はなおさらそうだったでしょう。
そういうメシア理解がされていた当時のユダヤ教社会において、まだ十字架と復活の出来事が起きる前に、この方はメシアだと広めたらどうなるでしょうか?現世的な民族的英雄として理解されれば、ローマ帝国の支配からの解放を夢見る愛国的ユダヤ人は熱狂するでしょう。しかし、帝国当局は彼を危険な反乱者として断固たる措置をとらなければならなくなるでしょう。他方で、救世主ということを前面に打ち出せばどうなるか?ユダヤ教の指導者たちはそれを神への冒涜と受け取り、やはり抹殺しなければならないということになるでしょう。イエス様に対する疑念は既に高まっていました。もし彼に対する迫害がもっと早く起きてしまったら、エルサレムを舞台にした十字架と復活の出来事は、実際に起きたように起こることができなくなってしまいます。ヨハネ福音書の中に、イエス様が群衆の前で公然と教えを宣べていて、逮捕するまたとない機会だったにもかかわらず、誰も彼に手を下さなかったという不思議な場面があります。ヨハネはそれを「時がまだ来ていなかったからだ」と説明します(7章30節、8章20節)。そして、あの運命的な過越祭の直前、エルサレムに入城したイエス様は「人の子が栄光を受けるときが来た」と自ら述べます(ヨハネ12章23節)。つまり、「時」が来るまでは、イエス様は無傷でいなければならなかったのです。
イエス様はまさに、私たち人間を罪と死の支配下から救い出して、造り主である神のもとに私たちを贖い出すために、犠牲の生け贄となるべくエルサレムに入ったのです。この世の終わりの時に天地創造の神は最後の審判を司り、全ての民族を裁きにかけるのですが、その神に前もって捧げられた完全無傷な生け贄、それがイエス様でした。以上のような次第で、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、イエス様について正確なことを言うと、エルサレムで実現されなければならない神聖な贖いの業を妨げてしまう恐れがあったのです。この段階でイエス様がメシアであることを公にしてはならないというのは、以上のような背景を考えればよいと思います。もちろん、十字架と復活の出来事の後は逆に、イエス様をメシアであると公けにしてよくなりました。否、公けにしなければならなくなったのです。
4.
三つの目の疑問は、ペトロを土台にして建てられる教会とは何か、というものです。本日の箇所の17節から19節までのたった3節だけですが、内容がぎっしりですので、じっくり見ていきます。
まず、17節のイエス様の言葉、イエス様がメシア、生ける神の子であるとペトロに現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ギリシャ語の原文を忠実にみると、「お前に明らかにしたのは血と肉ではない。私の天の父なのだ」です。新共同訳にあるような「人間」ではなくて「血と肉」σαρξ και αιμαと言っています。この「血と肉」というのは、もちろん「人間」を意味する熟語なので、訳のように言っても間違いではないのですが、ただ、それだと、ペトロにわからせたのは神であって誰か他の人間が入れ知恵したのでははない、ということになってしまいます。しかし、そういう意味ではありません。神から霊的な影響力を及ぼされないと人間は単なる血と肉の塊にとどまり、その状態ではイエス様の正体を理解できない、ということです。ペトロがわかったというのは、彼が神から霊的な影響力を及ぼされて、単なる血と肉の塊でなくなった、ということです。
そういうわけで、ペトロがイエス様のことを「メシアです、生ける神の子です」と言った時、彼は神からの霊的な影響力に服していたことになります。ただし、この影響力に服することはまだ決定的ではありませんでした。というのは、皆さんもご存知のように、ペトロはイエス様が十字架に掛けられる直前に主を見捨てて逃げてしまったからです。しかし、十字架と復活の出来事の後は全てが一変しました。まず、霊的な影響力に決定的に服することが聖霊降臨の時に起こりました。それからは、ペトロも他の使徒たちもどんな迫害にも屈せずに、イエス様こそ神の子、救い主メシア、将来再臨する「人の子」であると公けに宣べ伝え始めたのです。そのように見ていくと、十字架と復活の出来事の前に、ペトロがイエス様のことをメシア、生ける神の子と言い表したというのは、霊的な影響力に服することの走りだったと言うことができます。
イエス様の十字架と復活の出来事の後、そしてそれに続く聖霊降臨の後、人間が天地創造の神からの霊的な影響力に服するというのはどういうことかが明らかになりました。それは神がイエス様を用いて実現した人間救済が人間の心にすっと入るようになったということです。どういうことかと言うと、旧約聖書の創世記の初めにありますように、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事で人間の内に罪が入り込み、人間と神との関係は壊れてしまいました。神はそれを深く悲しみ、なんとか関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに万が一、この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。これらが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から取り除かなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、それは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。
このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神の関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪からくる神罰を全部彼に肩代わりさせて十字架の上で死なせました。まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりません。神は今度は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間に開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全部自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。イエス様のことを単なる過去の歴史上の人物ではなく、現代を生きる自分自身の救い主とわかるというのは、天地創造の神の霊的な影響力が働いていることを示しています。洗礼を受けるというのは、その影響力に服することを決定的にすることです。
イエス様がペトロを基にして教会を建てると言うのは、教会というのは単なる建物ではなくて、まさに天地創造の神の霊的な影響力に服してもはや単なる血と肉の塊でなくなった者たちから構成されるものを意味します。
このことがわかると、イエス様の次の言葉「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」の意味もわかってきます。この言葉もギリシャ語原文に忠実にみると「陰府の門も教会を圧倒することはできない」です。日本語訳で「力」と言っているのは「門」πυλαι(複数形)です。フィンランド語、スウェーデン語、英語(NIV)の聖書も「陰府の門」と訳しています。(ドイツ語訳Einheitsübersetzungは「陰府の力」でした。)「陰府」(ギリシャ語αδης、ヘブライ語שאול)というのは、死者が安置される場所という意味ですが、これはよく混同されますが、火が燃え盛る地獄(ギリシャ語γεεννα、アラム語גיהנס)とは別のものです(ルカ16章でイエス様がたとえを使って教えている箇所で陰府と地獄が一緒になっていますが、これは例外的です)。火が燃え盛る地獄というのは、今ある世が終わりを告げる時、今ある天と地が創造主の神によって新しい天と地に造りかえられる時、最後の審判が行われて、罪の支配下に甘んじていた者たちがそこに投げ込まれてしまうというように、火の地獄というのは最後の審判の時に出て来るものです。陰府というのは、その日が来るまでこの世を去った者が眠りについている場所です。ルターに言わせれば、この世の痛みや苦しみから解かれて復活の日まで安らかに眠る場所です。
陰府はよく地下にあるイメージを持たれますが、それは埋葬されるのが地面の下だったり墓石の下だったりするためでしょう。しかし、この世の向こう側のことなので、下とか上とかは言えません。いずれにしても、人間は死んで陰府の門を一度くぐってしまうと門は固く閉ざされ、もうこちら側には戻っては来れません。その意味でこの門は何ものをも寄せ付けない力を持っている。ところが、イエス様を救い主と信じる者は、復活の日に復活の命と体を与えられて神のもとに引き上げられる。固く閉ざされた門をぶち破るようにして出てくるのです。教会とはそういう者たちから構成されるので、それで陰府の門は教会を圧倒することはできない、ということになるのです。
最後に、天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことを見てみましょう。この「地上でつなぐこと、解くこと」は一体何を意味するのでしょうか?まず、「地上で解くこと」から見てみます。これはギリシャ語原文の言葉(λυω)の背景にあるアラム語(イエス様が話していた言葉)の言葉(שרא)から見ると、「地上で許可すること」になります。何を許可するのかというと、天の御国に入れてもらうことです。ペトロが地上で天の御国への入国を認めるとした者は天の方でもそれに倣うということです。「地上でつなぐ」も同様にギリシャ語の言葉(δεω)の背景にあるアラム語の言葉(אסר)からみると「地上で縛りつける、禁止する」という意味になります。天の御国への入国を許可しないということです。つまり、ペトロが地上で天の御国への入国は認めないとした者は天の側でもそれに倣うということです。これで、ペトロに託される鍵が何の鍵であるかが明らかになりました。
ところが、ここで注意しなければならない大事なことがあります。それは、天の御国への入国を許可するか否かを決めるのは、これは最後の審判を司る天地創造の神であって、いくら神からの霊的な影響力に服するとはいえ、人間個人が行う筋のものではないということです。それなら、なぜイエス様はペトロがそれを決められるかのように言っているのでしょうか?イエス様の趣旨を理解するようにしましょう。
神から霊的な影響力を受けてイエス様をメシア、生ける神の子と証したペトロを中心にして、共に聖霊降臨を受けた使徒たちを土台にして教会が誕生しました。先にも申しましたように、教会は神からの霊的な影響力に服する者たちから構成されるものです。ここでのイエス様の趣旨は、天の御国に入れるための鍵、つまり復活の日に死から目覚めさせられて復活の命と体を与えられて造り主の御許に迎え入れらえるための鍵、その鍵はまさに教会にあって、それ以外にはない、ということです。教会は神の御言葉、つまり十字架と復活の業を成し遂げたイエス様を神のひとり子、メシア救い主と証する神の御言葉を持っています。そしてその御言葉を外に伝える役割を果たしています。教会はまた、天地創造の神からの霊的な影響力に服することを決定的にする洗礼を持っています。そして洗礼を受けた者たちに霊的な栄養を与える聖餐式も持っています。この栄養を受けると、神の御心に沿うようにこの世の旅路を歩む力が得られます。このように、教会にこそ、天の御国への鍵があるのです。イエス様は、この鍵と関わりを持ちなさいとおっしゃっているのです。関わりを持たないと天の御国への入国を認めてもらえなくなる、だから関わりを持ちなさい、と促しているのです。この私にはその鍵で扉を開けてもらえるのだろうか、などと心配するには及びません。イエス様を救い主と信じる者が「その鍵で私にも開けて下さい」とお願いすれば、必ず開けてもらえる、そうイエス様は約束されているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン