2018年1月29日月曜日

聖書の頭の重いテーマ (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2012年1月22日 顕現節第四主日 スオミ教会

申命記18章15-20節
コリントの信徒への第一の手紙8章1-13節
マルコによる福音書1章21-28節

説教題 聖書の頭の重いテーマ

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の聖書の日課の中で、特に使徒書の第一コリント8章と福音書のマルコ1章の箇所は頭の痛い箇所です。なぜかというと、マルコの方はイエス様が悪霊を追い出す奇跡を行うところで、悪霊追い出しなどというものは真面目に取り上げるべきものではないと思う方が多いと思われるからです。じゃ、聖書に書かれていることは何なのか?作り話か、ということになるのですが、聖書の信ぴょう性は譲らない、という立場で見ていきますと、イエス様は悪霊追い出しをやった。これは聖書にある通りです。加えて、イエス様が弟子たちに悪霊追い出しの権限を与えて、弟子たちがそれを行ったことも聖書に記されている。そうすると、悪霊追い出しというのは、聖書に記録される位に明らかな事例ではあるが、関係するのはイエス様と弟子たちだけで、彼らの後の時代にはないと考えることが出来ます。

他方で、キリスト教会の伝統的な信仰告白で唱えられるように、イエス様は今生きておられ天の父なるみ神の右に座して、全てのものを治められている。それなので、かつての弟子に対するのと同じように、自分が良かれと思う者に悪霊追い出しの権限を与える可能性も否定できない。そうなると、自分がその権限を受けている、という人が必ず出て来る。また、キリスト教でなくても、自分は何々神、何々霊からそういう力を与えられた、という人は沢山いると思います。もし、そういう人が現れて、社会の中に共鳴する下地があれば、たちまち多くの人を惹きつけることになると思います。しかし、悪霊追い出しをする人が言うことは本当にその通りなのか、その通りかそうでないか、どうやって判別できるのか、判別できないと、コントロールできなくなってしまい収拾がつかなくなるのではないか?悪霊追い出しのテーマは、そういうやっかいな問題を伴っています。それで頭が重くなるのです。

しかし、本日の説教用に定められた聖句なので避けるわけにはいきません。本説教では、聖書の信ぴょう性は譲らず、かつコントロールが利かなくなるということはないように解き明しをしていこうと思います。

もう一つ頭が重くなるのは、使徒書の日課である第一コリントの8章です。キリスト教徒が偶像に備えられた肉を食べてもいいのかどうか、という問題です。コリントというのは、現在のギリシャにある町で、そこにある教会に使徒パウロが書いた手紙の部分が本日の日課になっています。当時キリスト教は始まったばかりで、どこでも少数派です。ギリシャ神話の伝統が根強い地域で、神話の神々の神殿があちこちにあり、人々はそこにお参りに行きます。当時の肉の食べ方ですが、まず家畜を神殿で生け贄に供えるものとしてそこで屠ります。それを神殿の祭事の時にみんなで食べるか、またはマーケットに出して売ります。従って、食事に肉料理が出たら、この肉は宗教的儀式を経たものだ、ということは誰でも知っています。さあ、キリスト教徒は違う宗教に供えられて儀式的に扱われた食べ物を食してもよいのでしょうか?似たような問題は、キリスト教が少数派のところではどこでも生じてきます。私たちの住む日本ではどういうことが起こるでしょうか?

同じ第一コリント8章で使徒パウロは、「偶像など存在しない、神々などというものはあっても、神は本当はただ一人のみ、その方が万物を造られたのだ」と言って、万物の創造主としての唯一の神を打ち出します。そういうことを言うと、多神教と言うのか多霊教と言うのか、そういう立場に立つ人は、またキリスト教の独りよがりが始まった、と嫌な顔をするかもしれません。風変わりな奴だ、くらいで見てもらえれば何のこともないのですが、白い目で見られることもあり、それでこの箇所も頭の重くなるところです。でも、定められた箇所ですので、父なるみ神から知恵を祈り求めながら、解き明しに努めていくしかありません。

そういうわけで、本日の説教では悪霊とか偶像について話をします。説教題も初めは「悪霊と偶像」を考えたのですが、道行く人が掲示板を見てどんな顔をするかを考えたら、ちょっと刺激が強すぎはしないかと思い、それで前に掲げたものにしました。

2.偶像と異教の神々

最初のテーマとして、偶像に供えられた肉をキリスト信仰者が食べることについての使徒パウロの考えを見ます。第一コリント8章です。ここでまず、偶像とはそもそも何かということを考えてみましょう。4節に「世の中に偶像の神などはない」と言っています。でも、世界には、これは何々神の像である、というような像は無数にあります。その意味で偶像の神はあります。パウロもギリシャ神話の神々の像があちこちにあることは知っています。どうして、そんなものはない、などと言うのでしょうか?

これは、聖書の神が「生きる」神であることをわかるとパウロの真意が理解できます。旧約聖書のヘブライ語の言い方で、「~をした神は確実に生きておられる。神が確実に生きておられるのと同じ確実さで~が起きる」というものがあります(חי יהוה אשר ~)。立てた誓いが確実に行われることを言うために、神が確実に生きていることを引き合いに出して確実さを高めるのです。神が確実に生きておられることの証明として「~をした」と言う時の「~」とは、例えば「イスラエルの民をエジプトの地から導いた」とか「民をバビロン捕囚から解放して祖国に帰還させた」とか歴史的に大きな事件が言われます(例としてエレミア161415節)。こうした出来事は、神が力を働かせて起こった、まさに神が生きていることの証しだというのです。 

これに対して、聖書の中で偶像崇拝を批判する箇所を見ると、偶像は単なる像にしかすぎず、歴史的事件を起こせるどころか、口があっても話せない、目があっても見えない、耳があっても聞こえない、足があっても歩けない、と指摘されます(例として詩篇11548節)。つまり、生きている神から見たら、偶像は死んでいるのです。そうすると偶像は沢山あるのに、パウロが存在しないと言っているのは、「生きている」偶像は存在しないという意味なのです。

ところが、何々神の像は、見えないことはない、聞こえないことはない、ちゃんと見ておられる、聞いておられる、と言う人もいるでしょう。自分の能力を超えたものをその像が秘めていると思って、像に畏敬の念を覚えるのです。自分の能力を超えたものを像が秘めていると思えれば、像は見えている、聞こえている、ということになります。しかし、像は自分の何を見て聞いているのか、それを教えてくれません。人はどうやってそれを知ることが出来るでしょうか?潜在意識にインプットすれば、夢に出て来るかもしれません。

聖書の神がこの私をどう思っているかは、まず聖書に記された神の意思を知って、その意思に自分を照らし合わせて見ると、神の目から見た自分の姿を知ることができます。また、神は私たちの祈りをいつも聞いていて下さり、祈り求めたことの答えや解決を、私たちの思った仕方でなく、御自分が良かれと思う仕方で、かつ良かれと思う時に必ず与えて下さいます。このように、人が自分の姿を知るにしても、祈り求めたことの答えを得るにしても、それは、いつも神の視点で起こります。もちろん人間は自分の視点を持ちますが、それはいつも神の視点によって軌道修正させられます。聖書の神は、人間が神の視点を自分の視点にすることが出来るように絶えず教育する方と言ってよいと思います。本当に聖書の神は、聖書が完成した後もずっと同じように生きておられ、私たちに力を働かせて下さっているのです。

第一コリント8章に戻ります。パウロは5節で「天や地に神々と呼ばれるものがいる」と言います。生きた偶像は存在しないが、天や地に霊的なものが沢山あって、それぞれみな「神」と呼ばれている、そういう霊的なものは存在すると認めています。これは旧約、新約聖書に共通する見方です。ところが6節をみると、これらの霊的なものは全て天地創造の神に造られた被造物にしかすぎないということが言われます。これも聖書の立場です。他の宗教が聞いたら、自分たちの神が低くランク付けされているようで、あまりいい気持ちはしないでしょう。しかし、聖書には出だしから万物の創造主が登場するので、立場上はそうならざるを得ないのです。

3.偶像に供えられた肉

 前置きが長くなりましたが、本日の最初のテーマに戻ります。キリスト信仰者は違う宗教の儀式を経由してきた肉を食べてもいいのか、という第一コリント8章の問題です。この箇所は、一見するとロジックが分かりにくいと思います。というのは、使徒パウロは、強い信仰者は食べる、弱い信仰者は食べない、と言っているようにみえるからです。私が一番最初にこれを読んだ時、もう30年以上も前のことですが、これは逆ではないか、と思いました。というのは、異教の神に捧げられた肉なんか死んでも食わないぞ、と頑張るのが強い信仰者、逆に食べたら聖書の神を裏切ってしまうのではないか、かと言って周囲に合わせないと仲間外れにされてしまう、と結局おどおどと食べてしまうのは、弱い信仰者ではないかと思ったからです。ところが、30年前私に聖書を教えてくれたフィンランドの神学生は、ここはそうじゃないよ、逆だよ、偶像なんか存在しない!異教の神々なんか天地創造の神の前では何者でもない!そう信じる者は、偶像に供えられた肉なんかなんとも思わずに食べられる、けれど、食べたら偶像や異教の神々の影響が入り込んでしまうことを恐れて食べられないのは、まだそういうものがあると信じているので、弱い信仰者なんだよ、と教えてくれたものでした。それを聞いた私は、そういうことならキリスト信仰者は皆、強い信仰者を目指して別の宗教の儀式に関わるものを自分も受け取って、さらには810節に言われているように、その儀式に結びつく宴にも参加できるくらいになれないといけないのか、などとびっくりしたものでした。

ところが、この説明には私自身しっくりいかないものがあって、なかなか食べられる強い信仰者になろう、という気持ちになれませんでした。結局、自分は弱い信仰者止まりか、でも、弱い信仰者で何が悪い、という気持ちになりました。その後も、この箇所を読むたびに同じ気持ちでした。だって、パウロは弱い信仰者に強くなれと言っておらず、弱いままでいい、自分も同じように食べないから心配するな、と言っているではありませんか。パウロは、偶像や異教の神々をものともしない信仰を強いとは見なしても、それがいいこととか、目指すべきとは言っていません。正確を期して言えば、パウロは他宗教の儀式を経た肉を食べる人を「強い」とは言っておらず、ただ「知識」を持つ者と言っているだけです。パウロが食べることを推奨する意図はないことは、テキストをよく見ればわかります。

81節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と言われます。ここで言う「知識」は学問的な知識ではなく、神はどういう方であるか、その神の意思はなんであるかを知ることです。そういう知識を持つことは人を高ぶらせる。ここで言う「愛」は神に対する愛と隣人に対する愛の両方を含みます。「愛が造り上げる」というのは、キリスト信仰者は各自が一つの体の中の一つ一つの部分であって、それぞれがお互いを支え合いかばい合い高め合って一つの体として成長することを意味します(第一コリント121231節、エフェソ416節参照)。神に対する愛と隣人に対する愛が、そのような成長をもたらします。意外なことですが、神はどういう方か、どんな意思を持たれているか、それを知っている者は高ぶる、というのは、お互いを支え合いかばい合う成長には向かって行けない、ということを暗に言っているのです。

さらに2節を見ると、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、そのひとは、知らねばならないことをまだ知らない」、つまり、知識があるという人もその知識は不十分なのだ、と言うのです。この1節と2節から、知識を持つ者への厳しい見方が明らかです。知識を持つ者が、異教の神に捧げられた肉を食べます。なぜかというと、彼らは、生きた偶像など存在しない、神々などはあってもそれは天地創造の神から見れば単なる被造物で恐れるに値しない、だから食べても痛くもかゆくもない、と言うのです。

ところが、食べられない信仰者もいる。なぜかと言うと、イエス様を救い主と信じて受け入れる前は、ギリシャの神々の神殿で礼拝していたので、その礼拝がどんなものかを知っている。自分は天地創造の神の前に立たされて、私は何もやましいところはなく潔癖です、と言えるかどうかまだ自信がない。だからこそイエス様に助けてもらわなければならないのだが、神殿の儀式を経由した肉を食べて、神の前でやましいところはありません、と果たして言い切れるのか?あの知識を持つ信仰者はそうした肉を平気で食べている、ましてや儀式が行われた神殿の宴で神殿礼拝者と一緒に食事をしている、なんだか食べても問題ないようだ。しかし、このような場合は、食べた後で必ず悔恨が生じるものです。パウロは10節で「その人は弱いのに、その良心は強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」と言っていますが、「良心は強められて」はギリシャ語原文では「良心は造り上げられて」です。1節の「愛は造り上げる」と同じ動詞οικοδομεωです。つまり「良心は変なふうに造り上げられて」という意味で、パウロは痛烈に皮肉っているのです。

パウロの結論は、自分はそうした肉は絶対食べない、理由は「弱い信仰者」がその信仰にとどまれるようにするためです。実は、食べないのが正しいというのは、エルサレムの教会の方針でした。使徒言行録15章を見ると、パウロとバルナバがアンティオキアに派遣される時、さらに二人の同行者が加えられて、先方の教会に対する指示が託されました。まさにその一つが、偶像に捧げられた肉を食べてはいけないというものでした(29節)。

それなら、パウロはなぜコリントの知識を持つ信仰者にはっきりとダメと言わなかったのでしょうか?これはまたいろいろ調べなければ確実なことは言えませんが、今の段階で言えることは、コリントの教会は知識を持つ人や霊的に自信満々の人が多くいて、かなり好き勝手にやっていた教会であったことがパウロの手紙からうかがわれます。そういうところで指示通りのことを正面から言ったらどうなったでしょう?パウロは情けないな、神は万物の創造者と本気で思っているのか?そう思えれば、異教の儀式で一緒にやったって痛くもかゆくもないのに。そんなふうに凝り固まっている人たちに、正攻法でいってもうまく行かないでしょう。パウロがとった論法は、コリントの知識ある信仰者よ、君たちは知識はあるが、それは造り上げていない、高ぶるのと造り上げるのとどっちが大切なのか?造り上げるのが大事だと思うのなら、私に倣いなさい。そういう論法だと思います。私に倣いなさい、というのは、食べるのをやめなさい、ということです。

4.悪霊追い出し

次にイエス様の悪霊追い出しを見ていきます。イエス様が追い出しの奇跡をする相手の悪霊は、本日の箇所にあるように「汚れた霊」ακαθαρτον πνευμαと言われるものと、ずばり悪霊と訳されるδαιμονιονの二つがあります。両者は同じものです。悪霊追い出しのことが多く取り上げられるマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書の中で悪霊が言及されている箇所をざっと見渡すと、悪霊は、何か具体的な病気または病的な状態、異常な状態をもたらすことをしでかします。イエス様の悪霊追い出しは、単発で行う時もあれば、いろんな病気を癒す奇跡を行う時に行うことも多いです。いずれにしても、追い出しをすると、病気が治るのと同じように、悪霊がもたらしていた病的な状態、異常な状態もなくなってみんな普通の健康な人になります。ただ、病気の癒しの時と違い、悪霊が口を聞いてくる時がよくあります。本日の箇所がそうです。悪霊はイエス様が神聖な神の神聖なひとり子であるとわかっていて、またその力もわかっていて、恐れをなしてしまいます。出て行けと言われれば、そのまま出て行くしかありません。

こうして見ると、人間が抱えてしまう病気や病的な状態には二つのタイプ、純粋に病気のメカニズムだけで起こる、病気内部の要因によるものと、病気内部を超えた要因として悪霊がもたらすものの二つがあることになります。病気内部の要因で起きるものは、医学の力で解決にあたりますが、病気外部の要因で起きるものにはイエス様の力が必要になるということです。病気内部の要因で起きる病気をすぐ悪霊によるものと考えて、医学以外のものに頼ろうとすると混乱が生じるでしょう。

それでは、病気内部の要因で起きる病気と外部の要因で起きる病気は、どうやって区別できるでしょうか?イエス様の時代の人たちは、この人は悪霊にやられていますと言ってイエス様のところに連れて行ったので、よく区別ができたようです。ただし、医学が発達していない時代ですので、治癒不能な病気はみんな悪霊のせいにして連れて行ったことも多かったと思います。そう勘違いしたままで癒されたら、悪霊が追い出されたと思われたでしょう。本当は病気内部の要因が取り除かれたのに。しかし、本日の箇所のように、口を聞いてくるものがあれば、これは病気外部の要因となります。さて、これは病気内部の要因に拠る病気、あれは外部の要因つまり悪霊に拠る病気、などと私には区別の仕方はわかりません、わからないままで、そういう二つの病気に対してどう対処したらよいかということを聖書に基づいて見ていこうと思います。

その前に一つ注意する必要のあることがあります。それは、これまで話してきた悪霊というのは、悪魔とは別のものということです。悪魔とは、ギリシャ語で書かれた新約聖書ではサタナーσαταναとか、ディアボロスδιαβολοςと言われます。サタナーとは、サタンのことです。ディアボロスというのは、引き裂く者、バラバラにする者という意味があります。ヘブライ語で書かれた旧約聖書では悪魔はサーターンשטןです。サーターンは、非難する者、告発する者という意味があります。つまり、「神様、この人間は罪深い者で神罰に値しますぜ」と神に告発する者です。神と人間の間を引き裂き、人間が救われないようにと、将来神の裁きを受けて永遠の滅びに道連れにしようとする者、それが悪魔です。悪魔は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエス様を荒れ野で40日間誘惑の試練を与え、イエス様がこれから神の人間救済計画を実行するのを妨げようとしました。しかし、イエス様は悪魔の誘惑を全て跳ね除けたので、神の計画をそのまま実行に移すことが出来、最後の十字架と復活の業を通して、神と人間の結びつきを回復する道を開いたのです。悪魔の企みは失敗したのです。

それでは、悪魔と悪霊とは何が違うのか?どんな関係にあるのかを見てみましょう。マルコ3章、マタイ12章、ルカ11章に次のような出来事があります。悪霊追い出しを行うイエス様を人々が中傷しました。あのナザレのイエスが悪霊を追い出すことが出来るのは彼が悪霊の頭ベルゼブルに憑りつかれているからだ、などと言ったのです。ベルゼブルというのは、カナンの地方の異教の神々の一つです。中傷した人たちは、悪霊の頭にその名前を付けたのです。これに対してイエス様は、サタンがサタンを追い出したら、サタンの国は内乱状態になって自滅してしまうだろう、しかしサタンは今もこれからも存在し続けるのだから、内乱などない、自分が悪霊を追い出す力は天地創造の神からのものである、と言って、彼らの中傷が的外れであることを指摘します。ここでイエス様は、悪霊の頭をベルゼブルと言わずサタン・悪魔と言っています。つまり、サタン・悪魔とは悪霊の頭で、悪霊はサタン・悪魔の手下ということになります。悪魔が、人間を神から引き離して神の罰を受けるように陥れようとする時、悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。

こうして悪魔と悪霊の役割がわかった今こそ、イエス様が成し遂げたことを思い出す絶好の機会となります。悪魔と悪霊は、人間にこれを思い出してほしくないのです。イエス様がゴルゴタの十字架にかかって死なれたのは、それは人間の持っている罪を全部あたかも自分の罪のようにして請け負って、その罰を神から受けるためでした。本当は罪などない神聖な神のひとり子だったにもかかわらず。それだけにイエス様の犠牲というのは、私たち人間のための神聖な犠牲だったのです。しかし、それだけではありませんでした。天地創造の神は一度死なれたイエス様を死から復活させられて、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。こうして、神と人間の結びつきが回復する土台が出来ました。人間は、これらのことがまさに自分のために起こったとわかってそれを信じ、またそれを成し遂げたイエス様を自分の救い主として受け入れると、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しがその人にその通りになって、罪を赦された者として神の前に立たされても大丈夫になり、神との結びつきの中で生きられるようになりました。そして、この世の人生を神から守りと導きを受けて歩めるようになり、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に御許に戻ることができるようになったのです。

まさに十字架と復活の出来事のおかげで、悪魔の企みは破たんし、その力は無になりました。イエス様を救い主と信じる者については、悪魔の企みは本当に破綻し、その力は無になっているのです。そうなると、悪魔よりもランクが低い悪霊どもは、イエス様を信じる者に対してはもっと影響力を持てないと言ってよいでしょう。もちろん、イエス様を信じる者にも病気はあり、苦難はあります。でも、病気は病気内部の要因に拠るものとして、苦難は苦難内部の要因に拠るものとして対処して行くのが混乱が無くてよいと思います。もし万が一、外部の要因に拠るものと明らかになったとしても、忘れてはいけないことがあります。それは絶えず父なるみ神に祈ることです。マルコ9章で、弟子たちが悪霊に取りつかれた子供を助けようとして追い出せなかった出来事があります。結局イエス様が追い出しますが、弟子たちに対して、悪霊追い出しの時に祈りが重要であることを強調します。

そうなると、悪霊追い出しは、むしろイエス様を救い主と信じる人には関係ないもので、信じない人に関係してくるものということになってきます。イエス様や弟子たちの悪霊追い出しもよく見ると、みんな追い出された後にイエス様を信じます。つまり助けられた人たちは、助けられる前はまだ信じていなかった人たちということになります。それでは、イエス様を信じる人は絶対大丈夫と言い切れるのかと聞かれると、100%言い切れる自信はないのですが、そこは、例外はあるかもしれないが、基本はこういうことだということにしたく思います。例外の時、つまり病気外部の要因による病気の時は、先ほども申しましたように祈ることに鍵があることを忘れないようにしましょう。このことは実は、病気内部の要因の時も同じです。その時も祈りは大事です。先にも申しましたように、神は人間が祈り求めたことに答えを与える時、いつも御自分の視点でお与えになります。それなので、例外の時だろうが、通常の時だろうが、神は人間が神の視点を持てるように教育するのは変わりないから、いずれにしても祈りは必須です。

以上、頭の重いテーマでしたが、いろいろ整理できたのではないかと思います。どうでしょうか?詰めの足りないところや、不足のところがいろいろあったと思いますが、それらは後日に譲りたく思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2018年1月22日月曜日

福音、神の国、悔い改め (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2012年1月22日 顕現節第三主日 スオミ教会

エレミア書16章14-21節
コリントの信徒への第一の手紙7章29-31節
マルコによる福音書1章14-20節

説教題 福音、神の国、悔い改め

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所は、旧約と使徒書の箇所も併せて、キリスト教の信仰にとって大事なことが一杯詰まっています。それを全部解き明かして皆さんにお届けするのにどれくらいの時間が必要か考えただけで気が遠くなりそうです。しかし、限られた時間の中で説教しなければならないので、今回は「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの事柄に焦点を絞って解き明しをしていこうと思います。

本日の箇所の出来事の前にどんなことがあったか覚えていらっしゃいますか?イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けて神からの霊を注がれ、この者は神の子であると神から認証を受けました。その後40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的な活動に乗り出します。そこからが本日の箇所です。折しも、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らわれたとの報が入りました。イエス様は、大胆にもガリラヤに乗り込み、人々に教え始めました。新共同訳の文章では「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改め福音を信じなさい』と言われた」と書かれています。「福音」、「神の国」、「悔い改め」と三つの事柄が出て来ます。

2.福音

ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は、原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。「福音」というのは、「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせのことを言います。それでは、特段の良い知らせである「福音」とはどんな良い知らせなのでしょうか?

 「福音」がどんな内容の良い知らせかと言うと、大体以下のようなものになります。イエス様が私たち人間のために十字架の上で犠牲の死を遂げられ、そのおかげで人間は神から罪の罰を受けないで済むようになった、そのイエス様を救い主と受け入れることで人間は神に受け入れてもらえるようになった、神に受け入れてもらえた者として神の守りと導きを受けてこの世を生きられるようになった、たとえこの世から死ぬことになっても、イエス様が復活されたように自分も復活して神の御許に引き上げてもらえるようになった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後、それらにまつわる良い知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。

ところが、本日の箇所ではイエス様はまだ活動を開始したばかりで、十字架も復活もまだ先のことです。それなのに「神の福音」とか「福音を信じなさい」と訳すのは、少し早すぎやしないか?ギリシャ語のエヴァンゲリオンは、「福音」の意味の他に「良い知らせ」もあるのだから、ここは「良い知らせ」と訳した方がいいのではないか?そこで各国の訳を見てみると、英語訳の聖書NIVは、「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelとは訳していません。スウェーデン語の訳は「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」budskapと訳していて、これも福音evangeliumではありません。フィンランド語の訳は、「神の福音evankeliumi、「良い知らせを信じなさい」hyvä sanomaと二つを使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳されていました。

 それでは、十字架と復活の出来事の前だから、エヴァンゲリオンの訳は「福音」ではなくて「良い知らせ」の方がいいのではと言うことになると、今度は、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせだったか、という問題が起きます。もちろんイエス様はギリシャ語ではなくアラム語で話したので、発音した言葉はエヴァンゲリオンではなかったのですが、書かれた記録はギリシャ語のものしかないので、それに基づくしかありません。イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容ですが、これは、旧約聖書イザヤ書527節から5312節を見ればわかります。まず最初の527節をみると次のように言われます。

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」

伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。「平和」ヘブライ語のシャロームשלוםは、意味がとても広く、「救い」を意味することもあります。それで、ここの「良い知らせ」の内容は、「救い」と「神を王に戴く神の国の到来」の二点に絞ってよいと思います。イザヤ書の続きを見ていくと、この「救い」は何を意味し、それが「神を王に戴く国」とどう関係するかが明らかになります。

52812節で、神が廃墟と化したエルサレムに戻り、イスラエルの民に対して捕囚の地バビロニアから帰還せよと呼びかけます。神は、イスラエルの民の祖国帰還を実現し、自分の力を諸国民に示します。つまり、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力でバビロン捕囚から解放され、祖国帰還し、そこで神を王として戴く神の国が実現するということです。

ところが、これに続く5213節から5312節までは、「救い」が違う形で展開していきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。それは、目を背けたくなるほど惨めな姿をしているのだが、実はそれは私たちの痛みと病をかわりに背負ったためであり、私たちの罪がもたらす神の罰をかわりに受けてくれたためであった。それによって私たちは神との間に平和を得ることができ、まさに彼の受けた傷によって私たちは癒された。5311節で神は次のように述べられます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら背負うことによって、人間は神の目に相応しい者になれたのだというのです。ここでの「救い」は、先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が到来するという意味ではなくなっています。むしろ、神の国の中では神の僕の犠牲によって罪が赦され神罰が免れる、ということが「救い」の意味になっています。

このイザヤ書527節から5312節までの箇所で言われる「救い」は、バビロン捕囚がもうすぐ終わるという紀元前500年代終わりにあっては、イスラエルの民の捕囚からの解放と祖国帰還を指すと考えられました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。その場合、身代わりの犠牲で人々を神罰から救う「主の僕」とは、異国の地に連行された捕囚の民と考えられました。イスラエルの民が長い歴史の間に重ねた罪の罰としてバビロン捕囚が起きたのであり、捕囚の民が異国の地で辛酸を舐めるという罰を受けることで、民の罪が赦され、また元に戻れるようになった、と考えられたのです。

ところが、祖国に帰還した後も神の国は実現しませんでした。ということは「救い」も実現しませんでした。確かにエルサレムの神殿と都市は再建されました。しかし、イスラエルの民はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国支配の下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は、諸国民も恐れおののく神の国からは程遠かったのです。さらに、民の間でも、神殿を拠点とする神崇拝が行えていたとしても、それが果たして救いの実現なのかどうか疑問視する声も強く出てきました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり5665章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに次第に、神の国は実は今の世の天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。

そういうわけで、イザヤ書527節から5312節までの預言は未完だったと理解されるようになりました。それでは、いつどうやってこれらの預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた、まさにその時にイエス様が登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。その約束を信じなさい、とイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその神の約束を果たすことになるからです。十字架と復活の後、神の約束についての「良い知らせ」はまさに「福音」として結晶しました。

3.神の国

 イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉が使われています。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、単に時の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。この「時」が洗礼者ヨハネの投獄と重なったのは、ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」を与えることができなくなった、これからはイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのです。

 「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけからみると、空高いどこか、ないしは宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られました。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいですが、神から見たらこちらの方が裏側でしょう。神は、天と地と人間を造られた後、あちら側に引き籠ってしまうことはしませんでした。あちら側から絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。

 ところで、イザヤ書の終わりの方(6517節、6622節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ313節、黙示録211節、ヘブライ122629節など)を見ると、今あるこの世は滅びるという終末についての預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造し、そこで唯一残るものとして神の国が現れてくる。そうすると、「神の国」は天国のことだから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行けるんじゃなかったの?という疑問が起きます。ところがキリスト教には「復活」の信仰がある以上、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。教会讃美歌366番「愛の泉」で明確に歌われています。そうなると、じゃ、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。実はこれもルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に輝く復活の体と命を与えられて蘇らされるということです。

 それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、彼は終末が近づいたと言っていたのでしょうか?そうだとすれば、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままなので、イエス様の言ったことは当たっていなかったことになります。しかし、イエス様は少し違うことを言っていたのです。

 どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業が、神の国が近づいたことと関係があります。イエス様は無数の奇跡の業を行いました。大勢の難病や不治の病の人を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、枚挙に暇がありません。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげたという人道支援の意味もあったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ1411節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上にいて困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ったのか、という疑問が起きます。

 イエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せた、味あわせたのです。神の国とは、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、神の国とは、神がそこに迎え入れられた人の目からことごとく涙を拭い取り、悲しみも嘆きも労苦もないところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神の手によって償われ、逆に悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われるところがあるので、キリスト信仰者は、何事かを成そうとする時、神の意思に沿うようにやるのであれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったことは何もない、とわかるのです。

 このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて、害悪や危険そして死そのものがなく、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されるということもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになって目に前に現れて、「私について来なさい」と言ったら、人間は抵抗できるでしょうか?本日の福音書の箇所の4人の漁師たちの付き従いからわかるように、イエス様の呼びかけの声の中に聞く人を有無を言わさずに従わせる力があったというのは、まさにここにあります。病気が治れと言われて健康に変わったように、悪霊が出て行けと言われて出て行ったように、嵐が静まれと言われて静まりかえったように、「ついて来なさい」と言われたらついていくしかなかったのです。イエス様の呼びかけの声の中には、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神の力が働いていたのです。

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神との結びつきを失って罪を代々受け継いできました。人間は、そのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。罪の汚れが消えなければ神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしても、宗教的な修行を積んでも、人間は心と体と魂に染みついている罪を消去することはできず、自ら神聖なものに変身することはできません。

 人間が神との結びつきを回復できて神の国に迎えられるように問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して福音として結晶した出来事でした。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の身代わりの犠牲に免じて罪が赦されるということが本当に起こり、神との結びつきが回復して、見事に神の国に迎え入れられるのです。これは全て、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを大切に思って下さっていることの現れなのです。多くの人がこのことに気づきますように。

4.悔い改め

 イエス様は、「良い知らせ」を信じなさい、と勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―ですが、基本的な意味は考えを改める、とか、方向転換するという意味です。信仰の観点で意味を考えれば、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。このように「悔い改め」は、一人で籠って反省しまくっているのではなく、あくまで神を前にしての立ち振る舞いです。

 「悔い改める」についてもっと知ろうとするならば、4人の漁師が召し出された出来事を見るとよいでしょう。「人間を捕る漁師にしよう」などと言われて、ついて行った4人は、なんだか宗教団体の勧誘員になるような感じがします。沢山入信させたら、有能な漁師と言われるような。しかし、イエス様の言葉には勧誘とか人集めの意味は一般に思われるほどはありません。理由は、この言葉の背景にあるエレミア書1616節「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる」を見ればわかります。イエス様はエレミア書の神の御言葉を引用しているのです。

 さて、エレミア書1616節に出て来る、神が送る漁師たちが獲る獲物「彼ら」とは誰を指すのでしょうか?17節を見ると、神の目は、彼らの全ての道に注がれている、とあります。「道」というのはどんな生き方をしているかということです。彼らは神に何も隠し立てすることはできず、18節で言われるように、罪の罰を受けることになります。「彼ら」とは、まさに漁師に捕まえられて、神の前に出されて罪や悪行を全て暴露されて裁かれる者たちです。誰のことでしょうか?エレミア書の舞台となっている紀元前500年代初めの文脈で見れば、「彼ら」とは神の意思に背いてばかりいたイスラエルの民と考えられます。彼らは罰を受け、それで国滅びてバビロン捕囚の憂き目にあうのです。あるいは、イスラエルの民を攻撃略奪したバビロン帝国を指すとも考えられます。バビロン帝国も後に罰としてペルシャ帝国に滅ぼされます。

ところが、旧約聖書というのは、書かれている歴史的舞台の中で理解するだけでは不十分なのです。先ほど申し上げましたが、バビロン捕囚からの解放と祖国復帰を預言していると考えられていたことが、実は解放と復帰は実現してもその他のことはまだ実現していない、そういう未完のことが一杯出て来るのです。イエス様もそうした観点に立っています。もし漁師が獲る獲物が紀元前500年代のイスラエルの民ないしはバビロン帝国を指すのなら、彼が4人の男たちを呼び出した時に言った言葉は意味をなしません。イエス様は、漁師が獲る獲物は過去の歴史を越えて今もあるという観点です。つまり人間全てが獲物になります。そして獲物である人間は、エレミア書に即して見れば、神の前に出されて罪と悪行を暴露されて裁きを受けます。漁師はまるで悪人を探し出して捕まえる神の警察官のような者たちです!宗教団体の勧誘どころではありません。

ところが、イエス様の人間を獲る漁師たちにはもう一つ大事な役割がありました。彼らは、十字架と復活の出来事の目撃者になりました。イエス様を救い主と信じれば神から罪の赦しを受けられるという福音を与えられたのです。このように、イエス様が集めて送り出した漁師というのは、人間を神の前に出して自分の本当の姿を知らしめることはしても、それは人を滅ぼすためにするのではない。そうではなくて、人に福音を示して、神の前に出されても大丈夫なのだ、と安心させて、それで人が神の方を向いて生きられるように導く役割を持ったのでした。福音がなくて神の前に出されたら、普通は途方もない絶望に陥るか、または神に背を向けて生き続けるかしかありません。その先には神の裁きしかありません。しかし、福音を示されることで、人は神の前に出されても大丈夫になるとわかり、神の方を向いて生きられるようになって、本当の悔い改めができるのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは神の方を向いて生きる勇気をまさに福音から与えられるのです。このことを忘れないようにしましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン