2018年1月2日火曜日

あわてるな、落ち着け、イエス様が共におられる (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2017年12月31日 降誕後主日

イザヤ書62章1節-5節
コロサイの信徒への手紙1章15-20節
ヨハネによる福音書2章1節-11節

説教題 「あわてるな、落ち着け、イエス様が共におられる」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業についてです。これは福音書の中でよく知られている話の一つです。結婚式の祝宴でお祝いに飲むぶどう酒が底をついてしまった。そこで、イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って、祝宴は無事に続けられたという話です。奇跡と呼ぶには、少し大げさに聞こえるかもしれませんが、結婚式の祝宴はイエス様の時代にも大がかりなものであったことを考えてみるとよいでしょう。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ23メトレテス入りとあります。一つにつき80120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきますし、大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えたというのは、やはり奇跡と言うしかありません。

 この福音書の箇所はまた、イエス様が困難に陥った人を助けてくれる心優しい方であることを述べている箇所としても知られ、結婚式に関わる出来事なので、キリスト教会の結婚式や婚約式での説教にもよく用いられます。あなたたちはこのように見守ってくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような優しい方がついておられるんですよ、というメッセージは、新郎新婦のみならず列席者の人たちみんなに微笑ましい雰囲気を与えるものでしょう。

ところが、この箇所はよく読んでみると、わかりにくいことがいろいろあります。それは、ぶどう酒が底をついた時に、イエス様の母マリアが彼に、もうぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という答えです。「わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文が少しわかりにくいのですが、直訳すると「この件に関して、私とあなたとの間にはどんな関係があるのか」、もう一歩訳し進めると「この件に関して、あなたはわたしに何を求めるのか」という意味になります。そのすぐ後にイエス様は、「わたしの時はまだ来ていないのだ」と続けます。ぶどう酒がなくなった、と言われて、イエス様は、はい、わかりました、ひと肌脱ぎましょう、とは言いません。彼の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離すものに聞こえます。心優しいどころか、何と冷たい人なのかと思わされます。しかも、自分の母親に対して、お母さん、とか母上ではなくて、「婦人よ」とは何と他人行儀も甚だしく、思いやりのない言葉に聞こえます。ところが、このような冷たい答えにもかかわらず、マリアは何を思ったのか祝宴の召使いに、イエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。つまりマリアは、イエス様の一見冷たく聞こえる答えの中に拒否ではないものを感じ取って次の動きに備えたのです。

結果は、大量の、しかも上等のぶどう酒が出てきて、優しいイエス様の面目は保たれます。それにしても最初のやりとりはわかりにくいです。イエス様はあまのじゃくで、素直な方ではないと思わされます。しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくでもなんでもなく、ちゃんと意味の通る会話をしているのです。そのことは、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉を理解できればわかります。以下それを見ていきたいと思います。

2.

その前にもう少し出来事の状況を把握してみましょう。テキストはそんなに詳しく記していませんが、手掛かりはいろいろあります。まず、マリアもイエス様も弟子たちも祝宴に招かれていましたが、興味深いのは「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(23節)と言われ、マリア、イエス様、弟子たちが招かれた、とは言われていないことです。マリアは、ただ単に招かれたイエス様と弟子たちと別扱いです。後の方でマリアは召使たちに命じることもして、召使たちは聞き従っていますから(5節)、彼女は単なるお客様でなくて何か役割を持っていたのではないかと思われます。それならば、ぶどう酒がもうすぐ底をつく時の心配は他人事ではなかったでしょう。

そうすると、マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った時(3節)、それは落ち着きを失って慌てふためいた言い方だったと思われます。それに対してイエス様は、「婦人よ、この件で私に何を求めるのか、私の時はまだ来ていない」と答えました。さて、マリアはイエス様に、お願い、何とかして!と頼んだのでしょうか?それとも、ぶどう酒がない、ぶどう酒がない、ああ、どうしよう、とおろおろしている様子を示しているだけだったのでしょうか?11節をみると、このぶどう酒の奇跡がイエス様が公けに行った奇跡の最初と言われています。そうならば、マリアも弟子たちもイエス様が水をぶどう酒に変える力があるとはまだわかりません。お願い、何とかして、と言うのだったら、早く弟子たちと一緒に買い集めてきて、というお願いになったでしょう。でも、13人の男で500リットルのぶどう酒をどうやって大至急で調達と搬送ができるでしょうか?それが不可能であることはマリアにもわかるはずです。それで、「ぶどう酒がなくなりました」というのは、もう本当におろおろしている状態で言ったのだと思われます。

そうすると、イエス様の言葉は、慌てふためいているマリアを落ち着かせるものであることが見えてきます。お母さん、しっかりして!と言わないで、婦人よ、と少し距離を置いて、この件で私を関与させつつ何をどうしたいのか、言葉に出して言ってみなさい、と促すのです。しかし、マリアとしては、何をどうしたいかはわかりますが、不可能なことなので言葉にしても意味がないと思ってしまいます。そうしたら、何も言えないでしょう。そこでイエス様は言われました。「私の時はまだ来ていない。」いよいよこの言葉の意味を見ていきましょう。

3.

「わたしの時」とはどんな時で、その時が来るのはいつなのでしょうか?ヨハネ12章で、次のような出来事があります。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神や神の国について教え、またユダヤ教社会の指導層と激しい論争を行っていた時でした。地中海世界の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(1223節)。さらに、ヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(171節)。

つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が拷問などの苦しみを受けて十字架にかけられて死を遂げる時、そして十字架の後で神の力で死から復活させられて神の栄光を現わす時のことです。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、これは、人間が全ての罪を神から赦していただくための神聖な身代わりの犠牲となるためでしたから、これは神にとっても人間にとっても大事な時だったのです。さらに、イエス様が死から復活させられたことで、死の力が無力にされて死を超える永遠の命の扉が開かれることになりました。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、神との結びつきを持ってこの世を生きて、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性を与える出来事を起こす時、十字架と復活の時を意味したのです。各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きた後でその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。

そういうわけで、「わたしの時はまだ来ていない」というのはどんな意味かというと、「まだ、私が十字架の苦しみの道に入ってお前たちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神の意思と神の国について教え、神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、それを教えと奇跡の業を通して示していかなければならないのだ。まだ十字架と復活の前の今は、私はお前たちと共にいてこのミッションを行う時なのだ」という意味になります。

4.

 このように「わたしの時はまだ来ていない」というのは、まだ十字架と復活の時ではない、まだおまえたちのもとにいてミッションを行う時だ、という意味だとわかれば、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉は奇跡の業を行うことと関係があるとわかってきます。

イエス様の奇跡の業は枚挙にいとまがありません。大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えた本日の出来事を皮切りに、数多くの難病や不治の病を癒してあげたり、一度息を引き取った人を生き返らせたり、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満腹にしてあげたり、自然の猛威を静めたり、悪霊に憑りつかれている人からそれを追い出したり、と無数にあります。

イエス様がこのように人助けの奇跡の業を数多く行った理由として、イエス様も彼を送った父なるみ神も、優しい愛に満ちた方で困っている人を助けずにはいられない方、というふうに考える向きが多いと思われます。もちろん、イエス様も父なるみ神も優しくて愛に満ちた方というのは否定できないから、そう見ることもできますが、それだけが奇跡の業を行った理由というのは一面的すぎるでしょう。もし、それだけならば、イエス様はなぜもっと地中海の東海岸地方だけでなくてもっと広く世界各地を回って奇跡の業をし続けなかったのか、ということになります。世界各地にはまだまだ病気や飢饉はあちこちにあったのですから。しかし、イエス様は時間一杯とばかり、30歳そこそこでミッションを打ち切ってさっさと十字架の苦しみの道に入られました。しかしそれは、イエス様と父なるみ神にとって、十字架と復活の出来事を起こして、早く神と人間の結びつきを回復して、人間を永遠の命に至る道に置いて歩めるようにすることが何にもましてすべきことだったからです。

イエス様が、十字架と復活の時が来るまで奇跡の業を行った理由として、そのことを通して、人々が彼を神のひとり子であると信じさせるひとつの手段として用いていたことがあります。ヨハネ14章でイエス様は、イエス様がまだ神から送られた方だと実感できないと言う弟子のフィリポに対して、次のように言いました。「フィリポ、こんなに長い間、一緒にいたのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見たものは、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を示してください』と言うのか。わたしが父の内にいて、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におわれる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(14911節)。人間は、ただ言葉で聞いても信じられない、それならば、イエス様が行った業をもとに信じなさい、ということです。

しかしながら、こうした信仰の手段として奇跡を用いることはイエス様自身、問題があることをよくご存知でした。ヨハネ6章で、5千人の群衆がわずかな食糧で空腹を満たされた後、イエス様の後を追いかけてきます。その群衆に対してイエス様は次のように言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(626節)。奇跡を経験した人々は、それをイエス様が神から送られたひとり子であることを示すしるしとまでは捉えるには至らなかった。イエス様のことを、ただ人々の欲や必要を満たしてくれるありがたい方、一緒にいればまだまだいいことがある、そういう期待を持って追いかけてきたことをイエス様は見抜いたのです。奇跡を経験した人が、もしイエス様を神のひとり子と本当にわかって信じることができれば、その人の心は、どうやって自分の必要や欲をさらに満たしてくれるかということから離れて、どうやって自分は神の御心に従って生きることができるか、ということに向けられるようになります。それができるというのは、やはり、十字架の死と死からの復活という、奇跡中の奇跡が起きないとなかなか難しいのです。

このようにイエス様は、人間というものは、言葉だけでは信じられない弱さがあると知って、奇跡の業を信仰に至る手段として用いつつも、それが必ずしも正しい信仰をもたらさないリスクを持っていることを知っていました。このように人間とはしょうもない存在なのです。それにもかかわらず神は、そんな私たち人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにと、しかもその生きる道が死を超えた永遠の命に至る道であるようにするために、イエス様をこの世に送られ、彼を犠牲にまで用いて人間の救いを実現して下さったのです。このような神は、永遠にほめたたえられますように。

5.

 イエス様が母マリアに「私の時はまだ来ていない」と言ったのは、彼はまだ人々と共にいてミッションを行う立場にある、ということを意味します。ミッションの中には、人々を信仰に導くための奇跡の業も含まれますから、このぶどう酒が底をついて祝宴が台無しになり出した状況に対しても、何かしなければならないことは、イエス様自身よくわかっていました。そうすると、イエス様の言葉、「この件に関して、あなたはわたしに何を求めるのか。わたしの時はまだ来ていないのだ」というのは、私の知ったことか、という意味では全くなく、慌てふためくマリアに、あわてるな、落ち着きなさい、私が共にいる、という意味なのです。もちろんマリアも弟子たちも十字架と復活の出来事が起きる前は、イエス様の時とはどんな時かまだわかりません。しかし、マリアに関して言えば、かつて赤ちゃんのイエスを抱き上げたシメオンは、この子は将来神と神の民の間を取り持つ何かとてつもないことをすると預言していたので、何か将来重大なことが起きるとわかっていたでしょう。それが何であるかはまだわからない。しかし、今はまだその時ではなく、この、聖霊の力で生まれたこの方は今私たちと共にいる。そうわかれば、イエス様の答えに拒否の意味は感じられず、言葉では言い表せない形にはならない信頼が彼に対して生まれて、落ち着きを取り戻して、召使たちに待機するよう命じたということになります。

イエス様は大量の水を上等のぶどう酒に変える奇跡を行いましたが、それを行ったのは、自分が神のひとり子であることを示す以外の目的では行うのではない、母親を含めて単に人にお願いされたから自動的にそうしてやるのではない、ということがあることを忘れてはなりません。マリアはイエス様の言葉を聞いて、落ち着きを取り戻し、信頼したのです。

6.

 イエス様とマリアのやりとりは、奇跡が私たちの信仰にとって持つ意味を考えるよい機会かと思います。当時の人たちと違って、私たちの目の前には奇跡の業をそれこそ目の前で行ってくれるイエス様がいらっしゃいません。彼は今、天の御国の父なるみ神の右に座し、再臨の日まではそこから私たち一人一人に対して大抵は見えない形で働きかけられます。もし、イエス様が当時のように私たちの目の前におられ、奇跡の業を行ってくれれば、私たちも信じやすくなるのにな、と私たちは思いがちです。ここで、イエス様の奇跡を受けたり目撃したりした当時の人たちと私たちの間には大きな違いがあることに注意しましょう。当時、奇跡を目のあたりにした人たちは、「イエス様の時」がまだ来ていない時に生きていました。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前に生きて奇跡を目撃した人たちでした。私たちはと言えば、十字架と復活の出来事の後の時代を生きる者です。イエス様の時が来た後の時代を生きる者です。この違いは決定的です。

しかし、ここに大事なポイントがあるのです。どういうことかと言うと、イエス様の同時代の人たちも、やがて十字架と復活の出来事を目撃して、イエス様が神の子であることが、これ以上の証拠はいらないという位にわかって信じることになりました。その結果、自分の必要や欲を満たしてくれるから神の子として認めてやるという考え方は消え去りました。自分を犠牲にしてまで人間と神との結びつきを回復しようとされた救い主として信じるようになったのです。それで、どうしたら神の御心に沿う生き方ができるかを真剣に考えるようになったのです。実は私たちも、このように十字架と復活の出来事の後、つまり「イエス様の時」が来た後に、心が入れ替わった信仰者と同じ立場にあり、同じ信仰を持っているのです。自分の置かれた状況や境遇に振り回されない信仰です。落ち着きを取り戻したマリアが抱いた不思議な信頼、イエス様に全てを任せられる信頼を私たちも持てるのです。この信頼があれば、あとはイエス様が私たちの思いと予想を超えることをして下さいます。マタイ2820節で死から復活されたイエス様は弟子たち、そしてイエス様を救い主と信じる者たちに言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」皆さん、イエス様が共にいて下さいます。このことを忘れないようにしましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン