2023年12月28日木曜日

クリスマスの祝い方 (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

降誕祭前夜礼拝説教 2023年12月24日

スオミ・キリスト教会

 

ルカによる福音書2章1-20節

 

説教題 「クリスマスの祝い方」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

1.

 

 今年もクリスマス・イブの日となりました。クリスマスはお祝いのシーズンということで、毎年あちこちにクリスマスツリーが飾られ、イルミネーションが輝き、デパートやお店ではクリスマスプレゼント用の品物が山のように並び、レストランではクリスマスディナーが振る舞われ、あちこちにクリスマスソングが響きます。

 

 そうしたお祭り、お祝いの雰囲気に今年は違和感を覚える人もいます。というのは、ウクライナの戦争が続いている上に、今年は10月からのイスラエルとガザの戦争が連日ニュースで伝えられ毎日のように悲劇的な映像を目にします。さらに、こうした大きなニュースになる国々の陰で世界のあちこちで紛争や内乱があります。世界中で戦火に巻き込まれて苦しんでいる人が大勢いるのに、お祝いする気になんかなれないというのは、もっともなことと思います。

 

 そもそもクリスマスは何をお祝いする日なのか?イエス・キリストというキリスト教の大元になる人の誕生日ということは多くの人が知っています。ただ、自分はキリスト教徒じゃないから、イエス・キリストの誕生日は関係ないというのが大半かと思います。しかし、だからと言ってお祝いをしないかと言うと、意外とそうではありません。きっと多くの人たちは新年の前に過ぎ去る一年を労うようなお祝いみたいのがあってもいいじゃないかということではないかと思います。それでか、クリスマスというキリストに関係する言葉を避けて、この季節をホリデ―シーズンと言ったり、挨拶も季節の挨拶シーズンズ・グリーティングスなどと言い換えたりします。それで、華やかに豪華に年末のお祝いをするのですが、今のように世界の悲惨な状況がすぐ目の前に飛び込んでくるようになると、お祭り気分になれないという気持ちになると思います。

 

 キリスト信仰者は、もちろんイエス・キリストを前面に出してクリスマスをお祝いするのですが、信仰者でない人たちから見たら、今のような世界情勢の中でどうしてお祝いする気分になれるのかと驚かれるかもしれません。特に、先ほど読んだ聖書の個所の次の2つのことがこの疑問を強くします。それは、天使が羊飼いたちに言った言葉、「救い主がお生まれになった」と、もう一つ、大勢の天使たちが賛美して言った「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉です。「地には平和、御心に適う人にあれ」というのは、ギリシャ語の原文が詩的な文章なので正確な意味がつかめにくいです。一つには、「地上では神の御心に適う人に平和がありますように」という希望を表明していると捉えられます。もう一つは、、「地上では神の御心に適う人に平和があるんだ」と、そういう人たちに平和があるという常態を述べているとも捉えられます。

 

 しかしながら、希望にしても常態にしても、今の世界情勢の現実を見ると、そんなのは常態からほど遠いし、そんな希望も打ち砕かれてしまう状況があるではないかと反論されると思います。それに、「神の御心に適う人たちに平和がある」などと言ったら、戦争のさなかにいる人たちは神の御心に適わないのか、逆に戦争のないところにいる人たちは神の御心に適うのか、となってしまいます。また、「救い主」が生まれたと言っても、悲惨な状況から救われない人たちが沢山いるではないか、救いなど全然ないではないかと反発を受けたりします。

 

 そのような反発は、「救い主」や「平和」をただ言葉のイメージだけで考えると出てきやすいと思います。そこで、今少し立ち止まって、聖書が伝える「救い主」とは何か、「平和」とは何かを見てみようと思います。それがわかると、今のこの混乱と悲惨に満ちた時代の中にいても、イエス・キリストの誕生を素直にお祝いできるようになります。これからそのことを見ていきます。

 

2.

 

 「神の御心に適う人に平和がある」の「平和」とは何か?戦争がない平和でしょうか?もちろん、それも含まれますが、キリスト信仰で一番大事な「平和」は神と人間の間に平和な関係があるということです。神と人間が対立関係にないということです。神と平和な関係があれば、たとえ自分の周りは平和が失われた状況でも、自分と神との平和な関係は失われていない、周りが平和か混乱かに関係なく自分には失われない平和がある、そういう内なる平和です。使徒パウロは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者にはこの平和があると教えます(ローマ5章)。そして、神と平和な関係にある信仰者は周囲の人たちと平和な関係を築くのが当然になると教えました(12章)。周囲の人たちと平和な関係を築けるかどうかがキリスト信仰者のあなたの肩にかかっているのであれば、迷わずにそうしなさいと。相手が応じればそれでよし。相手が応じない場合でも、相手みたいに非友好的な態度はとらないということです。神との平和な関係が築けたら、そうするのが当然だと言うのです。

 

 次に「救い主」についてみてみましょう。普通、「救い」とか「救われる」と言う時、それは何からの「救い」、「救われ」でしょうか?普通、病気が治った時とか、何か危険な状態から脱することが出来た時、救われたと言います。もちろん、そういうことも含みますが、キリスト信仰の「救い」、「救われる」で一番大事なことは次のことです。つまり、神との平和な関係を壊していた原因が除去されて、神との平和な関係を築けることが「救い」です。それでは、神との平和な関係を壊していたものは何か?それは、人間誰しもが神の意思に反することが備わっているということです。その神の意思に反することを聖書は罪と言います。罪という言葉を聞くと、普通は法律で罰せられるような犯罪行為を考えます。もちろん、それも含みますが、キリスト信仰で「罪」と言ったら、もっと広く、行為には出なくても心の中で持ってしまっても罪になります。それで法律で罰せられないものも神の目から見たら罪になります。まさにこのために神と人間の平和な関係が失われていたのでした。これを放置しておくと、人間はこの世を生きる時、神に背を向けたまま、神との結び付きを持たないで生きることになってしまいます。そして、この世を去る時も、神と結び付きがないまま、全くの一人で未知の世界に飛び立たなければならなくなってしまいます。

 

 創造主の神は、この罪の問題を解決して人間が自分と平和な関係を築けるようにしようと、それでひとり子のイエス様をこの世に贈ったのでした。この神のひとり子は、人間のすべての罪を全部自分で引き受けて、ゴルゴタの十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれました。神聖な神のひとり子が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったのです。さらに神はイエス様を想像を絶する力で死から復活させて、死を超える命があることをこの世に知らしめ、人間も将来の復活の日に復活に与れる可能性を開いて下さいました。あとは人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主であると信じて洗礼を受けると、ひとり子が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされ、神との間に平和な関係が打ち立てられます。神と平和な関係があれば、この世の人生で逆境だろうが、順境だろうが、何も変わらない神との結び付きを持てて生きることになります。そして、この世を去る時、神との結び付きを持って去り、復活の日に眠りから目覚めさせられて、朽ち果てた体に換わる朽ちない復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられます。このような、今のこの世と次に来る世にまたがって神との結び付きを持って生きられることが、キリスト信仰の救いです。

 

3.

 

 このようにキリスト信仰で「平和」と言ったら、一番大事なものは「神との平和」であり、「救い」と言ったら、一番大事なものは「罪の赦しの救い」です。これらは全部、父なるみ神が御子イエス様を通して私たち人間に準備して下さいました。神は、それを受け取りなさいと言って、私たちに差し出して下さっているのです。これを受け取らないという手はありません。ただ単に受け取るだけで、神との平和と罪の赦しのお恵みを自分のものにすることが出来るのです。どうやって受け取るかと言うと、洗礼を受けることで受け取れます。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まることで、受け取ったものを携えて歩むことができます。

 

 なので、クリスマスでイエス・キリストの誕生を神に感謝してお祝いするというのは、単に一人の赤ちゃんが不運な境遇の中で無事に生まれて、ああ、良かった、おめでとう、というお祝いではないのです。このひとり子のおかげで、私たちがこの混乱と悲惨が渦巻く世の中にあっても、神との結び付きを持って歩めるようになった、それで、そのひとり子を贈って下さった神に感謝してお祝いをするのです。だからキリスト信仰者は、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの中で眠っている赤ちゃんを心の目で見る時、同時にその先にあるイエス様の十字架の死と死からの復活をも心の目で見るのです。

 

 それは、あたかも、長くて暗いトンネルの向こうに光があるのを見るのと同じです。真っ暗闇の中にいる人は、自分がどこにいるのか、どこに向かっていいのかわかりません。キリスト信仰者には、自分はどこにいて、どこに向かっていいのかがわかる光があるのです。罪の赦しの救いと神との平和の関係をもたらしてくれたイエス様がその光です。イザヤ書91節のみ言葉の通りです。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」 ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの中で安らかに眠る赤ちゃんにこの光を見ることが、キリスト信仰者にとってクリスマスのお祝いの一番なくてはならないものです。それがなかったら何もお祝い出来ないというくらい大事なものです。そのお祝いでは、この光を与えて下さった神に感謝します。

 

 キリスト信仰者が光を見、神に感謝するのは、周囲が平和な時か平和でない時かは関係ありません。平和で品物に不自由しない時、お祝いの雰囲気を高めようと品物や食べ物を用いますが、それは光に置き換えることは出来ないと信仰者はわかっています。逆に平和がなくて品物や食べ物がない時でも、光はそれと無関係に輝いていることをキリスト信仰者は心の目で見ています。それはさながら、暗闇の方が光がよく見えることと同じです。逆に周りが明るいと光は見えなくなってしまいます。それは、平和の時に品物や食べ物に囲まれてしまってイエス様の光が見えなくなってしまうことと同じです。それだからこそ、この日、あのベツレヘムの夜、電気も街頭もイルミネーションもない、ただ夜空の星と月だけの天然の照明の夜、馬小屋の中は油か蝋燭の光が頼りだったあの夜、ヨセフとマリアと羊飼いと集まってきた人たちに囲まれて安らかに眠る赤ちゃんを心の目で見ることは本当の光をみることになるのです。

 

 ヨハネ福音書114節のみ言葉は、神の言葉ロゴスであるひとり子が人間として生まれて神の栄光を現していたことを述べています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2023年12月18日月曜日

イエス・キリストという光を持つ者は闇の世の中で輝く (吉村博明)

 説教者 吉村博明牧師(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 

 

2023年12月17日(待降節第三主日)スオミ教会

 

イザヤ書61章1-4、8-11節

テサロニケの信徒への第一の手紙5章16-24節

ヨハネによる福音書1章6-8、19-28節

 

説教題 「イエス・キリストという光を持つ者は闇の世の中で輝く」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.  洗礼者ヨハネとその洗礼について

 

本日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネに焦点が当てられています。ヨハネは来るべきメシア救世主を人々がお迎えするように準備をした人です。少し歴史的背景を述べますと、彼はエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章によればイエス様より半年位早くこの世に誕生しました。神の霊によって強められて成長し、ある時からユダヤの荒れ野に身を移して神が定めた日までそこにとどまっていました。らくだの毛の衣を着て腰には皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。神の定めた日がきて神の言葉がヨハネに降り、荒れ野からヨルダン川沿いの地方に出て行って「悔い改めよ、神の国は近づいたのだから」(マタイ32節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の群衆がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネに罪を告白し洗礼を受けました。これがいつ頃のことかと言うと、ローマ帝国の皇帝ティベリウスの治世15年の時でした。ティベリウスはイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位しました。治世15年というのは即位の年を含めて数えるのかどうか不明なのですが、どっちにしても洗礼者ヨハネの活動開始は西暦28年か29年ということになります。

 

 ヨハネは活動開始してからまもなく、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの不倫問題を諫めたことが原因で投獄され、無残な殺され方をします。

 

 さて、ヨハネのもとに大勢の群衆がやって来て罪を告白して洗礼を受けました。当時の人々は旧約聖書に預言されている「主の日」と呼ばれる日がついに来たと考えたのでした。「主の日」とは旧約聖書の預言書によく出てくるテーマで、神がこの世に対して怒りを示す日、想像を絶する災いや天変地異が起こって神の意思に反する者たちが滅ぼされる日です。しかし、その後に全てが一新されて天と地も新しく創造されるので、「主の日」は今の世が新しい世に変わる通過点とも言えます。洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人々はいよいよその日が来たと思い、神の怒りや天変地異から助かるために、罪から清められようと罪を告白して洗礼を受けたのでした。

 

 当時の人たちがそういう終末論的な恐れを抱いていたことは、本日の福音書の個所からも窺えます。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちがヨハネに、あなたは預言者エリアかと尋ねます。これは、旧約聖書のマラキ書3章の預言に関係します。エリアはイエス様の時代からさらに800年位前に活動した預言者で、列王記下2章に記されているように、生きたまま天に上げられました。マラキ書の預言に基づき神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送られると信じられていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではない、ましてはメシア救世主でもない、自分はイザヤ書40章に預言されている、「主の道を整えよ」と叫ぶ荒れ野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日やこの世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、メシア救世主が来なければならない。自分はその方のために道を整えるために来た。そうヨハネは自分の役割について証しました。

 

 さて、ヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けました。それは清めのジェスチャーのようなもので、罪の赦しそのものが起こる洗礼ではありませんでした。先週のマルコ1章の中でヨハネ自身認めたように、罪の赦しが起こるためには聖霊が伴わなければならなかったのです。聖霊を伴う洗礼を授けるのは自分の後に来るメシア救い主なのだと。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシアの罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに誘導するものであったと言えます。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではなかったのです。罪を告白したお前は罪の自覚がある、その自覚を聖霊が伴う洗礼の日までしっかり持ちなさい。その日にお前は本当に罪を赦され、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は罪を洗い清める洗礼ではなく、人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。これが、ヨハネが人々に主の道を整えさせたということです。それで、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救世主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。

 

2.聖霊を伴うイエス様の洗礼

 

 それでは、人々はどのようにして聖霊を伴うメシアの洗礼を受けるようになったのでしょうか?それは、次のようなことが起こって始まりました。イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれ、その3日後に神の力で復活させられるという出来事が起きました。イエス様の復活を目撃した弟子たちは、なぜメシアが十字架で死ななければならなかったのかがわかりました。それは、神のひとり子が人間の罪の償いを人間に代わって果たして下さったということでした。実はそのことは既に旧約聖書に預言されていたのですが、少し抽象的な言い方をされていました。それが、イエス様の十字架と復活という歴史的な出来事として起こったのでした。

 

 神がひとり子を用いて十字架の死と死からの復活の出来事を起こしたのは、人間が堕罪の時以来失ってしまっていた神との結びつきを取り戻せるようにするためでした。人間が、これらの出来事は自分のために神がなさせたものだったのだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。これがメシア救い主イエス様の洗礼です。それを受けた人は罪を償われたので、神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきを持って世を生きていくことになります。目指すところはただ一つ、永遠の命と復活の体が待っている天の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれてそこに向かって歩み出します。順境の時にも逆境の時にも変わらずにある神との結びつきを持ってただひたすら進んでいきます。

 

 ところが、罪を赦されたと見てもらえるとは言っても、信仰者から罪の自覚はなくなりません。逆に、神がそれだけ身近な存在になれば、神の意思もそれだけ身近になって、自分には神の意思の沿わないことが沢山ある、罪があるということに一層気づくようになります。もちろん、行為として盗みも殺人も不倫も偽証や改ざんをしていなくても、心の中でそのようなことを思い描いたりします。その時、神は失望して見捨ててしまうかと言うと、そうならないのです。どうしてならないかと言うと、洗礼の時に注がれた聖霊が信仰者の心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けさせて、罪の赦しが揺るがずにあることを示してくれるからです。神のひとり子のとても重い犠牲の上に今の自分があるとわかると、もう軽々しいことはできないという気持ちになります。また今自分が生きている新しい命は揺るがない十字架を土台にしているので、自分の過去の嫌なことが浮上して新しい命を台無しにしようとしても傷一つつけられません。傷は全部イエス様が代わりに負って下さったのです。それがわかると心は安心し平安が得られます。

 

 罪の自覚の呼び覚ましとそれに続く罪の赦しが一体になっているというのは、聖霊が働いていることの現われです。もし聖霊の働きがなければ罪の自覚は生まれません。罪の自覚がないところには罪の赦しもありません。また罪の自覚が生まれても、赦しがなかったら絶望しかありません。そこには聖霊がおられません。罪の自覚と赦しが一体になっているのが聖霊の働きだからです。なぜ聖霊はそのような働きをするのかというと、これを繰り返すことで信仰者と神の結びつきが一層強まっていくからです。人間が神と結びつきを持てて、それを強めるようにすることこそ聖霊が目的とすることだからです。聖霊は、まさにイエス様が設定した洗礼を通して与えられます。

 

 自分を聖霊の働きに委ねていれば、神との結びつきは一層強まり、私たちの内に宿る罪は行き場を失い圧し潰されていきます。罪の本質は、人間と神の間の結びつきを失わせて、人間を永遠の滅びに陥れることにあります。それで悪魔は罪を用います。それは、悪魔の目的が、人間と神の間の結びつきをなくして人間を永遠の滅びに陥れることにあるからです。しかし、キリスト信仰者は、罪にはもうこの結びつきを失わせる力がないとわかっています。なぜなら神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を私たちのために十字架で受けて下さったからです。十分過ぎるほどの償いがなされたのです。しかも、イエス様は死から復活したので死を足蹴にしています。それでイエス様に罪を償ってもらった人を罪は支配下に置けないのです。それがわかったキリスト信仰者は罪に向かって、こう言ってやればいいのです。「罪よ、お前は死んだも同然さ」と。

 

 人間と神との結びつきを弱めるものとして、罪の他に、私たちが遭遇する苦難や困難があります。そのような時、人は、神に見捨てられた、とか、神は怒っている、などと思いがちです。それでイエス様の贖いの業を忘れて、自分の力で神のご愛顧を引き出そうと何か無関係なことをやってしまったり、あるいは、見捨てられたからもう神と関りは持たないという考えになります。しかし、神のひとり子が死なねばならないくらいに本当は私たちが受ける神罰を代わりに受けたという、それくらい神が私たちのためを思って下さったのなら、見捨てたとか怒っているなどと考えるのは間違いです。じゃ、だったら、なぜ苦難や困難があるのか?どうして神は苦難や困難が起きないようにして下さらなかったのか?難しい問いです。しかし、苦難や困難がもとで私たちが神から離れてしまったら、それは悪魔や罪が手を叩いて喜びます。それなので、今こそ苦難や困難を、神との結びつきを失わせるものではなくて、結びつきを強めるものに変えないといけません。でも、どうやって苦難や困難を神との結びつきを強めるものに変えることができるでしょうか?これも難しい問題です。ただ、一つはっきりしていることがあります。それは、神との結びつきがあれば人生は順風満帆だという考えは捨てることです。なぜなら、神との結びつきは順境の時も逆境の時も同じくらいにある、外的な状況や状態に全然左右されないである、というのがキリスト信仰の真理だからです。ゴルゴタの十字架と空っぽの墓に心の目を向ければ、本当にその通りだとわかります。

 

3.イエス・キリストの光を持つ者は闇の世の中で輝く

 

 このように、キリスト信仰者の生き方は罪の自覚と赦しの繰り返しをして神との結びつきを強めていく生き方です。しかしながら、この世には神との結びつきを弱めたり失わせることが沢山あります。それなので、神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世は闇と言うのは間違いではありません。そうすると、神との結びつきを持たせよう強めようとする力は光となります。この闇と光について、本日の日課の前半部分の68節が述べています。そこで、福音書の記者は洗礼者ヨハネのことを、光を証しするために遣わされたと述べます。人々はヨハネ自身が光ではないかと思ったが、そうではなくヨハネは人々の前で、もうすぐその光が現れると表明したのでした。

 

 洗礼者ヨハネが証した光とは何か?それは、まさにイエス様のことでした。イエス様が光であることが15節の中で述べられています。イエス様が光であるとは、それはどんな光なのでしょうか?

 

 まず、イエス様が乙女マリアから生まれて人間の体を持って誕生する前のことが述べられます。この世に誕生する前の神のひとり子には人間の名前はありません。「イエス」という名は誕生した後でつけられた名前です。この世に誕生する前の神のひとり子のことを福音書の記者のヨハネはギリシャ語で「言葉」を意味するロゴスと呼びました。神のひとり子が神の言葉として天地創造の場に居合わせて創造の働きを担ったことが述べられます(23節)。その後で、この神の言葉なる者には命があると言います(4節)。ヨハネ福音書で「命」と言ったら、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神の言葉なる者には永遠の命が宿っているということです。そして、永遠の命は「人間たちの光」であると言います(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文を素直に訳すと「人間たちの光」です。その「人間たちの光」が闇の中で輝いていると言います(5節)。闇とは先ほども申しましたように、神と人間の結びつきを失わせようとする力が働くこの世です。その中で輝く光とは、その結びつきを人間に持たせて強めようとする力のことです。まさにイエス様のことです。それで「人間たちの光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」でイエス様そのものです。

 

 5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。実はこれは解釈が分かれるところです。というのは、原文のギリシャ語の動詞カタランバノーがいろんな意味を持つからです。日本語(新共同訳)と英語(NIV)の訳は「暗闇は光を理解しなかった」ですが、フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語の訳では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。さて、どっちを取りましょうか?悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持っているか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解して、日本語や英語のように訳してもいいかもしれません。しかし、悪魔は罪を最大限活用して人間から神との結びつきを失わせようとするが、それはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまった、なので、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。

 

 キリスト信仰者とは、まさにイエス・キリストという光を持つ者です。なぜなら、神との結びつきを失わせようとする力が働く闇の世の中で、洗礼を受けて神との結びつきを持つようになったからです。キリスト信仰者はまた、闇の世の中で、イエス様を救い主と信じる信仰を携えて、たえず十字架のもとに立ち返って神との結びつきを強めていきます。イエス・キリストの光を持つ者はどのように輝くか、そのことが本日の旧約の日課イザヤ書の個所の中にも言われています。

 

 3節で、悲しみにくれる人たちに慰めが与えられ手が差し伸べられると言われ、また嘆きの時に頭からかける灰に替えて頭飾りが被せられる、嘆きに替えて喜びの香油が注がれる、恐れの霊に替えて栄誉の外套を着せられると言われます。闇の世の中で灰を被った状態、嘆きと恐れの状態にあったのが、神から頭飾りを被せられ香油を注がれ栄誉の外套を着せられるのです。そのようにイエス様の光を持つ者は、闇の世にあって義の木、神の植木と呼ばれ、神の栄光を現す者になると言われます。さらに4節では、光を持つ者たちが廃墟を再建することが言われます。闇の世の中で神との結びつきを失った人たちが結びつきを持てるようにと働く姿があります。

 

 10節から後は、イエス・キリストの光を持つ者の喜びが述べられます。ここで注意しなければならないことがあります。それは、日本語訳の10節で「恵みの晴れ着」と言っているところと、11節で「恵みと栄誉」と言っているところです。ヘブライ語原文ではツェダーカーなので、「恵み」ではなく「義」です。信仰義認の「義」、神から義と認められる、神の目に適う、神に相応しい状態であることを意味する言葉です。「恵み」は正しい訳ではありません。フィンランド語の聖書も「義」と訳しています。「義の晴れ着」、「義と栄誉」にします。そうすると、イザヤ書のこの個所と新約聖書の繋がりが見えてきます。

 

 10節で言われます。父なるみ神は私に「救いの衣服」を着せて下さったと、「義の礼服」で覆って下さったと。それは、あたかも、花婿が頭飾りをつけて儀式に臨むようであると、また花嫁が装飾品で飾られるようであると。また、大地が木々を生えさせるように、また園が種に芽を出させるように、父なるみ神は、その義と栄光を諸国民の前に生え出でさせると言われます。どれを見ても、義は人間が自分の力で獲得するものではなく、神から授与されるもの、神の力で現れるものです。まさにイエス様の十字架の業と復活の業です。使徒パウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた時に神の義そのものであるイエス様を衣のように頭から被せられたのだと言います(ローマ1314節、ガラテア327節)。このことをイザヤ書はイエス様の時代の何百年も前に先取りしたのでした。さすが預言書です。一人一人の洗礼と信仰は、大きな世界と大勢の人々の中では小さな粒のような出来事かもしれませんが、神の目から見たら、闇の世に大打撃を与え、それを覆すような大きな出来事なのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン