2012年3月26日月曜日

不信仰から信仰へ (吉村博明)

 
説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士) 

主日礼拝説教 2012年3月18日 四旬節第四主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて

民数記21:4-9、
エフェソの信徒への手紙2:4-10、
ヨハネによる福音書3:13-21

説教題 不信仰から信仰へ


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.        はじめに 

 本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派というグループに属するニコデモという社会的にも高い地位の人とイエス様の間で交わされた問答の一部です。ファリサイ派というのは、ユダヤ民族が神の民としての神聖さを保てるようにしようと非常にこだわったグループで、当時のユダヤ教社会でも影響力を持っていました。モーセ律法に加えてそれから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に遵守することを唱え自ら実践していました。イエス様が歴史の舞台に登場し、数々の奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派の人たちも付きまとうようになります。この男は群衆に何を吹き込もうとしているのか、と。イエス様が律法や預言に依拠していることは明らかなのですが、何かが違う。イエス様にとって、神の前での清さ、神聖さというのは外面的なものではない。内面を含めた全人格的なものでなければならない。それゆえ、「殺すな」というモーセ十戒第五の戒律は、実際に殺人を犯さなくても、心で他人を憎んだり見下したりしたら、もう戒律を破ったことになる(マタイ522節)。「姦淫するな」という第六の戒律は、実際に婚姻外の性関係を持たなくても、心にそれを描いただけで破ったことになる(同528節)。これは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているのではなく、十戒を人間に与えた神のもともとの意図とはそういう深い所にあるのだと、神の子として父の意図を知らせているのであります。
 
全人格的に神の意図を満たしているかどうかということになると、人間はもはや本質上、神の前で清い神聖な存在になるのは不可能になります。それなのに、人間が自分で作った規則を守ればそれができると信じて自分にも他人にも課そうとするのは滑稽なことであります。イエス様は、ファリサイ派が重視してやまない清めの規則を次々に無視していきます。当然のごとくファリサイ派のイエス様に対する憎悪はどんどん高まっていきます。
 
とは言っても、ファリサイ運動のもともとの動機は純粋なものでしたから、中には原点に立ち返って、神の前の清さ神聖さはこれで保証されるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ヨハネ福音書3章に登場するニコデモは、そのような自省精神を持つファリサイ派であったと考えられます。32節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派が日中にイエス様に向き合うとたいていは批判や非難を浴びせるだけでしたので、夜に一人で出かけるというのは意味深です。案の定、彼はイエス様から人間の霊的な生まれ変わりとか神の愛や人間の救いということについて教えを受けるのであります。その後、ニコデモはファリサイ派のイエス様に対する疑念・反感に距離を置き始めます(751節)。そして、イエス様が処刑された後、亡骸を引き取って手厚く埋葬することに奔走したのであります(1939節)。
 
本日の箇所は、イエス様とニコデモの間に交わされた人間の救いについての問答の一部ですが、その中の316節は特に大事な御言葉です。昨年6月の本横須賀教会での説教で、フィンランドのルター派国教会には献身礼教育なるものがあって、日本の中学2年にあたる子供たちが2週間くらいの合宿形式でルター派キリスト教の教理、信仰生活、教会生活等を学ぶことがあると申しました。そこでは、課題の一つとしていくつかの聖句を暗記できるようにしなければなりません。このヨハネ316節は暗記リスト・ナンバーワンと言ってもよいくらいフィンランドのルター派教会の中で重視されている聖句です。なぜかというと、旧約聖書と新約聖書の双方にまたがって聖書全体を貫く神の人間救済計画の趣旨が要約されているからです。そういうわけで、まず、このヨハネ316節を見ていきましょう。
 
 
2.        ヨハネ316

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
  
 この箇所を理解できるためには、「滅び」とは何か、「永遠の命」とは何かがわからなければなりません。創世記3章に堕罪の出来事が記されています。「これを食べたら神のようになれるぞ」との悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は神から取ってはならないと言われていた実を食べてしまいます。人間は神に対して不従順な存在となり、罪が入り込み、死する存在となってしまいました。人間を造られた神聖な神とその神に造られた人間の間に断絶が生じてしまったのです。この断絶をそのままほうっておけば、人間はただ滅びるだけです。この世でどんなに栄えて栄華を誇っても、この世から死んだ後で、自分を造られた神と永遠に離れ離れの状態に陥ります。これが「滅び」です。神と永遠に離れ離れの状態がどんなものかを理解するには、これと反対の神のもとに永遠にいることができる状態、つまり「永遠の命」がどんなものかをみてみるのが良いと思います。それがわかれば、神と永遠に離れ離れの状態、つまり「滅び」とはその逆のことだとわかるからです。
  
 黙示録2134節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」人が死んだ後で復活して、人間を造った天地創造の神のもとで永遠に生きることになるというのは、以前生きていた世で身に降りかかっていた全てのことが清算されて、もう涙は流さなくていい重荷は負わなくてもいい、そういう完璧な安心安堵の状態に置かれるということです。「最初のものは過ぎ去った」というのは、以前生きていた世にあった天と地が消え去り、そこで苦しみや嘆きをもたらしていた原因も一緒に消え去って、全く新しい天と地にとってかわったということです。そこで復活の命に与る者たちは、黙示録の19章で婚礼の祝宴に招かれた者と呼ばれます(79節)。それは、新しい天と地のもとで彼らが以前生きていた世の労苦を完全にねぎらわれるということです。彼らは、神のもとに永遠にいることになるので、彼らにはもう死は及びません。
 
さて、永遠に神から離れ離れになる滅びの状態とは、今言ったことと全く逆のことになります。まず、復活の命に与れないので、死んだ後は陰府の世界(αδης)にとどまります。以前生きていた世の悲しみ、嘆き、労苦やそれらの原因が解消されず引きずられ、涙を拭われることも労苦をねぎらわれることもありません。加えて、第二の死の危険が彼らを待ち受けています。マタイ福音書25章でイエス様は、悪魔とその手下たちを焼き尽くすために永遠の火が準備されていると述べ、人間のうちある者たちが最後の審判の日にその火に投げ込まれることになると教えています。この同じ火は、黙示録20章でも出てきます。復活の命に与れなかった者は、「命の書」という神の記録に以前生きていた世での生き様が記されます。神はこれに基づいて一人ひとりの行先を決めます(12節)。そのうちの誰が永遠の火に投げ込まれ誰が投げ込まれないかについては述べられていませんが、ひとつ確実なことは、この「命の書」に名前すら載せられないような輩がいて、彼らは即、火に投げ込まれるということです(15節)。この永遠の火があるところは第二の死と呼ばれて(14節)、そこに投げ込まれたら昼も夜もなく永遠に焼かれることになり(10節)、この第二の死というのは永遠に続く死であります。
 
以上みたように、人間は今の世から死んだ後、もし永遠に神から離れ離れになれば、このような悲惨が待っているということを聖書は教えています。堕罪の後の人間の運命はこのようなものとなりました。しかし、それは神の本意ではありませんでした。神は、堕罪で生じた人間との断絶を解消して、もう一度人間が神のもとで永遠に一緒にいられるようにとお望みになりました。しかし、人間は罪と不従順のゆえに死する存在となり、代々死んできたように代々罪と不従順を受け継いできました。神聖な神との断絶をなくすためには、人間に宿る罪と不従順を無力化しなければなりません。しかし、初めに見たように人間は誰も神の御心を100%、全人格的に行うことはできません。この行き詰まりを打開するために、神はひとり子イエスをこの世に送られ、人間の罪と不従順がもたらす裁きと呪いを全て彼に背負わせて、彼に身代わりになってもらって罰を受けさせたのです。私たち人間が堕罪以来、神に負っていた莫大な負債が御子の尊い血を代価として帳消しにされたのであります。さらに神は、十字架で死んだイエス様を死から復活させることで、私たちに永遠の命、復活の命への扉を開かれました。
 
このように人間が永遠の滅びから永遠に神のもとにいられるようにする救いは、神の方で整えてしまったのです。救われるために私たち人間がすることと言えば、この神の整えがこの私のためになされたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この整えられた救いを受け取ることであります。「エフェソの信徒への手紙」28節に、救いは人間の力によるのでなく「神の賜物」つまり神からの贈り物であると記されていますが、まさにその通りであります。
 
ヨハネ316節にもどりましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」天地創造の後で起きた堕罪が原因で、人間を造られた神と造られた側の人間の間に断絶が生じてしまい、人間は永遠に神のもとに戻れず滅びに至る存在になってしまいました。その断絶を解消し人間が永遠に神の御元にいられるようにと、神は独り子を用いて救いを実現されたのです。ここに神が私たち人間をいかに愛しておられるかが明らかになります。このように、ヨハネ316節には、旧約新約全聖書を貫く神の人間救済の趣旨、言い換えれば神の愛が要約されているのであります。
 
 
3.        不信仰から信仰へ
 
 以上みてきたように神は、人間にかわって人間の救いを整えられました。あとは人間の方でそれを受け取ればよいだけとなりました。神の整えられた救いを受け取るというのは、神がイエス様を用いて行ったことというのは、この私のためになさったのだとわかって、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けることです。しかし、人間はみんながみんなこの救いを受け取るとは限りません。なぜこの救いを受け取らない人がいるかと言うと、ひとつには、この神の整えられた救いについてまだ知らされていないということがありましょう。それだからこそ、福音の伝道が必要なのであります。しかしながら、救いについて知らされても、それを受け取らない場合があります。なぜ受け取らないかというと、ひとつの理由として、死んだ後の命など考えるのは馬鹿馬鹿しいと言って現世中心の考えで生きることがあります。もう一つの理由は、死んだ後の命を考えても聖書で教えるのと異なる考え方をする場合があります。異なる宗教を持つことがそれです。こうして現世中心主義と異なる宗教では、かたや非宗教的、かたや宗教的と全く別物である反面、イエス・キリストを救い主と信じない不信仰という点では共通しています。本日の箇所の後半部分(1821節)で、イエス様はこの不信仰について教えます。
 
ヨハネ318節で、イエス様を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言われます。これなど、イエス・キリストを信じない者は地獄行きに定められていると言っているように聞こえ、キリスト不信仰者はきっと、これをキリスト教の独りよがりだと言って憤慨するでしょう。しかし、それは早合点です。先ほども申し上げたように、人間は堕罪以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている。もちろん、人間には善人もいれば悪人もいる。しかし、みんながみんな代々死んできたように、代々罪と不従順を受け継いでおり、この神との断絶は善人といえども免れない。みんながみんな、この世からも死んだ後は永遠に神から離れ離れになってしまう。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道にストップがかかり、永遠の命、復活の命へと軌道修正されるのです。イエス様を救い主と信じない者は何も変わらず、堕罪以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが、「既に裁かれている」という意味です。
 
319節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。永遠に神から離れ離れになるという滅びの道を歩むしかなかった人間のために、神はイエス様を使って「こっちの道を行きなさい」と救いの道を整えて下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは、「既に裁かれている」状態を自ら強化してしまうことになってしまうのです。
 
320節では、人々がイエス・キリストという光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、キリスト不信仰者からみれば、イエス様を信じない者は悪行を覆い隠そうとする悪人で、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れと光のもとに行く人、そう言っているように見えて、キリスト教はなんと独善的かと憤慨するところだと思います。しかし、これも早合点です。キリスト不信仰者は、人間の造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が、自分の造り主に全てお見通しという考えがありません。そもそも、そういうことを見通している造り主を持っていません。
 
キリスト信仰者の場合は、まさに逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意図からどれだけ離れているかが問題になります。結果はいつも離れているので、罪の告白をして、イエス様の身代わりの犠牲に免じて造り主である神から赦しをいただくというプロセスに入ります。ここで注意しなければならないのは、イエス様は「信じる者は善行しかしないので晴れ晴れと光のもとに来る」などとは言っていません。321節で言われるように、イエス様のもとに来る者は、善行を行うのではなく、「真理を行う」のであります。「真理を行う」というのは、自分自身について真の姿を造り主に知らせる、ということです。善行もしたかもしれないけれど、罪と不従順の結果も一緒に白日に晒すということです。全身全霊をもって造り主である神を愛しませんでした、自分を愛するが如く隣人を愛しませんでした、と認めることです。それで、本当ならば以前と同じ滅びの道を進む者であるにもかかわらず、イエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されるのであります。つまり、キリスト信仰者は自分の罪と不従順を造り主である神の目の前にさらけ出すことを辞さないのです。そのために悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ます。これが「真理を行う」ということです。321節に、真理を行うことは「神に導かれてなされた」と言われていますが、まさにその通りです。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善行が人目に付くように明るみに出すためなんかではありません。
 
ところで、キリスト不信仰者はそういうさらけ出すべき造り主を持たないので、イエス・キリストという光が来ても、光のもとに行く理由がありません。(イエス様を信じなかったユダヤ人は、もちろん天地創造の神を持ってはいますが、イエス様を光とみなさないので、光のもとへは行きません。)しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を歩むということであり、そこから人間を救い出したいがために神はイエス様をこの世に送られたのでした。それにもかかわらず、キリスト不信仰者は世界にまだ大勢います。一度イエス様を救い主と信じてもそれがはっきりしなくなったり、またはそうではなくなってしまった人たちも大勢います。人間を救いたい神からみれば、これは大問題であります。本日の箇所のはじめの方で(14節)イエス様は、民数記21章にあるモーセが青銅の蛇を旗竿に掲げた出来事について述べます。毒蛇にかまれて死に瀕したイスラエルの民がこの旗竿の蛇を見ると皆、助かったという出来事です。イエス様は自分にも同じことが起きると預言されます。つまり、十字架に掲げられた自分を信じる者は、滅びから救われて永遠の命を得ると言うのであります。モーセの時は、かまれた人は皆、必死になって掲げられた旗竿の蛇をみました。しかし、掲げられたイエス様をそのように必死に仰ぐ人はまだ少数です。毒が体に回るという緊急事態に比べたら、滅びの道から永遠の命に軌道修正するというのは、身近な緊急なものに感じられないかもしれません。しかし、造り主から永遠に離れ離れになるか、造り主のもとで永遠にいることになるか、これは重大事態であります。どうしたら、このことを多くの人たちに気づいてもらえるでしょうか?私たち一人一人は天地創造の神に造られた者であり、神との間には断絶が生じてしまっているが、イエス・キリストを救い主と信じることで断絶は解消し、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとにいられるようになる、ということを。このことを多くの人たちに気づいてもらえるために、私たちキリスト信仰者は何ができるでしょうか?何をしなければならないのでしょうか?
 
しなければならないことは、はっきりしています。イエス・キリストの福音を宣べ伝えること。これは、2000年近くたった今も、これからも変わりません。ただ具体的に、人の不信仰が信仰にかわることができるためには何をすればよいのか、という段になるといろいろ考えなければなりません。特に、キリスト教または宗教そのものに疑いや反感を持っている人たちは、宣べ伝えに貸す耳など持っていないでしょう。でも愛する肉親や隣人がそういう人なら、キリスト信仰者としては、気づいてほしいと思うのが本当だと思います。その場合は祈りで神に思いを打ち明けて助けをお願いすることから始めます。「天の父なる神様、どうか私にとって大事なあの人が、私同様、天地創造の神であるあなたに造られ、今あなたとの間に断絶が生じてしまっているが、御子イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって断絶が解消し、この世から死んだ後は永遠にあなたのもとにいられる、ということに気づくようにして下さい。そのために、もし私が対話をするのが良いとお思いでしたら、その機会をお与えください。その時は、しっかり話ができるように聖霊の導きをお願いします。」このような祈りを日々の祈りに加えることから始めていくのが良いと思います。
 
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
  

2012年3月12日月曜日

キリストの復活を抱きしめて (吉村博明)


説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士) 
 
主日礼拝説教 2012年3月11日 四旬節第三主日 
 
日本福音ルーテル日吉教会にて
 
出エジプト記20:1-17、
ローマの信徒への手紙10:14-21、
ヨハネによる福音書2:13-21

説教題 キリストの復活を抱きしめて

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 
1.      はじめに 

東日本大震災が起きて、ちょうど一年が経ちました。被災地各地では復興への努力が昼夜を問わず続けられています。しかし、その道のりの遠いことは、故郷を離れて仮住まいを余儀なくされている人たちが今なお30万人にのぼり、岩手、宮城二県で発生しただけでも2千万トンとも言われるがれきの処理がま だ一割にも至っていないことに明らかです。福島第一原発の廃炉には3040年かかると言われています。第二次大戦の敗戦から11年たった1956年に、経済成長が軌道に乗り出していた日本は「もはや戦後ではない」と自称しました。今次の震災復興においては、避難を余儀なくされた方々が故郷に戻ることができ、かつ皆が安心に暮らせるようになってはじめて「もはや震災後ではない」と言えるのでしょう。その日が一日でも早く来るように願って止みません。
 
 大震災後、「がんばれ」をはじめ多くの励まし言葉が使われてきました。電車やバスやタクシーなど交通機関にも「がんばろう、日本!」のステッカーが貼られています。ところで、被災された人々にとって「がんばる」は何を意味するでしょうか。もちろん家屋や職場や財産を失った人にとっては、それらを再興することが目標となりましょう。しかし、長い時間と多くの労力をかけて築き上げたものを再興するというのは並大抵のことではありません。中には何年かかってでもやり遂げるという決意をもって取り組む不屈の精神の人もいます。頭が下がる思いです。しかし、皆が皆そういう人ではありません。特に、肉親をはじめ愛する人を失った人たちにとって、失われた人を取り戻すことは目標にはなりえないので、がんばりようがなく、心に空いた穴は相当なものだろうと思います。「がんばれ」という励まし言葉が、意味をなさず、逆効果になる場合もあるのであります。本当に、励まし、元気づけの言葉はかけてあげなければならないが、どんな言葉をかけてよいのか。元気になってもらいたい以上、空虚な言葉は出したくないし、ましてや重荷に感じるような掛け声は避けなければならないし、今ほど励まし、元気づけの言葉を日本全体で真剣に考えなければならなくなった時はないかもしれません。

さて、イエス・キリストを救い主と信じる私たちキリスト教徒は、このような大きな災難・苦難を前にして、どう向き合わなければならないでしょうか?直接現地に赴いて被災地支援にあたる道を選ぶ方もおられるでしょう。また何らかの事情で今いるところを離れるのが難しいため、間接的な形で支援に関わる人も大勢いるでしょう。現地に赴くにしても、今いる所にいるにしても、キリスト教徒ならば忘れてはならないことがあります。それは、いずれの場合でも、祈りが伴っていなければならないということです。支援そのものは、別にキリスト信仰がなくても、別の宗教の信仰からでも出来ましょうし、また無宗教的なヒューマニズムの精神からでも出来ましょう。しかし、キリスト教徒にとっては、このような苦難を前にしたときはいつも、神との意思疎通である祈りをもって立ち向かっていかなければなりません。
 
それでは、災難・苦難が目の前に立ちはだかった時のキリスト教徒の祈りとはどのようなものでしょうか?何をどう祈らなければならないのでしょうか?この問いを2つの部分に分けて考えてみたく思います。ひとつは、今回の震災のように苦難が遠く離れた他者に及んで自分は当事者でない時の祈り、それはどのようなものになるか、ということ。もう一つは、まさに自分が苦難の当事者になった時の祈りはどのようなものになるか、ということです。
 
本日の福音書の箇所は、イエス様がエルサレムの神殿から商人を叩き出して、ご自身の受難の死と死からの復活を預言するという出来事です。これは、一見して、「苦難を前にした祈りはどのようなものか」という問いには関係がありません。しかし、この出来事が私たちの信仰にどんな意味を持っているか理解できると、この問いの答えも明らかになってきます。そういうわけで、本日の箇所が私たちの信仰に持つ意味を以下にみてまいりましょう。
 
 
2.        新しい神殿としての復活したイエス様

本日の福音書の箇所の出来事の背景である過越祭とは、イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出したことを記念する祭りです。[]祭りの特徴として、酵母の入っていないパンを食べることと、羊や牛を神に対する生け贄として屠り、その後でその肉を食することがありました。紀元前600年代のユダ王国のヨシア王の時に生け贄を屠る場所はエルサレムの神殿のみと定められたので(申命1618節、列王下232123節、歴代誌下3519節)、それ以後は、過越祭になると世界各地のユダヤ人の巡礼者がエルサレムに集まるようになります。もちろん、過越祭の時以外にも神殿では、「焼き尽くす献げ物」、「和解の献げ物」、「贖罪の献げ物」等(レビ14章)、日常的に捧げる生け贄もありましたから、普段も神殿には羊や牛が用意されていたでしょう。しかし、過越祭ではその数は夥しいものになったと考えられます。鳩が売られていたと言うのは、出産した母親の清めの儀式に鳩が献げ物として必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(224節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物を購入したり神殿税を納めるために通貨を両替する必要がありました。
 
 このようにイエス様当時のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよう便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言うことが出来ます。ただし、その便宜を購入する元手がなければ参加できないのは言うまでもありません。このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝や儀式は表面的なものに堕してしまいます。型どおりに儀式をこなしていれば自分は清められたとか、神に目をかけられたとかいう気分に終わる自己満足になってしまいます。自分の生き方そのものが神の御心に適っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。さらに、罪を赦したり、また罪のために損なわれた神と人間の関係を元に戻したりするのは、そもそも神ご自身であるということを忘れさせ、人間が形式的に儀式をこなせば神は元に戻してしかるべきだというような神に対する傲慢さも生まれてきます。実際、イスラエルの預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝や儀式のこうした問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていました(イザヤ書11117節、エレミア書620節、72123節、アモス書44節、52127節など及びイザヤ2913節も)。
 
イエス様も、神殿での礼拝や儀式が表面的なものであることや偽善に満ちていたことを見抜いていました。イエス様は、本日の箇所に描写されているように神殿の境内に大混乱を引き起こしましたが、彼の激怒の理由として、本来ならユダヤ人を超えて世界の人々の礼拝場所となるべき神聖な神殿が(イザヤ567節、マルコ1117節)金もうけを追求する場になり下がってしまったことがありました。イエス様は、神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると、今の礼拝や儀式で満足していた人たちからは当然、「このようなことをしでかすのなら、神の子である証拠を見せろ」と要求されるのであります。その時のイエス様の答え(ヨハネ219節)は、ギリシャ語の原文に忠実に訳すとこうなります。「お前たちはこの神殿を壊してみよ。私は三日でそれを起こしてみせる。」人間が神への不従順と罪を赦される場、神との関係を修復する場として神殿は存在しなければならない。それが今のものでは機能しなくなってしまった。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が登場するというのであります。その新しい神殿とは、どんな神殿でしょうか?
 
ヨハネが注釈しているように(21節)、イエス様は「神殿」という言葉に建物としての神殿と御自分の体の二つの意味をひっかけています。壊された後の三日目に起こされる神殿とは、十字架の死から復活したイエス様を指します。どうして復活した主が神殿になるかと言うと、こういうことです。つまり、神は、創世記の堕罪の時に失われた神と人間の結びつきを回復させようと、そして人間がこの世から死んだ後に神のもとで永遠に生きられるようにしようと決めました。しかし、人間は不従順と罪を代々受け継いでおり、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げている。そこで、それらを全て自分のひとり子であるイエス様に背負わせて十字架の上で死なせた。こうして、罪や不従順と何の関係もない神の子が全人類分の罪の裁きと呪いを一人で背負い、私たちの身代わりとなって罰を受けた格好になったのです。まさにイエス様は犠牲の生け贄になったのです(第一コリント57節、ヘブライ910章)。羊や牛の犠牲の生け贄は毎年繰り返さなければならないものでしたが、イエス様の犠牲の場合は、全人類分の罪の裁きと呪いを全部帳消しにするものです。従って、それ以前の犠牲はすべてご破算、それ以後の犠牲も一切不要になるという一回限りで決着をつけるものでした(ヘブライ92428節)。天と地と人間を造られた神は、このような途轍もない犠牲を御自分で用意されて執行されたのです。しかし、それだけにとどまりません。神は、一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命、復活の命への扉を人間に開きました。私たちは、これらのこと全てが自分のために行われたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼をうける時、この神の整えられた救いをそのまま自分のものとすることができて、永遠の命、復活の命への道を歩み始めることになるのであります。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた以上は、神との関係は永遠に修復されています。神との関係を取り繕うために何かを犠牲に捧げるということは永遠に不要になりました。もし私たちが、人生の歩みの中で罪と不従順に陥るようなことがあっても、「私の身代わりとなって死んだイエス様に免じて赦して下さい」と願い祈ると、神は赦して下さり、私たちはまた永遠の命、復活の命への道に戻ることを許されて歩みを続けることができます。こういうわけで、復活したイエス様というのは、私たちの罪の赦しを実現し、神との関係を永遠に修復したまさに真の、そして最終的な神殿なのであります。
 
 
3.      復活したキリストという神殿にいて感謝を献げる

 イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は皆、罪の赦しを受けて、天と地と人間を造った神との結びつきが回復した者であります。そして、復活の命、永遠の命に至る道を今歩んでおり、この世から死んだ後は、創造主である神のもとで永遠に生きる者であります。この世の人生の歩みでは、復活したキリストという目には見えない神殿を抱きしめている者であります。
 
 神と結びついて永遠の命に至る道を歩んでいるとは言っても、この世の人生の歩みがバラ色になったということではありません。もちろん、いばらの部分も出てきます。無病息災、家内安全、商売繁盛は誰しもが願い求めるものです。しかし、キリスト教徒になったからといって、病気にならないとか、愛する人に先立たれないとか、貧乏にならないとか、そういう保証は全くありません。人生の道のりでいばらの部分の割合は、キリスト教徒であってもそうでなくてもそう変わらないのではないかと思います。否、キリスト教徒の方がいばら部分の割合が高いのではないかと思わせる場合も多々あります。そうなると、「なんでまた好き好んでキリスト教なんかやっているんだ」と呆れ返られるかもしれません。しかし、キリスト教徒には、人生の歩みについて、他の人とは目の付け所が違うところがあって、そのためにキリスト教でいいのだという心意気があるのだと思います。
 
それでは、キリスト教徒は人生の歩みについて目の付け所が違うと言う場合、何が違うのかというと、以下のことが考えられます。健康にしろ、愛する人にしろ、財産にしろ、これを失ったら人生お終いと思ってしまうような大事なものを失うことが起きても、また自分の持てる全てのものが失われてしまっても、それでも絶対に失われないものが一つ自分にはある、ということをわかっていることです。その失われないものとは、神が整えられた救い、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けることで自分のものにすることができた救いであります。神はひとり子をこの世に送り、彼を身代金として私を罪の裁きと呪いから贖い出して下さって、私との結びつきを回復して下さった。その結びつきに生きる私は、詩篇23篇の終わりのように、永遠に神のもとに住む場所を目指してこの世の旅路を歩んでいる。こうした救いは、この世で何が起きようとも、修正も変更もなく全くそのままです。
 
キリスト信仰に生きる者の大きな特徴の一つは、自分が所有している救いがあるため、どんな時にもどんな状況に置かれても神に感謝する理由があるということです。こう言うと、キリスト教徒は、不治の病になった時も、愛する人を失った時も、財産を失った時も、悲しまないで、神に感謝しているのかと訝しがられるかもしれません。そうは言っておりません。悲しみは悲しみとして悲しまなければなりません。このプロセスを通り抜けないと新しい出発のラインには進めないからです。この通り抜けには、信頼できる人の支えを受けられることが大事というのは言うまでもありません。こうしたことは、宗教に関係なく心理学的にも一般に言われていることです。ここでキリスト教の観点を付け加えるならば、悲しみという暗闇が全てを覆いつくすような時でも、どこかに闇が及ばない片隅がしっかり残っているということです。それが先ほどから申し上げている、神がイエス様を用いて実現された救いということであります。片隅とは申しましたが、本当は重く垂れこめる雲の上に燦然と輝いている太陽と言ったほうが正確だと思います。キリスト教徒は雲の下の暗い大地を見て悲しんでいますが、雲の上の太陽に思いを馳せる部分が心の中にしっかり打ち立てられている者であると言ってよいと思います。そのため、全てを失って悲しみに暮れようとも、神に感謝するものは残っているというのであります。
 
詩篇118篇の最初に、神の恵みは永遠に変わることがなく、その神に感謝せよ、とうたわれています。そうした神への感謝ということについて、ルターは次のように教えています。
「不幸や苦難が襲いかかってきた時、我々は取り乱さずに、それを神が暗闇に点火した明かりのように考えて受け止めるべきである。そのような明かりが点火したおかげで、我々は、神の恩寵それに神が人生の他の時にして下さった無数の良いことが見えてきて、ああ、神はこんなにまでして下さっていたのだと言うことができるのだ。その時、我々を苦しめようとするあの取るに足らない悪や災難は、我々の目からすれば、燃え盛る炎の海に落ちていく水の一滴にしかすぎないだろう。そうでなければ、大海原に落ちていくちっぽけな火花であろう。こうして、この詩篇の御言葉は、我々の心の中に入って麗しい響きをかもしだす。『主に感謝せよ。なぜなら、主は良い方で、彼の恩寵は永久に揺るがないからだ。』この御言葉が言わんとしているのは、こうである。『ああ、あなたは、なんとご自分の約束に忠実でかつ心優しく信頼に値する神なのでしょう。あなたは休むことなく、私に対しても世界に対してもこんなに大いなる良いことを十分すぎるほど成し遂げて下さるからです。』
 この御言葉は、聖書の中に、特に詩篇の中に頻繁に用いられている。それは、神の目に適う正しい献げものは何であるかを我々に教えている。我々が神に対して成しえる業、献げるものの中で、神に感謝することより偉大なもの、それに優るものはない。神への感謝よりも崇高な礼拝は存在しないのである。」
 
 
4.      おわりに

以上、本説教において、十字架の死から復活されたイエス様は、人間の罪と不従順を赦し、神と人間の結びつきを回復させた真の最終的な神殿であることを述べました。そして、その神殿にとどまって、神の整えられた救いの所有者として生き続ける限り、私たちは、この世でどんな状況に置かれても、私たちがしっかり所有している救いのゆえに神へ感謝することだけは残されているという、キリスト教徒の信仰と心意気についても述べました。ここで、本説教の冒頭に掲げた問いに戻りましょう。それは、「苦難を前にした時の祈りはどのようなものか」でした。
 
もし私たちキリスト教徒が苦難の当事者であれば、その答えは本説教から明らかでしょう。とりもなおさず一刻も早い苦難の解決・解消を神に求めること。もし解決の内容や手順が自分でわかっていれば、それが実現するよう願いつつも、同時に最善の解決は最終的には神が知りうるものとして、「私のではなくあなたの御心がおこなわれますように」と付け加えること。そして、神の御心に沿った解決に至るまでの肉体的精神的な忍耐力をお願いすること。最後に、キリストのおかげで神との結びつきの中で一日一日を生きられるようになったことを感謝すること。もし、その祈りがこの世で行う最後の祈りになる場合、「あなたは私を御許に引き上げてくれると約束しました。あなたは約束を必ず守られる主です。主の御名は永遠にほめたたえられよ」と言って神を賛美します。
 
もし苦難の当事者が他者で、その方が同じキリスト信仰を持つ者であるならば、その方が今言ったような祈りを祈れることが私たちの祈りの内容でしょう。もし、その方があまりにも困窮して祈る言葉さえも失った状態にある場合は、その方に代わって同じ祈りをします。
 
それでは、当事者が他者のみならずキリスト信仰を持たない人の場合、私たちはどう祈ったらよいのでしょうか?現代は宗教対話の時代と言われ、自分の信仰を他人に強要することは避けることは言うに及ばず、自分の信仰と異なる信仰に対しては敬意を示さなければならないと言われます。そこからさらに進んで、異なる宗教を持つ人が苦難に陥った時は、その人が自分の宗教にしっかりとどまれるように祈ってあげるのがキリストの愛だというようなことを言う人もいます。本当にそうでしょうか?それでは、人がこの世の人生を終えた後で、天と地と人間を造った神のもとで永遠に生きられるのを妨げてしまいます。せっかく神がひとり子を犠牲にしてまで整えられた救いを無にしてしまいます。イエス様の十字架の死を無駄死にしてしまいます。雲の上に燦然と輝く太陽に心を向けさせようとしないことになります。私は、キリスト教徒としてはやはり、苦難にある人が私たちと同じ祈りと感謝と賛美ができるように祈るのが本筋ではないかと思います。それはとりもなおさず、苦難にある人が私たちと同じ信仰と心意気を持てるようにと祈ることであります。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン



礼拝の説教は神の御言葉の真理を明らかにするものであり、学術的な釈義学の講義ではないので、本説教ではあえて触れませんでしたが、イエス様がエルサレムの神殿から商人を追い出す出来事は、4つの福音書の記載の間で大きな違いがあります。ヨハネの福音書では、この出来事はイエス様のこの世での活動の初期に起きるのに対して、マタイ、マルコ、ルカの三福音書では終わりの方に起きるということです。これはどう考えたらよいのでしょうか。三福音書の記述が史実でヨハネはそれを改ざんしたのか、それとも逆なのか。同じような問題は他にもあります。こうした問題をどのように考えたらよいか、この場を借りて述べてみます。
イエス様の言行録であるマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、直接の目撃者である弟子たちの証言を土台にしています。ただし、目撃者の証言録がすぐ福音書にまとまったのではなく、証言はまず口伝えされ、やがて手書きされたものもあわせて伝承され、それらが集められて最終的に福音書という本の形にまとめられます。イエス様の出来事から、時間的に大体一世代ないし二世代を隔てているので、伝承されていくうちに、もとの証言も、長すぎれば要約されたり、短すぎれば補足されたりするということがでてきます。それで、同じ出来事を扱っていても描写や記述にぶれがでてくることになります。
 ヨハネ福音書は、12弟子のひとりであるヨハネが自分で書いたと言っているので(ヨハネ2124節)、つまり目撃者がじかに書いていると言っているので、信ぴょう性が高い可能性があります。しかし、これもイエス・キリストの出来事の時から、何十年もたって書かれているので、ヨハネが嵐のような人生を送っているうちに、胸にとどめた記憶も、年月とともに強調したいところはより強調され、瑣末に思われるところは背後に退くということもでてきます。それで結果的に、他の3つの福音書の土台にある証言の伝承と同じようなことが起こります。
 このように目撃者の証言が伝承されるうちに膨らんだり縮んだり、出来事の文脈が変わってきたりするのは、目撃者、伝承した人たちそして福音書をまとめ上げた人たちの記憶やものの見方が影響しているためですが、ここで忘れてはならないことがあります。それは、記憶やものの見方に相違があると言っても、これらの目撃者、伝承者、福音書記者はすべて皆、イエス・キリストが死から復活した神の子であると信じた人たちで、パウロを含む使徒たちの教えをしっかり守った人たちであるということです。このように大元のところのものは同じなのですから、記憶やものの見方に相違があっても、それは大元のものを覆すものでは全くなく、許容範囲にとどまるものです。その意味で、伝承の過程において聖霊のコントロールがしっかり働いていたと言うことができます。ただし、当時は、聖霊のコントロールから外れる伝承、教え、見解も多く流布しておりました(例として、トマス福音書、ユダ福音書)。しかし、そうしたものは一切、聖書の中に入ることはできませんでした。聖霊の働きの結晶である聖書をあなどってはいけません。