2026年3月23日月曜日

イエス様の奇跡の業の本当の意味 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2026年3月22日(四旬節第五主日)スオミ教会

 

エゼキエル書37章1-14節

ローマの信徒への手紙8章6-11節

ヨハネによる福音書11章1-45節

 

説教題 「イエス様の奇跡の業の本当の意味」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。これを読んだ人は、ああ、イエス様は何と愛に満ちたお方なんだろう、悲しみにくれる姉妹を助けるために死んだ兄を生き返らせて下さったのだから、と思うでしょう。死んだ人を生き返らせる位の強い愛を示されたのだ、と。しかし、これを自分に当てはめて考えたら同じことが言えるでしょうか?イエス様は、もし私の愛する肉親が亡くなって悲しみに打ちひしがれた時、祈ってお願いしたら生き返らせてくれるのだろうか?もし、生き返らなかったら、イエス様は私のことをラザロやマルタやマリアよりも愛していないということなのだろうか?だから生き返らせてくれないのか?

 

 このような疑問は、一見筋が通った疑問に聞こえますが、実は筋違いです。イエス様がラザロの病気のことを「神の栄光のため」と言ったことに注目しましょう。普通それは、イエス様がラザロを生き返らせたことが神の栄光の現れと思われます。ところがそれはまだまだ浅い理解です。本当はもっと深い意味があります。ラザロの生き返らせの奇跡と神の栄光の深い本当の意味を理解しなければなりません。本日の説教でそれを明らかにしてまいります。

 

2.キリスト信仰の復活について

 

深い本当の理解に入る前に予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を具体的に記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ71117節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、ほとんどの人は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られた創造主の神、私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた生ける神であるというのがキリスト信仰です。

 

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。

 

 復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話に聞こえますが、聖書の観点とはそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活は眠りから目覚めることと同じと見ているからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。

 

 そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。それと当時の日数の数え方は最初の日も入れて数えるので、今ふうに言えば3日です。イエス様が3日後に復活したというのも今ふうに言えば2日後です。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったのです。そして今は、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。

 

3.イエス様の奇跡の業の本当の意味

 

それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の本当の深い理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみます。

 

 イエス様を前にしてマルタは開口一番、こう言いました。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはそれを打ち消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して疑っていません、ということです。これは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と暗に言っているのです。つまり、マルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。

 

 それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」とは言いませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉から明らかです。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタはハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく将来の「復活」のことを言われる、ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせてはくれないのだ、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることは疑っていません。ただ、それは遠い将来のことです。「生き返り」ならば、今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。

 

 そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味します。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。

 

 それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえこの世から別れても復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けます。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を信じて洗礼を受けると永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになります。イエス様を信じて生きると神に守られ導かれながらその道を歩みます。そして、復活の日が来たら永遠の命を持って生きることになります。それで永遠に死なないのです。

 

 それでは「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、イエス様が復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方だと信じることです。イエス様がそういう方であることは、彼の十字架と復活の業を通してはっきりします。彼の十字架の死は私たち人間が内に持ってしまっている罪を私たちに代わって神に償うための死でした。彼の死からの復活は、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて私たちにそれを歩ませるための復活でした。イエス様を復活と永遠の命を与えることが出来るお方だと信じて安心が得られればそれでもう信じているのです。

 

 イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?

 

 これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と関連付けて述べました。「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだという理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にあったのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。

 

 マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。ギリシャ語の現在完了のマルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟って信じるようになりました、ではないのです(その場合はアオリストのエピステウサになります)。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。

 

 このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている、もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかってはいた、しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。

 

 ところが、イエス様との対話を通して復活と永遠の命の希望がマルタに戻ったのです。イエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは簡単には消えませんが、一度こういうプロセスを経ると希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まって生きるだけです。

 

 ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではありません。それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまった、それを確認させられて強めてもらったのでした。そうなれば将来の復活は少なくとも心の中では実現してしまったのも同然です。兄ラザロとの再会が現実味を帯びた瞬間です。イエス様を救い主と信じて罪の赦しの恵みに留まって生きるキリスト信仰者についても同じです。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者にとって復活はもう半分以上実現しているのです。

 

 イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼にすれば死など復活の日までの眠りにすぎないことと、彼こそ復活の目覚めをさせる力があること、この2つを人々に前触れ的にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声が私にも聞こえて私も起こされるんだ、と誰もが予見したでしょう。

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!これで、イエス様がラザロの病気は神の栄光のためと言った意味がわかったでしょう。神の栄光とは、ラザロを生き返らせたことよりももっと大きなことを意味したのです。まず、悲しみにくれるマルタとの対話を通して、失われかけていた復活の信仰を確認させて強くしてあげました。そして、生き返らせの奇跡の業を通して、イエス様を信じる者にとってはこの世からの死は眠りにすぎず、その眠りから目覚めさせる力はイエス様が持っていることを人々に具体的にわからせました。これが神の栄光です。このことは、当時の人々だけでなく、全ての時代のイエス様を信じる人々に当てはまりませう。もちろん、私たちにもです。もし、私たちの復活の信仰が揺らぐようなことがあれば、イエス様はマルタにしてあげたように私たちの信仰を確認させて強くして下さいます。マルタの場合はイエス様との対話を通してでしたが、私たちの場合はイエス・キリストについて証言している聖書の御言葉を通してです。以上が神の栄光の全容です。

 

3.勧めと励まし

 

最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つは、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書は皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。私たちに死を超える復活と永遠の命を与えることができる途轍もない方は、このように私たちに共感を覚えて下さる方なのです。

 

 もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている所に行くのは危険ですと押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。

「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」

 

 分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある、それが危険とどう関係するか考えてみなさい、太陽が照る日中は明るいから転んだりぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、君たちが私というこの世の光を目で見て、私も君たちの中にいると言えるくらいに私に結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。もちろん、私たちは当時の弟子たちと違ってイエス様を肉眼の目で見ることはできません。それでも、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を心の目で見れれば、イエス様というこの世の光を持てることになり、神の守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになって危険に晒されてゴールに到達できないのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年3月20日金曜日

聖霊は心の中で湧き出る泉の如く(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年3月8日 四旬節第三主日

 

出エジプト記17章1-7節

ローマによる福音書5章1-11節

ヨハネによる福音書4章5-42節

 

説教題 「聖霊は心の中で湧き出る泉の如く」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

 本日の福音書の日課は「サマリアの女」の話です。福音書の中でよく知られる話の一つです。イエス様と女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、水は飲んだ人の中で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われます。永遠に喉が渇くことはない、とか、人の中に泉が湧き出てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何のたとえでしょうか?

 

本日の個所にはもう一つたとえがあります。刈り入れをする人と種をまく人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて麦畑が黄金色なのを見なさい、と言いました。弟子たちは刈り入れをする人で、別の者が労苦した結果を刈り入れて、労苦を分かち合うなどと言います。

 

これらのたとえは具体的な何かを指しています。それを「生きた水」とか「別の者の労苦」にたとえて言っているのですが、その具体的なものとは一体何でしょうか?イエス様のたとえの教えは、字面を追って一瞬わかったような感じにはなりますが、では、それらは何を指していますかと聞かれたら、はた、と困ってしまうことが多いです。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」が何を指すか明らかにします。それがわかって、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなります。

 

2.刈り入れをする人、種を播く人、他の者たちの労苦

 

まず、本日の出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行はユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる地域でした。それが、紀元前8世紀に東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連行され、逆に東から異民族がサマリア地方に強制移住させられて来ました。それで同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいました。住民は旧約聖書の一部は用いていましたが、サマリア人の女性が言うようにエルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族は自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負していました。それでサマリア人を見下して交流を避けていたのです。そのことはサマリア人の女性の発言からもよく伺えます。

 

イエス様一行はサマリア地方のシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統では(創世記4822節、ヨシュア記2432節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と信じていました。

 

さて、弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、イエス様は井戸のそばで座って待っていました。そこへサマリア人の女性が水を汲みにやって来ました。時刻は正午ごろでした。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのようにやってきたのです。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は驚いて、なぜサマリア人を忌み嫌うユダヤ人が自分に水を求めるのか、と聞き返します。そこから二人の対話が始まります。やりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来ると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水と考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、お前には5人の夫が入れ代わり立ち代わりいた。そして今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解だ、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

 

女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。女性は町の人々にイエス様のことを知らせに走り去りました。人目を避ける境遇にあることを忘れてしまいました。それほど人々に知らせないではいられなかったのです。

 

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに弟子たちが食べ物を買って戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

 

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」と言ったことに注目します。イエス様の言葉はこうでした。「あなたがたは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35節)」。これは少し変ですね。刈り入れまで4カ月あると言っておきながら、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?

 

イエス様が目を上げて見よと言ったのは実は、畑のことではなかったのです。イエス様は何かを黄金色の畑にたとえているのです。それは何か?イエス様は、目を上げて見なさい、と言いました。そこで今いる場所よりも高い所にあるシカルの町を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るではありませんか!サマリア人の女性が、預言者なのかメシアなのか、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たのです。これは、将来起こることを先取りしています。つまり、イエス様が天に上げられた後で使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出ることです。最初は目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる。後には目撃者の証言が記録された聖書を通して信じるようになる。どちらの場合でも、イエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ実にたとえられているのです。

 

イエス様は、自分の食べ物とは神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることだと言われます。これは、神のひとり子が十字架の死をもって人間の罪を神に償い、さらには死から復活することで死と罪を滅ぼして人間を罪の支配下から解放することを意味します。この使命を果たすことは、人間にとって食べ物が大事なのと同じように自分にとって大事なことなのだとイエス様は言うのです。

 

 それから、刈り入れ人と種まき人について話すところで「別の者たちの労苦」が出てきます。「別の者たち」と複数形になっています。つまり労苦とは、み子イエス様と父なる神が人間の罪の償いを成し遂げることを意味します。父とみ子の労苦です。それを目撃した弟子たちは、迫害にも屈せず命がけで証言し記録に残して伝えました。そのおかげで、多くの人たちが父とみ子の労苦の結晶である「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るようになりました。こうして救いを受け取った人たちは豊かに実る実になり、救いを伝えた弟子たちは実を集め刈り取る者であり、救いは父と子の労苦なのです。

 

3.生きた水 聖霊

 

それでは、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと聞くと、水が動物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語・スウェーデン語のものですが(後注1)、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている水」というのは、飲む人に今の世の命を超えて次に到来する世の命に与らせる水ということで、文字通り「永遠の命を与える水」です。

 

 この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉になって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。そもそも泉とは、地下水が地表に湧き出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まると池になりますが、それは泉ではありません。掘らないでも自然のまま地下から水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、溢れ出る水は小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を飲むと、そのような水が絶えず湧き出る泉が飲んだ人の内に生じて、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。でも、具体的にはどういうことでしょうか?イエス様の与える水が飲んだ人の中でこんこん湧き出る泉になって、そこから溢れ出る水が死を超えた永遠の命へと導いていく。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

 

この問いの答えがヨハネ7章にあります。イエス様が仮庵祭りの時にエルサレムにて群衆に向かって述べた言葉です。

 

「『渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしているについて言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、がまだ降っていなかったからである。」(3739節)

 

ここで言われているとは神の霊、聖霊のことです。イエス様は私たち人間の罪を神に対して償うために十字架にかけられて死なれ、三日後に死から復活されて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。これが神の栄光を受けることです。その後でイエス様が天の父のもとに上げられる出来事があり、それに続いて聖霊がこの世に降るという出来事が起こります。イエス様が「渇いている人は私のところに来て飲みなさい」と言うのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると聖霊が注がれることを意味したのです。聖霊が注がれた人は、その内に「生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。このようにイエス様が与える水とは実に、十字架と復活の出来事の後でこの世に下って来る聖霊のことなのです。

 

それでは、聖霊を注がれると人の内に泉が湧き出て、溢れ出た水が尽きることなく永遠の命に向かって流れていくというのはどういうことでしょうか?

 

人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれることで神との結びつきを持って生きるようになります。ところが、この世にいる間はまだ肉を纏った状態が続きます。それで、キリスト信仰者の内に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。信仰者の中に内的な戦いが始まります。使徒パウロも認めているように「他人のものを妬んだり欲したりしてはいけない」と十戒の中で命じられて、それが神の意思だとわかっているのに、そうしてしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまう。心の奥底まで100%神の意思に沿えることが出来ない自分に気づかされてしまうと。それではどうしたらよいのか?心の奥底まで100%沿えるようにしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていない自分に気づいてしまうのです。どうしたらよいのでしょうか?

 

まさにここで洗礼の時に注がれた聖霊の出番が来るのです。聖霊が私たちの心の目を向けるべきところを示してくれます。ゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様が向けられるべきところです。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、神はお前の罪を赦して下さったのだ。お前はそのことを信じたからイエスはお前の救い主になったのではなかったのか?

 

こうして聖霊の働きで心の目を開けてもらった信仰者は、神の大いなる憐れみと愛の中で生かされていることを思い起こし、神の意思に沿うように生きようと心を新たにします。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そうと。このようにキリスト信仰者は、聖霊のおかげで、絶えず神との結びつきを保つことができ、順境にあっても逆境にあっても神から常に同じ守りと良い導きを得てこの世を歩みます。万が一この世を去ることになっても、神との結びつきを持って去ることができ、復活の日が来ると復活させられて神のみ許に永遠に迎え入れられるのです。

 

4.勧めと励まし

 

本日の使徒書の日課ローマ5章を見ると、パウロは、イエス様を救い主と信じる信仰によって人は神の目に義なる者とされ、その人は神との間に平和があると言います(1節)。人間は、イエス様の十字架の業がなされる以前は実に神と戦争状態にあったのです。神との平和な関係は、神からお恵みとして与えられました。なぜなら、神はひとり子を本当に無償の贈りものとして私たちに与えて下さったからです。だから、罪の赦しは恵みなのです。パウロは言います、私たちは神のお恵みの中で立っていられるのであり、それを誇りとしている、と(2節、後注2)。さらに、神との平和な関係をお恵みとして頂いている限り、私たちに降りかかる試練は誇りに思うことができるとまで言います(3節)。どうしてそこまで言えるのか?理由は、一度神との平和な関係に入ったら、試練は忍耐をもたらすものになり、忍耐は鍛えられた心をもたらし、鍛えられた心は希望をもたらすようになるからだ、と言います(34節)。このように神との平和な関係に入ってしまうと、試練が希望に転化してしまうのです。(新共同訳で「練達」と訳してある言葉δοχιμηは私の辞書では「思いが鍛えられたこと、揺るがないこと、自信」などとあります。)

 

ここでパウロが言う希望とは、復活の日に神の栄光に与れるという希望です(2節)。人間が持てる希望の中で究極の希望です。パウロは、この希望は裏切られることがない、必ず成就する希望であると言います(5節)。なぜなら、「洗礼の時に注がれた聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれるからだ」と言います(5節)。この御言葉は真理です。先ほども申しましたように、私たちが罪の自覚のために神が遠ざかってしまったと感じる時、聖霊は私たちの心の目をイエス様の十字架に向けさせ、神は遠ざかってなどいない、神のあなたに対する愛は一寸も変わらないと示してくれます。神が遠ざかったと感じるのは罪の自覚の時だけではありません。私たちが直面する試練、苦難や困難の時にもそうなります。神は私を見捨てたとか私に背を向けたとか思ってしまいます。しかし、聖霊は神の愛が何も変わっていないことを示してくれて、パウロが言うように、試練を希望に転化してくれるのです。

 

兄弟姉妹の皆さん、神と平和な関係にあり、聖霊を注がれた私たちキリスト信仰者は、このように試練があればあるほど究極の希望が強まっていくという循環の中にいるのです。このことをもっと自覚しましょう。人によっては、究極の希望が復活の栄光に与れる希望だなんて、そんなのはこの世離れしていてこの世の試練の解決に何の役にも立たない、と言う人がいるかもしれません。しかし、もし希望がこの世に関するものだけだったら、そんな希望はいつかは潰えてしまう儚いものです。復活の希望はこの世離れしているからこそ潰えません。まさに究極の希望です。そのような希望があって、それが強められるからこそ、この世の試練を乗り越えられるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

後注1Heikel, I. & Friedrichsen, A. “Grekisk-svensk ordbok till Nya testamentet och de apostoliska fäderna”

(後注2、ギリシャ語分かる人にです)ローマ52節の「誇る」ものは何か?復活の日に神の栄光に与れる希望を誇るのか?以前は私もそう取っていましたが、今回は「このお恵み」την χαριν ταυτηνを「誇る」ものと取りました。というのは、5111節だけ見ても、パウロは動詞「誇る」の目的語に付ける前置詞をενにする傾向があるからです(3節、11節)。それでは、επ’ ελπιδι της δοξης του θεουはどうするかと言うと、「誇る」際の付帯状況と取ったらどうかと。

大体、以下のような感じになります。

δι΄ ου και την προσαγωγην εσχηκαμεν τη πιστει εις την χαριν ταυτην 

イエス・キリストを通して我々は信仰によりこのお恵み(=イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされたこと)に入る地位をも得ている

εν η εστηκαμεν και καχωμεθα επ΄ελπιδι της δοξης του θεου.

このお恵みの中に我々は立っているのであり、それを誇りにしている、復活の日に神の栄光に与れるという希望にあって

ου μονον δε,

誇りにしているのはこのお恵みだけではない、

αλλα και καυχωμεθα εν ταις θλιψεσιν,

我々は試練をも誇りにするのである。

2026年3月17日火曜日

キリスト信仰者の出身地は実は天国だったのだ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2026年3月1日 スオミ教会

 

創世記12章1~4a

ローマ4章1~5、13~17節

ヨハネ3章1-17節

 

説教題 「キリスト信仰者の出身地は実は天国だったのだ」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派というグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられることが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救って神の国に迎え入れられるようにするということ。これらは以前にもお教えしましたが、今日は新しいことも入れて述べていきたく思います。

 

 その前に、ファリサイ派というグループについて。彼らは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわった人たちでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべしと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

 

 そこにイエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々の注目を集めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ522節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同528節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本当の意図はそこにあるのだと、神のひとり子として自分の父の意図を人間に知らせたのです。

 

 全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば神に認められるのだ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 

 ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、彼らの中には、このやり方でいいのだろうか、神の国つまり天国に迎え入れてもらえるのだろうかと疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような疑問を持った人だったと言えます。32節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。

 

2.「新たに生まれる」とは「天国から生まれる」こと

 

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。ニコデモにイエス様はいきなり言われます。

 

「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)

 

 「新たに生まれる」ということについて注意が必要です。「新たに」の元にあるギリシャ語はアノーテン、この基本的な意味は「上から」、「天国から」という意味です。それでここは、「上から生まれる」、「天国から生まれる」、つまり「天国を出身地として生まれる」という意味にもなるのです。さて、「新たに生まれる」でしょうか?「天国から生まれる」でしょうか?英語訳聖書NIVとスウェーデン語訳とルタードイツ語訳は「新たに生まれる」です。フィンランド語訳は「新たに、そして上から生まれる」と両方をあてています。

 

 私はこう考えます。イエス様はこの後で、君たちは地上のことを教えても信じないのだから、天国のことを教えても信じるわけがない、と言っています。イエス様は天国の視点で述べている、なので、彼は「天国から生まれる」という意味で言っている。しかし、ニコデモは、どうやってもう一度母親の胎内に入って生れることができようか、と言っているので、彼は「新たに生まれる」と解してしまっている。それで話がかみ合っていないのです。(ここで一つ厄介なことは、この出来事はギリシャ語で書かれています。それでギリシャ語を元にして二人のやり取りを理解しようとしているのですが、彼らが実際に会話した言葉はアラム語です。どんな言葉を使ったかはわかりません。手元にあるのはギリシャ語の文章なのでそれを基にするしかないのです。)

 

 さて、イエス様は「天国から生まれる」ことはどういうことかをはっきりと教えます。

 

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(56節)。

 

 イエス様が教える「天国から生まれること」とは実に「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきた時はまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた肉的な存在が、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが「天国から生まれること」であり、それが「新しく生まれる」ことになるのです。

 

3.キリスト信仰者は天国を出発点として天国に帰る

 

 それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

 

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

 

 なにかとても意味深なことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。風も空気も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。強さによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?

 

 さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架や復活の出来事は起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれることもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。

 

 困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上の事柄について正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天上の事柄を教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。

 

 イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうなることで神の国に迎え入れられるようになること、これらのことが、どのようにして起こるかについて明らかにします。

 

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」

 

 「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、「人の子」はある事を成し遂げた後でまた天に戻るということを意味しているのです。そして、その成し遂げる事というのが次に来ます。

 

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」

 

 モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で蛇を作って旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じ掲げることと人を救うことが自分を通しても起こると言うのです。どのようにして起こるのでしょうか?

 

 イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることでした。イエス様はなぜ十字架にかけられたのか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持って生きられるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。

 

 それで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて万物の造り主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。天国と神の国は同じことです。洗礼を受けて聖霊を注がれて「天国から生まれた」キリスト信仰者は天国を出身地として生まれた者です。それで、信仰者にとってこの世の人生は実に、天国という生まれ故郷に帰る道を神との結びつきを持って進むことに他ならないのです。

 

4.勧めと励まし

 

 洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがわかりました。それでは、それはどうイエス様の風のたとえと結びつくでしょうか?前にもお教えしましたが、聖書の元の言葉、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。このたとえでイエス様は両方をひっかけているのです。彼が教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録22節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(829節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。

 

 これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまると言うのです。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちもあるし声もするから実在するのはわかります。しかし、信仰者は聖霊と同じように肉的な人には見えないわからない独特な意思に従って人生を歩みます。だから、肉的な人から見たら、キリスト信仰者は風と同じように実在するのはわかるが、その行動様式、立ち振る舞いを起こしている原動力はわからないのです。それでは、キリスト信仰者の原動力は何か?私は、それは内なる霊的な戦いと考えます。

 

 キリスト信仰者の内なる霊的な戦いとは、キリスト信仰者は天国から生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めたように、「他人のものを妬んだり欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんか別にどうでもいい、などと言ったら、イエス様の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。

 

 まさにここが聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲になったおかげで、あの方を真の救い主と信じるあなたの信仰を神は義として下さるのです。それで神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたからではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はご自分のひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先回りして赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

 

「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。

神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ31416節)。」

 

 この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。それで神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。ところが、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そして、この繰り返しが終わる日が来ます。天と地が新しく再創造される復活の日です。その日、神の御前に立たされた時、繰り返しをしたことは実は罪に与しない生き方、罪に反抗する生き方を貫いてきたことの証しとして認めてもらえるのです。この時、天国を出身地として生まれたキリスト信仰者は天国に帰り着いたのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年2月9日月曜日

真にキリスト信仰者は地の塩、世の光なのだ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2026年2月5日(顕現節第五主日)

 

スオミ教会

 

イザヤ58章1-12節

第一コリント2章1-16節

マタイ5章13-20節

 

説教題 「真にキリスト信仰者は地の塩、世の光なのだ」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

  本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちや群衆に向かって、君たちは「地の塩」だ、「世の光」だと言います。その言葉は私たちキリスト信仰者にも向けられています。「地の塩」、「世の光」とは何を意味するのでしょうか?16節に「立派な行い」などと言っているので、何か世の中のためになるものという感じがします。しかもイエス様は「地の塩」、「世の光」になれ、とは言っていません。君たちはもうそうなんだと言うのです。皆さん、どうでしょうか、私たちは自分のことを「地の塩」、「世の光」だと胸を張って言えるでしょうか?「地の塩」、「世の光」とは何かについては後ほど見ていきます。

 

 その次にイエス様は律法や預言を廃止するためにこの世に来たのではない、実現するために来たのだと言います。律法と預言というのは旧約聖書のことです。旧約聖書を廃止するためでなく実現するために来たのだと。律法とは、キリスト信仰の観点からみれば十戒が最重要の掟ですが、十戒以外にも沢山の掟がありました。例えばエルサレムの神殿での礼拝の規定がそうです。しかし、神殿はもう存在しないので神殿関係の掟は死文化しています。ところが人間は神から罪を赦して頂くために罪の償いが必要です。神殿があった時は動物の生贄が捧げられていました。それなので、神殿で生贄を捧げる掟は死文化しても、罪の償いはしなければならないこと、人間は神から罪を赦されて罪の支配から解放されなければならないこと、これは神殿がなくなっても、そのままです。ここにイエス様の十字架の意味があります。このことはまた後でお教えます。

 

 このように神殿が消滅したという状況の変化があっても、律法が目指すものはそのまま残っているのです。律法が目指すものは十戒の中に全て含まれています。十戒は状況が変化しても適用される普遍的な掟です。十戒が目指すものをイエス様は二つにまとめました。一つは、神を全身全霊で愛することと、もう一つは、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛することです。イエス様は、旧約聖書はこの二つを土台にしていると教えました。

 

 イエス様は律法と預言を廃止するためにこの世に来たのではない、実現するために来たと言います。どういうことでしょうか?神のひとり子のイエス様は神と同質な方なので神の意思を完全に満たしている方です。だから律法を実現しているのです。預言も、神と人間の結びつきを神が回復して下さるという預言、それを行ってくれる救い主が来られるという預言です。イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることでそれを実現しました。イエス様はまことに旧約聖書が示す神の意思と計画を実現した方です。

 

 ここでイエス様は驚くべきことを言われます。キリスト信仰者の義が律法学者やファリサイ派の人達の義より勝っていなければ神の国に迎え入れられないと。義というのは、私たち人間が天地創造の神の前に立たされる時、お前は大丈夫、やましいところはない、と神に認めてもらえることを意味します。律法学者もファリサイ派も当時の旧約聖書の専門家で、自分たちこそ律法を守っていると自信に溢れた人たちです。私たちはどうしたら、そのような人たちの義に勝って、神の前に立たされても大丈夫と認めてもらえるような義を持つことができるでしょうか?このことについても後で見ていきます。

 

2.キリスト信仰者は「地の塩」である

 

 それでは「地の塩」、「世の光」とは何かについて見ていきましょう。まず、「地の塩」についてです。

 

 塩が塩味を失ったら、役立たずになって捨てられて踏みつけられると言います。当たり前のことです。塩味を失った塩は砂や土の粒と同じなので、地面の一部になって踏みつけられるだけです。イエス様は、キリスト信仰者というのは地面の土の粒や砂の粒と同じではない、粒に塩味がついた塩粒なのだ、地面と区別されるものなのだと言うのです。

 

 ここで、イエス様がヨハネ3章でニコデモに「新たに生まれる」ということについて教えていたことを思い出しましょう。「肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である」と言います(6節)。人間は母親の胎内から生まれた時はまだ肉だけの状態です。しかし、洗礼を受けると聖霊が注がれて霊的な状態が加わります。それでキリスト信仰者は肉だけの状態ではなくなって、霊の状態も加わり、これが新たに生まれることになります。粒に塩味がついて塩粒になるので、もう地面の土粒、砂粒ではなくなります。最初の人間がアダムと呼ばれたのは、アダムが土から造られたからです。ヘブライ語で土のことをアダム(アーダーム)と言うからです。ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に残る旧い人アダムを日々、圧し潰していって、聖霊に結び付く新しい人が日々、成長していく者であると言っています。

 

 本日の使徒書の日課でもパウロは、「自然の人」は神の霊に関係する事柄を受け入れない、なぜなら、それはその人にとって愚かなことであり理解できないからである、と言います(第一コリント214節)。「自然の人」とは、神の霊、聖霊を受けていない人です。洗礼を受けておらず肉だけの状態の人です。その人から見れば、神のひとり子ともあろう者が十字架にかけられて無残に殺されるというのは馬鹿々々しい話です。しかし、キリスト信仰者から見れば、それはパウロが言うように、神の秘められた知恵の現われで、キリスト信仰者が復活の日に栄光の体を着せてもらえるために神が天地創造の前から決めていた計画なのです(7節)。このようにイエス様の十字架から神の計画と知恵を見出すことができるキリスト信仰者は土ではない「地の塩」なのです。

 

3.キリスト信仰者は「世の光」である

 

 次に世の光について見てみます。山の上にある町というのは、ギリシャ語でポリス、日本語では「都市」とも訳されます。イエス様の時代のイスラエルの地にはギリシャ風の都市があちこちに建設されていました。当時、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸の地域にヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの都市は朝日や夕焼けの時は遠方からでも全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、キリスト信仰者が光を放つというのは、これらの都市と同じように自ら光を放つのではなく、太陽のような本当の光の源から光を受けて輝くことができるということです。そして、それは誰にも隠されていない、公然とした輝きであるということです。

 

 輝く山上の都市に続いて、燭台に置いたともし火のことが言われます。誰もともし火を升の下に置かない、燭台の上に置く。当たり前です。すると暗かった部屋の中の事物は光を受けて照らし出されます。もし事物に目があるとすれば、部屋の事物はみなともし火の光を目にします。これも誰にも隠されていない、公然とした光です。

 

 イエス様は、キリスト信仰者が放つ光は山上の都市の輝きや燭台のともし火と同じである、だからそれらと同じようにキリスト信仰者は全ての人の前で光を放つのだと教えます。立派な行いがその光であると言います。人々はキリスト信仰者の光のような立派な行いを見て、父なるみ神を賛美するようになると。さあ、困りました。光にたとえられる立派な行いとはどんな行いでしょうか?ギリシャ語の言葉カラ エルガ(複数形です)は「立派な行い」とも訳せますが、「良い業」、「素晴らしい業」とも訳せます。どんな業なのでしょうか?

 

 そこで本日の旧約の日課イザヤ書の箇所を見ると、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」とあります(5868節)。人助けをすることが光になることを言っています。それではイエス様も、キリスト信仰者が世の光であるというのは、こういう人助けをするからだ、もししなかったら光を放たないと言っているのでしょうか?でも、そうしたら、人助けをしたくても病気だったり障害があったり、困窮状態にあって自分の方が助けを必要としているキリスト信仰者はもう光を放てないことになってしまうのでしょうか?

 

 人助けというのは、少し考えてみれば、別にキリスト信仰者でなくても行えるものです。自然災害の多い日本では何かあれば大勢の人がボランティアになって支援活動をします。キリスト信仰者でない人も大勢参加します。もし人助けが世の光ならば、イエス様はキリスト信仰者でない人たちも世の光であると言うでしょうか?確かにキリスト信仰者も信仰者でない人も人助けをする、しかし、信仰者には信仰者の特殊な事情があります。このことに注意しないといけません。どんな事情かと言うと、信仰者の場合は聖霊を受けて肉だけの状態でなくなっている。それなので、神のひとり子の十字架の死は愚かなことではなくなって、天地創造の神の大いなる計画と知恵の現れであるとわかっているという事情です。この事情があるためにキリスト信仰者は「地の塩」、「世の光」になっているのです。「地の塩」、「世の光」になった結果として、周りに見えるような良い業が出てくるというのがキリスト信仰者です。さらに大事なことは、その良い業というのは人助けに限られないということです。良い業はもっと広いものを意味します。病気や困窮して人助けどころではないキリスト信仰者から良い業は出てくるのです。健康で余裕のある信仰者からは人助けが出てくるでしょう。いずれにしても、そういう広い意味で良い業が言われるのです。

 

 光のように輝く良い業が人助けに限られないことは、本日のイザヤ書の箇所からも明らかです。9節を見ると「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを取り去ること」も光を放つことと言っています。軛を負わすというのは、誰かを束縛すること、重荷を負わせることでその人を苦しめることです。指をさすとは後ろ指を指すことで陰口をたたくことです。「呪いの言葉を吐く」について、「呪いの」と訳されているヘブライ語の言葉アーヴェンは辞書を見ると、呪いという意味があるかどうかはクェッスチョン・マークが付いています。日本語の訳者はそう訳してしまったのですが、ここは単語の基本的な意味でよいと思います。そうすると「有害な言葉を吐く」になります。「有害な言葉」は誰かを傷つけたり騙したりする言葉で、十戒の第4から第10までの掟の禁止事項に関係してきます。それなので、たとえ困っている人に衣食住を提供しても、そんな言葉を吐いてしまったらもう光を放てないのです。

 

 さらに12節では、古い廃墟を築き直すことや代々の礎を据え直すことが言われています。「古い廃墟」とは、原文を忠実に見ると「古い」ではなく、かなり長い期間廃墟のまま打ち捨てられたという意味です。「代々の礎を据え直す」も正確には、代々崩れ落ちたままだった城壁を建て直すという意味です。さて、この箇所をイスラエルの民に起きた出来事と結びつけて考えると、民を外国の支配から解放して王国を復興させる日が来るという預言に解することができます。しかし、これを天地創造の神の人間救済計画という広い枠の中で考えると、預言はもっと大きな内容を持ちます。つまり、神との結びつきを失った廃墟のような人間が結びつきを回復できるようになるという内容です。この回復を実現してくれたイエス様はもちろん、イエス様の福音を人々に伝えて人間が神との結びつきを回復できるように導いた使徒たちも光を放つのです。

 

 このようにキリスト信仰では良い業は人助けだけでなく、人間と神の結びつきを回復する働きも良い業になります。これらがわかると、キリスト信仰者が放つ光は信仰者でない人たちの光と違うことがわかると思います。

 

4.勧めと励まし

 

 イエス様は、お前たちは「塩」になれ、「光」になれとは言わず、「地の塩」、「世の光」であると言いました。「塩」と「光」に、この地上、この世を意味する言葉を付け足して言いました。そうすることで、将来新しい天と地が再創造される時に現れる神の国の対極にあるものとして、「この地上」、「この世」が強調されます。「この地上」と「この世」は神と人間の結びつきが失われたままのところです。結びつきを回復してくれたのが神のひとり子のイエス様でした。結びつきを断ち切っていた原因である罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。人間は誰しも神の意思に反しようとする性向を持っています。それが罪です。イエス様は本当だったら人間が受けなければならない罪の罰を、人間が受けないで済むようにと、自分で全部引き受けてゴルゴタの丘の十字架で人間の代わりに神罰を受けて死なれました。人間のために神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。父なるみ神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を死から復活させて、永遠の命があることをこの世に知らしめて、そこに至る道を切り開いて下さいました。

 

 それで今度は私たち人間の方が、これらのことは歴史上本当に起こったこととわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになっています。神との結びつきが失われているこの世にあって、まさにこの世の中で神との結びつきを持てるようになったのです。そうして、この世の人生を神との結びつきを持って歩み始めたのです。目指すところは、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるところです。神との結びつきは、自分から手放さない限り、いついかなる時にも失われることはありません。この世から別れる時も結びつきを持って別れられ、復活の日には結びつきをもったまま眠りから目覚めさせられます。

 

 このことがわかったキリスト信仰者は、こんな凄いことをしてくれた神にただただ感謝の気持ちで一杯になるので、それでもう神の意思に沿うように生きようという心になります。その感謝から良い業が出てくるのです。このように人間は罪の赦しのお恵みを受け取ることで「地の塩」、「世の光」になるのです。

 

 ところで、キリスト信仰者はこの世にある限りは、肉の体を纏っています。肉には神の意思に反しようとする罪が染みついています。信仰者は神の意思に敏感になるので、自分の内にある罪に気づきやすくなります。気づいた時、自分は神と結びつきを持てるようになるには失格だという思いに囚われます。しかし、その時こそ、神に背を向けず、神の方を向いて赦しを祈る時です。そうすると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、こう言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。お前が我が子イエスを救い主と信じる以上は、お前の罪は彼の犠牲に免じて赦される。これからは罪を犯さないようにしなさい」と。その時キリスト信仰者は、神への感謝からまた神の意思に沿うように生きなければと心を新たにします。このように人間は洗礼の時に受け取った罪の赦しのお恵みに踏みとどまることで「地の塩」、「世の光」であり続けるのです。

 

 このようにキリスト信仰者は、この世にある時は、罪の自覚と赦しの祈りと神からの赦しの宣言を受けることを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消滅しないので辛いかもしれませんが、それで良いのです。なぜなら、かの日、神のみ前に立たされる時、神はこう言われるからです。「お前は旧い世で罪を持ってはいたが、罪の赦しの恵みに留まって罪に反抗する生き方を貫いたのだ」と。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これがキリスト信仰者の義です。

 

 ファリサイ派と律法学者の義は、神に義と認められるために自分の力で掟を守るというものです。彼らは、自分は他の誰よりも上手に守っていると思ったので優越感にも浸りました。キリスト信仰者の義は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、一足先に神から義と認められてしまう義です。神から一方的に与えられてしまった、そこから畏れ多い気持ちと感謝の気持ちが生まれ、神の意思に沿うように生きようという心になって、そこから良い業が生まれてくるのです。良い業を行って神に認められようとするのではなく、先に認められたから行おうというものです。そこには優越感など入り込む余地はありません。なぜなら、イエス様の十字架と復活の業が全ての誇りの源だからです。人間の業が誇りの源になってしまったら、宗教的な行為を行っても、それは肉の状態で行っていることです。ここからもイエス様の十字架と復活の業は人間を霊的な存在にする業であることがわかります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン