2026年11月2日月曜日

キリスト信仰者が幸いなのは、秘められたものを持っているから(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年11月1日 全聖徒主日

 

ヨハネの黙示録7章9-17節

ヨハネの第一の手紙3章1-3節

マタイによる福音書5章1-12節

 

説教題 「キリスト信仰者が幸いなのは、秘められたものを持っているから」

 

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日の福音書の個所は有名なイエス様の「山上の説教」の出だしのところ、「幸いな人」とは誰かについて教えるところです。9つのタイプの人たちが「幸い」と言われます。心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、イエス様のために罵られ迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人です。これを読んで違和感を抱く人もいると思います。心の清い人や平和を実現する人が幸いというのはわかるが、悲しんだり迫害される人を幸いというのは当たっていないのじゃないかと。「幸い」というのはギリシャ語のマカリオスの日本語訳です。「幸せ」ではなく「幸い」と訳されました。普通の幸せではない、何か特殊な「幸せ」なので「幸い」と訳されました。「幸い」とは神の目から見てこれが人間にとっての幸せだという、神の視点での幸せです。人間が自分でこれが幸せだと考えるのとどこか違います。そういうわけで、人間的な視点での「幸せ」からちょっと離れて神の視点での「幸い」とは何かを考える必要があります。

 

 ところで、このイエス様の教えを最初に聞いた群衆は果たして9つのタイプが神の視点で幸せ、幸いであるとわかったでしょうか?私が思うに、彼らはわからなかったのではないかと思います。どうしてかと言うと、ユダヤ教社会の伝統では「幸いな人」とは、旧約聖書の詩篇の第1篇で言われているように、律法をきちんと守って神から愛顧を受けられる人のことです。ヘブライ語でアシュレーと言います。また、詩篇の第32篇を見ると、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫な人のことをアシュレー/幸いと言っています。このように律法を守って生きて、その見返りとして神から愛顧を受ける、もし神の意思に反する罪を犯したらエルサレムの神殿で動物の生贄を捧げる贖罪の儀式を行って赦しを頂く、これがユダヤ教社会にとって幸いでした。イエス様はそういったことには触れず、心の貧しい人、悲しんでいる人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を作る人、義のゆえに迫害される人、イエス様のことで悪く言われたり迫害される人が幸い、神の目から見て幸せと言うのです。これは一体どういうことか?今日はイエス様が教える「幸い」について見ていきましょう。

 

2.

 

 このイエス様の「幸い」の教えをギリシャ語の原文に沿ってじっくり見ていくと、日本語の訳では見えてこないことが見えてきます。それが見えると、この教えをもっとよく理解できるようになります。

 

 まず、「~する者は幸いである」と言った後に、必ず「なぜなら」という言葉が続きます。日本語訳では抜け落ちていますが、「悲しんでいる者は幸いである。なぜなら彼らは慰められることになるから」とイエス様は言っているのです。つまり、悲しむこと自体が幸いなのではなく、逆転が起きるから幸いなのです。だから、今悲しんでいるのは将来慰めに取って代わられる前触れに過ぎないということです。

 

 次に日本語訳で見えないことは、「なぜなら」で始まる文の動詞が未来形ということです。慰めも、地の受け継ぎも、義の渇きの満たしも、憐れみを受けることも、神を見ることも、神の子と呼ばれることも全て将来必ずそうなるとイエス様は約束されているのです。ここで問題になるのは、では、その将来とはいつのことか、逆転が起きるのはいつかということです。それについてはこの説教の終わりで明らかになります。ここの一つ注意すべき点は、慰めや地の受け継ぎなどは将来起こることなのに、心の貧しい人と義のゆえに迫害される者が神の国を持つのは現在形です。将来ではなく今の時点で持っているということです。それゆえこれらの者は幸いであると。神の国を今持っているというのはどういうことか、これもこの説教の終わりで明らかになります。

 

 もう一つ日本語訳で見えないことは、新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、「~される」という受け身の文がある時、誰によってそうされるかと言えば、それは大抵は父なる神が隠された主語になっているということです。なので、慰めるのも、義の渇きを満たしてくれるのも、憐れみを授けるのも、神の子と呼ぶのも全部神がそうされるということです。そういうわけで、幸いな者というのは、今は人の目から見て惨めとか取るに足らないような状態にあっても、将来は全てが逆転する、神の取り計らいでそうなると信じる者なのです。まさに神の視点で幸せ、幸いな者なのです。

 

 さらに、もう一つ日本語訳で見えないことはがあります。それは、最初の「心の貧しい人」です。ギリシャ語原文では「霊的に貧しい人」で、心を意味するカルディアではなく霊を意味するプネウマという言葉です。英語、フィンランド語、スウェーデン語、ドイツ語ルター訳でも「霊的に貧しい」と訳しています。どうして日本語が「心の貧しい」になってしまったのか、大体理由はわかりますが、後の8節に出てくる「心の清い人」はギリシャ語は「心」を意味するカルディアです。しかし、この3節は「霊」を意味するプネウマを使っています。なので、ここに「心」を当てはめるのはよくないと思います。それで、これからは「霊的に貧しい人」と言い換えます。

 

 そうすると、「霊的に貧しい人」とはどんな状態なのかを考えなければなりません。「心が貧しい」と言うと、「あの人は心の貧しい人だ」などと批判することがあります。それで「心が貧しい」というのは人間同士の間での何か至らない状態を意味します。「霊的に貧しい」というのは相手が人間ではなく神を前にしての自分の至らない状態を意味します。それでは、神を前にした至らない状態とはどんな状態でしょうか?それを理解する鍵は、旧約聖書にあります。イエス様の言葉も使徒たちの言葉も、全てが旧約聖書を土台や背景にしていると言っても過言ではありません。イエス様や使徒たちの言葉が難しい時は旧約聖書のどこかに鍵があると思って探すことが大事です。難しくない、簡単だ、わかったと思っても、旧約聖書の背景を考えないで自分たちの常識や理想の中で考えたら、それはもうイエス様や使徒の言葉ではなくなります。

 

 「霊的に貧しい」に関係する旧約聖書の個所はいろいろあります。イザヤ書66章2節で神は言われます。「私が目を注ぐのは、貧しい者、打ち砕かれた霊、私の言葉を恐れる者。」神のみ言葉は人に罪があることを明らかにします。そのみ言葉によって霊が打ち砕かれて貧しい状態になるのです。(注目 新共同訳では「貧しい者」が「苦しむ者」になっています。しかし、ヘブライ語のアーニーはHolladyのConcise lexiconによると「貧しい」が基本的な意味です。「苦しむ」はありませんでした。違う訳をするから「霊的に貧しい」の意味を探る手掛かりを失ってしまいます。)同じように、詩篇34篇19節「主は打ち砕かれた心の近くにいまし、とことんヘリ下った霊を救われる。」詩篇51篇19節「神への捧げ物は打ち砕かれた霊、打ち砕かれてとことんへり下った心を神は軽んじることはしない。」イザヤ57章15節「私は高く聖なる所に住み、とことんへり下る者、へり下る霊と共にあり、へり下る者たちの霊を修復し、うち砕かれた心を修復する。」


 どうして神は打ち砕かれてヘリ下った霊や心を求めるのでしょうか?これは、イスラエルの民が神殿で行う贖罪の儀式が機能していないことが背景としてあります。人間はどのようにして神の意思に反する罪を神から赦してもらって神の愛顧の中で生きることができるか?イスラエルの民はエルサレムの神殿での礼拝が罪の赦しを実現すると考え行っていました。律法の規定に従って贖罪の儀式を毎年のように行っていました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでした。それで、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦されて神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。

 

 ところが、この贖罪の儀式は、民の心を罪の赦しを受けるのに相応しい心に変えていなかったのです。民のつもりとしては生贄を捧げているので罪は赦されている。しかし、神から見れば、神の意思に反する罪はそのままです。儀式が形だけのものになってしまって、本当の悔い改めは起きていないのです。それで神はそんな捧げものはうんざりだ、見たくもない、生贄に代えてお前たちの打ち砕かれてへり下った霊と心を持ってこい、そうしたらそれを修復してあげるから、ということになったのです。

 

3.

 

 まさにそのような時に神のひとり子イエス様が神の御許からこの世に贈られてきたのです。神とイエス様の意図はこうでした。イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守り、神の意思に沿うように生きていると言っているが、実は心に留めてもいないし本当は守ってもいない。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると言っているが、実は罪の赦しはもうそこにはない。私が預言者たちを通して伝えたように、毎年繰り返される生け贄捧げの儀式は形だけのものになってしまい、心の中の罪に対しては何もなしえていない。それなので私が本当に私の意思をお前たちの心に留められるようにしてあげよう、本当の罪の赦しを与えてあげよう。そうすると、お前たちは今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが本当に幸いなことなのだ。なぜなら、それはお前たちが神の国に向かって進んでいることの証しになるからだ。これがイエス様の「幸いな人」の教えの真相です。

 

 それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、神の意思を心に留められるようにして人間を「幸いな者」にしたのでしょうか?それは、イエス様が父なるみ神の大いなる意思に従って自らをゴルゴタの十字架の死に引き渡して全ての人間の罪の罰を人間に代わって受けられることによってでした。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子が人間の罪を神に対して償って下さったのです。この償いの犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。

 

 あとは人間の方がイエス様が命じた洗礼を受けると、使徒パウロが明らかにしたように、その人はイエス様の十字架上の死と死からの復活に結びつけられます。イエス様の死に結びつけられると自分の中にある罪が人間を永遠の滅びに陥れようとする力を失います。イエス様の復活に結びつけられると永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩み始めるようになります。その人はイエス様は真に自分の救い主だという信仰に満たされています。イエス様のおかげで罪を償われたので、神から罪を赦された者として見てもらえ、神との結びつきを持てるようになります。その人は、パウロがガラティア3章26-27節で言うように、神聖なイエス様をあたかも衣のように頭から被せられたのです。本日の黙示録7章で小羊の血で衣を純白にしたというのはこのことです。イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されたというのは、まさにイエス様が十字架で流した血によって罪の汚れから清められたということなのです。

 

 このようにキリスト信仰者は神の義と神聖さを衣のように着せられて、神の国に至る道に置かれてその道を進みます。しかしながら、キリスト信仰者といえども、この世ではまだ朽ちる肉の体を持っています。それは神の意思に反する罪を内に宿しています。そのため信仰者は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかということに敏感になります。たとえ外面的には罪を行為や言葉にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることによく気づきます。これが霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、私の罪を代わりに償って下さったイエスは真に私の救い主です。どうか私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは犯さないように」と言って下さいます。その時、神はこの者の衣は神の小羊の血で白くされたままであると確認します。私たちに被せられた衣の白さを証明してくれるのです。

 

 キリスト信仰者はいつも、このように慰められて義の飢えと渇きを満たされます。神が満たしてくれる方であるとわかればわかるほど、本日の詩篇の日課34篇や23篇に言われるように「私には欠けるものがなにもない」というのが本当になります。それくらい自分は霊的に満たされているとわかると、詩篇24篇4節で言われるような「心の清い者」になります。「潔白な手と清い心を持つ人はむなしいものに魂を奪われない」。また、神によって霊的に満たされていると、自分の力によるものではないと自分でわかるので他人に対して高ぶったりしません。逆にへり下るようになります。それが柔和さや憐れみ深さになります。「平和を実現する」とは、何かノーベル平和賞を受けられるようなことを考えてしまうかもしれませんが、もっと身近なところにあることを忘れてはいけません。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合は、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、イエス様のおかげで自分には欠けているものがないとわかれば、そういうお人好し路線が当然になるのです。実に9つのタイプは全てキリスト信仰者に当てはまるタイプなのです。

 

4.勧めと励まし

 

 9つのタイプが全てキリスト信仰者に当てはまるものとすると、信仰者は神から慰められることになります。同じように、地を受け継ぐことになり、神から義の飢え渇きを満たしてもらえ、神から憐れみを受けることになり、神を目で見ることになり、神から子と呼ばれるようになり、天の御国の報酬は大きなものになります。

 

 それでは、慰められたり満たされたりするのは将来のいつなのでしょうか?キリスト信仰者の人生は罪の自覚と赦しの願いと赦しの受け取りの繰り返しです。そうなると、慰められるのも満たされるのも無数にあることになります。一回終わっても、また次が来るので、どれも最終的なものではありません。しかし、最終的な慰めと満たされの日が来るのです。それは、復活の日、創造主の神が今ある天と地に替えて新しく天と地を創造する日、そこに永遠の神の国が現われて、復活を遂げた者たちがそこに迎え入れられる日です。その日、繰り返しの人生は終了して完全な慰め、完全な満たされが起こります。柔和な者が地を受け継ぐことになるというのは、かつては約束の地カナンから追い出されずに永遠に居住できることを意味しました。キリスト信仰者にとって「地の受け継ぎ」は、永遠の神の国への迎え入れを意味します。神の国から追い出されずに永遠に居住できることを意味します。そうすると、霊的に貧しい者、義のゆえに迫害される者が今、神の国を持っていると言うのは矛盾するのではないか?神の国を持てるのは今ではなく将来と言ったほうが正しいのではないか?

 

 いいえ、そうではないのです。確かに神の国への迎え入れは将来のことですが、神の国は罪の自覚、赦しの願い、赦しの受け取りを繰り返して生きる者のものに既になっているのです。なぜなら、この繰り返しは、罪の赦しという神の恵みに留まる生き方だからです。迎え入れはまだなので、秘められた状態で神の国を持っているのです。迎え入れの時に顕在化した神の国を受け継ぐのです。つまり、こういうことです。人は洗礼を受けることで神の国を秘められた状態で持ち、復活の日に顕在化した状態で持つのです。この世の人生の中でも神に慰められ満たされることはありますが、それは最終的なものではなくその都度その都度のものです。それが、復活の日に最終的に完全に慰められ満たされるのです。本日の黙示録7章と後に来る21章で言われます。またそれらを預言したイザヤ25章でも言われます。その時、神は私たちの目から全ての涙を拭い去って下さると。この世の段階で拭いきれなかった涙も、痛みや苦しみのだけでなく無念の涙も含めて全ての涙が拭われるのです。このことをわかっているキリスト信仰者はだから、この世で何があっても大丈夫、平気という気持ちでいられるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2026年10月26日月曜日

キリスト信仰にとって真理とは?自由とは?(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年10月25日 宗教改革主日

 

エレミヤ書31章31~34節

ローマの信徒への手紙3章19~28節

ヨハネによる福音書8章31~36節

 

説教題 「キリスト信仰にとって真理とは?自由とは?」

 

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 イエス様を信じるようになったユダヤ人たちにイエス様が言いました。「真理はあなたたちを自由にする。」これはどういう意味でしょうか?それがわかるためには、イエス様が言う「真理」とは何か、「自由」とは何かがわからないといけません。それがわかると、このユダヤ人に向けられたイエス様の言葉は実は現代を生きている私たちにも当てはまるものであることがわかります。今日はそのことを見ていこうと思います。

 

 まず、「真理」とは何かについて少し一般的に考えてみます。似ている言葉に「真実」があります。例えば政治家が不正を行ったという疑惑をもたれる新聞の社説は「大臣は真実を語るべきだ」などと書き立てます。その場合、「大臣は真理を語るべき」とは言わないでしょう。つまり、「真実」は偽りでないこと本当のことを意味するとわかります。「真理」も本当のことですが、次元が異なります。そこで大臣が公けに何か釈明したとします。金欲、権力欲に長けた人なら不都合な真実は語らないでしょう。ただ、彼の政党の支持者たちはそれは「真実」だろうと受け入れるでしょう。支持者でない人たちは真実ではないと言うでしょう。このように「真実」は人の立場や利害や見方に左右される可能性があると言ってよいでしょう。あなたにとって真実でも私にとって真実ではないということがありうるのです。

 

 「真理」の方は、立場、利害、見方を越えて全ての人にとってその通りであるものと言ってよいでしょう。自然の法則が良い例だと思います。光は1秒間に30万キロの速度で進みます。これは、そんなの速すぎてイヤと言う人にも当てはまります。平地で水を温めると100度で沸騰するのも同じです。50度で十分だと言っても、天地創造の神はその温度に定めたのでそれを受け入れてお湯を沸かすしかありません。これらは自然界の法則ですが、人間界のことでも同じように場所と時代を越えて普遍的に当てはまるものがある、好むと好まざるにかかわらず人がこの世で生きる時に共通して前提にしなければならないものがある、そういうものを「真理」と言ってよいと思います。(ここで一つ興味深いのは、日本語では「真理」と「真実」と区別していますが、英語では両方一緒にtruthと言います。フィンランド語でも同じ言葉のtotuusです。

 

 一般に宗教はそういう「真理」について語るものと言えます。イエス様も「真理」について語っているので、キリスト教の真理について言っています。ただ、近年はいろんな宗教団体の不祥事や不正行為が相次ぐので、宗教が「真理」を説くことに多くの人たちは警戒感があるのではないでしょうか?そんな時世にキリスト教の真理について語るのは少し勇気のいることですが、本日の聖書日課でイエス様が言っている以上は避けて通ることはできません。なので、人にどう思われるか気にするあまり誰にでも安心して受け入れられるように変形することはせず、イエス様が今日の個所で教えていることを忠実に説き明かしていこうと思います。

 

 イエス様は時代、場所、人の立場や好みを越えて普遍的に人間に当てはまる「真理」を出してきました。そして、それが人を「自由にする」と言うのです。「自由にする」とは、何か自由でない状態、束縛された状態から解放するということです。なので、「自由にする」という言葉を聞いたら、何からの自由なのか、解放されるべき束縛状態とは何かを考えなければなりません。イエス様の「真理はあなたたちを自由にする」はどんな意味なのでしょうか?

 

2.洗礼を通してイエス様に繋がり聖餐を通して彼に留まる

 

 イエス様はこの言葉を彼を信じるようになったユダヤ人たちに言いました。イエス様を信じるようになったユダヤ人について。本日の個所があるヨハネ8章の21節からの流れを見てみますと、イエス様はエルサレムの恐らく神殿の境内で群衆を前にして自分は天の父なる神から遣わされたと説き明かします。彼を遣わした神は自分の父であり、自分は父に教えられた通りに話している、父はいつも自分と共にいて、自分は父の御心に適うことを行っていると述べた時、最初半信半疑だった人々は信じるようになったのです。彼らはイエス様が数多くの奇跡の業を行ってきたことを知っています。父なる神が共にいてその御心に適うことをしていると聞いて、その通りだとわかったのでしょう。

 

 そうすると、人々は奇跡の業があったからこの人が言っていることはその通りだと確信したことになります。これは、宗教一般にあてはまることだと思います。何か不思議な業、病気が治るとかお金が儲かるとか、そういうことをもたらす教祖なり霊があって、その教えなりお告げはその通りだと信じるのと同じです。ところが、今日の個所のイエス様の教えは実はそういう一般的な宗教現象の殻を打ち破る教えなのです。これからそれを見ていきます。

 

 イエス様は冒頭で言います。「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。」イエス様の言葉に留まるとはどういうことでしょうか?イエス様の教えを守るという意味でしょうか?イエス様の教えを守れば彼の弟子になれると言うのは意味が通ります。ならば、なぜはっきりそう言わないで、「言葉に留まる」などと言う言い方をしたのでしょうか?

 

 実はここには教えを守ることよりももっと広い深い意味があるのです。ヨハネ福音書の冒頭に「初めにことばありき」があります。この「ことば」はギリシャ語のロゴスで、イエス様のことを意味する言葉です。神の言葉が肉体を伴ってこの世に贈られて来たのがイエス様ということです。それで、ここの「私の言葉に留まるならば」というのは、ここもロゴスと言っているのでイエス様そのものです。なので、ズバリ「私に留まるならば」ということです。

 

 それでは「イエス様に留まる」とはどういう意味でしょうか?それは、イエス様の十字架と復活の出来事の後で明らかになります。この段階では将来起こることを前もって教えているのです。パウロがローマ6章で教えるように、人は洗礼を受けることでイエス様の死に結びつけられて自分の中にある罪に結びついた部分が力を失います。同時にイエス様の死からの復活にも結びつけられて罪と死を超える新しい命に生きるようになります。これがイエス様に留まることです。これがイエス様の弟子になることです。洗礼にはこのような意味があり、自分にそういうことが起こったのだとわかるのは、聖霊が働いたからです。人間の理性や知性ではわかりません。理性や知性はそういう霊的なことにいろいろ難癖をつけて疑うのが仕事です。ヨハネ福音書の後の方でイエス様が言うように、聖霊がイエス様の教えたこと命じたことを思い起こさせてくれるのです。イエス様が教え命じたことは互いに愛し合いなさいだけではありません。洗礼を授かること聖餐を受けることも命じられたのです。

 

 そこで、ここから本題に入ります。このように洗礼を通してイエス様に繋がって聖餐を通して彼に留まる者は「真理を知るようになる、そして真理はあなたたちを自由にする」。「真理を知る」も「自由にする」もギリシャ語原文では未来形です。将来のこと、まさに十字架と復活の出来事の後の状況を見据えて言っているとわかります。さあ、洗礼と聖餐を通してイエス様に繋がって留まると、真理を知るようになり、真理は自由にしてくれる、と。イエス様が言う「真理」とは?「自由」とは?

 

3.イエス様の真理

 

 これを明らかにするきっかけを作ってくれたのは、他でもない聴衆のユダヤ人たちでした。彼らは一般的な宗教の枠でイエス様を信じるようになりましたが、イエス様の真理と自由の教えに納得が行かなくなって反論します。おかげでイエス様は「真理」と「自由」の意味内容を明らかにできたのでした。

 

 ユダヤ人たちの反論はこうでした。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」ユダヤ人はモーセを通して神から掟を与えられたと、神由来の律法を持っていることを誇りとする民族です。そしてそれを守ることで神に認められていると自負する民族です。イエス様の時代、ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にありました。それでも彼らは律法を持ち、律法に従って男子に割礼を施し、律法に従って神殿での礼拝を守り、そして十戒の掟に従って両親を敬い、殺さない、不倫をしない、盗まない、偽証をしない、他人のものを妬まない等々を実践している、だから他民族の奴隷にはなっていない、それなのになぜ「自由になれる」などとあたかも今は奴隷状態にあるかのような言い方をするのか、と反論したのです。

 

 そこでイエス様は真理を突いてきます。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」お前たちは自由ではない、奴隷である、罪の奴隷である、と。ユダヤ人の中にも十戒の掟を守れない人たちは大勢いました。逆にあの金持ちの青年のように自分は子供の時から全て守ってきましたと言う人も大勢いました。どちらにしても、少なくとも男子は皆、割礼を施されるし、自分たちは神から与えられた律法を持つ民族であるという自負はありました。しかし、イエス様の律法については教えは、マタイ福音書5章を見るまでもなく、とてもラジカルでした。兄弟を憎んだり心の中で罵ったら、それで第5戒「汝殺すなかれ」を破ったことになる、異性をふしだらな目でみたら、それで第6戒「汝姦淫するなかれ」を破ったことになると。行いや言葉だけでなく心の中の思いまで問われているのです。これが十戒を与えた神の本意です。さて、心の中まで問われたら、誰も神の意思に沿える者などいなくなります。神の御前では人間はそのままの状態では神の意思に反する罪びとなのです。これがキリスト信仰の真理です。

 

 このイエス様の教えに倣ってパウロは今日の使徒書の日課ローマ3章で教えます。人間は神の意思に沿えない存在であるということについてはユダヤ人もそれ以外の民族も皆同じだと。どうして人間はそのような存在なのかということについては創世記3章が伝えています。神に造られた最初の人間が神の意思に反することをしてしまい、それで人間の中に神の意思に反しようとする性向、罪が入り込んでしまったという出来事です。神の許では永遠の命を持てたはずなのに、罪を持つようになって神との結びつきを失って寿命ある存在になってしまった。パウロはそのことを今日の個所で「神の栄光が欠けた」状態と言っています(日本語の訳はあまり良いとは思いません)。堕罪の前の人間は神の栄光を映し出す状態にあったのです。「神の栄光が欠けた」状態とはまさに罪と死の力に服する状態にあるということです。人間は全身全霊で神の意思に沿えず罪と死の力に服している、これは真理です。

 

 イエス様は罪の奴隷は「家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」と言いますが、これはあまり良い訳ではありません。「家」とは、神がおられるところ、神の国、天の御国のことです。ここの意味は、「罪の奴隷は永遠に神の国の外側にいる。神の御子つまりイエス様は永遠にその中にいる」です。人間は罪の支配に服する限り、神の御許に迎え入れられて再び神の栄光を映し出す存在になれる可能性がないということです。これも真理です。当時のユダヤ人だけでなく現代を生きる私たちにも当てはまる真理です。

 

4.イエス様の真理の到達点にある自由

 

 なぜイエス様はこんなに厳しい真理を私たちの目の前に突き付けたのでしょうか?これでは、私たちを自由にするどころが絶望に追いやってしまわないでしょうか?いいえ、そうではありません。イエス様の目的はあくまで私たちを罪の支配下から自由にすることなのです。突きつけられた真理が厳しければ厳しい程、そこからの自由は他のいかなる自由に比べられない程の大きな自由になります。なにしろ、罪の支配下から解放されて死を越えて神の栄光を映し出す存在になれることがかかっているからです。イエス様はそのような自由化をどのように実現するのでしょうか?

 

 罪の支配下から脱せるためにはどうしたらよいか?一つの考え方として、十戒の掟を守り通して神の意思に沿う存在になることがあります。パウロはそれを律法を通して得る義と呼びます。義とはまさしく神の意思に沿う状態を意味します。しかし、先にも述べましたように律法の義は破綻してしまったのです。イエス様が教えたように律法は守れば守ろうとするほど、追求しようとすればするほど、人間が神の意思に沿えない罪ある存在であることを示すものになります。パウロも今日の個所で言っていました。律法によっては罪の自覚しか生じない、だから律法を実行することによっては誰一人神の前で義とされないのだと。これも真理です。

 

 この行き詰まり状態を打開するために神はひとり子のイエス様を私たちに贈ったのでした。神はイエス様を私たち人間の全ての罪を償う生贄として十字架の死に引き渡すことにし、イエス様はその重い任務を引き受けたのでした。そして神は一度死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。そこで今度は人間の方が洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると、永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むようになります。その人はイエス様は真の救い主であるという信仰に満たされています。道の歩みにはいろいろなことがあるでしょう。しかし、洗礼の時に回復した神との結びつきは強固なもので逆境の時でも順境の時と全く変わらずにあります。この世から去る時もそうです。そして復活の日に眠りから目覚めさせられて、神の御許である神の国に永遠に迎え入れられるのです。神の栄光を映し出す復活の体を纏われて迎え入れられるのです。このようにキリスト信仰者は、義を律法を守ることによってではなく、神の取り計らいによって得ることが出来た者です。パウロが「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」と言っている通りです。その義はまさに「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」なのです。これがキリスト信仰の真理の到達点です。これが私たちを罪と死の支配から自由にするのです。

 

5.勧めと励まし

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは洗礼を通して永遠の命に至る道に置かれて今それを歩んでいます。神の栄光を映し出す復活の有り様になる日はまだ先ですが、この道に置かれたらもう半分位はそうなったと言っても過言ではありません。ルターは、イエス様を救い主と信じる信仰にある者の心と魂の部分は復活に到達しているのだと言っているほどです。残りの部分は、この肉の体が朽ち果てて復活の体に着替えさせられる時に到達するのだと。ところが、この肉の体が曲者です。パウロがローマ書の中で教えるように、肉の体には罪が宿っているからです。キリスト信仰者とは言え、神の意思に反する罪をまだ持っているのです。さすがにそれを行いに出してしまう可能性は低くなると思いますが、言葉や心の思いでは神の意思に反することが必ず出てきます。現実世界の中で人間関係に揉まれて生きるのでそうなるのです。その時は、半分位は復活しているという自信や安心は吹き飛んでしまいます。どうしたら良いでしょうか?信仰が試される時です。

 

 その時は、その思いと言葉とは神の意思に反する罪であったと自ら認めて、神に罪の赦しをお願いします。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、あなたの罪は我が子イエスがあそこで償いをした、あなたの罪の赦しはあそこに打ち立てられている、だから安心して行きなさい、これからは注意しなさいと言って下さるのです。キリスト信仰者は、この罪の自覚と赦しの願いと赦しの受け取りを繰り返しながらこの世の人生を歩みます。繰り返しがあるというのは、罪に負けているのではなく、罪に与しない罪に逆らって生きていることの証しです。これはまさに本日の旧約の日課エレミヤ書で言われていたこと、律法が心に書き記されたということです。かつては律法を行うことで義を獲得することが目指されていました。それは律法が人の外側にあって外側から人に強制するものでした。それが、イエス様の十字架上の贖罪と復活の出来事が起こって、それが本当に起こったと信じて受け入れた人に律法は心の中に書き記されるようになったのです。それで罪に与しない、罪に逆らって生きることが始まったのです。神はまさにそれを義と認めて下さり、復活の日に繰り返しの人生は終了するのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年10月5日月曜日

神の国の実を結ぶ者は誰か?(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年10月4日 聖霊降臨後第19主日

 

イザヤ書5章1-7節

フィリピに信徒への手紙3章4b-14節

マタイによる福音書21章33-44節

 

説教題 「神の国の実を結ぶ者は誰か?」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - 実現済みの預言ではなく現代にもかかわるたとえ

 

 本日の福音書の日課は、ぶろう畑の所有者と雇われ農夫についてのイエス様のたとえの教えです。この教えは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章のぶどう畑の話を土台にしています。両者は似ていますが違いもあります。イエス様はたとえの教えをユダヤ教社会の指導的立場にある人たちに話しました。彼らは旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、すかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すとわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。農夫がそうですし、所有者が送った僕や息子もしかり。指導者たちは「この預言者の再来と民衆に担がれている男はイザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。

 

イエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の状況が織り交ざっている面もありました。ブドウ畑の所有者は畑を農夫に任せて旅に出たとあります。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先になるのかと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者と労働者が異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景がわかると、農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたのは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのもの、ということです。

 

そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反乱について言っているように聞こえるかもしれません。しかし、イザヤ書の聖句が土台にあることを忘れてはなりません。そうすると、所有者に対する反乱は神に対する反乱であることがわかります。所有者が送った僕が殺されるというのも、イスラエルの民の歴史を振り返れば神が送った預言者たちを国の指導者たちが迫害したことだとわかります。そうなると邪悪な農夫たちは国の指導者を指すとわかります。

 

それならば、所有者の息子は誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それは一体なんのことか?そこで指導者たちは思い当たります。そう言えば、この男は自分を神の子と自称しているそうではないか。まさか…と思った、まさにその時でした。イエス様が指導者たちに質問しました。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、農夫たちをどうするか?」まだたとえの本当の意味がわかっていない指導者たちは当たり前のように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」

 

この答えの後でイエス様は「隅の親石」の話をします。家を建てる者が捨てたはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22-23節の聖句です。これは、イエス様の十字架と復活の出来事を知っている私たちから見れば意味は明らかです。捨てられた石は十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基、まさに隅の親石になったのです。その親石を捨てた「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの詩篇の聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた家を建てる者は愚か者であることがわかります。それは、たとえの邪悪な農夫と重なってきます。一体、この男はイザヤ書と詩篇の聖句を引き合いに出して何を言いたいのか?指導者たちはイエス様の次の言葉を固唾を飲んで待ちました。

 

 そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語でよく「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。イエス様はイザヤ書のたとえを土台にして彼の時代の社会経済状況を織り交ぜて話されたのでした。それは、イザヤ書の預言はまだ完結していないことを教えているのです。かつてイスラエルの民は神が期待する実を結ばなかったためにその社会は衰退と混乱に陥って最後は強大な敵国に滅ぼされて祖国を失ってしまった。それと同じように今も、もし神が期待する実を結ばなければ神の国を受け継ぐ資格を失ってしまうのだと教えているのです。イエス様の時代の700年以上も前に預言されてその後のバビロン捕囚で実現済みと思われていたことは実はイエス様の時代にもあてはまるということを教えているのです。

 

 これを聞いた指導者たちが激怒したのは無理もありません。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者は神です。神が送ったのに迫害され殺された僕たちは旧約聖書に登場する預言者たちです。邪悪な農夫はユダヤ教社会の指導者たちのことです。その指導者たちが神の子も殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すとでも言うのか?この男が神の子だと言うのか?これこそ神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り上げられて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!このように怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。

 

 しかしながら、神のひとり子が指導者たちによって殺されるということ、そして、ユダヤ民族に代わって異邦人が神の国を受け継ぐようになるということ、これらはイエス様の十字架と復活の出来事の後でその通りになったのです。イエス様の復活から50日後にキリスト教会が誕生しました。イエス様を救い主と信じたユダヤ人に加えて同じ信仰を持つ異邦人がなだれ込んで来るようになりました。さらに西暦70年にユダヤ民族の首都エルサレムとその神殿はローマ帝国の大軍の攻撃により壊滅し、その後キリスト教の主流はユダヤ人キリスト教徒から異邦人キリスト教徒に移っていきました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったのです。それでは、イエス様のたとえは実現済みの預言として片付けてしまっていいのでしょうか?

 

そうではないのです。イエス様のたとえは現代の私たちの地点から見たら確かに実現済みの預言にしか見えないかもしれませんが、実は現代を生きる私たちにどう生きるべきかを教えているのです。これからそのことを見ていきましょう。

 

2.神の国とは

 

 イエス様のたとえの教えが今を生きる私たちにも関わっていることがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられると言っていることに注目します。新共同訳では、神の国に「ふさわしい実」を結ぶ民族となっていますが、ギリシャ語原文を見ると、「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい実」ではなく、ずばり「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」は、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。つまり、ユダヤ民族かどうかに関係なく、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられると言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とは何なのか?もし「神の国にふさわしい実を結べ」と言われたら、頑張ってふさわしいものを目指さなければならないと頑張りを要求するものにならないでしょうか?ところが、「ふさわしい」がなくて、ずばり「神の国の実そのものを結べ」と言われたら、どうでしょう?何をどうすればいいのか途方にくれてしまうのではないでしょうか?実は、この「神の国の実を結ぶ」ということが、イエス様のたとえが今を生きる私たちに関わっていることなのです。どういうことか見ていきましょう。

 

 「神の国の実を結ぶ」がどういうことかわかるために、まず「神の国」とは何かをわかる必要があります。これはスオミ教会の説教で何度もお教えしたことです。少し復習します。

 

 神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を用いて認識・把握できるこの現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とこの中にあるものを造られた後は自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 

 神の国は今は私たちの目に見える形で私たちのもとにはありません。しかし、私たちのもとに目に見える形で来る日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造する、そういう天地の大変動が起こる時、再臨されるイエス様がその時点で生きている、神の目に適う者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして神の国に迎え入れられます。もちろん、最後の審判があることも忘れてはなりません。

 

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。それが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。それが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。

 

 このように神の国は神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとはそのような神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死の力に服する存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。

 

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間に自分との結びつきを回復させようと考えました。結びつきが回復すれば人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の神の国に迎え入れられます。こうしたことが可能になるためには結びつきを失わせている罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、人間は神の意思に完全に沿うように生きられないのでそれは不可能です。

 

 この問題を解決するために神はひとり子のイエス様をこの世に贈りました。人間の罪を全部ひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上で神罰を受けさせて死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に開かれました。そこで今度は私たち人間の方がイエス様の命じられた洗礼を受けると、彼の死と復活に結びつけられて新しい命を生きるようになります。洗礼の意味を自覚している者は、イエス様は本当に私を罪と死の支配から贖って下さった真の救い主なのだという信仰に満たされています。それでその人にはイエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたのでその人は神から罪を赦された者と見てもらえるのです。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになったのでその心は感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようという心になります。

 

 もちろん、キリスト信仰者と言えどもこの世ではまだ肉を纏って生きていますから、まだ罪を内に持っています。しかし、信仰者は神の意思に反することが自分にあると気づくと神に背を背けずに直ぐ神の方を向いて赦しを祈り願います。すると神は信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「お前の罪はあそこで赦されている。だからもう罪を犯さないように。」そのように信仰者を新しいスタート地点に立たせてくれるのが罪の赦しです。赦しとは罪を許可することではありません。罪は犯してはいけないのです。行いや言葉だけでなく心の思いも神の意思に反することは罪なのです。そんな罪ある私たちが神との結びつきを持てるようになるために神のひとり子の犠牲がなければならなかったのです。キリスト信仰者は神の意思に反する罪をイエス様の犠牲に免じて不問にしてもらって新しく出直すことを繰り返す種族です。そのことは本日の使徒書の日課フィリピ3章の中で使徒パウロも言っています。「過去のことは顧みないで前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走る」と(13~14節)。ゴールとは、言うまでもなく神の国へ迎え入れられる地点です。

 

3.勧めと励まし - 神の国の実を結ぶとは?

 

 イエス様は神の国の実を結ぶ者に神の国が与えられると言われました。罪の赦しという神からのお恵みを頂いて神の国への迎え入れを目指して歩むキリスト信仰者に神の国が与えられているのです。迎え入れの日はまだ先ですが、洗礼を受けることでゴールに到着できると神から約束してもらえました。途中で息切れすることがあっても聖餐式が呼吸を整えてくれます。迎え入れの日はまだでも神の国は聖餐に与かるキリスト信仰者の中で始まっているのです。では、キリスト信仰者はどのようにして神の国の実を結ぶのでしょうか?次の2つの仕方で結びます。

 

 まず、キリスト信仰者は罪の赦しという恵みを頂いたので神の意思に沿うように生きようと志向します。神の意思に沿うようにしようとするのは、神に目をかけてもらうためとか、何か褒美を期待してするのではありません。全く逆です。こちらはまだ何もしていないのに一足先に神の方が私に目をかけて罪の赦しをお恵みのように与えてしまった、だからもう神の意思に沿うように生きるしかないと観念する。そのように神の意思に沿うことが手段ではなく結果になっていることが神の国の実を結ぶことです。パウロが本日のフィリピの手紙の中で義について述べていました。義とは、神聖な神の御前に立たされても大丈夫でいられる、焼き尽くされない状態のことです。律法を守ることで人間が自分の力で獲得しようとする義とイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神が与えてくれる義の二つが言われていました。信仰のゆえに与えられる義はまさに救いの結果として神の意思に沿うことになる義です。律法を守ることで獲得しようとする義は神の意思に沿うことを救いを得るための手段にする義です。パウロはそれをゴミと言います。

 

 もう一つの大切なことは、罪の赦しという恵みの中で生きると、罪を自覚し赦しを祈り願い、イエス様の犠牲に免じて赦しを頂いて新しく出直す、このことを何度も何度も繰り返す生き方になります。そうすることで神の意思に反することに与しない、罪に反抗する生き方をしていることを証しすることになります。これも神の国の実を結ぶことです。

 

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しという恵みに留まって神の国の迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2026年9月22日火曜日

罪の赦しという神の恵みに満たされてこの世を生きる(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2026年9月13日(聖霊降臨後第十六主日)スオミ教会

 

創世記50章15-21節

ローマの信徒への手紙14章1-12節

マタイによる福音書18章21-35節

 

 

説教題 「罪の赦しという神の恵みに満たされてこの世を生きる」

 

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. はじめに

 

 今日のイエス様のたとえの教えはこうでした。王様に多額の負債があった家来が泣きついて借金を帳消しにしてもらった。ところが、その家来は自分に少額の借金がある仲間の家来に対しては泣きつかれても耳を貸さず牢屋に入れてしまった。それを知った王様はこの家来に怒り、自分がしたように情けをかけるべきではないかと言って牢屋に入れてしまったという話でした。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら他の人にもそうしなければいけないと教えているんだと思うでしょう。

 

 ここに出てくる金額を少し具体的に見てみます。そうすると情けをかけることが当然ということがよくわかります。情けのない家来が仲間の家来に貸していた額は大体100万円です。その彼が王様に負っていた負債額は6,000憶円。(これらの金額の算出方法はホームページに説教文を載せる時にそこで説明します)。情けのない家来は6,000億円の負債を帳消しにしてもらったのに、他人の100万円の借金は免除してあげなかった。これだけ莫大な借金を免除されたら、普通だったら、解放感とこれからは新しい人生を歩めると希望や感謝に満たされて、誰かが少しの借金の返済を待って下さいとお願いしたら、そんなものはもういいですよ、という気持ちになるのではないだろうか?それなのにこの家来はそうしなかった。イエス様はなぜこの情けのない家来の話をしたのでしょうか?

 

 このたとえは、イエス様がペトロの質問に答えてその続きに来ます。ペトロの質問は、兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげるべきか、7回までかというものでした。つまり、赦しには限度があってそれを越えたらもう赦さなくていいのか、ということです。それに対するイエス様の答えは、7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、つまり490回でした。イエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。

 

 キリスト信仰者は罪を犯した兄弟を無制限に赦さなければならない。なぜなら、信仰者が神から罪の赦しを受けたというのは1万タラントンの負債を帳消しにされたことと同じことで、兄弟の犯した罪など6,000憶円に対する100万円くらいのちっぽけなものにすぎない、だから兄弟の罪を無制限に赦すのは当然のことになるからです。それではどうして当然のことにならなかった家来の話をしたのでしょうか?今日はそのことを考えてみましょう。

 

2.「兄弟」とは?「罪」とは?「赦す」とは?

 

 まず初めに3つの基本的な事柄を整理しておきます。一つ目は、「私の兄弟が罪を犯したら」と言いますが、兄弟とは誰のことか?二つ目は、罪を犯すとはどんな悪さをすることか?そして三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?についてです。

 

 まず、「私の兄弟」とは、先週の説教でもお教えしたように、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者から罪を犯されるという問題について論じているのです。

 

 次に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」とはどんな悪さをすることでしょうか?「罪を犯す」などと言うと、何か法律上の犯罪を犯すことを連想します。しかし、これはもっと広い意味があります。要は、十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな等々を行為だけでなく、言葉に出してしまったり、心の中で持ってしまうことです。このように神の意思に反することを行為のみならず、心の中で持ってしまったり、言葉で言い表してしまうことが罪を犯すことです。

 

 三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?キリスト信仰で罪を赦すというのは、相手が神の意思に反することをした時、された側は、先週の説教でお教えしたように、それは神の意思に反することだということを気づかせて、相手がそれを認めて謝ったら、それを受け入れて、受け入れたら今後は取りざたしない、不問にするというのが赦しです。イザヤ書43章25節で、神は言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」思い出さないことにするというのが赦すことです。エレミヤ書31章34節でも神は同じように言われます。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」もう心に留めないというのが赦すことです。ミカ書7章19節で預言者は言います。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」神は民の罪を表ざたにしないで奥深く沈めてしまう、これが罪の赦しです。神の意思に反する罪が起きてしまった、それはもう打ち消すことができない事実である、しかし、それをさもなかったかのようにするから、新しく出直しなさい、と。そういうふうに、神の罪の赦しには罪を犯した者が新しく出発できるようにするということが一緒になっています。

 

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。私も時々聞かれるのですが、キリスト教は罪を赦すので処罰はなにもないのか、犯罪を犯しても、さもなかったかのようにしてしまったら、犯罪は野放しになってしまうではないか、というものです。罪を赦すとは、してもいいよと罪を許可することではありません。日本語の「ゆるす」は二つの異なる漢字があるので混同されやすいと思います。罪は神の意思に反することなのでしてはいけないのです。心の中で思っても口に出してもいけないのです。もし犯したら、「命の書」に書き留められて最後の審判の時にお前はこうだったと突きつけられるのです。まさに、本日の使徒書の日課ローマ14章で言われるように、かの日には各自一人一人が神の前に立たされて自分自身について申し開きをしなければならなくなるのです。果たして神に対して申し開きなど出来るでしょうか?

 

 ヨハネ8章でイエス様は罪を犯したために石打の刑にかけられそうになった女性を助け出して次のように言いました。「わたしもあなたを裁かない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」新共同訳では「罪に定めない」ですが、ギリシャ語原文では「裁かない」です。イエス様が裁かないと言うのは、お前の罪は「命の書」に書き留められてしまったが、最後の審判の時にとやかく言われることはなく、申し開きの必要もないということです。なぜそうなったかと言うと罪が赦されたからです。イエス様からそのような赦しを受けて、「もう犯したらだめだよ」と言われたら、本当にその通りにしなければ、と思うでしょう。このように罪を赦すというのは罪を許可することと全く正反対な方向に向かうのです。

 

 犯罪は処罰しないのかという疑問が残ると思います。それについて私は次のように考えます。社会には法律があり、犯罪について規定があり、刑罰や賠償について規定があります。それらに従って犯罪を確定して刑罰や賠償が課せられるのは当然です。なぜなら神は、殺すな、傷つけるなと命じているので、そのようなことが社会で好き勝手に行われるのを放置してはいけないからです。そう言うと、なんだ、赦していないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、犯罪の場合、赦しと刑罰は別々に考えるべきものと思います。赦しは被害を受けた人の心に関わることです。処罰や賠償は、社会が正義に基づいて成り立つために定められたものです。なので処罰や賠償は社会の安定に関わることです。

 

 ここで罪の赦しは心に関わるということを少し見てみます。キリスト信仰では、完全な正義は最後の審判の時に最終的に実現するという立場です。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は自分で復讐をしてはならない、神の怒りに任せよと言います。神の怒りに任せよというのは、最終的な判決、処罰、賠償は最後の審判の時に神が行うのでそれに任せよということです。最終的な判決、処罰、賠償をこの世で目指すと自分を神に置き換えて自分で復讐することになってしまうと思います。自分で復讐しないで最後の審判の神の怒りに委ねつつ、この世で正義を実現しようとすると次のようになると思います。まず、社会の法律や規定は万能薬ではないと観念する。なぜなら、こんな処罰、賠償では甘すぎる!とか逆に、行き過ぎではないか?ということが出てくるからです。そうした法律や規定を神の意思に沿うように運用して、最善の正義を目指すということになると思います。そういうふうにキリスト信仰者は正義を目指しつつも、パウロが教えるように敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませます。実際に行動に移せるようになるために心の有り様はそうなっていなければならないのです。処罰や賠償が社会の安定に関わるものなら、赦しは心の安定に関わるものです。

 

 それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰でこのような心は生まれるでしょうか?本日のイエス様のたとえは、それが生まれることを教えます。

 

3.罪の赦し = 神に対する莫大な負債の帳消し

 

 まずイエス様は本日のたとえの教えで、キリスト信仰者にとって罪の赦しは莫大な負債を帳消しにされたのと同じだと言っていることを見てみましょう。このたとえを最初に聞いた弟子たちは、莫大な負債を帳消しにしてもらったら他人の小さな借金など取るに足らないものに感じるというのはわかったでしょう。しかし、それが罪の無制限の赦しとどう結びつくのか?お前たちは莫大な負債を帳消しにしてもらったのだ、だから兄弟の罪など小さな借金と同じだ、兄弟の罪を無制限に赦してやるのは当然だ、そう言われても、自分たちにとって莫大な負債の帳消しとは一体何なんだ?ということになってしまいます。兄弟の罪に対する無制限の赦しと自分たちの莫大な負債の帳消しの結びつきが見えてきません。

 

 ところが、それがはっきりわかる日が来るのです。イエス様の十字架の死と死からの復活の日がそれです。イエス様が神の想像を超える力で死から復活されて天の神のもとにあげられたのを目撃した弟子たちは、あの方こそ、かつてダビデ王が私の主と呼んだ方で、父なる神の右に座すことになった方なのだ、つまり神のひとり子だったのだということが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかかって痛々しく死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間の代わりに受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。このように全てのことが事後的に旧約聖書を介して次々とわかるようになったのです。十字架と復活の出来事の後に全てがわかるようになった使徒たちは次のように記しました。

 

パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)まさに罪の赦しは神の恵みなのです。

 

 ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)

 

彼らはイエス様が十字架の出来事の前に言われた次の言葉の意味がわかりました。

 

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」(マルコ10章45節)

 

 神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として人間が罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が開けたのでした。神の子の命が身代金になったのです。その価値は6,000億円など取るに足らない、まさに地上から見上げる天のような高さの価値なのです。私たちがこの世で神との結びつきを持って生きることを妨げていたもの、そして、この世の人生の後で神の国に迎え入れられることを妨げていたもの、すなわち罪という負債を神は御子を用いて帳消しにしたのです。

 

 このようにして人間は自分では何の償いもしていないのに、神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで罪を償ってもらい、償ってもらったから罪を赦された者として見てもらえる、そういう状況が生み出されました。

 

 そこで今度は人間の方が、イエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて、この罪の赦しの状況に入れることとなりました。この中に入った人は、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起きたのだとわかり、それでイエス様は真に自分の救い主だと知っています。その人は死を超える永遠の命に向かう道に置かれてその道を歩み始めます。そして、この世を去る時が来ても、安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。本日の使徒書の日課ローマ14章でパウロが、キリスト信仰者は生きる時も死ぬ時も主のものとしてあると言っている通りです。復活の日までの眠りの時もずっと主のものであり続け、復活の日に目覚めさせられて永遠に造り主の神の御許に迎え入れられるのです。このようにキリスト信仰者はイエス様の十字架と復活の業のおかげと彼を救い主と信じる信仰によって、罪の赦しという神の恵みに満たされて、この世と次に到来する世の双方にまたがって生きていきます。

 

4.勧めと励まし

 

 これでキリスト信仰者は莫大な負債の帳消しが自分に起こったことがわかります。罪という神に対する負債で、そのままにしておくと、この世で神との結びつきを持てず、次に到来する世で神の国に迎え入れられなくなってしまうという負債です。それを神はひとり子を犠牲にして帳消しにして下さったのです。このような帳消しは、兄弟が犯した罪などを小さなものにし、赦しを「心から」するものに変えていきます。たとえの家来は、少額の借金の家来が猶予を求めても聞き入れず牢屋に送ってしまいました。これは、罪を犯した兄弟が赦しを求めても赦さないで裁いてしまうことを表します。情けのない家来が牢屋に入れられてしまったように、赦さない信仰者は裁かれてしまうのです。

 

 それにしても、どうして赦すことができないということが起こるのでしょうか?それは、永遠の生死にかかわる莫大な負債の帳消しが神のひとり子の犠牲の上に成されたこと、それがどれほど尊い犠牲であるかが心に刻まれていないからそうなるのです。イエス様がこの家来の話をしたのは、キリスト信仰者が果たして罪の赦しという神の恵みに満たされているかどうかを自問するためなのです。

 

 最後に、もし罪を犯した兄弟がそれを認めず謝罪もない場合はどうすべきでしょうか?その場合は赦さなくてもよいのでしょうか?いいえ、そうではありません。これは、先週お教えしたことを思い出せばよいでしょう。そのような心の頑なな兄弟は、害を被った信仰者にとって異邦人か取税人のようになればいい、ということでした。ただし、その趣旨は断罪的ではないと申しました。その兄弟の問題は神との結びつきが揺らいで天の国への歩みに支障が生じたということです。だから、それを元に戻せるようにすることが目指されなければなりません。それで害を被った兄弟は証人や教会の代表者と一緒に祈ることから始めなければならないと申しました。これは裁くことと正反対のことです。まさに心から赦す準備ができていることです。なので異邦人か取税人のようになればいいと言うのは、目下のところはそのようなものでいるのは仕方ないが、時が来れば兄弟に戻ると信じているということです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

100デナリオンと1万タラントンについて

1デナリオンは当時の低賃金労働者の1日の賃金です。それで100デナリオンは100日分の賃金。少し乱暴な比較になりますが、東京都の最低賃金は今年は時給1,280円。一日8時間働いたら10,240円。端数を切捨てて一日1万円として、100日分だったら100万円。これが100デナリオン。次に1万タラントン。1タラントンは6,000デナリオンなので、6千万円になります。さらにこれが1万あるとすると、0をさらに4つつけて6,000憶円になります。