2026年10月26日月曜日

キリスト信仰にとって真理とは?自由とは?(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年10月25日 宗教改革主日

 

エレミヤ書31章31~34節

ローマの信徒への手紙3章19~28節

ヨハネによる福音書8章31~36節

 

説教題 「キリスト信仰にとって真理とは?自由とは?」

 

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 イエス様を信じるようになったユダヤ人たちにイエス様が言いました。「真理はあなたたちを自由にする。」これはどういう意味でしょうか?それがわかるためには、イエス様が言う「真理」とは何か、「自由」とは何かがわからないといけません。それがわかると、このユダヤ人に向けられたイエス様の言葉は実は現代を生きている私たちにも当てはまるものであることがわかります。今日はそのことを見ていこうと思います。

 

 まず、「真理」とは何かについて少し一般的に考えてみます。似ている言葉に「真実」があります。例えば政治家が不正を行ったという疑惑をもたれる新聞の社説は「大臣は真実を語るべきだ」などと書き立てます。その場合、「大臣は真理を語るべき」とは言わないでしょう。つまり、「真実」は偽りでないこと本当のことを意味するとわかります。「真理」も本当のことですが、次元が異なります。そこで大臣が公けに何か釈明したとします。金欲、権力欲に長けた人なら不都合な真実は語らないでしょう。ただ、彼の政党の支持者たちはそれは「真実」だろうと受け入れるでしょう。支持者でない人たちは真実ではないと言うでしょう。このように「真実」は人の立場や利害や見方に左右される可能性があると言ってよいでしょう。あなたにとって真実でも私にとって真実ではないということがありうるのです。

 

 「真理」の方は、立場、利害、見方を越えて全ての人にとってその通りであるものと言ってよいでしょう。自然の法則が良い例だと思います。光は1秒間に30万キロの速度で進みます。これは、そんなの速すぎてイヤと言う人にも当てはまります。平地で水を温めると100度で沸騰するのも同じです。50度で十分だと言っても、天地創造の神はその温度に定めたのでそれを受け入れてお湯を沸かすしかありません。これらは自然界の法則ですが、人間界のことでも同じように場所と時代を越えて普遍的に当てはまるものがある、好むと好まざるにかかわらず人がこの世で生きる時に共通して前提にしなければならないものがある、そういうものを「真理」と言ってよいと思います。(ここで一つ興味深いのは、日本語では「真理」と「真実」と区別していますが、英語では両方一緒にtruthと言います。フィンランド語でも同じ言葉のtotuusです。

 

 一般に宗教はそういう「真理」について語るものと言えます。イエス様も「真理」について語っているので、キリスト教の真理について言っています。ただ、近年はいろんな宗教団体の不祥事や不正行為が相次ぐので、宗教が「真理」を説くことに多くの人たちは警戒感があるのではないでしょうか?そんな時世にキリスト教の真理について語るのは少し勇気のいることですが、本日の聖書日課でイエス様が言っている以上は避けて通ることはできません。なので、人にどう思われるか気にするあまり誰にでも安心して受け入れられるように変形することはせず、イエス様が今日の個所で教えていることを忠実に説き明かしていこうと思います。

 

 イエス様は時代、場所、人の立場や好みを越えて普遍的に人間に当てはまる「真理」を出してきました。そして、それが人を「自由にする」と言うのです。「自由にする」とは、何か自由でない状態、束縛された状態から解放するということです。なので、「自由にする」という言葉を聞いたら、何からの自由なのか、解放されるべき束縛状態とは何かを考えなければなりません。イエス様の「真理はあなたたちを自由にする」はどんな意味なのでしょうか?

 

2.洗礼を通してイエス様に繋がり聖餐を通して彼に留まる

 

 イエス様はこの言葉を彼を信じるようになったユダヤ人たちに言いました。イエス様を信じるようになったユダヤ人について。本日の個所があるヨハネ8章の21節からの流れを見てみますと、イエス様はエルサレムの恐らく神殿の境内で群衆を前にして自分は天の父なる神から遣わされたと説き明かします。彼を遣わした神は自分の父であり、自分は父に教えられた通りに話している、父はいつも自分と共にいて、自分は父の御心に適うことを行っていると述べた時、最初半信半疑だった人々は信じるようになったのです。彼らはイエス様が数多くの奇跡の業を行ってきたことを知っています。父なる神が共にいてその御心に適うことをしていると聞いて、その通りだとわかったのでしょう。

 

 そうすると、人々は奇跡の業があったからこの人が言っていることはその通りだと確信したことになります。これは、宗教一般にあてはまることだと思います。何か不思議な業、病気が治るとかお金が儲かるとか、そういうことをもたらす教祖なり霊があって、その教えなりお告げはその通りだと信じるのと同じです。ところが、今日の個所のイエス様の教えは実はそういう一般的な宗教現象の殻を打ち破る教えなのです。これからそれを見ていきます。

 

 イエス様は冒頭で言います。「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。」イエス様の言葉に留まるとはどういうことでしょうか?イエス様の教えを守るという意味でしょうか?イエス様の教えを守れば彼の弟子になれると言うのは意味が通ります。ならば、なぜはっきりそう言わないで、「言葉に留まる」などと言う言い方をしたのでしょうか?

 

 実はここには教えを守ることよりももっと広い深い意味があるのです。ヨハネ福音書の冒頭に「初めにことばありき」があります。この「ことば」はギリシャ語のロゴスで、イエス様のことを意味する言葉です。神の言葉が肉体を伴ってこの世に贈られて来たのがイエス様ということです。それで、ここの「私の言葉に留まるならば」というのは、ここもロゴスと言っているのでイエス様そのものです。なので、ズバリ「私に留まるならば」ということです。

 

 それでは「イエス様に留まる」とはどういう意味でしょうか?それは、イエス様の十字架と復活の出来事の後で明らかになります。この段階では将来起こることを前もって教えているのです。パウロがローマ6章で教えるように、人は洗礼を受けることでイエス様の死に結びつけられて自分の中にある罪に結びついた部分が力を失います。同時にイエス様の死からの復活にも結びつけられて罪と死を超える新しい命に生きるようになります。これがイエス様に留まることです。これがイエス様の弟子になることです。洗礼にはこのような意味があり、自分にそういうことが起こったのだとわかるのは、聖霊が働いたからです。人間の理性や知性ではわかりません。理性や知性はそういう霊的なことにいろいろ難癖をつけて疑うのが仕事です。ヨハネ福音書の後の方でイエス様が言うように、聖霊がイエス様の教えたこと命じたことを思い起こさせてくれるのです。イエス様が教え命じたことは互いに愛し合いなさいだけではありません。洗礼を授かること聖餐を受けることも命じられたのです。

 

 そこで、ここから本題に入ります。このように洗礼を通してイエス様に繋がって聖餐を通して彼に留まる者は「真理を知るようになる、そして真理はあなたたちを自由にする」。「真理を知る」も「自由にする」もギリシャ語原文では未来形です。将来のこと、まさに十字架と復活の出来事の後の状況を見据えて言っているとわかります。さあ、洗礼と聖餐を通してイエス様に繋がって留まると、真理を知るようになり、真理は自由にしてくれる、と。イエス様が言う「真理」とは?「自由」とは?

 

3.イエス様の真理

 

 これを明らかにするきっかけを作ってくれたのは、他でもない聴衆のユダヤ人たちでした。彼らは一般的な宗教の枠でイエス様を信じるようになりましたが、イエス様の真理と自由の教えに納得が行かなくなって反論します。おかげでイエス様は「真理」と「自由」の意味内容を明らかにできたのでした。

 

 ユダヤ人たちの反論はこうでした。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」ユダヤ人はモーセを通して神から掟を与えられたと、神由来の律法を持っていることを誇りとする民族です。そしてそれを守ることで神に認められていると自負する民族です。イエス様の時代、ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にありました。それでも彼らは律法を持ち、律法に従って男子に割礼を施し、律法に従って神殿での礼拝を守り、そして十戒の掟に従って両親を敬い、殺さない、不倫をしない、盗まない、偽証をしない、他人のものを妬まない等々を実践している、だから他民族の奴隷にはなっていない、それなのになぜ「自由になれる」などとあたかも今は奴隷状態にあるかのような言い方をするのか、と反論したのです。

 

 そこでイエス様は真理を突いてきます。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」お前たちは自由ではない、奴隷である、罪の奴隷である、と。ユダヤ人の中にも十戒の掟を守れない人たちは大勢いました。逆にあの金持ちの青年のように自分は子供の時から全て守ってきましたと言う人も大勢いました。どちらにしても、少なくとも男子は皆、割礼を施されるし、自分たちは神から与えられた律法を持つ民族であるという自負はありました。しかし、イエス様の律法については教えは、マタイ福音書5章を見るまでもなく、とてもラジカルでした。兄弟を憎んだり心の中で罵ったら、それで第5戒「汝殺すなかれ」を破ったことになる、異性をふしだらな目でみたら、それで第6戒「汝姦淫するなかれ」を破ったことになると。行いや言葉だけでなく心の中の思いまで問われているのです。これが十戒を与えた神の本意です。さて、心の中まで問われたら、誰も神の意思に沿える者などいなくなります。神の御前では人間はそのままの状態では神の意思に反する罪びとなのです。これがキリスト信仰の真理です。

 

 このイエス様の教えに倣ってパウロは今日の使徒書の日課ローマ3章で教えます。人間は神の意思に沿えない存在であるということについてはユダヤ人もそれ以外の民族も皆同じだと。どうして人間はそのような存在なのかということについては創世記3章が伝えています。神に造られた最初の人間が神の意思に反することをしてしまい、それで人間の中に神の意思に反しようとする性向、罪が入り込んでしまったという出来事です。神の許では永遠の命を持てたはずなのに、罪を持つようになって神との結びつきを失って寿命ある存在になってしまった。パウロはそのことを今日の個所で「神の栄光が欠けた」状態と言っています(日本語の訳はあまり良いとは思いません)。堕罪の前の人間は神の栄光を映し出す状態にあったのです。「神の栄光が欠けた」状態とはまさに罪と死の力に服する状態にあるということです。人間は全身全霊で神の意思に沿えず罪と死の力に服している、これは真理です。

 

 イエス様は罪の奴隷は「家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」と言いますが、これはあまり良い訳ではありません。「家」とは、神がおられるところ、神の国、天の御国のことです。ここの意味は、「罪の奴隷は永遠に神の国の外側にいる。神の御子つまりイエス様は永遠にその中にいる」です。人間は罪の支配に服する限り、神の御許に迎え入れられて再び神の栄光を映し出す存在になれる可能性がないということです。これも真理です。当時のユダヤ人だけでなく現代を生きる私たちにも当てはまる真理です。

 

4.イエス様の真理の到達点にある自由

 

 なぜイエス様はこんなに厳しい真理を私たちの目の前に突き付けたのでしょうか?これでは、私たちを自由にするどころが絶望に追いやってしまわないでしょうか?いいえ、そうではありません。イエス様の目的はあくまで私たちを罪の支配下から自由にすることなのです。突きつけられた真理が厳しければ厳しい程、そこからの自由は他のいかなる自由に比べられない程の大きな自由になります。なにしろ、罪の支配下から解放されて死を越えて神の栄光を映し出す存在になれることがかかっているからです。イエス様はそのような自由化をどのように実現するのでしょうか?

 

 罪の支配下から脱せるためにはどうしたらよいか?一つの考え方として、十戒の掟を守り通して神の意思に沿う存在になることがあります。パウロはそれを律法を通して得る義と呼びます。義とはまさしく神の意思に沿う状態を意味します。しかし、先にも述べましたように律法の義は破綻してしまったのです。イエス様が教えたように律法は守れば守ろうとするほど、追求しようとすればするほど、人間が神の意思に沿えない罪ある存在であることを示すものになります。パウロも今日の個所で言っていました。律法によっては罪の自覚しか生じない、だから律法を実行することによっては誰一人神の前で義とされないのだと。これも真理です。

 

 この行き詰まり状態を打開するために神はひとり子のイエス様を私たちに贈ったのでした。神はイエス様を私たち人間の全ての罪を償う生贄として十字架の死に引き渡すことにし、イエス様はその重い任務を引き受けたのでした。そして神は一度死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。そこで今度は人間の方が洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると、永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むようになります。その人はイエス様は真の救い主であるという信仰に満たされています。道の歩みにはいろいろなことがあるでしょう。しかし、洗礼の時に回復した神との結びつきは強固なもので逆境の時でも順境の時と全く変わらずにあります。この世から去る時もそうです。そして復活の日に眠りから目覚めさせられて、神の御許である神の国に永遠に迎え入れられるのです。神の栄光を映し出す復活の体を纏われて迎え入れられるのです。このようにキリスト信仰者は、義を律法を守ることによってではなく、神の取り計らいによって得ることが出来た者です。パウロが「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」と言っている通りです。その義はまさに「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」なのです。これがキリスト信仰の真理の到達点です。これが私たちを罪と死の支配から自由にするのです。

 

5.勧めと励まし

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは洗礼を通して永遠の命に至る道に置かれて今それを歩んでいます。神の栄光を映し出す復活の有り様になる日はまだ先ですが、この道に置かれたらもう半分位はそうなったと言っても過言ではありません。ルターは、イエス様を救い主と信じる信仰にある者の心と魂の部分は復活に到達しているのだと言っているほどです。残りの部分は、この肉の体が朽ち果てて復活の体に着替えさせられる時に到達するのだと。ところが、この肉の体が曲者です。パウロがローマ書の中で教えるように、肉の体には罪が宿っているからです。キリスト信仰者とは言え、神の意思に反する罪をまだ持っているのです。さすがにそれを行いに出してしまう可能性は低くなると思いますが、言葉や心の思いでは神の意思に反することが必ず出てきます。現実世界の中で人間関係に揉まれて生きるのでそうなるのです。その時は、半分位は復活しているという自信や安心は吹き飛んでしまいます。どうしたら良いでしょうか?信仰が試される時です。

 

 その時は、その思いと言葉とは神の意思に反する罪であったと自ら認めて、神に罪の赦しをお願いします。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、あなたの罪は我が子イエスがあそこで償いをした、あなたの罪の赦しはあそこに打ち立てられている、だから安心して行きなさい、これからは注意しなさいと言って下さるのです。キリスト信仰者は、この罪の自覚と赦しの願いと赦しの受け取りを繰り返しながらこの世の人生を歩みます。繰り返しがあるというのは、罪に負けているのではなく、罪に与しない罪に逆らって生きていることの証しです。これはまさに本日の旧約の日課エレミヤ書で言われていたこと、律法が心に書き記されたということです。かつては律法を行うことで義を獲得することが目指されていました。それは律法が人の外側にあって外側から人に強制するものでした。それが、イエス様の十字架上の贖罪と復活の出来事が起こって、それが本当に起こったと信じて受け入れた人に律法は心の中に書き記されるようになったのです。それで罪に与しない、罪に逆らって生きることが始まったのです。神はまさにそれを義と認めて下さり、復活の日に繰り返しの人生は終了するのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年10月5日月曜日

神の国の実を結ぶ者は誰か?(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年10月4日 聖霊降臨後第19主日

 

イザヤ書5章1-7節

フィリピに信徒への手紙3章4b-14節

マタイによる福音書21章33-44節

 

説教題 「神の国の実を結ぶ者は誰か?」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - 実現済みの預言ではなく現代にもかかわるたとえ

 

 本日の福音書の日課は、ぶろう畑の所有者と雇われ農夫についてのイエス様のたとえの教えです。この教えは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章のぶどう畑の話を土台にしています。両者は似ていますが違いもあります。イエス様はたとえの教えをユダヤ教社会の指導的立場にある人たちに話しました。彼らは旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、すかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すとわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。農夫がそうですし、所有者が送った僕や息子もしかり。指導者たちは「この預言者の再来と民衆に担がれている男はイザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。

 

イエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の状況が織り交ざっている面もありました。ブドウ畑の所有者は畑を農夫に任せて旅に出たとあります。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先になるのかと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者と労働者が異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景がわかると、農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたのは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのもの、ということです。

 

そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反乱について言っているように聞こえるかもしれません。しかし、イザヤ書の聖句が土台にあることを忘れてはなりません。そうすると、所有者に対する反乱は神に対する反乱であることがわかります。所有者が送った僕が殺されるというのも、イスラエルの民の歴史を振り返れば神が送った預言者たちを国の指導者たちが迫害したことだとわかります。そうなると邪悪な農夫たちは国の指導者を指すとわかります。

 

それならば、所有者の息子は誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それは一体なんのことか?そこで指導者たちは思い当たります。そう言えば、この男は自分を神の子と自称しているそうではないか。まさか…と思った、まさにその時でした。イエス様が指導者たちに質問しました。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、農夫たちをどうするか?」まだたとえの本当の意味がわかっていない指導者たちは当たり前のように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」

 

この答えの後でイエス様は「隅の親石」の話をします。家を建てる者が捨てたはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22-23節の聖句です。これは、イエス様の十字架と復活の出来事を知っている私たちから見れば意味は明らかです。捨てられた石は十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基、まさに隅の親石になったのです。その親石を捨てた「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの詩篇の聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた家を建てる者は愚か者であることがわかります。それは、たとえの邪悪な農夫と重なってきます。一体、この男はイザヤ書と詩篇の聖句を引き合いに出して何を言いたいのか?指導者たちはイエス様の次の言葉を固唾を飲んで待ちました。

 

 そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語でよく「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。イエス様はイザヤ書のたとえを土台にして彼の時代の社会経済状況を織り交ぜて話されたのでした。それは、イザヤ書の預言はまだ完結していないことを教えているのです。かつてイスラエルの民は神が期待する実を結ばなかったためにその社会は衰退と混乱に陥って最後は強大な敵国に滅ぼされて祖国を失ってしまった。それと同じように今も、もし神が期待する実を結ばなければ神の国を受け継ぐ資格を失ってしまうのだと教えているのです。イエス様の時代の700年以上も前に預言されてその後のバビロン捕囚で実現済みと思われていたことは実はイエス様の時代にもあてはまるということを教えているのです。

 

 これを聞いた指導者たちが激怒したのは無理もありません。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者は神です。神が送ったのに迫害され殺された僕たちは旧約聖書に登場する預言者たちです。邪悪な農夫はユダヤ教社会の指導者たちのことです。その指導者たちが神の子も殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すとでも言うのか?この男が神の子だと言うのか?これこそ神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り上げられて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!このように怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。

 

 しかしながら、神のひとり子が指導者たちによって殺されるということ、そして、ユダヤ民族に代わって異邦人が神の国を受け継ぐようになるということ、これらはイエス様の十字架と復活の出来事の後でその通りになったのです。イエス様の復活から50日後にキリスト教会が誕生しました。イエス様を救い主と信じたユダヤ人に加えて同じ信仰を持つ異邦人がなだれ込んで来るようになりました。さらに西暦70年にユダヤ民族の首都エルサレムとその神殿はローマ帝国の大軍の攻撃により壊滅し、その後キリスト教の主流はユダヤ人キリスト教徒から異邦人キリスト教徒に移っていきました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったのです。それでは、イエス様のたとえは実現済みの預言として片付けてしまっていいのでしょうか?

 

そうではないのです。イエス様のたとえは現代の私たちの地点から見たら確かに実現済みの預言にしか見えないかもしれませんが、実は現代を生きる私たちにどう生きるべきかを教えているのです。これからそのことを見ていきましょう。

 

2.神の国とは

 

 イエス様のたとえの教えが今を生きる私たちにも関わっていることがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられると言っていることに注目します。新共同訳では、神の国に「ふさわしい実」を結ぶ民族となっていますが、ギリシャ語原文を見ると、「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい実」ではなく、ずばり「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」は、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。つまり、ユダヤ民族かどうかに関係なく、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられると言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とは何なのか?もし「神の国にふさわしい実を結べ」と言われたら、頑張ってふさわしいものを目指さなければならないと頑張りを要求するものにならないでしょうか?ところが、「ふさわしい」がなくて、ずばり「神の国の実そのものを結べ」と言われたら、どうでしょう?何をどうすればいいのか途方にくれてしまうのではないでしょうか?実は、この「神の国の実を結ぶ」ということが、イエス様のたとえが今を生きる私たちに関わっていることなのです。どういうことか見ていきましょう。

 

 「神の国の実を結ぶ」がどういうことかわかるために、まず「神の国」とは何かをわかる必要があります。これはスオミ教会の説教で何度もお教えしたことです。少し復習します。

 

 神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を用いて認識・把握できるこの現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とこの中にあるものを造られた後は自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 

 神の国は今は私たちの目に見える形で私たちのもとにはありません。しかし、私たちのもとに目に見える形で来る日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造する、そういう天地の大変動が起こる時、再臨されるイエス様がその時点で生きている、神の目に適う者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして神の国に迎え入れられます。もちろん、最後の審判があることも忘れてはなりません。

 

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。それが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。それが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。

 

 このように神の国は神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとはそのような神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死の力に服する存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。

 

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間に自分との結びつきを回復させようと考えました。結びつきが回復すれば人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の神の国に迎え入れられます。こうしたことが可能になるためには結びつきを失わせている罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、人間は神の意思に完全に沿うように生きられないのでそれは不可能です。

 

 この問題を解決するために神はひとり子のイエス様をこの世に贈りました。人間の罪を全部ひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上で神罰を受けさせて死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に開かれました。そこで今度は私たち人間の方がイエス様の命じられた洗礼を受けると、彼の死と復活に結びつけられて新しい命を生きるようになります。洗礼の意味を自覚している者は、イエス様は本当に私を罪と死の支配から贖って下さった真の救い主なのだという信仰に満たされています。それでその人にはイエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたのでその人は神から罪を赦された者と見てもらえるのです。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになったのでその心は感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようという心になります。

 

 もちろん、キリスト信仰者と言えどもこの世ではまだ肉を纏って生きていますから、まだ罪を内に持っています。しかし、信仰者は神の意思に反することが自分にあると気づくと神に背を背けずに直ぐ神の方を向いて赦しを祈り願います。すると神は信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「お前の罪はあそこで赦されている。だからもう罪を犯さないように。」そのように信仰者を新しいスタート地点に立たせてくれるのが罪の赦しです。赦しとは罪を許可することではありません。罪は犯してはいけないのです。行いや言葉だけでなく心の思いも神の意思に反することは罪なのです。そんな罪ある私たちが神との結びつきを持てるようになるために神のひとり子の犠牲がなければならなかったのです。キリスト信仰者は神の意思に反する罪をイエス様の犠牲に免じて不問にしてもらって新しく出直すことを繰り返す種族です。そのことは本日の使徒書の日課フィリピ3章の中で使徒パウロも言っています。「過去のことは顧みないで前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走る」と(13~14節)。ゴールとは、言うまでもなく神の国へ迎え入れられる地点です。

 

3.勧めと励まし - 神の国の実を結ぶとは?

 

 イエス様は神の国の実を結ぶ者に神の国が与えられると言われました。罪の赦しという神からのお恵みを頂いて神の国への迎え入れを目指して歩むキリスト信仰者に神の国が与えられているのです。迎え入れの日はまだ先ですが、洗礼を受けることでゴールに到着できると神から約束してもらえました。途中で息切れすることがあっても聖餐式が呼吸を整えてくれます。迎え入れの日はまだでも神の国は聖餐に与かるキリスト信仰者の中で始まっているのです。では、キリスト信仰者はどのようにして神の国の実を結ぶのでしょうか?次の2つの仕方で結びます。

 

 まず、キリスト信仰者は罪の赦しという恵みを頂いたので神の意思に沿うように生きようと志向します。神の意思に沿うようにしようとするのは、神に目をかけてもらうためとか、何か褒美を期待してするのではありません。全く逆です。こちらはまだ何もしていないのに一足先に神の方が私に目をかけて罪の赦しをお恵みのように与えてしまった、だからもう神の意思に沿うように生きるしかないと観念する。そのように神の意思に沿うことが手段ではなく結果になっていることが神の国の実を結ぶことです。パウロが本日のフィリピの手紙の中で義について述べていました。義とは、神聖な神の御前に立たされても大丈夫でいられる、焼き尽くされない状態のことです。律法を守ることで人間が自分の力で獲得しようとする義とイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神が与えてくれる義の二つが言われていました。信仰のゆえに与えられる義はまさに救いの結果として神の意思に沿うことになる義です。律法を守ることで獲得しようとする義は神の意思に沿うことを救いを得るための手段にする義です。パウロはそれをゴミと言います。

 

 もう一つの大切なことは、罪の赦しという恵みの中で生きると、罪を自覚し赦しを祈り願い、イエス様の犠牲に免じて赦しを頂いて新しく出直す、このことを何度も何度も繰り返す生き方になります。そうすることで神の意思に反することに与しない、罪に反抗する生き方をしていることを証しすることになります。これも神の国の実を結ぶことです。

 

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しという恵みに留まって神の国の迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2026年9月22日火曜日

罪の赦しという神の恵みに満たされてこの世を生きる(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2026年9月13日(聖霊降臨後第十六主日)スオミ教会

 

創世記50章15-21節

ローマの信徒への手紙14章1-12節

マタイによる福音書18章21-35節

 

 

説教題 「罪の赦しという神の恵みに満たされてこの世を生きる」

 

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. はじめに

 

 今日のイエス様のたとえの教えはこうでした。王様に多額の負債があった家来が泣きついて借金を帳消しにしてもらった。ところが、その家来は自分に少額の借金がある仲間の家来に対しては泣きつかれても耳を貸さず牢屋に入れてしまった。それを知った王様はこの家来に怒り、自分がしたように情けをかけるべきではないかと言って牢屋に入れてしまったという話でした。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら他の人にもそうしなければいけないと教えているんだと思うでしょう。

 

 ここに出てくる金額を少し具体的に見てみます。そうすると情けをかけることが当然ということがよくわかります。情けのない家来が仲間の家来に貸していた額は大体100万円です。その彼が王様に負っていた負債額は6,000憶円。(これらの金額の算出方法はホームページに説教文を載せる時にそこで説明します)。情けのない家来は6,000億円の負債を帳消しにしてもらったのに、他人の100万円の借金は免除してあげなかった。これだけ莫大な借金を免除されたら、普通だったら、解放感とこれからは新しい人生を歩めると希望や感謝に満たされて、誰かが少しの借金の返済を待って下さいとお願いしたら、そんなものはもういいですよ、という気持ちになるのではないだろうか?それなのにこの家来はそうしなかった。イエス様はなぜこの情けのない家来の話をしたのでしょうか?

 

 このたとえは、イエス様がペトロの質問に答えてその続きに来ます。ペトロの質問は、兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげるべきか、7回までかというものでした。つまり、赦しには限度があってそれを越えたらもう赦さなくていいのか、ということです。それに対するイエス様の答えは、7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、つまり490回でした。イエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。

 

 キリスト信仰者は罪を犯した兄弟を無制限に赦さなければならない。なぜなら、信仰者が神から罪の赦しを受けたというのは1万タラントンの負債を帳消しにされたことと同じことで、兄弟の犯した罪など6,000憶円に対する100万円くらいのちっぽけなものにすぎない、だから兄弟の罪を無制限に赦すのは当然のことになるからです。それではどうして当然のことにならなかった家来の話をしたのでしょうか?今日はそのことを考えてみましょう。

 

2.「兄弟」とは?「罪」とは?「赦す」とは?

 

 まず初めに3つの基本的な事柄を整理しておきます。一つ目は、「私の兄弟が罪を犯したら」と言いますが、兄弟とは誰のことか?二つ目は、罪を犯すとはどんな悪さをすることか?そして三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?についてです。

 

 まず、「私の兄弟」とは、先週の説教でもお教えしたように、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者から罪を犯されるという問題について論じているのです。

 

 次に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」とはどんな悪さをすることでしょうか?「罪を犯す」などと言うと、何か法律上の犯罪を犯すことを連想します。しかし、これはもっと広い意味があります。要は、十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな等々を行為だけでなく、言葉に出してしまったり、心の中で持ってしまうことです。このように神の意思に反することを行為のみならず、心の中で持ってしまったり、言葉で言い表してしまうことが罪を犯すことです。

 

 三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?キリスト信仰で罪を赦すというのは、相手が神の意思に反することをした時、された側は、先週の説教でお教えしたように、それは神の意思に反することだということを気づかせて、相手がそれを認めて謝ったら、それを受け入れて、受け入れたら今後は取りざたしない、不問にするというのが赦しです。イザヤ書43章25節で、神は言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」思い出さないことにするというのが赦すことです。エレミヤ書31章34節でも神は同じように言われます。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」もう心に留めないというのが赦すことです。ミカ書7章19節で預言者は言います。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」神は民の罪を表ざたにしないで奥深く沈めてしまう、これが罪の赦しです。神の意思に反する罪が起きてしまった、それはもう打ち消すことができない事実である、しかし、それをさもなかったかのようにするから、新しく出直しなさい、と。そういうふうに、神の罪の赦しには罪を犯した者が新しく出発できるようにするということが一緒になっています。

 

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。私も時々聞かれるのですが、キリスト教は罪を赦すので処罰はなにもないのか、犯罪を犯しても、さもなかったかのようにしてしまったら、犯罪は野放しになってしまうではないか、というものです。罪を赦すとは、してもいいよと罪を許可することではありません。日本語の「ゆるす」は二つの異なる漢字があるので混同されやすいと思います。罪は神の意思に反することなのでしてはいけないのです。心の中で思っても口に出してもいけないのです。もし犯したら、「命の書」に書き留められて最後の審判の時にお前はこうだったと突きつけられるのです。まさに、本日の使徒書の日課ローマ14章で言われるように、かの日には各自一人一人が神の前に立たされて自分自身について申し開きをしなければならなくなるのです。果たして神に対して申し開きなど出来るでしょうか?

 

 ヨハネ8章でイエス様は罪を犯したために石打の刑にかけられそうになった女性を助け出して次のように言いました。「わたしもあなたを裁かない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」新共同訳では「罪に定めない」ですが、ギリシャ語原文では「裁かない」です。イエス様が裁かないと言うのは、お前の罪は「命の書」に書き留められてしまったが、最後の審判の時にとやかく言われることはなく、申し開きの必要もないということです。なぜそうなったかと言うと罪が赦されたからです。イエス様からそのような赦しを受けて、「もう犯したらだめだよ」と言われたら、本当にその通りにしなければ、と思うでしょう。このように罪を赦すというのは罪を許可することと全く正反対な方向に向かうのです。

 

 犯罪は処罰しないのかという疑問が残ると思います。それについて私は次のように考えます。社会には法律があり、犯罪について規定があり、刑罰や賠償について規定があります。それらに従って犯罪を確定して刑罰や賠償が課せられるのは当然です。なぜなら神は、殺すな、傷つけるなと命じているので、そのようなことが社会で好き勝手に行われるのを放置してはいけないからです。そう言うと、なんだ、赦していないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、犯罪の場合、赦しと刑罰は別々に考えるべきものと思います。赦しは被害を受けた人の心に関わることです。処罰や賠償は、社会が正義に基づいて成り立つために定められたものです。なので処罰や賠償は社会の安定に関わることです。

 

 ここで罪の赦しは心に関わるということを少し見てみます。キリスト信仰では、完全な正義は最後の審判の時に最終的に実現するという立場です。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は自分で復讐をしてはならない、神の怒りに任せよと言います。神の怒りに任せよというのは、最終的な判決、処罰、賠償は最後の審判の時に神が行うのでそれに任せよということです。最終的な判決、処罰、賠償をこの世で目指すと自分を神に置き換えて自分で復讐することになってしまうと思います。自分で復讐しないで最後の審判の神の怒りに委ねつつ、この世で正義を実現しようとすると次のようになると思います。まず、社会の法律や規定は万能薬ではないと観念する。なぜなら、こんな処罰、賠償では甘すぎる!とか逆に、行き過ぎではないか?ということが出てくるからです。そうした法律や規定を神の意思に沿うように運用して、最善の正義を目指すということになると思います。そういうふうにキリスト信仰者は正義を目指しつつも、パウロが教えるように敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませます。実際に行動に移せるようになるために心の有り様はそうなっていなければならないのです。処罰や賠償が社会の安定に関わるものなら、赦しは心の安定に関わるものです。

 

 それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰でこのような心は生まれるでしょうか?本日のイエス様のたとえは、それが生まれることを教えます。

 

3.罪の赦し = 神に対する莫大な負債の帳消し

 

 まずイエス様は本日のたとえの教えで、キリスト信仰者にとって罪の赦しは莫大な負債を帳消しにされたのと同じだと言っていることを見てみましょう。このたとえを最初に聞いた弟子たちは、莫大な負債を帳消しにしてもらったら他人の小さな借金など取るに足らないものに感じるというのはわかったでしょう。しかし、それが罪の無制限の赦しとどう結びつくのか?お前たちは莫大な負債を帳消しにしてもらったのだ、だから兄弟の罪など小さな借金と同じだ、兄弟の罪を無制限に赦してやるのは当然だ、そう言われても、自分たちにとって莫大な負債の帳消しとは一体何なんだ?ということになってしまいます。兄弟の罪に対する無制限の赦しと自分たちの莫大な負債の帳消しの結びつきが見えてきません。

 

 ところが、それがはっきりわかる日が来るのです。イエス様の十字架の死と死からの復活の日がそれです。イエス様が神の想像を超える力で死から復活されて天の神のもとにあげられたのを目撃した弟子たちは、あの方こそ、かつてダビデ王が私の主と呼んだ方で、父なる神の右に座すことになった方なのだ、つまり神のひとり子だったのだということが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかかって痛々しく死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間の代わりに受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。このように全てのことが事後的に旧約聖書を介して次々とわかるようになったのです。十字架と復活の出来事の後に全てがわかるようになった使徒たちは次のように記しました。

 

パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)まさに罪の赦しは神の恵みなのです。

 

 ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)

 

彼らはイエス様が十字架の出来事の前に言われた次の言葉の意味がわかりました。

 

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」(マルコ10章45節)

 

 神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として人間が罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が開けたのでした。神の子の命が身代金になったのです。その価値は6,000億円など取るに足らない、まさに地上から見上げる天のような高さの価値なのです。私たちがこの世で神との結びつきを持って生きることを妨げていたもの、そして、この世の人生の後で神の国に迎え入れられることを妨げていたもの、すなわち罪という負債を神は御子を用いて帳消しにしたのです。

 

 このようにして人間は自分では何の償いもしていないのに、神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで罪を償ってもらい、償ってもらったから罪を赦された者として見てもらえる、そういう状況が生み出されました。

 

 そこで今度は人間の方が、イエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて、この罪の赦しの状況に入れることとなりました。この中に入った人は、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起きたのだとわかり、それでイエス様は真に自分の救い主だと知っています。その人は死を超える永遠の命に向かう道に置かれてその道を歩み始めます。そして、この世を去る時が来ても、安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。本日の使徒書の日課ローマ14章でパウロが、キリスト信仰者は生きる時も死ぬ時も主のものとしてあると言っている通りです。復活の日までの眠りの時もずっと主のものであり続け、復活の日に目覚めさせられて永遠に造り主の神の御許に迎え入れられるのです。このようにキリスト信仰者はイエス様の十字架と復活の業のおかげと彼を救い主と信じる信仰によって、罪の赦しという神の恵みに満たされて、この世と次に到来する世の双方にまたがって生きていきます。

 

4.勧めと励まし

 

 これでキリスト信仰者は莫大な負債の帳消しが自分に起こったことがわかります。罪という神に対する負債で、そのままにしておくと、この世で神との結びつきを持てず、次に到来する世で神の国に迎え入れられなくなってしまうという負債です。それを神はひとり子を犠牲にして帳消しにして下さったのです。このような帳消しは、兄弟が犯した罪などを小さなものにし、赦しを「心から」するものに変えていきます。たとえの家来は、少額の借金の家来が猶予を求めても聞き入れず牢屋に送ってしまいました。これは、罪を犯した兄弟が赦しを求めても赦さないで裁いてしまうことを表します。情けのない家来が牢屋に入れられてしまったように、赦さない信仰者は裁かれてしまうのです。

 

 それにしても、どうして赦すことができないということが起こるのでしょうか?それは、永遠の生死にかかわる莫大な負債の帳消しが神のひとり子の犠牲の上に成されたこと、それがどれほど尊い犠牲であるかが心に刻まれていないからそうなるのです。イエス様がこの家来の話をしたのは、キリスト信仰者が果たして罪の赦しという神の恵みに満たされているかどうかを自問するためなのです。

 

 最後に、もし罪を犯した兄弟がそれを認めず謝罪もない場合はどうすべきでしょうか?その場合は赦さなくてもよいのでしょうか?いいえ、そうではありません。これは、先週お教えしたことを思い出せばよいでしょう。そのような心の頑なな兄弟は、害を被った信仰者にとって異邦人か取税人のようになればいい、ということでした。ただし、その趣旨は断罪的ではないと申しました。その兄弟の問題は神との結びつきが揺らいで天の国への歩みに支障が生じたということです。だから、それを元に戻せるようにすることが目指されなければなりません。それで害を被った兄弟は証人や教会の代表者と一緒に祈ることから始めなければならないと申しました。これは裁くことと正反対のことです。まさに心から赦す準備ができていることです。なので異邦人か取税人のようになればいいと言うのは、目下のところはそのようなものでいるのは仕方ないが、時が来れば兄弟に戻ると信じているということです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

100デナリオンと1万タラントンについて

1デナリオンは当時の低賃金労働者の1日の賃金です。それで100デナリオンは100日分の賃金。少し乱暴な比較になりますが、東京都の最低賃金は今年は時給1,280円。一日8時間働いたら10,240円。端数を切捨てて一日1万円として、100日分だったら100万円。これが100デナリオン。次に1万タラントン。1タラントンは6,000デナリオンなので、6千万円になります。さらにこれが1万あるとすると、0をさらに4つつけて6,000憶円になります。

2026年9月14日月曜日

教会の中でも隣人愛が増し加わるために(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十五主日)スオミ教会

 

エゼキエル書33章7-11節

ローマの信徒への手紙13章8-14節

マタイによる福音書18章15-20節

 

 

説教題 「教会の中でも隣人愛が増し加わるために」

 

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.  はじめに

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は、あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか教えます。「あなた」と「あなたの兄弟」は両方ともイエス様を救い主と信じる者です。問題が当事者同士で解決できなければ教会に持ち込めと言っているので二人とも教会に属する者です。つまり、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者です。それでは、キリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯したら、どう対処すればよいのでしょうか?そもそもキリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯すとはどういうことでしょうか?

 

「罪を犯す」と言うと、何か犯罪を犯すみたいに聞こえますが、要は十戒の掟に示された神の意思に反することをしてしまうことです。本日の使徒書の日課ローマ13章でパウロは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟は一括りにすると「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」に尽きると言います(9節)。これと同じ教えは既にイエス様が教えていました(マルコ12章31節等)。パウロがイエス様の教えを忠実に受け継いでいるのは明らかです。隣人を自分を愛するが如く愛さない、つまり、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟を行為のみならず考えや言葉でも破ってしまうことが「罪を犯す」ということです。要約すると、「罪を犯す」とは神の意思に反することを行為、考え、言葉で表してしまうことです。本日の個所では、神の意思の中でも人間関係に関するもの、隣人愛が言われているのです。

 

ところで、「隣人」とは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、本当は自分が属している民族その他共同体の境界を超えた全ての人が相手になります。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。ただし、本日の福音書の個所の教えでは対象が絞られていて、信仰者が別の信仰者に隣人愛の掟を破ったら、どうするかということです。

 

2.赦された者として相手に赦しを願う心を呼び覚ます

 

 まず冒頭の「兄弟があなたに対して罪を犯したら」について、聖書の訳によっては「あなたに対して」がないものがあります。つまり、「罪の犯し」が「あなた」を越えて第三者に及ぶのです。どうしてそういう違いがあるのかと言うと、古代の写本にあるものとないものがあり、どっちを元にするかで違いが出るのです。どっちを選んだらよいか困るところですが、本日の個所の後でペトロがイエス様に「私の兄弟が私に対して罪を犯したら何回まで赦してあげるべきですか?」と聞いているので、ここも「あなたに対して」で行きます。

 

さて、信仰者は隣人愛を破った相手に対してどう出るべきか?イエス様は、まず当事者同士で「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり伝えるべきと教えます。具体的な言葉遣いはこの通りでなくても、趣旨がきちんと伝わる言い方を考えます。まさに私たちの日本語の能力が問われるところです(私も含めて)。もし相手が「おっしゃる通りです、申し訳ありませんでした」と認めて赦しを願えば赦してあげる。相手は、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正したことになるので、信仰の兄弟を取り戻したことになると言うのです。

 

この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節の神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」を土台としています。罪を犯された信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で、こんちくしょう、あの野郎、と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと神に見なされてしまうというのです。相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたことになります。しかし、聞き従わない場合は罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人に責任はないのです。これと同じことが、本日の旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7-9節でも言われていました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち返るよう警告したのに、彼がその道から立ち返らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

 

以上から「二人だけのところで教え戒める」というのは、単に仲直りの手順ではないことがわかります。それは、隣人愛を破った者にそれは神の意思に反することだと気づかせて赦しを願う心を呼び覚ますように導くということです。信仰者はそういう導きをする大事な役割を持つということです。

 

さらに大事なことは、相手が気づいて自分のしたことを悔いて赦しを願う時は、信仰者は赦さなければならないということです。それも神の意思です。どうしてか?それは、神がイエス様を私たちに贈られたのは私たちが罪の赦しという恵みの中で生きられるようにするためだったからです。創世記の堕罪の出来事以来、人間には神の意思に反しようとするものが備わってしまいました。それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、そのために初めにあった神と人間との結びつきが失われてしまいました。神は失われた結びつきを人間に取り戻してあげようと決めました。そうすれば人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去る時も結びつきを持ったまま去ることができ、復活の日には永遠に神の御許に迎え入れられます。それで、本当なら人間が受けなければならない罪の罰を御自分のひとり子に代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようにして下さいました。それが、ゴルゴタの十字架でイエス様が死なれたことでした。こうしてイエス様は私たちの身代わりとして死なれましたが、神は彼を三日後に死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る扉を私たち人間に開いて下さったのです。

 

そこで今度は人間がイエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて古い自分は死に新しい自分が生き始めます。この新しい自分は、罪は全てイエス様に償ってもらった、だから彼こそは真に私の救い主だという信仰に満たされています。こうして信仰者は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後も結びつきのゆえに復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるのです。

 

罪の赦しという神の恵みを受け取ってその中で生きるようになった者は、赦しを願う者に対して自分も神からしてもらった以上は赦してあげないといけないのです。あと、罪が何だかわからず赦しを願う心がない者に対しては神の恵みを受け取ることが出来るように祈り導いていかなければならないのです。

 

赦しを願う者を赦すというのは、その者に対して何か優位に立つということではありません。この自分こそが神から赦しを与えられた取るに足らない者であることに思い至らなければなりません。そして、赦すというのは、赦した後は罪は以後不問にするということです。ミカ7章19節に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。神が人間から罪を取り除くというのは、まさにこのことです。罪を神の意思に反することであるとはっきり言い、そこから赦しを願う心を呼び覚まして赦しを与えることで罪を消滅させていくということです。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

 

3.断罪はしない

 

イエス様の教えの次を見てみましょう。残念なことに当事者だけでは教え戒めることが功を奏せず、相手が耳を貸さなかった場合はどうするか?私は神の意思に反していない、君の方こそ過剰反応ではないか、話を捻じ曲げている、などと言った時です。その場合は、証人として信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり神の意思に反することだったということを確認してもらうことになるとイエス様は教えます。この証人を立てるという教えは申命記19章15節の神の命令に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様が旧約の伝統の上に立っていることの一例です。

 

さて、証人から見てもやはり隣人愛を破ったと認めざるを得ないということになりました。これで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて信仰の兄弟を取り戻したことになります。でも、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は教会に委ねられるとイエス様は教えます。なんだか教会員全員の前で吊し上げするような感じがしますが、そうではありません。最初は当事者だけ、それがだめなら二人か三人の証言でと言っているように、イエス様の教えは罪を大っぴらにしないという方向性がはっきりあります。神の意思に反した者の神との結びつきを修復することが目的です。糾弾したり、ましては裁くことではありません。教会を代表する者が当事者と証人と話をすることになります。

 

そこで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。異邦人とは、天地創造の神を信じず、イエス様をこの世に送られた神を信じない人のことです。徴税人とは、当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の租税官吏となったユダヤ人のことです。彼らは権力を笠に着て同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしたので民族の裏切り者と見なされていました。神の意思に反したことを最後まで認めない、心が頑なな信仰者はこうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。果たしてそうでしょうか?

 

ここで、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」を注意して見てみます。ギリシャ語原文は次のような意味で書かれています。「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ。」日本語訳の「見なしなさい」は害を受けた人にそうしろと言う命令ですが、そうではありません。三人称単数形の命令なので「なってしまえ」が正確です。「あなたにとってそうなってしまえ」と、「あなたにとって」と限定的に考えているのです。全ての人にとってそうだとは言っていません。しかも、「異邦人のように」なので「異邦人」そのものだとも言っていません。ここは断罪的ではないのです。それなので、問題の兄弟と神との結びつきの回復可能性を考えることができます。実はこのことについて神自身が本日の旧約の日課エゼキエル33章11節で言っているのです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と。その一つ前の10節でイスラエルの民は罪の重荷の苦しみを述べています。民が自分たちの罪を認めた後で神はこのように裁きではなく憐みの言葉をかけて下さるのです!

 

それなので、隣人愛を破られた人は教会の訓戒が功を奏しなかった場合でも、あいつなんか最後の審判の時に地獄に堕ちてしまえばいい、などと呪ってはいけないのです。相手が気づいて悔い改めるように、証人になった人も教会の代表者も一緒に祈らなければならないのです。

 

4.使徒の権限

 

18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「あなたがた」とは、18章の冒頭から明らかなようにイエス様の弟子のことです。「つなぐ」「解く」という言葉のペアは、イエス様が話をしたアラム語の言葉のペア、シェラー、アーサルが土台にあります。意味は「禁止する」、「許可する」です。イエス様は以前16章で同じ「地上でつなぐこと、解くこと」を言い、それを彼をメシアと告白したペトロに委ねると言いました。今日の18章ではやがてイエス様をメシアと宣べ伝えることになる弟子たちに委ねると言っているのです。ペトロを中心とした弟子たち、すなわち使徒たちが教会を形成して、彼らがこの地上でダメと言ったり、OKと言ったりすることは天の国でもお墨付きを得るということです。なぜ使徒たちにこんな権限が与えられるのかと言うと、それは彼らがイエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になったからです。その後は迫害にも屈せず命を賭してまで見聞きしたことを証ししイエス様が救い主メシアであると宣べ伝える役割を担ったからです。イエス様の昇天の後、神の意思は何かを地上で明らかにする権限は彼らに委ねられたのです。

 

19節と20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神は叶えて下さるというような一見、願い事は何でも叶うと言っているように見えます。これも注意が必要です。これは今言った使徒の権限の続きです。19節の意味は原文を解説的に訳すと次のようになります。「お前たちのうち二人がこの地上で祈り求めようとする事柄全部について合意して祈り求めれば、それは天の父なるみ神のお墨付きを得て実現する」ということです。18節では使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言っていました。19節ではそのためには使徒一人ひとりが決めるのではなく二人以上が合意することが必要だ、そして20節でイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だと言います。願い事が何でも叶うということもあるかもしれませんが、全体の流れから見ると、信仰者同士のいろいろな問題について、何が神の意思に沿っているか、沿っていないかを明らかにしなければならない、その時、二人以上の使徒がイエス様の名前のもとに集まって合意して祈り求めたら、それは天のお墨付きを得たことになり、その通りになるという意味です。

 

5.勧めと励まし

 

 そうすると、ここで言う「あなたたち」は使徒のことで、私たち信仰者への呼びかけではないのかという疑問が起きると思います。もちろん、私たちへの呼びかけでもあります。ただし、私たちには使徒のような権限はありません。ただ、それとは別に二人以上の信仰者が集まって祈り求めることはできます。例えば、本日の個所のように隣人愛を破って心を頑なにしている兄弟のような、当事者一人では解決できない課題です。そのような場合は別の信仰者に来てもらったり牧師のところに行って事情を話して理解してもらって一緒に解決を祈り求めます。第三者と話し合えば、祈るのに相応しい言葉も見つかるでしょう。この祈りは、掟を破った兄弟のためにもしなければなりません。

 

 ここで見落としてはならないことは、二人以上が集まる時、「イエス様の名前のもとに」そうするということです。先の申命記19章15節では二人以上の証言をもって事の立証がなされるということでした。イエス様は、この二人以上の証人ということに「自分の名前のもとに」を付け加えました。罪を犯した信仰者を二人以上の証人をもって教え戒める時も、イエス様の名前のもとに集まることになります。このように旧約聖書の掟に「イエス様の名前」という新しい要素が付け加わりました。信仰者が集まる時、祈る時、イエス様の名前が付け加えられることで、集まる人たち祈る人たちはみんなイエス様のおかげで天地創造の神との結びつきを持てていることを確認、告白します。

 

こうしてみると、まだイエス様の名前がない旧約の時には神との結びつきを確認、告白しようとしても何か決め手がなかったことになります。まだ十字架と復活の前だから仕方ありません。イエス様の名前が付くと、彼の十字架と復活の業のおかげで神との結びつきが持てるようになったことがはっきりします。神が罪を海の深みに沈めると言うミカの預言も、それだけ聞くと神は憐れみ深い方だとわかりますが、どのようにしてそんなことが起きるのかはわかりません。ありがたくは聞こえますが、よく考えると漠然としています。それが、イエス様の十字架と復活の出来事があったので、もう考えるまでもなく神は本当に罪を海の深みに沈められたのだとわかります。それがわかれば隣人愛を破った兄弟に対する私たちの心も一気にそれに倣うようになっていきます。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン