2026年9月14日月曜日

教会の中でも隣人愛が増し加わるために(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十五主日)スオミ教会

 

エゼキエル書33章7-11節

ローマの信徒への手紙13章8-14節

マタイによる福音書18章15-20節

 

 

説教題 「教会の中でも隣人愛が増し加わるために」

 

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.  はじめに

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は、あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか教えます。「あなた」と「あなたの兄弟」は両方ともイエス様を救い主と信じる者です。問題が当事者同士で解決できなければ教会に持ち込めと言っているので二人とも教会に属する者です。つまり、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者です。それでは、キリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯したら、どう対処すればよいのでしょうか?そもそもキリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯すとはどういうことでしょうか?

 

「罪を犯す」と言うと、何か犯罪を犯すみたいに聞こえますが、要は十戒の掟に示された神の意思に反することをしてしまうことです。本日の使徒書の日課ローマ13章でパウロは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟は一括りにすると「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」に尽きると言います(9節)。これと同じ教えは既にイエス様が教えていました(マルコ1231節等)。パウロがイエス様の教えを忠実に受け継いでいるのは明らかです。隣人を自分を愛するが如く愛さない、つまり、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟を行為のみならず考えや言葉でも破ってしまうことが「罪を犯す」ということです。要約すると、「罪を犯す」とは神の意思に反することを行為、考え、言葉で表してしまうことです。本日の個所では、神の意思の中でも人間関係に関するもの、隣人愛が言われているのです。

 

ところで、「隣人」とは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、本当は自分が属している民族その他共同体の境界を超えた全ての人が相手になります。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。ただし、本日の福音書の個所の教えでは対象が絞られていて、信仰者が別の信仰者に隣人愛の掟を破ったら、どうするかということです。

 

2.赦された者として相手に赦しを願う心を呼び覚ます

 

 まず冒頭の「兄弟があなたに対して罪を犯したら」について、聖書の訳によっては「あなたに対して」がないものがあります。つまり、「罪の犯し」が「あなた」を越えて第三者に及ぶのです。どうしてそういう違いがあるのかと言うと、古代の写本にあるものとないものがあり、どっちを元にするかで違いが出るのです。どっちを選んだらよいか困るところですが、本日の個所の後でペトロがイエス様に「私の兄弟が私に対して罪を犯したら何回まで赦してあげるべきですか?」と聞いているので、ここも「あなたに対して」で行きます。

 

さて、信仰者は隣人愛を破った相手に対してどう出るべきか?イエス様は、まず当事者同士で「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり伝えるべきと教えます。具体的な言葉遣いはこの通りでなくても、趣旨がきちんと伝わる言い方を考えます。まさに私たちの日本語の能力が問われるところです(私も含めて)。もし相手が「おっしゃる通りです、申し訳ありませんでした」と認めて赦しを願えば赦してあげる。相手は、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正したことになるので、信仰の兄弟を取り戻したことになると言うのです。

 

この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記1917節の神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」を土台としています。罪を犯された信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で、こんちくしょう、あの野郎、と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと神に見なされてしまうというのです。相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたことになります。しかし、聞き従わない場合は罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人に責任はないのです。これと同じことが、本日の旧約聖書の箇所エゼキエル書3379節でも言われていました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち返るよう警告したのに、彼がその道から立ち返らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

 

以上から「二人だけのところで教え戒める」というのは、単に仲直りの手順ではないことがわかります。それは、隣人愛を破った者にそれは神の意思に反することだと気づかせて赦しを願う心を呼び覚ますように導くということです。信仰者はそういう導きをする大事な役割を持つということです。

 

さらに大事なことは、相手が気づいて自分のしたことを悔いて赦しを願う時は、信仰者は赦さなければならないということです。それも神の意思です。どうしてか?それは、神がイエス様を私たちに贈られたのは私たちが罪の赦しという恵みの中で生きられるようにするためだったからです。創世記の堕罪の出来事以来、人間には神の意思に反しようとするものが備わってしまいました。それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、そのために初めにあった神と人間との結びつきが失われてしまいました。神は失われた結びつきを人間に取り戻してあげようと決めました。そうすれば人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去る時も結びつきを持ったまま去ることができ、復活の日には永遠に神の御許に迎え入れられます。それで、本当なら人間が受けなければならない罪の罰を御自分のひとり子に代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようにして下さいました。それが、ゴルゴタの十字架でイエス様が死なれたことでした。こうしてイエス様は私たちの身代わりとして死なれましたが、神は彼を三日後に死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る扉を私たち人間に開いて下さったのです。

 

そこで今度は人間がイエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて古い自分は死に新しい自分が生き始めます。この新しい自分は、罪は全てイエス様に償ってもらった、だから彼こそは真に私の救い主だという信仰に満たされています。こうして信仰者は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後も結びつきのゆえに復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるのです。

 

罪の赦しという神の恵みを受け取ってその中で生きるようになった者は、赦しを願う者に対して自分も神からしてもらった以上は赦してあげないといけないのです。あと、罪が何だかわからず赦しを願う心がない者に対しては神の恵みを受け取ることが出来るように祈り導いていかなければならないのです。

 

赦しを願う者を赦すというのは、その者に対して何か優位に立つということではありません。この自分こそが神から赦しを与えられた取るに足らない者であることに思い至らなければなりません。そして、赦すというのは、赦した後は罪は以後不問にするということです。ミカ719節に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。神が人間から罪を取り除くというのは、まさにこのことです。罪を神の意思に反することであるとはっきり言い、そこから赦しを願う心を呼び覚まして赦しを与えることで罪を消滅させていくということです。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

 

3.断罪はしない

 

イエス様の教えの次を見てみましょう。残念なことに当事者だけでは教え戒めることが功を奏せず、相手が耳を貸さなかった場合はどうするか?私は神の意思に反していない、君の方こそ過剰反応ではないか、話を捻じ曲げている、などと言った時です。その場合は、証人として信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり神の意思に反することだったということを確認してもらうことになるとイエス様は教えます。この証人を立てるという教えは申命記1915節の神の命令に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様が旧約の伝統の上に立っていることの一例です。

 

さて、証人から見てもやはり隣人愛を破ったと認めざるを得ないということになりました。これで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて信仰の兄弟を取り戻したことになります。でも、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は教会に委ねられるとイエス様は教えます。なんだか教会員全員の前で吊し上げするような感じがしますが、そうではありません。最初は当事者だけ、それがだめなら二人か三人の証言でと言っているように、イエス様の教えは罪を大っぴらにしないという方向性がはっきりあります。神の意思に反した者の神との結びつきを修復することが目的です。糾弾したり、ましては裁くことではありません。教会を代表する者が当事者と証人と話をすることになります。

 

そこで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。異邦人とは、天地創造の神を信じず、イエス様をこの世に送られた神を信じない人のことです。徴税人とは、当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の租税官吏となったユダヤ人のことです。彼らは権力を笠に着て同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしたので民族の裏切り者と見なされていました。神の意思に反したことを最後まで認めない、心が頑なな信仰者はこうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。果たしてそうでしょうか?

 

ここで、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」を注意して見てみます。ギリシャ語原文は次のような意味で書かれています。「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ。」日本語訳の「見なしなさい」は害を受けた人にそうしろと言う命令ですが、そうではありません。三人称単数形の命令なので「なってしまえ」が正確です。「あなたにとってそうなってしまえ」と、「あなたにとって」と限定的に考えているのです。全ての人にとってそうだとは言っていません。しかも、「異邦人のように」なので「異邦人」そのものだとも言っていません。ここは断罪的ではないのです。それなので、問題の兄弟と神との結びつきの回復可能性を考えることができます。実はこのことについて神自身が本日の旧約の日課エゼキエル3311節で言っているのです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と。その一つ前の10節でイスラエルの民は罪の重荷の苦しみを述べています。民が自分たちの罪を認めた後で神はこのように裁きではなく憐みの言葉をかけて下さるのです!

 

それなので、隣人愛を破られた人は教会の訓戒が功を奏しなかった場合でも、あいつなんか最後の審判の時に地獄に堕ちてしまえばいい、などと呪ってはいけないのです。相手が気づいて悔い改めるように、証人になった人も教会の代表者も一緒に祈らなければならないのです。

 

4.使徒の権限

 

18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「あなたがた」とは、18章の冒頭から明らかなようにイエス様の弟子のことです。「つなぐ」「解く」という言葉のペアは、イエス様が話をしたアラム語の言葉のペア、シェラー、アーサルが土台にあります。意味は「禁止する」、「許可する」です。イエス様は以前16章で同じ「地上でつなぐこと、解くこと」を言い、それを彼をメシアと告白したペトロに委ねると言いました。今日の18章ではやがてイエス様をメシアと宣べ伝えることになる弟子たちに委ねると言っているのです。ペトロを中心とした弟子たち、すなわち使徒たちが教会を形成して、彼らがこの地上でダメと言ったり、OKと言ったりすることは天の国でもお墨付きを得るということです。なぜ使徒たちにこんな権限が与えられるのかと言うと、それは彼らがイエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になったからです。その後は迫害にも屈せず命を賭してまで見聞きしたことを証ししイエス様が救い主メシアであると宣べ伝える役割を担ったからです。イエス様の昇天の後、神の意思は何かを地上で明らかにする権限は彼らに委ねられたのです。

 

19節と20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神は叶えて下さるというような一見、願い事は何でも叶うと言っているように見えます。これも注意が必要です。これは今言った使徒の権限の続きです。19節の意味は原文を解説的に訳すと次のようになります。「お前たちのうち二人がこの地上で祈り求めようとする事柄全部について合意して祈り求めれば、それは天の父なるみ神のお墨付きを得て実現する」ということです。18節では使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言っていました。19節ではそのためには使徒一人ひとりが決めるのではなく二人以上が合意することが必要だ、そして20節でイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だと言います。願い事が何でも叶うということもあるかもしれませんが、全体の流れから見ると、信仰者同士のいろいろな問題について、何が神の意思に沿っているか、沿っていないかを明らかにしなければならない、その時、二人以上の使徒がイエス様の名前のもとに集まって合意して祈り求めたら、それは天のお墨付きを得たことになり、その通りになるという意味です。

 

5.勧めと励まし

 

 そうすると、ここで言う「あなたたち」は使徒のことで、私たち信仰者への呼びかけではないのかという疑問が起きると思います。もちろん、私たちへの呼びかけでもあります。ただし、私たちには使徒のような権限はありません。ただ、それとは別に二人以上の信仰者が集まって祈り求めることはできます。例えば、本日の個所のように隣人愛を破って心を頑なにしている兄弟のような、当事者一人では解決できない課題です。そのような場合は別の信仰者に来てもらったり牧師のところに行って事情を話して理解してもらって一緒に解決を祈り求めます。第三者と話し合えば、祈るのに相応しい言葉も見つかるでしょう。この祈りは、掟を破った兄弟のためにもしなければなりません。

 

 ここで見落としてはならないことは、二人以上が集まる時、「イエス様の名前のもとに」そうするということです。先の申命記1915節では二人以上の証言をもって事の立証がなされるということでした。イエス様は、この二人以上の証人ということに「自分の名前のもとに」を付け加えました。罪を犯した信仰者を二人以上の証人をもって教え戒める時も、イエス様の名前のもとに集まることになります。このように旧約聖書の掟に「イエス様の名前」という新しい要素が付け加わりました。信仰者が集まる時、祈る時、イエス様の名前が付け加えられることで、集まる人たち祈る人たちはみんなイエス様のおかげで天地創造の神との結びつきを持てていることを確認、告白します。

 

こうしてみると、まだイエス様の名前がない旧約の時には神との結びつきを確認、告白しようとしても何か決め手がなかったことになります。まだ十字架と復活の前だから仕方ありません。イエス様の名前が付くと、彼の十字架と復活の業のおかげで神との結びつきが持てるようになったことがはっきりします。神が罪を海の深みに沈めると言うミカの預言も、それだけ聞くと神は憐れみ深い方だとわかりますが、どのようにしてそんなことが起きるのかはわかりません。ありがたくは聞こえますが、よく考えると漠然としています。それが、イエス様の十字架と復活の出来事があったので、もう考えるまでもなく神は本当に罪を海の深みに沈められたのだとわかります。それがわかれば隣人愛を破った兄弟に対する私たちの心も一気にそれに倣うようになっていきます。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 


2026年9月10日木曜日

キリスト教徒で何が悪い!(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2026年6月28日(聖霊降臨後第五主日)スオミ教会

 

エレミヤ書28章5-9節

ローマの信徒への手紙6章12-23節

マタイによる福音書10章40-42節

 

 

説教題 「キリスト教徒で何が悪い!」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の旧約聖書の日課は二人の預言者エレミヤとハナンヤの対決場面でした。時は紀元前590年代、ユダ王国は強大なバビロン帝国に攻められて首都エルサレムは陥落。バビロンの王は自分の言うことに聞き従う者を王に仕立てて一旦引き返します。エレミヤは、国民に向かってユダ王国はバビロンによってさらに徹底的に破壊される、その軛を受け入れなければならないと宣べ伝えました。その時ハナンヤが現れて、あと2年したら神はバビロンの軛を打ち砕き、ユダ王国から持ち去った物や連れ去った人たちは祖国に戻るなどと逆のことを宣べ伝えたのです。国民はエレミヤの預言にあきあきしていたので、ハナンヤの預言を聞いて、こっちの水は甘いぞと心が動かされたことは容易に想像がつきます。それに対するエレミヤの反論が今日の個所です。

 

 実際に歴史はハナンヤが言った通りにはなりませんでした。ほどなくしてユダ王国は再度バビロン帝国の攻撃を受けて、エルサレムは2年間兵糧攻めにあい、最後は町も神殿も完全に破壊されて滅亡します。全てエレミヤの預言した通りになったのです。

 

 神はエレミヤに国の滅亡を預言させたわけですが、その意図は一体なんだのでしょうか?エレミヤ書を通して見ると、そこには滅亡だけでなく国の復興についても預言されていることに気づきます。民が連行された異国の地で心から神に立ち返ってその名を呼び求め祈りを捧げるならば、神は民を祖国に帰還させると言うのです。神の計画は災いの計画ではなく将来と希望を与える計画であると言われるのです(291114節)。実際、歴史はそのように進みました。紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の新しい覇者になります。イスラエルの民はこのペルシャの王の勅令によって祖国帰還が認められます。エレミヤが預言した通りになったのです。

 

 イスラエルの民のバビロン捕囚と祖国帰還という出来事から、神は人間に対して二つの大きな目的を持っていることが明らかになります。罪に対する裁きと罪の赦しという目的です。神は罪を忌み嫌いそれに対して神罰を下さずにはいられない裁きの主です。それと同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあります。これが神についての真理です。私たちは旧約聖書の遥か昔の遠い国の出来事や歴史を見る時、天地創造の神は本当に罪を忌み嫌い罰せずにはおかない方であることをわからなければなりません。しかし、そこで終わってはいけません。神は同時に罪のある人間をなんとかして自分のもとに立ち返らせよう、人間が罪を忌み嫌うようになって罪から離れて生きようとするように変えてあげようとされる方であることもわからなければなりません。

 

 本日の説教では、まず、この神の真理を礎にして生きる生き方はどんな生き方かということを本日の使徒書の日課ローマ6章から見てみます。次に、その生き方をこの日本で生きるとどういうことになるかということを本日の福音書の日課マタイ10章をもとに見ていきます。

 

2.神の真理を礎にして生きる生き方

 

 神は罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主であると同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあるという神の真理、この真理が如実に現れたのが、神のひとり子イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の出来事でした。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上であたかも彼が人間の罪の責任者であるかのように断罪して罪の償いをさせました。そして、死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させ、人間が天の神のもとに迎え入れられる道を切り開いて下さいました。神の真理は、イエス様の十字架と復活の出来事で不動のものになったのです。それでは、この真理を礎にして生きる生き方はどのようなものになるでしょうか?

 

 使徒パウロは教えます。キリスト信仰者は洗礼を受けたことでイエス様の死と復活に結びつけられていると。そして、イエス様の死に結びつけられると「罪に対して死ぬ」のだと。これは、罪がキリスト信仰者にちょっかい出そうにも出せない、影響力を行使しようにもできない、従わせようとしても従ってくれない、全て肩透かしをくらってしまう、それ位にキリスト信仰者は罪に対して冷たく死んでしまっているということです。

 

 罪に対して冷たく死んだ者は、今度は神に対して生きるのみだと言います。人が罪に対して死ぬと、罪はその人を指図できず、その人は罪から自由になっている、罪と無関係になっている。その時、その人が関係を持つのは神になる。これが神に対して生きることになります。罪に背を向け神を向いて生きることです。洗礼を受けた者は、そういう状態になったのです。ただし、いくらイエス様の死と復活に結びつけられたと言われても、自分はまだ死んで葬られてもいないし復活も遂げていないので、そうなったという実感は起きません。しかし、洗礼はイエス様の死と復活に結びつけるものなので、一度受けたが最後、罪に対して死に、神に対して生きるという状態になってしまうのです。後は、いつの日か本当に死んで葬られて復活の日に復活を遂げるという外見上のことが残っているだけです。実質的なことはもう既に起きたのです。

 

 それなので、神の真理を礎にしてこの世を生きるというのは、実質的に新しくされた命を持って生きるということになります。古いものは全てイエス様と一緒に十字架につけられてしまったからです。

 

 それでは、新しくされた命を持ってこの世を生きるというのはどんな生き方になるでしょうか?12節で大きな命題が掲げられます。「あなた方の体は罪と結託してしまいがちな死の体である。その体の中で罪が支配者として君臨しないようにしなさい。君臨したらあなた方は体の欲望に聞き従ってしまうだけだ。あなた方はそういう状況に陥ってはならない。」「体の欲望」と言うと何か性的なことが頭に浮かぶかもしれません。それも含みますが、もっと広い意味です。神の意思に反するとはわかっていてもやらずにはいられない、口にしないではいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としか言いようがないもの、それが欲望です。具体的に考えるならば、十戒の第四から第十の掟を思い出すといいと思います。両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫すること、他人のものを自分のものにしてしまうこと、自分のものを他人のために役立てようとしないこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人の持っているものを妬んで、それを損なったり自分のものにしようと思い描くこと等々、これらが「体の欲望」、肉の思いです。

 

 こうした欲望、肉の思いに従ってしまうのは罪が支配者になっているからですが、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたら罪に対して死に神に対して生きることになるので罪は本当は支配者ではなくなっているのです。しかし、キリスト信仰者もまだ肉の体を纏っているので、行いや言葉が自然に自動的に神の意思に沿うものにならないもどかしさがあります。それはまだ復活の体を纏っていないので無理もないことです。それなので、自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるか、その真実を知ってそれを自覚して生きることが大切になります。それでパウロは、自分の肢体を神の義のための道具、武器にして肉の思いに対して戦えと言うのです。「神の義」とは、神聖な神の前に立たせられても大丈夫でいられる状態、焼き尽くされない状態を意味します。イエス様に罪の償いをしてもらったことを信じて償いを自分のものにした人は神の義を持てるのです。

 

 ところでパウロにとって、神の義の武器になりなさい、というような「~しなさい」と命じる教え方は本意ではなかったと思います。というのは、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されたのだから、解放は神のお恵みです。人間が神の掟を守り抜いて勝ち取ったものではありません(そもそも、そんなことは不可能です)。だから「私たちは律法の下にではなく恵みの下にいる」と言うのです。しかし、「~しなさい」と言うと律法的になっていきます。本当はそういうふうに命令されないで自然に自動的に肉の思いを消すことが出来ればいいのですが、肉の体を纏っているのでなかなか出来ません。やはり自覚して戦うしかないのです。19節で「あなたがたの肉の弱さのゆえに人間的な言い方で言っているのです」と言っているのはまさにこのことです。本当は罪に対して死に神に対して生きている状態にあるのだから「~しなさい」などと言う必要はないのに、肉の弱さのために言わなければならない。実にもどかしいことですが、この朽ちる肉を纏ったまま神の真理を礎にして生きるとそうならざるを得ないのです。そういうわけで、この「~しなさい」は、律法的に捉えず、自分たちが本当はどんな素晴らしい状態にいるのかを自覚させる注意喚起と捉えるのが良いのではないかと思います。

 

3.日本で神の真理を礎として生きる

 

 福音書の日課マタイ104042節のイエス様の教えは、預言者を預言者だから受け入れる人は預言者の報酬を得る、義人を義人だから受け入れる人は義人の報酬を得る(日本語訳では「正しい人」ですが、ギリシャ語のδικαιοςはずばり「義なる人」、義人です)、そしてイエス様の弟子を弟子だから冷たい水一杯を与える人は弟子の報酬を得るということです。これは一体何を意味するのでしょうか?まず「預言者」というのは、神から告げられた言葉を宣べ伝える役目を持つ人です。言葉の内容は将来の出来事の預言に限られません。神の意思や計画を伝える言葉は皆預言になります。一つ注意すべきは、神の言葉が私に下ったなどと言う人がみな預言者ではないということです。神の意思に沿っていないといけません。神の意思は聖書に記されています。「義人」というのは、イエス様を救い主と信じて神の真理を礎にして生きる人です。キリスト信仰者のことです。そして「弟子」というのは、神の真理を宣べ伝える人です。

 

 マタイ10章はキリスト信仰者が受ける迫害について述べています。それで今日の個所も迫害の文脈で理解します。つまり、迫害のさ中に預言者や義人や伝道者を受け入れて世話をする人は、それらの者が将来神から受ける報酬と同じ報酬を受けるというのです。ローマ帝国の迫害期にそのようにパウロを初めとする使徒たちを世話をした人たちがいたことは想像に難くありません。世話をした人が世話を受けた人と同じ報酬を受けるというのは、世話した人たちにも危険が及ぶことを意味します。使徒言行録17章を見ると、テサロニケでパウロをかくまったヤソンとその兄弟が当局に引っ張られていく場面があります。日本のキリシタン迫害の時もそうでした。例えば、密告に対する報奨金制度がありました。この制度のもとで聖職者や信者だけでなく彼らを世話したり匿った人もキリシタンと見なされて拷問を受けました。まさに世話する人がされる人と同じ報いを受ける事態になったのでした。しかし、次に到来する世ではポジティブな意味で神から同じ報酬を受けられるのです。

 

 日本で世話する人がされる人と同じ立場に置かれるというのは、江戸時代だけではありませんでした。近代日本にもありました。第二次大戦中の時、フィンランドのミッション団体SLEYの宣教師8人が帰国の機会を逸して戦争中ずっと日本に留まらなければなりませんでした。当時キリスト教会は国家権力の統制下に置かれ、自由に伝道や礼拝が出来なくなっていました。礼拝をしても当局が差し向けた目つきの鋭い男たちがやって来て、説教の最中に質問と称して言いがかりをつけて礼拝を妨害したこともありました。ゾルゲ事件の影響でしょう、宣教師が町中の人たちからスパイ呼ばわりされたこともありました。戦争末期には宣教師たちは軽井沢に集められて軟禁状態に置かれました。彼らの面倒を見たり面会をした日本人の信徒たちは周囲から「宣教師の犬」と呼ばれ顔を背けられました。そういうことが江戸時代ではなく、三世代位前の日本で実際にあったのです。

 

 現代の日本ではこのようなことはなくなりました。日本には数多くのキリスト教系の学校や施設があり、著名な文化人も多くいて、社会の中でキリスト教の存在や果たす役割はとても大きいです。それでは、もう同じ報酬を受けるという状況はなくなったと言えるのか?最後に少し考えてみましょう。

 

4.勧めと励まし

 

 日本の総人口の中でキリスト教徒が占める割合は1パーセント未満です。社会の中での存在や役割は大きいとは言っても、日本人の中にはまだキリスト教に距離を置く何かがあります。それについては宗教学や社会学、文化人類学のいろいろな説明があると思います。一つには、キリスト教は欧米の宗教で日本人の風土と精神に合わないというような議論があります。遠藤周作の有名な「沈黙」の中で、棄教して仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。この見解はいかがなものか。暴力と武力で消滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは原因と結果のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。

 

 キリシタン禁制の時に日本人は全員どこかの寺に所属するという檀家制度が始まりました。所属する寺があり、そこに墓があるというのは私はキリスト教ではありませんと証明するためだったのです。最近、線香をたくことはいつから始まったのかAIに聞いてみました。答えは、仏教が日本に伝わった時に始まったが、最初は線香が高価なものだったので貴族などに限られていた、しかし、江戸時代初期に一般民衆に広まるようになったと。「江戸時代初期」とあったので、線香をたくことと檀家制度は関係があるかと聞いたら、ありますと。檀家制度の下で祖先の霊を弔うことが重要になり、そこに中国から線香を安く大量に作る技術が伝わって線香が広く普及するようになったと。つまり、檀家制度と線香をたくことは、キリスト教の否定と裏表の関係だったのです。

 

 もちろん、現代では檀家制度と線香にキリスト教否定の意味があるとはあまり意識されていないでしょう。菩提寺がある人も線香をたく人も、子供をキリスト教系の幼稚園や学校に入れたり、キリスト教式で結婚式を挙げたりします。江戸時代だったら拷問ものです。しかし、キリシタン禁制から400年の時が経ち、日本人には死者の霊を祀るという霊性が深く根を下ろすようになったと思います。仏教の儀式を通して仏壇や位牌や骨壺などに亡くなった方の魂が入っていると信じられます。仏壇や墓の前で目に見えない相手に話しかけたり、願いごとを打ち明けたり、見守りを感謝したりしてコミュニケーションを保ちます。そして、そういうことがキリシタン禁制のずっと前からあったかのごとく、日本の歴史そのものであるかのようなイメージが持たれるようになりました。

 

 そこに、キリスト教がやってきて、亡くなった方は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っている、眠っているから何もしない、だから、墓や仏壇のところでたたずんで焼香や供え物が来るのを待ったりしない、それに私たちを見守ってくれるのは私たちの造り主、天の父なるみ神だけだ、などと言ったら、なんと思いやりのない宗教だ、と言われてしまうでしょう。キリスト教が伝統的な国では亡くなった方を追悼する式をメモリアルサービス、思い出の礼拝と言います。それが日本語でしばしば「慰霊祭」と訳されます。メモリアルサービスでは、亡くなった方の霊を慰めることはしません。慰めるも何も、亡くなった方にはもう何もなしえないので、メモリアルサービスしかないのです。このようにキリスト教では亡くなった方との関係は、その方の思い出(メモリー)を何ものにも代えがたい貴重なものとして大切にするということに尽きます。これが亡くなった方に関するキリスト教の思いやりの形です。それでキリスト信仰者は、その方と過ごせた過去の日々を神に感謝し、将来の復活の日の再会の希望を胸に抱いて神に祈りながら今を生きるというスタンスになるのです。

 

 そういうのはキリスト教が伝統的に強い欧米の考え方で、日本人には合わないと言われるかもしれません。しかし、檀家制度や線香をたくことが確立する以前の日本で多くの日本人がキリスト教徒になったという事実はどう考えたらよいでしょうか?彼らは、日本人に相応しくないことをしていたのでしょうか?当時の日本は下剋上でまさに諸行無常の世でした。その中で、力によらない真の正義とか諸行無常に代わる永続的なものを求める心が人々の中にあったとしても不思議ではありません。キリスト教がそれにマッチしたのではないかと思います。ただし、明治期のキリスト教受容は、欧米の圧倒的な力の差を見せつけられて、自分たちもああなりたいということがあったのではないかと思います。(第二次大戦後の受容はどうでしょうか?)

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!確かに、キリスト教は欧米を経由して入ってきました。しかし、聖書の内容は欧米の文化文明の教本なんかではありません。それは、天地創造の神が古代オリエントと地中海世界を舞台に選んで人間を救おうという意思とそのための計画を知らしめたということ、それをその舞台の人たちが一生懸命、後の世界に伝えようとしたのが聖書です。私たち人間の命がどこから来てどこに向かい、その間にあるこの世ではいかに生きるべきかという道を示してくれるものです。先ほど述べた神の真理を礎にして、復活の日を目指して、体の欲望、肉の思いと戦いながら生きることがその道です。一体これのどこが欧米化なのか?これのどこが日本人に相応しくないことなのか?和辻哲郎は第二次大戦直後に著した「鎖国」という本の終わりで、キリスト教を壊滅させたツケは今次の敗戦という形で回って来たのだというようなことを言っているくらいです。キリスト教徒で何が悪い!日本にとって何にも悪いことはないのです!むしろ、今の日本にとっても必要すぎるものなのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年6月8日月曜日

イエス様の憐れみは人を神に立ち返らせる(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2026年6月7日(聖霊降臨後第二主日)スオミ教会

 

ホセア5章15節-6章6節

ローマ4章13-25節

マタイ9章9-13、18-26節

 

説教題 「イエス様の憐れみは人を神に立ち返らせる


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。                                                                                    アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.  はじめに

 

 本日の福音書の日課は、イエス様が徴税人のマタイにつき従うように命じ、マタイはその通りにした、そして自分の家にイエス様と弟子たちを招いた、他の徴税人その他もろもろの罪びとたちも一緒の食事の席についた、そこをファリサイ派の人たちに目撃されて非難されたという出来事です。当時は招かれて一緒に食事をするというのは家族並みの近い関係になったことを意味しました。

 

 徴税人は当時のユダヤ教社会のなかで罪びとの最たるものとみなされていました。どうしてかと言うと、彼らの主たる任務は、イスラエルを支配しているローマ帝国のために住民から税金を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ったりしたからでした。なぜ、占領された国民から、占領側に仕える仕事につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道であったからです。各福音書を見ると、徴税人が認められている額以上の税を取り立てていたことが窺い知れます。例えば、ルカ福音書の3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけて、「定められた以上を取り立てるな」と戒めています。同じルカ19章で改心した徴税人のザアカイは、イエス様に次のように言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」このように、占領国の利益のためのみならず、自分の私腹も肥やしたわけですから、徴税人が自分の利益しか考えない国の裏切り者と見なされ憎まれたのは当然でした。

 

 イエス様は、神由来の権威をもって天地創造の神について人々に教え、無数の奇跡の業も行い、大勢の群衆が付き従うようになっていました。宗教エリートのファリサイ派は、この男は伝統的な権威に挑戦する危険人物なのかと気が気でなりません。このように大勢の人に支持されたイエス様が、突然、徴税人その他罪びとと同じ食事の席についたのです。これは、ファリサイ派にとってイエス様の教えが間違っていることを示す証拠になりました。なぜなら、罪びとは神の裁きを受ける者なのに、これを断罪するどころか、一緒に食事までするとは、この男にはもう神について教える資格はない、と。

 

 イエス様が罪びとを招き受け入れる仕方はよく見ると、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入るプロセスを先取りしています。今日はそれを明らかにします。きっと、この出来事は私たちの身に覚えにあることがわかってくるでしょう。それと、本日の福音書の日課には12年間出血の病が治らなかった女性を癒したことと、ユダヤ教社会のある指導者の娘を生き返らせた奇跡もあります。これらもよく見ると、信仰に入った者が信仰者としてこの世を歩むとどういうことになるかということを先取りするように示しています。このことを説教の終わりで述べようと思います。

 

2.「誠実」と「憐れみ」

 

 ファリサイ派の批判に対して、イエス様は次の言葉を返しました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(1213節)。ここには大事なことが沢山詰まっています。まず、イエス様は、自分と罪びととの関係を医者と患者の関係にたとえます。そうすると、イエス様は罪びとの抱える病気を治してあげるということになります。それはどんな病気で、イエス様はそれをどのように治されるのでしょうか?それから、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というのは、本日の旧約の日課、ホセア書66節にある神の御言葉の引用です。これはイエス様が罪びとを受け入れて招くこととどう関係するのでしょうか?さらに、イエス様がこの世に送られてきたのは「罪びとを招くため」と言われますが、罪びとを招くとはどういうことなのか?まさか一緒に飲み食いすることではないことは誰でもわかります。「招く」とは、どこに「招く」ことでしょうか?以下、これらのことを明らかにしていきましょう。

 

 当時、徴税人は罪びとの最たるものと見なされていましたが、興味深いことに、福音書に登場する徴税人は少し勝手が違います。例えば、ルカ3章では、洗礼者ヨハネが神の裁きの日が来ることを大々的に告げ知らせると、大勢の人たちに混ざって徴税人たちも洗礼を受けにやって来ました。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。同じルカの18章にイエス様のたとえの教えで、自分の罪を自覚して神に赦しを乞う徴税人が出てきます。たとえなので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人のことを考えれば、全く非現実的な話ではありません。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様をなんとか一目見ようと木に登り、それに気づいたイエス様が彼を受け入れた途端、悪いことをして蓄えた富を捨てるという決心をしました。ルカ5章で、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人は「全てを捨てて」つき従いました。つまり、イエス様につき従うや否や、それまでの生き方を捨てたのです。ここが重要です。

 

 このように福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方は良くないと感じつつも、自分の力では変えることが出来ないでいた、それが、イエス様の招きを受けた瞬間に生き方が変えられたのでした。ここが大事なポイントです。イエス様と一緒に食事の席についた徴税人その他の罪びとは生き方が変えられた人たちだったのです。その意味で彼らはその時はもう元罪びとだったのです。しかしながら、宗教エリートはこの変化を本当のものとして受け入れられません。彼らの目ではまだ現役の罪びとです。どうしてでしょうか?

 

 それは、罪の赦しが宗教エリートが重視する、戒律的な手順を踏まえておらず、イエスという一個人を通して赦しが与えられてしまったからでした。それでは、エリートたちが教えたこと守れと言っていたことが一気に意味を失ってしまいます。そのため、イエスがやっていることは神が認める罪の赦しなんかでない、罪びとたちの新しい生き方も本当ではないという見方になってしまうのです。イエス様の招きや受け入れには本当に罪の赦しがあり新しい生き方をもたらすものであるというのは、旧約聖書の神の言葉に基づいているのです。

 

 イエス様はホセア書66節の神の言葉を引用しました。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。」罪びとたちが罪の赦しを得て新しい生き方を始めたのに、それを疑う宗教エリートに向かって、この言葉の意味を学びなさいと言いました。私たちもその意味をわからなければなりません。ここからが正念場です。

 

 ヘブライ語の原文を忠実に読むと、「私が求めるのは『誠実』であって、いけにえではない」です。福音書はギリシャ語で書かれているのでイエス様が引用した言葉はギリシャ語のエレオス「憐れみ」です。引用元のヘブライ語の言葉はヘセド「誠実」です。ヘセドは辞書によるとfaithfulnessで、日本語では「誠実」とも「忠実」とも訳せます。以前の説教では「忠実」にしましたが、やっぱり「誠実」がいいと思いました。私たちの新共同訳ではヘセドは「愛」と訳されていますが、これは後で述べるように正しくありません。

 

 元の言葉は「誠実」なのにイエス様が引用すると「憐れみ」に変わってしまいました。この変化の意味がわかると、イエス様の招きと受け入れが罪びとの生き方を変えたことがわかります。まず、ホセア書のホセアは、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂した後に活動した預言者です。紀元前700年代の人です。南のユダ王国の国民はエルサレムの神殿で、神から罪の赦しを得るために律法に従って多くの羊や牛を犠牲の生け贄として捧げていました。しかし、それはいつしか心を伴わない表面的な行為になってしまった、儀式を重ねる一方で神の意思に反することを繰り返すようになってしまった、これではいくら生け贄を捧げても何の意味もありません。人間が自分の罪を心から悔いて神の意思に沿う生き方をしますという儀式なのに、心は改めず儀式さえしていればOKと自己満足に陥ってしまったのです。それで神は、そんな生け贄はもういらないと言われたのです。

 

 それでは、神は生け贄に換えて何を民に求めたかと言うと、それがヘセド「誠実」なのでした。民の神に対する誠実さとは、神に背を向けた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きるということです。これが神に対して誠実に生きるということです。新共同訳では「愛」と訳されているのが正しくないと言うのは、ホセア書の大切なポイントの一つとして、民が天地創造の神に背を向けて違う神々を拝むようになってしまったことを結婚相手の不倫にたとえることがあるからです。そういう背景を考えるならば、ヘセドは相手を裏切らないという意味、辞書にある「誠実」がピッタリなのです(ちなみにフィンランド語訳の聖書は「誠実」、英語訳とスウェーデン語訳は「愛」でした)。

 

 マタイ福音書はギリシャ語で書かれていて、イエス様はホセア書66節を引用した時にエレオス「憐れみ」と言ったことになっています。出来事の現場ではイエス様はアラム語という言葉で話しをしています。イエス様はアラム語で「憐れみ」を意味する言葉を発して、それが後にギリシャ語に訳されてエレオスになったわけですが、イエス様はなぜヘブライ語原文の「誠実」を「憐れみ」という別の言葉に置き換えたのでしょうか?

 

 実はこの変換には背景があります。イエス様の時代の200年前位に旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。そこでホセア書66節の「誠実」ヘセドは「憐れみ」エレオスと訳されたのでした。つまり、この個所の「誠実」という言葉を見てそれを「憐れみ」の意味を含ませる考え方が当時のユダヤ教社会の中に出てきたのです。ファリサイ派に反論する時にイエス様はそっちを取ったのです。どうしてか?こういうことです。ホセア書で神は、民には「誠実」が欠けていると指摘しました。生贄の捧げよりも神に対する誠実が必要なのだと。そしてイエス様は、宗教エリートには「憐れみ」が欠けていると指摘したのでした。罪びとが神のもとに立ち返って神に誠実な者になれるためには戒律に従って生贄の捧げを命じるのは意味がなく、罪びとに「憐れみ」を示すことが必要なのだ、それを自分は罪びとを受け入れて招くことで示しているのだということなのです。これが、イエス様がヘブライ語の「誠実」をギリシャ語の「憐れみ」に置き換えたからくりです。兄弟姉妹の皆さん、このことを通してでも聖書はまことに奥が深い、侮れない書物であることがおわかりになったでしょう。

 

3.十字架と復活こそ私たちに対するイエス様の憐れみの招き

 

 ところが話はここで終わりません。からくりがわかったからと言って満足してはいけません。なぜなら、イエス様が示した「憐れみ」は当時の罪びとを越えて全ての人間、現代を生きる私たちにも及んでいるからです。次にこのことを見てみましょう。イエス様が示した「憐れみ」は、罪びとを受け入れて招くことでした。受け入れられて招かれた罪びとたちは、今度は神に背を向けていた生き方を止めて神に対して誠実な者に変わりました。イエス様の罪びとを受け入れて招く「憐れみ」は、受け入れられて招かれた者の側に生き方の変化をもたらす力を持っていました。これは、まさにイエス様が行った病の癒しや悪霊の追い出しと同じ奇跡の業です。この同じ奇跡の業は時代を超えて今を生きる私たちにも及んでいるのです。徴税人のように何か具体的な悪行はなくとも、私たち人間はみな神聖な神の目から見たら、神の意思に反しようとする性向、罪を持つ「罪びと」です。そのような私たちをイエス様は憐れみで受け入れて招いて下さり、招きを受けた私たちは神に背を向けていた生き方をやめ、神のもとに立ち返り、神の意思に沿うように生きようという心になる、つまり神に対して誠実になる、そういう憐れみを私たちは受けたのです。いつ受けたのでしょうか?

 

 イエス様の憐れみの招きは、彼が十字架の死と死からの復活を遂げた時に本格的に始まりました。イエス様は私たちが持ってしまっている罪を全部引き取ってゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで神の罰を受けて死なれました。私たちが罰を受けないで済むように私たちに代わって受けられて、私たちの罪を償って下さいました。神は一度死なれたイエス様を途方もない力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちに切り開いて下さいました。そこで、私たちがこれらのことは本当に起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされるようになって、神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるのです。そして、永遠の命が待つ神のみ国に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩めるようになるのです。

 

 このように神は私たち人間を憐れんで、ひとり子を贈って私たちが歩むべき道と進むべき方角を照らし出して下さったのです。かつて道を誤ってそれぞれの方角に向かっていた羊の群れのようだった私たちは、罪のゆえに神との結びつきを失うという病に冒されていました。それをイエス様は担って下さり、彼が受難で受けた傷によって私たちは癒されたのでした。まさにイザヤ書53章の預言の通りです。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたことが、この神の憐れみの招きを受け入れたことなのです。それで私たちはもう、神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きようと志向する者になったのです。神に対して誠実な者になったのです。イエス様と同じ食事の席につける元罪びとなのです。

 

4.勧めと励まし

 

 このように神の憐れみの招きを受けて神に誠実な者になると、この世の歩みはどんなものになるか、福音書の日課のもう二つの出来事が先取りするように示しているので、最後にそれを見ておきましょう。

 

 12年間出血の病に苦しんでいた女性は、イエス様の衣に触れたら治ると信じてそうしました。それに気づいたイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言います。それを言った直後に女性は健康になりました。ギリシャ語の原文の「救った」はギリシャ語の特有な現在完了形で、その意味は「過去のある時点から今のこの時まであなたは救われた状態にあった」です。過去のある時点とは、イエス様を救い主と信じ出した時点ですので、「あなたは、私を救い主と信じる信仰に入った時から今のこの時まで救われた状態にあった」という意味になります。女性が治る前にこの言葉が言われたことに注目します。治る前です。つまり、救われるというのは必ずしも病気が治ることではないのです。もっと広い意味があるのです。イエス様を救い主を信じる信仰に入ったら、病気だろうが健康だろうが神との結びつきは変わらずにあり、天の御国に向かう道を歩んでいることにも何ら変わりはないということです。もちろん、この出来事は、まだイエス様の十字架と復活に基づく憐れみの招きが出てくる前のことですが、将来の信仰の有り様を先取りしているのです。

 

 指導者の娘の生き返らせも同じです。「娘は死んではいない、眠っているだけだ」と言うのは、イエス様にとっては、彼を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の日に眠りから目覚めさせられて天の御国に迎え入れられるのだから、この世からの死はその日までの眠りにすぎなくなります。この出来事もまだイエス様の復活が起きていない時のことですが、天の御国に至る道に置かれてその道を歩む私たちにはその通りのことなのです。それで、この出来事もキリスト信仰の有り様を先取りしているのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年6月1日月曜日

キリスト信仰の神の愛とは三位一体からくる愛である(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

主日礼拝説教 2026年5月31日 三位一体主日 スオミ教会

 

創世記1章1-2章4a

第二コリント13章11-13節

マタイ28章16-20節

 

 

説教題 「キリスト信仰の神の愛とは三位一体からくる愛である」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

  今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、いろんな国の言葉で神の偉大な業について群衆の前で証し始めました。弟子の一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され始めました。先週はそれを記念する日でした。それで、父、御子、聖霊の三者がそろったので今日は三位一体を覚える主日です。

 

 皆さんご存じのように、キリスト信仰では神は父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝します。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表しています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の役割、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの役割、聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない、神の目に相応しい者にしていくということです。

 

 これら三つの人格と役割は別々であっても、全部一緒になっているのがキリスト信仰の神です。一つでも欠けたら神という全体が成り立たないのです。それなので、キリスト信仰で普通、神の愛と言っている愛は三位一体から出てくるものです。三位一体から出てくる愛とはどんな愛なのか?今日はこのことについて見ていきます。

 

 本日の福音書の日課はイエス様の大宣教令と呼ばれる個所です。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる。」

 

 三位一体から出てくる愛がわかるために、まず、洗礼が父と子と聖霊の御名によって授けられるというのはどういうことかを見てみます。次にイエス様が世の終わりまでいつも共にいて下さると言っていることについて。彼は聖霊降臨の10日前に天に上げられました。今天の父なるみ神の右におられる方がどうやって地上にいる私たちと共にいられるのか、それについて見ていきます。これらのことを見ていけば、三位一体から来る愛がわかってくると思います。

 

2.洗礼は三位一体の神に結びつける

 

 父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられるとはどんなことか?先ほど述べたように、キリスト信仰の神は、創造の業を行う父、人間を罪の支配下から贖う御子、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊が一緒の神です。父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられるというのは、洗礼を通してこの三位一体の神に結びつけられるということです。そして、結びつけられた後は、神に創造された者として、罪の支配から贖われた者として、そして絶えずこの世から聖別される者としてこの世を生きていくことになります。そして、今のこの世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎え入れられる者になります。

 

 神を三位一体の神と信じるキリスト信仰に入れるかどうかのカギは、実に自分のことを「神に創造された者」という自覚が持てるかどうかにあります。どうして自分が神に造られた者であるという自覚が三位一体のキリスト信仰に入れるか否かのカギになるのでしょうか?

 

 それは、自分が神に造られた者との自覚を持つと、では、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになるからです。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?聖書は、関係はうまく行っていない、だから問題を解決しないといけないという立場です。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまうようなことが起きてしまったからです。そのことが創世記3章に記されています。人間は神に造られたという立場を謙虚に受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられてしまって、その言うとおりにしてしまった。そのために人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が備わるようになってしまった。このいわゆる堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、この世を去った後は復活の体も永遠の命もなく神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死とは罪の報酬です。人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れです。

 

 しかし神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげたいと、罪の問題を人間のために解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったことでした。この神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったのでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、復活の体と永遠の命が待っている天の御国への道を私たち人間に切り開いて下さったのでした。

 

 そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになって、天の御国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。

 

 ところが、この世には人間がその道に入れるのを阻止する力、入れても踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊の出番となります。聖霊は人間が洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきは揺るがずにあることを示してくれるのです。聖霊はまさに信仰者を弁護し、真理を示してくれるのです。その時、私たちは再び神の大いなる恵みの業にひれ伏して、神の意思に沿うように生きようという心を新たにするのです。イエス様が命じたことを守ることができるようになるのは、実にこうした聖霊の働きがあってのことなのです。

 

 このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖われることです。加えて、造られて贖われた人間が天の御国に向かう道を進む力と支えを得られるようになることです。私たちを三位一体の神に結びつける洗礼は、復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れるという神の約束の当事者にするものなのです。

 

3.神の創造は今日でも意味がある

 

 ここで少し脇道に入ります。先ほど、三位一体の神を信じる信仰に入れるかどうかは「神に創造された者」という自覚があるかどうかがカギになっていると申し上げました。その自覚がないと、造り主と自分の関係はどうなっているかという問いは起きず、問いが起きなければ、神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことが何の意味があるのかわからない。意味が分からなければ、聖霊が聖別の役割を果たそうとしても空振りに終わります。それ位、人間が神に造られたということを認めるか認めないかは信仰に入るか入らないかの決め手になるのです。

 

 ところが、今日では神の創造を信じることが難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると考えられるからです。生物は長い時間をかけて単純なものが複雑なものに進化していく、そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物は神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。人格を持った神なんか持ち出さずにいろんなことが説明できるようになります。そうなれば、もう人間は造り主がどう思っているなんて気にしないで自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。自分と神との関係はどうなっているか、うまく行っているのかいないのか、などと考える必要はなくなります。イエス様の十字架と復活の業も必要なくなります。さて、天地創造を出発点にする聖書とその聖書を信じて生きる人たちにとって大変な時代になりました。

 

 このことについて私は3年前の三位一体主日の説教で旧約の日課創世記1章から2章の初めまでの個所をもとに説き明かしをしました(202364日の説教)。そこで、神の創造は、時代遅れの考え方ではない、今日において重要な意味があるということを述べました。どのように述べたかはここでは繰り返しませんが、2点だけ触れておきます。一つは天と地とその他のものを創造されたのが6日間だったことについてでした。それは、創造には6段階あって、それぞれの段階を1日と呼んでいると見れば、天地創造の時間的流れは別に問題はないのではないかということでした(神は時間数にして144時間で全てを創造したかについては、神には不可能なことはないから、その可能性も残しておきますが、1日が今のように24時間の長さになるのは、4段階目に太陽と月が今の配置になる位から始まるのではないか、それ以前は長さは違っているのではないかという見方も可能です。5段階目の創造は明らかに両生類と爬虫類で、「怪物」とは恐竜のことを言っているのではと思われます。6段階目は哺乳類と人類の段階です。)

 

 もう一つは、天地創造のところだけでなく聖書の他のところも見ると、神の祝福は人間だけではなく動物にも及んでいるということです。例えば、イザヤ書11章を見ると動物も人間と共に神の国にいることが言われています。ところが、聖書はもっと踏み込んで動物の救いについて述べません。それはやはり、人間が神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまったために救いが人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものかを示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるためにイエス様の十字架と復活の業が行われました。人間が贖いと結びつきを自分のものに出来るために洗礼と聖餐が必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだとしても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。いずれにしても、聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。そういうわけで、天地創造は救いを人間を超えて生態系にも及ぼしているのだと予感することで十分と思います。それなので、天地創造は時代遅れなんかではないのです。しかも、天地創造はこの世をどう生きるかという倫理的な視点を与えます。自分は神に創造されたと自覚したら、神との関係はどうなのか考えることになります。その時、神が贈ってくれた贖い主がおられる、彼のおかげで神との関係は大丈夫、心配ないとわかれば、神の意思に沿うように生きようとするのは自然なことになります。とやかく言われてするということではなくなります。進化論からはどんな倫理的な視点が出てくるでしょうか?弱肉強食のような視点にならないでしょうか?

 

4.イエス様は世の終わりまでいつも共におられる

 

 話が脇道に逸れましたが、次に、天に上げられたイエス様はどうやっていつも世の終わりまで私たちと共にいることができるのかを見てみましょう。

 

 まず、イエス様が天に上げられたのに呼応するように聖霊が降ったことを思い出しましょう。洗礼を通して私たちに与えられる聖霊が、イエス様が私たちと共におられることを真実にするのです。イエス様は十字架の業を果たすことで私たちに罪の赦しという恵みを与えてくださいました。先ほど述べたように、聖霊は私たちがその恵みの中に留まって生きられるようにしてくれるのです。罪の赦しの恵みに留まって生きるというのは、イエス様が共におられるということです。

 

 さらに、私たちには聖餐式があります。イエス様が天に上げられることを預言した詩篇110篇の中で、神の右に座す者つまりイエス様はメルキセデク級の大祭司であると言われています。ヘブライ人への手紙の中で言われるように、イエス様は自分自身を犠牲の生贄に捧げて全ての人間の罪を償い、人間を罪の呪いから未来永劫に贖って下さった「大祭司中の大祭司」です。聖餐式は、この完全な償いと贖いを実現した大祭司イエス様と交わる場なのです。

 

 さらに、イエス様が私たちと共におられるというのは、私たちがイエス様を頭とする体の部分であるということがあります。詩篇1101節で神が御子に次のように述べているところがあります。「わたしの右に座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」パウロはエフェソ12023節の中でこの個所を引用して、イエス様が再臨するまでの期間はキリスト信仰者にとってどんな期間であるかを教えています。イエス様を死から復活させて御自分の右の座に着かせた神は彼を「全ての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれました。支配、権威、勢力、主権とは、現実の権力だけでなく、目に見えない霊的な力も全部含まれます。この世のどんな大国がどんな権力や軍事力をもってしても、神の右に座すイエス様には敵わないということです。また目に見えない霊的な力もイエス様には太刀打ちできません。

 

 ここでパウロは、そのイエス様を頭として教会が体としてあると述べます。教会はイエス・キリストの体で、その頭がイエス様である、と。ここで言う「教会」は教派的、組織的な教会ではなく目に見えない世界大の教会で、キリストの体と化しているものです。どんな体かと言うと、まず、聖書の御言葉、全体として罪の赦しの恵みを目指す御言葉が響き渡る体です。次に、洗礼を通してその部分になれる体です。そして、体の部分である信仰者は聖餐式を通して罪の赦しの恵みを全身全霊に満たして神との結びつきを、イエス様との繋がりを強めていく体です。そういうわけで、キリスト信仰者はイエス様を頭とする体の部分としてイエス様と結びついているのです。

 

5.勧めと励まし

 

 そうなると、天地創造の神と救い主イエス様とこれだけ密接に結びついているのだから、教会やそこに属する信仰者たちは支配、権威、勢力、主権に対してイエス様のように勝っているかと言うと、そうとも言えない現実があります。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている自分たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実です。イエス様が人間を罪の支配から解放して下さったことは真理なのに、罪の誘惑はやまないという現実です。全てに勝るイエス様に繋がっている筈の信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 

 それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世に属していることによります。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部この世に属しています。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろう、天の御国なんか入れないようにしてやろうという力が働いているところです。さらに、人間が造り主の神に心を向けられないようにしてやろう、神と結びつきを持てないようにしてやろうという力が働いているところです。これらがイエス様の足台にされた霊的な力です。アダムとエヴァの堕罪の時からずっとこの世で作用し続ける力です。ただし、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされます。その時、キリストの体は全身が天の御国の中に置かれます。私たちキリスト信仰者は、このことを見通すことできればイエス様が今のこの世の終わりまでいつも共におられることはその通りであるとわかって、この世で何も恐れるものはなくなるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン