2026年2月3日火曜日

キリスト信仰者の『幸い』ストーリー (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年2月1日 顕現節第4主日

 

ミカ章6-8節

第一コリント1章18-31節

マタイ5章1-12節

 

説教題 「キリスト信仰者の『幸い』ストーリー」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所はイエス様の有名な「山上の説教」の初めの部分です。「山上の説教」はガリラヤ地方の小高い山の上で群衆に向かって語られた教えで、マタイ5章から7章までの長きにわたります。教え終わった時、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われています(729節)。そのように聞く人に強いインパクトを与える教えでした。2000年後の私たちが読んでもインパクトがあります。例えば、「復讐してはならない、敵を愛せよ、人を裁くな」というのは崇高な理想に聞こえます。また、「野の花を見よ、働きもせず、紡ぎもしない、それなのに、天の父なるみ神はこのように装って下さる。お前たちにはなおさらである。だから思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」などは、キリスト信仰者であるなしにかかわらず、人の心を慰めます。そうかと思えば、モーセ十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」について、たとえ殺人を犯さなくとも心の中で兄弟を罵ったら同罪であると教え、第六の掟「汝姦淫するなかれ」についても、たとえ不倫をしなくともふしだらな目で異性を見たら同罪であると教えます。そこまで言われたら神の前で正しい人間などいなくなってしまうではないか、と呆れかえられてしまうでしょう。

 

 このように「山上の説教」には、崇高な理想を感じさせる教えもあれば、慰めに満ちた心温まる教えもあり、そうかと言えば、ちょっと受け入れられないぞ、というような教えもあります。いずれにしても聞いた人たちは何か不動の真理が述べられていると気づいて、権威ある教えに感じたのです。

 

 本日の箇所でイエス様は「幸いな人」について教えます。「幸せ」ではなくて「幸い」と言っていることに注意しましょう。もとにあるギリシャ語の単語マカリオスμακαριοςの訳として「幸せ」ではなく「幸い」が選ばれました。普通の「幸せ」とは違う「幸せ」が意味されています。どんな「幸せ」でしょうか?一般に、好きなことが出来きたり、欲しいものが持てることが幸せなことと考えらます。不足がない満足な状態です。

 

「幸い」は次元が違います。誤解を恐れずに言えば、欲しいものが持てない好きなことが出来ない時にもある幸せです。この世離れした「幸せ」です。聖書の観点で言うと、創造主の神が「これが人間にとって幸せだ」と言っていることが「幸い」です。人間の目から見た「幸せ」に対する神の目から見た幸せです。両者は重なる部分もありますが、基準はあくまで神の視点です。

 

さて、現代のような、あらゆることが人間中心で進む時代に、最近ではAIも存在感を増してきていますが、そんな時世に「創造主の神」などを持ち出してその基準に人間を従わせるようなことは流行らないと言われるでしょう。良いこと悪いこと正しいこと間違っていることの判定にもう神など持ち出す必要はない、人間にやりたいようにやらせて何か不都合なことが起きたら軌道修正すればいい、AIもちゃんと教えてくれる、皆さんそういう考え方になってきているのではないでしょうか?そうなれば、「幸い」などというものは神の余計なおせっかいで、「幸せ」の追求の邪魔にさえなります。それは逆に言うと、キリスト信仰は時代の流れに逆らう反逆児のストーリーを描き出しているということになるのではないでしょうか?要は、人間は神の前に跪いて祈るのが人間らしいのか、それとも、跪くものなど何もないというのが人間らしいのか、どちらが人間らしいかという問題に行きつくと思います。

 

2.「幸い」のケース・スタディー

 

イエス様はどんな人が神の目から見た幸せな人、「幸いな」人であると教えているでしょうか?九つのケースがあります。一つ一つ見ていきましょう。

 

まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。よく指摘されることですが、「心の貧しい」というのはギリシャ語の原文では「霊的に貧しい」です。英語の聖書(NIV)もスウェーデン語もフィンランド語もルター訳ドイツ語も皆「霊的に貧しい」と訳しています。「心が貧しい」とは、日本語の辞書によると「人格や器量が乏しいさま」とか「考えが狭かったり偏っていたりすること」という意味です。「あの人は心が貧しい」と批判したり「私は心が貧しい」と反省したりするので、人間関係の中で現れてくる人の至らなさです。

 

これに対して「霊的に貧しい」とは、創造主の神を前にして自分には至らないところがあると自覚していることです。十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかがわかります。それに照らしてみると自分は神のみ前では至らないということがわかります。これが霊的に貧しい状態です。自分はもちろん殺人もしないし不倫も盗みも働かない。だから神はよしと認めて下さるかと言うと、イエス様は「山上の説教」で、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと教えている!神聖な神は人間の外面的な行いのみならず心の奥底まで潔癖かどうか見ておられる。なにしろ神は天と地のみならず人間をも造られた創造主で、人間一人一人に命と人生を与えられた造り主である。私たちの髪の毛の数から心の奥底までも全部お見通しである。そうなれば、自分は永遠に神の前に失格者だ。このように神聖な神の意思を思う時、至らない自分に気づきがっかりする。これが霊的に貧しいことです。しかし、そのような者が「幸いな者」と言うのです。なぜか?

 

その理由は、「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。これは不思議なことです。「天の国」、つまり「神の国」のことですが、霊的に完璧な者が幸いで神の国を持てるとは言わないのです。逆に、自分は神聖な神の前に立たされたら罪の汚れのゆえに永遠に焼き尽くされてしまうと意気消沈する。そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てるとイエス様は言われる。これは一体どういうことか?これは後で明らかになります。

 

 次に「悲しむ者」が幸いと言われます(4節)。何が悲しみの原因かははっきり言っていません。前の節で言っていた、神の前に立たされて大丈夫でない霊的な貧しさが悲しみの原因と考えられます。それと、神との関係以外で、人間との関係や社会の中でいろんな困難に直面して悲しんでいることも考えられます。両方考えて良いと思います。それではなぜ「悲しむ者」が幸いなのか?その理由は、「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言われてなければ、たいていは神が主体として暗示されています。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになるということです。どういうことか、これも後で明らかになります。

 

次に「柔和な人々」が幸いと言われます(5節)。「柔和」とは、日本語の辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語プラウスも大体そういうことだと思いますが、もう少し聖書の観点で言えば、マリアの品性が当てはまります。マリアは神を信頼し、神が計画したことは自分の身に起こってもいいという物分かりの良い態度でした。たとえ世間から白い目で見られることになっても、神は良い方向に導いて下さるから心配ないという単純さ、神の計画を運命として静かに受け入れる態度でした。そういう神への信頼に裏打ちされた物分かりのよさ、単純さ、静かに受け入れる態度、これらが柔和の中に入ってきます。

 

そんな柔和な人たちが幸いである理由は、「なぜなら地を受け継ぐことになるからだ。」少しわかりにくいですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、イスラエルの民が神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味しました。キリスト信仰の観点では、「約束の地」は将来復活の日に現れる「神の国」になります。それで、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」に迎え入れられることを意味します。神を信頼する柔和な人たちが神の国に迎えられるということも後で明らかになるでしょう。

 

 次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神の前に立たされても大丈夫、問題ないと見てもらえる状態です。先ほど見た、霊的に貧しい人は神の前に立たされたら大丈夫でないと自覚しています。それで義に飢え渇くことになります。そのように飢え乾く者が幸いなのです。その理由は、「なぜなら彼らは満たされることになるからだ」。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということです。義がない状態を自覚して求める者は必ず義を神から頂ける。だから、義に飢え渇く者は者は幸いである、と。反対に義の欠如の自覚がなく飢えも渇きもない人は満たしてもらえないのです。それでは、神はどのように義の欠如を満たして下さるのか、これも後で明らかになります。

 

7節では「憐れみ深い人」が幸いで、それは彼らが神から憐れみを受けることになるからだと言われます。神から憐れみを受けるとは、神の意思に照らしてみると至らないことだらけの自分なのに受け入れてもらえるということです。罪を持つのに赦してもらえるということです。どうしたら私たちも赦したり受け入れたりすることが出来て神から憐れみを受けられるのでしょうか?そのことも後で見ていきます。

 

8節では「心の清い人」が幸いで、それは彼らが神をその目で見ることになるからだと言われます。3節ではギリシャ語の「霊」プネウマが「心」と訳されていてそれは間違い、「霊」が正しい、と申しましたが、ここの「心」はギリシャ語のカルディアで「心」であっています。二つの異なる言葉が同じ日本語にされてしまうと、正しい理解ができなくなってしまいます。「心の清い」とは罪の汚れがないということです。そんな人は神の前に立たされても大丈夫なはずですから、神を見るのは当然です。私たちはどうしたらそんな清い心を持てて、神の前で大丈夫でいられるようになるのでしょうか?そのことも後で見ていきます。

 

9節では「平和を実現する人」が幸いで、それは神の子と呼ばれるようになるからだと言われます。「平和を実現する人」と聞くと、ノーベル平和賞を受賞するような人を思い浮かべるかもしれませんが、平和の実現はもっと身近なところにもあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、どうしてそのような人が「神の子」と呼ばれるのでしょうか?それも後で明らかになります。

 

1011節ではイエス様を救い主と信じる信仰や義のゆえに人から悪く言われ、ひどい場合は迫害されてしまうことがあっても、それは幸いなことだと言います。その理由は、神の国に迎え入れられることになるからです。以上からわかるように、全ての「幸い」のケースは神の国への迎え入れと関係しているのです。神に慰められることも、神の国を受け継ぐことも、義が満ち足りた状態になるのも、憐れみを受けるのも、神を目で見ることも、神の子と呼ばれることも全て、神の国に迎え入れられるからそうなるのだ、ということなのです。それでは、神の国に迎え入れらるとはどういうことか?どうしたら迎え入れられるのか?それを次に見てみましょう。

 

3.神の国に迎え入れられる道を進む幸い

 

「山上の説教」を当時はじめて聞いた人たちは面食らったことと思います。というのは、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は、詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神に顧みてもらえる人を意味したからです。また、詩篇の第32篇にあるように、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫と見なされる人を意味しました。

 

人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。

 

イエス様の教えを聞いた人たちは旧約聖書の伝統に立っていたので、「幸いな人」と聞いて、律法を心に留めて守る人とか、神殿での儀式を通して罪の赦しを得られる人とか、そういう人を連想しました。詩篇の第1篇と32篇は、「幸いなるかな、~する人は」という聖句があります。イエス様も同じ口調で「幸いなるかな、~する人は」と語りました。それなのにイエス様は、律法のことも罪の赦しも何も言いません。神の前に立たされたら本当は大丈夫ではないのだ、大丈夫になるのは今までのやり方ではダメなのだということを明らかにする教えだったのです。イエス様の意図は以下のものでした。

 

イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。創造主の神は人間の心の中までご存じである。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると思っているが、父なる神は預言者たちの口を通して言っていたではないか。毎年繰り返される生け贄の捧げは形だけの儀式になってしまい、心の中の罪を野放しにしている。それなので私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう。本当の罪の赦しを与えよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが神の国への迎え入れを確実にすることであり、だから幸いなのだ。

 

それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、律法を心に留められるようにして人間を神の国に迎え入れられる「幸いな者」にしたのでしょうか?

 

 それは、天地創造の神が立てた人間救済計画を実行することで行われました。創世記3章に記されているように、人間は神に対して不従順になり、神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまいました。人間と神との結びつきは失われて、人間は死ぬ存在となってしまいました。神はこの状態を悲しみ、それを解決するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様に人間の全ての罪を背負わせて、ゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで神罰を受けさせて死なせました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子に人間の罪の償いをさせたわけです。ひとり子の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。本日の旧約の日課ミカ書で、動物の生贄を捧げることはもはや意味がないと自問しているところがありました。動物の生贄に意味がなければ、人間が自分の子供を生贄にしなければならないのだろうかとさえ言います。神は、そうする必要はないと言わんばかりに、自分のひとり子を生贄に捧げたのでした。

 

この犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。罪には人間を神から引き離す力がありましたが、それが完全に削がれました。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその人にその通りになります。その人は復活の体と永遠の命が待つ「神の国」に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。洗礼を受けイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、使徒パウロが言うように、神聖なイエス様を衣のように頭から被せらるのです(ガラティア32627節)。信仰者は、この衣を纏いながら神の国に至る道を進んでいくのです。自分は至らない者なのに、神はひとり子を犠牲にするくらいに私のことを思って下さった。このことが分かった人は、神に対して畏れ多い気持ちと感謝の気持ちの両方を持つようになり、神がそうしなさいと言われることはするのが当然という心になります。

 

4.勧めと励まし

 

神への畏れ多い気持ちと感謝の気持ちから神の意思を心に留めるようになると今度は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかと注意深くなります。外面的には罪を行為にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることに気づきます。まさに霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、イエス様を救い主と信じていますので、私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、私たちはまた新しいスタートを切ることができます。神の国に至る道を進むキリスト信仰者はいつも、このように慰めを受け義の飢えと渇きを満たされます。それなので、神に対して強い信頼を抱き柔和になります。

 

一方的な平和路線でいいという態度について、パウロがローマ12章で言っています。キリスト信仰者たる者は完全な正義はどんなに遅くとも最後の審判で実現するということに全てを賭けている、だから自分では復讐はしないのだ、と。信仰のことを悪く言われても迫害されても、それは「神の国」に至る道を歩んでいることの証しに他ならないのです。

 

やがて歩んできた道も終わり、神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚している。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まった。不十分なところもありました、しかし、信仰が全てでした、そう神に申し開きをします。自分がより頼んで来たイエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、イエスの純白な衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力が働いても、しっかり握り掴んで手放さなかった。その証拠に私は今、お前が同じ衣を着て立っているのを目にしている。」

 

兄弟姉妹の皆さん、これがキリスト信仰者の「幸い」のストーリーです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2026年1月26日月曜日

イエス様は闇を周辺に追いやる真の光 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 202625顕現後第三主日

 

スオミ・キリスト教会

 

イザヤ8章23節-9章3節

第1コリント1章10-18節

マタイ4章12-23節

 

説教題 「イエス様は闇を周辺に追いやる真の光」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 イエス様はヨハネ福音書の8章で自分のことを世の光である、私に従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つと証しています。イエス様がそのような光であることは本日の旧約の日課イザヤ書9章で預言されていました。私たち人間はこの世では暗闇の中を歩んでいるようであり、死の陰の地に住んでいるようなものである、そこにイエス様という光が現れ、そのおかげで暗闇の中を歩まなくてすむようになり、死の陰の地から脱することができるようになるということです。それで、本日の詩篇の日課27篇の冒頭で言われるように光のおかげで何も恐れる必要はなくなるのです。イエス様がそのような光であることを本日の説教で明らかにしていこうと思います。

 

 まず、出来事の流れを振り返ります。イエス様がヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神からの霊、聖霊が彼の上に降るという出来事がありました。これはイザヤ書112節と421節の預言の実現でした。その後でイエス様はユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けました。悪魔はイエス様に肉体的な苦痛だけでなく、苦痛から逃れられるために旧約聖書の御言葉を悪用して、イエス様がひれ伏すように仕向けました。しかし、イエス様は神のひとり子ですから、父の御言葉を正確に理解しています。悪魔の魂胆は全てお見通しです。悪魔の試みは全て失敗に終わり、悪魔は退散しました。

 

 悪魔の誘惑に打ち勝ったイエス様は、ユダヤ地方の北にあるガリラヤ地方に移動し、そこで活動を開始します。ガリラヤ地方は、イエス様が育ったナザレの町があるところです。なぜガリラヤに移動したのか?洗礼者ヨハネが投獄されたことが言われています。ヨハネを投獄したのはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス、これはイエス様が生まれた時に命を狙ったヘロデ王の息子です。洗礼者ヨハネはこの領主の不倫を咎めたために投獄されたのでした。ヨハネは後に首をはねられてしまいます。イエス様はヨハネが投獄されたと聞いて、ガリラヤにやって来たのです。新共同訳では「ガリラヤに退かれた」とありますが、事実は逃げたというより、アンティパスの本拠地に乗り込んで来たというのが真相です。

 

 しかしながら、育ち故郷の町ナザレを活動拠点とはせず、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちがイエス様を拒否したからでした。その辺の事情はルカ41630節に記されています。

 

 さて、カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が始まりました。「悔い改めよ、神の国が近づいた」という言い方で人々に教え始めました。教えるだけでなく、人々の病を癒すような多くの奇跡の業も行いました。マタイはこれらのことをもってイザヤ書の本日の個所の預言が成就したと記したのです。活動開始の時、弟子になる者たちを選びました。本日の個所ではペトロとアンドレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟、4人ともガリラヤ湖で漁をする漁師でした。みなイエス様に声をかけられるや、生業を捨てて後についていきます。特にヤコブとヨハネは「舟と父親を残して従った」とあります。生業も親も捨てて行ってしまったなどと聞くと、なんだかいかがわしい宗教団体みたいです。このことについては、以前の説教でルターの教えをもとにしてお教えしたことがあります。今日は少し視点を変えて、イエス様の弟子として召されるというのはどういうことか、説教の終わりで触れておこうと思います。

 

2.闇を照らし、死の陰を地から導き出す光

 

 まず、イエス様がガリラヤで活動を開始したことが、イザヤ書の預言の成就であるということについて見てみましょう。

 

 マタイ福音書では成就した預言の文句は、イザヤ書823節と91節の2つの節が引用されています。ちょっと端折った引用ですので、少し詳しく見てみます。新共同訳に倣います。

 

「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない。先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」

 

 この預言は、これが語られた紀元前700年代の出来事に関わっています。それから700年たった後のイエス様の出来事にも関わっています。さらにはイエス様の出来事が時代を経て現在にまで関わっているということもあります。このように三つの層が折り重なっている預言ですので、それらを一つ一つ解きほぐしていきましょう。

 

 紀元前700年代、かつてのダビデの王国が南北に分裂して二つの王国が反目しあって200年近く経ちました。こともあろうに、北のイスラエル王国が隣国と同盟して、南の兄弟国ユダ王国を攻めようとしました。ユダ王国は王様から国民までパニックに陥りますが、預言者イザヤが現れて「攻撃は成功しない、なぜなら神がそうお決めになったからだ、だから心配する必要はない」と言います。実際、イスラエル王国と同盟国は東の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまい、ユダ王国に対する攻撃は実現しませんでした。イザヤの預言の「辱めを受けたゼブロンの地、ナフタリの地」というのは、ユダヤ民族の12部族の中のゼブロン族とナフタリン族の居住地域で、ちょうどイスラエル王国の版図です。それが、アッシリア帝国に蹂躙されてしまったのです。

 

 しかしながら、預言の言葉は滅亡で終わっていません。「後に、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。」これは、異民族に蹂躙されてしまったこれらの旧ゼブロン、旧ナフタリの地域が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに受けるかということについては91節から言われます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」預言はさらに続きます。その光を見た人々は大きな喜びに包まれる。それはさながら刈り入れの時を祝うようであり、戦争に勝って戦利品を分け合う時のようである、と。戦利品を分け合うというのは物騒な話ですが、戦争が日常茶飯事な時代でしたから喜び祝うことをたとえる言い方として普通だったのでしょう。そうは言っても、戦争を賛美する考えのないことは、後に来る4節の御言葉「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた」から明らかです。イザヤ書2章にも全ての軍備が廃棄されて恒久的な平和が実現する、それは終末の平和であるという預言があります。ゼカリヤ書9章では、軍備が廃棄されて恒久的な平和が実現することがメシアの到来と結びつけて預言されています。

 

 ところで、イザヤ書9章の預言は3節の後も続きます。本日の日課を超えていますが、大事なので見ていきます。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている「平和の君」とは誰のことを言うのか?

 

 紀元前700年代、ゼブルンの地とナフタリの地にまたがる北王国はアッシリア帝国に滅ぼされました。その後、南王国は次は自分たちの番かと固唾を飲む状況が続きました。本日の日課の個所の少し前に国民が精神的に追い詰められた状況が述べられています。それが823節で「今、苦悩の中にある人々は逃れるすべがない」ということなのです。

 

 そこで、蹂躙されたガリラヤ地方がまた栄光を受けるとはどういうことなのか?ひとりのみどりごが生まれるとは誰のことなのか?南のユダ王国はヒゼキア王の下でアッシリアの大軍を寸でのところで退却させることに成功しました。ということは、みどりごはヒゼキア王のことだったのか?しかしながら、南王国も紀元前500年代にバビロン帝国に滅ぼされてしまい、主だった人たちはバビロンの地に連行されてしまいました。なんだ、みどりごはヒゼキア王ではなかったのか。では、誰のことか?

 

 紀元前500年代終わりにユダヤ民族は祖国帰還を実現しエルサレムの町と神殿を復興させました。しかしながら、民族はその後、一時期を除いてずっと諸外国の支配下に置かれ続けました。この間に、イザヤ書の預言にある「苦悩の中にある」とか、「闇の中を歩む」とか「死の陰の地に住む」というのは、一民族の苦難を意味するのではなく、もっと人間一般の根源的な苦しみを意味すると気づかれるようになります。そうなると、生まれてくるみどりごも、特定の民族を再興する民族の英雄ではなくなり、民族に関係なく広く人間そのものを救う救世主であるとわかるようになります。旧約聖書の人類誕生の出来事に照らしてみれば、それこそが正しい理解になるのです。

 

3.神の国への迎え入れ

 

 イエス様は公けに活動を開始した時、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。「神の国が近づいた」と言う時、それは本当に神の国がイエス様と一体となって来たことを意味しました。

 

 神の国がイエス様と一体となって来たことは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、そしてそれを目のあたりにした人々が大勢出ました。彼らは、将来到来する神の国というのは、奇跡が当たり前になっているところなのだ、ということを前触れのように体験したのです。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を代々受け継いでしまっているので神聖な神の国に入ることはできないのです。罪を持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。罪の問題を解決しない限り、神聖な神の国に迎え入れられないのです。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はそのままの状態ではまだ神の国の外側にとどまっているのです。

 

 この問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。神は、本当なら人間が受けるべき罪の罰を全部ひとり子のイエス様に受けさせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせました。神は、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。そこで人間の方が、十字架の出来事にはそういう意味があったんだとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神の目に適う者となり、それで神の国に迎え入れられる者に変えられるのです。そのように変えられた人は、それに相応しく生きようという気概になって生きるようになるのです。

 

 そういうわけで、「闇の中を歩む者に光が現れ、死の陰の地に住む者に光が輝いた」という預言は、2700年前のヒゼキヤ王の時代も、2000年前のイエス様が活動した時代も飛び越えて現代にいる私たちに向けられているのです。神の意思に反する罪を持つがゆえに、神との結びつきを失ってしまった全ての人間、永遠の命が待っている御国に迎え入れない全ての人間のことを言っているのです。それが、闇の中を歩むことであり、死の陰の地に住むことです。ゼブルンの地、ナフタリの地、ガリラヤ地方など日本にいる私たちには縁遠いローカルな地名が登場しますが、それは、その光であるイエス様がたまたまその地で活動を開始したからにすぎません。イエス様は、十字架の死と死からの復活をもって、創造主の神の栄光を現わし、世の光となられました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はこの光を目にするようになったのです。もう死の陰の地に住んでいません。ヨハネ1章で言われる、暗闇も圧倒することができない無敵の光です。それを目にするようになれば、闇は光の周辺か背後に追いやられます。もう真っ暗闇の中を歩むことはないのです。

 

4.勧めと励まし

 

 4人の漁師がイエス様の呼びかけに応じて生業も家も捨てて付き従って行きました。イエス様の呼びかけにそのような力があったのは、人間を死の陰の地から救い出しどんな暗闇も勝てない無敵な光としてのなせる業としか言いようがありません。そうすると、私たちももしイエス様の呼びかけがあったら同じようにしなければならないのか?私たちには弟子たちのようにイエス様の肉声は聞こえません。そこで、もし教会や教派で権威ある人が、この個所はあなたに全てを捨てなさいと言っているなどと教えたら、それに従わないといけないのでしょうか?

 

 ここで、弟子たちの立場と私たちの立場を区別する必要があることに注意します。最初の弟子たちがイエス様に召されたのは、イエス様の教えと業をつぶさに目撃して後に証言者となるためでした。イエス様の出来事の頂点は彼の十字架の死と死からの復活です。それも目撃した弟子たちは、イエス様は本当に人間を死の陰や闇から救い出す光であることがわかりました。それを人々に伝え知らせ命を賭してまで証しして、それらが記録されたものが聖書に収められました。

 

 さて、私たちは、弟子たちが伝え知らせ証ししたことを聖書を通して受け取りました。洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰によって、死の陰を蹴散らし闇を周辺に追いやる光を目にすることができるようになりました。それで、詩篇27篇の最初の御言葉のように何も恐れる必要がない者になることができたのです。最初の弟子たちが全てを捨てて目撃者となって証言者となってくれたおかげです。そこで、私たちの立ち振る舞いを周りの人たちが見て、あの恐れない心はイエスという光を持てているからだとわかるようになって光のもとに来るようになれば、私たちは弟子たちの役割を継承していることになります。大胆に捨てることで頑張っていることを示すのが目的ではなく、光を持って生きられる人が増えることが目的です。キリスト信仰者自身がそのように生きていれば、周りはそれに気づくのです。マタイ5章の初めでイエス様が「世の光たれ」と言っているのはこのことです。

 

 そうは言っても、現実の場面ではいろんなことに遭遇して光よりも闇の方に目が向いてしまい恐れてしまうことが多いです。だから、日曜日の礼拝で罪の赦しの宣言、聖書の御言葉の説き明かし、聖餐式を受けて光をもう一度目の前に輝かせて闇を周辺に追いやることを繰り返しするのです。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、礼拝にはそのような、私たち自身を強め、知らずにして証し人にする力があることを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2026年1月12日月曜日

イエス様が受けた洗礼と私たち (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

主日礼拝説教 2026年1月11日(主の洗礼日)

スオミ・キリスト教会

 

イザヤ書42章1-9節

使徒言行録10章34-43節

マタイによる福音書3章13-17節

 

説教題「イエス様が受けた洗礼と私たち」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事です。これは驚くべき出来事です。どうしてイエス様が洗礼を受ける必要があったのか?ヨハネの洗礼は、救世主メシアの到来に備えて人々を準備させるものでした。どのように準備させるかというと、人々が罪の告白をして神のもとに立ち返る決心をしてメシアをお迎えするのに相応しい状態になることです。ところが、ヨハネのもとに来た人たちは彼の洗礼ですぐ罪が洗い流されて神の裁きを免れると思ったようです。しかし、ヨハネの洗礼は罪を帳消しにするような決定的なものではありませんでした。ヨハネ自身、自分の後に来る方の名のもとに行われる洗礼こそが決定的な洗礼になると述べています。

 

 救世主メシアであるはずのイエス様がヨハネから洗礼を受けるというのは、つじつまが合わないことです。なぜならイエス様は神聖な神のひとり子だからです。乙女マリアから人間の体を持ってこの世に生まれこそしますが、それは聖霊の力によるものであって罪の汚れを持たない神のひとり子としての性質はそのままです。それなのでイエス様は罪の告白をして神のもとに立ち返る決心などする必要はありません。それだから、ヨハネはイエス様が目の前に現れた時、驚いてしまったのです。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と言っているほどです。ヨハネの戸惑いはもっともです。では、なぜイエス様は洗礼を受けにヨハネのもとに行ったのでしょうか?

 

 この問いに対する答えとして、「イエスは我々と同じレベルになることに徹した。それで罪ある者たちの中に入って洗礼を受けたのだ」と言う人がいます。つまり、人間にとことん寄り添う憐れみ深いイエス様、強い連帯心をお持ちの方ということです。しかし、ここにはもっと深い意味があります。もちろん、寄り添いや連帯ということは否定しませんが、そうした捉え方では収まりきれない、もっと大きなことがあります。今日の説教では、このもっと大きなことを明らかにしていこうと思います。

 

2.イエス様が受けた洗礼と私たち

 

 なぜイエス様はヨハネから洗礼を受けなければならなかったのか?答えは本日の福音書の箇所の中にあります。マタイ315節でイエス様が躊躇するヨハネに次のように言います。「今は言う通りにしなさい。義を全て成就することは我々にとって相応しいことだからだ。」新共同訳では「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」となっています。これだと、イエス様がヨハネから洗礼を受けるのは「正しいこと」だから受けるというのですが、なぜそれが正しいのかは見えてきません。イエス様とヨハネが正しいことを行うというのは何だか当たり前すぎて、それがどうイエス様の洗礼と関係するのかわかりません。これを理解するためにはギリシャ語の原文を見てみる必要があります。このことは以前にもお教えしましたが、少し復習します。

 

 15節を忠実に訳すと先ほど申し上げたようになります。「今は言う通りにしなさい。義を全て成就することは我々にふさわしいことだからだ」。つまり、ふさわしいこととは「正しいことをすべて行う」ことではなくて、「義を全て成就すること」です。これが私の好き勝手な訳でないことは、いくつかの国の聖書を繙いてみてもわかります。英語訳の聖書(NIV)、ドイツ語のルター訳、スウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ても、みな同じように「義を成就すること」が言われています(後注1)。本説教も「義を全て成就する」でいきます。

 

 そこで問題となるのが、「義を全て成就する」とは何かということです。まず、「義」という言葉ですが、これはルター派がよく強調する信仰「義」認の「義」です。人はイエス様を救い主と信じる信仰によって神から義人と認められるという時の「義」です。「義」とは、神の意思が完全に実現されていて神の目に相応しい状態にあることを意味します。それはまさしく十戒が完全に実現されている状態です。十戒は「私以外に神をもってはならない」という掟で始まります。最初の三つの掟は神と人間の関係について神が人間に求めているものです。残りの七つは、「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」、「貪るな」など人間同士の関係について神が人間に求めているものです。神自身は十戒を完全に実現した状態にある方、十戒を体現した方ですから、神そのものが義の状態にある、義なる存在であるということになります。

 

 この神の義を人間の立場から見ると、人間はそのままでは義を失った状態にあります。なぜなら、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を持っているからです。人間が義を失った状態でいると、創造主の神との結びつきが失われた状態でこの世の人生を歩むことになります。そして、この世から別れた後は創造主の神のもとに迎え入れられなくなってしまいます。人間が神の義を持てて、この世と次に到来する世にまたがって神と結びつきを持って生きられるためにはどうしたらよいか?それについてユダヤ教では、十戒や律法の掟をしっかり守ろうと言って、義を自分の力で獲得することが目指されてきました。しかしイエス様は、人間がいくら自分たちの作った規則や儀式で罪を拭い去ろうとしても、罪は人間の内に深く根を下ろしているので不可能と教えました(マルコ7章、マタイ5章)。使徒パウロも、神が与えた十戒の掟は自分に課せば課すほど、逆に自分がどれだけ神の意思に反するものであるか、義のない存在であるか、思い知らされてしまうと観念したのです(ローマ7章)。

 

 この世と次に到来する世にまたがって創造主の神としっかり結びついていられるためには神の義を持てなければならない。しかし、人間の力ではそれを持てない。この行き詰まり状態を神自身が打開して下さったのです。どのようにしたかと言うと、ご自分のひとり子をこの世に送って、彼に全ての人間の全ての罪の罰を受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたことです。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。イエス様が受けた洗礼には寄り添いや連帯を超えた大きなことがあるというのはこのことです。神のひとり子であるイエス様は罪など持たないお方だったのに、人間の罪を全部引き取って十字架にかかって神罰を受けたのです。使徒パウロが第二コリント521節で次のように言います。「罪と何のかかわりのない方を神は罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」人間が神の義を得ることができるために、神は罪と何のかかわりのないイエス様を罪とされたのでした。洗礼者ヨハネの洗礼は罪の自覚と告白が伴うものでした。そんな自覚も告白の必要のないイエス様がヨハネの洗礼を受けることで人間の罪を背負うこととなったのです。

 

 人々がヨハネの洗礼を受けたのは、来るべき救世主メシアを迎える準備の意味でした。イエス様が洗礼を受けたのは、人々が神の義を得られるようにするという神の計画を開始する意味でした。人々の洗礼とイエス様の洗礼の違いを明らかにしたのが、イエス様に聖霊が降って天から神の声が轟いたことです。人々の洗礼にはなかったことでした。イエス様の洗礼の目的が「義を全て成就する」というのは、まさに人間が神の義を持てるようにする神の計画を成就することだったのです。

 

 イエス様が十字架と復活の業を遂げられたことで人間が神の義を得られる可能性が開かれました。あとは人間の方がそれを自分のものにするだけです。どうやって自分のものにできるのかと言うと、それは、このような業を成し遂げたイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けることでです。そうすることで神から義人と見てもらえるようになります。この場合の洗礼は復活されたイエス様が定めた洗礼です。ヨハネの洗礼とは異なります。パウロがローマ6章で言うように、人はイエス・キリストの洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられます。そこがヨハネの洗礼と決定的に異なる点です。人はイエス様の死と結びつけられると、罪と死がその人の運命を支配する力を失います。イエス様の復活に結びつけられると、自分もイエス様のように復活して永遠の命に与かれるという確信が得られ、それがあらゆる希望の大元の希望になってこの世を歩めるようになります。

 

 ただし、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じても、人間は肉を纏っている限り神の意思に反しようとする罪の思いを持ち続けます。しかし、神から罪の赦しを受け取ることができると、神との結びつきを失わずに生きることができます。この罪の赦しという神の恵みに留まる限り、神との結びつきは微動だにせず、残存する罪には人間と神の間を引き裂く力も人間を死の滅びに陥れる力もありません。「イエス様を救い主と信じます。私の罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないように」と言ってくれるのです。

 

 このように神から罪の赦しを受ける者は繰り返し受けることで、残存する罪に対して、罪よ、お前は私に対して何の権限も持てないのだと言い聞かせてあげることになります。それを思い知らされる罪はその度に干からびていきます。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けることで罪は決定的な打撃を受けますが、それでも罪は隙を狙ってきます。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まる限り、結局は罪の無駄な抵抗に終わります。

 

3.イザヤ42章の預言と私たち

 

 イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。加えて天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なるみ神の声が轟きました。これは今申し上げたように、イエス様が神の計画を実現する方であることを明らかにした出来事でした。それはまた、本日の旧約聖書の日課イザヤ書4217節の預言が成就したことでもありました。この預言の内容を見ると、キリスト信仰者がこの世でどう生きるか、どのような立ち位置でいるかがわかってきます。次にそのことを見ていこうと思います。

 

 イザヤ書421節に神の僕つまりイエス様が「国々の裁きを導き出す」とあります。3節にも「裁きを導き出す」とあり、4節には「裁きを置く」と言われています。少しわかりにくいです。「裁きを置く」とはどういうことか?日本語として意味をなしているのか?どうやって「裁き」を「置く」のか?私は「裁き」という言葉も「置く」という動詞も意味を理解できますが、理解できる言葉をくっつけたら理解できなくなるというのは不思議です。スオミの礼拝で何度も申し上げてきましたが、ヘブライ語のミシュパートという言葉をどう訳すかが問題です。新共同訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されます。私の使う辞書(後注2)にはその訳はなく、多くの場合は「正義」がピッタリな訳です。試しに英語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ると、「正義をもたらす/実現する」、「正当な権利をもたらす/実現する」と訳しています。なので、この説教では「正義」でいきます。

 

 すると一つ問題になってくることがあります。イエス様は神の計画を実現して人間が神の義を持てるようにしたのであるが、果たしてそれで諸国に正義がもたらされるようになったのか?人間の歴史は反対のことばかり起こってきたのではないか?特に現在はどうでしょうか?国と国の関係で正義が失われる状況が顕著です。ますます多くの国が軍事力に物を言わせて現状変更しようとするようになってしまいました。もちろん現状が全ていいというわけではありませんが、それでも変える必要があるということならば、それを国際的なフォーラムで提起して議論して外交的に解決を図るというのが筋です。軍事力で変えていいということになれば、軍事力のない国は言いなりになるだけです。言いなりにならないために、あるいは自分も自由に現状変更したいという国は軍事力の増強に走ります。まさに「力は正義」ということになってしまいます。しかし、それは正義ではありません。

 

 本当の正義についてイザヤ書423節が象徴的な言い方で教えます。傷ついて折れかかった葦を踏みにじるようなことをしない、風前の灯にある灯心をかき消すようなことをしない。そんなことをしないことが正義が一過性ではなく永続的なものになることだと神は3節で言っているのです。続く4節で神はたたみかるように言います。神の僕が地上に正義を打ち立てる日まで、折れかかった葦が踏みにじられることはない、風前の灯がかき消されることはないと。

 

 それでは地上に完全な正義が打ち立てられる日が来るのでしょうか?聖書の観点では、完全な正義は今ある天と地にとってかわって新しい天と地が創造される時、最後の審判を経た時に最終的に打ち立てられます。それで、この世の不正義がなんの償いもなしに永久に見過ごされることはありえないのです。正義は必ず実現されるのです。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場なのです。昨年の終わりの説教でお教えしたことの繰り返しになりますが、黙示録20章を見るとキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが最初に復活を遂げます。次に復活させられる者たちは神の書物に記録された旧い世での行いに基づいて審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています。人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを意味します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。天地創造の神が御心をもって造られたものに酷い仕打ちをする者の運命、また神が御心をもって整えて下さった福音を受け取った人たちに酷い仕打ちをする者の運命も火を見るよりも明らかでしょう。たとえ償いや報いが将来のことになっても正義は必ず実現されるので、イザヤの預言はイエス様の洗礼で成就しているのです。

 

4.勧めと励まし

 

 この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならない現実があります。それなのに次に到来する世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判されるかもしれません。しかし、キリスト信仰はこの世での正義を諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられるからです。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまう場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にもして報いて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うように行うものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無駄だった無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。イエス様の洗礼で成就したイザヤの預言はこのことも視野に入れているのです。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

後注1[]to fulfill all righteousness[独ルター]alle Gerechtigkeit zu erfüllen[]uppfylla allt som hör till rättfärdigheten[フィン]täyttäisimme Jumalan vanhurkaan tahdon

 

(後注2Holladay, ”A Concise Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament”