2026年5月11日月曜日

二つの文明、二つの信仰 - どっちになるかは聖霊次第(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

2026年5月10日 復活後第六主日 礼拝説教

 

使徒言行録17章22-31節

第一ペトロ3章13-22節

ヨハネ14章15-21節

 

説教題 「二つの文明、二つの信仰 - どっちになるかは聖霊次第」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

.はじめに

 

 本日の使徒言行録17章の出来事は、使徒パウロが古代ギリシャのアテネにてイエス・キリストの福音を居並ぶ哲学者たちの前で弁明したという出来事です。これはとても世界史的な出来事です。というのは、この時、二つの異なる文明が衝突して火花を散らしたからです。二つの文明とは、一つはギリシャ・ヘレニズム文明。これは、人間の理性の力を信じて万物を理性で推し量ったり説明しようとする哲学的な文明です。それに対するはヘブライズム文明。これは天地創造の神という万物を司る方が自分の意思や計画を人間に啓示するという信仰的な文明です。つまり、ギリシャ・ヘレニズム文明は理性のような人間の内部に備わる能力に重きを置く文明、ヘブライズム文明は人間の外部に厳然としてある神とその啓示に重きを置く文明と言っていいでしょう。この本質的に異なる二つの文明が正面からぶつかったわけなのですが、興味深いことに、このお互い水と油みたいなものがいつしか西洋文明の二大底流となって、それを複雑に形作っていくことになります。

 

 アテネの出来事は2000年前のことですが、話の内容は現代の、しかもこの日本で生きる私たちにとっても信仰について考えさせることがあります。それで、本日の説教はこの個所の説き明かしを中心にしていきます。他方で、福音書の日課ヨハネ14章の個所ではイエス様が聖霊を弟子たちに送ると約束します。イエス様は聖霊のことを弁護者と言ったり真理の霊と言ったりします。以前の説教で聖霊が弁護者であるとはどんな意味か教えたことがあります。本日の説教ではアテネの出来事は聖霊が真理の霊であるということに関係するので、そちらの方を見ていきます。

 

2.神を創り出す人間の文明と信仰

 

 パウロは二回目の地中海伝道旅行の時にアテネに到達します。そこに着くまでは行く先々で、イエス様をメシア救世主と受け入れないユダヤ人の妨害や迫害に遭い、アテネへは避難するように着いたのでした。そこはそれまでの町々と違ってユダヤ人の妨害がありませんでした。そのかわりにパウロを困惑させたのは、町中いたるところで金や銀や石でできた神々の像すなわち偶像が溢れかえっていたことでした。いくら他の宗教のこととは言え、パウロは偶像崇拝を禁じる旧約聖書の伝統に立つ人ですから心穏やかではありませんでした(16節)。

 

 さて、パウロはユダヤ人の会堂だけでなく、町の広場でもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこで、エピキュロス派、ストア派という哲学の学派を信奉する人たちと議論になりました。二つの派は古代ギリシャ世界を代表する哲学の学派です。5年前の説教でそれらはどんな主張をする学派であるか触れたことがあります。今回は割愛します。関心のある方はHPの説教集をご覧下さい。ごく簡単に言うと、両者とも森羅万象の成り立ちを理性的に明らかにしようとするもので、魂を含めて全ての事象は原子にまで分解できるというミクロ的な見方をしたり、魂を含む森羅万象は大きな法則の下に周期的に大きな火で焼かれるというマクロ的な見方をします。いずれにしても聖書にはない見方です。 

 

 こうした哲学者たちと議論をしたパウロはアレオパゴスという広場に連れて行かれ、そこで宣べ伝えていることを弁明することになりました。アレオパゴスとは、もともとは裁判所の機能を果たす市民の代表者の集会場でした。その頃は、いろいろな教えを調査する機能も果たしていました。

 

 アレオパゴスの真ん中に立ったパウロは居並ぶ議員、哲学者の前で話し始めます。二つの異なる文明が火花を散らす瞬間です。ところで先ほど、ギリシャ文明は理性の力を重んじる哲学的な文明で、パウロが持ち込んできたのは神の啓示を重んじる信仰の文明と申し上げました。そう言うと、あれ、ギリシャ文明には沢山の神々がいたではないか、ゼウスを頂点に、美と愛の女神アフロディテだの、豊穣の神ディオニュソスだの、海の神ポセイドンだの、死者を陰府に導くヘルメス等々、沢山いたではないか?だから、ギリシャ文明も実は信仰の文明ではないか?それがどうやって理性の力を重んじる文明と一緒なのか、というもっともな疑問が出てくるでしょう。大体次のようなことだと思います。これらの神々は人間内部の思いや願いや恐れが結晶して出来たシンボルのようなものです。その意味で人間内部から生み出されたものです。それがあたかも人間の外部にあるように置かれて具体像をもって描写されて神として崇拝されるのです。そういうわけで、パウロがアテネで遭遇した人間知性の先端を行く哲学と多神教の神々という二つの異なるものは、実は双方とも人間内部から生み出されたものということになります。

 

 ところで私たちの聖書の神ですが、これは人間内部の思いや願いや感情の結晶とかシンボルではありません。神は、完全に人間の外部にあって人間を含む万物を造った創造主で、人間から独立した意思と考えを持ち、人間の理性などで把握できる方ではない、というのが聖書の立場です。聖書の神が人間の内部から生み出されたものではなく、人間を越えてその外部に厳然としてあるということは、像を作って崇拝してはいけないと神が命じていることによく表れています。肉眼の目で見ることができない神、理性や知識をもってしても把握しきれない神は、まことに人間が造れる存在ではありません。人間の方が神に造られた存在なのです。

 

3.神に造られた人間の文明と信仰

 

 さて、パウロは人間の理性と知識に重きを置く人たちに神の啓示を伝え始めます。まず、アテネの皆さん、あなた方が信仰あつい方であることをわたしは認めます、と言って敬意を表します。お前たちは偶像崇拝ばかりしてどうしようもない奴らだ!というような高飛車な態度ではありません。彼は、ある祭壇に「知られざる神に」という文句が書かれていたことに触れて、それを取っ掛かりにして、私はその神を知っているのでお教えしましょう、と言って話を始めます。「知られざる神」というのは、ギリシャ人の神々崇拝では前述したようないろいろな役割と名前を持った神々がいるのですが、ひょっとしたらまだ見つかっていない神が他にもいるのではないか(正確に言えば、まだ作りだしていない神がいるのではないか)、そういう不確かさがあるために、崇拝し忘れた神がないようにと念のためにそう書いたのです。そういう測り知れない神がいるという認識がギリシャ人にあったことが、パウロにとってよい取っ掛かりになりました。

 

 その測り知れない神とは、世界とその中の万物、私たち人間も含めた万物を造られた方である、まさに万物の創造主であり天地の主であるから、人間の手で造った建物なんかに住まないし、また何か足りないものがあるかのように人間にいろいろ供え物をしてもらったり世話してもらう必要もない。逆に神こそが人間に必要なもの、命、息吹その他全てのものを与えて世話をして下さるのである。そのように神は人間に大事にされるお人形さんみたいではなくなって、私たち人間の方が神に大事にされる、というふうに視点を逆転させていきます。

 

 次にパウロは、神が一人の人間から始めて諸民族を作りだした目的について述べます。神はそれぞれの民族に歴史と居住地域を定めたと言います。新共同訳では神は「季節を決め」たとありますが、少し怪しい訳です。ギリシャ語原文は少し複雑ですが、要は神はそれぞれの民族が「どのような歴史をたどるか前もって定めた」という意味です(後注)。それでは、神は何のために諸民族に歴史と場所を与えたのか?それは、彼らに神を探させるためであった、とパウロは言います。果たしてそれはうまく行ったのか?ギリシャ人たちは神を探しているようで、実は偶像ばっかり作ってしまって全然見つけられていないではないか。「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」と言っていますが、かなり苦労するんじゃないだろうかというニュアンスです。そして、実際は見いだすことはできていないのです。

 

 ところが、神は私たちから遠く離れた方ではない、本当は近くにおられるのだ。神が私たちの近くにおられるというのは、あなたたちの昔の詩人(紀元前300年代の詩人アラトス)も書いているではないか?そのように言うことでパウロは、ギリシャの同胞にも同じことを考えた人がいましたと指摘して、人々の目を天地創造の神に向けさせようとします。問題の詩で言われていることは、「我々は神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」ということです。これがギリシャ人も神が近くにいると考えている根拠として言われます。ところが、パウロが神は近くにあると言う意味とギリシャの詩人がそう言うのでは意味内容は全く異なっています。そこに注意しましょう。ギリシャの詩人が言っていることは、神は人間界にも自然界にもどこにでも浸透しているように存在するという汎神論の考えを表わしています。

 

 パウロが神は近くにおられるというのは、神は人間一人一人に向かって、断ち切れてしまった結びつきを回復してあげようという意思を持って働きかけて下さっている。そういうふうに神は近くにおられると言っているのです。神と人間の断ち切れてしまった結びつきを回復させるための神の働きかけとは何か?それは、神のひとり子イエス様がこの結びつきを壊す原因となった人間の罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間にかわって神の罰を受けられたということ、これが神の働きかけです。神のひとり子が身代わりになって罰を受けたので、人間はそれに免じて罪を赦してもらえ、罪の赦しの中で生きられる可能性が開かれました。そこで、こうしたことをされたイエス様は真に救い主であると信じて洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの中で生きられるようになり、罪の赦しを受けたので神との結びつきが回復して、その結びつきの中でこの世を生きられるようになります。罪の赦しという神のお恵みに留まって生きていけば、神との結びつきは消えることはなく、人生いついかなる時にも神から守りと良い導きが得られます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて、神の御許に永遠に迎え入れられるようになります。このように、神はひとり子イエス様を用いて罪の赦しの救いを実現し、今度はそれを人間に向けてどうぞ受け取って下さいと提供している。それで近くにおられるのです。そしてそれを受け取った人は、近くにいるどころが、まさに「その中に生き、動き、存在する」ようになるのです。

 

 このようにパウロは見かけ上の共通点を突破口にして切り込んでいきます。「神の子孫」ということについても、人間の頭で考えて金や銀や石を使って作った像を神にしてしまったら、じゃ人間はそうした像の子孫なのか、こんなものを先祖に持つのか、おかしいと思わないんですか?ところで私たちの日本でも、いろんなものに魂を注入して、そうしたものを敬い拝み、それらがあたかも生きているようにして、それらと穏やかな関係を保とうとすることがよくあります。なので、パウロの弁明を聞いていると、遠い世界の話と思えなくなります。

 

 さて、パウロはたたみかけます。「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが」。つまり、大目に見ることは終わってしまったということです。そのことを明らかにした出来事が起きたのです。死者の復活という、天地創造の神の力が働かなければ起きないようなことが起きたのです。神は今、全ての人が悔い改めるようにと命じておられるのです。「悔い改める」という言葉はギリシャ語のメタノエオーですが、正確な意味は「これまで神に背を向けていた生き方を改めて方向転換して神に立ち返る生き方をする」ということです。ではなぜ、神に立ち返る生き方をしなければならないか?ここから先は旧約聖書の預言の世界に入っていきます。今あるこの世は初めがあったように終わりもある。今ある天と地はかつて神に創造されたものであるが、今の世が終わりを告げる時に神は新しい天と地に創造し直される。その時に死者の復活が起こり、新しい天と地の国に迎え入れられるか、入れられないかの審判が行われる。まさにそのために今は方向転換をして神に立ち返る生き方をしなければならないのだ。神がこの世を裁く日を決めたと言っているのは旧約聖書の数々の預言に基づいています。預言されたことが本当に起こるということが、ひとり子の死からの復活が起きたことで明白になったのだ。そして、その方は最後の審判の時に裁きを司る方なのだ、と。パウロの弁明はまさにキリスト信仰の宣べ伝えになったのでした。

 

 ここまで耳を傾けてきたアレオパゴスの議員や哲学者たちは、どう受け取ったでしょうか?ここから先は今日の日課の個所の後になりますが、聖霊が真理の霊であることと関係するので見ていくことにします。議員や哲学者たちは、旧約聖書の伝統のない人たちです。天と地と人間その他全てを創造した神がいて、それは全ての民族の歴史と居住場所を定め、全人類の歴史の流れと共にある神である、全人類の歴史とその舞台であるこの世はいつかは終わりを告げ、新しい天と地に取って替わられる、などといったことは考えも想像もつかないことでしょう。これらは全て天地創造の神からの啓示として示されたものでした。人間の理性で推し測って組み立てた宇宙像とはあまりにもかけ離れていました。もちろんパウロも違いを知っていたでしょう。それで、旧約聖書の伝統のない彼らにいきなり、ナザレのイエスは預言されたメシア救世主だったと言って始めなかったのでした。誰がメシアかと言う問題はむしろ旧約聖書を持つユダヤ人向けのメッセージだったでしょう。それにしても、死者の復活ということがギリシャの哲学者たちにとって一番の躓きの石になったようです。人間は死ねば魂は原子に分解してしまうとか、森羅万象は周期的に大きな火で焼かれるとい理性で推し測って組み立てた宇宙像です。死を超える永遠の命、しかも肉体の体に代わる復活の体を着せられて生きる命など理性の力で組み立てられるものではありません。パウロの教えはあまりにもかけ離れすぎていてまともに受け入れられないものでした。ある人たちが嘲笑ったのも無理はありません。パウロも恐らく、今日のところはこれ以上何を言っても無駄と思ったでしょう。

 

4.勧めと励まし

 

 ところが、何人かの人がパウロの後について行きました。アレオパゴスの議場からイエス様を救い主と信じる信仰に入る者が出たのです。彼らはパウロについて行ってメシア救世主についてもっと詳しく聞いたのです。彼らが何を聞いて信仰に入るに至ったか、それについては何も記されていないのでわかりません。ただ、次のようなことだったのではないかと推測できます。

 

 アレオパゴスでのパウロの教えから「知られざる神」が天と地と人間を造られた神であることがわかった。まさに人間が生み出したのではない、逆に人間を造り出した神を知ることになった。しかも、その神は、人間に向かって私を見出しなさいと働きかける神であることもわかった。その働きかけがあることは、神がひとり子をこの世に贈って十字架の死を遂げさせたことで明らかになった、なぜなら、神と人間の結びつきを遮っていたものをひとり子が自分を犠牲にして取り除いて下さったからだ。それがユダヤ人が神聖な書物としている聖書の中で預言されているメシア救世主なのだ。そして、この世を去ることになっても消滅しない命があり、その命を生きられる世が到来することもわかった。なぜなら、パウロがアレオパゴスで述べたように、それが本当に起こることの確証として一度死なれたひとり子が死から復活させられたからだ。

 

 パウロについていったギリシャ人たちはこれらのことがわかったのですが、それは理性や知識によるものではありませんでした。聖霊が働いたから福音の真理が心の中で点火して輝いて、人間の内部から生み出されたものの輝きを上回ったのです。聖霊は真に真理の霊です。パウロが教えた時に聖霊が働いたのは、彼の宣べ伝えた言葉が神からの言葉だったからです。私たちには聖書という神の言葉があります。その中にパウロの教えも収められています。私たちが聖書を繙く時、聖霊は必ず働き、福音の真理の光を輝かせてくれます。

 

 そうすると一つ疑問が置きます。パウロの教えが神の言葉だったのなら、なぜアレオパゴスの多くの議員や哲学者たちには福音の光は点火しなかったのか?彼らには聖霊は働かなかったのか?もし聖書が神の御言葉ならば、なぜそれを宣べ伝えても聞いた人すべてがすぐイエス様を救い主と信じる信仰に入らないのか?彼らには聖霊は働かないのか?それは、こういうことではないかと思います。多くの人にとって、人間内部で生み出されたものの輝きは見慣れた輝きです。それで、福音の真理の輝きが来て、今のあなたの輝きはいつかは消える一過性のものだ、これこそが消えない輝きだと言われたら、大抵は脅威に感じ、そんな輝きはいらないと背を向けるのではないかと思います。ところが、ある人たちは、福音の輝きは消えない真理の輝きだとわかって、以前からの輝きに背を向けたのです。それが起こるのは早いか遅いかの違いがあると思います。しかし、いずれの場合でも神の御言葉が繙かれ宣べ伝えられていれば聖霊は必ず働いていつかは心の中を完全に福音の消えない光で満たしてくれます。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も大体そのような訳です。ルター訳はずばり諸民族の存続期間が定められると言っています。

2026年5月4日月曜日

心を騒がせるな、ただイエスの名によって祈り求めよ(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

2026年5月3日 復活節第五主日 主日礼拝説教 スオミ教会

 

使徒言行録7章55-60節

第一ペトロ2章2-10節

ヨハネ14章1-14節

 

説教題 「心を騒がせるな、ただイエスの名によって祈り求めよ」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

 

 弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。

 

 ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ133336節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。

 

2.イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版

 

 イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。イエス様が死から復活して復活の体を持ってそこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて神の御許に迎え入れられる日です。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。

 

 そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それで、その国は旧い世の不正義の報いが完璧に果たされた国なのです。また、それは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様は約束を必ず果たすと信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちでいられるのです。

 

 ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に将来の復活の話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。

 

 イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っていると誤解する人が出てきます。 

 

 イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたい宗教なんだ、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいい、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価されます。

 

 しかしながら、至福に至る道についてキリスト教を他の宗教と同列にできないことがあることを忘れてはいけません。多くの宗教では人間はこの世を去ってあの世に行ったら、そこからこの世にいる私たちを見守っているというような、この世とあの世が同時に存在してあるという見方をしているのではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地の再創造があるので同時の存在はありえません。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は復活の体を着せられてそこに迎え入れられるという流れになります(後注)。それなので、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なります。他の宗教ではこの世から別れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような見方をするところもあります。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。

 

 道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理です。さらに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、真理です。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。なぜなら、最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場だからです。それで最後の審判も真理です。

 

 命の決定版ということについて。イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時は、いつもそれは今のこの世の人生だけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じて洗礼を受けた者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。

 

3.父なるみ神と御子は一体

 

 7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践した、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことが明らかになったのです。

 

 12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?

 

 弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を打ち立てました。これに対して弟子たちは、この福音を宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を打ち立て、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

 

 それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。ヨハネ167節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。

 

4.勧めと励まし

 

 イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務としてでも祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。

 

 自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者は神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難を解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。さらに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のための祈り、その方に歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。

 

 冒頭で述べた問題に戻りましょう。イエス様が天のみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになる。それでも心を騒がせないで済むのだということをイエス様は教えられました。何を根拠にそうなれるか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって自分は父なるみ神との結びつきを持てた、そして永遠の命に至る道に置かれて今その道を進んでいるのだ、という救いの確信がまず一つ。もう一つは、自分がこの道を歩めるために、また隣人も歩めるようになるために願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束されたこと。救いの確信と神の約束、これらはキリスト信仰者にとって大きな励ましと慰めです。これらがあるのだから、心を騒がせる必要はないのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。

2026年4月27日月曜日

罪の赦しという神のお恵みに留まって生きる(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年4月26日 復活後第四主日

 

使徒言行録2章42-47節

第一ペトロ2章19-25節

ヨハネ10章1-10節

 

説教題 「罪の赦しという神のお恵みに留まって生きる」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課はイエス様のたとえの教えです。最初の1節から5節までをもう一度見てみます。

 

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

 

 これは、当時の社会のごく日常的なことを言っています。羊の飼育が盛んなところでは、羊を牧草地に連れて行かない時は木材や石材で作った塀の囲いの中に入れていました。泥棒が「乗り越える」と言うから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方からすると、囲いの中には複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。ある羊飼いが、さあ、これから僕の羊を牧草地に連れて行こう、とやってくる、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう、そして、自分の羊を呼び集める。羊は羊飼いを声で聞き分けられるので、別の羊飼いが近づいてくれば、すぐわかって引き下がる。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。

 

 これは、当時の人には日常的な当たり前な話でした。ところが、これを聞いたファリサイ派の人たちは「その話が何のことか分からなかった」のでした(6節)。どうしてかと言うと、当たり前のことなので話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになったのです。その反応を見たイエス様は今度は、自分は囲いの門であると言い、さらに自分は良い羊飼いであると言います。本日の日課は囲いの門のところまでです。

 

 これらのたとえが何を意味しているかは、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。それは本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活を度外視してイエス様の教えを理解しようとすると、イエス様が教えようとしたことからどんどん離れていきます。注意しないといけません。

 

 私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているので、今日のたとえの意味をわかる立場にあります。以下それを見ていきましょう。

 

2.イエス様は羊の囲いの門

 

 9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったりする日常的な放牧のイメージを出しています。ところが、原文では、「囲いの中に入って、外に出ていく」と言っています。それも未来形で言っています。牧草地を見つけることも未来形で言っています。つまり、囲いの中に入ることと外に出ていくこと、そして牧草地を見つけることは全て日常的な放牧を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?さあ、十字架と復活の意味を知る者の出番です。

 

 イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。それは、人間に命と人生を与えた創造主の神と結びつきを持ってこの世の人生を歩む者たちの群れです。そして、この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども聞き従わず、イエス様の声だけに聞き従った者たちです。

 

 このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

 

 このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世にまたがる壮大な人生を生きることを意味します。

 

 二つの世にまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、神との結びつきが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。もともと人間は天地創造の時に造られた時は良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたことは、本日の使徒書の日課、第一ペトロ2章でも言われていました。そこでペトロは十字架の出来事が旧約聖書イザヤ書53章の預言の成就だったことを証ししているのです。

 

 そこで今度は人間の方が、これは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになるのです。

 

 このように、私たちが神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の二つにまたがって生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。まさにこれがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ146節で宣言します。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

 

3.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まって生きる生き方 その1

 

 こうして、イエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。つまり、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?

 

 それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に残っています。もちろん、罪の赦しがある以上、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと心配したり、そういう至らない自分にがっかりします。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者は神の意思に沿うようにしなければと再び心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。

 

 キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、赦しの確認を繰り返しながらこの世を歩んでいきます。これこそが罪の赦しのお恵みに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き抜こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、または、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとする力です。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書を嘘つき扱いします。しかし、私たちはそれらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しの恵みに留まります。そうすることが罪に反抗して生きている、罪を憎んでいることの証しになります。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。

 

4.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まる生きる生き方 その2

 

 このように罪の赦しのお恵みに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことがこの恵みに留まって生きることになります。

 

 罪の赦しの恵みに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。あるいは、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。

 

 この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。

20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神にすれば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。日本語に訳した人がギリシャ語のカリスを「神の御心に適うこと」と訳したのは、「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。19節も同じです。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」とありますが、ここも「御心にかなうこと」は、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。19節でもう一つあります。「神がそうお望みだとわきまえて」とありますが、ギリシャ語原文を直訳すると「神の良心のゆえに」です。「神の良心のゆえに不当な苦しみを受ける」とは一体どんな意味でしょうか?これはまさしく、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています(後注)。

 

  さあ、大変なことになりました。善を行うことが裏目に出て不当な苦しみを受けることになっても、良心が神に縛られているために、それを回避しないで耐える、これは神からすれば恵みであるというのです。そんな恵みがあるのでしょうか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。

 

 そういうことが恵みであるというのは、まさにぺトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせず褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることとか、救われることとかには何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えられる律法とは異っています。善い業を行って裏目に出たら嫌だ、褒められたり褒美をもらえるほうがいいと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなる教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。

 

 もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。

 

 これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。なので、それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。

 

 以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。

2026年4月13日月曜日

神がキリスト教会を通して備えて下さる三つのもの ― 罪の赦し、神との平和、心の目 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年4月5日 復活節第二主日

 

使徒言行録4章32-35節

ヨハネの第一の手紙1章1節-2章2節

ヨハネによる福音書20章19-31節

 

説教題 「神がキリスト教会を通して備えて下さる三つのもの

― 罪の赦し、神との平和、心の目」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所で、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて三つの大切なことを教えます。まず、イエス様は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言いました。イエス様の言う平和が一つ目。それから、彼が聖霊を与えると言って弟子たちに息を吹きかけて罪を赦す権限を与えました。罪の赦しとその権限が二つ目。三つ目は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活を信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになりました。その時イエス様が言った言葉、「見なくても信じる者は幸いである」、これも大切なことです。これらの三つのこと、罪の赦しとその権限、イエス様の言う平和、肉眼の目で見なくても心の目で見て信じるということについて、以前の説教でキリスト教会を成り立たせる条件と申しました。ただ、条件と言うのはちょっと違うかなと思い直し、今回は、これらの三つは神がキリスト教会を通して人間に備えて下さる大切なもの、という言い方にしようと思います。それで以下、三つのことを見ていきます。

 

2.罪の赦しとその権限

 

 まず、罪の赦しとその権限について。私たち人間には神の意思に反しようとする性向があります。人を傷つけるようなことを口にしたり時として行為に出してしまったり、そうでなくても心の中で思ってしまったりします。また、嘘をついたり、妬んだり、見下したり、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざそうとしてしまいます。それらを聖書では罪と言います。人間は罪を持つようになってしまったため創造主の神との結びつきが失われてしまって、その状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去る時も神との結びつきがない状態で去らねばなりません。この惨めな状態から人間を救うために父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈ったのです。まず人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせ、人間が受けないで済む状況を作り出しました。それがイエス様のゴルゴタの十字架の死でした。さらに神は、想像を絶する力をもってイエス様を死から復活させて、死を超える永遠の命が存在することをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。

 

 そこで私たち人間はこれらのことは本当に起こったとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになってこの世を生きられるようになります。神罰を受けないで済む状況に入れたのです。それで、永遠の命が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んで行きます。まさに、新しく天から生まれた者になったのです。キリスト信仰者は、新しく生まれた自分というものは神のひとり子の犠牲の上にあるのだとわかっています。それで、罪に与せず罪に反抗して生きていこうという心になります。

 

 このように創造主の神はひとり子のイエス様を用いて罪の赦しを私たちに備えて下さいました。本日の福音書の個所で、イエス様が弟子たちに罪の赦しの権限を与えます。それは、神がイエス様を用いて備えて下さった罪の赦しを多くの人々に行き渡らせる権限です。人間が赦しを与えるのではありません。人間は罪の赦しを取り次ぐ道具のようなものです。そして、その権限は誰もが持てるというものではありません。使徒たちの場合は、イエス様が聖霊を授けて、その権限が付与されました。イエス様が天に上げられると、今度は使徒たちが次に権限が付与される人に手をかざす按手の儀式を行って権限を伝授していきました。伝授された人たちも次に権限が付与される人に同じように按手をして、それがずっとリレーのように繰り返されて今日に至ります。ここには使徒的な継承があります。

 

 スオミ教会の礼拝の初めに罪の告白と赦しの宣言があります。牧師は罪の赦しを宣言する時に、「ここに神から権限を委ねられた者として、あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されると宣言します」と言います。ここでも明らかなように、牧師が罪を赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた者として宣言しますということです。

 

3.目で見なくても信じられる心の目

 

 次に「見なくても信じる者は幸い」ということについて。この目で見ない限り信じないと言ったトマスの思いはもっともなことです。目で見ない限り信じない、これは普通の宗教だったらどこでもそういうふうに考えるでしょう。何か目に見える不思議な業を行う、不治の病が治るとか。そういうことをする者を人々はこの方には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれる原因になります。

 

 ところが、イエス様がここで教えていることは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じるのが本当の信じることだ、と言うのです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で「信じる」というのは、文字通り見なくてもそうだと信じることです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を目で見なくても、イエス様は復活した、それはその通りだ、と言えば、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、信じるもなにも復活をこの目で見ましたと言います。

 

 このようにキリスト信仰では目で見ないでも信じるということを強調します。使徒パウロは第二コリント418節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、57節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ824節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」111節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり、目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

 

 さて、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。それ以後は復活の主を目撃することはできません。そうなると、目撃者の証言を信じるかどうかがカギになります。実際、目で見なくても彼らの証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?ひとつには、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して宣べ伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

 

 それは、イエス様の復活には何かとても大切なことが秘められていて、それをわかって自分のものにしたからです。この秘められた大切なことは、最初は目撃者の弟子たちが自分のものにしていました。もし、イエス様の復活にその大切なことがなくて、ただ単に死んだ人間が息を吹き返しただけだったら、それはそれで人々に情報拡散したい気持ちにさせる出来事でしょう。しかし、拡散したら命はないぞと脅されたら、わざわざ命を捨ててまで言い広めたりはしないでしょう。しかし、復活には不思議な現象ですまない大切なことがあるとわかったから、脅しや迫害に屈しないで宣べ伝えるようになったのです。それを、目撃者の証言を聞いた人たちもわかって持てるようになったのです。それでは復活に秘められた大切なこととは何か?それがイエス様の言われる平和なのです。次にそれについて見てみましょう。

 

4.イエス様が言われる平和

 

 イエス様が言われる平和について。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で「平和」はエイレーネーという言葉です。旧約聖書の言葉ヘブライ語でシャーロームשלומと言います。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使ったでしょう。シャーロームという言葉はとても広い意味を持っています。国と国が戦争をしないという平和の意味もあります。その他に、繁栄とか成功とか健康というような人間個人にとって望ましい理想的な状態も意味します。しかし、イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせました。どんな意味でしょうか?

 

 イエス様は十字架に掛けられる前日に弟子たちに次の言葉を言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ1427節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えないと言われます。一体それはどんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で与えたら、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違ってくるでしょうか?

 

 イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所があります。ローマ51節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、神と人間との間の平和です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげで解消されたという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで得られる平和です。コロサイ12122節を見ると、イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は敵対関係だったということが明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間は、イエス様の犠牲の死によって和解の道が開かれたのです。

 

 こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが持てるようになった者は神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に至る道に置かれてその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康など目に見える平和シャロームがある時もあれば、ない時もあります。しかし、どんな時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、創造主の神との結びつきは失われず、神との平和な関係は微動だにしません。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は、礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で罪の支配から贖われている状態を強化していけば、神との結びつきと平和な関係はしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世の人生の段階で神との結びつきと平和な関係をこのように鍛えておけば、この世から別れる時、安心して自分の全てを神に任せることが出来ます。自分は復活の日に目覚めさせてもらって主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さるという確信と信頼を持って神に全てを委ねることが出来ます。

 

5.勧めと励まし

 

 以上、神がキリスト教会を通して信仰者に備えて下さる三つのものを見てきました。使徒的な継承に立つ罪の赦しとその権限、神との平和な関係、肉眼の目で見えなくても信じることができる心の目です。どうか、神がこのスオミ教会を通してもこの三つのものを皆さんに備えて下さいますように。

 

 第一ペトロ13節でペトロは、キリスト信仰者はイエス様の復活によって新たに生まれて「生ける希望」を持つようになったと言います。説教の終わりにこの希望について述べたく思います。

 

 新共同訳では「生き生きとした希望」と言って、希望が躍動感に溢れている感じがしますが、そうではありません。原語のギリシャ語を見ると、「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている」ですが、私が使う辞書(ギリシャ語・スウェーデン語)によれば「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている希望」とは、「永遠の命を与えられる希望」、復活の日に復活させられるという希望です。この希望はイエス様の復活を心で受け取ったら一緒に内に入って来ます。復活の日に復活させられるという希望が朽ちない希望であるということが4節でも言われます。「天には信仰者たちの受け継ぐものがちゃんと取っておかれている。それは朽ちず汚れがなく永久のものである。」この天に取っておかれている受け継ぐものとは、まさに復活の体と永遠の命です。5節で、イエス様の再臨の日に現れる救いということが言われますが、それは、その日に復活の体と永遠の命を目に見える形で受け取るということです。6節では、このような希望があり救いが待っているのだから、この世でいろんな試練にあって悲しむことがあっても、喜びも失われずにあるのだと言います。ペトロは試練について肯定的な見方をしています。試練を経ることでかえって信仰が金よりも純度を高められ、イエス様の再臨の日に栄誉と栄光を受けるものになる、そういう精錬するような効用が試練にはあるのだと言うのです。ここで注意しなければならないのは、試練の時に信仰が萎えないで純度を高められるようになるのは「永遠の命を与えられるという希望」を持てているかどうかによります。その希望を持てているかどうかは、イエス様の復活を心で受け入れているかどうかによります。

 

 そして8節と9節でペトロは言います。あなたたちはイエス様を見なかったのに愛し、今見ていないのに信じていて、言葉で言い表せない大きな喜びで満たされている、と。どうしてそんなことが言えるのか?ペトロは、あなたたちが「信仰の目標」に到達する者だからだと言います。「信仰の目標」とは「魂の救い」であると。「魂の救い」とは、復活の日に復活の体を着せられて永遠の命を持って父なるみ神のもとに迎え入れられることです。あななたちはそこに到達する者であるとペトロははっきり言うのです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか?私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して、実は復活の体と永遠の命を今すでに見えない形で手にしているのです。それで主の再臨の日、復活の日が来たら見える形で手にすることになるのです。だから言葉で言い表せない大きな喜びで満たされているのです。

  

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン