説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2026年2月1日 顕現節第4主日
ミカ章6-8節
第一コリント1章18-31節
マタイ5章1-12節
説教題 「キリスト信仰者の『幸い』ストーリー」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の箇所はイエス様の有名な「山上の説教」の初めの部分です。「山上の説教」はガリラヤ地方の小高い山の上で群衆に向かって語られた教えで、マタイ5章から7章までの長きにわたります。教え終わった時、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われています(7章29節)。そのように聞く人に強いインパクトを与える教えでした。2000年後の私たちが読んでもインパクトがあります。例えば、「復讐してはならない、敵を愛せよ、人を裁くな」というのは崇高な理想に聞こえます。また、「野の花を見よ、働きもせず、紡ぎもしない、それなのに、天の父なるみ神はこのように装って下さる。お前たちにはなおさらである。だから思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」などは、キリスト信仰者であるなしにかかわらず、人の心を慰めます。そうかと思えば、モーセ十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」について、たとえ殺人を犯さなくとも心の中で兄弟を罵ったら同罪であると教え、第六の掟「汝姦淫するなかれ」についても、たとえ不倫をしなくともふしだらな目で異性を見たら同罪であると教えます。そこまで言われたら神の前で正しい人間などいなくなってしまうではないか、と呆れかえられてしまうでしょう。
このように「山上の説教」には、崇高な理想を感じさせる教えもあれば、慰めに満ちた心温まる教えもあり、そうかと言えば、ちょっと受け入れられないぞ、というような教えもあります。いずれにしても聞いた人たちは何か不動の真理が述べられていると気づいて、権威ある教えに感じたのです。
本日の箇所でイエス様は「幸いな人」について教えます。「幸せ」ではなくて「幸い」と言っていることに注意しましょう。もとにあるギリシャ語の単語マカリオスμακαριοςの訳として「幸せ」ではなく「幸い」が選ばれました。普通の「幸せ」とは違う「幸せ」が意味されています。どんな「幸せ」でしょうか?一般に、好きなことが出来きたり、欲しいものが持てることが幸せなことと考えらます。不足がない満足な状態です。
「幸い」は次元が違います。誤解を恐れずに言えば、欲しいものが持てない好きなことが出来ない時にもある幸せです。この世離れした「幸せ」です。聖書の観点で言うと、創造主の神が「これが人間にとって幸せだ」と言っていることが「幸い」です。人間の目から見た「幸せ」に対する神の目から見た幸せです。両者は重なる部分もありますが、基準はあくまで神の視点です。
さて、現代のような、あらゆることが人間中心で進む時代に、最近ではAIも存在感を増してきていますが、そんな時世に「創造主の神」などを持ち出してその基準に人間を従わせるようなことは流行らないと言われるでしょう。良いこと悪いこと正しいこと間違っていることの判定にもう神など持ち出す必要はない、人間にやりたいようにやらせて何か不都合なことが起きたら軌道修正すればいい、AIもちゃんと教えてくれる、皆さんそういう考え方になってきているのではないでしょうか?そうなれば、「幸い」などというものは神の余計なおせっかいで、「幸せ」の追求の邪魔にさえなります。それは逆に言うと、キリスト信仰は時代の流れに逆らう反逆児のストーリーを描き出しているということになるのではないでしょうか?要は、人間は神の前に跪いて祈るのが人間らしいのか、それとも、跪くものなど何もないというのが人間らしいのか、どちらが人間らしいかという問題に行きつくと思います。
2.「幸い」のケース・スタディー
イエス様はどんな人が神の目から見た幸せな人、「幸いな」人であると教えているでしょうか?九つのケースがあります。一つ一つ見ていきましょう。
まず、「心の貧しい人たち」が幸いであると言われます(3節)。よく指摘されることですが、「心の貧しい」というのはギリシャ語の原文では「霊的に貧しい」です。英語の聖書(NIV)もスウェーデン語もフィンランド語もルター訳ドイツ語も皆「霊的に貧しい」と訳しています。「心が貧しい」とは、日本語の辞書によると「人格や器量が乏しいさま」とか「考えが狭かったり偏っていたりすること」という意味です。「あの人は心が貧しい」と批判したり「私は心が貧しい」と反省したりするので、人間関係の中で現れてくる人の至らなさです。
これに対して「霊的に貧しい」とは、創造主の神を前にして自分には至らないところがあると自覚していることです。十戒があるおかげで神が人間に何を求めているかがわかります。それに照らしてみると自分は神のみ前では至らないということがわかります。これが霊的に貧しい状態です。自分はもちろん殺人もしないし不倫も盗みも働かない。だから神はよしと認めて下さるかと言うと、イエス様は「山上の説教」で、兄弟を罵ったら殺人と同罪、異性をふしだらな目でみたら姦淫と同罪などと教えている!神聖な神は人間の外面的な行いのみならず心の奥底まで潔癖かどうか見ておられる。なにしろ神は天と地のみならず人間をも造られた創造主で、人間一人一人に命と人生を与えられた造り主である。私たちの髪の毛の数から心の奥底までも全部お見通しである。そうなれば、自分は永遠に神の前に失格者だ。このように神聖な神の意思を思う時、至らない自分に気づきがっかりする。これが霊的に貧しいことです。しかし、そのような者が「幸いな者」と言うのです。なぜか?
その理由は、「なぜなら天の国はその人たちのものだからである。」ギリシャ語原文ではちゃんと「なぜなら」と言っています。これは不思議なことです。「天の国」、つまり「神の国」のことですが、霊的に完璧な者が幸いで神の国を持てるとは言わないのです。逆に、自分は神聖な神の前に立たされたら罪の汚れのゆえに永遠に焼き尽くされてしまうと意気消沈する。そういう霊的に貧しい者が幸いで神の国を持てるとイエス様は言われる。これは一体どういうことか?これは後で明らかになります。
次に「悲しむ者」が幸いと言われます(4節)。何が悲しみの原因かははっきり言っていません。前の節で言っていた、神の前に立たされて大丈夫でない霊的な貧しさが悲しみの原因と考えられます。それと、神との関係以外で、人間との関係や社会の中でいろんな困難に直面して悲しんでいることも考えられます。両方考えて良いと思います。それではなぜ「悲しむ者」が幸いなのか?その理由は、「なぜなら彼らは慰められることになるからだ。」ギリシャ語原文は未来形なので、将来必ず慰められるという約束です。さらに新約聖書のギリシャ語の特徴の一つとして、受け身の文(~される)で「誰によって」という行為の主体が言われてなければ、たいていは神が主体として暗示されています。つまり、悲しんでいる人たちは必ず神によって慰められることになるということです。どういうことか、これも後で明らかになります。
次に「柔和な人々」が幸いと言われます(5節)。「柔和」とは、日本語の辞書を見ると「態度や振る舞いに険がなく落ち着いたさま」とあります。ギリシャ語の単語プラウスも大体そういうことだと思いますが、もう少し聖書の観点で言えば、マリアの品性が当てはまります。マリアは神を信頼し、神が計画したことは自分の身に起こってもいいという物分かりの良い態度でした。たとえ世間から白い目で見られることになっても、神は良い方向に導いて下さるから心配ないという単純さ、神の計画を運命として静かに受け入れる態度でした。そういう神への信頼に裏打ちされた物分かりのよさ、単純さ、静かに受け入れる態度、これらが柔和の中に入ってきます。
そんな柔和な人たちが幸いである理由は、「なぜなら地を受け継ぐことになるからだ。」少しわかりにくいですが、旧約聖書の伝統では「地を受け継ぐ」と言えば、イスラエルの民が神に約束されたカナンの地に安住の地を得ることを意味しました。キリスト信仰の観点では、「約束の地」は将来復活の日に現れる「神の国」になります。それで、「地を受け継ぐ」というのは「神の国」に迎え入れられることを意味します。神を信頼する柔和な人たちが神の国に迎えられるということも後で明らかになるでしょう。
次に「義に飢え渇く人々」が幸いと言われます(6節)。「義」というのは、神聖な神の前に立たされても大丈夫、問題ないと見てもらえる状態です。先ほど見た、霊的に貧しい人は神の前に立たされたら大丈夫でないと自覚しています。それで義に飢え渇くことになります。そのように飢え乾く者が幸いなのです。その理由は、「なぜなら彼らは満たされることになるからだ」。これも受け身の文なので、神が彼らの義の欠如を満たして下さるということです。義がない状態を自覚して求める者は必ず義を神から頂ける。だから、義に飢え渇く者は者は幸いである、と。反対に義の欠如の自覚がなく飢えも渇きもない人は満たしてもらえないのです。それでは、神はどのように義の欠如を満たして下さるのか、これも後で明らかになります。
7節では「憐れみ深い人」が幸いで、それは彼らが神から憐れみを受けることになるからだと言われます。神から憐れみを受けるとは、神の意思に照らしてみると至らないことだらけの自分なのに受け入れてもらえるということです。罪を持つのに赦してもらえるということです。どうしたら私たちも赦したり受け入れたりすることが出来て神から憐れみを受けられるのでしょうか?そのことも後で見ていきます。
8節では「心の清い人」が幸いで、それは彼らが神をその目で見ることになるからだと言われます。3節ではギリシャ語の「霊」プネウマが「心」と訳されていてそれは間違い、「霊」が正しい、と申しましたが、ここの「心」はギリシャ語のカルディアで「心」であっています。二つの異なる言葉が同じ日本語にされてしまうと、正しい理解ができなくなってしまいます。「心の清い」とは罪の汚れがないということです。そんな人は神の前に立たされても大丈夫なはずですから、神を見るのは当然です。私たちはどうしたらそんな清い心を持てて、神の前で大丈夫でいられるようになるのでしょうか?そのことも後で見ていきます。
9節では「平和を実現する人」が幸いで、それは神の子と呼ばれるようになるからだと言われます。「平和を実現する人」と聞くと、ノーベル平和賞を受賞するような人を思い浮かべるかもしれませんが、平和の実現はもっと身近なところにもあります。ローマ12章でパウロは、周囲の人と平和に暮らせるかどうかがキリスト信仰者次第という時は、迷わずそうしなさいと教えます。ただし、こっちが平和にやろうとしても相手方が乗ってこないこともある。その場合、こちらとしては相手と同じことをしてはいけない。「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」、「迫害する者のために祝福を祈れ」と、一方的な平和路線を唱えます。なんだかお人好し過ぎて損をする感じですが、どうしてそのような人が「神の子」と呼ばれるのでしょうか?それも後で明らかになります。
10~11節ではイエス様を救い主と信じる信仰や義のゆえに人から悪く言われ、ひどい場合は迫害されてしまうことがあっても、それは幸いなことだと言います。その理由は、神の国に迎え入れられることになるからです。以上からわかるように、全ての「幸い」のケースは神の国への迎え入れと関係しているのです。神に慰められることも、神の国を受け継ぐことも、義が満ち足りた状態になるのも、憐れみを受けるのも、神を目で見ることも、神の子と呼ばれることも全て、神の国に迎え入れられるからそうなるのだ、ということなのです。それでは、神の国に迎え入れらるとはどういうことか?どうしたら迎え入れられるのか?それを次に見てみましょう。
3.神の国に迎え入れられる道を進む幸い
「山上の説教」を当時はじめて聞いた人たちは面食らったことと思います。というのは、旧約聖書の伝統では「幸いな人」は、詩篇の第1篇で言われるように、律法をしっかり守って神に顧みてもらえる人を意味したからです。また、詩篇の第32篇にあるように、神から罪を赦されて神の前に立たされても大丈夫と見なされる人を意味しました。
人間はどのようにして神から罪を赦されるでしょうか?かつてイスラエルの民はエルサレムに大きな神殿を持っていました。そこでは律法の規定に従って贖罪の儀式が毎年のように行われました。神に犠牲の生け贄を捧げることで罪を赦していただくというシステムでしたので、牛や羊などの動物が人間の身代わりの生け贄として捧げられました。律法に定められた通りに儀式を行っていれば、罪が赦され神の前に立たされても大丈夫になるというのです。ただ、毎年行わなければならなかったことからみると、動物の犠牲による罪の赦しの有効期限はせいぜい1年だったことになります。
イエス様の教えを聞いた人たちは旧約聖書の伝統に立っていたので、「幸いな人」と聞いて、律法を心に留めて守る人とか、神殿での儀式を通して罪の赦しを得られる人とか、そういう人を連想しました。詩篇の第1篇と32篇は、「幸いなるかな、~する人は」という聖句があります。イエス様も同じ口調で「幸いなるかな、~する人は」と語りました。それなのにイエス様は、律法のことも罪の赦しも何も言いません。神の前に立たされたら本当は大丈夫ではないのだ、大丈夫になるのは今までのやり方ではダメなのだということを明らかにする教えだったのです。イエス様の意図は以下のものでした。
イスラエルの民よ、お前たちは律法を心に留めて守っているというが、実は留めてもいないし守ってもいない。創造主の神は人間の心の中までご存じである。お前たちは神殿の儀式で罪の赦しを得ていると思っているが、父なる神は預言者たちの口を通して言っていたではないか。毎年繰り返される生け贄の捧げは形だけの儀式になってしまい、心の中の罪を野放しにしている。それなので私が本当に律法を心に留められるようにしてあげよう。本当の罪の赦しを与えよう。本当に罪の赦しを与えられ、本当に律法を心に留められた時、お前たちは本当に「幸いな者」になる。そして「幸いな者」になると、今度は霊的に貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になり、義に飢え渇いたり、憐れみ深い者になり、心の清い者になり、義や私の名のゆえに迫害される者になるのだ。しかし、それが神の国への迎え入れを確実にすることであり、だから幸いなのだ。
それではイエス様はどのようにして人間に本当の罪の赦しを与えて、律法を心に留められるようにして人間を神の国に迎え入れられる「幸いな者」にしたのでしょうか?
それは、天地創造の神が立てた人間救済計画を実行することで行われました。創世記3章に記されているように、人間は神に対して不従順になり、神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまいました。人間と神との結びつきは失われて、人間は死ぬ存在となってしまいました。神はこの状態を悲しみ、それを解決するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様に人間の全ての罪を背負わせて、ゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで神罰を受けさせて死なせました。罪と何の関係もない神聖な神のひとり子に人間の罪の償いをさせたわけです。ひとり子の犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。本日の旧約の日課ミカ書で、動物の生贄を捧げることはもはや意味がないと自問しているところがありました。動物の生贄に意味がなければ、人間が自分の子供を生贄にしなければならないのだろうかとさえ言います。神は、そうする必要はないと言わんばかりに、自分のひとり子を生贄に捧げたのでした。
この犠牲は神の神聖なひとり子の犠牲でした。それなので、神殿で毎年捧げられる生け贄と違って、本当に一回限りで十分というとてつもない効力を持つものでした。罪には人間を神から引き離す力がありましたが、それが完全に削がれました。あとは人間の方がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその人にその通りになります。その人は復活の体と永遠の命が待つ「神の国」に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。洗礼を受けイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、使徒パウロが言うように、神聖なイエス様を衣のように頭から被せらるのです(ガラティア3章26~27節)。信仰者は、この衣を纏いながら神の国に至る道を進んでいくのです。自分は至らない者なのに、神はひとり子を犠牲にするくらいに私のことを思って下さった。このことが分かった人は、神に対して畏れ多い気持ちと感謝の気持ちの両方を持つようになり、神がそうしなさいと言われることはするのが当然という心になります。
4.勧めと励まし
神への畏れ多い気持ちと感謝の気持ちから神の意思を心に留めるようになると今度は、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのだろうかと注意深くなります。外面的には罪を行為にして犯していなくとも、心の中で神の意思に反することがあることに気づきます。まさに霊的に貧しい時であり、悲しい時であり、義に飢え渇く時です。その時キリスト信仰者はどうするか?すぐ心の目をゴルゴタの十字架の上のイエス様に向けて祈ります。「父なるみ神よ、イエス様を救い主と信じていますので、私の罪を赦して下さい。」すると神はすかさず「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように」と言ってくれて、私たちはまた新しいスタートを切ることができます。神の国に至る道を進むキリスト信仰者はいつも、このように慰めを受け義の飢えと渇きを満たされます。それなので、神に対して強い信頼を抱き柔和になります。
一方的な平和路線でいいという態度について、パウロがローマ12章で言っています。キリスト信仰者たる者は完全な正義はどんなに遅くとも最後の審判で実現するということに全てを賭けている、だから自分では復讐はしないのだ、と。信仰のことを悪く言われても迫害されても、それは「神の国」に至る道を歩んでいることの証しに他ならないのです。
やがて歩んできた道も終わり、神の前に立たされる日が来ます。キリスト信仰者は自分には至らないことがあったと自覚している。しかし、自分としてはイエス様を救い主と信じる信仰に留まった。不十分なところもありました、しかし、信仰が全てでした、そう神に申し開きをします。自分がより頼んで来たイエス様を引き合いに出す以外に申し開きの材料はありません。その時、神は次のように言われます。「お前は、イエスの純白な衣をしっかり纏い続けた。それをはぎ取ろうとする力が働いても、しっかり握り掴んで手放さなかった。その証拠に私は今、お前が同じ衣を着て立っているのを目にしている。」
兄弟姉妹の皆さん、これがキリスト信仰者の「幸い」のストーリーです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン