説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2026年10月25日 宗教改革主日
エレミヤ書31章31~34節
ローマの信徒への手紙3章19~28節
ヨハネによる福音書8章31~36節
説教題 「キリスト信仰にとって真理とは?自由とは?」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
イエス様を信じるようになったユダヤ人たちにイエス様が言いました。「真理はあなたたちを自由にする。」これはどういう意味でしょうか?それがわかるためには、イエス様が言う「真理」とは何か、「自由」とは何かがわからないといけません。それがわかると、このユダヤ人に向けられたイエス様の言葉は実は現代を生きている私たちにも当てはまるものであることがわかります。今日はそのことを見ていこうと思います。
まず、「真理」とは何かについて少し一般的に考えてみます。似ている言葉に「真実」があります。例えば政治家が不正を行ったという疑惑をもたれる新聞の社説は「大臣は真実を語るべきだ」などと書き立てます。その場合、「大臣は真理を語るべき」とは言わないでしょう。つまり、「真実」は偽りでないこと本当のことを意味するとわかります。「真理」も本当のことですが、次元が異なります。そこで大臣が公けに何か釈明したとします。金欲、権力欲に長けた人なら不都合な真実は語らないでしょう。ただ、彼の政党の支持者たちはそれは「真実」だろうと受け入れるでしょう。支持者でない人たちは真実ではないと言うでしょう。このように「真実」は人の立場や利害や見方に左右される可能性があると言ってよいでしょう。あなたにとって真実でも私にとって真実ではないということがありうるのです。
「真理」の方は、立場、利害、見方を越えて全ての人にとってその通りであるものと言ってよいでしょう。自然の法則が良い例だと思います。光は1秒間に30万キロの速度で進みます。これは、そんなの速すぎてイヤと言う人にも当てはまります。平地で水を温めると100度で沸騰するのも同じです。50度で十分だと言っても、天地創造の神はその温度に定めたのでそれを受け入れてお湯を沸かすしかありません。これらは自然界の法則ですが、人間界のことでも同じように場所と時代を越えて普遍的に当てはまるものがある、好むと好まざるにかかわらず人がこの世で生きる時に共通して前提にしなければならないものがある、そういうものを「真理」と言ってよいと思います。(ここで一つ興味深いのは、日本語では「真理」と「真実」と区別していますが、英語では両方一緒にtruthと言います。フィンランド語でも同じ言葉のtotuusです。
一般に宗教はそういう「真理」について語るものと言えます。イエス様も「真理」について語っているので、キリスト教の真理について言っています。ただ、近年はいろんな宗教団体の不祥事や不正行為が相次ぐので、宗教が「真理」を説くことに多くの人たちは警戒感があるのではないでしょうか?そんな時世にキリスト教の真理について語るのは少し勇気のいることですが、本日の聖書日課でイエス様が言っている以上は避けて通ることはできません。なので、人にどう思われるか気にするあまり誰にでも安心して受け入れられるように変形することはせず、イエス様が今日の個所で教えていることを忠実に説き明かしていこうと思います。
イエス様は時代、場所、人の立場や好みを越えて普遍的に人間に当てはまる「真理」を出してきました。そして、それが人を「自由にする」と言うのです。「自由にする」とは、何か自由でない状態、束縛された状態から解放するということです。なので、「自由にする」という言葉を聞いたら、何からの自由なのか、解放されるべき束縛状態とは何かを考えなければなりません。イエス様の「真理はあなたたちを自由にする」はどんな意味なのでしょうか?
2.洗礼を通してイエス様に繋がり聖餐を通して彼に留まる
イエス様はこの言葉を彼を信じるようになったユダヤ人たちに言いました。イエス様を信じるようになったユダヤ人について。本日の個所があるヨハネ8章の21節からの流れを見てみますと、イエス様はエルサレムの恐らく神殿の境内で群衆を前にして自分は天の父なる神から遣わされたと説き明かします。彼を遣わした神は自分の父であり、自分は父に教えられた通りに話している、父はいつも自分と共にいて、自分は父の御心に適うことを行っていると述べた時、最初半信半疑だった人々は信じるようになったのです。彼らはイエス様が数多くの奇跡の業を行ってきたことを知っています。父なる神が共にいてその御心に適うことをしていると聞いて、その通りだとわかったのでしょう。
そうすると、人々は奇跡の業があったからこの人が言っていることはその通りだと確信したことになります。これは、宗教一般にあてはまることだと思います。何か不思議な業、病気が治るとかお金が儲かるとか、そういうことをもたらす教祖なり霊があって、その教えなりお告げはその通りだと信じるのと同じです。ところが、今日の個所のイエス様の教えは実はそういう一般的な宗教現象の殻を打ち破る教えなのです。これからそれを見ていきます。
イエス様は冒頭で言います。「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。」イエス様の言葉に留まるとはどういうことでしょうか?イエス様の教えを守るという意味でしょうか?イエス様の教えを守れば彼の弟子になれると言うのは意味が通ります。ならば、なぜはっきりそう言わないで、「言葉に留まる」などと言う言い方をしたのでしょうか?
実はここには教えを守ることよりももっと広い深い意味があるのです。ヨハネ福音書の冒頭に「初めにことばありき」があります。この「ことば」はギリシャ語のロゴスで、イエス様のことを意味する言葉です。神の言葉が肉体を伴ってこの世に贈られて来たのがイエス様ということです。それで、ここの「私の言葉に留まるならば」というのは、ここもロゴスと言っているのでイエス様そのものです。なので、ズバリ「私に留まるならば」ということです。
それでは「イエス様に留まる」とはどういう意味でしょうか?それは、イエス様の十字架と復活の出来事の後で明らかになります。この段階では将来起こることを前もって教えているのです。パウロがローマ6章で教えるように、人は洗礼を受けることでイエス様の死に結びつけられて自分の中にある罪に結びついた部分が力を失います。同時にイエス様の死からの復活にも結びつけられて罪と死を超える新しい命に生きるようになります。これがイエス様に留まることです。これがイエス様の弟子になることです。洗礼にはこのような意味があり、自分にそういうことが起こったのだとわかるのは、聖霊が働いたからです。人間の理性や知性ではわかりません。理性や知性はそういう霊的なことにいろいろ難癖をつけて疑うのが仕事です。ヨハネ福音書の後の方でイエス様が言うように、聖霊がイエス様の教えたこと命じたことを思い起こさせてくれるのです。イエス様が教え命じたことは互いに愛し合いなさいだけではありません。洗礼を授かること聖餐を受けることも命じられたのです。
そこで、ここから本題に入ります。このように洗礼を通してイエス様に繋がって聖餐を通して彼に留まる者は「真理を知るようになる、そして真理はあなたたちを自由にする」。「真理を知る」も「自由にする」もギリシャ語原文では未来形です。将来のこと、まさに十字架と復活の出来事の後の状況を見据えて言っているとわかります。さあ、洗礼と聖餐を通してイエス様に繋がって留まると、真理を知るようになり、真理は自由にしてくれる、と。イエス様が言う「真理」とは?「自由」とは?
3.イエス様の真理
これを明らかにするきっかけを作ってくれたのは、他でもない聴衆のユダヤ人たちでした。彼らは一般的な宗教の枠でイエス様を信じるようになりましたが、イエス様の真理と自由の教えに納得が行かなくなって反論します。おかげでイエス様は「真理」と「自由」の意味内容を明らかにできたのでした。
ユダヤ人たちの反論はこうでした。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」ユダヤ人はモーセを通して神から掟を与えられたと、神由来の律法を持っていることを誇りとする民族です。そしてそれを守ることで神に認められていると自負する民族です。イエス様の時代、ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にありました。それでも彼らは律法を持ち、律法に従って男子に割礼を施し、律法に従って神殿での礼拝を守り、そして十戒の掟に従って両親を敬い、殺さない、不倫をしない、盗まない、偽証をしない、他人のものを妬まない等々を実践している、だから他民族の奴隷にはなっていない、それなのになぜ「自由になれる」などとあたかも今は奴隷状態にあるかのような言い方をするのか、と反論したのです。
そこでイエス様は真理を突いてきます。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」お前たちは自由ではない、奴隷である、罪の奴隷である、と。ユダヤ人の中にも十戒の掟を守れない人たちは大勢いました。逆にあの金持ちの青年のように自分は子供の時から全て守ってきましたと言う人も大勢いました。どちらにしても、少なくとも男子は皆、割礼を施されるし、自分たちは神から与えられた律法を持つ民族であるという自負はありました。しかし、イエス様の律法については教えは、マタイ福音書5章を見るまでもなく、とてもラジカルでした。兄弟を憎んだり心の中で罵ったら、それで第5戒「汝殺すなかれ」を破ったことになる、異性をふしだらな目でみたら、それで第6戒「汝姦淫するなかれ」を破ったことになると。行いや言葉だけでなく心の中の思いまで問われているのです。これが十戒を与えた神の本意です。さて、心の中まで問われたら、誰も神の意思に沿える者などいなくなります。神の御前では人間はそのままの状態では神の意思に反する罪びとなのです。これがキリスト信仰の真理です。
このイエス様の教えに倣ってパウロは今日の使徒書の日課ローマ3章で教えます。人間は神の意思に沿えない存在であるということについてはユダヤ人もそれ以外の民族も皆同じだと。どうして人間はそのような存在なのかということについては創世記3章が伝えています。神に造られた最初の人間が神の意思に反することをしてしまい、それで人間の中に神の意思に反しようとする性向、罪が入り込んでしまったという出来事です。神の許では永遠の命を持てたはずなのに、罪を持つようになって神との結びつきを失って寿命ある存在になってしまった。パウロはそのことを今日の個所で「神の栄光が欠けた」状態と言っています(日本語の訳はあまり良いとは思いません)。堕罪の前の人間は神の栄光を映し出す状態にあったのです。「神の栄光が欠けた」状態とはまさに罪と死の力に服する状態にあるということです。人間は全身全霊で神の意思に沿えず罪と死の力に服している、これは真理です。
イエス様は罪の奴隷は「家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」と言いますが、これはあまり良い訳ではありません。「家」とは、神がおられるところ、神の国、天の御国のことです。ここの意味は、「罪の奴隷は永遠に神の国の外側にいる。神の御子つまりイエス様は永遠にその中にいる」です。人間は罪の支配に服する限り、神の御許に迎え入れられて再び神の栄光を映し出す存在になれる可能性がないということです。これも真理です。当時のユダヤ人だけでなく現代を生きる私たちにも当てはまる真理です。
4.イエス様の真理の到達点にある自由
なぜイエス様はこんなに厳しい真理を私たちの目の前に突き付けたのでしょうか?これでは、私たちを自由にするどころが絶望に追いやってしまわないでしょうか?いいえ、そうではありません。イエス様の目的はあくまで私たちを罪の支配下から自由にすることなのです。突きつけられた真理が厳しければ厳しい程、そこからの自由は他のいかなる自由に比べられない程の大きな自由になります。なにしろ、罪の支配下から解放されて死を越えて神の栄光を映し出す存在になれることがかかっているからです。イエス様はそのような自由化をどのように実現するのでしょうか?
罪の支配下から脱せるためにはどうしたらよいか?一つの考え方として、十戒の掟を守り通して神の意思に沿う存在になることがあります。パウロはそれを律法を通して得る義と呼びます。義とはまさしく神の意思に沿う状態を意味します。しかし、先にも述べましたように律法の義は破綻してしまったのです。イエス様が教えたように律法は守れば守ろうとするほど、追求しようとすればするほど、人間が神の意思に沿えない罪ある存在であることを示すものになります。パウロも今日の個所で言っていました。律法によっては罪の自覚しか生じない、だから律法を実行することによっては誰一人神の前で義とされないのだと。これも真理です。
この行き詰まり状態を打開するために神はひとり子のイエス様を私たちに贈ったのでした。神はイエス様を私たち人間の全ての罪を償う生贄として十字架の死に引き渡すことにし、イエス様はその重い任務を引き受けたのでした。そして神は一度死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。そこで今度は人間の方が洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると、永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むようになります。その人はイエス様は真の救い主であるという信仰に満たされています。道の歩みにはいろいろなことがあるでしょう。しかし、洗礼の時に回復した神との結びつきは強固なもので逆境の時でも順境の時と全く変わらずにあります。この世から去る時もそうです。そして復活の日に眠りから目覚めさせられて、神の御許である神の国に永遠に迎え入れられるのです。神の栄光を映し出す復活の体を纏われて迎え入れられるのです。このようにキリスト信仰者は、義を律法を守ることによってではなく、神の取り計らいによって得ることが出来た者です。パウロが「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」と言っている通りです。その義はまさに「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」なのです。これがキリスト信仰の真理の到達点です。これが私たちを罪と死の支配から自由にするのです。
5.勧めと励まし
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは洗礼を通して永遠の命に至る道に置かれて今それを歩んでいます。神の栄光を映し出す復活の有り様になる日はまだ先ですが、この道に置かれたらもう半分位はそうなったと言っても過言ではありません。ルターは、イエス様を救い主と信じる信仰にある者の心と魂の部分は復活に到達しているのだと言っているほどです。残りの部分は、この肉の体が朽ち果てて復活の体に着替えさせられる時に到達するのだと。ところが、この肉の体が曲者です。パウロがローマ書の中で教えるように、肉の体には罪が宿っているからです。キリスト信仰者とは言え、神の意思に反する罪をまだ持っているのです。さすがにそれを行いに出してしまう可能性は低くなると思いますが、言葉や心の思いでは神の意思に反することが必ず出てきます。現実世界の中で人間関係に揉まれて生きるのでそうなるのです。その時は、半分位は復活しているという自信や安心は吹き飛んでしまいます。どうしたら良いでしょうか?信仰が試される時です。
その時は、その思いと言葉とは神の意思に反する罪であったと自ら認めて、神に罪の赦しをお願いします。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、あなたの罪は我が子イエスがあそこで償いをした、あなたの罪の赦しはあそこに打ち立てられている、だから安心して行きなさい、これからは注意しなさいと言って下さるのです。キリスト信仰者は、この罪の自覚と赦しの願いと赦しの受け取りを繰り返しながらこの世の人生を歩みます。繰り返しがあるというのは、罪に負けているのではなく、罪に与しない罪に逆らって生きていることの証しです。これはまさに本日の旧約の日課エレミヤ書で言われていたこと、律法が心に書き記されたということです。かつては律法を行うことで義を獲得することが目指されていました。それは律法が人の外側にあって外側から人に強制するものでした。それが、イエス様の十字架上の贖罪と復活の出来事が起こって、それが本当に起こったと信じて受け入れた人に律法は心の中に書き記されるようになったのです。それで罪に与しない、罪に逆らって生きることが始まったのです。神はまさにそれを義と認めて下さり、復活の日に繰り返しの人生は終了するのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン