2026年4月27日月曜日

罪の赦しという神のお恵みに留まって生きる(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年4月26日 復活後第四主日

 

使徒言行録2章42-47節

第一ペトロ2章19-25節

ヨハネ10章1-10節

 

説教題 「罪の赦しという神のお恵みに留まって生きる」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課はイエス様のたとえの教えです。最初の1節から5節までをもう一度見てみます。

 

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

 

 これは、当時の社会のごく日常的なことを言っています。羊の飼育が盛んなところでは、羊を牧草地に連れて行かない時は木材や石材で作った塀の囲いの中に入れていました。泥棒が「乗り越える」と言うから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方からすると、囲いの中には複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。ある羊飼いが、さあ、これから僕の羊を牧草地に連れて行こう、とやってくる、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう、そして、自分の羊を呼び集める。羊は羊飼いを声で聞き分けられるので、別の羊飼いが近づいてくれば、すぐわかって引き下がる。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。

 

 これは、当時の人には日常的な当たり前な話でした。ところが、これを聞いたファリサイ派の人たちは「その話が何のことか分からなかった」のでした(6節)。どうしてかと言うと、当たり前のことなので話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになったのです。その反応を見たイエス様は今度は、自分は囲いの門であると言い、さらに自分は良い羊飼いであると言います。本日の日課は囲いの門のところまでです。

 

 これらのたとえが何を意味しているかは、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。それは本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活を度外視してイエス様の教えを理解しようとすると、イエス様が教えようとしたことからどんどん離れていきます。注意しないといけません。

 

 私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているので、今日のたとえの意味をわかる立場にあります。以下それを見ていきましょう。

 

2.イエス様は羊の囲いの門

 

 9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったりする日常的な放牧のイメージを出しています。ところが、原文では、「囲いの中に入って、外に出ていく」と言っています。それも未来形で言っています。牧草地を見つけることも未来形で言っています。つまり、囲いの中に入ることと外に出ていくこと、そして牧草地を見つけることは全て日常的な放牧を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?さあ、十字架と復活の意味を知る者の出番です。

 

 イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。それは、人間に命と人生を与えた創造主の神と結びつきを持ってこの世の人生を歩む者たちの群れです。そして、この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども聞き従わず、イエス様の声だけに聞き従った者たちです。

 

 このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

 

 このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世にまたがる壮大な人生を生きることを意味します。

 

 二つの世にまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、神との結びつきが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。もともと人間は天地創造の時に造られた時は良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたことは、本日の使徒書の日課、第一ペトロ2章でも言われていました。そこでペトロは十字架の出来事が旧約聖書イザヤ書53章の預言の成就だったことを証ししているのです。

 

 そこで今度は人間の方が、これは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになるのです。

 

 このように、私たちが神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の二つにまたがって生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。まさにこれがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ146節で宣言します。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

 

3.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まって生きる生き方 その1

 

 こうして、イエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。つまり、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?

 

 それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に残っています。もちろん、罪の赦しがある以上、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと心配したり、そういう至らない自分にがっかりします。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者は神の意思に沿うようにしなければと再び心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。

 

 キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、赦しの確認を繰り返しながらこの世を歩んでいきます。これこそが罪の赦しのお恵みに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き抜こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、または、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとする力です。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書を嘘つき扱いします。しかし、私たちはそれらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しの恵みに留まります。そうすることが罪に反抗して生きている、罪を憎んでいることの証しになります。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。

 

4.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まる生きる生き方 その2

 

 このように罪の赦しのお恵みに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことがこの恵みに留まって生きることになります。

 

 罪の赦しの恵みに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。あるいは、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。

 

 この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。

20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神にすれば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。日本語に訳した人がギリシャ語のカリスを「神の御心に適うこと」と訳したのは、「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。19節も同じです。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」とありますが、ここも「御心にかなうこと」は、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。19節でもう一つあります。「神がそうお望みだとわきまえて」とありますが、ギリシャ語原文を直訳すると「神の良心のゆえに」です。「神の良心のゆえに不当な苦しみを受ける」とは一体どんな意味でしょうか?これはまさしく、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています(後注)。

 

  さあ、大変なことになりました。善を行うことが裏目に出て不当な苦しみを受けることになっても、良心が神に縛られているために、それを回避しないで耐える、これは神からすれば恵みであるというのです。そんな恵みがあるのでしょうか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。

 

 そういうことが恵みであるというのは、まさにぺトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせず褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることとか、救われることとかには何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えられる律法とは異っています。善い業を行って裏目に出たら嫌だ、褒められたり褒美をもらえるほうがいいと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなる教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。

 

 もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。

 

 これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。なので、それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。

 

 以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。

2026年4月13日月曜日

神がキリスト教会を通して備えて下さる三つのもの ― 罪の赦し、神との平和、心の目 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年4月5日 復活節第二主日

 

使徒言行録4章32-35節

ヨハネの第一の手紙1章1節-2章2節

ヨハネによる福音書20章19-31節

 

説教題 「神がキリスト教会を通して備えて下さる三つのもの

― 罪の赦し、神との平和、心の目」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所で、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて三つの大切なことを教えます。まず、イエス様は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言いました。イエス様の言う平和が一つ目。それから、彼が聖霊を与えると言って弟子たちに息を吹きかけて罪を赦す権限を与えました。罪の赦しとその権限が二つ目。三つ目は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活を信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになりました。その時イエス様が言った言葉、「見なくても信じる者は幸いである」、これも大切なことです。これらの三つのこと、罪の赦しとその権限、イエス様の言う平和、肉眼の目で見なくても心の目で見て信じるということについて、以前の説教でキリスト教会を成り立たせる条件と申しました。ただ、条件と言うのはちょっと違うかなと思い直し、今回は、これらの三つは神がキリスト教会を通して人間に備えて下さる大切なもの、という言い方にしようと思います。それで以下、三つのことを見ていきます。

 

2.罪の赦しとその権限

 

 まず、罪の赦しとその権限について。私たち人間には神の意思に反しようとする性向があります。人を傷つけるようなことを口にしたり時として行為に出してしまったり、そうでなくても心の中で思ってしまったりします。また、嘘をついたり、妬んだり、見下したり、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざそうとしてしまいます。それらを聖書では罪と言います。人間は罪を持つようになってしまったため創造主の神との結びつきが失われてしまって、その状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去る時も神との結びつきがない状態で去らねばなりません。この惨めな状態から人間を救うために父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈ったのです。まず人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせ、人間が受けないで済む状況を作り出しました。それがイエス様のゴルゴタの十字架の死でした。さらに神は、想像を絶する力をもってイエス様を死から復活させて、死を超える永遠の命が存在することをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。

 

 そこで私たち人間はこれらのことは本当に起こったとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになってこの世を生きられるようになります。神罰を受けないで済む状況に入れたのです。それで、永遠の命が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んで行きます。まさに、新しく天から生まれた者になったのです。キリスト信仰者は、新しく生まれた自分というものは神のひとり子の犠牲の上にあるのだとわかっています。それで、罪に与せず罪に反抗して生きていこうという心になります。

 

 このように創造主の神はひとり子のイエス様を用いて罪の赦しを私たちに備えて下さいました。本日の福音書の個所で、イエス様が弟子たちに罪の赦しの権限を与えます。それは、神がイエス様を用いて備えて下さった罪の赦しを多くの人々に行き渡らせる権限です。人間が赦しを与えるのではありません。人間は罪の赦しを取り次ぐ道具のようなものです。そして、その権限は誰もが持てるというものではありません。使徒たちの場合は、イエス様が聖霊を授けて、その権限が付与されました。イエス様が天に上げられると、今度は使徒たちが次に権限が付与される人に手をかざす按手の儀式を行って権限を伝授していきました。伝授された人たちも次に権限が付与される人に同じように按手をして、それがずっとリレーのように繰り返されて今日に至ります。ここには使徒的な継承があります。

 

 スオミ教会の礼拝の初めに罪の告白と赦しの宣言があります。牧師は罪の赦しを宣言する時に、「ここに神から権限を委ねられた者として、あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されると宣言します」と言います。ここでも明らかなように、牧師が罪を赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた者として宣言しますということです。

 

3.目で見なくても信じられる心の目

 

 次に「見なくても信じる者は幸い」ということについて。この目で見ない限り信じないと言ったトマスの思いはもっともなことです。目で見ない限り信じない、これは普通の宗教だったらどこでもそういうふうに考えるでしょう。何か目に見える不思議な業を行う、不治の病が治るとか。そういうことをする者を人々はこの方には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれる原因になります。

 

 ところが、イエス様がここで教えていることは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じるのが本当の信じることだ、と言うのです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で「信じる」というのは、文字通り見なくてもそうだと信じることです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を目で見なくても、イエス様は復活した、それはその通りだ、と言えば、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、信じるもなにも復活をこの目で見ましたと言います。

 

 このようにキリスト信仰では目で見ないでも信じるということを強調します。使徒パウロは第二コリント418節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、57節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ824節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」111節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり、目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

 

 さて、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。それ以後は復活の主を目撃することはできません。そうなると、目撃者の証言を信じるかどうかがカギになります。実際、目で見なくても彼らの証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?ひとつには、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して宣べ伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

 

 それは、イエス様の復活には何かとても大切なことが秘められていて、それをわかって自分のものにしたからです。この秘められた大切なことは、最初は目撃者の弟子たちが自分のものにしていました。もし、イエス様の復活にその大切なことがなくて、ただ単に死んだ人間が息を吹き返しただけだったら、それはそれで人々に情報拡散したい気持ちにさせる出来事でしょう。しかし、拡散したら命はないぞと脅されたら、わざわざ命を捨ててまで言い広めたりはしないでしょう。しかし、復活には不思議な現象ですまない大切なことがあるとわかったから、脅しや迫害に屈しないで宣べ伝えるようになったのです。それを、目撃者の証言を聞いた人たちもわかって持てるようになったのです。それでは復活に秘められた大切なこととは何か?それがイエス様の言われる平和なのです。次にそれについて見てみましょう。

 

4.イエス様が言われる平和

 

 イエス様が言われる平和について。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で「平和」はエイレーネーという言葉です。旧約聖書の言葉ヘブライ語でシャーロームשלומと言います。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使ったでしょう。シャーロームという言葉はとても広い意味を持っています。国と国が戦争をしないという平和の意味もあります。その他に、繁栄とか成功とか健康というような人間個人にとって望ましい理想的な状態も意味します。しかし、イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせました。どんな意味でしょうか?

 

 イエス様は十字架に掛けられる前日に弟子たちに次の言葉を言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ1427節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えないと言われます。一体それはどんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で与えたら、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違ってくるでしょうか?

 

 イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所があります。ローマ51節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、神と人間との間の平和です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげで解消されたという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで得られる平和です。コロサイ12122節を見ると、イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は敵対関係だったということが明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間は、イエス様の犠牲の死によって和解の道が開かれたのです。

 

 こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが持てるようになった者は神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に至る道に置かれてその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康など目に見える平和シャロームがある時もあれば、ない時もあります。しかし、どんな時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、創造主の神との結びつきは失われず、神との平和な関係は微動だにしません。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は、礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で罪の支配から贖われている状態を強化していけば、神との結びつきと平和な関係はしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世の人生の段階で神との結びつきと平和な関係をこのように鍛えておけば、この世から別れる時、安心して自分の全てを神に任せることが出来ます。自分は復活の日に目覚めさせてもらって主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さるという確信と信頼を持って神に全てを委ねることが出来ます。

 

5.勧めと励まし

 

 以上、神がキリスト教会を通して信仰者に備えて下さる三つのものを見てきました。使徒的な継承に立つ罪の赦しとその権限、神との平和な関係、肉眼の目で見えなくても信じることができる心の目です。どうか、神がこのスオミ教会を通してもこの三つのものを皆さんに備えて下さいますように。

 

 第一ペトロ13節でペトロは、キリスト信仰者はイエス様の復活によって新たに生まれて「生ける希望」を持つようになったと言います。説教の終わりにこの希望について述べたく思います。

 

 新共同訳では「生き生きとした希望」と言って、希望が躍動感に溢れている感じがしますが、そうではありません。原語のギリシャ語を見ると、「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている」ですが、私が使う辞書(ギリシャ語・スウェーデン語)によれば「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている希望」とは、「永遠の命を与えられる希望」、復活の日に復活させられるという希望です。この希望はイエス様の復活を心で受け取ったら一緒に内に入って来ます。復活の日に復活させられるという希望が朽ちない希望であるということが4節でも言われます。「天には信仰者たちの受け継ぐものがちゃんと取っておかれている。それは朽ちず汚れがなく永久のものである。」この天に取っておかれている受け継ぐものとは、まさに復活の体と永遠の命です。5節で、イエス様の再臨の日に現れる救いということが言われますが、それは、その日に復活の体と永遠の命を目に見える形で受け取るということです。6節では、このような希望があり救いが待っているのだから、この世でいろんな試練にあって悲しむことがあっても、喜びも失われずにあるのだと言います。ペトロは試練について肯定的な見方をしています。試練を経ることでかえって信仰が金よりも純度を高められ、イエス様の再臨の日に栄誉と栄光を受けるものになる、そういう精錬するような効用が試練にはあるのだと言うのです。ここで注意しなければならないのは、試練の時に信仰が萎えないで純度を高められるようになるのは「永遠の命を与えられるという希望」を持てているかどうかによります。その希望を持てているかどうかは、イエス様の復活を心で受け入れているかどうかによります。

 

 そして8節と9節でペトロは言います。あなたたちはイエス様を見なかったのに愛し、今見ていないのに信じていて、言葉で言い表せない大きな喜びで満たされている、と。どうしてそんなことが言えるのか?ペトロは、あなたたちが「信仰の目標」に到達する者だからだと言います。「信仰の目標」とは「魂の救い」であると。「魂の救い」とは、復活の日に復活の体を着せられて永遠の命を持って父なるみ神のもとに迎え入れられることです。あななたちはそこに到達する者であるとペトロははっきり言うのです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか?私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して、実は復活の体と永遠の命を今すでに見えない形で手にしているのです。それで主の再臨の日、復活の日が来たら見える形で手にすることになるのです。だから言葉で言い表せない大きな喜びで満たされているのです。

  

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2026年4月7日火曜日

君はイエス様の十字架を通して二つの大きなことが見えるか(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年4月3日 聖金曜日

イザヤ書52章13節~53章12節

ヘブライの信徒への手紙10章16~25節

ヨハネによる福音書18章1節~19章42節

 

説教題「君はイエス様の十字架を通して二つの大きなことが見えるか」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. はじめに

 

 イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始まったのでした。

 

 イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。彼らはこともあろうにイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどはイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。

 

 このようにイエス様の十字架の出来事は残酷であり悲劇なことでした。しかし、この出来事には少なくとも二つの大きなことが伴ってありました。私たちは残酷と悲劇に目を奪われて、それを見失ってはいけません。確かに残酷と悲劇はありますが、それを透かすようにして大きなことを心の目で見ることが出来なければなりません。まさにそれが、この出来事が起こることをお許しになった神の御心だからです。

 

2.二つの大きなこと ― 神の計画の実現

 

 二つの大きなことの最初のものは、十字架の出来事は神がずっと前から計画していたことの実現であったということです。神が計画したこととは、先ほど朗読したイザヤ書の個所が明らかにしています。イエス様の時代の何百年も前に書かれた預言です。

 

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」とありました(535節)。「私たちの背き」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が内に持ってしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は、人を傷つけたり欺くようなことをしてはいけない、口にしてもいけない、心に思ってもいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうしてしまいます。SNSを用いてもしてしまいます。神のみ前に立たされた時、とても潔白ではいられないのです。そのためか、そんな都合悪いことを言う神など胡散臭いと、神は近年ますます遠ざけられていきます。

 

 そんな罪の言いなりになって罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いなりの奴隷状態から解放してあげようと手立てを考えました。それで、本当なら人間が受けるべき罪の罰を全部愛するひとり子に身代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようになる状況を作り出したのです。イエス様の十字架の残酷さと悲劇を通して、この神のひとり子が受けた罰の重みに思いを馳せることが出来ると人間の心は変わり奴隷から自由になるのです。馳せることが出来なければ心は変わらず奴隷のままです。

 

 こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪のゆえに神との結びつきを失った状態にあって、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きていたからでした。それで、神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたのです。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様が息絶える直前に「成し遂げられた」と言ったのはこのことだったのです。

 

 あとは人間の方が、成し遂げられたことは自分のためだったのだ、だからイエス様は私の救い主だと信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。罪の言いなりになって自らも傷つき心が病んでしまった人間の癒しは赦しから始まります。こうして人間は、神のひとり子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りになるのです。

 

3.二つの大きなこと ― 勇気、本物の心、希望の証しの備わり

 

 もう一つの大きなことは、十字架の出来事が神の計画の実現だったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、私たちには新しいものが備わるようになるということです。先ほど朗読したヘブライ101923節に3つの新しいものが言われています。一つは、神聖な神の御前に進み出ても大丈夫という勇気(παρρησια)、二つ目は、イエス様を救い主と信じる信仰を持つことで私たちの心が偽物でない本物の心になること(αληθινη καρδια)、三つ目は、今の世と次に到来する世の双方を神との結びつきを持って生きられるという希望を人前で告白できること(ομολογια της ελπιδος)。短く言えば、勇気、本物の心、希望の告白です。これらが私たちに備わるのです。新共同訳はギリシャ語原文を崩すようにして訳してしまったのでこの3つははっきり見えてきませんが、原文でははっきり見えるので、以下この3つについてお教えします。

 

 イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとこれらのものが備わるのは、イエス様の十字架の業が神殿の礼拝を無意味にしたからです。かつてエルサレムの神殿の中には最も神聖な場所という所があって、そこは大祭司しか入れませんでした。何しろ神のみ前に立つという神聖中の神聖な場所だったからです。しかし、大祭司でもそのままでは入れませんでした。まず、民の罪を動物の生贄を捧げることで償う儀式をして、それから自分に生贄の血を振りかけて自分の罪の汚れを落とすという儀式を経なければ入れませんでした。それが、今や、神のひとり子が十字架の上で血を流され、私たちは洗礼を受けることで罪を赦された者にしてもらえるようになりました。まさに、イエス様の犠牲の血で罪の汚れは落とされて神の前に立つことが出来るようになったのです。かつて神殿の中には、最も神聖な場所とそれ以外の場所を分け隔てる垂れ幕がかかっていました。マタイ2751節に記されているように、イエス様が十字架にかけられて体を突き刺された時、その垂れ幕は真っ二つに裂け落ちました。かつて大祭司は動物の血をかけられて垂れ幕を通って神のみ前に進み出ることが許されていました。今や、イエス様の血で罪の汚れを落とされた者は彼の犠牲の体を通過するようにして神の御前に進み出ることができるのです。

 

 十字架の業のゆえにイエス様は真の大祭司中の大祭司であることが明らかになりました。人間の大祭司は神と人間の仲介者の役割を果たしていましたが、それでも大祭司自身が儀式で自分を清めなければならない位のレベルの低い仲介者でした。イエス様は神聖な神のひとり子なので自分を清める必要がない方です。その彼が自身を犠牲に供して神と人間の間に恒久的な平和な関係を打ち立てたのです。これぞ正真正銘の大祭司、完璧な仲介者です。

 

 このような大祭司を抱くキリスト信仰者は、自分にはやましい所があって神から罰を受けてしまう、神に見捨てられてしまうという恐れから解放されています。その肉体も動物の血ではなく洗礼の水をかけられて罪の呪いが洗い落とされています。なので、神を前にしても、イエス様のおかげで私のことをやましいところがないと見て下さる、潔白と見て下さるとわかるので、恐れはありません。これが私たちが持つべき本物の心であり、それはイエス様を救い主と信じる信仰をもって洗礼を受ければ持つことができるのです。その心があれば、この世を前にしても堂々と入っていくことができるし、かの日には神の前に堂々と立つことができるのです。

 

 キリスト信仰者は罪の赦しの恵みに与かることで、今の世と次に到来する世の双方を神との結びつきを持って生きられるという希望があります。神は計画されたことを預言者を通して知らしめ、最後にはイエス様を通してそれを実現されました。このように神は約束に忠実な方です。それをわかっていれば、希望についての私たちの証しは確固としたものになるはずです。

 

 このようにキリスト信仰者には勇気、本物の心、希望の揺るがない証しが備わっているのだから、あとはお互いにお互いのことを配慮し合って、愛と善い行いに励めばよいのです。24節で言われる通りです。

 

 そこで一つ忘れてはならないことがあります。それは、キリスト信仰者にとって礼拝を守ることは大事ということです。なぜなら、イエス様が大祭司であること、そのおかげで私たちには勇気と本物の心と希望の揺るがない証しが備わっていること、これらを確認し確信できるのは礼拝をおいて他にはないからです。これが25節の教えです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2026年3月30日月曜日

柔和でへり下った王(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教2026年3月29日 枝の主日

スオミ教会

 

イザヤ書50章4-9a

フィリピの信徒への手紙2章5-11節

マタイによる福音書21章1-11節

 

説教題 「柔和でへり下った王」

 

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日から受難週です。今日はイエス様が大勢の群衆の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入ったことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。

 

 受難週最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様が受難の舞台となるエルサレムに入る際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に群衆は「ホサナ」という言葉を叫びます。これは、もともとはヘブライ語のホーシーアーンナーという言葉で、神に「救って下さい」とお願いする意味があります。加えて、古代イスラエルの伝統では群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。日本語なら、さしずめ「王様、万歳」でしょう。そのホーシーアンナは当時イスラエルの地域で話されていたアラム語という言葉でホーシャーナーになりました。

 

 ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説します。ヘブライ語は旧約聖書の大元の言語です。その使い手だったユダヤ民族は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に異国の地でアラム語化していきます。祖国に帰還した時にはアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝では一応ヘブライ語の聖書が朗読されましたが、会衆が理解できるようにアラム語で解説していました。群衆がイエス様を迎えた時、ヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーで叫んだのは間違いないでしょう。後にマタイ福音書がギリシャ語で書かれた時、マタイは群衆のアラム語の音声をそのままギリシャ文字に変換してホーサンナにしました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。そういうわけで、私たちが聖書のこの個所を繙くと当時の群衆の生の声を聞くことができるのです。マタイは現場のリアルな雰囲気を後世に伝えたかったのです。

 

 そうすると、ホサナの歓声を上げた群衆はろばに乗ったイエス様を王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者が凱旋する時は、大勢の家来や兵士を従えて軍馬にまたがって堂々とした出で立ちでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。王に相応しくない感じがします。イエス様はどうしてロバなんかに乗って来たのでしょうか?

 

2.イエス様は柔和でへりくだった王

 

 実は、この出来事は旧約聖書のゼカリヤ書の預言が実現したことを意味しました。ゼカリヤ書99節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。

 

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるろばに乗って。」

 

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」に注目しましょう。ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利者、ヘリ下ってロバに乗って来る者」です。王様というのは普通、軍馬にまたがって威風堂々とやって来る者だが、預言の王はロバに乗ってやって来ることでヘリ下った者であることを示すというのです。マタイはこの個所を引用した時、なぜか「柔和でロバに乗って来る者」と書き換えました。預言の王はロバに乗ってやって来ることで柔和な者であることを示すというのです。どうして「ヘリ下り」が「柔和」に変わってしまったのか?新約聖書には旧約聖書を引用する時、引用元と違ってくることがよくあります。そういう時は、まず旧約聖書のギリシャ語版を見るとよい。マタイはギリシャ語で福音書を書いたから、旧約聖書の引用もそっちを見たのかもしれない。案の定、ギリシャ語のゼカリア書99節は「柔和でロバに乗ってやって来る者」でした。

 

 マタイはイエス様がどんな王であるかを特徴づける時、「ヘリ下り」よりも「柔和」の方を重要視したのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。彼がイエス様を特徴づける時、「ヘリ下り」も「柔和」も両方大事な言葉でした。それはマタイ1129節のイエス様の言葉からわかります。そこでイエス様は、労苦する者、重荷を負う者は皆、私のところに来なさい、休ませてあげよう、私の軛を負い、私から学びなさい。私は「心から柔和でへり下った者」だからだ、そうすれば、あなた方は魂に休息を得ることが出来る、と言っています。マタイは、人間が魂に休息を得られるカギはイエス様の柔和さとへり下りにあるとわかっていたのです。

 

 ここで、「柔和」と「ヘリ下り」の意味を考えてみなければなりません。なんとなくわかったような気がしますが、イエス様を特徴づける言葉として具体的にどんな意味があるのか?それがわかればイエス様のことをもっとよくわかるようになります。

 

 二つの言葉の意味をイエス様に即して理解する鍵は、本日の使徒書の日課フィリピ2章の中にあります。そこでパウロは当時キリスト教徒の間で口ずさまれていたキリスト賛歌を引用します。6節の「キリストは、神の身分でありながら」から11節の「父である神をたたえるのです。」までのところです。そこはギリシャ語原文では段落が別になって詩の形になっていて引用であることを示しています。日本語訳ではそれは見えてきません。

 

 パウロがここでこれを引用した意図はこうです。キリスト信仰者というのは、思いを一つにして同じ愛を持って一致を目指す者だ、争いや虚栄心に走らず、ヘリ下って互いに相手を自分より優れた者と考え、各自自分の利害を中心に考えず他人の利益にも目を向ける者なのだ、と思い起こさせます。これらが柔和の意味です。私たちの救い主がそういう柔和な方だった以上は私たちもそうあらねばなりません。パウロの意図は、イエス様がそういう方であったことはキリスト賛歌からも明らかだ、今それをここで引用するからよく自己反省しなさい、ということです。それで引用したのです。

 

「キリストは神の形をしていながら、神と同等であることにしがみつかず、そのような自分を空にして、奴隷の形を取って人間と同じようになられました(後注1)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 

 ここで「ヘリ下り」の意味がはっきりします。イエス様は天地創造、全知全能の神と同等の立場を捨てる位のヘリ下りをされました。そして、人間の救いのために残酷な十字架刑を受け入れる位のヘリ下りをされました。この世界でこれ以上のヘリ下りはありません。ヘリ下ったイエス様は神の人間救済計画を実現するために最後まで神の意思に従順に従いました。まさに自分の利害を中心に考えず、他人の利益のために立ち振る舞ったのです。ヘリ下りと神の意志への従順がイエス様の柔和を形作るのです。このようにヘリ下りと柔和というのはお互い結びついています。しかも、パウロはこのヘリ下りと柔和はイエス様だけでなく、彼を救い主と信じるキリスト信仰者にもあると思い起こさせます。なぜなら、キリスト信仰者にはキリストにある励ましや愛に満ちた慰め、聖霊の交わり、救われたことによる慈しみと憐れみの心がある、だから、思いを一つにして同じ愛を持って一致を目指し、争いや虚栄心に走らずに、ヘリ下って互いに相手を自分より優れた者と考え、各自自分の利害を中心に考えず他人の利益にも目を向け考えるようになるのは当然なのだ、というのがフィリピ2章の初めでパウロが言おうとしていることです。

 

3.民族の解放者から全人類の救い主へ

 

 しかしながら、ロバに乗ってエルサレムに入って来るイエス様を見た群衆は、彼を柔和でへりくだった王とは思ってはいませんでした。みんな、彼をイスラエルの民をローマ帝国の支配から解放してくれる民族の英雄と見ていたのです。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?イエス様の華々しいエルサレム入城は、全く予想外の展開を遂げて行きます。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。神殿から商人を追い出して当時の礼拝体制に真っ向から挑戦します。彼が公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国に反乱の疑いを抱かせて軍事介入を招いてしまうという懸念を生み出しました。さらに、イエス様は自分のことをダニエル書7章に出てくる終末のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者としたり、果てはもっと直接的に自分を神の子と自称し、指導層の反感を高めていきます。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けてしまいました。その段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。

 

 イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こりました。旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる出来事が起こりました。イエス様の死からの復活がそれです。

 

 イエス様の十字架と復活の出来事を出発点として旧約聖書の謎が次々と明らかになりました。イエス様が死に引き渡されても、そのままで終わってしまわなかったのは、彼が神の子だからだ、と理解されるようになります。では、なぜ神のひとり子ともあろう方が十字架で死ななければならなかったかのか?それについては、イザヤ書53章にある預言が成就したことがわかりました。人間が自分の内に持ってしまっている罪を神の僕が人間に代わって神に対して償うという預言です。神聖な神の目に適う僕が人間が受けるべき神罰を自ら引き受けて人間が受けないで済むようにするという預言です。罪に傷つき心が病んでしまった人間の癒しはそこから始まるのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命が実在することがこの世に示され、その命に至る道が人間に開かれたのです。

 

 そこで今度は人間の方が神のこれらの取り計らいを自分事として受けとめてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされます。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を歩むことになります。その行き先は永遠の命が待つ復活の日です。その日が来たら眠りから目覚めさせられてイエス様と同じように復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられるのです。

 

 ロバに乗ってのイエス様のエルサレム入城は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした表面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあることが明らかになりました。罪と死の支配からの解放、造り主である神との結びつきの回復、そして死を超える永遠の命を持って生きること、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。

 

4.勧めと励まし

 

 終わりに本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所が、イエス様を救い主と信じる私たちキリスト信仰者の心構えについて教えているので見ておきます。この個所は一読するとイエス様が処刑される前に暴行を受けたことを預言しているとわかります。イエス様は人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持ってこの世と次に来る世の両方を生きられるようにしてあげようとしている。それなのに神の真の意図をわからない者たちはイエス様を危険な者として迫害する。イエス様は迫害の最中でも神の意思に従っている、それで自分には何もやましいことはないとわかっている、自分は神の側に立っているとわかっているので何も怖くはありません。暴行されたら痛いし辛いが、神を裁判官にした裁判において自分は潔白そのものである、そういう内容です。神を裁判官にした裁判ということは8節と9節で言われます。

 

 8節「私の潔白を証明する方はすぐそこにおられる。」

神がイエス様を死から復活させたので、イエス様は罪と死を滅ぼした神の子であることが明らかになります。それでイエス様の潔白は人々の前で証明されます。

 

 「誰が私を訴えるのか?一緒に立とうではないか!」

日本語訳では、私の協力者と一緒に立つという訳し方ですが、正確には、協力者ではなくて、訴える者のことです。それで、よしわかった上等だ、一緒に法廷に立とうではないか、というのです。法廷とは神を裁判官とする法廷です。同じ趣旨で続きます。

 

 「誰が私に対して訴えを起こすのか?私の前に出てこい。」

そこは訴えを起こす者に対してひるまない姿勢を一貫して言っているのです。

 

 9節「見よ、主なる神は私を助けて下さる。見よ、私を訴える者はみな着古された衣のように擦り切れて朽ち果てて、虫に食いつくされてしまう。」

 

 「主なる神は私を助けて下さる」は7節にもあります。神が助けて下さるから私は迫害を受けても動揺しないし恥にも感じないというのです。4節から9節まで「主なる神は」という言い方が4回出てきます。「主なる神は、弟子の舌を私に与えた」、「主なる神は、私の耳を開かれた」、「主なる神は、私を私を助けて下さる」、「主なる神は、私を助けて下さる」。みな、「アドナーイ(主よ)、ヤハヴェ」で始まります。「ヤハヴェ」は神聖な名前なので口にしてはいけないので「アドナーイ」に言い換えます。「アドナーイ、アドナーイ」と、神が本当にすぐそばにいて味方になって下さることを確信している様子がうかがえます。

 

 この確信は私たちキリスト信仰者も持てます。今の日本では、さすがに暴力に訴えてまで信仰を捨てさせることはありませんが、キリスト信仰に対する誤解や中傷はあると思います。しかし、十字架と復活の主を救い主と信じる以上、神の裁判では潔白です。なので、何も動揺せず何も恥ともせずに、フィリピ2章にある心構え、へりくだって他の人を自分より優れた者とし、自分の利害を脇において他人の利益を考える、またローマ12章にある心構え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、悪に対して悪で報いず善で報いる、敵が飢え乾いていたら食べさせ飲ませる、これらを淡々と続けていけばいいわけです。

 

 ところで、非難や中傷は人から来ず、信仰者の心の中で責める声がする時があります。お前には罪がある、神の前で潔白でなんかあり得ないと。悪魔の声です。悪魔のことをサタンと言いますが、そのヘブライ語の意味は告発する者、責める者という意味です。しかし、この場合も心配はいりません。確かに私の内には神の意思に反する罪がある。しかし、それはイエス様が神に対して償って下さったのだ、それで私は神から罪を赦された者として見てもらっているのだ、これを思い出せばいいのです。神がイエス様を通して私に与えて下さった罪の赦しのお恵みを私は手放さない、と悪魔に言い返せばいいのです。私は罪の赦しのお恵みを神から、どうぞ、と差し出されて、それをありがとうございます、と受け取って携えて生きている、それで神は私を潔白な者と見なして下さる。だから、私は潔白なのだ。悪魔よ、お前の方こそ、イザヤ書509節にある虫に食いつくされてしまう古着なのだ(虫に食いつくされてしまう古着は519節にも出てきます)、そう言ってやればよいのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注1 ギリシャ語のモルフェが日本語訳で「身分」と訳されていますが、基本的意味は「形」とか「形態」です。身分や立場とは違う意味です。フィンランド語の聖書は「形」と訳しています。また、 ギリシャ語のドゥロスが日本語訳で「僕」と訳されています、基本的意味は「召使い」の他に「奴隷」の意味もあります。フィンランド語の聖書は「奴隷」と訳しています。