2026年3月30日月曜日

柔和でへり下った王(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教2026年3月29日 枝の主日

スオミ教会

 

イザヤ書50章4-9a

フィリピの信徒への手紙2章5-11節

マタイによる福音書21章1-11節

 

説教題 「柔和でへり下った王」

 

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日から受難週です。今日はイエス様が大勢の群衆の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入ったことを記念する「枝の主日」です。受難週には、最後の晩餐を覚える聖木曜日、イエス様が十字架に架けられたことを覚える聖金曜日があります。それらの後にイエス様の死からの復活を記念する復活祭、イースターが来ます。

 

 受難週最初の主日を「枝の主日」と呼ぶのは、イエス様が受難の舞台となるエルサレムに入る際に、群衆が木の枝を道に敷きつめたことに由来します。ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に群衆は「ホサナ」という言葉を叫びます。これは、もともとはヘブライ語のホーシーアーンナーという言葉で、神に「救って下さい」とお願いする意味があります。加えて、古代イスラエルの伝統では群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。日本語なら、さしずめ「王様、万歳」でしょう。そのホーシーアンナは当時イスラエルの地域で話されていたアラム語という言葉でホーシャーナーになりました。

 

 ヘブライ語とかアラム語とか出てきたので少し解説します。ヘブライ語は旧約聖書の大元の言語です。その使い手だったユダヤ民族は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に異国の地でアラム語化していきます。祖国に帰還した時にはアラム語が主要言語になっていました。シナゴーグの礼拝では一応ヘブライ語の聖書が朗読されましたが、会衆が理解できるようにアラム語で解説していました。群衆がイエス様を迎えた時、ヘブライ語のホーシーアーンナーではなく、アラム語のホーシャーナーで叫んだのは間違いないでしょう。後にマタイ福音書がギリシャ語で書かれた時、マタイは群衆のアラム語の音声をそのままギリシャ文字に変換してホーサンナにしました。日本語の聖書の「ホサナ」はそこから来ていると思われます。そういうわけで、私たちが聖書のこの個所を繙くと当時の群衆の生の声を聞くことができるのです。マタイは現場のリアルな雰囲気を後世に伝えたかったのです。

 

 そうすると、ホサナの歓声を上げた群衆はろばに乗ったイエス様を王として迎えたことになります。でも、これは奇妙な光景です。普通王たる者が凱旋する時は、大勢の家来や兵士を従えて軍馬にまたがって堂々とした出で立ちでしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には囲まれていますが、ろばに乗ってやってくるのです。王に相応しくない感じがします。イエス様はどうしてロバなんかに乗って来たのでしょうか?

 

2.イエス様は柔和でへりくだった王

 

 実は、この出来事は旧約聖書のゼカリヤ書の預言が実現したことを意味しました。ゼカリヤ書99節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。

 

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるろばに乗って。」

 

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」に注目しましょう。ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利者、ヘリ下ってロバに乗って来る者」です。王様というのは普通、軍馬にまたがって威風堂々とやって来る者だが、預言の王はロバに乗ってやって来ることでヘリ下った者であることを示すというのです。マタイはこの個所を引用した時、なぜか「柔和でロバに乗って来る者」と書き換えました。預言の王はロバに乗ってやって来ることで柔和な者であることを示すというのです。どうして「ヘリ下り」が「柔和」に変わってしまったのか?新約聖書には旧約聖書を引用する時、引用元と違ってくることがよくあります。そういう時は、まず旧約聖書のギリシャ語版を見るとよい。マタイはギリシャ語で福音書を書いたから、旧約聖書の引用もそっちを見たのかもしれない。案の定、ギリシャ語のゼカリア書99節は「柔和でロバに乗ってやって来る者」でした。

 

 マタイはイエス様がどんな王であるかを特徴づける時、「ヘリ下り」よりも「柔和」の方を重要視したのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。彼がイエス様を特徴づける時、「ヘリ下り」も「柔和」も両方大事な言葉でした。それはマタイ1129節のイエス様の言葉からわかります。そこでイエス様は、労苦する者、重荷を負う者は皆、私のところに来なさい、休ませてあげよう、私の軛を負い、私から学びなさい。私は「心から柔和でへり下った者」だからだ、そうすれば、あなた方は魂に休息を得ることが出来る、と言っています。マタイは、人間が魂に休息を得られるカギはイエス様の柔和さとへり下りにあるとわかっていたのです。

 

 ここで、「柔和」と「ヘリ下り」の意味を考えてみなければなりません。なんとなくわかったような気がしますが、イエス様を特徴づける言葉として具体的にどんな意味があるのか?それがわかればイエス様のことをもっとよくわかるようになります。

 

 二つの言葉の意味をイエス様に即して理解する鍵は、本日の使徒書の日課フィリピ2章の中にあります。そこでパウロは当時キリスト教徒の間で口ずさまれていたキリスト賛歌を引用します。6節の「キリストは、神の身分でありながら」から11節の「父である神をたたえるのです。」までのところです。そこはギリシャ語原文では段落が別になって詩の形になっていて引用であることを示しています。日本語訳ではそれは見えてきません。

 

 パウロがここでこれを引用した意図はこうです。キリスト信仰者というのは、思いを一つにして同じ愛を持って一致を目指す者だ、争いや虚栄心に走らず、ヘリ下って互いに相手を自分より優れた者と考え、各自自分の利害を中心に考えず他人の利益にも目を向ける者なのだ、と思い起こさせます。これらが柔和の意味です。私たちの救い主がそういう柔和な方だった以上は私たちもそうあらねばなりません。パウロの意図は、イエス様がそういう方であったことはキリスト賛歌からも明らかだ、今それをここで引用するからよく自己反省しなさい、ということです。それで引用したのです。

 

「キリストは神の形をしていながら、神と同等であることにしがみつかず、そのような自分を空にして、奴隷の形を取って人間と同じようになられました(後注1)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 

 ここで「ヘリ下り」の意味がはっきりします。イエス様は天地創造、全知全能の神と同等の立場を捨てる位のヘリ下りをされました。そして、人間の救いのために残酷な十字架刑を受け入れる位のヘリ下りをされました。この世界でこれ以上のヘリ下りはありません。ヘリ下ったイエス様は神の人間救済計画を実現するために最後まで神の意思に従順に従いました。まさに自分の利害を中心に考えず、他人の利益のために立ち振る舞ったのです。ヘリ下りと神の意志への従順がイエス様の柔和を形作るのです。このようにヘリ下りと柔和というのはお互い結びついています。しかも、パウロはこのヘリ下りと柔和はイエス様だけでなく、彼を救い主と信じるキリスト信仰者にもあると思い起こさせます。なぜなら、キリスト信仰者にはキリストにある励ましや愛に満ちた慰め、聖霊の交わり、救われたことによる慈しみと憐れみの心がある、だから、思いを一つにして同じ愛を持って一致を目指し、争いや虚栄心に走らずに、ヘリ下って互いに相手を自分より優れた者と考え、各自自分の利害を中心に考えず他人の利益にも目を向け考えるようになるのは当然なのだ、というのがフィリピ2章の初めでパウロが言おうとしていることです。

 

3.民族の解放者から全人類の救い主へ

 

 しかしながら、ロバに乗ってエルサレムに入って来るイエス様を見た群衆は、彼を柔和でへりくだった王とは思ってはいませんでした。みんな、彼をイスラエルの民をローマ帝国の支配から解放してくれる民族の英雄と見ていたのです。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?イエス様の華々しいエルサレム入城は、全く予想外の展開を遂げて行きます。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。神殿から商人を追い出して当時の礼拝体制に真っ向から挑戦します。彼が公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国に反乱の疑いを抱かせて軍事介入を招いてしまうという懸念を生み出しました。さらに、イエス様は自分のことをダニエル書7章に出てくる終末のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者としたり、果てはもっと直接的に自分を神の子と自称し、指導層の反感を高めていきます。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けてしまいました。その段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。

 

 イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こりました。旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる出来事が起こりました。イエス様の死からの復活がそれです。

 

 イエス様の十字架と復活の出来事を出発点として旧約聖書の謎が次々と明らかになりました。イエス様が死に引き渡されても、そのままで終わってしまわなかったのは、彼が神の子だからだ、と理解されるようになります。では、なぜ神のひとり子ともあろう方が十字架で死ななければならなかったかのか?それについては、イザヤ書53章にある預言が成就したことがわかりました。人間が自分の内に持ってしまっている罪を神の僕が人間に代わって神に対して償うという預言です。神聖な神の目に適う僕が人間が受けるべき神罰を自ら引き受けて人間が受けないで済むようにするという預言です。罪に傷つき心が病んでしまった人間の癒しはそこから始まるのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命が実在することがこの世に示され、その命に至る道が人間に開かれたのです。

 

 そこで今度は人間の方が神のこれらの取り計らいを自分事として受けとめてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされます。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を歩むことになります。その行き先は永遠の命が待つ復活の日です。その日が来たら眠りから目覚めさせられてイエス様と同じように復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられるのです。

 

 ロバに乗ってのイエス様のエルサレム入城は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした表面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあることが明らかになりました。罪と死の支配からの解放、造り主である神との結びつきの回復、そして死を超える永遠の命を持って生きること、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。

 

4.勧めと励まし

 

 終わりに本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所が、イエス様を救い主と信じる私たちキリスト信仰者の心構えについて教えているので見ておきます。この個所は一読するとイエス様が処刑される前に暴行を受けたことを預言しているとわかります。イエス様は人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持ってこの世と次に来る世の両方を生きられるようにしてあげようとしている。それなのに神の真の意図をわからない者たちはイエス様を危険な者として迫害する。イエス様は迫害の最中でも神の意思に従っている、それで自分には何もやましいことはないとわかっている、自分は神の側に立っているとわかっているので何も怖くはありません。暴行されたら痛いし辛いが、神を裁判官にした裁判において自分は潔白そのものである、そういう内容です。神を裁判官にした裁判ということは8節と9節で言われます。

 

 8節「私の潔白を証明する方はすぐそこにおられる。」

神がイエス様を死から復活させたので、イエス様は罪と死を滅ぼした神の子であることが明らかになります。それでイエス様の潔白は人々の前で証明されます。

 

 「誰が私を訴えるのか?一緒に立とうではないか!」

日本語訳では、私の協力者と一緒に立つという訳し方ですが、正確には、協力者ではなくて、訴える者のことです。それで、よしわかった上等だ、一緒に法廷に立とうではないか、というのです。法廷とは神を裁判官とする法廷です。同じ趣旨で続きます。

 

 「誰が私に対して訴えを起こすのか?私の前に出てこい。」

そこは訴えを起こす者に対してひるまない姿勢を一貫して言っているのです。

 

 9節「見よ、主なる神は私を助けて下さる。見よ、私を訴える者はみな着古された衣のように擦り切れて朽ち果てて、虫に食いつくされてしまう。」

 

 「主なる神は私を助けて下さる」は7節にもあります。神が助けて下さるから私は迫害を受けても動揺しないし恥にも感じないというのです。4節から9節まで「主なる神は」という言い方が4回出てきます。「主なる神は、弟子の舌を私に与えた」、「主なる神は、私の耳を開かれた」、「主なる神は、私を私を助けて下さる」、「主なる神は、私を助けて下さる」。みな、「アドナーイ(主よ)、ヤハヴェ」で始まります。「ヤハヴェ」は神聖な名前なので口にしてはいけないので「アドナーイ」に言い換えます。「アドナーイ、アドナーイ」と、神が本当にすぐそばにいて味方になって下さることを確信している様子がうかがえます。

 

 この確信は私たちキリスト信仰者も持てます。今の日本では、さすがに暴力に訴えてまで信仰を捨てさせることはありませんが、キリスト信仰に対する誤解や中傷はあると思います。しかし、十字架と復活の主を救い主と信じる以上、神の裁判では潔白です。なので、何も動揺せず何も恥ともせずに、フィリピ2章にある心構え、へりくだって他の人を自分より優れた者とし、自分の利害を脇において他人の利益を考える、またローマ12章にある心構え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、悪に対して悪で報いず善で報いる、敵が飢え乾いていたら食べさせ飲ませる、これらを淡々と続けていけばいいわけです。

 

 ところで、非難や中傷は人から来ず、信仰者の心の中で責める声がする時があります。お前には罪がある、神の前で潔白でなんかあり得ないと。悪魔の声です。悪魔のことをサタンと言いますが、そのヘブライ語の意味は告発する者、責める者という意味です。しかし、この場合も心配はいりません。確かに私の内には神の意思に反する罪がある。しかし、それはイエス様が神に対して償って下さったのだ、それで私は神から罪を赦された者として見てもらっているのだ、これを思い出せばいいのです。神がイエス様を通して私に与えて下さった罪の赦しのお恵みを私は手放さない、と悪魔に言い返せばいいのです。私は罪の赦しのお恵みを神から、どうぞ、と差し出されて、それをありがとうございます、と受け取って携えて生きている、それで神は私を潔白な者と見なして下さる。だから、私は潔白なのだ。悪魔よ、お前の方こそ、イザヤ書509節にある虫に食いつくされてしまう古着なのだ(虫に食いつくされてしまう古着は519節にも出てきます)、そう言ってやればよいのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注1 ギリシャ語のモルフェが日本語訳で「身分」と訳されていますが、基本的意味は「形」とか「形態」です。身分や立場とは違う意味です。フィンランド語の聖書は「形」と訳しています。また、 ギリシャ語のドゥロスが日本語訳で「僕」と訳されています、基本的意味は「召使い」の他に「奴隷」の意味もあります。フィンランド語の聖書は「奴隷」と訳しています。

2026年3月23日月曜日

イエス様の奇跡の業の本当の意味 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2026年3月22日(四旬節第五主日)スオミ教会

 

エゼキエル書37章1-14節

ローマの信徒への手紙8章6-11節

ヨハネによる福音書11章1-45節

 

説教題 「イエス様の奇跡の業の本当の意味」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。これを読んだ人は、ああ、イエス様は何と愛に満ちたお方なんだろう、悲しみにくれる姉妹を助けるために死んだ兄を生き返らせて下さったのだから、と思うでしょう。死んだ人を生き返らせる位の強い愛を示されたのだ、と。しかし、これを自分に当てはめて考えたら同じことが言えるでしょうか?イエス様は、もし私の愛する肉親が亡くなって悲しみに打ちひしがれた時、祈ってお願いしたら生き返らせてくれるのだろうか?もし、生き返らなかったら、イエス様は私のことをラザロやマルタやマリアよりも愛していないということなのだろうか?だから生き返らせてくれないのか?

 

 このような疑問は、一見筋が通った疑問に聞こえますが、実は筋違いです。イエス様がラザロの病気のことを「神の栄光のため」と言ったことに注目しましょう。普通それは、イエス様がラザロを生き返らせたことが神の栄光の現れと思われます。ところがそれはまだまだ浅い理解です。本当はもっと深い意味があります。ラザロの生き返らせの奇跡と神の栄光の深い本当の意味を理解しなければなりません。本日の説教でそれを明らかにしてまいります。

 

2.キリスト信仰の復活について

 

深い本当の理解に入る前に予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を具体的に記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ71117節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、ほとんどの人は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られた創造主の神、私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた生ける神であるというのがキリスト信仰です。

 

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。

 

 復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話に聞こえますが、聖書の観点とはそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活は眠りから目覚めることと同じと見ているからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。

 

 そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。それと当時の日数の数え方は最初の日も入れて数えるので、今ふうに言えば3日です。イエス様が3日後に復活したというのも今ふうに言えば2日後です。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったのです。そして今は、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。

 

3.イエス様の奇跡の業の本当の意味

 

それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の本当の深い理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみます。

 

 イエス様を前にしてマルタは開口一番、こう言いました。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはそれを打ち消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して疑っていません、ということです。これは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と暗に言っているのです。つまり、マルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。

 

 それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」とは言いませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉から明らかです。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタはハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく将来の「復活」のことを言われる、ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせてはくれないのだ、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることは疑っていません。ただ、それは遠い将来のことです。「生き返り」ならば、今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。

 

 そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味します。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。

 

 それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえこの世から別れても復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けます。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を信じて洗礼を受けると永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになります。イエス様を信じて生きると神に守られ導かれながらその道を歩みます。そして、復活の日が来たら永遠の命を持って生きることになります。それで永遠に死なないのです。

 

 それでは「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、イエス様が復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方だと信じることです。イエス様がそういう方であることは、彼の十字架と復活の業を通してはっきりします。彼の十字架の死は私たち人間が内に持ってしまっている罪を私たちに代わって神に償うための死でした。彼の死からの復活は、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて私たちにそれを歩ませるための復活でした。イエス様を復活と永遠の命を与えることが出来るお方だと信じて安心が得られればそれでもう信じているのです。

 

 イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?

 

 これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と関連付けて述べました。「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだという理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にあったのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。

 

 マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。ギリシャ語の現在完了のマルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟って信じるようになりました、ではないのです(その場合はアオリストのエピステウサになります)。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。

 

 このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている、もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかってはいた、しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。

 

 ところが、イエス様との対話を通して復活と永遠の命の希望がマルタに戻ったのです。イエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは簡単には消えませんが、一度こういうプロセスを経ると希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まって生きるだけです。

 

 ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではありません。それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまった、それを確認させられて強めてもらったのでした。そうなれば将来の復活は少なくとも心の中では実現してしまったのも同然です。兄ラザロとの再会が現実味を帯びた瞬間です。イエス様を救い主と信じて罪の赦しの恵みに留まって生きるキリスト信仰者についても同じです。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者にとって復活はもう半分以上実現しているのです。

 

 イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼にすれば死など復活の日までの眠りにすぎないことと、彼こそ復活の目覚めをさせる力があること、この2つを人々に前触れ的にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声が私にも聞こえて私も起こされるんだ、と誰もが予見したでしょう。

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!これで、イエス様がラザロの病気は神の栄光のためと言った意味がわかったでしょう。神の栄光とは、ラザロを生き返らせたことよりももっと大きなことを意味したのです。まず、悲しみにくれるマルタとの対話を通して、失われかけていた復活の信仰を確認させて強くしてあげました。そして、生き返らせの奇跡の業を通して、イエス様を信じる者にとってはこの世からの死は眠りにすぎず、その眠りから目覚めさせる力はイエス様が持っていることを人々に具体的にわからせました。これが神の栄光です。このことは、当時の人々だけでなく、全ての時代のイエス様を信じる人々に当てはまりませう。もちろん、私たちにもです。もし、私たちの復活の信仰が揺らぐようなことがあれば、イエス様はマルタにしてあげたように私たちの信仰を確認させて強くして下さいます。マルタの場合はイエス様との対話を通してでしたが、私たちの場合はイエス・キリストについて証言している聖書の御言葉を通してです。以上が神の栄光の全容です。

 

3.勧めと励まし

 

最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つは、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書は皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。私たちに死を超える復活と永遠の命を与えることができる途轍もない方は、このように私たちに共感を覚えて下さる方なのです。

 

 もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている所に行くのは危険ですと押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。

「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」

 

 分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある、それが危険とどう関係するか考えてみなさい、太陽が照る日中は明るいから転んだりぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、君たちが私というこの世の光を目で見て、私も君たちの中にいると言えるくらいに私に結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。もちろん、私たちは当時の弟子たちと違ってイエス様を肉眼の目で見ることはできません。それでも、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を心の目で見れれば、イエス様というこの世の光を持てることになり、神の守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになって危険に晒されてゴールに到達できないのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年3月20日金曜日

聖霊は心の中で湧き出る泉の如く(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2026年3月8日 四旬節第三主日

 

出エジプト記17章1-7節

ローマによる福音書5章1-11節

ヨハネによる福音書4章5-42節

 

説教題 「聖霊は心の中で湧き出る泉の如く」

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

 本日の福音書の日課は「サマリアの女」の話です。福音書の中でよく知られる話の一つです。イエス様と女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、水は飲んだ人の中で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われます。永遠に喉が渇くことはない、とか、人の中に泉が湧き出てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何のたとえでしょうか?

 

本日の個所にはもう一つたとえがあります。刈り入れをする人と種をまく人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて麦畑が黄金色なのを見なさい、と言いました。弟子たちは刈り入れをする人で、別の者が労苦した結果を刈り入れて、労苦を分かち合うなどと言います。

 

これらのたとえは具体的な何かを指しています。それを「生きた水」とか「別の者の労苦」にたとえて言っているのですが、その具体的なものとは一体何でしょうか?イエス様のたとえの教えは、字面を追って一瞬わかったような感じにはなりますが、では、それらは何を指していますかと聞かれたら、はた、と困ってしまうことが多いです。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」が何を指すか明らかにします。それがわかって、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなります。

 

2.刈り入れをする人、種を播く人、他の者たちの労苦

 

まず、本日の出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行はユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる地域でした。それが、紀元前8世紀に東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連行され、逆に東から異民族がサマリア地方に強制移住させられて来ました。それで同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいました。住民は旧約聖書の一部は用いていましたが、サマリア人の女性が言うようにエルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族は自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負していました。それでサマリア人を見下して交流を避けていたのです。そのことはサマリア人の女性の発言からもよく伺えます。

 

イエス様一行はサマリア地方のシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統では(創世記4822節、ヨシュア記2432節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と信じていました。

 

さて、弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、イエス様は井戸のそばで座って待っていました。そこへサマリア人の女性が水を汲みにやって来ました。時刻は正午ごろでした。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのようにやってきたのです。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は驚いて、なぜサマリア人を忌み嫌うユダヤ人が自分に水を求めるのか、と聞き返します。そこから二人の対話が始まります。やりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来ると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水と考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、お前には5人の夫が入れ代わり立ち代わりいた。そして今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解だ、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

 

女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。女性は町の人々にイエス様のことを知らせに走り去りました。人目を避ける境遇にあることを忘れてしまいました。それほど人々に知らせないではいられなかったのです。

 

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに弟子たちが食べ物を買って戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

 

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」と言ったことに注目します。イエス様の言葉はこうでした。「あなたがたは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35節)」。これは少し変ですね。刈り入れまで4カ月あると言っておきながら、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?

 

イエス様が目を上げて見よと言ったのは実は、畑のことではなかったのです。イエス様は何かを黄金色の畑にたとえているのです。それは何か?イエス様は、目を上げて見なさい、と言いました。そこで今いる場所よりも高い所にあるシカルの町を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るではありませんか!サマリア人の女性が、預言者なのかメシアなのか、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たのです。これは、将来起こることを先取りしています。つまり、イエス様が天に上げられた後で使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出ることです。最初は目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる。後には目撃者の証言が記録された聖書を通して信じるようになる。どちらの場合でも、イエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ実にたとえられているのです。

 

イエス様は、自分の食べ物とは神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることだと言われます。これは、神のひとり子が十字架の死をもって人間の罪を神に償い、さらには死から復活することで死と罪を滅ぼして人間を罪の支配下から解放することを意味します。この使命を果たすことは、人間にとって食べ物が大事なのと同じように自分にとって大事なことなのだとイエス様は言うのです。

 

 それから、刈り入れ人と種まき人について話すところで「別の者たちの労苦」が出てきます。「別の者たち」と複数形になっています。つまり労苦とは、み子イエス様と父なる神が人間の罪の償いを成し遂げることを意味します。父とみ子の労苦です。それを目撃した弟子たちは、迫害にも屈せず命がけで証言し記録に残して伝えました。そのおかげで、多くの人たちが父とみ子の労苦の結晶である「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るようになりました。こうして救いを受け取った人たちは豊かに実る実になり、救いを伝えた弟子たちは実を集め刈り取る者であり、救いは父と子の労苦なのです。

 

3.生きた水 聖霊

 

それでは、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと聞くと、水が動物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語・スウェーデン語のものですが(後注1)、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている水」というのは、飲む人に今の世の命を超えて次に到来する世の命に与らせる水ということで、文字通り「永遠の命を与える水」です。

 

 この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉になって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。そもそも泉とは、地下水が地表に湧き出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まると池になりますが、それは泉ではありません。掘らないでも自然のまま地下から水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、溢れ出る水は小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を飲むと、そのような水が絶えず湧き出る泉が飲んだ人の内に生じて、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。でも、具体的にはどういうことでしょうか?イエス様の与える水が飲んだ人の中でこんこん湧き出る泉になって、そこから溢れ出る水が死を超えた永遠の命へと導いていく。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

 

この問いの答えがヨハネ7章にあります。イエス様が仮庵祭りの時にエルサレムにて群衆に向かって述べた言葉です。

 

「『渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしているについて言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、がまだ降っていなかったからである。」(3739節)

 

ここで言われているとは神の霊、聖霊のことです。イエス様は私たち人間の罪を神に対して償うために十字架にかけられて死なれ、三日後に死から復活されて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。これが神の栄光を受けることです。その後でイエス様が天の父のもとに上げられる出来事があり、それに続いて聖霊がこの世に降るという出来事が起こります。イエス様が「渇いている人は私のところに来て飲みなさい」と言うのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると聖霊が注がれることを意味したのです。聖霊が注がれた人は、その内に「生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。このようにイエス様が与える水とは実に、十字架と復活の出来事の後でこの世に下って来る聖霊のことなのです。

 

それでは、聖霊を注がれると人の内に泉が湧き出て、溢れ出た水が尽きることなく永遠の命に向かって流れていくというのはどういうことでしょうか?

 

人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれることで神との結びつきを持って生きるようになります。ところが、この世にいる間はまだ肉を纏った状態が続きます。それで、キリスト信仰者の内に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。信仰者の中に内的な戦いが始まります。使徒パウロも認めているように「他人のものを妬んだり欲したりしてはいけない」と十戒の中で命じられて、それが神の意思だとわかっているのに、そうしてしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまう。心の奥底まで100%神の意思に沿えることが出来ない自分に気づかされてしまうと。それではどうしたらよいのか?心の奥底まで100%沿えるようにしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていない自分に気づいてしまうのです。どうしたらよいのでしょうか?

 

まさにここで洗礼の時に注がれた聖霊の出番が来るのです。聖霊が私たちの心の目を向けるべきところを示してくれます。ゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様が向けられるべきところです。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、神はお前の罪を赦して下さったのだ。お前はそのことを信じたからイエスはお前の救い主になったのではなかったのか?

 

こうして聖霊の働きで心の目を開けてもらった信仰者は、神の大いなる憐れみと愛の中で生かされていることを思い起こし、神の意思に沿うように生きようと心を新たにします。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そうと。このようにキリスト信仰者は、聖霊のおかげで、絶えず神との結びつきを保つことができ、順境にあっても逆境にあっても神から常に同じ守りと良い導きを得てこの世を歩みます。万が一この世を去ることになっても、神との結びつきを持って去ることができ、復活の日が来ると復活させられて神のみ許に永遠に迎え入れられるのです。

 

4.勧めと励まし

 

本日の使徒書の日課ローマ5章を見ると、パウロは、イエス様を救い主と信じる信仰によって人は神の目に義なる者とされ、その人は神との間に平和があると言います(1節)。人間は、イエス様の十字架の業がなされる以前は実に神と戦争状態にあったのです。神との平和な関係は、神からお恵みとして与えられました。なぜなら、神はひとり子を本当に無償の贈りものとして私たちに与えて下さったからです。だから、罪の赦しは恵みなのです。パウロは言います、私たちは神のお恵みの中で立っていられるのであり、それを誇りとしている、と(2節、後注2)。さらに、神との平和な関係をお恵みとして頂いている限り、私たちに降りかかる試練は誇りに思うことができるとまで言います(3節)。どうしてそこまで言えるのか?理由は、一度神との平和な関係に入ったら、試練は忍耐をもたらすものになり、忍耐は鍛えられた心をもたらし、鍛えられた心は希望をもたらすようになるからだ、と言います(34節)。このように神との平和な関係に入ってしまうと、試練が希望に転化してしまうのです。(新共同訳で「練達」と訳してある言葉δοχιμηは私の辞書では「思いが鍛えられたこと、揺るがないこと、自信」などとあります。)

 

ここでパウロが言う希望とは、復活の日に神の栄光に与れるという希望です(2節)。人間が持てる希望の中で究極の希望です。パウロは、この希望は裏切られることがない、必ず成就する希望であると言います(5節)。なぜなら、「洗礼の時に注がれた聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれるからだ」と言います(5節)。この御言葉は真理です。先ほども申しましたように、私たちが罪の自覚のために神が遠ざかってしまったと感じる時、聖霊は私たちの心の目をイエス様の十字架に向けさせ、神は遠ざかってなどいない、神のあなたに対する愛は一寸も変わらないと示してくれます。神が遠ざかったと感じるのは罪の自覚の時だけではありません。私たちが直面する試練、苦難や困難の時にもそうなります。神は私を見捨てたとか私に背を向けたとか思ってしまいます。しかし、聖霊は神の愛が何も変わっていないことを示してくれて、パウロが言うように、試練を希望に転化してくれるのです。

 

兄弟姉妹の皆さん、神と平和な関係にあり、聖霊を注がれた私たちキリスト信仰者は、このように試練があればあるほど究極の希望が強まっていくという循環の中にいるのです。このことをもっと自覚しましょう。人によっては、究極の希望が復活の栄光に与れる希望だなんて、そんなのはこの世離れしていてこの世の試練の解決に何の役にも立たない、と言う人がいるかもしれません。しかし、もし希望がこの世に関するものだけだったら、そんな希望はいつかは潰えてしまう儚いものです。復活の希望はこの世離れしているからこそ潰えません。まさに究極の希望です。そのような希望があって、それが強められるからこそ、この世の試練を乗り越えられるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

後注1Heikel, I. & Friedrichsen, A. “Grekisk-svensk ordbok till Nya testamentet och de apostoliska fäderna”

(後注2、ギリシャ語分かる人にです)ローマ52節の「誇る」ものは何か?復活の日に神の栄光に与れる希望を誇るのか?以前は私もそう取っていましたが、今回は「このお恵み」την χαριν ταυτηνを「誇る」ものと取りました。というのは、5111節だけ見ても、パウロは動詞「誇る」の目的語に付ける前置詞をενにする傾向があるからです(3節、11節)。それでは、επ’ ελπιδι της δοξης του θεουはどうするかと言うと、「誇る」際の付帯状況と取ったらどうかと。

大体、以下のような感じになります。

δι΄ ου και την προσαγωγην εσχηκαμεν τη πιστει εις την χαριν ταυτην 

イエス・キリストを通して我々は信仰によりこのお恵み(=イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされたこと)に入る地位をも得ている

εν η εστηκαμεν και καχωμεθα επ΄ελπιδι της δοξης του θεου.

このお恵みの中に我々は立っているのであり、それを誇りにしている、復活の日に神の栄光に与れるという希望にあって

ου μονον δε,

誇りにしているのはこのお恵みだけではない、

αλλα και καυχωμεθα εν ταις θλιψεσιν,

我々は試練をも誇りにするのである。