2021年3月22日月曜日

十戒が血と肉になるとき (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年3月21日 四旬節第五主日

 

エレミア書31章31-34節

ヘブライの信徒への手紙5章5-10節

ヨハネによる福音書12章20-33節

 

説教題 「十戒が血と肉になるとき」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

 ここ数週間の礼拝説教で十戒について教えることが多かったと思います。特にキリスト信仰者にとって十戒とは何か、それにどう向き合うかということが大きな問題としてありました。本日の旧約の日課エレミア書31章の個所も、キリスト信仰者にとって十戒とは何かということを教えています。今日もこの問題について本日の聖書の日課をもとにして深めていきたいと思います。キリスト信仰者にとって十戒とは何か?それにどう向き合うか?

 

 まず十戒について少し復習しておきましょう。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。大きく分けて二つの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名を引き合いに出して誤った誓いを立ててはいけない、また神の名を不正や偽りにかこつけて唱えてはならない、神聖な名を汚してはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

 

 第4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。第910の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

 

 十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。ところがイエス様はもっと深いところ、すなわち十戒を与えた神の本当の意図について教えました。有名な山上の説教のところです。たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪であると(マタイ52122節)。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ52730節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思っただけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。天地創造の神は人間に内面の潔白性までも求めているのです。全ての掟がそのようなものならば、十戒を完全に守ることができるのは誰もいなくなります。このことは使徒パウロも深刻に受け止めました。ローマ7章です。十戒の掟があることで自分にはそれに反するものがあると気づかされると言うのです。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は守れない自分を気づかせるという、人間の真実の姿を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。

 

 さらにイエス様は、十戒の土台にあるものについても教えました。マルコ122831節です。神と人間の関係を律する最初の3つの掟について、その趣旨は神を全身全霊で愛することであると教えました。それで3つの掟はこの趣旨に従って理解し守らなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することであると教えました。それで7つの掟についてもその趣旨に従って理解し守らなければならなくなりました。このような土台があるために宗教改革のルターは第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入るのだと教えたのです。さらにイエス様は、神への愛の掟と隣人愛の掟の関係についても教えました。彼によれば、神への愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えたのです。

 

 以上、人間は十戒を守り切れない。心の中まで問われたらとても難しい。しかも、守ることが神への愛、隣人への愛に基づいていなければならない。さらに隣人への愛は神への愛に基づいていなければならない。イエス様はそう教えられました。少しこんがらがってきましたが、どうやらそういう愛を持てないと十戒は守れない、守ったつもりが守ったことにはなっていない、そんな愛があるというのです。それはどんな愛なのでしょうか?どうしたらそんな愛を持てるのでしょうか?エレミア31章の神の言葉は実は、そのような愛を持てる日が来ることを言っています。まず、その御言葉を見てみましょう。

 

2.      神は十戒を人間の体の外側でなく内側に授け、心に書き記す

 

 エレミア31章の神の言葉は、神がイスラエルの民と新しい契約を結ぶ時が来ると言っているところです。新しい契約の前に古い契約がありました。それは、出エジプトの時に神と民の間に結ばれた契約でした。「契約」と言うと、賃貸契約、売買契約のような取引関係を思い起こさせますが、そうではありません。ヘブライ語の単語ブリートは「同盟」の意味があります。それで聖書で「契約」という言葉が出てきたら、神と人間の「同盟関係」とか「契り」というふうに考えます。神は、イスラエルの民を世界の諸民族の中から選んで自分の民とすると宣言しました(申命記767節)。つまり、万物の創造主である神から守りと導きと祝福を受けられる民になれるということです。相手は万物の創造主ですから、これほど名誉なことはありません。それにしても、なぜイスラエルの民がこんな破格な扱いを受けられたかと言うと、それは民が偉大で優秀だったからではありませんでした。ただ単に神の一方的な思い、つまり民を憐れんで愛したからでした(申命記78節)。

 

 ただし、イスラエルの民が天地創造の神の守りや導きや祝福を受けられる「神の民」でいられるために、民の側にもしなければならないことがありました。それが十戒の掟でした。旧約聖書の初めのモーセ五書を繙くと、神が与えた掟は十戒の他にもそれから派生して無数の掟があります。特に将来建てられる神殿での礼拝に関する規定は沢山あります。これらの掟を称して律法と言います。十戒はその中心です。

 

 さて、イスラエルの民は約束の地カナンに移住し、敵対する民族の攻撃をはねのけながら、その地に根付いていきます。紀元前11世紀半ばに王制に始め、サウル、ダビデ、ソロモンという王を輩出しました。しかしながら、その後は王国は南北に分裂し、民の心や生き方は神や律法から離れていきます。これははっきり契約違反でした。神は預言者を遣わして民が神のもとに立ち返るよう警告しますが効果はなく、民は神の祝福を失い、まず北王国が紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、残る南王国も紀元前587年にバビロン帝国によって滅ぼされてしまいます。

 

 本日のエレミア31章の神の言葉は南王国が滅亡する直前に語られたものです。古い契約は民が律法を破り続けて神のもとに立ち返ろうとしなかったため民の方から破棄されてしまった。それで、国が亡びるのは当然のことでした。しかし、ここで注目すべきことは、神はかつて自分の一方的な思いでイスラエルの民を選んだ、その思いを捨てないのです。イスラエルの民を見限って別に掟を守れそうな民族を選ぶということはしない。そもそも、どの民族をとっても結果は同じでしょう。しかし、神は今度はイスラエルの民が律法を守れるような民族にしてあげよう、自分の力で守れないのなら、こっちで守れるような者に変容させてあげよう、と言うのです。それが新しい契約ということでした。この新しい契約は実は、イスラエルの民という一民族を超えた世界の全ての民族にとっても重要な意味を持つものになりました。神はそれをイスラエルの民を通して世界中の諸民族に及ぼそうとされたのです。

 

 新しい契約とは何か?それは、「わたしの律法を胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」というものでした。新共同訳では「胸の中」ですが、ヘブライ語の単語ケレヴを辞書で見るとthe inward part of bodyなので胸だけでなく体の内面的な部分全体です。律法を人間の外側部分にではなく内側部分に授ける、心にそれを書き記すというのです。古い契約の時は律法は内側部分ではなく外側部分に授けられ、書き記されたのは石の板でした。人間はそれを読んだり聞いたりして守ろうとしたのですが、それが今度は律法が人間に内面化して、内側から守るようになるというのです。ここで「律法」という言葉についてひと言。これはヘブライ語のトーラーでモーセ五書の掟集全部を指すこともあります。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事が起きた後、そしてエルサレムの神殿が消滅した後は、十戒に絞って考えるのが妥当です。

 

 さて、十戒が人間に内面化するというのは、それがあたかも血と肉と化すということです。十戒は人間に対する神の意思ですから、神の意思そのものが内面化して血と肉と化すると言うのです。本当にそんなことが起きれば、人間は無理して掟を守ろうと苦労することはなくなります。血と肉と化しているのだから、自然に守れるようになります。新しい契約ではそういうふうになると言うのです。その証拠に、隣人同士、兄弟同士が「主を知れ」と言って教え合うことはなくなると言います。もう神の意思が自然にわかるし、それに従って生きることも自然に出来るようになります。人間をそのようなものに変容させる契約とはどんな契約なのでしょうか?そのような契約を結ぶ日が来ると言っていますが、それはいつなのでしょうか?

 

 エレミア313334節をもう少し詳しく見てみます。神が十戒を人々の心に書き記し、それで人々は神の民となり神はその人たちの神となる。その時、人々はお互いに「主を知れ」と教え合う必要がなくなる。人々がそこまで神のことを知ることが出来るようになるのは、神が十戒を人の心に書き記したからです。以前は、石の板に書き記したものを読ませて守るように命じたけれども、結局は守れませんでした。それを今度こそは守れるようにと心に書き記すのです。十戒を自然に守れるように心に書き記すということは本当に起こったのでしょうか?それが起こることを示す神の言葉があります。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」人間が神の意思に反する罪を持ったり行ったりしても、神がそれを赦して不問にすると言うのです。神の罪の赦しと十戒の内面化が関連しあっていることが見えてきます。両者を結びつけたのがイエス様でした。どのように結びつけたのか、それをイエス様の本日の福音書の言葉をもとに見ていきましょう。

 

3.十戒の血肉化はイエス様の十字架と復活から始まった

 

ギリシャ人が自分に会いたがっていると聞いたイエス様は、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言いました。さらに「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」と言いました。ここでイエス様は「死ぬ」ということを言います。32節では「私が地上から上げられる時」と言います。これは言うまでもなく、イエス様が十字架にかけられて地上から上げられることを意味します。神の栄光を現わす時が来たと言って、それは自分が十字架にかけられて死ぬ時に起きると言うのです。これはどういうことでしょうか?

 

イエス様がゴルゴタの十字架で死を遂げたというのは、人間の罪から来る神罰を私たちの代わりに受けられたということでした。つまり、人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。まさに人間が神罰を受けないで済むようにするための犠牲の生贄になったのです。イエス様は全人類の罪を十字架の上にまで運び上げて罰を受けたので罪はイエス様と抱き合わせの形で滅ぼされました。それで罪の人間を支配下に置こうとする力は無にされました。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられました。それによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。

 

そこで人間がこれらのことは本当に起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いと罪の支配からの贖いがその人にその通りになります。その人は神から罪を赦された者と見てもらえ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待っている神の御国に迎え入れられるようになります。31節でイエス様が「この世の支配者が追放される」と言いますが、「この世の支配者」とは目に見える具体的な権力者ではなく、目に見えない霊的な支配者、悪魔のことです。人間が神との結びつきを持てなくなるようにしようとする者です。その一番大事な道具である罪が役立たずになってしまいました。悪魔としては歯ぎしりするしかありません。

 

キリスト信仰者は洗礼を通してイエス様のおかげの罪の償いと罪からの贖いを自分のものにした者ではありますが、そうは言っても、罪すなわち神の意思に反することを行ったり言葉に出したり心で思ってしまう可能性は残ります。そうなってしまったら、どうなるのか?イエス様の犠牲を台無しにしてしまったのでまた罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?そうではないということをここ数週間毎回述べてきました。そのような時、その人はすぐ我に返って父なるみ神に「私の身代わりとなって死なれたイエス様は真に私の救い主です。彼の神聖な犠牲に免じて私を赦して下さい」と願い祈れば、神はイエス様の犠牲に免じて本当に赦して下さるのです。それくらいにイエス様の犠牲は完全なものです。その人はまた復活と永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻ることができ、それを進み続けることが出来ます。このようにキリスト信仰者は罪にはまることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いに戻ってそこに留まる限り、神は罪を赦しそれを不問にして下さいます。まさにエレミア3134節で神が罪を赦す、思い返さないと言っている通りのことが起こるのです。

 

このようにイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを持つキリスト信仰者は、パウロがガラテア327節で言うように、イエス様を罪の汚れのない純白な衣のように着せられた者です。神聖な神は罪を忌み嫌い、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、信仰者がこの衣を手放さないでしっかり纏っているのを見て義とされるのです。キリストを着せられる前は、自分には罪があるから神に相応しくないということでした。ところが着せられた今は、イエス様のおかげで神に相応しい者に変えてもらいました。それで、罪は自分には相応しくないという自覚が生じて罪を足蹴にします。

 

キリスト信仰者がイエス様という衣を手放さないでしっかり纏うというのは罪の告白と罪の赦しにしっかり留まるということです。キリスト信仰者は十戒を持っており、しかもイエス様が教えた神の意図も知っています。それで、それらに照らせば自分には神の意思に反するものがあるとすぐ気づきます。その時は罪の告白をして罪の赦しを頂きます。それで、自分にはこんな罪があるのにイエス様のおかげで神に受け入れられていることに再び感謝します。その時、罪は自分に相応しくないという自覚が戻り、罪を足蹴にします。しかし、一時するとまた自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで罪の告白をし赦しを受ける。そして神に受け入れられていることがわかり罪を足蹴にする。罪の告白と罪の赦しを繰り返せば繰り返すほど、罪を圧し潰していくことになります。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これが、十戒が心に書き記されて血と肉になった者の生き方です!人によっては、罪を告白するんだったら十戒を守っていないことじゃないかと言うかもしれません。しかし、罪を足蹴にし圧し潰していくのは、十戒が血と肉になっているからです。十戒を内側から守っているのです。

 

そもそもキリスト信仰者が被せられているイエス様というのは十戒が完全に実現されている方でした。信仰者は罪の自覚、神への告白と赦し、これを繰り返すことで自分を着せられている衣に合わせていくのです。これがイエス様が25節で言う、「この世で自分の命を憎む」生き方です。自分の命を憎むなどと言うと自己否定に聞こえますが、そうではありません。この世で目や心を引き付けるものに自分を合わせていかないで、イエス様の衣に自分を合わせていくのです。否定するのはこの世と結びついた自分です。神と結びつきを持ちイエス様という衣を纏っている人はそれが自己になっています。自己否定などありません。罪の告白と罪の赦しを繰り返せば繰り返すほど、罪の償いと罪からの贖いを自分の内に最大化していくことになります。そのような生き方がイエス様が26節で言う、彼に仕える生き方なのです。

 

私たちの造り主である父なるみ神は、私たちの側で何か顧みてもらえるようなすごいことをしたわけではないのに、父の方から一方的にひとり子を私たちに贈られて罪の償いと罪からの贖いを果たして下さいました。このことのゆえに私たちは神のこの一方的な愛に心を動かされて神を愛するようになります。また神が私たちにしたように私たちも隣人に対して一方的に善いことをしよう、赦しを与えようという心を持てるようになるのです。この愛があるおかげで、十戒を愛以外の動機や目的に基づかせて守ろうとすることがなくなっていきます。愛に基づかせて守ろうします。その時、十戒は間違いなく心に書き記されて血と肉になっています。

 

4.一粒の麦、地に落ちて死ななば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし

 

最後に、本日の福音書の個所でギリシャ人がイエス様に会いたがったことがありました。このことについてひと言述べておきましょう。当時地中海世界の東側はギリシャ語が公用語になっていました。いろんな民族の人がギリシャ語を話していたので、彼らをひっくるめて「ギリシャ人」と呼んでいました。そうした諸民族の中からユダヤ教に改宗する人たちも大勢出ました。なにしろ、多神教が主流の世界で唯一の神を崇拝するというのは斬新なことでした。しかも、人間はこの唯一の神に造られ、胎内にいる時から見守られている、などと言うのです。当時の地中海世界というのは、生まれてくる子供を大人の都合で間引きすることが普通だったところでしたから、このような生命感は革命的なことでした。こうしたことのために人々は聖書の神にひきつけられたのです。イエス様に会いたいと言ってきたギリシャ人は過越祭を祝うためにエルサレムに来ていたので改宗者だったのでしょう。彼らは旧約聖書を知っているのでメシアの到来も信じていました。イエス様のことを聞いて、もしかしたらこの人かもしれないという予感がしたのでしょう。

 

さて、十字架と復活の出来事の後、あの方こそ旧約聖書に預言されていたメシアだったという知らせが使徒たちの伝道の働きを通して地中海世界に瞬く間のうちに広まりました。あの時、ギリシャ人が会いたいと言っているのを聞いたイエス様は、これから果たすことになる罪の償いと罪からの贖いの業がユダヤ民族の境界を越えて拡がっていくのは間違いないと確信したのでした。そして、それは彼の十字架と復活の出来事の後でその通りになりました。まさに一粒の麦が死んで多くの実を結ぶということが起こったのでした。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2021年3月15日月曜日

心の目でゴルゴタの十字架を見つめる時、死を超えた永遠の命に向かって進むことができる (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年3月14日 四旬節第四主日

 

民数記21章4-9節

エフェソの信徒への手紙2章1-10節

ヨハネによる福音書3章14-21節

 

説教題

「心の目でゴルゴタの十字架を見つめる時、死を超えた永遠の命に向かって進むことができる」 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに 

 

 東日本大震災から10年が経ちました。死者・行方不明者合わせて22千人の大惨事でした。避難生活を送られている方も未だ4万人を超えるそうです。心に深い傷を負いながらも前に進んでいる人たちもいれば、なかなか進めない人たちもおられます。それなので、被災された方たちがみな前に進めるように必要な支援を受けられ力を得ることができるように、後ほどみんなで一緒に祈る時に父なるみ神に祈り願いしましょう。

 

 東日本大震災はまた地震と津波の災害の他に原発や放射能汚染の問題もあります。この問題は、この日本でどのように生きていくかという問いを被災したかどうかにかかわらず全ての人に突き付けています。

 

 そこで本日の礼拝の説教ですが、私たちは一時の間、この世界のことから身を引いて聖書にある神の御言葉に耳を傾けて父なるみ神は私たちに何を求めているのか、それに対して私たちはどう応えていくのかということを明らかにしていきたいと思います。明らかになったことを心に留めて、また明日から始まる平日の日常に戻って、私たちを取り巻く世界のいろんな問いかけに向き合いながら、自分自身の課題に取り組んでいきたいと思います。

 

 そういうわけで本日の説教は、本日の福音書の箇所、ヨハネ福音書31421節にあるイエス様の言葉を中心に解き明かしをしていきます。この個所は実は本日の旧約の日課、民数記2149節と使徒書の日課、エフェソ2110節とも密接に結びついています。これら3つの聖句を互いに突きあわせることで、ヨハネ福音書のイエス様の言葉の意味がよくわかってきます。どんなことがわかってくるかと言うと、イエス様がかけられたゴルゴタの十字架を心の目で見つめることが出来るかどうか、このことが死を超えた命、永遠の命に至るかどうかの決め手になるということです。以下それを見ていきましょう。

 

2.      信じるとは、心の目で見つめること

 

 本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3121節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛とはどういうものか、また人間の救いとは何か、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについても教えを受けます。

 

 本日の箇所でイエス様はニコデモに、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げたという出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にあります。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は、「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では「炎の蛇」を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥהביתプラス前置詞エルאלは辞書によると英語のlook atgaze atです。それで、「見上げる」、「仰ぐ」のような「見やる」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。

 

 イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたということにとどまらない深い意味が含まれています。

 

 民数記21章の出来事に出て来る「炎の蛇」サーラーフשרףですが、興味深いことに各国の聖書では「猛毒の蛇」と訳されています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。しかし、ヘブライ語の辞書を見ると「炎の蛇」はありますが、「猛毒の蛇」はありません。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて「猛毒の蛇」という辞書にはない言葉で訳したんではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、出来るだけ合理的な訳をしようとしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、せっかく彼らが作った辞書に「炎の蛇」とあるのだから、ここでは少し踏みとどまって、「炎の蛇」で通すことにします。モーセが神から「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりますが、これは一体どういうことでしょうか?以下のように考えたらよいでしょう。

 

神から「炎の蛇」を造りなさいと言われたモーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを神に言われたように旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが悪魔にそそのかされて、造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在となってしまいました。これが堕罪と言われる出来事です。

 

イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うということについて、これはまさに神の意思に反する罪を犯すと、その罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いということを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、そこで表わされていることがその通りになって死を免れたのです。

 

 これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。神の意思に反しようとする罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを修復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。つまり、イエス様は全ての人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったのです。加えて、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力であり、人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありませんでした。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。それによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

 

 このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部して下さり、また罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。イスラエルの民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた毒消しがその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それゆえ、私たちは心の目で見つめなければなりません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪を償われ罪から贖われた者はイエス様の十字架を心の目で見つめたのです。

 

3.      一度だけでなく、何度でも見つめること

 

 イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた時に一回だけあったのではありません。心の目で見つめることは洗礼の後も何度も何度も繰り返されます。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったとは言っても、神の意思に反する性向つまり罪はまだ残っているからです。イエス様は有名な山上の説教で、たとえ人殺しをしていなくても兄弟を罵ったり憎んだりしたら同罪、たとえ不倫を犯していなくても女性を淫らな目で見たら同罪と言う具合に、神は罪のない潔白さを心の中まで問うていると教えたのです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも心の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない不注意があって罪を言葉や行いで犯してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?せっかくイエス様が果たしてくれた罪の償いと罪からの贖いを台無しにしてしまったことになり、もう神罰を受けるしかないと観念するしかないのでしょうか?

 

 いいえ、そうではない、ということを先週の説教でも先々週の説教でも申しました。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で素直に認めて次のように赦しを願い祈ります。「どうかイエス様を救い主と信じますので、彼の犠牲に免じて私を赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられて今も微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦すのだから、お前もこれからは罪を犯さないようにしなさい。」

 

 こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待っている神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることをしたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と神への告白と罪の赦しの繰り返しですので、十字架を見つめることは何度でもします。そうやって何度でも再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が死を超えた永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛ということです。そのことをヨハネ31416節はよく言い表しているので、もう一度拝読します。

 

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

4.信じない者は信じるに転ぶ可能性を秘めている

 

ヨハネ福音書3章の本日の箇所の後半(1821節)で、イエス様は自分のことを信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

 

318節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」などと言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたらあまりいい顔しないでしょう。しかし、ここで注意しなければならないことがあります。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されます。信じなければ状況は何も変わらず、堕罪の時以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。

 

 319節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と彼を用いて救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

 

 320節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るところだと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教が本当は独善的でも何でもないことがわかるために、まず、キリスト信仰者とそうでない者の違いを見てみます。そうでない者の場合は、造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。

 

 キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。321節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

 

 このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。321節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。

 

翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないように働きかけたり支えたりするというのは、詰まるところ心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超えた永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

2021年3月8日月曜日

罪よ、お前は私にふさわしくないのだ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年3月7日 四旬節第三主日

 

出エジプト記20章1-17節

コリントの信徒への第一の手紙1章18-25節

ヨハネによる福音書2章13-21節

 

説教題 罪よ、お前は私にふさわしくないのだ

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.      はじめに

 

本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名を引き合いに出して誤った誓いを立ててはいけない、また神の名を不正や偽りにかこつけて唱えて神聖なその名を汚してはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

 

4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。そして、第910の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

 

十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。ところがイエス様は十戒について、それを与えた神の本当の意図について教えました。有名な山上の説教のところです。たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ52122節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ52730節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思っただけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。天地創造の神は人間に内面の潔白性までも要求しているのです。全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいないでしょう。このことは使徒パウロも深刻に受け止めました。ローマ7章です。十戒の掟があることで自分にはそれに反するものがあると気づかされると言うのです。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は守れない自分を気づかせるという、人間の真実の姿を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。

 

そうすると、神は一体私たち人間に何を求めているのか疑わしくなります。まさか私たちが守れない自分に気づいてがっかりするのを期待する意地悪な方なのか?それとも本当は私たちが守れるようになることを望んでいるのか?でもどうしたら守れるようになれるのでしょうか?

 

その点に関してイエス様は次のようにも教えています。マルコ122831節です。十戒のうち神と人間の関係を律する最初の3つの掟について、その趣旨は全身全霊で神を愛することに尽きると教えました。それで3つの掟はこの趣旨に沿って理解し守らなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することに尽きると教えました。それで7つの掟についてもその趣旨に沿って理解し守らなければならなくなりました。まさにこのことがあるので宗教改革のルターは第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入るのだと教えたのです。さらにイエス様は、神に対する愛の掟と隣人愛の掟がどうお互い結びついているかも教えました。彼によれば、神に対する愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えました。

 

それらからすると、守れない自分に気づいてがっかりして終わることが神の目的ではないことがわかります。それは守らなければならないのです。しかし、外面上は守れていても、内面ではイエス様が言うように守れていないことがあります。例えば、本心では気乗りしないのだが、神に義と見てもらうためとか、周りの人に義人に見てもらえるようになるためとか、そういう自分の利益で掟を守るということがあります。ここでイエス様が、神と人間の関係についての掟は神を愛することで守る、また人間同士の関係の掟は隣人を愛することで守る、そのように言われる時、まさにそういう自分の利益のために守るということを吹き飛ばしているのです。それでは、自分の利益を全く顧みないで掟を守ることが愛と言うのなら、私たちはそのような愛をどうしたら持てるでしょうか?本日の福音書の個所でイエス様が自分のことを神殿と言っていることに、その鍵があります。今日の説教ではそのことを見ていきましょう。

 

2.      イエス様は究極の神殿

 

 本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、モーセを指導者とするイスラエルの民が神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。この祝祭の主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には生贄用の羊や牛が売買されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(224節)。両替商がいたというのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物の購入や神殿への納めのために通貨を替える必要がありました。

 

 このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が本当に神の意思に沿っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。罪のゆえに壊れてしまった神と人間の関係を修復できる方、また罪の赦しを与える方はまさに創造主の神しかいないのに、形式的に儀式をこなせば神は修復して赦してくれて当然というような傲慢な態度も生まれてきます。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書11117節、エレミア書620節、72123節、アモス書44節、52127節など及びイザヤ2913節も)。

 

イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。彼がどうしてそこまで憤ったかと言うと、本当ならばユダヤ民族をはじめ全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ567節、マルコ1117節)が、金もうけを追求する場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ219節)でした。興味深いことに、この「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞エゲイローεγειρωが使われています。三日で建て直すことと三日で復活することが掛け合わされています。

 

神殿というのは本当なら、人間が神から罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、そうして神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまっている。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?

 

 復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って神の意思に反する性向を持つようになってしまいました。その性向を聖書では罪と呼びますが、それを持つようになってしまったために人間は、神聖な神の御許にいられなくなってしまい神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から死んでも復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげようと決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子のイエス様に受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になりました(第一コリント57節、ヘブライ910章)。

 

 イエス様の犠牲は、それまでの牛や羊などの動物を用いた生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ129節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ92428節)、本当に完璧な生け贄だったのです。

 

 イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄ということだけにとどまりません。イエス様は全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪されました。その時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。イエス様が人間の罪の償いを人間に代わってして下さったので、罪は人間を縛り付ける力を失いました。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を自分の支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。ここまでお膳立てされたのですから、あとは人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の償いが洗礼を受けた人にその通りになり、そうしてその人は罪の支配下から脱せて神との結びつきを持って生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、難しい言葉で贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代償が、神のひとり子が十字架で流した血でした。

 

そういうわけで、キリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを洗礼を通して自分のものにした人ということになります。ただ、そうは言っても、キリスト信仰者が罪、神の意思に反することを行ったり言葉に出したり心で思ってしまう可能性は残ります。そうなってしまったら、どうなるのでしょうか?イエス様の身代わりの犠牲を台無しにしてしまうことになるのか?それでその人はまた罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?そうではない、ということを先週も先々週もお教えしました。そのような時、その人はすぐ我に返って父なるみ神に「私の身代わりとなって死なれたイエス様は真に私の救い主です。彼の神聖な犠牲に免じて私を赦して下さい」と願い祈れば、神は本当にイエス様の犠牲に免じて赦して下さるのです。それくらいにイエス様の犠牲は完全なものなのです。その人はまた復活と永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻ることができ、歩み続けることが出来ます。

 

このようにキリスト信仰者が罪にはまることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いにしっかりとどまれば、神のもとに買い戻された状態はそのままです。神との結びつきは決して失われません。そういうわけで、イエス様はエルサレムの神殿が果たそうとして出来なかったことを果たして下さったのです。十字架の死を遂げて復活させられたイエス様というのは真に、人間の罪の赦しを実現して神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。

 

3.      罪よ、お前は私にふさわしくない

 

イエス様という神殿を持ちその中で生きるキリスト信仰者は、自分の内にはまだ神の意思に反しようとする性向、罪を持ってはいるが、イエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを持つ者です。それはパウロがガラテア327節で言うように、キリストという罪の汚れのない純白な衣を着せられるということです。神聖な神は罪を忌み嫌い、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、信仰者がこの衣を手放さないでしっかり纏っていることを見て義とされるのです。キリストを着せられる前は、自分には罪があるから神に相応しくないということでした。ところが着せられた今は、イエス様のおかげで神に相応しい者に変えてもらいました。それで、罪の方こそ自分には相応しくないのだ、という自覚が生じて罪を足蹴にします。

 

キリスト信仰者がイエス様という衣を手放さないでしっかり纏うというのはどういうことでしょうか?キリスト信仰者は十戒を持っており、しかもイエス様が教えた神の意図を知っているので、それに照らせば自分には神の意思に反するものがあるとすぐ気づきます。その時は、先ほども申しましたように、罪の告白をして罪の赦しを頂きます。それで、自分にはこんな罪があるのにイエス様のおかげで神に受け入れられていることに再び感謝します。その時また、罪は私には相応しくないのだ、という自覚が戻り、罪を足蹴にします。しかし、一時するとまた守れないで自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで罪の告白をし、赦しを受ける。そして神に受け入れられていることを確認し、罪を足蹴にする。こうしたことがこの世を去る時までずっと繰り返されます。パウロはローマ813節で、キリスト信仰者が聖霊の導きを受けながら罪の業を死なせていくのならば、復活と永遠の命に与れると言っている通りです。新共同訳では「体の仕業を絶つならば」と訳していて、「絶つならば」とはまるでエイ、ヤーと一回で断ち切ってしまう感じですが、ギリシャ語の動詞は「死なせる」で、その時制は毎日毎日死なせていくという日常的な営みです。ルターは、キリスト信仰者が完全になるのは、まさにこの世を去って罪を宿す肉が朽ち果てる時と言っていますが、同じことです。

 

そもそもキリスト信仰者が被せられているイエス様というのは十戒が完全に実現されている方です。罪の自覚、神への告白そしてイエス様の犠牲に免じた赦し、これを繰り返すことで自分を十戒が完全に実現された状態にあわせていくことになります。それで、自分が着せられている衣に自分を合わせていくのがキリスト信仰者の生き方です。それにそぐわない余計なものは削ぎ落されていきます。自分の利害をもとにして神に対する掟を守るとか隣人に対する掟を守るとかがなくなっていきます。そうなっていくのはまさに、父なるみ神が、私たちの側で神に対して何か顧みられるようなことをしたわけではないのに、神の方から一方的にひとり子を私たちに贈られて罪の償いと罪からの贖いを実現して下さったこと、これによるのです。これがあったので私たちは神のこの一方的な愛に心を動かされて神を愛するようになり、また神が私たちにしたように私たちも隣人に対して一方的に善いことをしようとする心を持てるようになるのです。ヨハネが第一の手紙4章で言っていることはまさにこのことです。

 

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちのうちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(711節)

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン