2014年1月27日月曜日

イエス様につき従うということについて (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2014年1月263日(顕現節第四主日)

スオミ・キリスト教会

「イザヤ書」43章10-13節
「コリントの信徒への第一の手紙」1章26-31節
「マタイによる福音書」4章18-25節


説教題 「イエス様につき従うということについて」



私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 イエス様が通りかかる。そして湖に投げ網漁をしていた二人の漁師、ペトロとアンドレに「私に従って来なさい。お前たちを人間をつかまえる漁師にしよう」と言う。すると二人はすぐ網を捨ててイエス様に従って行く。こんなに簡単について行くのだから、きっと二人はイエス様に何かただならぬものがあると気づいたのでしょう。それにしてもこんなにあっさりと生業を放り出していくとは。ガリラヤ湖と言えば、そこで採れる魚は美味で肉付きが良いことがローマ帝国内にも知れ渡っていて、それは需要度の高い産物でした。そこで漁師をするペトロとアンドレは決して金持ちではなかったでしょうが、少なくとも貧乏ではなかったはずです。マルコ福音書1028節(マタイ1927節、ルカ1828節)で、ペトロはイエス様に「私たちは全てを捨ててあなたに従って来ました」と言います。つまり、「捨てるもの」がある身分だったわけです。

 ところが、イエス様につき従った人が捨てたのは生業だけではありません。ペトロとアンドレを弟子にしたすぐ後で、今度はやはり漁師のヤコブとヨハネに出くわします。彼らは、舟の中で父親のゼベダイと一緒に網の手入れをしている。イエス様が呼びかけると、ヤコブとヨハネも同じようにすぐつき従います。ただし今度は生業だけではなく、父親もそのまま残して立ち去ってしまいました。同じ出来事が記されているマルコ120節によれば、ヤコブとヨハネが残して立ち去ったのは、父親の他に雇い人たちもいました。ゼベダイ家は漁業の企業家だったのでしょう。

 福音書を繙くと、家族を捨てることについてのイエス様の教えがいくつかあります。イエス様のため、福音のため、神の国のために親兄弟を捨てたものは必ず報いを受けるとか(マタイ1929節、マルコ102930節、ルカ182930節)、イエス様より両親を愛する者は弟子としてふさわしくないとか(マタイ103738節、ルカ142527節では「憎まないなら」弟子でありえない)。こうなると、イエス様は十戒の第四の戒め「父母を敬え」に反していることを教えているのでしょうか?

 この問題に対するルターの答えは以下のように明快です。
「主イエスの教えは、親を捨てたり見下したりする理由にはならない。神の戒めの通り、親は敬わなければならない。しかし、親や公権力、ましてや教会自体が神への従順を禁じようとするならば、そのような親、公権力、教会に従順であるのは呪われたものになる。そもそも、私たちにお金や食べ物や親を与えて下さったのは父なるみ神なのだから、もしこれらの与えられたものが私の救いを妨げるのなら、これらのものは父なるみ神のためには失われてしかるべきものなのだ。ただし、そのような状況に陥っていない場合は、神に従順でいて、かつ、親や家庭や財産を持つことができるのであり、それは、神からみても何の問題もない。」

昔フィンランドで聖書を学び始めた時、私はこの問題について聖書の教師に尋ねたことがあります。「もしキリスト信仰者でない親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、第四の戒めはどうすべきか」と。彼が教えたことは次のことでした。「何を言われても騒ぎ立てず取り乱さず自分の立場をはっきりさせておきなさい。たとえ意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てるとか、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては親が信仰に至る可能性もあるのだから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい。」

2.

ところで、本日の福音書の箇所の二漁師ヤコブとヨハネの場合は、父ゼベダイと何か信仰上の対立があってそれが高じて父親放棄になったとか全くわかりません。二人の息子の行動様式は何か神がかっているというか、あまりにも唐突すぎます。この状況をどう理解したらよいでしょうか?「ヤコブとヨハネはきっと恵まれた境遇に飽き足らず、何か真実なものを求める心があって、そこでイエス様に出会った云々」などとドラマ仕立てをすることは、ここではしません。ここでは、聖書に書かれてあることから何がわかるか、ということを中心にしていきたいと思います。

まず、聖書からみえてくるのは、イエス様が弟子たちを招いた時というのは、これは、今まさに神の人間救済計画が実現されだした、その実現までもう時間的余裕がないという緊迫した状況だったということです。弟子たちは、言わば、有無を言わせないくらい切迫したムードの中で急きょ動員されたということです。有無を言わせないような切迫したムードとはどういうことかと言うと、イエス様の人生でエピソードに満ちた大人の時代は意外と短かったということです。そのことをみてみましょう。

まず、洗礼者ヨハネが登場し、神の裁きの日と救世主の到来を預言し始め、信じて集まってきた人々にヨルダン川で洗礼を施す。まさにその時にイエス様が洗礼を受けにやって来て、受洗後すぐに聖霊を受ける。その直後にユダヤの荒野にて悪魔から試練を受けるも、これに打ち勝つ。これらをイエス様の大人時代の第一章としましょう。ヨルダン川での洗礼とユダヤの荒野での試練です。次に、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らわれるや、イエス様は大胆にもガリラヤに戻って人々に教え始め、奇跡の業をなす。このガリラヤ地方とその周辺での活動の時期を第二章としましょう。それから、ガリラヤを出発して群衆の先頭にたってエルサレムに向かう。この時にも人々を教え、奇跡の業をなす。これを第三章としましょう。そして、エルサレム入城、そこでのユダヤ教社会の指導層との激しい対立、投獄、拷問、裁判、十字架そして復活。これを第四章としましょう。

 こういうふうにイエス様の大人時代は4つの章に分けられますが、実は、彼の受洗から十字架・復活までの期間は、本当は「時代」というにはあまりにも短い、駆け足のような時間なのです。短く見積もる研究者は、だいたい1年ぐらいだろうとみています。他方で、ヨハネ福音書をみると、イエス様がガリラヤ地方とエルサレムを何度か行ったり来たりしています。他の三つの福音書では一回だけですが、ヨハネ福音書に基づくと、受洗から十字架・復活まで大体3年くらいとなります。イエス様の地上での全生涯は大体30年少しというのが定説ですので、全部の福音書の大半部分を占める大人時代の出来事は、実に生涯の最後の期間、1年から長くても3年位の期間に集中しているのであります。

 イエス様がこの地上での生涯の最後の期間に行ったことというのは、創造主である神の人間救済計画を実現することでした。神の人間救済とは、端的に言えば、人間が神の国に迎え入れられるようにするということです。まず、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。神の裁きというものがある、しかし、人間を厳しい裁きから大丈夫にしてくれる救い主がやってくる、だから、それに備えなさい、と訴えました。そして、それに続くイエス様も、同じ言葉「悔い改めよ。神の国が近づいた」と公けに宣べて活動を開始しました。ただし、イエス様の場合は、神の国が彼自身と一体となって既に来ている、という点でヨハネの場合と異なりました。ヨハネが「神の国が近づいた」と言うとき、それは「まだ来ていない」のですが、イエスの場合は「もう来ている」ことを意味しました。このことは、先週の主日の説教でもお話ししました。少しだけおさらいをしてみましょう。

神の国がイエス様と一体となって来たというのは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、それを目のあたりにした人々は、いつか今の世が終わりを告げる時に到来する神の国とはこのようなことが当たり前なところなのだ、と体でわかったのであります。ところで、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできないのであります。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在になってしまったからです。罪と不従順の汚れが消えない限り、神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。人間が受けるべく定められた罪の罰を全てイエス様に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すという解決策を創造主である神は採ったのです。あの、2000年前の昔の彼の地で神がイエス様を用いて私たち人間のために罪の赦しの救いを実現した、これはまさに現代を生きる自分のためにも行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちは、この救いを所有する者となります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者と神から見なされて、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのであります。このように、創造主である神がイエス様を用いて実現した救いをしっかり所有する者は、この世の人生の段階で、既に神の国の立派な一員として迎え入れられているのであります。

さて、このようにしてイエス様は、私たちが神の国に入れるようにと、創造主である神の意思に忠実に従って、十字架と復活の業を成し遂げられて、人間救済計画を実現されました。つまり、この地上での生涯の最後の13年ほどの短い期間にこんなにも大きなことを成し遂げられたのです。「悔い改めよ。神の国が近づいた」という言葉ではじめ、最後に人間がその神の国に入れるようにする道を整えられたのです。この大事業の完遂にあたってイエス様は弟子たちを集められました。弟子たちの使命とは、イエス様と共にいてその教えと業をつぶさに見聞きすること、そしてイエス様から受けた教えと授かった力をもって宣教をすることでした(マルコ31315節)。彼らがイエス様と行動を共にしたことが、後に目撃者としての彼らの証言を生み出すことになりました。そして、彼らの証言を聞いてイエス様を見なかった人たちが信じるようになりました。そういうことが連鎖反応的に起こって、その集大成として聖書の新約の部分ができあがったのであります。弟子たちの証言や聖書がなければ、誰もイエス様を救い主と信じる信仰を得るはずがなく、従って彼が門を開いた神の国にも入ることはできません。そういうわけで、イエス様は神の人間救済計画そのものを実現しましたが、弟子たちは実現した救済が国と時代を超えて多くの人たちに及ぶようにする上で重要な役割を担ったのであります。

 イエスが使徒と呼ばれる12弟子を選んで呼び出したのは、そのような重要な役割を担わせる意味がありました。この弟子の呼び出しは、まさに人類の歴史の大転換点である十字架と復活の出来事を目前にした時に行われたのでした。これが、イエス様の呼び出しに有無を言わせない切迫したムードがあると言ったことの意味です。徴税人マタイなどは座っているところをイエス様に声かけられて有無も言わずに立ち上がって従って行きました(マタイ99節、マルコ214節とルカ52728節では徴税人レビ)。何か途方もない力が働いて、人間が次々に吸い取られていくような雰囲気があります。福音書は、このように自動反応のごとくイエス様の後に従い始めた弟子たちの親子関係とか彼らの内面的葛藤とか一切触れていません。きっと実際に自動反応のようなことが起きたのでしょう。それで、その雰囲気をそのまま伝えたいために、余計な説明を付け足すことをしなかったのでしょう。イエス様自身、このような自動反応を期待していたことが、信心深い百人隊長の信仰がそのようなものであることを知って感心したことに伺えます(ルカ7110節、マタイ8513節)。ところが、呼び出されて自動反応が起きない場合は、イエス様はとても手厳しい。ある人が死んだ父親を葬りに行ってもいいかと聞くと、「死んだも同然の者たちに死者を葬らせればよい」と答えます(ルカ95960節、マタイ82122節)。創世記の堕罪の出来事以来、創造主である神が心に決めていた人間救済計画がまさに実現しようという時、人間が神の国に入れるようになれるという時を直前に控え、救済実現の目撃者、証言者となってその福音を宣べ伝える者になりなさい、と召し出されたら、その通りにするしかないというのが父なるみ神と御子イエス様の意志であったと言うことができます。

3.

それでは、私たちも同じようにしなければならないのでしょうか?もし創造主である神の召し出しを受けたら、私たちもゲームのコマのように駆り出されなければならないのでしょうか?それが私たちにとってのイエス様の弟子になる、彼の後をつき従うということになるのでしょうか?

ここで注意しなければならないのは、私たちに関して言えば、神の人間救済計画は既に実現しているということです。救済実現の直接の目撃者、証言者になって、その福音を宣べ伝えて聖書を編み出すという役割は、既に使徒たちが果たしてくれました。私たちは洗礼を通してイエス様の弟子になりますが、それはまず、実現済みの救いを受け取る者になるということ、加えて、受け取ったものを今度は聖書に拠ってしっかり守り、できるだけ多くの人がこの救いに与れるような働きをする者になるということです。これが、私たちがイエス様の弟子になる、彼につき従うということです。そのため、救済実現に際していろんな役割をもたされた弟子たちとは状況と立場が少々異なっています。その意味で、弟子たちが受けたのと同じような、自動反応をもたらすような召し出しはそう簡単にはないのではないかと私は考えます。

しかしながら、そうは言っても、親とか家族とか財産とかは、信仰を理由に捨て去る必要がなくなったかと言えば、必ずしもそうではなく、初めにルターの教えを引用しましたように、もしそうしたものが信仰を捨てるようにと働いて絶対に止めないという時には、捨てなければならないということであります。もちろん、そうでない限りは、親や家族を世話し仕えるということは、神の掟であります。

もし、親とか家族とか財産とか、とにかく自分の持っているものと信仰が対立関係に陥った場合、本来捨てるべきものが信仰にとってかわられてしまわないようにするにはどうすればいいか。これについて、ルターは、それらのものを心のどこかで捨てていなさい、と教えます。

「ヤコブとヨハネの話を聞いて君は、財産とか家とか妻とか子供とかいうものは捨てなければならないのか、という思いにとらわれるかもしれない。しかしそうではない。心のどこかで、家と土地、妻、子供を捨てているということなのだ。たとえ君が彼らとともに生計をたて、神の定めに従って彼らのために働き彼らを世話している時でも、心のどこかでは捨てていなければならない、ということなのだ。『もし必要とあれば、父なるみ神のために全ての安逸を犠牲にしてそれらを捨てなければならないことがあるのだ』、そう心に留めていれば、君はもう心のどこかでそれらのものを捨てていることになるのだ。要は、君の心が捕らわれ人にならないように注意することだ。君の心からは、ひとりじめする欲や、あらゆるものにしがみついたり頼り切ったりする心、安逸のみ追い求める心が取り除かれていなければならない。そのようにできれば、人は財産があっても、心の中でそれを捨てることができるのである。万が一、実際に捨てることをしなければならない時がきたら、その時は、私に命と人生を与えた造り主の神がそう決めたのだから、と言って、神の御名において捨てなさい。ただしその時は、無理をして自分は喜んで妻や子供や財産を失ってやるのだと考える必要は全くない。そうではなくて、ああ、本当は神がお許しになるのであれば、もっと自分の手元において世話をし、そうすることで神にお仕えしたかったのだ、と考えて、捨てることを受け入れなさい。

自分の心の状態をよく注意しておくことが肝要である。自分が何を有しているかいないか、多く有しているかいないか、そういうことに心を向けてはならない。今自分のもののように見える全てのものを、時が来れば失われてしまうものとして、手元に置いておきなさい。そうすることで、我々は神の国にしっかりとどまれるのである。」

 とても厳しい教えです。心のどこかで捨てていなさい、というのは愛がなさすぎると言われてしまうかもしれません。でも果たして愛がないでしょうか?ルターが言わんとしていることは、親や子供や伴侶は、まさに世話し仕えるために創造主である神から私たちに与えられているということです。与えられるという以上、神は取り去る可能性も持っています。いつ取り去られるかはわからない、いつ捨てなければならないかわからない、だからこそ、与えられている期間は一生懸命に世話し仕えるということであります。天地創造の神が与えたものである以上、ないがしろにすることは許されない。持てる力と知恵を尽くして世話し仕えることで、与えられたものについて神に対して責任を果たさなければならない。

4.
 
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰にあっては、愛さえも、神中心になっていくということを心に留めておく必要があります。これは、大切な人との別れが死別という形をとる時にも、あてはまります。その時、キリスト信仰者の目と心は、死者の霊とか魂というものを超えて、その大切な人を与えて下さった創造主である神そのものに向けられます。昨年の説教の場で教えたことですが、キリスト信仰にあっては、この世の人生を終えた方は今、復活の日までは神のみが知るところで安置され、安らかに眠っているのであります。その方のことはもはや創造主である神にお任せしているので、死者の霊や魂を慰めるとか鎮める必要性を見いださないのであります。キリスト信仰者は、その大切な方を与えて下さった神に感謝し、そしてその方と素晴らしい日々を過ごせたことを神に感謝し、もし御心でしたら、その方と復活の日に再会できますように、と心静かに創造主である神に祈りを捧げるのであります。その大切な方が生きていた時には、隣人愛をもって一生懸命に尽くし、亡くなられた後は、創造主である神にこのように祈り続けるのです。キリスト信仰者が亡くなった方をないがしろにしたという批判は当たらないのであります。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年1月20日月曜日

悔い改めよ。神の国は近づいた(マタイ4章17節) (吉村博明)


主日礼拝説教 2014年1月19日(顕現節第三主日)
スオミ・キリスト教会

アモス書3:1-8
コリントの信徒への第一の手紙1:10-17
マタイによる福音書4:12-17

説教題「悔い改めよ。神の国は近づいた(マタイ417節)」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先週の福音書の箇所は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事でした。その後でイエス様は、荒野で40日間に渡って悪魔から試練を受け、それに打ち克ちます。そのことが先週と今週の福音書の箇所の間にあります(4111節)。そして、本日の箇所は、イエス様がいよいよ神の人間救済計画を実現するための活動を公けに開始したというところです。

荒野での試練の後でイエス様は、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスに捕えられたと聞きました。理由は、ヨハネがアンティパスの不倫問題に口をはさんだためでした。牢獄につながれたヨハネは後で首をはねられてしまいます(14112節)。さて、イエス様は、ヨハネが捕えられたと聞いて、そのガリラヤに乗り込んだのであります(新共同訳の「ガリラヤに退かれた」は正確な訳ではないでしょう)。ただ、育ち故郷であるナザレの町は活動拠点とはせずに、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちが公けに活動を開始したイエス様を拒否したためでした。この辺の事情は、ルカ41630節に記されています。

カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が開始されました。そのことがイザヤ書にある預言の成就であったと記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地」という文句で始まるところです。イエス様のガリラヤ地方での活動開始が、どうしてイザヤの預言の成就であると言えるのか、それは、この預言の全体を見てみるともっとよくわかります。少し見てみましょう。

時は、紀元前700年代、ダビデの王国が南北に分裂してお互いに反目しあって既に200年近くが経った頃のことです。こともあろうに、北のイスラエル王国が隣国と同盟して、兄弟国である筈の南のユダ王国に攻撃をしかけようとしました。ユダ王国は、王から国民までパニック状態に陥ります。そこで、預言者イザヤが現れて、攻撃は絶対成功しない、それが神の御心である、だから心配するな、と宣べ伝えます。実際、イスラエル北王国とその同盟国は、東の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまうので、ユダに対する攻撃計画は実現しませんでした。しかし、神の民であるユダヤ民族の北半分が滅びてしまいました。本日の福音書の箇所に引用されているイザヤの預言の出だしの部分は、このことについて述べています。イザヤ書823節に、こう記されています。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」

ゼブルンの地、ナフタリの地というのは、ヤコブの12士族のうちの2つで、ガリラヤ地方に移住した士族です。場所的には、イスラエル北王国にあたります。それで、同王国が滅びたことが「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」ということを指しています。しかし、ここから先が将来起こることの預言になります。まず、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と言われます。つまり、異民族に蹂躙されてしまったこのガリラヤ地方が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに神の栄光を受けるかということについては、イザヤ書の続く91節からの預言に記されています。「闇の中を歩く民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが本日の福音書の箇所に引用されています。しかし、イザヤの預言はここで終わらず、まだ続きます。956節を見ると、次のように記されています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている人物は、まぎれもなくイエス様です。

イエス様の十字架と復活の出来事を目撃して、神の人間救済計画が実現したとわかった人たちが最初のキリスト信仰者になりました。彼らは、イエス様こそ、人間を闇の中、死の陰の地から導き出す光である、とわかりました。そして、そう言えば、イエス様の公けの活動は確かガリレア地方で始まったんだな、と思い当たった時、ああ、あれは全てイザヤ書823節から96節までの預言の成就だったのだとわかったのであります。それで、その預言が、短縮された形ではありますが、本日の福音書の箇所に引用されるに至ったのであります。

本日の旧約の日課であるアモス書3章の7節には、「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」と述べられていますが、まことにその通りであります。このように、人間救済計画がどのように実現されるかということを前もって預言者に告げ、約束されたことを全て果たされた忠実、誠実な神は永遠に畏れられ、ほめたたえられますように。

2.

さて、前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所の大事なところをみていきましょう。それは、イエス様が公けに活動をした時に冒頭で述べられた言葉、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。二つの短い文ですが、大切な事柄が沢山凝縮されています。それを見ていきましょう。

まず、「悔い改めよ」について。「悔い改める」というと、何か「悔いる」とか「後悔する」とか「反省する」というような意味があるように感じられます。「悔い改める」のギリシャ語原文の言葉は、メタノエオ―μετανοεωという動詞で、もともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。ところが、新約聖書の中でメタノエオ―と言ったら、それは「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。どうしてもともとの意味が拡大したのかと言うと、ヘブライ語の旧約聖書の中にシューブשובという、「神のもとに立ち返る」という意味で使われる動詞があります。それに対応するギリシャ語はなんだ、ということで、メタノエオ―μετανοεωが使われるようになったという事情があります。こうして、「考えを改める」、「考え直す」が「神との関係で考えを改める」「神との関係で考え直す」というふうになり、今まで神に対して背を向けていたのを、これからは神に向き直して考える、行動する、生きるということになります。そういうわけで、メタノエオ―μετανοεωは、「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。(もちろん、エピストレフォ―επιστρεφω「立ち返る」も同じ意味を持ちますが、μετανοεωの場合は、語源的にみて「立ち返り」の内面的作用に注目するものと言うことができます。)

それでは、このメタノエオ―μετανοεω、「神のもとに立ち返る」とは、一体どのようなことをすることでしょうか?それがわかるために、まず、人間はどうしたら、この世の人生で自分の造り主である神との結びつきのなかで生きることができるか、そして、この世から死んだ後は、どうしたら永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになるか?このことについて見る必要があります。

人間と神との結びつきの問題に関して、イエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第5戒を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6戒を破ったことになる、と教えます。つまり、十戒を外面的だけでなく内面的にまで守れないと、神の意思に反することになってしまうのであります。しかし、十戒をそのように完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しないのであります。マルコ7章の初めにはイエス様と宗教指導者との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものと言えば、それは律法のような戒律や様々な宗教的な儀式でした。しかし、戒律を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現・体現には程遠く、神との結びつきや永遠の命の保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのであります。

人間には、神の意思に反しようとする神への不従順や罪が内在している。しかも、それらは人間が自分の力では除去できない。とすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世の人生では神との結びつきがないままで、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。ひとり子をこの世に送り、人間を覆い尽くしている罪の呪いを全部そのひとり子に覆い被せて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものでした。人間は誰でも、ひとり子イエス様を犠牲に用いた神の解決策というものはまさに自分のために行われたのだとわかって、イエス様こそが自分の救い主であると信じ、洗礼を受けることで、この救いを手に受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪を内在させたまま、イエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、自分の造り主である神との結びつきを回復できてこの世の人生を歩み始めることとなり、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得られるようになり、万が一この世から死んだ後も永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。

以上のように、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事を経て、神との結びつきや永遠の命を保証するメタノエオ―μετανοεω、「神のもとへ立ち返る」手がかりを得ることができました。それは、戒律を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、そういったものに拠り頼んでも、自分からは罪の汚れは消え去らないと観念して、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けて、イエス様という神聖な純白な衣を頭から被せられること。内在する罪と不従順は必ずや、それを脱ぎ捨てるようにそそのかすけれども、ひたすらそれにしがみつくように着ていること。罪と不従順はきっと純白な衣にそぐわないことをしろとそそのかし、私たちが弱さや油断からそうしてしまうことがあったとしても、その度、「私にはイエス様以外に拠り頼む方はいません!」と言って、罪を認め、聖餐を受けること。そうすれば、神は、イエス様以外に主はいないという心の叫びを本物とみて、私たちのことを純白な衣を着たままで見て下さり、聖餐を受けた私たちがイエス様としっかり結びついていることを確認して下さるのです。この時、罪と不従順は、これでは付け入るすきがない、とおそれいって退却せざるを得ないのであります。このようにして、キリスト信仰者というものは、肉に宿る古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人を日々育てていくのであります。もちろん父なるみ神は、私たちに罪が内在していることを知っておられます。しかし、私たちがこの内面の戦い、霊的な戦いをイエス様に拠り頼んで戦っている時、神の目には私たちはただイエス様の純白な衣を着た者として映るのです。本当にイエス様は「神のもとへの立ち返り」の手がかりなのであり、それ以外に手がかりはないのであります。

イエス様がガリラヤ地方で公けに活動を開始した当時は、まだ十字架と復活の出来事はありませんでした。そのため、「神のもとへ立ち返れ」と言われても、人々には、何をどうしたらいいのか、戒律や宗教的儀式を積めと言うのならともかく、そうでなければ一体何なんだ、と途方にくれるものであったでしょう。イエス様は、厳しい教えを突きつけて、人々をいったん途方にくれさせて、最後に十字架と復活をもって全てを明らかにしたのでした。

3.

 次に本日の福音書の箇所でもうひとつ大事なこと、「天の国は近づいた」を見ていきましょう。「天の国」は、他の福音書で言われている「神の国」と同じものを意味します。マタイは、「神」という言葉を畏れおおくて避ける傾向があり、それで「天の国」と言っているのであります。

 実は、洗礼者ヨハネも同じ言葉「悔い改めよ。天/神の国は近づいた」を使っていました(マタイ32節)。ただし、イエス様とヨハネの言葉の意味には決定的な違いがありました。イエス様が「天/神の国は近づいた」と宣べて活動をした時、彼の場合はヨハネと違って様々な奇跡の業が伴っていました。皆様も聖書からご存知のように、イエス様は、数多くの難病や不治の病を癒し、悪霊を退治し、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたり、無数の奇跡の業を行いました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たということを示したのです。マルコ3章で、イエス様が悪霊を退治した時、反対者たちから「あいつは悪霊の仲間だからそんなことができるのさ」と中傷を受けます。それに対してイエス様は、「悪霊が悪霊を退治したら彼らの国は内紛でとっくに自滅しているではないか」と反論します。つまり、自分が神の国と一体になっているからこそ悪魔が逃げていくのだということであります。このように、イエス様の奇跡の業は、神の国が彼と共に到来したことの印、神の国が実在することの印なのであります。ヨハネの場合、「神の国が近づいた」というのは、それがもうすぐイエス様と共に来る、ということですが、イエス様の場合は、自分と一緒にもう来ている、ということだったのです。

 イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、神の国の全貌はというと、黙示録20章から21章にかけて描かれています。それは、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もない、というところです。ここで注意しなければならないことは、この神の国とは、実は今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、今の世が終わる時に現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章に、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されています。先ほどの神の国が結婚式の祝宴にたとえられるということも、この世での信仰の戦い人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国にて涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っている者なのであります。

 ところで、神の国はまだ今の世の終わりなどとは関係なく、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、イエス様の奇跡の業を目のあたりにして、将来到来する神の国とはこのようなことが当たり前なところなのだと体でわかったのであります。ところが、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできないのであります。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。かつて神がイエス様を用いて私たち人間のために罪の赦しの救いを実現した、これはまさにこの自分のために行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちは、この救いの所有者となります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者とものと見なされて、神の国の立派な一員として迎えられるのであります。

4.

さて、復活されたイエス様が天に上げられて、その再臨を待つ今の時とは、神の国もその時に顕現するのに備えて待機状態にある時と言ってよいでしょう。だからと言って神の国は、私たちと今、無関係にあるというのではなく、キリスト信仰者にあっては、しっかり信仰に留まる限り、そこへの入国許可証を手にしているのであります。「我らの国籍は天にあり」(文誤訳フィリピ320節)というのは、まことにその通りであります。キリスト信仰者は、二重国籍者であります。一つはこの地上にある国の一員です。その国籍は、死んでしまえば失われてしまい、また他国へ移住したりすれば意味を失います。しかし、もう一つの天の国籍は、どこにいようが、死のうが生きようが失われず、有効であり続ける国籍であります。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは天国に永住権を有しているのであります。この永住権の「永」は文字通り永遠です。キリスト信仰者にあっては、たとえ他の全てのものが失われても、これだけは失われないものである、ということを忘れないようにしましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン