2011年12月20日火曜日

キリストは、死の陰に座する者を照らして平安に導く光 (吉村博明)

  
説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士)
  
  
主日礼拝説教 2011年12月18日(待降節第四主日)
日本福音ルーテル横須賀教会にて
  
聖書の箇所
ゼファニア書3:14-17
フィリピの信徒への手紙4:2-7
ルカによる福音書1:67-79
  
説教題 キリストは、死の陰に座する者を照らして平安に導く光
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 本日の福音書の箇所は、エルサレムの神殿の祭司であり洗礼者ヨハネの父親となるザカリアの預言です。この預言は、ラテン語でBenedictusと呼ばれていますが、それは預言の初めの部分「イスラエルの神である主は称えられよ」のギリシャ語原文での冒頭の言葉「称えられよ」ευλογητοςをラテン語に訳したものです。ちなみに、ルカ福音書14755節に聖母マリアの賛歌がありますが、これもラテン語でmagnificatと呼ばれており、それは賛歌の初めの部分「私の魂は主を大いに賛美する」のギリシャ語原文の出だしの言葉「大いに賛美する」μεγαλυνειをラテン語に訳したものです。それから、同じルカ2章にシメオンの賛美があります。これもラテン語でNunc dimittisと呼ばれており、賛美の出だし部分「主よ、あなたは今、あなたのお言葉通り、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます」のギリシャ語原文での冒頭の言葉「今、去らせて下さいます」νυν απολυειςをラテン語に訳したものです。これらマリアのMagnificat、ザカリアのBenedictus、シメオンのNunc dimittisの三つは、キリスト教会の司式の中で古くから使われてきた祈りの歌です。特に西方教会において、Benedictusは朝の祈り(laudes)の中で、Magnificatは夕べの祈り(vesper)の中、Nunc dimittisは一日の終わりの祈り(kompletorio)の中で用いられてきました。
 
 本日のザカリアの預言には、私たちの信仰にとって大切な事柄がいろいろ含まれています。本説教ではそれらから三つだけを取り上げてみていきたいと思います。
  
1.信仰とは、自分の外的な出来事や事情がいかに変わろうとも、神が自分に与えて下さる恵み・憐れみは相も変わらず同じである、という神への信頼を自分の内に持っていることである。
  
 この最初の大切な教えは、ザカリアの信仰からみることができます。ザカリアの妻エリサベトは、もう出産が望めない高年齢にもかかわらず子供を宿しました。聖書には、高齢の婦人が出産する例として、他にアブラハムの妻サラがあります。この二つの事例には、信仰ということに関して共通することがあります。まず、双方とも、願っている子供が生まれなくても、神に失望したり背を向けたりはしなかったということです。それから、念願が叶ったら叶ったで、今度はその念願成就の結晶である子供を神に捧げたということです。
  
アブラハムの場合は、まさに息子イサクの命を捧げる寸前まで行きました。もちろん、神はイサクの命を望んでいたのではなく、アブラハムがどこまで自分の言葉に従うかを見極めようと試したのであります。創世記221節で「神はアブラハムを試そうと決めた」と言っているのは重要です。神は「試し」、アブラハムは「試された」のです。もし、アブラハムが血も涙もない機械人間で、子供を生け贄に捧げなさいと言われて、何も感ぜず何も考えずにハイと言ってすぐ実行してしまったら、それは「試された」ことには全くなりません。「試された」以上は、凄まじい葛藤の中に投げ込まれたのです。しかし、神は、イサク誕生前に「お前の子孫は夜空の星のように多くなる」という約束をしており、それに忠実であることを示されました。神の御名は誉めたたえられますように。
 
それから、洗礼者ヨハネについて。彼がいつ家を出て荒れ野の生活に入ったかはわかりません。ルカ180節で、「成長し、聖霊にあって強められた。そしてイスラエルの民の前に出現する日まで荒れ野にいた(ギリシャ語原文による)」と言っているので、ある程度成長してからでしょう。いずれにしても、ヨハネの両親は天使ガブリエルから息子が神に用いられる者となる旨を告げられて(ルカ11317節)知っていたので、彼が祭司の家系を捨てて荒れ野に出て行くのをそのままにしたのであります。
 
それから、これは高齢出産ではないのですが、サムエル記上で、エルカナの妻ハンナは、不妊で苦しんでいた時、神に祈り、もし男子を授けてくれればそれを神の用に役立つよう捧げると誓いました。そして、サムエルが誕生すると、ハンナはその通りにして、祭司エリに男の子を引き渡しました。
 
もう子供を得ることは無理だろうとわかっても、神は願いを聞いてくれないひどい方だ、と文句を言ったり、失望するわけでもない。アブラハムはイサクが産まれる前も、生まれた後も同じように神に忠実でした。ザカリアとエリサベトの二人は子供はなくとも、「神の前に正しく、主の全ての掟と定めに従って非の打ちどころなく生きて」(ルカ16節)いました。つまり、願いが叶わなくても、神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従って生きるということには何ら変更はないのです。もし不可能な願いが叶えられれば、それは奇跡ですが、その時は神への賛美と感謝に身も心も満たされましょう。しかし、それでも神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従って生きるということは、アブラハムにしても、ザカリアにしても、奇跡が起きようが起きまいが同じなのであります。
 
この奇跡が起きようが起きまいが「同じ」ということがなければ、どうなるでしょうか?その場合、神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従うということが、願いの成就・不成就に左右されてしまいます。願いが叶わなければ、そんな神は神として認めてやるもんか、と別の何かを探し求めることになります。反対に、願いが叶えられれば叶えられたで、それは神に属するものであるとか、神の用に役立てられるものとか、神に捧げられるべきものであるという発想は起こらないでしょう。
 
願いが叶うにしろ叶わないにしろ、そういう外的な条件がどうであるかにかかわりなく、いつも全く同じように神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従おうとできるのは、どのようにしてできるでしょうか?それは、まず、神の方で、人間の外的条件により価値が増えたり減ったりしないもの、いつも全ての場合に高い価値のままである何かを用意され、そして、それを人間が持てる時にできます。キリスト教では、そうした不変不滅の高い価値のものは、イエス様の十字架での贖いの業と彼の死からの復活がそれです。
 
イエス様の十字架の死と死からの復活に結びついている人は、不妊であろうが病気であろうが金がなかろうが、外的な条件が悪くても、神が自分に与えて下さる恵み・憐れみそのものは、外的条件が良い時と全く同じであると知っています。それで神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従うことに何の変更も起きないのであります。そこで、もし、そのような信仰を持つ不妊の人が子供を産んだり、不治の病の人が健康になったり、金のない人が金を得たりしたら、その得たもの、子供、健康、金を、神の用に役立てようという考えになります。自分の用に役立てるとか、自分の欲のために消費するとかいうことには執着しないのであります。もともと子供のいる人、健康の人、お金のある人も、こうしたことが自分にはどうあてはまるのだろうかと考えてみることは大事だと思います。
   
 
2.神は、全ての時代の全ての国民・民族を射程において、人間救済計画をたてて実施したが、計画と実施自体は特定の時代の特定の民族を通して行った。
  
 次にザカリアの預言の本体をみてみましょう。この預言は、来るべき救世主について預言しているにもかかわらず、内容も言葉づかいもとてもユダヤ民族の利害と観点が強く出ています。69節で「神は私たちのために救いの角をその僕であるダビデの家から起こされた」と言いますが、その「救い」とは、71節で「私たちの敵からの救い、私たちを憎む全ての者の手からの救い」であると言っています。つまり、ユダヤ民族に敵対する諸民族の脅威から自由になることが「救い」を意味しているのです。そうして、敵対民族の手から救われたあかつきには、7475節にあるように、「私たちの全ての日々において、神の御前にて、神聖さと義にあって、おそれを抱くことなく、神に仕える」ことができるようになるのであります。このようにメシアの役割は、イスラエルを完全な民族自決国家として再興させて、あらゆる敵対民族を撃退してそれらの汚れを遠ざけて、神聖さのうちに完全な礼拝を実現させるというふうに考えられています。そのようなメシアの登場は、太古からの預言者の預言(70節)や神のアブラハムへの約束(73節)の中に言われていたというのであります。さて、67節で、ザカリアは「聖霊に満たされて」預言したと言っていますが、それでは聖霊を送った神は、来るべきメシアを全世界に及ぶものでなく民族的なメシアだと考えていたのでしょうか?
 
 実は、神はメシアを全世界的なものと考えていました。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥ったために罪が人間の命に入り込むという堕罪が起きてしまいますが、その直後、創世記315節に神の人間救済計画が早くも預言されています。神はそこで、蛇の姿をとる悪魔に対し、「将来、人間から生まれてくる一人の者がお前の頭を叩き割る。ただし、お前も彼の踵を打ち砕くことになるが」と宣言されます。自己を犠牲にして悪魔を打ち滅ぼす者が現れるというのであります。それが、イエス・キリストでした。創世記123節で、神はやがてアブラハムという名前にかわるアブラムに対し、彼が受ける祝福は世界の全ての民族にとって祝福になる、と約束します。このように神の考えられる救いは、全世界の人間に及ぶものなのです。それでは、なぜザカリアの預言では、救いがユダヤ民族中心のものになってしまったのでしょうか?
 
 それは、神が全世界の人間の救いを考えて、御自分の意志を人間に伝える時、意志を伝えられた側の人間の方は特定の具体的な歴史状況の中に生きていたという事情があります。それで、全世界的観点と一民族的観点のギャップが生まれる原因になったと言えます。神は、悪魔の頭を叩き割る救世主がユダヤ民族の中から生まれてくると定められました。そうなると、救世主が登場するまでは神の目はユダヤ民族を中心に向けられ、ユダヤ民族の歴史とともに歩むことになります。そこで、御自分の意志を告げられる時はいつも、将来実現する全世界の人間の救いが根底にはあるものの、その意志はいつもユダヤ民族のその時その時の具体的歴史状況に関係するものにもなります。例として、イザヤ書53章に、人間の罪を背負って自ら苦しみを受けることで人間を罪から贖う神の僕についての預言があります。キリスト教の観点では、これはイエス・キリストを指す預言だとわかります。しかし、この預言は、バビロン捕囚が終わる頃の歴史的状況にあるユダヤ人にとっては、捕囚に陥った自分たちが民族の犯した罪の罰を受けることで民族は赦しを受けて再出発できるという、そういう理解になります。
 
神が特定の民族の特定の歴史と関係を持ちながら、人間救済計画を立案し実施したという事実は、特に旧約聖書を読むときに注意する必要があります。そこには、全世界の人間の救いを実現しようとする神の意志が働いているにもかかわらず、神から啓示を受けた人たちやそれを書き留めた人たちは皆、特定の歴史状況の中で生きていた人たちでした。そうした状況に基づく利害や観点が表面に出るのは当然です。現代において、旧約聖書を読む人の中には、神の人間救済計画などという超歴史は一切見ないで、純粋にその場限りの歴史を語る歴史的な書物として扱い、それぞれの歴史状況とそれに基づく利害や観点や思想を知ろうとして繙く人もいます。もし、キリスト教徒が旧約聖書を信仰の書物として読もうとするのならば、歴史的な利害や観点を常に超える神の人間救済計画を念頭に置いて読まなければなりません。ルターも、キリストを見出さない旧約聖書の読み方には意味がないと言っています。それに、天と地と人間を造った旧約の神と救い主イエス・キリストを送られた神は同じ神であるというのがキリスト教なのですから。
 
ここで話が横道に逸れますが、ザカリアのメシア預言にユダヤ民族の利害・観点が強く出ていることは、同預言の歴史的信ぴょう性を高めるものとして注目に値します。研究者の中には、福音書に書かれてあることの多くは、イエスを神の子と信じたキリスト教徒たちが自分たちの利害・観点に基づいて後から創り出したものだと主張する人が多くいます。ザカリアの預言が、もし初代キリスト教徒の手によって創られたものならば、どうしてメシアをもっと全世界的なものに描かなかったのかという疑問がおきます。ザカリアのメシア預言は、イエスの十字架と復活の出来事がまだ起きていない歴史的段階から出てきたことは明らかです。しかも預言の中で、将来洗礼者ヨハネになる人物に言及され、それを息子と呼んでいるので、預言の出所はヨハネの父親であるとするのが妥当でしょう。
 
3.キリストは、ユダヤ民族のみならず、死の陰に座する全世界の全ての人々を照らして、平安に導く光である。

 ザカリアの預言には、メシアとその役割の理解についてユダヤ民族の利害・観点が強くでていると申しましたが、預言の終わりの方になると、ユダヤ民族中心のメシアなのか、全世界の人間の救いを担当するメシアなのか、はっきりしなくなる部分がでてきます。まさに、個々の歴史状況の利害と観点に覆い隠されてはっきり見えなかった人間救済計画が頭をもたげてくる部分です。
 
 まず、76節に入って預言は、ザカリアの息子洗礼者ヨハネについて述べます。ヨハネがメシアに先立ってその道を整えるという、先週、先々週の主日の福音書の箇所に出てきたイザヤ書403章の預言の実現であることが示唆されます。そして、77節で、ヨハネはユダヤ民族に「救いの知識を与える」と言われますが、その救いは先に述べたような敵対民族からの解放ではありません。ここでは、救いは、「罪の赦しに結びつくもの」と言われています。さらに78節に入って、その罪の赦しに結びつく救いは、「神の憐れみ深い心によるもの」と言われ、その神の憐れみ深い心があることで、「いと高きところから朝日のような光が地上の私たちのところにやってくる」。79節に入って、その光がやってくる目的が明らかにされます。「暗闇と死の陰に座する者たちに顕現するためであり、彼らの足取りを平和の道に向けるようにするためである」と。
 
「天から到来する光が、死の陰に座する者たちの目の前に輝き現れて、彼らの足取りを平和の道に向けるようにする」というのは、まさにユダヤ民族を超えた全世界の全ての人にかかわる救いを意味します。先にも述べましたように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことが原因で、人間の命に罪が入り込み、人間は死する存在になってしまいました。人間は、代々死んできたように、不従順と罪を代々受け継いできました。「死の陰に座する」というのは、まさに、人間が不従順と罪からくる裁きと呪いの下におかれて死に定められている状態を指します。しかし、イエス・キリストが、全ての人間の、私のも皆さんのも、不従順と罪の裁き・呪いを全部自分で引き受けて、十字架の上で死なれた。このイエス様の贖いの業が「私のためになされた」とわかって、洗礼を受ける時、私たちは不従順と罪の裁きと呪いから解放されます。さらに、洗礼によって、死から復活させられたイエス様にも結びつけられるので、解放された後の私たちは今度は永遠の命、復活の命に至る道を歩み始めることになります。
 
これからもわかるように、「足取りが平和の道に向けられる」という「平和」とは、敵対民族との戦争状態がユダヤ民族の勝利で終わって平和がもたらされるということではありません。ここでいう「平和」とは神との平和であります。神聖な存在である神は罪や不従順の汚れを憎み、滅ぼしたいと思う方です。そのため、堕罪以来、人間と神の間には戦争状態が存在していました。ところが、神は、憎しみの原因であった罪と不従順の汚れを人間から取り除いて、十字架上のイエス様に張り付けたのです。イエス様の贖いの業のおかげで、神の憎しみの原因が人間から除去されました。まさに、神のひとり子が私たちにかわって呪われた者にされて罰を受けたおかげで(ガラテア313節)、神と人間の間の戦争状態が終わることができたのです(エフェソ21617節)。私たちは、洗礼を受けることで、この神との平和を永遠に享受することになります。「永遠に」というのは、洗礼を受けた時点から、この世の人生の歩みにおいてずっと、それから死を超えて永遠の命、復活の命を持って生きるようになるまでずっと、ということです。
 
だから、この世の人生の歩みにおいて、なにか外的に不利な条件を被ることが起きても、それは、私たちが神から与えられている恵み・憐れみが減ったということではありません。人によっては、不治の病にかかったり、経済的な困難に陥ったりすると、神に見捨てられたとか、神の怒りに触れたとかいうような捉え方をする人もありますが、キリスト教においてはそれはありえません。洗礼を受けた以上、不従順と罪の裁きと呪いから解放されて永遠の命、復活の命に至る道を歩んでいるということは、病気になろうが貧乏になろうが、そのままだからです。神との平和を享受しているということはそのままです。このことを人生の土台にして、あとはその人生に入り込んだ不利な条件にどう対処していくかです。不利な条件が大きすぎたり重大なものだったりして、人生がひっくり返るくらいのものに感じられる時があるかもしれません。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いの業と死からの復活という人生の土台は微動だにしません。そうした土台の上に立つ人生もひっくり返ることはありません。
    
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン 

2011年12月12日月曜日

主の道を整えるということ(吉村博明)

 
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
 
主日礼拝説教 2011年12月11(待降節第三主日)
 
日本福音ルーテル日吉教会にて
  
「イザヤ書」61:1-4:7、
「テサロニケの信徒への第一の手紙」5:16-24、
「ヨハネによる福音書」1:19-28

説教題 主の道を整えるということ


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
.

 本日のヨハネ福音書の箇所は、先週のマルコ福音書1章同様、洗礼者ヨハネが来るべきメシアのために道を整える役割を果たしたと伝えるところです。イザヤ書40章の預言と洗礼者ヨハネを結びつける教えは、とても内容が深いものです。まず、イザヤ書がイエス様の時代に、どのように理解されていたかということをみなければなりません。それから、本日の箇所でユダヤ教社会の宗教指導層が洗礼者ヨハネのことを終末の日に来る預言者エリアかどうか聞きます。これもマラキ書3章の預言がもとにあり、イエス様の時代に終末の日とはどのように考えられていたかという問題も重要です。そういった歴史的背景を踏まえて洗礼者ヨハネの宣教活動を理解するという作業は大事です。ただ、本日は、礼拝後すぐに音楽伝道集会を控えておりますので、そういった歴史的なことには立ち入らないで、本日の箇所が私たちの信仰の成長にどんな大切なことを教えているか、それだけに焦点をあてていこうと思います。
 
 「主の道を平らにせよ」とは、主が遠い所から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。ここで注意しなければならないのは、神も神が送られるメシア・救い主も、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは神・救い主に障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおくか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神の方でそのままほっておかれるのです。
 
 私たちの内にある神・救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを、私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?そもそも、神・救い主が私たちに近づくというのは、どういうことなのでしょうか?その近づきがよいものであるとわからなければ、私たちは、何が障害になっているのかとか、それをいかに取り除くことができるかということは考えようとはしないでしょう。そういうわけで、最初に、神・救い主が私たちに近づくということはどういうことなのか、それについて考えてみます。
 
2.

 「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか。実は、神はもともとは離れたところにはおられませんでした。創世記の初めが明らかにしているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在だったのです。それが、どうして神から離れた存在になってしまったのか。最初の人間アダムとエヴァが、悪魔の言うことに耳を傾けたことがきっかけで、神の言葉を疑い、神が取ってはならないと言われた実を食べたことが原因でした。この神への不従順が原因で人間に罪が入り込み、人間は死する存在になってしまいました。神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。
 
 これに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありません。神は、人間が再び永遠に神のもとにいることができるようにと人間救済の計画をたてて、それを実現するために、ひとり子イエスをこの世に送られたのです。神の人間救済計画は、旧約聖書を通して、その都度その都度預言されていきますが、実はすでに堕罪事件の直後、創世記315節にもう預言されています。神はそこで、蛇の姿をとる悪魔に対し、「将来、人間から生まれてくる一人の者がお前の頭を叩き割る。だだし、お前も彼の踵を打ち砕くことになるが」と宣言されます。自己を犠牲にして悪魔を打ち滅ぼす者が現れるというのであります。それが、イエス・キリストでした。
  
 神は、全ての人間の不従順と罪からくる裁きと呪いを全部ひとり子イエスに負わせて、十字架の上で死なせました。私たち人間が負わなくてもよいようにそうしたのです。それだけではありません。神はイエス様を死から復活させることで、永遠の命、復活の命への扉を私たち人間に開かれたのです。イエス様を用いて、死を打ち滅ぼし、死を超えた命への道を開かれたのです。
 
 このように、遠いところにおられた神は、ひとり子イエスを送ることで、そしてそのイエス様を通して、私たちに近づかれたのであります。それは、私たち人間が神の子となって再び永遠の命に与る者になれるためでした。このことは、ヨハネ福音書316節にイエス様の言葉として凝縮されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 
3.
 
それでは、神がこのように私たちに近づかれた時、私たちの方で神の近づきを妨げるものは何でしょうか?それは、どうやって取り除くことが出来るのでしょうか?
 
 まず、逆に、どうやったら神の近づきを受け入れることができるのかを見てみましょう。私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の不従順と罪からくる裁きと呪いを全部引き受けられたと聞きました。その時、まさに自分の不従順と罪が他の人たちの分と一緒にイエス様の肩にのしかかっていると気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに、血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩に、頭に、私の罪と不従順がはりつけられている、と直視することができるか、どうか。それができた時、それまで歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の今のパレスチナと呼ばれる地域で起きたある歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の出来事が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。しかもそれは天と地と人間を造った神の計らいだったのだと。あのおぼろげだった歴史上の人物が、明確に私の救い主として立ち現われてくるのです。
 
 立ち現われから始まって、実際にイエス様が私の救い主となり、私も救われた者になることは、洗礼を受けることで完結します。洗礼を通して私たちは、ご自身を犠牲にしてまで罪と不従順の裁きと呪いを帳消しにしたイエス様と結び付けられ、裁きと呪いから解放されます。さらに、死から復活されたイエス様とも結び付けられて、死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を歩み始めます。洗礼を受けた者に、神は御自分の霊、聖霊をお与えになります。この聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時、いつもイエス様のもとに連れ戻す働きをします。イエス様の十字架と復活のゆえに罪と死は力を失ったのですが、あたかもまだ勢力を持っているように見せかけて私たちを惑わそうとします。また、人生の中で直面する様々な苦難や困難も、私たちに救い主がついておられることを忘れさせようとします。そのような困難の真っただ中にあっても、イエス様が私の救い主であることになんら変更はない、私が救われていることも洗礼の時からそのままである、と答えられるのは、聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べました。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ83839節)
 
4.
 
 それでは、人間が神と救い主イエスの近づきを受け入れない理由は何なのでしょうか?ひとつには、宗教的な理由があります。世界のいろいろな宗教はそれぞれ、救いの意味や内容について自分たち独自の定義を持ち、救われ方もそうした定義に基づいているので、神とイエス様の近づきは当然相容れないものになります。宗教によっては、現世の問題解決に役立つことを強調して人を惹きつけるものもあります。そうした人たちから見たら、先のパウロのように、苦難・困難の真っただ中にあっても、イエス様を救い主と信じる限り、神の愛は苦難・困難がない時と同じくらいに注がれている、という確信は、きっとナンセンスでしょう。しかし、私たちにとって、それは真理なのであります。
 
神と救い主イエスの近づきを受け入れないのは、宗教的でない理由もあります。その一つとして次のような考え方があります。「なぜ、ことさら罪とか不従順とかを強調するのか、そんなのは神の裁きから救われる必要性を持ち出す便法だ、誰も完全な人間など存在せず、ひとりひとりが弱さと強さ、良い点と欠点を持っているのだから、人間をそういうものとして認めて受け入れるのが本当の愛だ」というものです。実は、神も、人間を弱さや欠点を持っている者として認めて受け入れているのです。それだからこそ、罪と不従順からくる裁きと呪いを全部イエス様に負わせたのです。人間には背負いきれないと知っていたからです。人間に、「罪と不従順を即刻捨てよ、さもないとお前は永遠の火に焼かれる」とはおっしゃりませんでした。「私は、お前の罪と不従順をお前から取り除いて、私の独り子に張り付けたのだ、それを忘れるな」とおっしゃっているのです。私たちが優等生だから褒美としてイエス様を送られたのではなく、どうしようもない存在だから送られたのです。
 
そういうわけで、キリスト教で人間をそれとして認めるというのは、創造者を抜きにした被造物同士の認め合いではありません。自分を造った神が自分を認めてくれたということが出発点になっています。そうした神の愛への深い驚きと感謝の念がその後の人生のバックボーンを形作ります。神の御心と意志に沿う生き方をしようと志します。しかし、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。告白に続く罪の赦しとは、「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい」と確証を得ることです。主の道を整えるとは、このように、洗礼の前だけでなく、洗礼の後も続きます。ルターは、人が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去り、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意志に反することが自分の周囲のみならず自分のうちにも現れて、神の愛から私たちを切り離そうとし、それを相手に苦しい戦いを強いられることも多くあるでしょう。でも、神の意志に反することを体現しているものは、恐るべきものではありません。本当に恐れるべきものは、人間を造り、一人一人の髪の毛の数まで数えておられ、肉体だけでなく魂も滅ぼすことが出来る神であります。その神が愛を示して私たちにイエス様を送って下さいました。イエス様は、罪と死と悪魔が私たちを服従させようとする力を無にして下さいました。そのイエス様が共におられます。なにをか恐れじです。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン
 

2011年12月9日金曜日

ホサナ - 人の心をはるかに超える神の計画  (吉村博明)

  
説教者 吉村博明 {フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士}
  
主日礼拝説教 2011年11月27日(待降節第一主日)
日本福音ルーテル横浜教会にて
  
聖書箇所
イザヤ書63:15-64:7、
コリントの信徒への第一の手紙1:3-9、
マルコによる福音書11:1-11

  
説教題 ホサナ - 人の心をはるかに超える神の計画
  
  
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
.

 本日は待降節第一主日です。教会の暦では今日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日等の大きな節目をひとつひとつ迎えていく一年が幕を開けました。横浜教会と教会に繋がる皆様一人ひとりが父なる神からの恵み憐れみのうちにとどまり、皆様の日々の歩みに豊かな祝福と良い導きがありますように。
 
 本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。ここで少しノスタルジーになってしまいますが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会での待降節第一主日の礼拝はどのようなものか少し触れることから本題に入っていこうと思います。
 
 両国の待降節第一主日の礼拝の流れは毎年同じで、福音書の日課は、本日と同じマルコ11111節か、またはマタイ21111節ないしルカ192840節です。朗読が群衆の歓呼のところまでくると、いったん止まって、パイプオルガンが前奏を弾き始め、讃美歌第一番の歌「ホシアンナ、ダビデの子よ」をみんなで歌います。そのようにして、聖句の群衆の歓呼の部分をみんなで歌うことに置き換えます。教会の新しい一年を元気よく始められる雰囲気で教会は満ち溢れます。
 
 ところで、フィンランドとスウェーデンの讃美歌第一番ですが、日本語訳の聖書にあるホサナという言葉ではなくて、ホシアンナという言葉を使います。両国のルター派の聖書の本日の箇所も、ホサナではなく、ホシアンナになっています。何が違うのでしょうか?このホサナないしホシアンナというのは、もともとは詩篇11825節にある言葉から来たものです。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。原語のヘブライ語に忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」となりますが、この「どうか救って下さい」がהושיעה נא  ホシアンナになります。そこで、本日の箇所の群衆の歓呼がある910節はこの詩篇1182526節の引用がもとになっています。それで、ホサナと言わずにホシアンナと言った方が、引用元の詩篇の聖句に忠実なわけです。では、どうして日本語の聖書ではホシアンナと言わずにホサナと言うのでしょうか。ホサナהישע־נא  というのは、実はヘブライ語のホシアンナをアラム語に訳したものです。イエス様の時代の現在のパレスチナの地域では、ヘブライ語は旧約聖書を初めとするユダヤ教社会の書物の言葉としては残っていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語という言葉でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読にはアラム語の訳がつけられていました。イエス様の十字架と復活の出来事の後、目撃者であった弟子たちが生き証人となって、イエス・キリストこそ神の子であり、救い主であると宣べ伝え始めます。最初は口伝えの伝承と断片的に書きとめられた記録が宣べ伝えの媒体でしたが、それらの言葉はアラム語でした。宣べ伝えがローマ帝国の東側に広がりだすと、そこはギリシャ語が公用語の世界でしたので、アラム語の伝承と記録はどんどんギリシャ語に訳されていき、それで新約聖書は最終的にギリシャ語で出来上がったのでした。しかしながら、伝承と記録全てがギリシャ語に訳されたわけではありません。このホサナのようにアラム語の言葉が、ギリシャ語に訳されずにそのまま残ったものもあります。つまり、フィンランド語とスウェーデン語訳の聖書は、群衆が声に出したアラム語の言葉を引用元のヘブライ語に戻したというわけです。ドイツ語の訳(ルター1912年版)もそうです。そうすると、日本語の訳は、当時の群衆の肉声がそのまま伝わるようになっていると言えます。英語の訳(NIV)はホサンナとなっていて、どうやらホサナとホシアンナの中間をとったようです。
 
 以上のことは、私たちの信仰の成長という課題から見たら、瑣末なことですが、知っていれば、いればで、聖書を読んでいて、当時その場面にいあわせた人々の生の声にそのまま接することができます。聖書に書いてある出来事が何か空想から生まれたおとぎ話という淡い夢を打ち破り、本当にあったのだというリアリティーを与えます。このホサナの他にも新約聖書には、イエス様自身が述べた言葉や文がアラム語の発音のまま記されて、日本語訳ではカタカナで表記されて、その意味が付け足されている箇所がいくつかあります。ちなみに、このホサナないしホシアンナは、もともとは、神に救いをお願いする意味でしたが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時に歓呼の言葉として使われていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、子ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景であります。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?
 
 さらに、イエス様は弟子たちに子ロバを連れてくるように命じますが、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのであります。具体的な行為をもって神の意志を実現するというのであります。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
 
2.

 このイエス様の神聖な行為は、旧約聖書の預言書の一つであるゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9910節には、来るべきメシアの到来についての預言があります。
 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
 
 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」となります。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような義なる者とされます)。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて、世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことを実現する者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのであります。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。
 
 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという預言はイザヤ書の11110節にも記されています。 
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
 
このように危害とか害悪というものが全く存在せず、全てが神の守りの下に置かれている世界はもうこの世のものではありません。この世が終わった後に到来する新しい世です。その新しい世を導く「エッサイの根」とは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者であります。つまり、イエス・キリストを指します。やがては今の世にかわって、このような神の神聖で善い意志に服する新しい世が到来する。その時に主導的な役割を果たすのがイエス・キリストということであります。今の世が新しい世にとってかわるという預言書に預言された大事業は、イエス様が担うことになりました。子ロバにのってエルサレムに入城するというのは、まさにその預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという大事業は、イエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?
 
3.

 この大事業は、当時のイスラエルの人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の方向に展開しました。というのは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が来て新しい国を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち砕いてイスラエル王国を再興することを意味していました。人によっては通常の地上の王国を考えていた者もいれば、この世が終わって天と地が新しくされたり死者の復活が起きるという次の世に(イザヤ書6622節、ゼカリヤ書147節、ヨエル書34節、ダニエル書1213節)現れる超越的な国を考えていた者もありました。この世的な王国であれ、超越的なものであれ、いずれにしても、当時の人々は、ユダヤ民族の国が再興されるという形で新しいダビデの王国を考えていました。イザヤ書2章やゼカリヤ書14章に、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに登ってくるという預言があります。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、旧約聖書の預言のもっと別の面も含まれていたのであります。どんなことか、以下にみてまいりましょう。
 
 エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しい論争を繰り広げます。宗教指導層がもうイエスを生かしてはおけないと憎悪を燃やした理由は三つありました。一つには、神殿から商人を追い出すという、神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦したということがあります。実は、このイエス様の行動は、ゼカリヤ書1421節「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」という預言とイザヤ書567節「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という預言の成就を意味しました。二つ目には、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者ローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせ、せっかく一応の安逸を得ているところに軍事介入を招いてしまう危険があること。三つ目には、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章にある終末の日に到来するメシア「人の子」であると公言していること。つまり自分を神に並ぶ者としていること。さらにもっと直接に自分を神の子と見なしていること。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言を部分的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。まさにイエス様が十字架にかけられた後、旧約の預言を全部みて全てが理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。
 
 イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命、復活の命への扉が開かれたことが明らかになりました。最初の人間アダムとエヴァの堕罪以来、人間が死する存在となってから閉ざされていた扉が開かれたのであります。イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、人間は死を超えた永遠の命につながることが出来るようになったのです。ここで、人間が死を超えられない存在になった原因である神への不従順と罪が赦されたことが明らかになりました。どこでどうやって赦されたのでしょうか。イエス様が十字架の上で人間の不従順と罪の裁きを全部引き受けて下さったことによります。その時、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ1045節)の意味が明らかになりました。人間は罪と不従順の奴隷の身だったのが、イエス様が自分の命を身代金として支払って解放して下さったのです。あわせて旧約聖書の預言も次々に明らかになりました。イザヤ書53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことでした。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(36節)
「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(1112節) 
 
 実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、わたしたち人間すべてに救いをもたらしたのです。イエス様の神聖なエルサレム入場は、この救いの成就が目的だったのです。この世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことだったのです。まず、神がイエス様を用いて実現された救いに出来るだけ多くの人が与れるようにしなければならない。しかし、それはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出す。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進み、最終的にはこの世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が生じ今見えるものは全て崩れ落ちて、神の国だけが見える形で現れ、新しい世が始まることになります(ヘブライ122629節)。このように神の国の構成員となるのは、もはやユダヤ民族というより、イエスを救い主と信じて洗礼を受けた人たちということになります。諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに登ってくるというのは、もはや地理上のエルサレムをささず、ヨハネの黙示録21章にある天上のエルサレムを意味します。以上から、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものだったのです。それが神の意図でした。これを明らかにしたのが、イエス・キリストでした。神の送られた御子であるがゆえに、神の意図を明らかにすることができたのであります。
 
 
4.

以上から、神の意志と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様が子ロバにまたがってエルサレムに入城したことが明らかになりました。そしてその大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約理解を超えた形で展開しました。しかし、旧約をもっと全体的に理解すれば、イエス様の十字架と復活こそ、大事業が計画通りに進んでいることを示す出来事であったとわかるのです。十字架と復活の後に続く時代、つまり私たちが今生きている時代は、イエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわります。この間の時代は、人間が、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神の実現された救いを所有するようになった者とそうでない者の二つがわかれる時代でもあります。救いは全ての人間のために実現したものである以上、できるだけ多くの人がその所有者になってほしいというのが神の意志です。それゆえ、わたしたちキリスト教徒は、隣人愛を実践する際には、隣人の心を造り主、贖い主である神に向けさせるようにしなければなりません。難しいことですが、だからと言って放棄すれば、それは神の意志に反することになります。
 
最後に、イエス様の教えと業はいかに旧約聖書に基づいているかを強調して終わろうと思います。一般に、旧約聖書とは神とユダヤ民族との契約についての書物であり、新約聖書とはユダヤ民族を超えてイエス・キリストを救い主と信じる人たちと神との新しい契約についての書物と言われます。そのせいか、古い契約は新しい契約に取って代わられたとみなされ、新約の立場からすれば旧約は廃れたものとか、果てはイエス様は旧約を覆した英雄のようなイメージがもたれることがあります。しかし、それは間違いです。イエス様は旧約の教えに反対していません。反対したのは、旧約の教えを間違って理解した宗教指導層であり、その間違った理解でした。イエス様自身は、旧約の正しい理解を示して神の意志を明らかにしようとしたのであります。本説教においても、イエス様はいかに御自分の教えと業が旧約の預言に基づいているかを示したことが明らかになりました。イエス様は、驚くほど旧約の教えに忠実なのであります。
 
マタイ51718節でイエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とおっしゃられました。もしイエス様が旧約のある教えを超えるようなことを教えることがあっても、それは旧約の別のところに根拠がみつかります。例として、マタイ53839節で「歯には歯をと言われているが悪に反抗してはならない。右の頬を打たれたら左を出せ」と教えられます。これは出エジプト記2124節(申命記1921節も)にある「歯には歯を」の規定を覆しているように見えますが、実は箴言2429節にある仕返しを考えてはならないと教えが背景にあります。哀歌330節は、打つ者に頬を差し出せとも言っているので、イエス様が何か全くユニークな教えを出したということではないのです。ルカ10章には有名な「善きサマリア人」のたとえがあります。そこでイエス様は、隣人愛は民族の壁を超えるものであると教え、隣人愛をユダヤ民族内部にとどめるよう考えるレビ記185節を覆しているのだと言われます。これも注意して読めば、イエス様のもともとの狙いは、ユダヤ人、特に宗教指導層がどれだけ同胞に対してさえ隣人愛を行っていないかを思い知らせるために語ったものだったということがわかります。つまり傷ついたユダヤ人を助けたのは結局異民族のサマリア人だったくらいに、レビ記185節がユダヤ民族内でほごにされている現実を暴露したのであります。これらの例からもわかるように、旧約を超越するような教えはありません。そもそもイエス様を送られた神は、旧約で天地を創造し人を造られた神と同じ神ですので、その神を超えるようなことはイエス様は教えないのです。
 
もちろんモーセ5書にある神殿にて神に捧げるおびただしい生け贄の規定は、実行する必要はありません。なぜなら、生け贄を捧げる神殿は存在しないし、それにそもそもイエス様が自らを犠牲にして私たち人間を罪から贖って下さったので、贖いのために捧げる生け贄はもう一切不要だからです。人間はいつの世でも罪と不従順を抱えているので、救われるためにはそれらから贖われることが必要です。そのため贖いの必要性を示す生け贄規定は消去できません。同時に、イエス様は、罪と不従順からの贖いはこれ一回で十分というくらいの徹底的な贖いを御自分の命を犠牲にして実現しました。そのイエス様を救い主と信じていれば、神から罪を赦してもらおうと生け贄規定を守る必要はありません。まさに、イエス様は律法や預言書を廃止したのではなく、完成したのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2011年12月1日木曜日

最後の審判で神は何を裁くのか (吉村博明)

  
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士) 
  
  
主日礼拝説教 2011年11月20日(聖霊降臨後最終主日)
日本福音ルーテル横須賀教会にて

「エゼキエル書」34章11-16、23-24節、
「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章1-11節、
「マタイによる福音書」25章31-46節


説教題 最後の審判で神は何を裁くのか




私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

.

 本日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それは最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命、復活の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。本日の福音書の箇所であるマタイ253146節は、フィンランドでも「裁きの主日」の日課の一つに定められています。
 
この箇所は、また、キリスト教徒が社会的弱者や病気その他の苦しみにある人たちを助ける行動へと促す聖句としても知られています。この箇所に出てくる王というのは、31節で終わりの日に到来する人の子であると言っているので、再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで、多くのキリスト教徒が、弱者や困窮した者、特に子供たちに主の面影を見て、支援や救援に乗り出して行くのであります。
 
しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に入れるか、永遠の火に投げ込まれるかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かということが中心となってしまい、それでは、信仰義認を掲げて、救いを善い業にではなく信仰のみに基づかせるルター派の信仰と相いれなくなります。私がフィンランドに住んでいた時、隣の市の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの日」の頃でした。新聞に三人の候補者をいろいろテストする特集記事があり、本日の箇所であるマタイ253146節と信仰義認の関係をどう考えるかという質問がぶつけられていました(主任牧師の選挙が一般紙の記事になるというのは、ルター派の国教会がいかにフィンランド社会に根差しているということのあらわれでしょう。ただし、根差していると言っても、いい意味も悪い意味もありますが)。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でありたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。
 
問題は、ルター派だけに限られません。善い業を行えば救われると言えば、もうイエス様を主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。J・エレミアスという世界的に著名な新約釈義学者などは、この箇所の歴史的イエスの意図は、まさにそこにあったと言っているほどです。そんなことを言ったら、仏教徒だって、イスラム教徒だって、果てはヒューマニズム人間中心主義を追及する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っているので、みんなこぞって神の国に入れることになります。しかし、それは、ヨハネ146節におけるイエス様の「わたしは道であり、真理であり、命である(注 どれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」という言葉と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを言っているのでしょうか?
 
この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言うならば、本日の箇所は、善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて見れば、本日の箇所も、信仰による救いをはっきりと教えていることがわかります。これから、そのことを明らかにしてまいりましょう。ひょっとしたら、本説教は途中まで聞くと、この箇所を拠りどころとしてさまざまな支援活動に携わるキリスト教徒を不安に陥れたり、また憤慨させてしまうかもしれません。しかし、最後まで聞けば、本説教は、支援活動に水を差すものでは全くなく、活動に新しい土台を据えるものであることがわかると思います。
 
2.

 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれて主イエス様が再臨する。裁きの王座につくと、全ての諸国民を御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分け、羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置く。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠を言い渡す。そこで、普通見落とされていることですが、実は、この最後の審判の場には、人々のグループは二つではなく、三つあります。40節で再臨の主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言いますが、これがその三つ目のグループであります。つまり、主の兄弟グループも同じ場にいるのです。日本語で「この最も小さい者」の「この」と言っているのは、ギリシャ語原文では複数形なので「これらの」という意味です。全文を原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たちの一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」となります。つまり、主は、羊と山羊の二グループに対し、「ほら、みなさい」と、兄弟グループを指し示しているのであります。
 
それでは、この主の兄弟グループは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のελαχιστοςという言葉は、物理的身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような抽象的な意味です。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような存在です。社会の基準からみて価値なしとみなされる存在です。従って、主の兄弟たちは子供には限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいと思います。
 
では、この主の兄弟グループは、もっと具体的に誰であるか特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えがすぐに得られます。10章で、イエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、宣教に派遣します。その際、使徒たちに宣教旅行の規定を与え、迫害に直面しても神は決して見捨てはしないと励まします。そして、使徒たちを受け入れる者は使徒たちを派遣した当のイエス様を受け入れることになる(1040節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる(41節)、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」の「小さい」μικροςは、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。10章ではずっと使徒たちのことについて述べているので、この「小さい者」は、子供は指しません。使徒たちです。使徒とは、イエス様が、御自分の教えられることをしっかり聞きとめるようにと、また御自分がなさる業をしっかり見届けるようにと、選んだ弟子たち。そして、やがてイエス様の教えと業、十字架の死と復活の目撃者、生き証人となって、この神の人類救済計画実現の福音を命を賭してでも宣べ伝えるようにと、選んだ弟子たちであります。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。10章で、使徒を受け入れて、渇きに苦しむ使徒に水一杯を与える者は、報いを受けられると言っていますが、本日の箇所でも同じことを言っています。使徒を受け入れて、衣食住の支援をしてやり、病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に入るという報いを受けると言うのであります。
 
3.

 以上から、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを社会的弱者・困窮者一般を意味すると解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは、どうなってしまうでしょうか?キリスト者とは人を助けてこそキリスト者たりうると考えている人は、支援対象が福音を宣べ伝える使徒に限られていると聞いたら、なんと視野の狭い解釈だと怒ってしまうでしょう。しかし、これは解釈ではなく、書かれてあることに忠実な理解なのであります。それでは、この箇所は支援対象を使徒や使徒の働きを受け継ぐ人たちに限っているので、もう弱者・困窮者一般の支援は考える必要はないということになるでしょうか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえで隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者一般の支援もキリスト教信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということにあります。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と何も関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申し上げましたが、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは別にキリスト教徒でなくても、仏教徒でも、イスラム教徒でも、人間中心主義的な無神論者でも、無宗教の人も、みなわかるし、実践しています。では、キリスト教徒が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。そのことを、本日の箇所をもとにして見てまいりましょう。
 
使徒というのは、先ほども申し上げましたように、イエス様が、御自分の教えをしっかり聞きとめるようにと、また御自分の業をしっかり見届けるようにと、選んだ者たちです。そして、やがてイエス様の教えと業、十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、この神の人類救済計画の福音を宣べ伝えるようにと選んだ者たちです。この福音の宣べ伝えは、人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では、使徒たちを受け入れて、困窮状態にある彼らをいろいろな仕方で支援してあげる人たちが出る。他方では、彼らを受け入れることもせず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出る。ところで、支援する人たちは、支援をすることで、逆に使徒と同じ仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということを思い起こす必要があります。その意味で、支援した者たちというのは、使徒たちがみすぼらしくしているから可哀そうに思って助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音を信じたから、彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのであります。つまり、支援した者たちは、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った者たちであります。使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちであります。つまるところ、信仰を持つに至ったか、至らなかったかということが、神の国に入れるか、永遠の火に投げ込まれるかを決める基準なのであります。そういうわけで、本日の箇所は、善行義認なんかではなく、文字通り信仰義認を教えているのであります。
 
ここで一つ疑問が起きます。支援した者たちが信仰を持つに至った者たちであると言っても、洗礼を受けた者たちであるとは一言も言っていないではないかという疑問です。信仰を持つに至った者たちとは言っても、やはり彼らが支援してあげたことが救いを得る条件になっているではないか、救いは結局のところ善い業の実践にかかっているのではないか、という疑問です。この疑問に答えていきましょう。
 
まず、本日の箇所で洗礼が言及されていないことについて。本日の箇所は、イエス様が十字架にかけられる数日前にエルサレム郊外のオリーブ山で弟子たちに語った教えです。イエス様が、信仰と洗礼を一組として救いの要件として教えられるのは、復活後のことです(マルコ1616節、マタイ281920節)。そういうわけで、復活以前にイエス様が信仰について教えられた時、洗礼が救いの要件であるということはまだ特に明らかには述べられませんでした。しかし、洗礼が要件であることはイエス様の意図であることが復活後に明らかになった以上、復活以前の教えもそのことを踏まえてみなければならなくなります。そうすることで、復活以前の教えがはっきりわかるようになるのです。つまり、使徒たちを支援する者が使徒たちを「受け入れる」と言うのは、使徒たちが携えてきた福音を信じ、イエス・キリストを救い主と信じて、そして洗礼を受けるくらいにまで「受け入れる」ということであります。従って、神の国に入れることは、信仰と洗礼が出発点になっていなければならないのです。善い業は、出発点ではなく、出発した後にでてくるものなのです。それでは、信仰と洗礼を出発点にして善い業がどのようにして出てくるのか、次にみてみましょう。
 
実は、このことは、本年2月最後の主日に本横須賀教会の説教で教えたことであります。復習の意味で振り返ってみます。ルター派では善い業を実践して神に義とされようという考えをとらないということは、先にも述べた通りです。私たちが義とされるのは、イエス様を救い主と信じる信仰によるからで、私たちが善い業を行ってその報酬として義とされるのではないのです。私たちにとって、善い業とは、救われたことの結果とし生じてくる実のようなものでなければならないのです。救われて、そんなに簡単に善い業が生まれてくるのかと疑う向きは、救われたことがどんなに大きな意味を持つか、一度立ち返って吟味する必要があります。
 
 最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を犯したことが原因で人間は死する存在になってしまう。そして人間は代々死んできたように、不従順と罪を代々受け継いできた。それに対して神は、人間が再び永遠の命を得て神のもとに戻れるようにしてあげようと計画をたて、それを実現するためにひとり子イエスをこの世に送られた。この神の子は、本来人間が受けるべき不従順と罪の裁きをかわりに全部引き受けて十字架の上で死なれた。しかし、それだけで終わらず、死から復活させられることで、死を超えた永遠の命、復活の命への扉を人間のために開かれた。このようにして神はひとり子イエスを用いて人間の救いを全部実現してしまったのであります。救いを得るために人間の側ですることと言えば、こうしたこと全てが自分のためになされたとわかって、イエス様を救い主として信じて洗礼を受けて、神の実現された救いの所有者になることです。これらは全て驚くべきことです。詩編4989節に、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできない、なぜならそれらはあまりにも高額だから、と書かれています。それなのに救いを所有するキリスト教徒は、死を超えた復活の命、永遠の命に至る道を歩んでいるのです。一体誰がこの高額な身代金を払って下さったのでしょうか。それは神ご自身でした。支払われた代価は、御子の流した尊い血だったのであります。
 
 神はイエス様を用いてこのようなとてつもなく大きなことを私たちに成し遂げて下さったということがわかれば、私たちは神を全身全霊で愛することが当然であると思うようになり、その神がそうしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となります。神の愛と恵みのなんたるやを知った時、私たちの心に愛が点火されるのです。これが、キリスト教徒の隣人愛の土台であり、出発点であります。ここで、キリスト教徒の隣人愛で注意しなければならないことは、神の意志には順序があるということです。神を全身全霊で愛するということと、隣人を自分を愛するが如く愛するということは、どちらか一方が欠けても神の意志が成立しないくらい、双方が同時になければならないものですが、それでも神への愛が先に来ることがポイントです。つまり、隣人愛の内容は、神への愛に規定されるということです。人間は皆、キリスト教徒であるなしにかかわらず、天地を造られイエス・キリストをこの世に送られた神に造られたものであります。それゆえ隣人を助けるということには、まさに、その人を造られ、その人を贖われた神へと、その人の心を向けさせることが伴っていなければなりません。それがない隣人愛は、もはや神を全身全霊で愛する隣人愛ではなく、別にキリスト教徒でなくても行える善い業の実践になります。
 
ところで、神の愛と恵みのなんたるやを知って、私たちの心に神への愛と隣人への愛が点火されたと言っても、現実はそう甘くはありません。隣人を自分を愛するが如くと言っても、いつも壁にぶつかるし、ましてや神を全身全霊で愛していると言えるかどうか。この自分のあるがままの姿を見ることができる時こそ、心の貧しい(霊的に貧しい)時であり、幸いなのであります(マタイ53節)。その時こそ、私たちは、洗礼の時に立ち返って、神の一方的な恵み憐れみによって義なるものとしていただいたことを思い起こし、私たちの萎えがちな愛にまた火をつけてもらいましょう。ルターは、キリスト教徒のこの世の人生は、洗礼の時に植えつけられた霊に結びつく新しい人と以前からある肉に結びついた古い人との間の内的な戦いであると教えます。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いであると。復活の日にキリスト教徒は古い人を最終的に捨て去って、完全なキリスト教徒になると言っています。この戦いは、本当に一進一退の戦いですが、聖書にある神の御言葉と聖礼典にしっかり結びついていれば、イエス様が必ず勝利に導いて下さいます。キリスト教徒とは、いわば、救いを受けたことで身も心も新たにされ、それを土台に一進一退を繰り返しながらも育っていく人です。嵐や日照りに遭遇しても、根は「神の実現された救い」という移し替えられない土壌にすでに張ってあり、聖書の御言葉と聖餐からは「神の恵み憐れみ」という栄養を日々摂取して育っていくのであります。
 
4.

 最後に、本日の箇所の中でもう一つ大事なことがあることについて、注意を喚起したく思います。それは、34節で、再臨の主が、使徒を受け入れてキリスト信仰を持つに至った人たちに次のように言います。「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」仮に、この私が神の国に入れる者とすると - 神様、そう信じることをお許しください - 神の国はこの私のために天地創造の時から用意されていたというのです。私が神の国に入れることは、もう天地創造の時から神はもうご存じなのです。これは驚くべきことです。つまり、神は救われる者が誰かは既にご存じなのです。これは、私たちを大きな不安に陥れます。この自分はその一人なのであろうか。それから、私の愛するあの人はその一人なのであろうか。でも、これを知ることは神の専権事項で、私たち人間が立ち入られることではありません。ある人が、ある日突然、イエス様を自分の救い主と信じるようになって洗礼を受けた時、私たちは、ああ、この人も救いに与っていた人だったんだな、私たちは今それをわかったが神様はもうずっと前から知っていたんだな、と事後的にわかるだけです。救いに与っているかどうかという問題について、私たちが出来ることは、神が実現して下さった救いにしっかりとどまり、聖書の御言葉と聖礼典にしっかり繋がって、神の恵み憐れみにしがみついていることだけです。そのような者を神は決して見放したりはしません。また、イエス・キリストを知らない隣人はどうしたらいいかという問題については、機会が来れば勇気をもって証ができるようにと、また、機会が来なければ来るようにと神に祈ることです。
 
神の国が天地創造の時から決まった人に用意されているのに対して、永遠の火も用意されています。ただし、神の国の用意と大きな違いがあります。神の国は、決まった救われる人たちに用意されていますが、永遠の火が用意されているのは「悪魔とその手下ども(ギリシャ語では「その御使いども」)」です(2541節)。人間にではありません。これからも明らかなように、永遠の火は本来は悪魔とその霊的な手下どもが投げ入れられる場所でした。それが、ある人たちも一緒に投げ込まれてしまう場所になってしまったのです。ある人たちとは、本説教でも明らかにしたように、使徒たちの携えてきた福音を受け入れず、神の意志に背を向けたりあしらったりする人たちです。本来、悪魔に用意された永遠の火に人が陥らないように、隣人の心を創造の主、贖いの主である神に向けられるようにすることは、私たちキリスト教徒の困難ではあるが、避けられない責務であると強調して、本説教を終わりにしたく思います。 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン