2015年3月23日月曜日

イエス・キリストという光に照らされて生きる (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2015年3月22日 四旬節第五主日

エレミア書31章31-34節
エフェソの信徒への手紙3章14-21節
ヨハネによる福音書12章36b-50節

説教題 イエス・キリストという光に照らされて生きる


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様は永遠の命に至る道を照らす光

 ヨハネ福音書では、イエス様が「光」であるということがよく言われます。本日の箇所や先週の箇所のようにイエス様が「自分はこの世に来た光である」(319節、1246節)とか「この世の光である」(812節、95節、123536節)と自分で言う場合もあるし、この福音書を記述したヨハネが、イエス様は光であったと総括する場合もあります(1459節)。イエス様が光であるとは、どんな意味でしょうか?

 ひとつには、闇の中を照らして、私たちが道を誤らず正しい道を歩めるようにするという意味があります。ヨハネ812節で、イエス様は「私は世の光である。私に従って来る者は闇の中を歩むことがなく、命の光を持つに至る」と言います。また、1235節では、「もう少しの間、光はあなたがたと共にいる。あなたがたが光を持っている間に歩みなさい。闇に捕らわれてしまわないように。闇の中を歩む者は、自分がどこへ向かっているかわからないのだ」と言います。

 それでは、イエス様という光を持った時、人はどこへ向かって歩むのでしょうか?何か目的地があって、そこへ道を誤らないで行けるようにとイエス様が光となって道を照らして下さっている。イエス様という光が照らなければ、周りは全くの暗闇で誰も道が見えず目的地に到達できない。その目的地とはどこなのでしょうか?

 それは、神の国です。天の御国とか、短くして天国とも呼ばれます。日本語で普通、天国と言うと、死んだ人が行くところで、亡くなった人たちがそこからこの世にいる私たちを見守ってくれている場所という意味で使われます。興味深いことに一般の仏教関係の人たちも、亡くなった人が極楽浄土から私たちを見守ってくれているとはあまり言わないのではないか、天国から見守ってくれているというのが一般的ではないかと思います。恐らく、極楽浄土も天国も同じものという理解がされていると考えられます。(あるいは、極楽浄土に到達するまでは33年くらいかかると考えられているので、それまでは極楽浄土から見守ってくれている、とは言えません。それで、亡くなった方が見守りをしてくれる場所として天国が引き合いに出されるのかもしれません。)

ところが、キリスト教でいう天国とか神の国というものは、今どこか上の方にあってそこから亡くなった人たちが見下ろすようにして見守ってくれているところではありません。確かに神の国は今、私たち人間のあずかり知らないところ、天地・人間を造られた神がおられるところにあります。しかし、その神の国に人間が迎え入れられるのは、まだ先のことです。いつのことになるかというと、「ヘブライ人への手紙」122628節に答えがあります。「(神は)今は次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」

つまり、今私たちの周りにある森羅万象が揺り動かされ取り除かれる時、唯一揺り動かされず取り除かれないものが現れてくる。それが神の国であります。このような森羅万象の大変動について、イザヤ書を見ると、神が今ある天と地にかわる新しい天と地を造るという預言があります(6517節、6622節)。このような新しい天と地のもとで神の国が現れるということが、黙示録21章のはじめに預言されています。このようにキリスト信仰では、神の国とか天国というものが人間にとって具体的なものになるのはいつかと言うと、それは、今のこの世が終わりを告げる終末の日のことなのです。ここで一つ付け加えますと、キリスト信仰では、この世の終わりの日に死者の復活ということが起こり、イエス様を救い主と信じる者が神の御心に適う者として神の国に迎え入れられるということです。(こういう教えは近年では、他の宗教に失礼と言わんばかり、あまり言わなくなってきたように見受けられますが、でもこれはキリスト教の主眼なのであります。)

さきほど、一般の仏教関係者の天国観がはっきりしないというようなことを申し上げましたが、はっきりしない点ではキリスト教会も同じではないかと思います。いつだか、某教会の総会に顔を出したら、教会がこの世に神の国を建設する、などと言っていて、ルターが聞いたらびっくりするのではないかと思いました。小教理問答を見てもわかるように、ルターに言わせれば、神の国は、つくるも何も、既に神のもとにあり、いつか私たちのもとに来るものだからです。そう言っても、今現在の私たちが神の国と無関係ということではありません。神の国とは、ルターの言葉を借りるまでもなく、完全な罪の赦しがある世界です。もし、私たちが、神に罪の告白をし、洗礼、聖餐そしてイエス様を救い主と信じる信仰を手掛かりとして神から赦しをいただければ、それはもう、神の国と見えない形でつながっていることになるのです。それが、この世が終わりを告げる終末の日、復活の日につながりが見える形になるということです。

以上のように、キリスト教では神の国とか天国というものは将来に関係するものということになります。そうすると、それでは既に亡くなった方たちはその日まではどこでどうしているのか、という疑問が起きてきます。これについては、当教会の説教や聖書の学びでも度々触れたところでありますが、ルターによれば、亡くなった人は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということであります。復活の日に目覚めさせられて復活の新しい命と体を与えられて、もともと自分を造られた神のもとに永遠に迎え入れられるということであります。たとえ眠っていた時間がこの世の時間単位では100年であっても1000年であっても、眠っていた本人にすれば目を閉じて再び開けるまではほんの一瞬にしか感じられないとルターは教えています。

復活の日まで亡くなった方がただ安らかに眠っているだけというのは、この世に残された側にしてみれば寂しいものがあると思います。そうしたら、今起きていて目を覚まして自分たちのことを見守ってくれる者がいなくなってしまうではないか、と。それが、キリスト信仰ではちゃんと今起きていて目を覚まして見守ってくれる方がいるのです。誰かと言うと、天と地と人間を造られた神がそれです。神は、今この世を生きている者だけでなく、この世から離れて今安らかに眠っている方も同様に造られた方で、その神が私たちを見守って下さるのです。誰でも最愛の人に先立たれたら悲しみのどん底に突き落とされます。そういう時、日本では一般に、亡くなった方が天国から見守ってくれるという思いが励ましになっています。キリスト信仰では、見守りは自分の造り主である神がしてくれて、亡くなった方に関しては復活の日に再会できるという希望が励ましになっています。

それでは、復活の新しい命と体を与えられた者が迎え入れられるという神の国、天国とはどういうところかについて、聖書に沿って少し具体的にみてみましょう。黙示録2134節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」つまり天国とは、この世で私たちの身に降りかかっていた苦難や害悪を、もうこれで涙は流さなくてもいいんだよ、というくらいにまで神が全てを清算してくれるところです。天国はまた、黙示録1979節で盛大な結婚式の祝宴にたとえられます。それは、新しい天と地のもとでは、以前生きていた世の労苦を全て労われるということです。そして、神のもとに永遠にいることになるので、死というものがありません。

 それでは、このような天国に行けるために、なぜイエス様という光がなければならないのでしょうか?それは、私たち人間の状態が、神と永遠に一緒にいられる状態にはないからです。創世記3章に堕罪の出来事が記されています。最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死ぬ存在となってしまいました。神聖な神と神に造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。人間は自分の力でこの断絶を埋めることはできません。なぜなら、そうするためには人間は神と同じくらい神聖な存在にならなければならないからです。この神との断絶をそのままにしておくと、人間はこの世から死んだ後、永遠に造り主から離れ離れになります。そうなると、天国での完全な清算からも完全な労いからも永遠に遠ざけられてしまいます。そればかりか、黙示録20章やマタイ25章に出てくる永遠の火に投げ込まれてしまうかどうかという問題も迫ってきます。

しかしながら神は、人間が永遠に自分のもとに戻ることができるようにと、つまり人間がそれくらい神の目に相応しいものになれるようにと、そのための手筈を全て整えて下さいました。どのようにしてかと言うと、ひとり子イエス様をこの世に送り、全人類分の罪と不従順の罰を全て彼に負わせて、私たちの身代わりとして十字架の上で死なせたのです。人間に向けられていた罰は全部イエス様が吸収・消化してしまったので、人間からすれば誰か他人の犠牲で罰を帳消しにしてもらえる状況が生まれました。それだけでなく神は、一度死んだイエス様を復活させて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉をも人間のために開いて下さいました。

このように神は、イエス様を用いて人間のために「罪の赦しの救い」を用意して下さいました。この知らせ ― この良い知らせを福音と呼びますが、これを聞いた人が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主と信じて洗礼を受けると、人間はこの「罪の赦しの救い」を自分のものとして受け取ることができるのです。そして、その人は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなり、神との結びつきを回復した者として、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分の造り主のもとにもどることができるようになったのであります。

もし、イエス様という光を持たなければ、誰も目的地がどこにあるか見えません。また、そこに到達する道も見えません。全てが闇の中です。ヨハネ146節で、イエス様は自分のことを、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われますが、まさにその通りなのです。

2.イエス様は人間を照らし出す光

以上、イエス様が光であると言う時、それは神の国、天国という目的地とそこに至る道を私たちに照らしてくれる光という意味があることをお教えしました。もう一つの意味があることを忘れてはなりません。それは、ヨハネ19節で言われるように、人間を照らし出す光という意味です。人間を照らし出してどうするのかと言うと、人間に宿る罪や神への不従順を白日の下に晒すということであります。

人間に宿る罪や不従順というものは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者といえども免れていません。キリスト信仰者とは、イエス様が持っている神の義という純白な衣を頭から被せられただけの者なので、実はまだ内側に罪と不従順を宿したままなのです。神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するが如く愛することが神の神聖な御心であると知っていながら、この内在する罪と不従順のためにそうしないことがよく起こります。けれども、そのたびに悔い改めの心を持って罪の告白をすれば、神は私たちに被せられているイエス様の純白の衣を見て、「この者は私が整えた救いをしっかり受け取っている」と確認して、私たちを赦して下さいます。まさにこのために、毎週行われる礼拝のはじめに罪の告白と罪の赦しの宣言があるのです。

このように罪の告白と赦しの宣言を繰り返しながら、私たちは永遠の命に至る道を歩みますが、ここには実に内面の戦いが不断に続きます。かたや、肉に結びつく古い人が悪魔と組んで、「神を全身全霊で愛さなくてもいい。隣人を自分を愛するが如く愛さなくてもいい」とそそのかし、そのようになってしまった時には、「それをわざわざ神に打ち明ける必要はない」とたぶらかし、私たちと造り主との関係をどんどん引き裂いていきます。この引き裂きを通して、私たちが造り主である神から独立した存在のように見せかけ、やがてはさも造り主など存在しないかのように、人間が自分こそ自分の主人であると錯覚させていきます。

これに対して、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく新しい人は、「神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するが如く愛することは、神が望んでおられることである」と知っており、もしそれに反してしまった場合には、すぐ神の方に向き直って赦しを乞わなければならないとわかっています。このように新しい人は、造り主である神に従属して、神との結びつきの中で生きていくことを志向します。この内面の戦いは苦しい戦いですが、私たちには、十字架の上で罪と死の力を無にし全てに勝利した主イエス様が常についていて下さることを忘れないようにしましょう。

このように、イエス様の光が私たちを照らし出すというのは、人間の真の姿を晒しだしながら、私たちが神との結びつきの中で生きられるようにするためであることが明らかになりました。先週の主日の福音書の箇所にあったヨハネ321節で、イエス様は「真理を行う者は光のもとに来る。それは、その人の行いが明るみに出て、それが神に導かれてなされたことが明らかになるためである」と言われていました。先週の説教でも申し上げましたが、「真理を行う」というのは、まさに、自分の罪と不従順を神の前に晒しだし、悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ること、これが「真理を行うこと」です。「ヘブライ人への手紙」415節には、罪の赦しという恵みの王座の前に勇気を持って進み出ること、これが、神から憐れみと恵みを受けて、時宜にかなった助けを頂けるために必要なことである、と言われています。キリスト信仰者の生きる力の源は、こうした「罪の赦しの救い」を土台とする神との結びつきにあると言えましょう。

3.どうしたら人々をイエス・キリストという光のもとに導けるか

 以上みてきたように、私たちは、イエス・キリストという光に照らされて、神の国、天国への道を誤らずに進むことができ、かつ自分の真実の姿を神に晒しだすことで神との絆、罪の赦しの絆を日々強めることができます。ヨハネ1247節で、イエス様は、自分の教えの言葉を聞いてそれを守れない人がいても、そのような人を裁くのではなく救うのだと言われます。私たちが、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようになるというのは、そうしないと罰せられるからという恐怖心からそうするのではありません。そうではなくて、「罪の赦しの救い」を頂いたことによる感謝から、そうするのです。これが、本日の旧約の日課の中で言われていた「神の律法が心に記された」(エレミア書3133節)ということです。心に記されていなければ、律法は単に私たちの外部にある規則でいやいや守るものにとどまります。ところが心に記されると、律法は私たちの心身の一部になり、守ることが当たり前のようになります。しかし、しょっちゅう守れない自分に気づかされて、それで罪の告白と赦しの宣言が必要となるのです。このようにキリスト信仰者は、イエス様の教えの言葉を受け取って、また神からも赦しを受け取って、日々イエス・キリストという光に照らされながら、この世を生きていくのであります。

ところが、こうした生き方と反対の生き方もあります。ヨハネ1248節で言われるように、イエス様という光自体を拒否し、彼の教えの言葉を受け取ろうとしない者がいます。その場合は、天国に行く道が照らされないので、そのような人にとって人生はただこの世だけで終わるか、または続きがあるとしてもそれは闇の世界です。また、自分の真実の姿を晒し出すこともしないので、自分の行い、思い、考え、発する言葉が造り主の意思とどれくらい離れているか知る由もないし、知りたくもない。そうなると、自分の主人は自分自身という自分中心の生き方になります。

 神が人間の救いを整えられ、そのためにイエス様を救い主としてお送りになったのに、なぜ人間は信じないで闇にとどまることを選ぶのでしょうか?本日の箇所の初めの方にある40節で、ヨハネ福音書の記者ヨハネは、ユダヤ人がイエス様を信じなかったのは、神がそうさせなかったからだと言います。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」ギリシャ語の原文はもっと強い調子で、「彼らが目で見ることがないように、心で悟らないように、立ち返らず、わたしが彼らを癒すことがないように、そのために神は彼らの目を見えなくした云々」です。

これは、イザヤ書610節にある神の言葉の引用です。引用元をみると、裁きの調子はもっと強く、「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」となっています。イザヤ書では、神は預言者イザヤに、これから出て行ってイスラエルの民の心をかたくなにせよ、目が見えないようにせよ、と命じます。ヨハネ福音書の引用では、心のかたくなさや目の見えなさは、もう実現されたことになっています。いずれにしても、人が神を信じないのは神がそうさせないようにするからだ、と言っているように見えます。もしそれが本当なら、イエス様を救い主と信じない人が出るのは神がそうさせないからということで、不信仰はその人のせいではなくて神のせいということになります。そうなれば、神が人を信じないようにさせておきながら、そういうふうになった人を裁いて、天国に行けないようにするというのはなんという理不尽なことかということになります。

しかしながら、イザヤ書610節はそれだけ取り出してみるべきではなく、同書のもっと広い文脈と神のその言葉が出た歴史的状況とをあわせて理解する必要があります。預言者イザヤが神のこの厳しい裁きの託宣を受けたのは、紀元前700年代の後半ユダ王国の王ウジヤが死んだ年です(イザヤ61節)。ウジヤ王の次にヨタム王が即位します。列王記下によると、ウジヤ王とヨタム王の二人の王自身は神の目に正しいことを行ったとのことですが(列王記下1534節)、国民の方はどうかというと、200年程前にさかのぼるレハブアム王の時代に異教の神崇拝をまねて国内各地に高台が築かれてアシェラ像なる像に生け贄を捧げることが始められ、天地創造の神の怒りを招くこととなりました(列王記上142224節)。この高台での生け贄の捧げはユダ王国の伝統となってしまったのです。イザヤの時代にもこれは続けられ、ウジヤ王もヨタム王も生け贄の高台は廃止できませんでした(列王記下1535節)。歴代誌下には、ヨタム王の時代の国民は「依然として堕落していた」と記されています(272節)。ヨタム王の次に即位したアハズ王はついに王自らこの高台の生け贄を推進する者となってしまいます(列王記下1634節)。

 このようにユダ王国の王と国民は、若干の王を除いて神の意思に背き続けていました。イザヤ書1章をみると、イザヤが活動し始めた頃のユダ王国の社会の混乱ぶり、道徳の退廃ぶり、そのくせ宗教的な行事や礼拝は外面的には守り続けている欺瞞性を糾弾する神の言葉が記されています。預言者イザヤが610節にある神の裁きの託宣を受けた時、彼はその目で神の姿を目撃してしまいます。彼はその時、汚れた唇を持つ民の中に住み自ら汚れた唇を持つ自分は神聖な神を見てしまった以上、自分は消滅してしまう、と恐れおののきます(イザヤ65節)。

つまり、神が民の心をかたくなにせよ、目が見えないようにせよ、と命じたのは、心が清い無垢な民の心をかたくなにすることでも、目が見える民の目を見えなくすることでもなかったのです。既に心がかたくなになっていて目が見えなくなっていた民に対して、もう何度言っても無駄だ、救いようがない、そんなに心をかたくなにしていたいのなら勝手にするがよい、そんなに目が見えないのが好きなら勝手にそうするがよい、と突き放したのであります。

神は、人間が再び造り主である御自分のもとに永遠に戻ることができるようにと、イエス様を用いて人間のために救いを整えられました。人間に対して、さあ、この救いを受け取りなさい、と提供して下さっているのです。救われるために人間がすることと言えば、それを受け取るだけです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ受け取りは完了です。しかし、どうぞと提供されて、いりません、と背を向けて受け取りを拒否した場合は、神はそのままにされます。拒否した人が自分の道をそのまま行くのにまかせます。しかし、神は、拒否した人に対して、それならもう提供なんかしてやるもんか、というスケールの小さいことは言いません。その人が考え直して受け取りに来る日を待っているのです。本当に受け取りに戻ってきたら、あの時拒否したくせに、などと嫌味になることもありません。戻ってきてくれたことを本心から喜んで下さるのです。その時の神の本心からの喜びがどのようなものであるかは、イエス様の有名な「放蕩息子」(ルカ151132節)のたとえに出てくる父親が息子の帰宅をどれほど喜んだかを思い出していただければ十分でしょう。

 先週の説教でも教えたところですが、私たちも、できるだけ多くの人が、神の整えられた救いを受け取ることができるように祈り、かつその受け取りを助けてあげることができるような知恵と力を、神に祈り求めていきましょう。もし、愛する肉親や隣人がまだ救いを受け取っていないのであれば、キリスト信仰者としては受け取ってほしいと願うのが本当でしょう。もし相手の方が、結構です、とか、他でやって下さい、という態度なら、まず、父なるみ神にお祈りして今の状況を説明して助けをお願いすることから始めます。先週申し上げたお祈りの一例をまた繰り返します。「天の父なるみ神よ、どうか、私にとって大事なあの人も、あなたとの結びつきを回復できて、その結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠にあなたのもとに戻ることができるように、イエス様を救い主と信じることができるようにして下さい。そのために、もし私が福音を伝える適任者とお思いでしたら、伝える機会をお与えください。私でなければ別の適任者を送ってください。もし、私に機会をお与えになる場合は、しっかり伝えられるようにあなたからの知恵と聖霊の導きをお与えください。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2015年3月16日月曜日

不信仰から信仰への軌道修正 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2015年3月15日 四旬節第四主日

民数記21章4-9節
エフェソの信徒への手紙2章4-10節
ヨハネによる福音書3章13-21節

説教題 不信仰から信仰への軌道修正


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに 

 東日本大震災から4年の年月が経ちました。先週は東京にいる私たちも、本当に新たに立ち止まって被災した方々や犠牲者の遺族の方々そして今なお避難生活を送っている方々の悲しみや苦労を心に留める1週間になりました。私たちを立ち止まらせた出来事と言えば、このところ残酷な殺人事件が相次いだこともあります。どれだけ多くの人の心を痛め立ち止まらせたかは、例えば多摩川の河川敷に置かれた花束の数からも明らかでしょう。あわせて東京大空襲から70年たったということで、その関連のニュースもあり、生存者の方たちの語りや出来事の惨さを伝える記録写真に、やはり心の立ち止まりを覚えた人が多かったのではないと思います。

このような時勢では、キリスト教会の礼拝の説教に対して、自分は何を考えたらいいのか、何をしたらいいのか、という問いに対する答えが期待されるのではないかと思います。聖書の御言葉から何か指針になるような答えが得られるのではないか、説教者が聖句から答えを導き出してくれるのではないか、と。しかしながら、聖書の御言葉というものは、今それを聞いている人たちが直面する問題や課題に直接的な答えや解決を出してくれるような、打ち出の小槌やアラジンの魔法のランプではありません。むしろ、御言葉というものは、イエス様にしろ預言者にしろ、最初に口にした時から始まって、それが聖書の形に文書化された時を経て、その後100年たった後でも1000年たった後でも2000年たった今もずっと変わることのない神の意思が貫かれているものです。そうした普遍的なものを説教者は明らかにしなければなりません。そして、その普遍的なものを聞いて確認した会衆は、今度はそれをもとにして自分の問題や課題、または自分が生きる同時代の問題や課題に向き合っていく、そういうものだと私は考えます。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、今日の世界にいて日本にいて東京の中野にいて、自分は何を考え何をすべきか、という問いは、一先ずこの礼拝の間は脇に置いて、まず人間に対する神の意思はそもそも何であったか、それを本日の御言葉を通して確認しましょう。それを終えてから私たちの日常に戻って、自分自身の課題または同時代的な問いに取り組んでいっても遅くはありません。

 本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答の一部です。ニコデモについて、新共同訳聖書では「ユダヤ人たちの議員」と訳されていますが、彼は間違いなく当時のユダヤ民族の最高意思決定機関である最高法院の議員だったのでしょう。ファリサイ派というのは、神に選ばれた民であるユダヤ民族が神聖さを保てるということに非常にこだわったグループでした。神殿祭司を中心とするサドカイ派と呼ばれるグループが別にありますが、いろいろな意味でこの二つは対称的なグループでした。ファリサイ派の人たちは、モーセ律法だけでなく、それから派生して出来た清めに関する規則も厳格に遵守することを唱え、自らそれを実践していました。

イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派の人たちも付きまとうようになります。一体、この男は群衆に何を吹き込もうとしているのか?あの男が律法や預言に依拠しているのは明らかだが、何かが違う。一体あいつの教えは何なんだ、という具合でした。イエス様に言わせれば、神の前での清さ、神聖さというのは表面的なものではない。内面を含めた全人格的な清さ、神聖さでなければならなかったのです。例えば、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても、心の中で他人を憎んだり見下したりしたら、もう破ったことになる(マタイ522節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟は、実際に婚姻外の性関係を持たなくても、心の中でそれを描いただけで破ったことになるとイエス様は教えたのであります(同528節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそういう深い所にあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせていたのであります。

全人格的に神の掟を守っているかどうかということが基準になると、人間はもはや本質上、神の前で清い存在になることは不可能です。それなのに、人間が自分で規則を作って、それを守ったり、また修行をすれば清くなれると信じて、自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、ファリサイ派のイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、中には、今のようなやり方で本当に神の前の清さ神聖さは保証されるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。本日の福音書の箇所に登場するニコデモは、まさにそのような自省する心を持ったファリサイ派だったと言えます。32節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様に向き合うと、たいてい批判や非難を浴びせかけるだけでしたので、夜にこっそり一人で出かけるというのは意味深です。ニコデモはイエス様から、人間の霊的な生まれ変わりについて、また神の愛や人間の救いについて教えを受けます。その後、ニコデモはファリサイ派がイエス様に対して抱く敵意に距離を置き始めます(751節)。イエス様が十字架刑で処刑された後、亡骸を引き取って手厚く埋葬することに奔走しました(1939節)。

本日の箇所は、イエス様とニコデモの間に交わされた人間の救いについての問答の一部ですが、その中にある316節は特に大事な聖句です。なぜかというと、この聖句には、旧約聖書と新約聖書の双方にまたがって聖書全体を貫く神の人間救済計画の趣旨が要約されているからです。ルター派教会が国教会的な地位にあるフィンランドでは、教会に属する中学2年生の子供たちの9割近くが10日から2週間に及ぶ堅信礼教育を受けます。そこでの課題の一つに多くの聖句を暗記することがあります。ヨハネ316節はその筆頭です。次にこのヨハネ福音書316節について見ていきたいと思います。

2.      ヨハネ316

 それでは、聖書全体を貫く神の人間救済計画の趣旨が詰まっているというヨハネ316節をみてみましょう。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 この聖句が理解できるためには、「滅び」とは何か、「永遠の命」とは何かがわからなければなりません。創世記3章に有名な堕罪の出来事があります。悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間が神に対して不従順となって、その命に罪が入り込んでしまい、それ以後人間は死ぬ存在となってしまいました。人間を造られた神聖な神とその神に造られた人間との結びつきが切れてしまったのです。この結びつきが切れた状態をそのままほうっておけば、人間はただ滅びるだけです。この世でどんなに栄えて栄華を誇っても、この世から死んだ後で、自分を造られた神と永遠に離れ離れの状態に陥ります。これが「滅び」です。神と永遠に離れ離れになる状態がどんなものかを理解するには、これと正反対である永遠に神のもとにいることができる状態、つまり「永遠の命」がどんなものかをみてみるのが良いと思います。それがわかれば、神と永遠に離れ離れの状態、つまり「滅び」とはその逆のことだとわかるからです。

 黙示録2134節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」これは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、まさに今のこの世が終わる日に、神が死んだ者のうちで御心に適う者を復活させて復活の命と体を与えて御許に迎え入れる時のことを言っています。そこに迎え入れられた者たちは、以前生きていた世で身に降りかかっていた全てのことが清算されて、もう涙は流さなくていい、重荷は負わなくてもいい、そういう完璧な安心安堵の状態に置かれるということです。そこに招き入れられる者たちは、黙示録19章で婚礼の祝宴に招かれた者と呼ばれます(79節)。それは、新しい天と地のもとで彼らが以前生きていた世の労苦を全て完全にねぎらわれるということです。彼らは、神のもとに永遠にいることになるので、彼らにはもう死は及びません。

そこで今度は、永遠に神から離れ離れになる滅びの状態をみていきますと、それは今言ったことと全く逆のことになります。まず、永遠の命に与れないので、死んだ後も以前生きていた世の悲しみ、嘆き、労苦やそれらの原因が解消されず引きずられ、涙を拭われることも労苦をねぎらわれることもありません。加えて、第二の死の危険が彼らを待ち受けています。マタイ福音書25章でイエス様は、悪魔とその手下たちを焼き尽くすために永遠の火が準備されていると述べていますが、人間のうちある者たちが最後の審判の日にその火に投げ込まれてしまう危険があると警鐘を鳴らしています。この同じ火は、黙示録20章でも出てきます。まず殉教したキリスト信仰者を中心とするグループが死から復活させられてキリストのもとに迎え入れられます(2046節)。それ以外の者たちについては、「命の書」という神の記録があって、以前生きていた全ての人間の生き様が記録されています。神はこれに基づいて一人ひとりの行先を決めます(12節)。そのうちの誰が永遠の火に投げ込まれ誰が投げ込まれないかについては述べられていません。ひとつ明確に言われていることは、この「命の書」に名前が載られていない者がいて、彼らは即、火に投げ込まれるということです(15節)。この永遠の火があるところは第二の死と呼ばれて(14節)、そこに投げ込まれたらが最後、昼も夜もなく永遠に焼かれることになり(10節)、この第二の死というのは永遠に続く死であります。

以上みたように、人間はこの世から死んだ後、もし自分の造り主である神のもとに戻れなければ、このような悲惨が待っているということを聖書は教えているのです。最近のキリスト教会ではこういうことを言うのは控えて、明るく楽しいことだけを言わなければいけないという雰囲気があるようですが、「こういうこと」を見ないと神がどうして愛と恵みに満ちた方なのかがわからなくなります。つまり、神は、堕罪で生じてしまった人間との断絶を悲しみ、自分の方からそれを解消してあげよう、人間が自分との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、万が一この世から死んでも、その時は永遠に自分のもとに戻れることが出来るようにしてあげようと決めたのです。「自分の方からしてあげよう」と言うのは、先ほども見ましたように、罪を内に持っている人間は神の意思を全人格的に100パーセント満たすことが出来ない、救いに関しては全く無力な存在だからです。人間の側のこの行き詰まりを打開するために、神はひとり子のイエス様をこの世に送られました。人間の罪から来る罰を全て身代わりにイエス様に負わせて、十字架の上で死なせ、人間の罪の償いをさせたのです。イエス様が人間の罪を全て十字架の上に運んで行って一緒に断罪されたことで、罪が持っていた力、人間が神との結びつきを持てなくしようとする力は無力にさせられました。そして、神がイエス様を三日目に復活させられたことで、死を超えた永遠の命に至る扉が人間に開かれました。人間が罪の支配から解放される可能性が打ち立てられたのです。

このように神は、人間が永遠の滅びから永遠に神のもとに戻れるようにするという救いを、イエス様を用いて全部自分で整えてしまいました。救われるために私たち人間がすることと言えば、この神が整えた救い、「罪の赦しの救い」をそのまま受け取ることだけです。これらのこと全てはまさにこの私のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この受け取りは完了します。先ほど読んでいただいた使徒書の日課「エフェソの信徒への手紙」の28節に、救いは人間の力によるのでなく神からの贈り物であると言われていましたが、まさにその通りなのであります。

ヨハネ316節にもどりましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」天地創造の後で起きた堕罪が原因で、人間を造られた神と造られた人間の間に断絶が生じてしまい、人間は永遠に神のもとに戻れず滅びに向かう存在になってしまいました。神と人間の結びつきを回復して人間が永遠に神のもとに戻れるようにしようと、神はひとり子のイエス様を用いて人間の救いを実現されたのです。ここに神が私たち人間をいかに愛しておられるかが明らかになります。このように、ヨハネ316節には、旧約新約全聖書を貫く神の人間救済の意思、言い換えれば神の愛が要約されているのであります。

3.      不信仰から信仰への軌道修正

 以上みてきたように神は、人間にかわって人間のために人間の救いを整えられました。あとは人間の方でそれを受け取ればよいだけとなりました。救いを受け取るとはどういうことかと言うと、神はこれらのことをこの私のためにイエス様を用いてなさって下さったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることです。しかし、人間はみんながみんなこの救いを受け取るとは限りません。なぜこの救いを受け取らない人がいるかと言うと、ひとつには、この神の整えられた救いについてまだ知らされていないということがありましょう。それだからこそ、福音の伝道が必要なのであります。しかしながら、救いを知らされても、それを受け取らない場合もあります。なぜ受け取らないかというと、ひとつの理由として、死んだ後の命など考えるのは馬鹿馬鹿しいと言って現世中心の考えで生きることがあります。もう一つの理由は、死んだ後の命を考えることはしても、聖書で教えるのと異なる考えをするという場合があります。異なる宗教を持つことがそれです。現世中心主義の考え方や異なる宗教があるために神の救いを受け取らないというのは、かたや非宗教的かたや宗教的と全く対称的でありますが、イエス・キリストを救い主と信じないという点では共通しています。そこで、本日の箇所の後半部分(1821節)で、イエス様はこのキリスト不信仰について教えますので、次にそれを見てみましょう。

ヨハネ318節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言われます。これは一見、イエス・キリストを信じない者は地獄行きに定められていると言っているように聞こえ、キリスト不信仰者はきっと、これこそキリスト教の独りよがりだと憤慨するでしょう。ここで注意しなければならないことがあります。もちろん、人間には善人もいれば悪人もいます。しかし、先ほども申し上げたように、人間は堕罪以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている。これは善人も悪人も同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪と不従順を受け継いでいるのです。みんながみんな、この世から死んだ後は永遠に神から離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されるのです。イエス様を救い主と信じなければ何も変わらず、堕罪以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが、「既に裁かれている」という意味です。従って、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それで軌道修正がなされて、「既に裁かれている」というのは過去のことになります。

319節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、彼を用いて、「こっちの道を行きなさい」と救いの道を整えて下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは、「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまうのです。

320節では、人々がイエス・キリストという光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、キリスト不信仰者からみれば、イエス様を信じない者は悪行を覆い隠そうとする悪人で、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように見えて、キリスト教はなんと独善的かと憤慨するところだと思います。しかし、それは早合点です。まず、キリスト信仰者と不信仰者の違いとして、不信仰者の場合は、人間の造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が、自分の造り主に全てお見通しという考えがありません。そもそも、そういうことを見通している造り主を持っていません。

キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意図からどれだけ離れているかが問題になります。結果はいつも離れているので、そのために罪の告白をして、イエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくというプロセスに入ります。毎週礼拝で行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。321節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善行を行うのではなく、「真理を行う」のであります。「真理を行う」というのは、自分自身について真の姿を造り主に知らせる、ということです。善行もしたかもしれないけれど、罪と不従順の結果もあわせて一緒に白日に晒すということです。私は全身全霊をもって神を愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでした、と認めることです。それで、以前であれば滅びの道を進む者でしかなかったのが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されるのであります。つまり、キリスト信仰者は自分の罪と不従順を神の目の前にさらけ出すことを辞さないのです。そのために悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ます。これが「真理を行う」ということです。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善行が人目に付くように明るみに出すためなんかではありません。そういう「罪の赦しの救い」の中で生きるキリスト信仰者が行うことは、321節に言われているように「神に導かれてなされる」ものとなります。善行も自分の力と能力の産物でなくなり、神の影響力があってなせるものとなり、人間は神の前で自分を誇ることができなくなるのです。

翻ってキリスト不信仰者は、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス・キリストという光が来ても、光のもとに行く理由がありません。(イエス様を信じなかったユダヤ人は、もちろん天地創造の神を崇拝してはいますが、イエス様を光とみなさないので、光のもとへは行きません。)しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むということであり、そこから人間を救い出したいがためにイエス様をこの世に送られたのでした。しかしながら、キリスト不信仰者は世界にまだ大勢います。さらに、一度イエス様を救い主と信じたにもかかわらず、それがはっきりしなくなってしまった人たちも大勢います。人間を救いたい神からみれば、これはゆゆしき大問題であります。本日の箇所のはじめの方で(14節)イエス様は、民数記21章のモーセが青銅の蛇を旗竿に掲げた出来事について述べます。毒蛇にかまれて死に瀕したイスラエルの民がこの旗竿の蛇を見ると皆、助かったという出来事です。イエス様は自分にも同じことが起きると預言されます。つまり、十字架に掲げられた自分を信じる者は、滅びから救われて永遠の命を得ると言うのであります。モーセの時は、かまれた人は皆、必死になって掲げられた旗竿の蛇をみました。しかし、掲げられたイエス様をそのように必死に仰ぐ人はまだ少数です。毒が体に回るという緊急事態に比べたら、滅びの道から永遠の命の道に軌道修正するというのは、緊急なものに感じられないかもしれません。しかし、造り主から永遠に離れ離れになるか、造り主のもとで永遠にいることになるか、これは重大な岐路であります。どうしたら、このことを多くの人に気づいてもらえるでしょうか?私たち一人一人は天地創造の神に造られた者でありながら、神との間には断絶が生じてしまっている、しかし、イエス様を救い主と信じることで断絶は解消し、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになる、ということを。このために、私たちキリスト信仰者は何ができるでしょうか?何をしなければならないのでしょうか?

しなければならないことは、はっきりしています。イエス・キリストの福音をとにかく宣べ伝えることです。これは、2000年近くたった今も、これからも変わりません。ただ具体的に何をすればよいのか、という段になるといろいろ考えなければならないことがあります。宗教一般、特にキリスト教に疑いや反感を持っている人たちは、宣べ伝えに貸す耳など持っていないでしょう。しかし、もしそのような人が愛する肉親や隣人なら、キリスト信仰者としては、同じ救いを受け取ってほしいと願うのが本当でしょう。もし相手の方が、結構です、とか、他でやって下さい、という態度なら、まず、父なるみ神にお祈りして状況を説明し助けをお願いすることから始めます。「天の父なるみ神よ、私にとって大事なあの人も私同様、あなたに造られた者です。どうかあの人も、あなたとの結びつきを回復できて、その結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠にあなたのもとに戻ることができるように、イエス様を救い主と信じることができるようにして下さい。そのために、もし私が話をするのが良いとお思いでしたら、その機会をお与えください。その時は、しっかり話ができるようにあなたの知恵と聖霊の導きをお願いします。」このような祈りを日々のお祈りに加えることから始めていくのが良いでしょう。そうすると、祈るあなたも、相手の方との関係において新しい段階に移動させられます。本当にお祈りは、祈る人に予想を超える展開をもたらす手段です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン