2017年12月27日水曜日

クリスマスの平和 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

降誕祭前夜礼拝説教 2013年12月24日
スオミ・キリスト教会

イザヤ9章1-6節
ルカによる福音書2章1-20節

説教題 クリスマスの平和


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

1.

本日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と呼ばれる日です。この日、北欧の国フィンランドのトゥルクという町で1300年代からずっと続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。目抜き通りを挟んで大聖堂の反対側にある建物のバルコニーから、トゥルク市の助役が巻物を広げて群衆の前でその「宣言」を声高らかに読み上げます。「平和宣言」などと言うと、世界の平和を祈願する内容かと思いきや、そうではなく、これから救世主イエス・キリストの誕生をお祝いする期間に入るので市民は相応しい仕方でお祝いしなさい、もし、このクリスマスの平和を破る者がいれば関連法令に基づいて厳しく罰せられるから注意するように、という内容で、終わりに、喜びに満ちたクリスマスを市民に祈ります、と言って結びます。要は、救世主の誕生日を敬虔な気持ちでお祝いし、そうしたお祝いの秩序を乱してはならない、という当局からの通達です。世界平和の祈願とは趣旨が異なります。もっとも近年は、「クリスマスの平和宣言」の直前に、通りの反対側の大聖堂にてルター派教会、カトリック教会、ロシア正教会の代表者が集まって、世界の平和を祈る集会が持たれています。それが終わると大聖堂の鐘がなって、伝統的な「平和宣言」が告げられる番になります。(トゥルク市の「クリスマス平和宣言」はテレビで全国中継されるほか、インターネットで世界中に同時配信されています。)

「平和」という言葉は、普通は戦争のない状態を意味すると理解されます。国と国、民族と民族の利害が衝突した時、武力を用いないで解決することを平和的解決と言います。そういう衝突や対立がない状態という意味での平和があります。今日本にいる私たちにとっても重く圧し掛かっている問題です。他方で「クリスマスの平和宣言」に言われるような、イエス様の誕生を感謝の気持ちと喜びをもってお祝いできる状態という意味での平和もあります。もちろん、そういうお祝いが出来るためには国や社会が平和であることが大事です。フィンランドの「クリスマスの平和宣言」も、第二次大戦中の1939年は空襲警報が鳴ったため中止になりました。しかしながら、国や社会が平和ならばいつも感謝の気持ちと喜びをもってイエス様の誕生をお祝い出来るかと言うと、そうとも限りません。というのは、心がイエス様以外のものに向いていたら、それは本当のクリスマスのお祝いではなく、そこにはクリスマスの平和はないからです。裏を返して言うと、国や社会が平和でない時も、心がしっかりイエス様に向いているならば、可能な仕方でお祝いをすることが出来ます。第二次大戦中のフィンランドの「クリスマスの平和宣言」は1939年は中止されましたが、その他の年は戦時中もちゃんと行われていました。

先ほど朗読して頂いたルカ伝福音書2章の中で、イエス様が誕生した夜、天使の大軍が夜空に現れて「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美の言葉を述べました。この、イエス様の誕生に結びつく平和、クリスマスの平和とはどんな平和なのか?これから、このことを見ていきたいと思います。

2.

 ここで、イエス様誕生の歴史的背景について触れておきます。これは、出来事がおとぎ話とか空想物語と片づけられてしまわないためにも大事なことです。実を言うと、イエス様がこの世に誕生した年月日というのは、歴史資料に限りがあるため100パーセント正確には確定できません。それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほどのルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデという王様はいましたが、独立国としての地位は失っていて、それはローマ帝国の支配下に置かれる属国でした。ローマ帝国は大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのです。先日、アメリカの教会学校の教材を見ていて、イエス様の誕生の出来事を物語風にアレンジしたテキストを見つけました。そこで、皇帝の勅令を聞いたヨセフが「政府ときたら俺たちにもっと税金を払わせたがってるんだ!The goverment wants us to pay more tax!」と文句を言っていました。小学校低学年の子供にもうガヴァメントか、などと驚いてしまったのですが、ヨセフをはじめ同胞たちの気持ちはそんなものだったでしょう。

さて、ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものは記録がありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前67年という数字が有望になります。

イエス様が誕生した日にちについては、西暦400年代にキリスト教会が1225日に降誕祭をお祝いし始めたことに由来します。他方で、もっと前の西暦100年代に16日が顕現日という祝日に定められました。顕現日というのは当初は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念することと、イエス様の誕生を記念することの双方が祝われていました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の証言は、まだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。降誕祭が16日から1225日になった経緯は明らかではありませんが、いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。

3.

クリスマスというのはイエス様の誕生をお祝いする日です。それで、イエス様が歴史上、実際に生まれた日が世界最初のクリスマスになります。聖書に従えば、イエス様は神のひとり子です。そして聖書の神とは、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えて下さった父なる創造主です。これに父の子と神の霊である聖霊も併せて、この父、御子、御霊の三つが一つの神を成すというのがキリスト信仰の立場です。この三つを除いた全ての万物は、神に造られたもの、被造物ということになります。私たちの目に見えるもの、また目に見えない霊的なものも全て被造物ということになります。天使たちもそうです。

これから考えると、世界最初のクリスマスの驚くべきことは、造り主に属する神のひとり子が人間として、つまり被造物の形を取って生まれたということです。加えて、天上の神の栄光に包まれていた方が家畜小屋で生まれたということです。皆さんは、家畜小屋がどういうところか想像つくでしょうか?パイヴィの実家が酪農業を営んでいるので、休暇の時はいつも子供たちと一緒に牛を見に行ったものでした。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。数分いるだけで臭いが服にしみつき、後で周りの人に、牛舎に行ってきたなとすぐ気づかれるほどです。

神のひとり子であり人間の救い主となる方が、なぜこのような仕方で地上に送られなければならなかったのか?人間に命と人生を与える造り主の立場にある方が、なぜ自ら被造物の形をとって、しかも家畜小屋で生まれなければならなかったのか?まず、神が人間として生まれたということについて見てみます。ここで大事な視点は、もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っていただけだったろうということです。それでは神と人間の間にある問題を解決することは出来ません。神と人間の間にある問題とは何かと言うと、それは、旧約聖書の創世記にあるように、神に造られた最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったということです。そのために神と人間の結びつきが壊れ、両者はいわば敵対関係に陥ってしまいました。

そこで神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきのなかで生きられるようにしようと考えました。そのためにひとり子をこの世に送り、敵対関係を終わらせるための犠牲の生け贄になってもらったのです。これがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに、神は、一度死んだイエス様を蘇らせて天に上げられることで、死者の復活が本当に起こるということも示されました。これらのことを実現するためには、被造物はあまりにも無力でした。それを可能にする本物の犠牲が必要でした。それがイエス様だったのです。イエス様が本物の犠牲になれたのは、彼が通常の男女の結びつきから生まれてくる被造物でなかったからでした。聖霊の力が処女マリアに働いて受胎・妊娠が起きて生まれた。そのようにして、イエス様は神としての性質を保ちながら、人間の肉体と魂を得たのでした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、神と人間の間に和解をもたらすために神自らが人間に歩み寄って自分を犠牲に供したということです。

4.

それでは、神のひとり子が人間として生まれるのなら、なぜベツレヘムの家畜小屋での出産というような形をとらなければならなかったのでしょうか?聖書を読むと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、有限な私たち人間に影響力を及ぼす時、大抵は自然界と人間界の諸条件の枠内でそうします。時として、自然界の諸条件の枠を打ち破るような影響力を行使して、自然界の中で起こりえないことを起こすこともあります。それが奇跡と呼ばれるものです。例えばイエス様が医療の技術もなく不治の病を治したとか、湖の水の上を歩いたとか、5切れ程度のパンで5千人以上の人たちの空腹を満たしたとかいうものです。

人間界の諸条件の枠内で影響力を及ぼすというのはどういうことか?イエス様の誕生に即していうと次のようになります。紀元前6年頃、現在パレスチナと呼ばれる地域で、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡のために処女のまま妊娠した。その時、彼らを支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。さて、旧約聖書にはメシア救世主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という預言があります。ローマ皇帝はそんな他の民族の聖典の預言など全く知らずに勅令を出したわけですが、そのおかげで預言が実現することになりました。

出産場所が家畜小屋になったことについても、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、町の郊外にいた羊飼いたちに天使が現れて、今ベツレヘムでメシア救世主が生まれた、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれである、と知らせました。これが重要なヒントになりました。なぜなら、家畜小屋を探せばよいからです。単に救世主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤ちゃんは見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。

イエス様の家畜小屋での出産の出来事から次のことがわかってきます。神はヨセフとマリアを歴史的状況、社会的状況の荒波に揉まれさせてはいるが、決して彼らの運命の手綱を手離すことなく、ずっとしっかり握っていたということです。はじめにマリアの妊娠は、戒律厳しいユダヤ教社会の中では不倫か結婚前の関係かと疑われたでしょう。事は十戒の第六の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。しかしヨセフは、神の計画ならば自分たちには周囲の目など気にせず、この私が育てますと決意します。そう決心するや否や、今度は支配者の命令が下され、身重のマリアを連れて160キロ離れた町に旅をしなければならなくなります。やっと着いても泊まる所がなく、家畜小屋で子供を産むことになってしまいます。ところが、まさにちょうどその時、神は天使を通してイエス様の誕生を羊飼いたちに知らせ、彼らにイエス様を探し当てさせました。本日の福音書の箇所によると、家畜小屋には親子3人と羊飼いたちの他にも人々が集まっています。恐らく羊飼いたちは黙って探したのではなく、今夜この町でメシア救世主がお生まれになりました!今飼い葉桶に寝ておられます!家畜小屋はどこですか?と声に出しながら探し回ったのでしょう。羊飼いたちはヨセフとマリアと集まった人々に天使が告げたことを話しますが、人々は天使など見ていませんから、半信半疑です。しかし、天使が現れなければ羊飼いが飼い葉桶の赤ちゃんを探すこともないわけだから、嘘とも決めつけられない。聖書に書いてあるように、ただただ驚くしかありません。他方マリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを既に知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのです。これも書いてある通りです。

以上、ヨセフとマリアは、ベツレヘムまでの旅を余儀なくされて挙句の果ては家畜小屋においやられてしまいましたが、羊飼いたちがやってきたことで、これは不運でもなんでもない、神は何時いかなる時でも絶えず目を注いで下さっている、ということがはっきりしました。このように神は、神を信頼しより頼む者を状況の荒波に揉まれさせて、何もしてくれない、助けてくれないように見えても、実はその人の運命の手綱をしっかり握っていて離すことはないのです。必ず、その人に対する神の計画が明らかになり、それまでのことは無意味ではなかったとわかるのです。

5.

 このように外面的には嵐と荒波があっても、心は落ち着いていられる平和がある。そのような平和についてルターは次のように教えています。今年は宗教改革500年記念の年なのでルターの教えを引用するのは相応しいことでしょう。この教えは、イエス様がヨハネ1427節で弟子たちに与えると約束した平和、「イエス様の平和」について解き明かすものです。

「これこそが正しい平和である。それは心を静めてくれる。しかも、不幸がない時に静めるのではなく、不幸の真っ只中にいて、周囲のもの全てが動揺しているときに静めてくれるのである。
 この世が与える平和とイエス様が与える平和の間には大きな違いがある。この世が与える平和とは、不穏がもたらした害悪が取り除かれることがそれである。それとは反対にイエス様が与える平和とは、外面上は不幸が続いてもあるものである。例えば、敵、疫病、貧困、罪、死それに悪魔、こうしたものはいつも我々を包囲している。しかしながら、内面的には心の中に励ましと平和をしっかり持っている。これがイエス様の与える平和である。心は不幸を気にかけないばかりでなく、不幸がない時よりも大胆になり、喜びも大きくなる。それ故、この平和は、人間の理解を超える平和と呼ばれる。
 人間の理性で理解できるのは、この世が与える平和だけである。平和は害悪が残っているところにもあるということは、理性には理解不可能である。理性は、どのようにして心を静めることが出来るかということを知らない。なぜならば理性は、害悪が残っているところには平和はあり得ないと考えるからだ。確かにイエス様は外面上の惨めさをそのままにすることがあるが、まさにそのような時に彼は人間を強くし、臆病な心を恐れ知らずにし、恐怖に慄く良心を安心感に満ちたものに替える。そのような人は、たとえ全世界が恐怖を抱く時にも喜びを失わず、安全な場所でしっかり守られているのである。」

一体誰がこのような平和を持てるでしょうか?先ほどのルカ伝福音書214節の天使たちの賛美を思い出しましょう。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

これは、不思議な文句です。原語のギリシャ語のテキストを見ると、名詞と前置詞と接続詞から成り、動詞がないので正確な文ではなく、何か詩のような形です。もともとは羊飼いたちが理解できる言葉だったので、天使たちは彼らの言葉であるアラム語で賛美したのでしょう。あるいは、天上の言葉を使い、それを羊飼いが心で理解して、アラム語で周りに伝えたのかもしれません。いずれにしても、イエス様に関する記録は全て、最初アラム語で口伝えにされたり書き記されたりしましたが、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にことごとくギリシャ語に翻訳されてしまい、私たちの手元に残っているのはギリシャ語のテキストだけです。これを手掛かりにしてみていくしかありません。

天使たちの賛美の文句は2つの部分からなります。最初は、神の栄光について言い、次は平和についてです。「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神にあるものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは「栄光はいと高き天上の神にある」というのが正確でしょう。

「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、「神の御心に適う人」です。「平和」は、先ほども申しましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現しました。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちがこの神との平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」です。まさにこの平和は、外的な平和が失われた時であろうが、また人生の中で困難や苦難に遭遇しようが、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和です。使徒パウロが教えるように、そういう平和を持つ人は、ダメもとでも周囲と平和な関係を築こう、少なくとも自分からはそれを壊すことはしないというのが当然になっていきます。そういうわけで、天使たちは、栄光が天上の神にあるのと同じくらい、平和もイエス様を受け入れる者にある、だから、出来るだけ多くの人がこの平和を持てますように、と願っているのです。皆さんも、この平和を持つことができますように。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン




2017年12月18日月曜日

イエス様を心に迎えて、恐れを捨てよう (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 

2017年12月17日(待降節第三主日)スオミ教会

イザヤ書61章1-4節
テサロニケの信徒への第一の手紙5章16-24節
ヨハネによる福音書1章19-28節

説教題 イエス様を心に迎えて、恐れを捨てよう


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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今年は123日が待降節の第一主日となって、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。そういうわけで、本日は教会新年の三回目の主日です。待降節とは、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節や降誕祭・クリスマスは、一見すると過去の出来事の記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、つまり再臨するからです。私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、ですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を呼び覚まして、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様の再臨の日とは、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に創造し直される日です。それはまた、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。イエス様が教えられたように、その日がいつであるかは、父なるみ神以外には誰にも知らされていません。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、と。主の再臨を待ち望む心を呼び覚まし、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということです。

 本日の使徒書の日課である第一テサロニケ5章にも、イエス様の再臨の日にどういう状態でいなければならないかについて述べられています。

  「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つかけたところのないものとして、守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものにしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」(2324節)

「平和の神」というのは、神がひとり子イエス様の犠牲の上に人間との間に平和な関係を打ち立てたということを意味します。イエス様の犠牲とは何か?どうしてそれが神と人間の間に平和を打ち立てたのか?そのことは後ほどみていきます。パウロは、その平和の神が信仰者を頭のてっぺんから足のつま先まで全部を清めて、神聖な神の前に立たされても大丈夫なようにして下さいますように、と祈ります。神が人間を清めて神聖に相応しい者にするのがどうして大事なのかと言うと、次に「主イエス・キリストの来られるとき」と言われるようにイエス様の再臨があるからです。イエス様の再臨の時というのは最後の審判の時であり、そこで誰が神の御国に迎え入れられ、誰が迎え入れられないかという問題が起きてきます。神が人間を清めて神聖に相応しい者にしてくれると、人間は神の前に立たされた時、「この者の霊はパーフェクトで、魂と体も文句のつけようがない」と認めてもらえるのです。人間がそのようになることをパウロはここで祈っていて、神は約束をちゃんと守る忠実な方なので、祈られたことを必ず果たしてくれると言っているのです。どのようにして神は人間を清めて、最後の審判の時に神の前に立たされても大丈夫のようにしてくれるのかについては後ほどみていきます。

ところで、今ある天と地が新しい天と地に取って代わられるとか、最後の審判とか言うと怖くなって、誰もそんな日は待ち望みたくないと思うでしょう。確かに聖書というのは、今ある世は初めがあったように終わりもあるという立場に立っているのはわかるが、そんな世の終わりなどというものを考えていたら、今生きていることが意味のないものに感じられてやる気がなくなってしまうじゃないか、と。しかし、キリスト信仰にあっては、そのような無力感に陥ることはありません。キリスト信仰者は、今ある命と人生は自分の造り主である神から与えられたものであるという自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは、取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらはまさに神由来であるがゆえに、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、そうする。解決が必要な問題は、解決に向けて努力していく。こうした世話や改善や解決をしていく際には、判断の基準として常に、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、ということを考えます。それと同時に、神への全身全霊の愛に基づいて、隣人を愛しながらやっているかどうか、ということを考えます。

このようにキリスト信仰者は、現実世界の中にしっかり留まり、それとしっかり向き合い取り組みながら、なおかつ、心の中では主の再臨を待ち望むのです。無力感に浸ってなどいられません。(また、新しい天地創造だとか最後の審判などと言っても、その時まで生きていなければ関係ないだろうと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰というものがありまして、その日まで生きていなくとも、その日目覚めさせられて神の前に立たせられるので、結局は同じことになります。)

さて、主を待ち望む信仰者が心得ておくべきことがいろいろあります。本日の福音書の箇所は、そのことについてひとつ大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

2.

 本日の福音書の日課は、洗礼者ヨハネが来るべきメシア救世主のために道を整える役割を果たしたというところです。ヨハネは、人々に「悔い改めよ」と説いて、来るべきメシア救世主を受け入れる準備としての洗礼を施し始めました。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちは、ヨハネのことを、神の裁きが始まる前に神から送られる預言者エリアではないかと心配しました。というのは、旧約聖書のマラキ書3章にそのことについての預言があるからです。エリアというのは、列王記下2章に記録されていますが、生きたまま天に上げられた預言者です。ユダヤ教社会では、マラキ書の預言のゆえに、神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送ると信じられていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではなく、ましてはメシア救世主などでもない、自分は、イザヤ書40章に預言されている「主の道を整えよ」と叫ぶ荒野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日、この世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、本日の旧約の日課イザヤ書61章に預言されている「神の僕」が来なければならない。自分はその方のために道を整えるものだ。そう、ヨハネは自分の役割について証をします。そのために、人々に罪の告白をさせて、身も心も神に立ち返られるようにする手助けとして洗礼を授けたのです。ただ、これはまだイエス様がもたらすことになる、「罪の赦しの救い」そのものを与える洗礼ではありませんでした。ヨハネの洗礼は、人々を「罪の赦しの救い」に導くための出発点だったのです。

「主の道をまっすぐにせよ」とは、ギリシャ語の単語ευθυνατεは「平らにせよ」とも訳せますが、要は道を整えなさいということです。主が遠方から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように曲がりくねっている道を真っ直ぐにし、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。ここで一つ注意しなければならないのは、天の父なるみ神も、また神が送られるメシア救い主も、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは彼らに障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおいているか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神の方でそのままほっておかれるのです。

 私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを考えてみたく思います。それがわかったら次は、どうやったら私たちはそうした障害物を取り除くことができるかを考えてみます。そもそも、神と救い主が私たちに近づくというのは、どういうことなのでしょうか?私たちは、その近づきが本当に良いものであるとわからなければ、何が障害になっているのか、それはいかにして取り除くことができるのか、そういうことには興味を持たないでしょう。そういうわけで、最初に、神と救い主が私たちに近づくということはどういうことなのか、どうしてそれが良いことなのか、ということについて考えてみます。

「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実を言うと神は、もともとは人間から離れた方ではありませんでした。創世記の初めに明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいられたのです。それが、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言葉を疑い、神が取ってはならないと命じた実を食べてしまいました。この神への不従順が原因で人間の内に、神の意思に背こうとする罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死ぬ存在になってしまいました。「ローマの信徒への手紙」623節で使徒パウロが、罪がもたらす報酬は死である、と言っている通りです。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。人間は神との結びつきを失ってしまっただけでなく、罪のゆえに神との間に敵対関係が生まれてしまいました。神は、罪を目の前にすると焼き尽くせずにはおられないほどの神聖さを持つ方なのです。

 人間がこうした状態に陥ったことに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分のところに戻ることができるようにしてあげよう、と考えて人間救済の計画をたてました。そして、それを実行するために、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。神のこの救済計画は、旧約聖書を通して、その都度その都度預言されてきました。実に旧約聖書というのは、来るべき救世主について証する書物群なのです。

 さて、神が人間の救いのために行ったことは以下のことです。人間は自分の力で罪を心身から除去することができません。それが出来ないと、罪の呪いの力の下に留まるしかありません。そこで神は、人間の全ての罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての責任者であるかのように仕立てて、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせました。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を取ったのです。罪の赦しを受けた者はもう罰を免れるので、罪の支配下にいないことになります。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間に開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、人間を罪の支配下から解放し、死を超える永遠の命の可能性を開いて下さったのです。これが、天地創造の神による人間救済です。

 このように、遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に送ることで私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復して、再び永遠の命を持つことができるようにするためでした。このことは、ヨハネ福音書316節にイエス様の言葉として凝縮されています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

3.

それでは、神がこのように私たちに素晴らしく近づかれた時、私たちの方で神の近づきを妨げるものは何でしょうか?この問いに答える前に、まず逆に、どうやったら神の近づきを受けることができるのかを見てみましょう。

私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の全ての罪を背負われたと聞きました。その時、まさに自分の罪が他の全ての人たちの分と一緒に十字架上のイエス様の肩に重くのしかかっていることに気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩と頭に、私の罪がはりつけられている、と直視することができるでしょうか?それができた瞬間、それまでは歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の彼の地である歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の事件が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。それはもう、異国の宗教の話などではなく、まさに天と地と人間を造り、自分にも命と人生を与えて下さった造り主である神の計らいだったということが明らかになります。あのおぼろげだった歴史上の人物が、突然自分の目の前に自分の救い主として立ち現われてきます。

 イエス様が救い主として立ち現われたら、それはもう彼を救い主と受け入れていることになります。人間は、イエス様を自分の救い主と信じた時、神から相応しい者、義なる者と認められます。「お前は私がお前に送ったイエスを救い主と信じた、だから彼の身代わりの犠牲に免じて、お前の罪を赦そう。」そう神は言ってくれるのです。私たち人間は肉を纏っている以上は誰もが罪を内に宿しています。それにもかかわらず神は、イエス様を救い主と信じる以上は罪を赦す、と言われるのです。罪が赦されるというのは、先ほども申しましたように、神の裁きがなくなったということです。神の裁きがなくなったということは、人間をなんとしてでも裁かれるようにしようと必死だった罪があわれにも、イエス様を信じる者に対してはそうする力を失ってしまったということです。まさに人間は、罪の赦しを受けることで神との結びつきを回復でき、神との敵対関係がなくなって平和な関係になります。イエス様のおかげで罪から解放され、神との平和な関係に入った者は今度は、これからは神から頂いた愛と恵みに相応しい生き方をしよう、自分の命はイエス様の犠牲によって新しくされたのだから、何が神の意思に沿うかよく注意しよう、という心になります。使徒パウロは、本日の使徒書の箇所でも他の箇所でも、命を新しくされた者たちの心得を何度も何度も説いています。「全てを吟味して、良いものにしっかり留まり、悪いものを遠ざけなさい。」(第一テサロニケ52122節)。

しかしながら、罪の支配力が無になったとは言っても、力を無にされた罪は怒り狂って、あたかもまだ力を持っているように見せかけて、隙を見つけては信仰者を惑わし、再び罪の支配下に置いて、神との結びつきや平和を失わせようとします。これが悪魔の仕事です。人間は、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰で「罪の赦しの救い」を受け取ることができるのですが、それが一過性のもので終わってしまったら、それは救いではありません。この救いを持続的に持てるために、洗礼が必要なのです。なぜなら、洗礼によって、人間に神の霊、聖霊が注ぎ込まれるからです。聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が唯一の救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時に、いつも私たちをイエス様のもとに連れ戻す働きをします。救い主がついていて下さることを忘れさせようとするのは、私たちに残存する罪や悪魔だけではありません。私たちが人生の中で遭遇する様々な苦難や困難も忘れさせようとします。そのような時でも、イエス様が私たちの救い主であることになんら変更はない、私たちが救われていることは洗礼の時からそのままである、としっかり応じられるのは、これは聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べたのです。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ83839節)

4.

 以上から、神とひとり子イエス様の近づきを受けるためには、人間の方で自分には罪がある、たとえ行いに現れなくても心の中に神の意思に反するものがある、と認めなければならないことが明らかになります。そうしてみると、罪を認めることが神とイエス様の近づきの妨げを取り除くことになります。これは少し変な感じがします。というのは、自分には罪がある、神の意思に逆らうものがあると認めたら、かえって神やイエス様は近づいてくれないのではないかと思われるからです。しかし、そうではないのです。これまで見てきたように、本当は罪を認めたら、イエス様が私たちの心に入って来て、私たちは新しく生まれ変わるのです。そうすると、イエス様の近づきを妨げるものは何かと言うと、ずばり、それは罪を認めないことになります。それが、道を整えないことになります。

それでは、どうして自分には罪、神の意思に反するものがある、と認めないということが起こるのでしょうか?キリスト信仰で罪が強調されることが反発を生み出すことが考えられます。「完璧な人間などいないのだから、絶対で神聖な神など持ち出さず、あくまで人間同士の問題にとどめて、事を必要以上に大きくしなくてもいいではないか?全て善い悪いは、人間の考えや感情を基準にして決めて行けばいいのだ。神など持ち出されるといつも後ろめたくなってしまう」と。しかし、逆説的ですが、キリスト信仰では一瞬後ろめたさが起きても、すぐ大きな安心が来てそれを吹き飛ばしてしまうのです。そういう大きな安心がいつも控えているのです。そんな安心感はどこから来るのか?キリスト信仰者は、自分の命はイエス様に支えられていると知っています。そして、このイエス様のおかげでいつか神の前に立たせられても大丈夫でいられるということも知っています。なぜなら、自分を造ってくれた神がこの自分を、神の意思にそぐわなくなってしまったにもかかわらず、ひとり子イエス様の犠牲のゆえに受け入れてくれたということが土台になっているからです。この神の私たちに対する愛は私たちを驚かせ、私たちを謙虚な者に変え、感謝の気持ちで満たします。そこから私たちは、神の意思に沿う生き方をしよう、と志します。しかし、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。告白に続く罪の赦しは、「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい」と確証を与えます。

このように、主の道を整えるとは、障害物を取り除き道を整えるとは、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けた後も続きます。ルターは、人間が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去って、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意思に反することが自分自身にも自分の周囲にも沢山現れて、私たちを気落ちさせて、神の愛などない、神の意思に沿うように生きるなど無駄なことだと思わせようとするでしょう。本説教の初めに申しましたように、キリスト信仰者とは世話したり改善したり解決したりするものがあれば、忠実に誠実にそうする。しかし、本当は良い結果をもたらしたかったのだが、力不足でできなかったということがあります。あるいは周囲から「クリスチャンのくせに、大したことないな」などと失格者のように言われることもあります。しかし、あなたが世話や改善や解決に努力した時に、忠実に誠実に行ったことは天の父なるみ神はちゃんと見て知っています。真実を知らないでとやかく言う者がいても、それは神でもなんでもありません。そういう人に対して慌てる必要はありません。イエス様が共にいて下さる限り神に対してやましいところは何もないということであれば、何も恐れる必要はないのです。

そういうふうに考えると、上手い言い方ではないかもしれませんが、キリスト信仰者には「ふてぶてしさ」があると思います。本日の旧約の日課イザヤ書61章では、神に遣わされた者が人々に自由と解放をもたらすという預言がありました。神に遣わされた者とは、もちろんイエス様を指します。罪の束縛から解放された者は「神の栄光を現わすために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」とあります(3節)。「樫の木」アイルאילとは、ヘブライ語の辞書では特に何の木か特定されておらず、単に「巨大な木」です。「正義」も、神に相応しいとされるという意味で「義」צדקと訳した方が良いと思います。「罪の赦しの救い」を受けた者は、神が植えられた義の大木である、ということです。どーんと構えている大きな木です。しかも、この世に神の慈愛に満ちた栄光を現すために植えられたというのです。自分の栄光を現わすためではありません。それで、「ふてぶてしさ」とは言っても、とても謙虚なふてぶてしさなのです。不思議なことですが、そうならざるを得ないのです。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは神が植えられた義の大木であることを忘れずに進んで行きましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン