2022年1月31日月曜日

肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ(その2) (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年1月30日顕現節第四主日 スオミ教会

 

エレミア書1章4-10節

コリントの信徒への第一の手紙13章1-13節

ルカによる福音書4章21-30節

 

説教題 「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ(その2)」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の説教は先週の続きです。福音書の個所は、イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読と説き明かしを担当した時の出来事でした。イエス様はイザヤ書61章の最初の部分を朗読した時、「目の見えない人がみえるようになる」という427節の文を挿入しました。自分が人間の信仰の目を開く者であることを知らせるためにそうしたのです。信仰の目とは、天地創造の神の意思が見える目です。神が万物と私たち人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えた方であること。その神が罪のゆえに自分との結びつきを失ってしまった人間がまた結びつきを持てるようにとひとり子イエス様を贈って下さったこと。そのイエス様が十字架の上で自分を犠牲にして神と人間の結びつきを取り戻して下さったこと。これらのことが見えて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると神との結びつきを持ててこの世と次に到来する世の二つの世を生きられるようになるのです。

 

 とは言っても、十字架と復活の出来事が起きる前ではこのような信仰の目を人々に開くことはなかなか出来ません。そのかわりイエス様は、盲目の人たちの肉眼の目を開ける奇跡の業を行いました。旧約聖書に見えない人の目が見えるようになると言われているのは信仰の目のことですが、イエス様は肉眼の目を開けることで、人々に自分は信仰の目を開ける力があることを比喩的に知らしめたのです。人々も、旧約聖書に言われる目の開きは肉眼のことではなく信仰の目であることを十字架と復活の出来事で初めてわかるようになります。

 

 このようにイエス様はナザレの会堂で自分の使命を明らかにするように聖書を朗読したのです。そこまでが先週の内容でした。これから続きを見ていきましょう。何が起きたでしょうか?

 

2.肉眼の目に留まってしまったナザレの人たち

 

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。席というのは説教者の座る所です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この言葉の後にイエス様の説き明かしが続くのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。ただ22節をみると、会衆みんながイエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、彼が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したと宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。

 

 ところが、ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。この訳では、どうしてこの後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという転回になってしまったのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の説き明かしを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。会衆はイエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いてはいるが、あれはヨセフの子ではないか、大工ではないか、などと言い始めたのです。この方は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなは知っている、大工じゃないか、ということが真実を遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様が肉眼に映る像を超えてメシアに映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。

 

 イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡の業でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、彼らが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということです。さらに、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、会衆はそう言いたくて仕方がないとイエス様は見破ります。

 

 しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことを控えます。(マルコ65節、マタイ1358節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の御言葉とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異邦人でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異邦人に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じと言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った北王国と同じ立場にある、というのです。

 

 これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、ゴルゴタの十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。

 

3.内なる罪を透かしてゴルゴタの十字架を見る信仰の目

 

 イエス様はなぜナザレの人たちを激怒させるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導いてあげてもよかったのではないでしょうか?先ほど申しましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験することを出発点にして信仰に入ることも可能です(ヨハネ1411節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります(同626節)。

 

 信仰とは、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことを真理であると信じられることです。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るということもあります。しかし、注意しなければいけないのは、信仰が肉眼に頼るものにならないことです。肉眼に頼るものになってしまうと、奇跡の目撃や体験がなくなったら信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。

 

 それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指さなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反する罪があるなどと認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘したのです。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。そうせずに、自分たちをかつて神の罰として滅亡した王国と同一視するとは何事か、といきり立ってしまったのです。

 

 以上から明らかなように、信仰の目を持てて、その目でイエス様を見ることができるかどうかは、自分に神の意思に反する罪があることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるでしょう。しかし、自分を神の意志に照らし合わせて見るというのは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪までを問うものです。人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を内に宿していることの表われなのです。

 

 しかしながら、父なるみ神は、人間がこの世の人生を終えることになっても、復活の日に目覚めさせて造り主である自分の許に戻れるようにしてあげよう、そしてその前のこの世の人生の段階では復活に至る道を守りのうちに歩むことが出来るようにしてあげよう、ということでひとり子をこの世に贈ったのです。それで、罪の神罰を全て彼に身代わりに受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架で起きたのです。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、その瞬間、イエス様の身代わりの罰受けは本当にその人に起きたことになるのです。この時、その人は信仰の目を持っています。

 

 ところで、人間は信仰の目を持つと今度は、かえって自分の内に神の意思の反しようとする罪があるのがよく見えてきます。その時内なる信仰の戦いが始まります。キリスト信仰者が内にある罪に気づいて自分に失望したり神を恐れたりすると悪魔がどす黒い勝どき声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれを全く意に介せず、内なる罪を透かすようにして目を一直線にゴルゴタの丘の十字架に向かって注ぎます。そこにかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時、私たちは息をのみ十字架の前に首を垂れます。同時に悪魔は失神して倒れどす黒い声は止み、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように果てしなく澄んでいて冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが神の意思に沿うように生きよういう心、神を全身全霊で愛そうとする心と隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。

 

4.第一コリント13章の愛を体現できる日を目指して

 

 以上、信仰の目を持つと自分の罪を見ることができるようになるが、それが出来るから逆に神の意思に沿うように生きようという心が強まっていくことを見ました。これと同じことが本日の使徒書の日課、第一コリント13章でも言われているので、終わりにそのことを見ておこうと思います。

 

 第一コリント13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖句の一つです。ここで言われる、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、以上は、夫婦間だけでなく一般的な人間関係の理想です。これら一つ一つに照らし合わせてみたら、今の世はなんと愛から遠ざかってしまっているかと思わされるのではないでしょうか?

 

 ここで、愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、というのはどういうことか見てみましょう。「全てを信じる」とは、まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語(πανταは「全てにおいて」という意味も持ち、ここはそれで訳すべきでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」とは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」も、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされても大丈夫と見なされて神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは、どんなことが起きようとも、忍耐し高ぶらない嫉妬しない等々の愛を持つということです。こうして見ると、愛を持てるかどうかは、全てにおいて信じられるか希望を失わないかどうかに関わってくることが見えてきます。

 

 愛とはそのようなものだと述べた後でパウロは、8節から永遠の視点で語ります。今の世が終わって死者の復活が起こり、今の天と地に替わる新しい天と地が創造されて神の御国が現れる。その時、預言や異言という今の世に現れる聖霊の賜物はなくなってしまう。神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは意味を失ってなくなってしまうと言うのです。

 

 ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違い、最初から完全で全体的なものだったからです。しかしながら、それは神の側で完全かつ全体的なもので、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられる時、自分も神と同じように愛を完全かつ全体的に持てていることを目にするのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ。これら全てをかの日には持てているのです。かつてはこれらはいつも部分的、一時的にしか現れて来ず、現れては消えての繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。神と同じようにです。自分が愛そのものになってしまっていると言ってもいいでしょう。

 

 かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはどういうことでしょうか?当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった、愛は自分にはっきりと明瞭に現れるようになった。それでパウロは復活の日、自分は愛を体現し愛そのものになっていることを次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知る」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。

 

 ここで一つわかりにくいことがあります。「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。

「神がこの世で私のことをはっきり知っていたのと同じように、この私も将来復活の日の神の御国で自分が愛を体現していることをはっきり知るようになる。」

 

 これは変です。私は前の世では愛を体現していませんでした。体現しているのは今、神の御国でです。なのに神は、私が前の世でも神の御国と同じように愛を体現していたと見て下さったと言うのです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。

 

 「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたは本当に前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さっていたのですか?私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしました。高ぶったり傲慢になったりしました。」

そこで神は答えられます。

 

「わが子よ。お前は洗礼を受けてイエスの神聖な白い衣を纏った。それからはそれを取り去らないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。お前の内なる罪は純白の衣を被せられて日々圧搾され力を失っていくのを見て知っていた。お前がイエスを救い主と信じる信仰に生き、聖餐のパンと葡萄酒で衣を離さないように握りしめる力を保っていたのを見て知っていた。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者であると前の世で知っていた、と言ったのだ。」

 

 パウロはフィリピ16節で次にように述べています。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」

兄弟姉妹の皆さん、この確信は真理です。パウロの言う通りだと思う人は信仰の目を持っています!

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注(ギリシャ語がわかる人にです)

πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。

καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。

 

 

 

2022年1月24日月曜日

肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ(その1) (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年1月23日顕現節第三主日 スオミ教会

 

ネヘミヤ書8章1~3,5~6,8~10節、

コリントの信徒への第一の手紙12章12-31a

ルカによる福音書4章14-21節

 

説教題 「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ(その1)」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課は実を言うと区切りが良くないです。ルカ4章は、14節から32節までがひとくくりの出来事です。それなのに今日の個所は前半の21節までです。取りあえずここで出来事の全容をお話しします。イエス様が育ち故郷のナザレを訪れてユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読を担当する。読み終わった後で、聖書に書かれている預言は今日その通りになった、と言う。さらに神の恵みについて教え始め、会衆はそれに驚く。しかし、会衆の中に、あれはヨセフの子ではないか、と言う者もいて、その途端、イエス様は何か会衆の気に障ることを言い始める。会衆は激怒してしまい、イエス様を崖から突き落とそうとする。そういう出来事です。それにしても会衆の急変ぶりには驚かされます。一体イエス様は何をそんなに怒らせることを言ったのでしょうか?お前たちは私が他の町で行う奇跡の業をここでもしろと言うだろう、しかし、旧約聖書の預言者エリアとエリシャが奇跡の業を異邦人にしてあげてユダヤ人にしなかったのに倣い、私もお前たちにはしないことにする、などと言います。かなり挑発的です。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」などと自分で言いますが、自分でそうなるように仕向けたのではないか?イエス様はナザレの人たちになぜこんなに手厳しいのでしょうか?

 

 実はこの出来事は、私たちがこの世を生きる時に何を身につけなければならないかということについて教えています。それを身につけないとどうなってしまうか、どうしたらそれを身につけられるかを教えているのです。その身につけるものとは何か?結論を先に言うと、肉眼の目とは異なる「信仰の目」です。私たちは肉眼の目を持っています。その目が働かないと生活に支障をきたします。信仰の目は、この世の荒波を乗り越えていくのに必要な目です。肉眼の目だけだと荒波はよく見えますが、それだけだと怖気づいてしまいます。信仰の目があると、怖いという視点を超える視点が与えられます。それでは、信仰の目とはどんな目で、どうしたら身につけられるのか、そのことを今回と次回の説教でお教えしたく思います。事は旧約聖書にまで広がるスケールの大きなものになります。二回にわたりますが、始めてまいりましょう。

 

2.イエス様のイザヤ朗読の謎

 

 イエス様はヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神から聖霊が降って特別な力が備えられました。特別な力とは、神の人間救済計画を実行に移す力です。その後すぐユダの荒野にて40日間、悪魔から試練を受けます。イエス様はこれを全て旧約聖書の神の御言葉を盾としてはねのけます。この後、舞台はガリラヤ地方に移ります。イエス様は各地の会堂を回って、神の国が近づいた、人間の救いがまもなく実現するという福音を宣べ伝えます。そして神の国が架空のものではなく実在するものであることを示すために多くの奇跡の業を行います。イエス様の評判はたちまちガリラヤ地方全域に広まりす。イエス様が幼少の時から長年育った故郷の町ナザレに入ったのはちょうどその時でした。イエス様はこれまでそうしてきたように町の会堂に入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。

 

 ここで、当時の会堂シナゴーグの礼拝について本日の出来事がよりよくわかるために少し背景説明をします。礼拝ではヘブライ語で書かれた旧約聖書を朗読し、その後でアラム語で説き明かしすることが行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、ユダヤ民族はもともとはヘブライ語で書いたり話したりしていました。それで神の御言葉ももともとはヘブライ語で記述されました。ところが紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚で民族の主だった人たちは異国の地バビロンに連れ去られてしまいます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、彼らはだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本でも明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。

 

 さて、紀元前6世紀の終りペルシャ帝国がバビロン帝国を打ち倒して古代オリエント世界の覇者となります。ユダヤ人はペルシャ帝国の計らいで祖国帰還を許されます。彼らは廃墟となったエルサレムの町と神殿の再建にとりかかります。その当時のユダヤ人の苦難と信仰の試練については、旧約聖書のエズラ記とネヘミア記に記されています。先ほど朗読された旧約の日課ネヘミア8章では祭司エズラが民にモーセの律法を朗読する場面がありました。そこでレヴィ族の人たちが「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読した後でアラム語に翻訳して解説したということです。ヘブライ語は一般の人にはもう遠い言語になってしまったのです。こうしてヘブライ語の旧約聖書を神聖かつ最高権威の書物として朗読して、続いて民が理解できるアラム語に訳して解説することが始まります。この形の礼拝がイエス様の時代にも続いていたのです。

 

 ナザレの会堂の礼拝に戻りましょう。そこの会堂長は、その日の聖書の朗読と説き明かしを誰にお願いするかということで、これを今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエス様に依頼しました。会堂は会衆で一杯だったでしょう。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されました。巻物というのは私たちが手にするような、紙を束ねて綴じる方式で作った本ではありません。動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことがある死海文書というのもこの形式の書物です。

 

 イエス様は立ってヘブライ語で朗読します。神に油注がれた者、これは文字通りメシアです。メシアとは油注がれた者という意味を持つからです。そのメシアが神の霊を受けて、何かに囚われた状態にある人に解放を告げ知らせる。心を打ち砕かれた人に心の癒しを与え、目の見えない人に見えるようになるという喜びの知らせを伝える。神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる。そういう内容の個所を朗読しました。

 

 これは、旧約聖書を知っている人ならイザヤ書のあそこだとわかる個所です。少し雑学的なことですが、聖書の書物は初めは章立ても節わけもありませんでした。ところどころ段落分けや余白はありますが、基本的に文章はだらだらと続くものでした。章立て節わけが施されるのはずっと後世になってからです。それなので、シナゴーグの礼拝では、私たちの礼拝のように、本日の日課は何々書の何章何節から何節までです、と言うことはしませんでした、出来ませんでした。しかし、旧約聖書をよく知っている人なら、イエス様が読んだところを聞いて、あれはイザヤの終わりの方だとわかったでしょう。私たちならイザヤ書611節から2節までと言うでしょう。ところが、よく見るとイエス様の朗読はイザヤ書の当該箇所と少し違っています。イエス様の朗読は正確ではないのです。ヘブライ語の原文を見ると、そこには「目の見えない人が見えるようになる」というのはありません。別に原文を見なくとも、日本語訳のイザヤ書61章を見れば誰でもわかります。実は、「目の見えない人が見えるようになる」というのはイザヤ書の427節にあります。とすると、イエス様は朗読している時に別の章の個所を何気なく挿入したのでしょうか?

 

 話をさらに複雑にすることがあります。それは、イザヤ書のギリシャ語訳を見ると、61章に問題の「目の見えない人が見えるようになる」というのが入っているのです(1節)。ここでなぜ突然、イザヤ書のギリシャ語訳なんかが出てくるのかと言うと、旧約聖書は先ほども申しましたようにもともとはヘブライ語で書かれていました(一部はアラム語でも書かれています)。この旧約聖書がイエス様の時代の2300年位前に大々的にギリシャ語に翻訳されたのです。なぜかと言うと、先ほど触れたペルシャ帝国が今度は紀元前4世紀にギリシャ系のアレクサンダー帝国に滅ぼされてしまい、地中海世界の東半分がギリシャ語化していったからです。ギリシャ語を話すユダヤ人のためにギリシャ語の旧約聖書が必要になったのです。

 

 それでは、ヘブライ語の聖書を読んだイエス様がまるでギリシャ語訳聖書に倣って「見えない人の目が見える」と言ったのはどうしてなのでしょうか?次のように考える人もいるでしょう。ルカ福音書を書いた「ルカ」はギリシャ語で書いているわけだから、ルカはイザヤ書もヘブライ語原文ではなくギリシャ語訳の方を念頭に置いた、それでイエス様が朗読したヘブライ語の文章は脇にやられてギリシャ語訳にある「目の見えない人が見えるようになる」を入れてしまったのだと。しかし、そう考えると、ルカはイエス様が言っていないことを言ったことにしてしまったことになります。皆さんは、ルカが福音書の冒頭で何と言っていたか覚えていらっしゃいますか?この福音書は信頼できる目撃者の証言を集めて纏めたものだ、と言っています。とすると、ナザレの会堂の出来事も、目撃者、間違いなく弟子たちでしょう、彼らが証言したことが土台にあります。そこで考えられるのは、イエス様はイザヤ書61章の朗読の際に自分で427節を挿入した、または、次のようにも考えられます。イエス様は、朗読の後の説き明かしで「目の見えない人が見えるようになる」ということを述べたのだが、目撃者の方で朗読と説き明かしを混ぜ合わせたものをルカに伝えてしまったということです。

 

 イエス様が挿入したにしても、または説き明かしたの時に言ったにしても、これは本当にイエス様が言ったのだ、と言えるためには、彼には「目の見えない人が見えるようになる」ことにこだわりがあったと言えなければなりません。実を言うと、イエス様にはそれがあったのです。皆さんも、イエス様が目の見えない人の目が見えるようにする奇跡を何度も行ったことは覚えていらっしゃるでしょう。イエス様にとって目を見えるようにするというのは活動の中で大事なことでした。このことを預言者イザヤの時代から旧約聖書とユダヤ民族の歴史を貫くようにしてある一つの問題に照らし合わせてみると、目を見えるようにする奇跡の意味が明らかになってきます。

 

3.十字架と復活の業によって信仰の目を開けられる

 

 イザヤ書6章を見ると、神の意志に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が神からの罰として心が一層頑なにされて目も見えないようにされる、そういう罰が言い渡されます。これは肉眼の目を塞ぐということではなく、霊的な目、信仰の目が塞がれてしまうということです。神の意志がますます見えなくなって滅びの道をまっしぐらに進んでしまうという罰です。国が滅んでしまった後に今度は目が開かれて神の意志がわかる、そういう「残りの者」が現れるという預言も一緒にあります。さて、イスラエルの民は果たして信仰の目が開かれるようになったでしょうか?イザヤの時代にアッシリア帝国の大軍の攻撃から奇跡的に救われたエルサレムがその「残りの者」だったか?答えは否でした。ユダの王国はその後も罪と滅びの道を進んでしまい、最後はバビロン捕囚に至ってしまったからです。それでは、バビロン捕囚から解放されて祖国帰還できた者たちが目が開かれた「残りの者」になったのか?これも否でした。イザヤ書の終わりの方にある6317節を見ると、祖国帰還を果たしても神が依然として民の心を頑なな状態に留めていることを嘆くところがあります。そういうわけで、イエス様の時代にもイスラエルの民はまだ目が開かれていない状態にある、それをこれから開くようにするというのが神の意図だったのです。

 

 この背景がわかると、イエス様が信仰の目を開くことを重視したことがよくわかります。奇跡の業で肉眼の目を見えるようにしたのは、そういう目に見える具体的な業を通して抽象的なことを理解できない人たちをわからせる手っ取り早い方法だったからでした。私は復活の日に死者を目覚めさせることが出来る、といくら口で言ってもわかってもらえないから、死んだヤイロの娘もラザロも「これは眠っているだけだ」と言って生き返らせました。それと同じことです。私は罪を赦す権限があると言っても、そんなの口先だけだと騒ぎ立てるから、それならこれでどうだ、と全身麻痺の人を歩けるようにしたのも同じです。このように具体的な見える業を通してイエス様は信仰の目を開ける力があることを示しました。そして人間の信仰の目が大々的に開かれる出来事を後で起こしました。言うまでもなく十字架の死と死からの復活の出来事です。イエス様の十字架の死とは、人間が神から神罰を受けて罪と一緒に滅んでしまわないようにと人間に代わって人間の罪を償って人間を罪の滅びの力から切り離す業でした。そしてイエス様の死からの復活とは、死を超えた永遠の命、復活の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開く業でした。このためにイエス様の十字架と復活の業はユダヤ民族の信仰の目を開けるためだけのものでなく、人間全ての信仰の目を開ける業だったのです。それが神の人間救済計画だったのです。信仰の目を開けられた人とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いと罪からの切り離しを手にした人です。そして、復活と永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む人です。

 

 そのように人間の信仰の目を開くためにこの世に贈られたイエス様ですから、会堂の礼拝で「見えない人の目が見えるようになる」ことをイザヤ書61章のメシア預言に結びつけて述べても全然おかしくないわけです。

 

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。説教者の座る席です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」これを言った後にイエス様の説き明かしが続くのですが、その内容についてはルカ福音書では記されていません。22節をみると、会衆みんなが、イエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあります。それで、イエス様が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、説き明かしの冒頭でイザヤ書の預言が実現したと宣言した時、イエス様は、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。その後で会堂の人たちが怒り狂うようなことが起きてイエス様を崖から突き落とそうとします。一体何が起こったのか、ナザレの人たちにどんな問題があったのか、同じ問題は私たちにもあるのか、どうしたらそれを解決できるかは次回にお話ししましょう。

 

4.キリストの体の部分として生きる

 

 終わりに、信仰の目を開かれたキリスト信仰者たちはお互いどういう関係にあるかということが本日の使徒書の日課、第一コリント12章にあるのでそれを見ておきたいと思います。パウロの教えです。パウロは、キリスト信仰者というのは、体が多くの部分から成り立っているのと同じように、キリストの体という一つの体の部分部分なのだと教えます。それで信仰者はお互いを煙たがったりせず大切な仲間として助け合いなさいと言うのですが、道徳論のように受け止める人もいるかもしれません。また、キリスト信仰者の中には、信仰とは自分と神との関係だから、と言って、信仰者同士の関係をあまり深く考えない人もいるかもしれません。しかし、パウロを道徳論者のように見るのは浅い理解です。

 

 13節でパウロは、神の一つの霊ということを言います。洗礼を受ける人は何人もいても聖霊はお一人です。洗礼を受ける一人一人に別々の霊がつくのではありません。たったお一人しかいない聖霊にそれぞれが結びついて洗礼を受けるから一つの体になると言うのです。どの民族・人種に属しようが、社会的な地位・立場が何であろうがみんな同じ聖霊を注がれるので一つの体のお互い結びついた部分になると言うのです。それなので、信仰は自分と神の問題と言って、ほかの、神と結びついている人との結びつきを考えない人は、聖霊を分割してしまうことになるとさえ言えるのです。事は道徳論を超えて三位一体の神を認めるか否かの問題になっていきます。信仰の目とは、神と自分の結びつきという縦の関係と、その結びつきを持つ信徒たち同士の横の関係という二つを見ることが出来る目です。この縦と横の二つの関係が同時に現れる瞬間が聖餐式、主の血と肉に与る時です。

 

 自分と神との結びつきは、もちろん自分の罪と向き合って赦しの中に留まるという極めて個人的な面もあります。しかしながら、他の信仰者たちとの間で、私は目、あなたは足です、または、私は耳、あなたは手です、という場面は無数にあります。横の関係があって、各自の神との縦の関係が支えられるということも忘れてはいけません。目が自分は自分で支えられるから他はなくてもいいとは言えないのです。だから、各自、お互いに縦の関係を支えてあげられるように振る舞い言葉遣いを考えなければなりません。それを損なうような振る舞いや言葉遣いは避けるようにしなければなりません。それが聖霊をお一人としてキリストの体の部分として生きるということです。

 

 それではキリストの体とは具体的には何か?教会ということになりますが、これもいろんな層があります。まず、復活と永遠の命に向かって歩む信徒たちの集合体、組織を超えた世界大の教会があります。このスオミ教会のような個別の具体的な教会もあります。個々の教会が属している教派や教団もあります。遠い国の信徒とは祈りを通して支えたり支えられたりする関係は築けますが、聖餐式の場である個々の教会は一番身近に振る舞いや言葉遣いを磨ける場です。自分がキリストの体の部分であることを一番身近なものにすることが出来る場です。そのことを忘れないようにしましょう。もちろん私自身も含めてです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年1月17日月曜日

今が、主と関わり合いを持って生きる時、 主に願い事を祈り求める時 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2022年1月16日 顕現後第二主日

 

イザヤ書62章1節-5節

コリントの信徒への第一の手紙12章1-12節

ヨハネによる福音書2章1節-11節

 

説教題 「今が、主と関わり合いを持って生きる時、

主に願い事を祈り求める時」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業についてです。結婚式の祝宴でふるまわれるぶどう酒が底をついてしまった。そこでイエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って祝宴は無事続けられたという話です。聖書のよく知られている話の一つです。嵐を鎮めたり病気の人を癒したりする奇跡に比べたら手品みたいで奇跡と呼ぶには少し大げさに思われるかもしれません。しかし、結婚式の祝宴がイエス様の時代も大がかりなものであったことを考えるとこれはやはり奇跡と言ってよいとわかります。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ23メトレテス入りとあります。一つにつき80120リットル入りということです。それが6つありました。イエス様はこの水瓶の水全部480720リットルをぶどう酒に変えたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。そのような大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えてしまったというのは、やはり奇跡と言うしかありません。

 

 この福音書の箇所は結婚式に関係するのでキリスト教会の結婚式や婚約式での説教にもよく用いられます。あなたたちはこのように困っているときに助けてくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような頼りになる方がついておられるんですよ、というメッセージは式全体に祝福された雰囲気をもたらすでしょう。

 

 ところが、この箇所はよく読んでみると、助け人のイエス様のイメージに合わないことがあります。それは、イエス様の母マリアが彼に、もうぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」ぶどう酒がなくなった、と言われて、イエス様は、はい、わかりました、私が何とかしましょう、とは言いませんでした。彼の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離すものに聞こえます。何と冷たい人なのかと思わされます。しかも、自分の母親に対して、お母さん、とか母上ではなくて、「婦人よ」とは他人行儀も甚だしい。ところがマリアは、このような冷たい答えにもかかわらず、何を思ったのか召使いたちにイエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。マリアは、イエス様の答えの中に拒否ではないものを感じ取って次の動きに備えたのです。

 

 結果は、大量の、しかも上等のぶどう酒が出てきて、助け人イエス様の面目は保たれます。それにしても最初のやりとりは一体何だったのか?イエス様はあまのじゃくで素直な方ではないと思わされます。しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくでもなんでもなく、ちゃんと意味の通る会話をしているのです。以前の説教でこのことを見ましたが、今回また新しいことが見えてきたのでそれを合わせて見ていきます。

 

2.マリアの立場

 

 まず、出来事の状況を把握することから始めましょう。文章から手掛かりはいろいろ見えてきます。まず、マリアもイエス様も弟子たちも祝宴に列席していますが、興味深いのは「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(2‐3節)と言っていることです。マリアとイエス様と弟子たちみんなが招かれた、とは言っていないことです。「招かれた」のはイエス様と弟子たちで、マリアは「そこにいた」と別扱いです。それと、マリアは後で召使たちに命じたりして召使たちは素直に聞き従います(5節)。そうしたことから、彼女は単なるお客様でなくて主催者側の一人として何か役割を持っていたのではないかと考えられます。それで、ぶどう酒が底をついた時の心配は他人事ではなかったでしょう。

 

 そうすると、マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った時(3節)、それは落ち着きを失って慌てふためいた言い方だったと考えられます。ここで注意すべきは、マリアはイエス様に、お願い、何とかして!と助けを求めたのではないということです。ぶどう酒がなくなってしまった、ああ、どうしよう、とおろおろしていたのです。11節をみると、このぶどう酒の奇跡はイエス様が公けに行った奇跡の最初のものと言われています。そうならば、マリアも弟子たちもイエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を起こせる方だとはまだわからなかったことになります。それで、「ぶどう酒がなくなりました」というのは、助けをお願いしたのではなく、大変な事態になってしまったとおろおろした状態で事実を述べただけと言ってよいと思います。

 

 それに対するイエス様の言葉「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。イエス様はどういうつもりだったのでしょうか?昔テレビのある時代劇でヒーローがいつも「あっしにはかかわりのねえことでござんす」と言って、いつも結局はかかわって悪者を退治するというものがありました。イエス様も最初は自分には関係のないことだと冷たく言いながら、後で助けてあげるということなのでしょうか?

 

 以前の説教で私は、この箇所のイエス様は冷たく言い放っていませんと申しました。その後で宗教改革のルターが、これは冷たく言い放っているのだと言っているのをみてかなり焦りました。彼の論点は、マリアは冷たく突き放されてもイエス様にしがみつくように信頼を捨てなかった、本当の信仰を示したというものです。キリスト信仰というのは、神が怒っているように思える時でもそれは人間の感情からくる思いにすぎず、本当は神は良い方なのだと信じて神から離れないようにするのが本当の信仰なのだ、と言うのです。もちろん、ヤコブが荒野で神が送った者か神自身かわからないが謎の人物と取っ組み合いをして、祝福してくれるまで離しません、としがみついて祝福してもらったことがあります。また、異邦人の女性がイエス様に娘を悪霊から助けて下さい、とお願いした時、最初イエス様はユダヤ人でないからと言って聞き入れる素振りがありませんでしたが、女性がしがみつくように懇願して、犬もおこぼれに与りますなど、と言って願いがかなったということがあります。しかしながら、マリアの場合はしがみつくようなこともせず、イエス様の言葉を聞いてすぐ、まるで彼が手を打ってくれると理解したかのように召使いにスタンバイを命じたのです。ルター先生の解釈に盾をつくようで気が引けるのですが、でも結論は、イエス様を信頼してお願い事はなんでも、諦めないで提示していいのだというところで合流するので、問題はないと思いました。

 

3.イエス様の「時」

 

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」この言葉の本当の意味がわかるために、まず後半部分「わたしの時はまだ来ていません」から見ていきます。私の時はまだ来ていない、とは何のことでしょうか?おろおろするマリアに意味をなす言葉なのでしょうか?

 

 「わたしの時」とか「時」という言葉はヨハネ福音書の中に何度も出てきます。その一つヨハネ1223節を見てみましょう。次のような出来事です。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神と神の国について教え、ユダヤ教社会の指導者たちと激しく論争をしていた時でした。地中海地域の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(1223節)。さらにヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げます。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(171節)。

 

 つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が受難の道に入られて十字架の上で死を遂げる時、そして死の後で神の想像を絶する力で復活させられて神の栄光を顕す時のことです。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、人間が全ての罪を神から赦していただけるようになるための神聖な犠牲の生贄となるためでした。それなので、イエス様が十字架にかけられるのは神にとっても人間にとっても本当に大事な時だったのです。そして、イエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命に至る道が開かれました。死が無力にされたのです。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、罪を赦されて神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。あとは人間がこのことを信じてイエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ければこの可能性を自分のものにすることができるのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性をもたらす出来事の時、十字架と復活の時を意味するのです。世界各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きれば、後はその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。

 

 それで、「わたしの時はまだ来ていない」の意味は次のようになります。「今はまだ、私が十字架の道に入ってお前たちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神と神の国について教え、神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、将来到来する神の国がどんな国かを奇跡の業をもって示していかなければならないのだ。だから、十字架と復活が起こる前の今は、私はお前たちと共にいてこの教えと業を行う時なのだ」という意味になります。

 

 さてイエス様が「わたしの時はまだ来ていない」と言った時、果たしてマリアはそういうふうに、まだおまえたちのもとにいて働きをする時だ、と理解したでしょうか?まだ十字架も復活も起きる前に聞いたので、それは無理だったのではと思います。しかし、マリアの場合は、かつて赤ちゃんのイエス様を抱き上げたシメオンが、この子は将来神と神の民の間を取り持つような何かとてつもないことをすると預言したのを聞いています。それでこの子には将来何か重大なことが起きるとわかっていたでしょう。それが何であるかはまだわからない。しかし、今はまだその時ではなく、この、聖霊の力で誕生したこの子は今のところは私たちと共にいるということなのだな、というくらいはわかります。言い方自体は、ぶどう酒の問題の解決には直接関係ありませんが、聖霊の力で誕生したこの方が私たちと共におられるという一言は、慌てふためく心を落ち着かせるインパクトはあります。そういう視点で前半の言葉「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」を見ていくと、その意味もわかってきます。つまり、イエス様の言葉全体はマリアを落ち着かせ、この子は何かをするつもりだとわからせて、召使いたちに待機するように指示するくらいの言葉だったのです。これからそれを見ていきましょう。

 

4.パニックから導き出されるイエス様

 

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文を直訳すると、「婦人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?」という疑問文です。わかりにくい文です。ギリシャ語原文でこれと全く同じ形を取る文が他にもあるのでそれを見てみます。マルコ124節です。シナゴーグで汚れた霊にとりつかれた男とイエス様が対峙するところです。汚れた霊が叫んで言いました。新共同訳ではこうです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか?正体はわかっている、神の聖者だ!」ここのギリシャ語原文を直訳すると、「ナザレのイエス、お前と俺たちの間にどんなかかわりがあるのか?我々を滅ぼしに来たのか?云々です。

 

 この「~と~の間にどんなかかわりがあるのか」は旧約聖書にもあります。列王記上1718節で、預言者エリアがシドンのサレプタというところであるやもめの家で居候していた時、やもめの息子が死んでしまうという悲劇があります。その時やもめがエリアに言った言葉です。新共同訳ではこう訳されています。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか?あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか?」ヘブライ語原文を直訳するとこうなります。「神の人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのですか?あなたは私の罪を思い出させ云々」となります。ここで、あれ、ギリシャ語とヘブライ語は違う言語なのに、どうして同じ形の文などと言えるのか、と言われてしまうかもしれません。でもこれは、ギリシャ語とヘブライ語がわかる人が見たらすぐわかるくらいに同じ形なのです。言語学を勉強している人なら統語論という言葉を使うと思いますが、統語論的に同じなのです。この辺のからくりは、本説教の原稿をホームページに載せますので、そこでお見せしますので、ここではこのまま話を進めます。

 

 さて、サレプタのやもめ、シナゴーグの汚れた霊、カナの祝宴でのイエス様はみんな、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?と言っています。新共同訳では、どんなかかわりがあるのか?とか、かまわないでくれ?などと訳されています。そこで他の国の言葉ではどう訳されているか参考までに見てみました。私が読んで理解できるのは日本語と英語とドイツ語とフィンランド語とスウェーデン語の5つですが、結論から言うと大体、私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?というのと、あなたは私に何を望むのか?というものに収まっていきます。各国語の訳もホームーページでお見せします。

 

 そこで、「私とあなたの間にどんなかかわりがあるのか?」と「あなたは私に何を望むのか?」という訳で見ていきましょう。サレプタのやもめ、「神の人よ、私とあなたの間にどんなかかわりがあって、私の罪を思い出させて息子を死なせたのですか!」、または「神の人よ、あなたは私に何をお望みですか?私の罪を思い出させて息子を死なせることですか!」となります。シナゴーグの汚れた霊、「ナザレのイエスよ、俺たちとお前の間にどんなかかわりがあって、俺たちを滅ぼそうとするのか?」、または「ナザレのイエスよ、お前は俺たちに何を望んでいるんだ?俺たちを滅ぼそうというのか?」となります。どちらも、私に構わないで下さい、俺たちに構うな、かかわりなど持ちたくない、ほっといてくれ、となっていきます。

 

 ところが、カナのイエス様の場合は勝手が違います。やもめや汚れた霊たちは神の力を持つ人を前にしてパニック状態になってこの言葉を述べますが、カナの時はパニック状態になっているのは言葉をかけられるマリアの方で、言葉をかける本人のイエス様は平静そのものです。だから、ここは、私に構うな、ほっといてくれ、という意味はありません。その意味を捨てて考えると、こうなります。「私とあなたの間にどんなかかわりがあるかな、ご婦人さん、私は時が来るまではあなたたちと一緒ですよ。」または、「あなたは私に何をお望みかな、ご婦人さん、私は時が来るまではあなたたちと一緒ですよ。」こういうことでしたら、冷たく突き放したようには聞こえなくなります。むしろ、この人は何かするつもりだと感じ取らせるものになります。マリアがそう感じ取ったことは彼女の次の行動で分かります。召使いたちに、イエスが何か言いつけたらその通りにするように、と命じたのです。その時のマリアはパニック状態にあってもイエス様を信頼するということが心の中に何か芯というか核のように生まれたのです。その意味でパニックはあってもそれに支配されなくなったのです。それは実際にはパニックを脱したということになります。

 

 ここで一つ余計なことになるかもしれませんが、言ってもいいのかなということがあります。それは、この言葉を述べた時のイエス様は案外ニヤリという表情で言ったのではないかということです。昔、大学の神学部のギリシャ語の授業で先生が言ったことですが、イエス様がニヤリと笑みを見せたところがあるという研究論文があると。どこでニヤリとしたかと言うと、ペトロがイエス様に私も水の上を歩きたい、と言って、湖の上に立つイエス様が、じゃ、こっちに来なさい、と言って、ペトロは水の上を歩き始める。しかし、波風を見て怖くなった瞬間に溺れ始めてしまい、助けを求める。イエス様は手を差し出してペトロを引き上げる時に言った言葉「信仰の薄い奴だな」、この時イエス様はニヤリと笑ったというのです。どうしてそんなことが言えるかというと、私の記憶になってしまいますが、その研究者はギリシャ古典の大家で、古代ギリシャの哲学、小説、戯曲の文体を徹底的に分析して、福音書の問題の個所の文体は主人公が笑みを浮かべるものに一致するということだったと思います。これに反論しようとするなら、同じ位ギリシャ語文献を熟知しなければならないことになります。さて、「信仰の薄い奴だな」とニヤリと笑ってペトロを引き上げてあげるイエス様。そこでカナのイエス様の場合はどうか。「私に何をお望みかな、ご婦人さん、私はまだあなたたちと一緒にいるのだよ。」それをニヤリと言われたら、ますます、この方は何かをしでかす、とパニックを忘れさせる効果は大と思うのですが、どうでしょうか?イエス様をこんな風に何か大胆不敵さと茶目っ気さを兼ね備えた方のように言うのは行き過ぎでしょうか?でも、大胆不敵さは母親譲りと言えるし、茶目っ気の方も、彼のたとえの教えの中には読んで吹き出してしまうものもあります。どのたとえか別の機会にお話ししますが、ユーモアの精神も見られるのです。本人がどこまでそれを意識していたかわかりませんが。

 

5.今が、主とかかわりあいを持って生きる時、主に願い事を祈り求める時

 

 さて、これでイエス様とマリアのやり取りは、突き放されてしがみついたというルターが言うのとは違って見えるものになってきました。そこで、イエス様の言葉は、いろんなことで慌てふためく私たちの心にもイエス様を信頼することを呼び起こす力があることを見てみます。そんなこと言ったって、イエス様はあの後十字架にかけられ復活を遂げたではないか、もう彼の時は過ぎてしまったではないか、彼は今私たちのところにいないではないか、天の父なるみ神の右に座している、といつも使徒信条や二ケア信条で唱えているではないか、と言われてしまうかもしれません。しかし、「私の時はまだ来ていない」という主の言葉は、私たちにとっては、主の再臨はまだ来ていないという意味になります。再臨の日まで今天と父なるみ神のもとにおられる主は、信仰と洗礼をもって神の子とされた私たちとは聖霊を介してその日までいつも私たちと一緒にいて下さいます。だから、かかわり合いがあります。望むことを打ち明けていいのです。そうしないと、再臨の日が来たら手遅れになります。その日、私たちは復活させられてしまったら、痛みも苦しみも悩みもなく正義も完全に実現しているところに迎え入れられてしまうので、そこではもう何も望むことは出来なくなってしまいます。

 

 だから今が、主とかかわり合いを持って生きる時、願い事を打ち明けて祈り求める時なのです。今、共にいて下さるイエス様が慌てふためている私たちにあの時と同じような平静さで、ひょっとしたらニヤリと、お前は私に何を望むのか?私はお前と共にいるぞ、とおっしゃって下さるのです。私たちは時として何も望むこともできない位に落ち込む時もあります。そういう時は、イエス様と自分の間には何もかかわり合いはないと思ってしまうでしょう。しかし、イエス様はそう思うのは間違っている、かかわり合いはあるぞ、望むものを思い出して打ち明けなさい、とおっしゃって下さるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


 

列王記上1718節、マルコ124節、ヨハネ24節の文の形と各国訳は以下の通りです。

 

ヨハネ2章4節  τι εμοι και σοι, γυναι; (…)

【新共同訳】「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。(わたしの時はまだ来ていません。

【英語NIVWoman, why do you involve me? (My hour has not yet come.)

【ドイツ語・ルター】Was geht´s dich anFrauwas ich tue? (Meine Stunde ist noch nicht gekommen.)

【ドイツ語EinheitsübersetsungWas willst du von mirFrau? (Meine Stunde ist noch nicht gekommen.)

【フィンランド語】Anna minun ollanainen(Minun aikani ei ole vielä tullut.)

【スウェーデン語】Låt mig varakvinna. (Min stund har inte kommit än.)

 

マルコ124 τι ημιν και σοι, Ιησου Ναζαρηνε; (...)

【新共同訳】「ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。(我々を滅ぼしに来たのか?正体はわかっている。神の聖者だ。」

【英語NIVWhat do you want with us, Jesus Nazareth? (Have you come to destroy us? I know who you are – the Holy One of God.)

【ドイツ語・ルター】Was haben wir mit dir zu tunJesus von Nazarem? (Bist du gekommenum uns ins Verderben zustürzenIch weisswer du bistder Heilige Gottes.)

【ドイツ語EinheitsübersetsungWas willst du von unsJesus von Nasareth(Du bist gekommen, uns zu vernichten. Ich weiss, wer du bist: der Heilige Gottes!)

【フィンランド語】Mitä sinä meistä tahdotJeesus Nasaretilainen? (Oletko tullut tuhoamaan meidätMinä tiedänkuka sinä oletJumalan Pyhä!)

【スウェーデン語】Vad har du med oss att göraJesus från Nasaret? (Har du kommit för att ta död på ossJag vet vemdu ärGuds helige.)

 

列王記上1718 (…) מה-לי ולך איש האלהים

【新共同訳】「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。(あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子をしなせるために来られたのですか。

【英語NIVWhat do you have aganst me, man of God? (Did you come to remind me of my sin and kill my son?)

【ドイツ語・ルター】【ドイツ語Einheitsübersetsung】ドイツ語の聖書は、私の手元にあるのは新約聖書だけなので割愛します。

【フィンランド語】Pitkö sinun sekaantua minun elämääniJumalan mies! (Pitikö sinun tulla tänne vetämään minunsyntini esiin ja tappamaan poikani.)

【スウェーデン語】Vad har du här att göragudsman? (Du har bara kommit hit för att låta min synd komma i dagenoch för att döda min son!)